詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「証言B(1966)」より(8)中井久夫訳

2008-11-16 00:05:17 | リッツォス(中井久夫訳)
風吹く   リッツォス(中井久夫訳)

窓の向かいに大きなヒマワリ。
汚れ道。通りゆく馬から埃。
乙女はひとを待って静かに悲しげに佇む。
その顔の光はヒマワリの反射のよう。
突然腕をあげ、風を追い掛け、
馬の乗り手の帽子をひったくり、つかんで胸に押しつけ、
家に入って窓を閉める。



 「その顔の光はヒマワリの反射のよう。」に驚く。その前の「乙女はひとを待って静かに悲しげに佇む。」と印象が違うからである。「静かに悲しげに」ならば、その顔は輝いているはずがない。そのさらに1行前に「汚れ道」とあるから、なおさらである。どうして、ヒマワリの反射のようにまぶしいのか。
 次の2行でわかる。
 馬に乗っていたのは好きな人だったのだ。馬は、乙女の前を何もなかったかのように通りすぎた。その瞬間、乙女はひらめいた。帽子を奪ってやる。そして、すばやく奪いさると家に飛び込む。窓を閉める。どうしたって馬の乗り手は追い掛けてこなければならない。そして、追い掛けてきて、乙女の拒絶にあう。--乙女が拒絶されたように、今度は男が閉められた窓によって拒絶される。
 もちろんこの拒絶は、受け入れをつよく印象づけるための「わざと」している拒絶である。

 リッツォスは行動の「理由」を書かない。映画的であるのはそのためかもしれない。人間の動きを端的に描くだけで、その奥にある「心理」は読者に想像させる。わからなかったらわからないで、かまわない。そういう潔さが詩を簡潔にしている。美しくしている。私の感想はくだくだとしているから、そのリッツォスの簡潔な美しさ、運動の美しさを邪魔するだけかもしれない。
 反省。

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清野雅巳「岩倉界隈」、山本しのぶ「雨を知る」

2008-11-15 10:28:29 | 詩(雑誌・同人誌)
清野雅巳「岩倉界隈」、山本しのぶ「雨を知る」(「紙子」16、2008年10月10日発行)

 清野雅巳「岩倉界隈」と「海の近くで」はともに非常におもしろい。「岩倉界隈」の方を引用する。

碁盤目状の市内に住んでいる普段は意識することはないのだが
京都の街は北方をほぼ山に遮られている
自転車を漕いで松ヶ崎東山まで来るとそれがわかる

 ここには知っていることとわかること、肉体で確かめたことがきちんと整理されている。「普段は意識することはない」というのは知識として認識はしているけれど、それをあらためて考えることはないという意味だろう。ところが肉体を動かしてみると、その認識するという意識もなしに知っていたことが事実として実感できる。「わかる」とは「肉体」が実感することである。
 2連目以降は、この「肉体」の実感、つまり「知識」ではとらえられなかった世界へ入っていく。

麓の東側、高野川に挟まれた小径を迂回して岩倉へ向かう。左手に山の斜面、右手に住宅。庭のビニールプールにはビーチバレーが浮いている。

 「高野川」「岩倉」はまだ知識と肉体が競り合っている。知識が肉体を動かしている。ところが一歩「迂回」してしまうと知識は消えて肉体だけが世界と向き合う。そして、ほとんど無意味(?)なビニールプールやビーチバレーと向き合う。
 この瞬間が詩である。
 とても美しい。「頭」は否定され、清野は一個の人間になる。肉体になる。「肉眼」そのものになる。彼が見るものには、どんな「認識」「知識」も混じってこない。「もの」と「肉眼」の直接的な出会いである。

宝ヶ池公園を抜けて盆地の住宅街に入る
一〇五号線を横切り北上するとコンビニが見えてくる

 「宝ヶ池公園」「一〇五号線」--これは「知識」のようでもあるけれど、たまたまそこにそういう文字が書かれていて、あ、ここが「宝ヶ池公園」、ここが「一〇五号線」というだけのことだろう。「肉体」が拾い上げた「知識」のかけらである。あくまで「肉体」が世界を発見している。だからこそ「コンビニ」に出会ってしまう。なんの目印にもならない。どの街角にもある。しかし、このコンビニはだからこそ、とても新しい。ふいに街角に一軒だけ地面の底から生えてきたコンビニのように感じられる。あるいは天から突然降ってきたコンビのように感じられる。

実相院を探していたが、アイスを買って食べて帰ることにする。往路とは違う、西福寺の丘の西側を選ぶ。斜面に密集した住宅の隙間を縫いながら。下り坂にまかせて自転車を走らせる。

 「肉体」と「知識」(意識)が出会いながら、世界が立体化してくる。「アイスを買って食べて帰ることにする」。このシンプルな行動がとても美しい。アイスを食べに京都までいってみたい、自転車で京都の街を走りたいという気持ちにさせられる。
 いいなあ。

 このあと、詩はさらにおもしろくなる。「知識」にしたがっている(「知識」を利用している)ようでありながら、いったん目覚めた「肉体」が逆襲してくるのか、「知識」ガ「知識」でなくなる。「知っている」はずのことがわからなくなる。「肉体」のとらえたものが「知識」を超越して存在しはじめる。
 このクライマックスは、ぜひ、直接、作品に触れて楽しんでください。
 「海の近くで」も、クライマックスのあと「信じられない」世界に達する。いいなあ。信じられない、わからない。それこそ、世界に存在する詩そのものだ。その前では人間は自分をつくりかえるしかない。そういう次元へ、清野のことばは連れていってくれる。



 山本しのぶ「雨を知る」も「肉体」をつかって世界と向き合っている。そこに、不思議な清潔さがある。精神に汚れていない抒情がある。

あなたの隣で横たわるわたしの死体に
雨がしずかにしずかに降り注ぎます
あなたの寝息が健やかに
わたしの耳元に聴こえている深夜おそくなって
眠れないわたしの白い腹に落下していく雨の粒

あおむけに暗い天井をみつめながら
空のかなたの厚い雲からうまれ出る
ちいさな一粒が
わたしの真上に落ちてくるまでの
なすすべもない時間を数えています
それはひんやりと夜気のはかなさを吸って
わたしのくぼみに溜まりあふれていく

 最後の(引用部分の最後、という意味です。詩は、まだまだつづきます)2行がとてもいい。「はかなさ」など手垢に汚れたことばだと思っていたが、あ、こんなふうにつかうことばだったんですねえ。雨粒が「吸って」いるのか、それとも「わたし」の「肉体」が、その肌が「吸って」いるのかわからなくなる。
 美しい。

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リッツォス「証言B(1966)」より(7)中井久夫訳

2008-11-15 00:12:25 | リッツォス(中井久夫訳)
ありし日の休日   リッツォス(中井久夫訳)

何もかも晴れ。空に雲がいくつか。
ゆりかごに赤児。磨いた水差に窓。
室(へや)の中に樹。椅子にエプロン。詩に言葉。
一枚の木の葉がきらり光る。鎖に回した鍵も。



 清潔なイメージがつづく。特に「磨いた水差に窓。」ということばが私は好きだ。「磨いた水差」が空気の透明感を引き寄せる。「磨いた水差」によって、空気が輝きはじめる感じがする。空気は「窓」とつながっている。「窓」は当然、その前の行の「晴れ」につながっている。
 初夏。そのさわやかな印象がとても気持ちがいい。「赤児」になって、ゆりかごで眠ってみたい気持ちになる。
 けれども、最終行が複雑だ。「一枚の木の葉がきらり光る。」は初夏のままである。「鎖に回した鍵も。」も同じように初夏の光を反射しているものとしてとらえてもいいのかもしれない。しかし、何か、ちがった印象がある。違和感がある。
 そしてその違和感は、私には「一枚の木の葉がきらり光る。」の「きらり」から始まっているように思える。「きらり」ということばはなくても、木の葉の光は「きらり」以外に考えられない。ことばを節約し、簡潔に、よりいっそう簡潔に書くリッツォスは、なぜここに「きらり」をいれたのか。わざわざ「きらり」と書いたのか。「鎖」に回した「鍵」--その鎖と鍵が「きらり」と光っているということを強調するためである。
 鎖も鍵もほんとうは「きらり」と光る必要などない。それが「きらり」と光る。そのとき、そこに何が隠されているのだろうか。

 何も隠れされていないかもしれない。しかし、何が隠されているのだろうかという印象を呼び覚ます。
 その、不思議な違和感が、この作品の「詩」である。

 タイトルの「ありし日の」ということわりも、そこにつながってゆく。きょうの休日ではない。「ありし日」なのだ。「きょう」「ここ」とは離れた時間--それが、最終行の違和感といっしょに、ゆっくりと浮かびあがってくる。

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リッツォス「証言B(1966)」より(6)中井久夫訳

2008-11-14 00:47:39 | リッツォス(中井久夫訳)
春   リッツォス(中井久夫訳)

ガラスの壁。少女が三人座っている。
裸体で壁の向こう側に。男は一人。梯子を登って行く。
裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。
と、目くるめく光のぎらつきが庭全体を隠す。沈黙。近眼の人が眼鏡をはずされた状態。
ガラスの壁に縦にひびが入った。ひび割れの音が聞こえる。
不可視の秘密の巨大なダイアで切り裂かれたのだ。



 「春」をついて書かれたたくさんある。そして、それはかならずしも喜びであふれているわけではない。エリオットの「四月は残酷な季節」をふと思い出す。「春」はたしかに残酷なのだ。いままで眠っていた意識を呼び覚ます。目覚めた意識は、なんとてしでも新しいことをしたがる。新しいものを手に入れたがる。そのとき、どこかでかならず破壊が起きる。破壊なしには何も始まらない。

裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。

 この1行が非常に好きだ。「少女」の「裸体」よりも、なぜか強烈に「肉体」を想像させる。「少女」の「裸体」はことばでしかないが、「足裏」はことばを超越している。普通は、「足裏」など見ない。見えない。その、いつもは隠されているものがリアルに見えるからである。
 この「足裏」は、しかし、どこから見ているのだろうか。誰が見ているのだろうか。
 「少女」ではない。もちろん男には見えない。詩人リッツォスが想像力のなかで見ている。つまり、孤独のなかで見ているのだ。



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D・J・カルーソー監督「イーグルアイ」(★)

2008-11-14 00:46:13 | 映画
監督 D・J・カルーソー 出演 シャイア・ラブーフ、ミシェル・モナハン

 映画の冒頭、「あれっ、サウンド・ オブ・ ミュージック?」と思った。カメラが山を登っていて俯瞰になる前の、あの、ぐんぐんぐんという感じ。あの上昇のリズムがそのまま冒頭につかわれている。その後、ジュリー・アンドリュースが歌いだすわけではないから、まあ、違うんだけれど。あの爽快さとはまったく違った画面になるのだから、決定的に違うのだけれど、あれ、これは何なのかなあ、と思っていたら。
 そのあとがすごい。
 もう、あらゆる映画のパクリ。冒頭の映像の撮り方だけではなく、途中の気分転換(?)のアクションもパクリ。(1)追ってくる飛行機を地上にあるものを直立させて衝突させるというのは、地上の車を空中へ放り上げヘリコプターと衝突させるというもの--近作。(2)暗殺のクライマックスは音楽の最後の音と一致。犯人は、音楽の最後の音にあわせて犯行を計画--古典。
 (1)(2)が何かは、もちろんわかりますよね。
 映画をよく見ている、研究している(?)と言えば言えるのかもしれないが、ここまでくるとあきれかえる。スティーブン・スピルバーグが製作にからんでいるのだが、ちょっとどうにかならなかったのか。少しは恥ずかしさでもみせればいいのに。
 
 さらに(1)(2)のパクリを超える、ものすごいパクリがある。
 クライマックス。キューブリック監督の、あの「2001年宇宙の旅」。宇宙飛行士と巨大コンピューター「ハル」との闘い。宇宙飛行士がコンピューターの支配(?)に疑問を感じ、コンピューターを破壊する。そのときの闘い方。コンピューターのメモリーを外していくという「2001年」そのもの。
 しかし、おかしくはないか? 「2001年」の初期のコンピューターと違って、この映画のコンピューターは時代を超えて最先端を行っている。なんでもできる。それがメモリーの取り外しを防御するシステムを持たないなんて。当然、そのコンピューターのなかには「2001年」の情報だって入っているのじゃないのか?
 --そんな、ちゃちゃがいれたくなる。

 私は、実は、いろいろな映画のなかでも、「2001年」の、宇宙飛行士とハルとの闘いのシーンがとても好きだ。一番好き、といってもいいくらい好きだ。メモリーが取り外されるのに抵抗するように、ハルが自分の記憶をたどる。ハルが「デイジー・・・」と最初に覚えた歌を必死になって歌う。歌うけれども、メモリーが少なくなるにつれて、歌声のテンポが落ちてくる。音が低くなる。そのときの、悲しさ。
 私は、このシーンで大泣きしてしまう。いま思い出しても涙があふれる。コンピューターに感情移入するなんて、自分でもなぜなのかよくわからないし、いまでも不思議でしようがないが、このシーンはほんとうに好きだ。あらゆる存在が(機械さえもが)、いのちをもってい生きている。記憶をもっている。そのことが、とても切ないのだ。
 他のシーンは許せるけれど、このシーンのパクリだけは許せない。キューブリックが「哲学」にまで到達させたものを、娯楽以下のものにしてしまっている。結末が見えてしまっているものにしている。これは許せない。

 先駆者への称賛をこめて作品をつくるというのならいい。「僕らのミライに逆回転」のような楽しいリメイクは大好きだ。けれど、他人が工夫して作り上げた美しいシーンだけを寄せ集めて「新作です」なんて、こんな映画がまかり通っていいんだろうか。この映画の製作指揮にあたったスピルバーグにも、なんだか怒りを覚える。映画への愛をスピルバーグは失ってしまったのか。


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菊池唯子『すすきの原 なびいて運べ』

2008-11-13 11:16:29 | 詩集
菊池唯子『すすきの原 なびいて運べ』(思潮社、2008年10月28日発行)

 菊池唯子のことばは孤独である。ただ菊池のこころにだけ向けて書かれている。「そこに」の書き出し。

確かめる必要はないと
思った

そこにあるものはわたしの腕
そこにあるのはわたしの言葉
そう 言い切って
いいのだと
鏡を見るように
それは明らかなのだと

 この作品の「そこ」は、きのう感想を書いた藤維夫「秋のフーガ」の「そこ」に似ているようでまったく違う。「ここ」ではない「場」--そういう意味では同じ日本語の「そこ」である。「ここ」と「そこ」のあいだには距離がある。
 しかし、この距離は菊池の方が藤の場合よりも短い。接近している。というより、菊池の「そこ」は身体に密着している。肉体に密着している。「そこ」と「ここ」は一体となっている。

鏡を見るように

 この不思議な1行が、「そこ」と「ここ」が密着していることを語っている。「そこ」が「わたし」から離れた「場」なら、それは「鏡」を必要としない。鏡を必要とするのは、「そこ」が肉眼では直接見えないからである。鏡という、いったん離れた「場」において見ないと、それは見えない。
 そして、「そこ」は動かない。動かせない。
 たとえば「腕」。誰でも「腕」を動かして、目の前にかざして、それを「腕」として見ることはできる。しかし、菊池はそれができない。本来、鏡をつかわなくても見えるはずのものが、見えない。

 「そこ」とはどこか。

 私は菊池の「こころ」と思って読む。「こころ」のなかにこそ、「腕」はあり、「言葉」はある。短い作品のなかで、菊池はそのことを確かめている。あらためて、自分に言い聞かせている。
 そして、「そこ」にあるものにむけて、ことばを動かしていく。「そこ」が満足するように、ただそれだけを願ってことばを動かしいる。

 菊池は肉体をつかって、世界を取り込む。肉体をしっかり通過させて、世界を「そこ」、つまり「こころ」に届ける。肉体は、菊池にとって、世界を「濾過」するような存在である。「いちばん低い音を」の書き出し。

 遠くにあると信じ込んでいるものがある。たとえば清冽な、水の湧き出る光景。ざわめきの消えた湖水を渡る、風。芽吹く前にほんのり色付いた枝。雪をいただいた頂上からの俯瞰。長い道のりを歩き抜いて初めて手に触れることが許される、何か。

 「長い道のりを歩き抜いて初めて手に触れることが許される」。つまり、肉体をつかって「私」が動いていく。肉体そのものを動かしていく。そうすることで肉体が「初めて」「触れる」もの。距離がなくりなり、ぴったりと接触する瞬間。そのときに、世界と「そこ」が融合する。一体になる。
 そういうことを菊池はしているのだ。

 菊池のことばは、とても静かだ。簡潔に切り詰められている。それは肉体が、長い長い距離を歩くことで無駄をそぎ落としてきた結果である。肉体をしっかり動かして、「もの」に触れる。そして、「もの」が肉体を通過してくるのを待つ。「もの」は肉体の、血や骨や肉に形をととのえられて「こころ」に届く。
 その形をととのえる作業を菊池はひっそりと隠している。隠していることさえ隠している。私はこんな苦労をしました、とは言わない。そこに、言いようなのない美しさがある。
 「離れて」の最終連は非常に美しい。

小さな石を取って
わたしは書こう
忘れてしまった一つの名前
手のひらを這う蟻の
石を温めた太陽の
湿らせた土の
におい立つ草の
明け方の露の
名づけられたときの その
ただ一つの方法で

 ここに書かれている石も蟻も土も、みんな菊池の肉体を通過した存在である。ここに書かれているのは「自然」ではなく、菊池の「肉体」である。そして、その「肉体」のなかにあるこころは、しっかりと「肉体」そのものといったいになっている。「そこ」、「こころの位置」は、「肉体」の内部(たとえば、心臓とか、脳)ではなく、全身に満ちているのだ。



 昨年、伊藤悠子の詩集にこころがあらわれる感じがしたが、菊池の清潔なことばは伊藤のことばのたしかさに似ている。とてもいい詩集だ。「現代詩手帖」のアンケートに回答をしたあとに読んだので10冊のなかには書き漏らしてしまったが、2008年の10冊のうちの1冊である。
 ぜひ読んでください。



すすきの原なびいて運べ
菊池 唯子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(6)中井久夫訳

2008-11-13 09:56:23 | リッツォス(中井久夫訳)
春   リッツォス(中井久夫訳)

ガラスの壁。少女が三人座っている。
裸体で壁の向こう側に。男は一人。梯子を登って行く。
裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。
と、目くるめく光のぎらつきが庭全体を隠す。沈黙。近眼の人が眼鏡をはずされた状態。
ガラスの壁に縦にひびが入った。ひび割れの音が聞こえる。
不可視の秘密の巨大なダイアで切り裂かれたのだ。



 「春」をついて書かれたたくさんある。そして、それはかならずしも喜びであふれているわけではない。エリオットの「四月は残酷な季節」をふと思い出す。「春」はたしかに残酷なのだ。いままで眠っていた意識を呼び覚ます。目覚めた意識は、なんとてしでも新しいことをしたがる。新しいものを手に入れたがる。そのとき、どこかでかならず破壊が起きる。破壊なしには何も始まらない。

裸足の足裏がリズミカルに一つ一つ現れては消える。赤土まみれる足の裏。

 この1行が非常に好きだ。「少女」の「裸体」よりも、なぜか強烈に「肉体」を想像させる。「少女」の「裸体」はことばでしかないが、「足裏」はことばを超越している。普通は、「足裏」など見ない。見えない。その、いつもは隠されているものがリアルに見えるからである。
 この「足裏」は、しかし、どこから見ているのだろうか。誰が見ているのだろうか。
 「少女」ではない。もちろん男には見えない。詩人リッツォスが想像力のなかで見ている。つまり、孤独のなかで見ているのだ。

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藤維夫「秋のフーガ」

2008-11-12 10:12:49 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「秋のフーガ」(「SEED」17、2008年11月01日発行)

 藤維夫「秋のフーガ」の1連目。

秋が深まって
岸辺を走る道に佇み
そこに冷えた地平が見えてくる
淡白な遠い波もある
共鳴する地図は近くに誰もいない場所
いくつもの言葉を失って
空虚な孤独の秋を告げるだろう

 3行目の「そこに」に詩を感じた。
 「そこ」って、どこ? わからないね。かろうじて、「岸辺を走る道に佇」んだときに見える場所、ということがわかる。そして、もっと限定すれば「佇む」ときに見える場所なのだ。
 ひとは誰でも佇むときがある。その佇んだ場所が「ここ」。「そこ」は「ここ」から離れた場所。「ここ」と「そこ」には距離がある。隔たりがある。その隔たり、距離と「孤独」は強く関係している。私は「ここ」にいる。そして私以外は「ここ」にはいない。他の存在は「私」から離れている--それが孤独だ。

 でも、「そこ」って、どこ? また疑問が生まれてくる。何か、よくわからない。それは、たぶん藤にもよくわからない。「そこ」と「ここ」の距離がわからない。わからないから、とらえどころのないものが「そこ」と「ここ」のあいだ(間--魔かもしれない)に忍び込んでくる。そして、「そこ」と「ここ」の間(ま)があいまいだから、なにかが忍び込んできても、その間が埋まったかどうかはわからない。
 この、間が埋まったかどうかわからない感じ--それを「空虚」と呼ぶ。藤は「空虚」と呼んでいる。(1連の最終行)

 藤の詩は「抒情詩」に属する。(たぶん)そして、その抒情が清潔なのは、3行目の「そこ」ということばのように、彼のことばの運動がいつも論理的だからである。論理がセンチメンタルを洗い清める。
 強い論理があるとき、ことばは美しく響く。



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田母神・前航空幕僚長に対する参院外交委参考人質疑

2008-11-12 09:44:48 | その他(音楽、小説etc)
田母神・前航空幕僚長に対する参院外交委参考人質疑(「読売新聞」2008年11月12日参考)

 読売新聞に掲載されている「参考人質疑の要旨」を読みながら、日本の政治家の国語力に疑問を感じた。国会議員が質問し、それに田母神が答える。そのあと、その発言に対して再質問をするという形をとっていないようなので(新聞の要旨からだけではよくわからない)、追及のしかたに限界があるのかもしれないが、もしそうなら、そういう限界を設けていること自体、討論に対するい認識力が低いということになるだろう。
 浜田昌良(公明)の、「どういう意図で(懸賞論文を自衛隊幹部に)紹介したのか」という問いに、田母神は次のように答える。

日本の国は良い国だったという(歴史の)見直しがあってもいいという論文を募集しているから、勉強になると紹介した。今回びっくりしたのは、日本は良い国だったと言ったら解任された。ちょっと変だ。

 一番の問題は、田母神が「日本が侵略戦争をしたかどうか」という問題を、「日本がよ良い国だったかどうか」ということばにすり替えていることだ。「良い国」の定義はあいまいである。「あいまい」な言語を利用して、田母神は自分の発言をごまかしている。日本が侵略戦争をしたというのが「濡れ衣」であると主張することと、日本が「良い国だった」と主張することはまったく別の論理である。田母神が主張するように、たとえ日本が誰かにだまされて結果的に中国に侵略してしまったのだとしても、だまされたから「よい国だった」ということにはならない。だまされるような「おろかな国」だったということにしかならない。「侵略」という事実は消えない。
 問題になっていることが、日本が「良い国」だったかどうかではないという点を明確に指摘できないのは、田母神を追及する国会議員の論理力・国語力が極端に低下しているためである。
 この問題のすり替えをだれも追及しないからこそ、井上哲史(共産)との質疑が次のようになってしまう。井上は「統幕学校の一般課程で、『国家観・歴史観』の科目創設を主導したか」と質問する。それに対し、田母神は答える。

はい。日本の国を良い国だと思わないと頑張る気にならない。悪い国だと言ったのでは自衛隊の士気もどんどん崩れる。きちっとした国家観や歴史観なりを持たせなければ国は守れないと思い、講座を設けた。

 ここにも巧妙な論理のすり替えがある。田母神は日本は「良い国だった」と浜田に対して答えていた。「だった」とは過去形である。しかし、井上には「良い国だと思わないと」と現在形で答えている。
 現在形はもちろん、歴史的事実を述べるときにもつかう。歴史的事実は現在形で語ってもいい。というか、現在形で語るのが普通である。この文法を利用して、田母神は論理をすり替えている。
 日本が過去に侵略戦争という間違ったことをしたという過去の事実と、日本が現在、「良い国である」という現在の事実は別個のものである。過去に間違っていても、現在が正しい(良い)ということは、いくらでもある。過去の間違いを間違いと認めることは、現在が過去とは違って「良い」状態であるという証拠でもある。そして、自衛隊が守るべきものは、「過去」ではない。現在生きている日本人である。将来生きていく日本人である。国家である。守るのは現在と未来であって、過去ではない。「現在の良い国を、そして未来の良い国を守る」と言えば、自衛隊の士気は崩れるのか。そんなばかなことはない。逆だろう。現在の悪い国、将来悪くなっていく国を守らなければならない、と言ったときこそ自衛隊の士気は下がるだろう。だれだって望みのないことをしなければならないとなれば士気が崩れる。

 国会議員でさえ、田母神の「良い国」論の問題点を指摘できない。国会は、田母神に利用されただけである。
 こんな権論論理の低下してしまった国では、詩は存在し得ないかもしれない。詩は論理を超えるもの、超越するものだが、超越するものがなければ、超越しようがないからである。

 政治的言語と文学的言語は別のものかもしれないが、別のものであるなら、それをどんなふうにたたき壊せるかを考えるのは楽しいことかもしれない。言語の破壊、再創造(再生)は詩の仕事だろう、と思う。

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リッツォス「証言B(1966)」より(5)中井久夫訳

2008-11-12 00:20:35 | リッツォス(中井久夫訳)
同じ夜   リッツォス(中井久夫訳)

スイッチをひねって自分の部屋に明かりを点けた。人目で分かった。
これが自分だと。自分専用の空間にいて、
涯のない夜と、その夜から伸びる枝から離れているのだ、と。
自分を確認しようと鏡の前に立った。だが
汚いヒモでクビから下がっているこの鍵束は一体何だ?



 リッツォスの孤独。それは私にはいつもなつかしく感じられる。それは、そこに描かれるものが質素だからかもしれない。多くの「もの」が登場しない。かぎられたものが、ひそかに手を伸ばしている。その感じが孤独を強く感じさせる。

涯のない夜と、その夜から伸びる枝から離れているのだ、と。

 この美しいイメージは、末尾の「、と」によって、いっそう強くなる。「、と」によって、そこに描かれているものが、いったん突き放され、離れたところから見つめているのだ、という感じを呼び起こす。
 これは、それに先だつ

これが自分だと。

 とは、ずいぶん違う。「これが自分だと」は一気に吐き出されたことばだ。「、と」は、そういう一気に吐き出された呼吸とは別のものである。吐き出して、そこでいったん立ち止まる。そして、つづける。そのとき、孤独は深くなる。
 なぜか。
 その読点「、」の呼吸のあいだに、何者かが入り込むからである。呼吸の一瞬の空白が、何者かを呼び寄せ、それが「自分」を遠くする。遠ざける。

汚いヒモでクビから下がっているこの鍵束は一体何だ?

 疑問が、「自分」さえも、「自分」から遠ざけてしまう。そのときの冷たい孤独。その、冷たい感じがとてもなつかしい。存在するのは、「もの」と「自分」。そして、そのあいだにさえもつながりがない。「もの」の非情さ、人間の感情とは無関係に存在してしまう力が、人間のいのちを「つめたい」ものにする。

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山口賀代子『海市』

2008-11-11 11:40:35 | 詩集
山口賀代子『海市』(砂子屋書房、2008年10月25日発行)

 山口賀代子の詩は、私にちょっと苦しい。血のつながりの濃さが伝わってくる。ひとは血でつながっているということを感じさせる。そして、その血はしばしば、非常にこわい。
 「毒」という作品。友人の家に同居することになった、友人の母。母は粗相をする。それを友人は嫌がらせだと主張している。「娘のわたしへのあてつけ」という。

あのやさしそうなひとがそんな嫌がらせをするはずがない
それもこれも呆けの症状ではと言うと
友は薄く笑いながら
ほんとうにあのひとがやさしいひとだと思っていたのかと聞く
あのひとはいつも娘の友達が帰ったあとまっていたように
悪口を言い
あの子嫌いというのを常としていた と
金魚の糞のように連れだって遊んだころから四十年
五十代もなかばになってなぜこんな話を告げるのか
友の母への憎悪は長い年月をかけて蓄積されたものに相違なかったが
二卵性双生児にも似た母の思いは友自身の思いではなかったか

 「あの子嫌い」は「母」のことばではないのだ。娘、つまり「友」の声を代弁しているのだ。ひとは肉親の感情を自然に共有する。それが血というものなのだ。この血は、目を背けるほどの強烈な毒ではない。しかし、だからこそ、こわい。すぐそばにある。誰の体のなかにも流れていることを実感させる。
 山口は、そういう「日常」の奥に流れ、引き継がれ、肉体となっている「血」をていねいにすくいとり、ことばにしている。生きていることのこわさを、そっと提出する。

 ただし、山口には、非常に心地よい「救い」がある。
 「血」を最終的には否定していなことである。受け止めている。あ、これが血というものなんだ、と肉体で消化しようとしている。そのことを感じさせる。嫌いであろうが、好きであろうが、血が流れている、血がつながっているということは、なにかしら自分を広げる。自分が何かに広がってゆける。自分という限界を超える可能性を教えてくれる。そう感じているようだ。
 そうした感じが「月の夜に」に美しく描かれている。

月の夜に
父と母が空をみあげている
風呂上がりの父はパンツ一枚で
母はベージュのエプロン姿のまま
「ほら月がきれい」と父が言い
「ほんに見事な」と母がこたえている
カーテンの隙間からふたりを覗き見している娘のことなど
どこふく風で

母はいつも素直で正直
(なぜ私は母に似なかったのか)
短気 負けず嫌い 素直でない
あれもこれも父譲り
だから母は娘の気持ちをすぐに読みとってしまう
偏屈な夫の気持ちを理解したように

父が元気だったころそんなこともあったとしみじみ思っていると
庭先からおいおいと呼ぶ声がした
何事かとサンダルをひっかけ外にでると
弟がたっていた
「月がきれいだぞ」と指さすので
ならんで月をみた

 この詩のなかで、山口は弟とふたりで、父と母になる。母の「素直」「正直」が「私」の「素直」「正直」としてよみがえる。そして、そのとき子供のときにはわからなかった父と母の愛を知る。「私」の世界がいっきに広がる。血は、あたりまえのことかもしれないが、愛の結晶なのである--そう知る喜びが、ここにはある。

 その愛の行方。それが美しい形で結晶している、夢のように輝いているのが「聖地」である。

みあげると空を遮るように陽のひかりをあびたブナの木が
枝をのばし 葉をのばし 天にむかっている
鷲のよびあう声が遠くに聞こえていたかとおもうとそれも途絶え
静寂(しじま)がわたしをつつむ
わたしは森になる
草になり
木になり
風になり
自然の一部になってほどけてゆく

 「わたし」は草や木や風になりながら「ほどけてゆく」。この「ほどけてゆく」が山口の究極の思想である。「自分」から解放される。「血」から解放される。解放されるための、「絆」として「血」は存在する。「血」は、いわば、必然としてのアンチテーゼなのである。
 「ほどけて」いって、山口は「宇宙」になる。いのちが生成する「場」そのものになる。「なる」。繰り返される「なる」(なり)の豊かな響き。「血」は「なる」へつながる栄養源のようなものである。マグマのようなものである。それは形をつぎつぎにかえること、つまり何かに「なる」ことで、「ほどかれる」。
 
 「なる」というのは、別のことばで言えば「結成」である。それは新しい結び目によってつくられる何かである。「なる」という動きのなかには何かを結びつける力がある。何かをむすびつけるからこそ、あるものが別なものに「なる」。
 しかし、その新しい「結び」のためには、古い「結び」はほどかれなければならない。新しい「血」のために、古い「血」は流され、そして、何かに結びついたとき、より強い「血」としてよみがえるのだ。つまり、新しいいのちとして誕生し直すのだ。
 山口の詩には、そういう誕生をうながす力がある。誕生の前には、私たちは、あるいみでは愛の闘争をくぐり抜けなければならないのだが、そういう必ずしも楽しいとばかりは言えない闘いを、そっとだきしめ、みまもる温かさが山口のことばにはある。





おいしい水
山口 賀代子
思潮社

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リッツォス「証言B(1966)」より(4)中井久夫訳

2008-11-11 00:42:06 | リッツォス(中井久夫訳)
容疑者   リッツォス(中井久夫訳)

彼はドアに鍵を掛けた。用心深く後を振り向いて、
鍵をポケットにねじこんだ。逮捕される寸前だった。
やつらは何ケ月も拷問した。ある宵、彼はついに吐いた。
(証拠として採用)。鍵も家も自分のだと。
だが、誰一人わけが分からなかった。どうして鍵を隠そうとしたのか。
だから釈放されたのに容疑は晴れないままだ。



 詩は事実を追求しない。「容疑者」が鍵を隠そうとしたのか、そのことを明らかにはしない。この詩のなかで起きていることはいったい何なのか。そのことについてもリッツォスは説明しない。
 では、詩は何を書いているか?

 この答えは単純である。ことばを書きたいだけなのである。私はギリシア語がわからない。原文を示されてもなにも言えない。しかし、中井久夫の訳についてなら、言える。言えることがある。
 もちろん私の見方が正しいという保証などどこにもない。それでも、この詩について言えることがある。

やつらは何ケ月も拷問した。ある宵、彼はついに吐いた。

 この1行。その「宵」と「吐いた」ということばの組み合わせ。中井はこの訳語(日本語)を詩のなかで定着させたかったのだと思う。その意志を感じる。
 「宵」は美しいことばだ。現代では「文語」に属するかもしれない。「口語」で語られることがあるかもしれないけれど、そういうことばをつかうのは、ちょっと気取ったときだ。雅語といった方がいいのかもしれない。一方、「吐いた」は口語というより、俗語である。
 ここでは、雅と俗が出会っている。正反対のものが出会っている。その正反対のものの衝突が詩なのだ。雅に支配されていた意識が、ぱっと俗に触れる。その瞬間、意識がきらめく。意識に火花が散る。それが詩だ。

 雅と俗だけではない。ここでは正反対のものが出会っているのだ。「容疑」と「晴れ」がその代表的なものだが、拷問のあいだの沈黙と「吐いた」ことば、「吐く」という行為。なによりも、分かるものと、分からないもの。その衝突が、何が書いてあるか分からないけれども、そのことばを詩にさせてしまう。
 詩は対立することばの衝突のなかにある。



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リッツォス「証言B(1966)」より(3)中井久夫訳

2008-11-10 11:58:17 | リッツォス(中井久夫訳)
彼の発見物   リッツォス(中井久夫訳)

ヨルゴスはカフェニオンに座ってコーヒーを飲む、海は見ずに。
葡萄を摘む農夫の声がここまで届く。
ジプシーのテントの前で、蹄鉄屋が蹄鉄を馬のヒズメに打ち込む。
荷車がトマトを積んで通り過ぎる。

ヨルゴスは何をしてよいやら。
海はもちろん淡青色。太陽はいつもながらに太陽。
蹄鉄は扉に懸かって、孔が六つ。



 私は、こうした一瞬の情景をスケッチした作品が好きだ。「ヨルゴス」が何者かはいっさい説明されていない。そういう省略が好きだ。風景とことばが交錯する。そして、その交錯のなかにこころが浮かび上がってくる。説明する必要のないこころが。
 
ヨルゴスは何をしてよいやら。

 だれにでも、何をしていいかわからない、ぼんやりした時間がある。無為の時間がある。そして、そういう無為の時間の中で、ひとは永遠にふれる。でも、永遠といっても、「海」や「太陽」のことではない。ランボーではないのだから。もちろん、ここにも海と太陽は出てくるが、そういう「自然」の「永遠」ではなく、ひとの暮らしのなかにある「永遠」。
 蹄鉄--孔は六つ。
 あ、いいなあ。この「もの」、人間がつくりだした「もの」、それが到達した完成点。そこに永遠がある。
 それはたしかに「発見物」なのだ。

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村永美和子試論(2)

2008-11-10 11:54:52 | 詩集
 村永美和子はことばとものを同一のものとは考えない。ことばはことば。ものはもの。それぞれが独立した文脈を生きている。『されない傘』には、そういうことばがつまっている。藤富保男の影響かもしれない。柴田基孝(基典)の影響かもしれない。たとえば、「垂」。

生憎の
雨の棟上げ

夜には 早くも屋根になる深みに 懸垂
するっ
--蛇

 何かが屋根の梁にぶら下がっている。「懸垂」している。そこから、「懸垂する」→「するっ」→「すべる」→「ぬめる」→「蛇」。蛇が梁を登っているのだ。ぬるっと滑って、半分落ち懸かっている。それをあえて、「懸垂する」と言う。
 いや、紐(縄の類)が梁に残っていて、それが夜には蛇に見えたということかもしれないが。地方によって違うだろうが、私の生まれ育った田舎では、蛇が住み着く家には金がたまるといった。蛇は家にとっては縁起がいいのだ。そういう意識が縄を蛇に見せたかもしれない。
 いずれにしろ、「懸垂/するっ/--蛇」という改行のなかには、ものとことばを結びつけるという基本的な接着剤がはがれ落ち、ことばが自立して動いている。それがおもしろい。



 村永には柴田基孝の影響があるかもしれない、と書いたが、『されない傘』には柴田が「しおり」を書いている。その「しおり」を読んでいて、私は、あっと声を上げた。「さされない傘」を引用している。そしてコメントしている。

 ”されない傘”というものもある すんなり受け身に
 世にあまたの傘のなか 本数が少ないか たまに持たされると ハッっとなり蛙の腹で空をふさぐ ほどなく持ち帰る か 水切りの後 ぐったり場に倒したまま 足はうすらいだ頭を垂れている

 これはタイトルポエムの冒頭部分だが、がんらい村永の詩のなかに持ち込まれる道具はすべて家庭の日常に見るものばかりである。その日常用具の処理がムラナガ語の世界で秩序を変えることで、モノの重みが変わり、コトバの景色に亀裂が生まれる。つまり、世界はその大小を問わず、いかに関係に依存し、関係に群がっていることか。する傘、される傘はあっても、されない傘はありえなかった。それに、「ぐったり場」。ありえないものが登場することは、ひとを緊張させる。

 あ、柴田さん、誤読していますよ、と私はいいたい。(私が誤読なのかもしれないけれど。)
 「されない傘」というのは「持たされない傘」の省略形。女が男に傘を持たせる。そのときなんとなく傘を選ぶ。その選択からこぼれおちたものを「(持た)されない傘」と村永は呼んでいる。そして、「ぐったり場」というのは、場所の名前ではない。村永が発明したことばではない。
 傘は家へ入るとき水切りされる。そのあと立て掛けられる傘もあれば、その辺り(場)にぐったり倒したまま(放り出されたまま)にされる傘もある。「ぐったくり」は「場」を修飾することばではなく「倒した」を修飾することばなのだ。
 村永は、この柴田のコメントを読んだとき、どんな気持ちだっただろう。あ、違うのに、と思ったけれどそれをつたえられなかったのではないのか。そこに、村永の柴田への敬愛がうかがえる。いいづらかったんだろうなあ。
 そして。
 「ぐったり場」か。そんなふうに読んでもらえるなら、そっちの方がおもしろいかも、と思ったのかもしれない。誤読を積極的に受け入れ、受け入れることで、村永は自分のことばを変えてしまった。「されない傘」を柴田との合作にしたのだ。
 ジャズセッションのようなものだ。ことばはことば。ものはもの。--そう考えるときにのみ、成立する合作、パフォーマンスだ。
 詩とはもともと誤読されるためのものだから、これはこれで、とても楽しいなあ、と思った。



詩人藤田文江―支え合った同時代の詩人たち
村永 美和子
本多企画

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高岡修「現代詩文庫190 高岡修詩集」

2008-11-10 10:50:22 | 詩集
高岡修「現代詩文庫190 高岡修詩集」(思潮社、2008年09月17日発行)

 「二十項目の分類のためのエスキス・ほか」という詩集がある。高岡の初期の詩集である。この「エスキス」ということばに高岡の詩の特徴がよくあらわれていると思う。
 素描は、いわばメモ。それは必要最小限のものを書き留めたもの。いずれ、それを補足する形で「大作」が完成する。素描に必要なのは、線のスピードである。ことばの場合は、ことばのスピードである。そして、そのスピードというのは、たいていの場合はオリジナルであってはいけない。そこに個性があると、つまずいてしまう。すでに完成されているもの、つまり、古典からの引用でなければならない。古典は他者によって十分共有されている。共有されているものはすばやく動く。つまずかない。素描に必要なのは古典の力である。
 「ある建築物のためのエスキス」の「1」の部分。

その建築物は
天空から吊るされている
天心とおもわれるあたりから
強靱な綱が垂れていて
その上端を
死者たちの歯が噛んでいる
一種の浮遊状態にあるわけだが
その建築物が落下するというようなことはない
そこでは
重力というより
物質の質量そのものが存在しない

 「天空」には「天心」が呼応する。「吊るす」のに必要なものは「綱」である。「綱」を「噛む」のは「歯」である。この一連のことばの運動は古典である。綱をつかんでいるものが、たとえば果てしなくのびる欲望の舌であったなら、このエスキスはエスキスにならない。個別の完成を目指した作品になってしまう。
 「重力」「物質」「質量」。ここにも存在するのは古典である。
 高岡は、一方で「死者」とか「歯」とか、「噛む」とか、いわば人間の肉体を感じさせるものを置き、他方に「物理」という非生命体を置く。いわば、相いれないものをぶつける。いや、とりあわせる。これは「俳句」の古典的な手法である。
 高岡は、現代詩の形を借りて、いわば「俳句」をやっている。

 「俳句」は短い文学である。「俳句」は、ことばの量だけを問題にすれば、素描の素描の、そのまた素描になるかもしれない。しかし、文学というのは「ことばの量」ではないから、「俳句」を素描から独立させるものが必要である。それは何かといえば、対象を矛盾のままつかみとる把握力である。体感力である。

 高岡は、現代詩において、その把握力を放棄している。放棄することで素描にしている。

そこでは
重力というより
物質の質量そのものが存在しない

 こういうことを、俳句では対象に託して一気に噴出させる。世界をたたき割り、たたき割った瞬間に再結合させる力で一気に閉じる。そういう力にすべてをかけるが、高岡は、そういう力を放棄して、現代詩のなかに逃げている。
 私には、なぜか、そんなふうに感じられてしまう。

 「エスキス」が「エスキス」として独立して存在するためには「余白」が必要だと思う。それは「俳句」でいえば「切れ」のようなものかもしれない。高岡の俳句を私はそれほど読んでいるわけではないが、高岡の俳句には「切れ」が少ないように感じられる。(文法上の「切れ」のことではなく、感覚の「切れ」のことである。)そして、その「切れ」の少なさが、何か、とても古いものを読んだような気持ちを呼び覚ます。
 それは古典の古さとは違う古さである。古典はいつでも新しい。もちろん古典のなかにも古い部分があるけれど、それを超えてしまう新しさがいつでもある。

 私は、どうやら高岡のことばが苦手なのかもしれない。どの作品にも「傷」はない。どの作品も美しい。けれども、その美しさは、近付きたい美しさとは少し違う。
 逆に言えばいいかもしれない。世界には汚いものが沢山ある。汚いものには私は基本的には近付きたくないが、なかには魅了されてしまう汚さというものがある。いやなんだけれど、それにそまってみたい。汚れてみたい。汚れる楽しみにふけりたい、という欲望を燃え上がらせるものがある。--そういう欲望とはまったく反対の気持ちになる。高岡の書く美しさ。それには、まあ、近付かなくていいかな、という感じになる。
 どうぞ、高岡の作品が好きなひとは好きになってください。私はちょっとほかの用事がありますので……、と、つい、書いてしまう。






高岡 修
思潮社

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