山口賀代子『海市』(砂子屋書房、2008年10月25日発行)
山口賀代子の詩は、私にちょっと苦しい。血のつながりの濃さが伝わってくる。ひとは血でつながっているということを感じさせる。そして、その血はしばしば、非常にこわい。
「毒」という作品。友人の家に同居することになった、友人の母。母は粗相をする。それを友人は嫌がらせだと主張している。「娘のわたしへのあてつけ」という。
「あの子嫌い」は「母」のことばではないのだ。娘、つまり「友」の声を代弁しているのだ。ひとは肉親の感情を自然に共有する。それが血というものなのだ。この血は、目を背けるほどの強烈な毒ではない。しかし、だからこそ、こわい。すぐそばにある。誰の体のなかにも流れていることを実感させる。
山口は、そういう「日常」の奥に流れ、引き継がれ、肉体となっている「血」をていねいにすくいとり、ことばにしている。生きていることのこわさを、そっと提出する。
ただし、山口には、非常に心地よい「救い」がある。
「血」を最終的には否定していなことである。受け止めている。あ、これが血というものなんだ、と肉体で消化しようとしている。そのことを感じさせる。嫌いであろうが、好きであろうが、血が流れている、血がつながっているということは、なにかしら自分を広げる。自分が何かに広がってゆける。自分という限界を超える可能性を教えてくれる。そう感じているようだ。
そうした感じが「月の夜に」に美しく描かれている。
この詩のなかで、山口は弟とふたりで、父と母になる。母の「素直」「正直」が「私」の「素直」「正直」としてよみがえる。そして、そのとき子供のときにはわからなかった父と母の愛を知る。「私」の世界がいっきに広がる。血は、あたりまえのことかもしれないが、愛の結晶なのである--そう知る喜びが、ここにはある。
その愛の行方。それが美しい形で結晶している、夢のように輝いているのが「聖地」である。
「わたし」は草や木や風になりながら「ほどけてゆく」。この「ほどけてゆく」が山口の究極の思想である。「自分」から解放される。「血」から解放される。解放されるための、「絆」として「血」は存在する。「血」は、いわば、必然としてのアンチテーゼなのである。
「ほどけて」いって、山口は「宇宙」になる。いのちが生成する「場」そのものになる。「なる」。繰り返される「なる」(なり)の豊かな響き。「血」は「なる」へつながる栄養源のようなものである。マグマのようなものである。それは形をつぎつぎにかえること、つまり何かに「なる」ことで、「ほどかれる」。
「なる」というのは、別のことばで言えば「結成」である。それは新しい結び目によってつくられる何かである。「なる」という動きのなかには何かを結びつける力がある。何かをむすびつけるからこそ、あるものが別なものに「なる」。
しかし、その新しい「結び」のためには、古い「結び」はほどかれなければならない。新しい「血」のために、古い「血」は流され、そして、何かに結びついたとき、より強い「血」としてよみがえるのだ。つまり、新しいいのちとして誕生し直すのだ。
山口の詩には、そういう誕生をうながす力がある。誕生の前には、私たちは、あるいみでは愛の闘争をくぐり抜けなければならないのだが、そういう必ずしも楽しいとばかりは言えない闘いを、そっとだきしめ、みまもる温かさが山口のことばにはある。
山口賀代子の詩は、私にちょっと苦しい。血のつながりの濃さが伝わってくる。ひとは血でつながっているということを感じさせる。そして、その血はしばしば、非常にこわい。
「毒」という作品。友人の家に同居することになった、友人の母。母は粗相をする。それを友人は嫌がらせだと主張している。「娘のわたしへのあてつけ」という。
あのやさしそうなひとがそんな嫌がらせをするはずがない
それもこれも呆けの症状ではと言うと
友は薄く笑いながら
ほんとうにあのひとがやさしいひとだと思っていたのかと聞く
あのひとはいつも娘の友達が帰ったあとまっていたように
悪口を言い
あの子嫌いというのを常としていた と
金魚の糞のように連れだって遊んだころから四十年
五十代もなかばになってなぜこんな話を告げるのか
友の母への憎悪は長い年月をかけて蓄積されたものに相違なかったが
二卵性双生児にも似た母の思いは友自身の思いではなかったか
「あの子嫌い」は「母」のことばではないのだ。娘、つまり「友」の声を代弁しているのだ。ひとは肉親の感情を自然に共有する。それが血というものなのだ。この血は、目を背けるほどの強烈な毒ではない。しかし、だからこそ、こわい。すぐそばにある。誰の体のなかにも流れていることを実感させる。
山口は、そういう「日常」の奥に流れ、引き継がれ、肉体となっている「血」をていねいにすくいとり、ことばにしている。生きていることのこわさを、そっと提出する。
ただし、山口には、非常に心地よい「救い」がある。
「血」を最終的には否定していなことである。受け止めている。あ、これが血というものなんだ、と肉体で消化しようとしている。そのことを感じさせる。嫌いであろうが、好きであろうが、血が流れている、血がつながっているということは、なにかしら自分を広げる。自分が何かに広がってゆける。自分という限界を超える可能性を教えてくれる。そう感じているようだ。
そうした感じが「月の夜に」に美しく描かれている。
月の夜に
父と母が空をみあげている
風呂上がりの父はパンツ一枚で
母はベージュのエプロン姿のまま
「ほら月がきれい」と父が言い
「ほんに見事な」と母がこたえている
カーテンの隙間からふたりを覗き見している娘のことなど
どこふく風で
母はいつも素直で正直
(なぜ私は母に似なかったのか)
短気 負けず嫌い 素直でない
あれもこれも父譲り
だから母は娘の気持ちをすぐに読みとってしまう
偏屈な夫の気持ちを理解したように
父が元気だったころそんなこともあったとしみじみ思っていると
庭先からおいおいと呼ぶ声がした
何事かとサンダルをひっかけ外にでると
弟がたっていた
「月がきれいだぞ」と指さすので
ならんで月をみた
この詩のなかで、山口は弟とふたりで、父と母になる。母の「素直」「正直」が「私」の「素直」「正直」としてよみがえる。そして、そのとき子供のときにはわからなかった父と母の愛を知る。「私」の世界がいっきに広がる。血は、あたりまえのことかもしれないが、愛の結晶なのである--そう知る喜びが、ここにはある。
その愛の行方。それが美しい形で結晶している、夢のように輝いているのが「聖地」である。
みあげると空を遮るように陽のひかりをあびたブナの木が
枝をのばし 葉をのばし 天にむかっている
鷲のよびあう声が遠くに聞こえていたかとおもうとそれも途絶え
静寂(しじま)がわたしをつつむ
わたしは森になる
草になり
木になり
風になり
自然の一部になってほどけてゆく
「わたし」は草や木や風になりながら「ほどけてゆく」。この「ほどけてゆく」が山口の究極の思想である。「自分」から解放される。「血」から解放される。解放されるための、「絆」として「血」は存在する。「血」は、いわば、必然としてのアンチテーゼなのである。
「ほどけて」いって、山口は「宇宙」になる。いのちが生成する「場」そのものになる。「なる」。繰り返される「なる」(なり)の豊かな響き。「血」は「なる」へつながる栄養源のようなものである。マグマのようなものである。それは形をつぎつぎにかえること、つまり何かに「なる」ことで、「ほどかれる」。
「なる」というのは、別のことばで言えば「結成」である。それは新しい結び目によってつくられる何かである。「なる」という動きのなかには何かを結びつける力がある。何かをむすびつけるからこそ、あるものが別なものに「なる」。
しかし、その新しい「結び」のためには、古い「結び」はほどかれなければならない。新しい「血」のために、古い「血」は流され、そして、何かに結びついたとき、より強い「血」としてよみがえるのだ。つまり、新しいいのちとして誕生し直すのだ。
山口の詩には、そういう誕生をうながす力がある。誕生の前には、私たちは、あるいみでは愛の闘争をくぐり抜けなければならないのだが、そういう必ずしも楽しいとばかりは言えない闘いを、そっとだきしめ、みまもる温かさが山口のことばにはある。
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