めくらまされて リッツォス(中井久夫訳)
私には見分けが付かなかった--とは彼の言葉である--遠くからは、一体何だか。
さらされて白くなったものが彼の腰にさがっていた。
ほとんど裸体で、皮膚はなめした革、土色だ。
垂直に光るものにくっついて立っていた。
方の幅の広さは年齢に不相応だ。(近くに寄ってそれが何だか分かった)。
あの腰の周りには白い前垂れに釘が打ち付けてあったのだ。
「こんにちは」と言うことは不可能だった。
釘を歯で挟んで抜いた。釘は陽に輝いて私の眼はくらんだ。
でも私は大工ではないんだよ。
*
磔。「大工」から、キリストを想像する。キリストではないかもしれない。ギリシアの内戦のときの犠牲者かもしれない。
この1行が強烈である。磔の死者を見たとき、いったい人に何ができるだろうか。「こんにちは」とあいさつすることはもちろんできない。これは当然のことだ。
だが、なぜリッツォスはこんなことばを書いたのか。
とても異様に響く。
たぶん、リッツォスにとって、人と出会ったらあいさつするというのが人間の基本的な姿勢としてしみついているということだろう。そういう、普通、日常が、いま、ここでは拒まれている。
磔という異様なものの前で、「私」には寄って立つべきものがない。いちばん基本的なことさえできない。いちばん基本的なところへ帰っていくが、そこにすら「私」は立つことができない。
「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」が、「暮らしの論理」がそこでは拒絶されている。そのことをくっきり浮かび上がらせる1行だ。
次の1行もすごい。
釘の頭は手で(指で)は動かせなかった。それで自分の歯で挟んで(つまり釘の頭を噛んで)、釘を抜いたということだろう。人間は手だけではなく、口をもつかっていろいろなことをする。歯で噛んで袋を破く。歯で噛んでコルクの栓を抜く。(瓶缶ビールの栓を抜く人もいる。)「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」(暮らしの論理)で、ひとは肉体を動かす。自分にできることをする。
磔。その痛ましい姿。何ができるか。遺体に食い込んだ釘を抜いてやることしかできない。手で抜けないから、歯をつかって抜いた。そのときの、肉体の接触に「思想」がある。愛がある。
釘はもちろん、そうした思想にも愛にも気がつかない。太陽も気がつかない。--というより、そういう思想、愛に対して非情である。反応することができない。ただ、いつものように太陽は金属を照らし、照らされた金属(釘)は光を反射する。そこには人間の思想や愛を超えるどうすることもできないものがある。
そういうものの前で、人間は何もできない。ただそういうものがあるとういことを知るだけである。目眩のなかで。
自然(宇宙)、物理のほかにも、人間の野蛮な行為の中にも、なかにはそういう「目眩」を引き起こすような巨大な力があるかもしれない。--それは「こんにちは」というあいさつではたどりつけない力である。
うまく書けないが、ふとギリシア悲劇を思った。人間を動かしていく何か巨大な力。そういうものに、この詩は触れているような気がする。
私には見分けが付かなかった--とは彼の言葉である--遠くからは、一体何だか。
さらされて白くなったものが彼の腰にさがっていた。
ほとんど裸体で、皮膚はなめした革、土色だ。
垂直に光るものにくっついて立っていた。
方の幅の広さは年齢に不相応だ。(近くに寄ってそれが何だか分かった)。
あの腰の周りには白い前垂れに釘が打ち付けてあったのだ。
「こんにちは」と言うことは不可能だった。
釘を歯で挟んで抜いた。釘は陽に輝いて私の眼はくらんだ。
でも私は大工ではないんだよ。
*
磔。「大工」から、キリストを想像する。キリストではないかもしれない。ギリシアの内戦のときの犠牲者かもしれない。
「こんにちは」と言うことは不可能だった。
この1行が強烈である。磔の死者を見たとき、いったい人に何ができるだろうか。「こんにちは」とあいさつすることはもちろんできない。これは当然のことだ。
だが、なぜリッツォスはこんなことばを書いたのか。
とても異様に響く。
たぶん、リッツォスにとって、人と出会ったらあいさつするというのが人間の基本的な姿勢としてしみついているということだろう。そういう、普通、日常が、いま、ここでは拒まれている。
磔という異様なものの前で、「私」には寄って立つべきものがない。いちばん基本的なことさえできない。いちばん基本的なところへ帰っていくが、そこにすら「私」は立つことができない。
「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」が、「暮らしの論理」がそこでは拒絶されている。そのことをくっきり浮かび上がらせる1行だ。
次の1行もすごい。
釘を歯で挟んで抜いた。釘は陽に輝いて私の眼はくらんだ。
釘の頭は手で(指で)は動かせなかった。それで自分の歯で挟んで(つまり釘の頭を噛んで)、釘を抜いたということだろう。人間は手だけではなく、口をもつかっていろいろなことをする。歯で噛んで袋を破く。歯で噛んでコルクの栓を抜く。(瓶缶ビールの栓を抜く人もいる。)「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」(暮らしの論理)で、ひとは肉体を動かす。自分にできることをする。
磔。その痛ましい姿。何ができるか。遺体に食い込んだ釘を抜いてやることしかできない。手で抜けないから、歯をつかって抜いた。そのときの、肉体の接触に「思想」がある。愛がある。
釘はもちろん、そうした思想にも愛にも気がつかない。太陽も気がつかない。--というより、そういう思想、愛に対して非情である。反応することができない。ただ、いつものように太陽は金属を照らし、照らされた金属(釘)は光を反射する。そこには人間の思想や愛を超えるどうすることもできないものがある。
そういうものの前で、人間は何もできない。ただそういうものがあるとういことを知るだけである。目眩のなかで。
自然(宇宙)、物理のほかにも、人間の野蛮な行為の中にも、なかにはそういう「目眩」を引き起こすような巨大な力があるかもしれない。--それは「こんにちは」というあいさつではたどりつけない力である。
うまく書けないが、ふとギリシア悲劇を思った。人間を動かしていく何か巨大な力。そういうものに、この詩は触れているような気がする。