詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(10)中井久夫訳

2008-11-18 00:23:21 | リッツォス(中井久夫訳)
めくらまされて   リッツォス(中井久夫訳)

私には見分けが付かなかった--とは彼の言葉である--遠くからは、一体何だか。
さらされて白くなったものが彼の腰にさがっていた。
ほとんど裸体で、皮膚はなめした革、土色だ。
垂直に光るものにくっついて立っていた。
方の幅の広さは年齢に不相応だ。(近くに寄ってそれが何だか分かった)。
あの腰の周りには白い前垂れに釘が打ち付けてあったのだ。
「こんにちは」と言うことは不可能だった。
釘を歯で挟んで抜いた。釘は陽に輝いて私の眼はくらんだ。
でも私は大工ではないんだよ。



 磔。「大工」から、キリストを想像する。キリストではないかもしれない。ギリシアの内戦のときの犠牲者かもしれない。

「こんにちは」と言うことは不可能だった。

 この1行が強烈である。磔の死者を見たとき、いったい人に何ができるだろうか。「こんにちは」とあいさつすることはもちろんできない。これは当然のことだ。
 だが、なぜリッツォスはこんなことばを書いたのか。
 とても異様に響く。
 たぶん、リッツォスにとって、人と出会ったらあいさつするというのが人間の基本的な姿勢としてしみついているということだろう。そういう、普通、日常が、いま、ここでは拒まれている。
 磔という異様なものの前で、「私」には寄って立つべきものがない。いちばん基本的なことさえできない。いちばん基本的なところへ帰っていくが、そこにすら「私」は立つことができない。
 「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」が、「暮らしの論理」がそこでは拒絶されている。そのことをくっきり浮かび上がらせる1行だ。

 次の1行もすごい。

釘を歯で挟んで抜いた。釘は陽に輝いて私の眼はくらんだ。

 釘の頭は手で(指で)は動かせなかった。それで自分の歯で挟んで(つまり釘の頭を噛んで)、釘を抜いたということだろう。人間は手だけではなく、口をもつかっていろいろなことをする。歯で噛んで袋を破く。歯で噛んでコルクの栓を抜く。(瓶缶ビールの栓を抜く人もいる。)「頭の論理」ではなく、「肉体の論理」(暮らしの論理)で、ひとは肉体を動かす。自分にできることをする。
 磔。その痛ましい姿。何ができるか。遺体に食い込んだ釘を抜いてやることしかできない。手で抜けないから、歯をつかって抜いた。そのときの、肉体の接触に「思想」がある。愛がある。
 釘はもちろん、そうした思想にも愛にも気がつかない。太陽も気がつかない。--というより、そういう思想、愛に対して非情である。反応することができない。ただ、いつものように太陽は金属を照らし、照らされた金属(釘)は光を反射する。そこには人間の思想や愛を超えるどうすることもできないものがある。
 そういうものの前で、人間は何もできない。ただそういうものがあるとういことを知るだけである。目眩のなかで。

 自然(宇宙)、物理のほかにも、人間の野蛮な行為の中にも、なかにはそういう「目眩」を引き起こすような巨大な力があるかもしれない。--それは「こんにちは」というあいさつではたどりつけない力である。
 うまく書けないが、ふとギリシア悲劇を思った。人間を動かしていく何か巨大な力。そういうものに、この詩は触れているような気がする。


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シドニー・ルメット監督「その土曜日、7 時58分」(★★★★)

2008-11-18 00:20:18 | 映画
監督 シドニー・ルメット 出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、イーサン・ホーク、マリサ・トメイ、アルバート・フィニー

 フィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークはまったく似ていない。フィリップ・シーモア・ホフマンは太っている。金髪だ。イーサン・ホークは痩せている。黒っぽい髪だ。この二人が兄弟というのはとても奇妙である。--というのは、映画を見る以前の印象である。映画のなかではとても似ている。外見はまったく違うのだが、兄弟特有の不思議な匂いがある。兄・弟という関係のなかでつくられる力関係と、その力関係を成り立たせてしまう不思議な互いの弱さの部分がとても似ている。兄・弟の力関係をひきずりながら、その力関係がなりたたなくなるシーンに、そのそっくりさかげんが際立ってくる。
 たとえば、宝石店強盗に銃撃されたのが母だと知って驚く病院の場面。ナースセンターでの二人の目の感じがそっくりである。顔の大きさは違うのに、目の大きさがそっくりに見える。青い目のかげりがそっくりになる。これは演技なのか、それともキャスティング段階からわかっていたことなのか。びっくりしてしまった。二人は同じものを共有しているということがとてもよくわかる。実生活ではなく、この映画のなかで、ということだが。

 映画は宝石強盗からはじまる。そして、犯人(兄弟)たちの過去をくりかえしくりかえし再現する。そのなかで、フィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークは、どうしようもなく似てくる。
 二人とも、とても弱い。その弱さが似てくる。
 フィリップ・シーモア・ホフマンは不動産会社の要職についている。立派なスーツを着ている。美しい家を持っている。けれども、彼が力を発揮できるのは弟のイーサン・ホークに対してだけなのである。自分では何もできない。宝石強盗は、もちろんできない。できないことを弟にやらせるだけである。あるいは、こういえばすべてがわかりやすくなるだろうか。追いつめられて、フィリップ・シーモア・ホフマンは麻薬の売人を襲うが、そのときも彼は単独行動をとれない。イーサン・ホークがいてくれないと、何もできないのである。イーサン・ホークの前で強い兄を演じる。弱いものを必要としてしまう弱さがフィリップ・シーモア・ホフマンにある。麻薬の売人を襲い、銃を撃ち放つ凶暴さ--その凶暴さを発揮できるのは弟がそばにいてくれたからなのである。
 弟がそばにいないとき、たとえば母の葬儀のあと、マリサ・トメイと家へ帰るとき、フィリップ・シーモア・ホフマンは強さを発揮できない。涙を流してしまう。さらに、マリサ・トメイに去られたあとは、家の中の家具をたたき壊す(?)のだが、その乱暴のしかたは、あとでちゃんと元通りにできるような、弱々しい破壊である。棚の上のものはそっと落とす。テーブルの上の飾りの小石は放り投げるのではなく、水のように少しずつこぼす。(このシーンはとてもすばらしい。今年見た映画のなかでももっとも印象に残るシーンだ。)
 弱い弟、かわいがられつづけた弟に、嫉妬して、憎しみ、利用するときだけ、フィリップ・シーモア・ホフマンは「強い」と錯覚するのである。そういう弱い人間である。
 一方、イーサン・ホークは、兄のフィリップ・シーモア・ホフマンに従うことしかできない。したくないことも、兄の命令だからという形で受け入れ、自分の決定ではないと言い訳できる要素を知らず知らずに内に抱え込んでいる。従いながら、自分ではなにも決定しなくていいという立場を受け入れている。これはある意味では、甘えである。イーサン・ホークは兄の妻、マリサ・トメイと毎週木曜日に情事をくりかえしているが、そこにも甘えがある。マリサ・トメイにかわいがられて満足しているのである。マリサ・トメイに甘えて満足しているだけである。葬儀のあとの、父の家。そこでも、イーサン・ホークはマリサ・トメイに電話をかけて甘えようとする。見境がない。甘える相手がいないと我慢ができないのである。イーサン・ホークが唯一ひとりでできることは、兄から逃げること、それだけである。(これは最後になってやっと実現する。)

 映画は、過去をつぎつぎに視点をかえて描くことで、その弱さをしだいに浮き彫りにする。人間の弱さが重なり合い、歯車が狂い出す。その様子を、人間の内部に入り込むというよりは、一歩引いて、ドキュメンタリーのようにしてシドニー・ルメットは映画にしている。その手際がとてもすばらしい。ぐいぐいと人間の内面の弱さをえぐり出すのではなく、じわじわと弱さが漏れ出してくる。引き込まれるというよりは、知らずに、その弱さに染まってしまう。あ、人間は、みんな弱い。弱くて、どうしようもなくて、しなくていいことをしてしまう。--その、なんともいえない悲しみ。
 もし、フィリップ・シーモア・ホフマンとイーサン・ホークの弱さが、もっと強烈に描かれていたなら、映画には不思議なカタルシスがあったかもしれない。この映画は、人間の弱さを強烈には描かない。だらしなく描く。そのだらしなさのために、それが映画ではなく、現実になる。映画を見た、というより、現実を知らされた--そういう不思議な気持ちになる作品である。

 映画を見た直後の印象では★4個だが(やりきれないきもちに圧倒されて、5個つける気持ちにはなれない)、きっとあとから5個つけたくなる、つけてしまう映画だろうと思った。人間描写のたしかさがあとからじっくりと肉体に響いてくる映画だ。





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