詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(95)

2009-05-25 00:06:59 | 田村隆一

 「第三景 滑川哀歌」。この詩には、田村のことばの特徴が凝縮している。さまざまなことばが、田村という「人間」のなかで出会い、輝く。

春になればヤマザクラが咲き
左へ曲がればハラキリ・ヤグラ
ハラキリ・ヤグラのすぐそばに北条高時の井戸
上方勢が稲村ガ崎に黄金の太刀を投げこんで乱入したとき
北条一族は滅び
高時は井戸のそばで切腹し身を投じる
東勝寺は、
「東ガ勝ツ」ことを祈願して建立されたのに
あっけなく敗北した
このあと
ぼくの若い日本は
南朝側と北朝側に分裂して内乱状態をむかえてさ

ハラキリ・ヤグラのすぐとなりに修道院
レデンプトリスチン修道院
神サマと結婚した美しいシスターたちの館は
ぼくの目には壮麗に映る
北海道のトラピスト修道院では
バター飴とクッキーを売っているけれど
ここでも彼女たち手焼きのクッキーを製造していて
若宮大路の洋品店で売っている

 サクラからハラキリ、北条一族、さらには修道院、シスターたちの副業(?)と、ことばはさまざまなものを渡り歩く。自在に動く。
 この詩で、おもしろいのは、「ぼくの若い日本は」という行だ。
 「ぼくの若い日本」。なぜ、「ぼくの」ということわりがついているのだろう。「田村の」「若い日本」だけが「南北朝時代」にはいったわけではない。歴史はだれにとっても同じである。けれども、田村は「ぼくの」と書いている。
 ここに田村の特徴がある。
 詩とは、詩のことばとは、あくまで「個人」のものなのである。歴史として「教科書」に書かれていることであっても、詩人が書き直せば(語り直せば)、それは「詩人の(田村の)」歴史である。
 「語り直す」ということは、それが既成の事実であっても、「共有」のものではなく、あくまで「個人」のものになるということだ。「個人」のものにするために、詩人は語り直すのだ。
 そして、そこに書かれていることは「ぼくの」歴史であるから輝くのだ。独特の光を放つのだ。田村の北条時代は、サクラとハラキリと井戸がいっしょになったものである。それが南北朝時代へと突き進む。
 つぎに出てくる「ぼくの目には壮麗に映る」も、同じである。「ぼくの目には」と書かなくても、それは田村の目にうつった「光景」としか見えない。だれも、田村以外の人間が修道院を「壮麗」と見ているとは思いはしない。けれども、田村は「わざと」「ぼくの目には」と書き加える。「ぼくの目」をとおって、ことばは動いているのだ。そのことばを追うことは、「田村」の内部をくぐることなのだ。そして、その田村の内部というのは、サクラとハラキリと井戸がしっかり結びついている世界である。
 この詩集は「ぼくの鎌倉八景」と明確に「ぼくの」と断わっているが、これはとても重要なことなのだ。あくまでも、「田村の」である。

 「ぼくの」であるからこそ、この詩の最後の部分は非常におかしい。修道院の手作りのクッキー、洋品店で売られているクッキーに、田村は「鎌倉」を見ている。

それにしても
とぼくは思う
どうしてシスターたちがつくったクッキーが
洋品店で売られているのかしら
色とりどりのパンティやブラジャーやスカーフに
いりまじってさ

 ここでも「ぼくは」思うのである。
 洋品店に売られているのは「パンティやブラジャーやスカーフ」だけではないはずだが、田村の目をとおると、洋品店はそういうものにかわる。スカートやブラウス、セーターではなく、「パンティやブラジャーやスカーフ」とクッキーが出会って、鎌倉を賑やかにする。「田村の」鎌倉は、そうやってできている。
 世界は「もの」であふれている。けれども「肉眼」が触れる「もの」には限りがあり、それが「ことば」になるには限りがある。限りがあるのだけれど、その限られたことばが、ふつうの「歴史」「観光案内」を逸脱して、田村自身を語りはじめる。そのとき、そこに、詩が存在する。




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ジョナサン・デミ監督「レイチェルの結婚」(★★★★★)

2009-05-24 14:52:29 | 映画

監督 ジョナサン・デミ 出演 アン・ハサウェイ、ローズマリー・デウィット、ビル・アーウィン

 ジョナサン・デミといえば「羊たちの沈黙」「フィラデルフィア」が印象的だ。どちらも人間の「心理」を追いかけている、ととらえれば、この「レイチェルの結婚」ともつながる。人のこころは、いつ、どんなふうに動くか。そのきっかけは何か。その揺れ動きは他人にどう影響するのか……。そして、この映画は、その揺れ動きが「羊たちの沈黙」や「フィラデルフィア」とは違って、ストーリー以外のものを描き出す。

 この映画にはいくつもの興味深いシーンがある。
 姉(レイチェル)の結婚式・披露宴のテーブルの席を決めている。妹(キム)の席がなかなか決まらない。薬物依存症で、みながもてあましている。そのうち、レイチェルが怒りだす。父に向かって「自分の結婚式なのに、自分の意見が通らない。父はキムのことばかり気にかけている」。そこにキムが加わり、けんかが白熱する。そして、突然、どんな拍子でだったか私は忘れてしまったが、レイチェルが「妊娠している」と口走る。そのとたん、けんかは一転、祝福に変わる。ただし、キムは置き去りにして。そのことに対して、キムは「こんなやり方はずるい」と怒る。「私のことを話していたのに、妊娠を持ち出すことで話題をずらすなんて」と。向き合うべき問題があるのに、それから目をそらすのは許せない、というのである。
 これは、そして、この映画の全体のテーマでもある。
 キムを中心にして、この家族には「問題」がある。キムが引き起こした「事件」が尾を引いている。キムには薬物で気分が高揚しているときに、車の運転を誤り、川に転落した。そして、その車には弟が乗っていたのだが、彼を救えなかった。弟の死が、家族全体に影を落としている。キム自身にも大きく影響している。
 わかっているけれど、家族の誰もが、そのことと真剣に向き合えない。悲しみと、怒りと、許さなければならないという思いが絡み合って、どうしていいかわからないのである。周囲の人も、それは結局「家族の問題」だからと、距離をとってしまう。
 「問題」と直接向き合うのではなく、遠ざける。そこから視線を逸らせる。そうやって、日々を過ごしていく。そのうちに、どうすることもできない「思い」が蓄積していく。ますます「問題」と直面できなくなる。悪循環である。
 キムは、自分の依存症を語るのに、嘘をついている。叔父(?)に性的虐待を受けた、そのため姉は摂食障害になり、自分は薬物依存症になった。そして、いま、こうやってここにいる。依存症を克服しようとしているというようなことを依存症の集いで「告白」し、参加者を感動させる。その嘘を知り、姉は、自分自身と向き合わず、ごまかしている、と激怒する、という具合である。キムほどではないが、誰もが、「問題」を遠ざけることで、自分を、そして自分のまわりを「安泰」にさせたいのである。
 この映画は、そういうこころの絡み合い、揺れ動き、ふいに爆発する怒り、悲しみを、解決策をしめさず、ただただ具体的に具体的につみかさねていく。そのつみかさねかたがとてもていねいで、スクリーンにぐいぐいひきこまれていく。そして、それはストーリー以外のものを描き出す。ストーリーにならないものを描き出す。
 結婚式という集まりがうまくつかわれている。だれもかれもが集まってくる。そこにはさまざまな思いが交錯する。一人一人の思いは違う。違う人がいるということが不自然ではない「場」が結婚式なのである。そして、そこで繰り広げられる「ことば」のやりとり、「感情」のやりとりは、ストーリーではなく、いわば一種の「音楽」である。あるテーマがある。それに次々と変奏が加わりうねっていく音楽である。
 この映画では、登場人物を「音楽」にかかわらせることで、人と人との交流が「音楽」であることを、非常に強く打ち出している。それぞれの人はそれぞれの楽器。そして、その楽器には出せる音と出せない音がある。あるときは「ノイズ」も出す。けれど、それが組合わさると、不思議な「音楽」になる。一人の音を別の人の音が補強する。ひとつの音から別の新しい音が呼び覚まされる。その運動はどこへゆくかわからない。「即興」がそこに加わり、ただ「音」の運動を加速させるだけなのである。その瞬間瞬間、誰もがみんな愉しいわけではないかもしれないが、そういう「陰り」も含めて、「音楽」自体は豊かになっていく。他人の「音」を聴き、自分にどんな「音」が出せるのかさぐりながら、「音楽」そのものを生きていく--それが人生。
 この映画の登場人物たち本人にとっては「愉しい音楽」ではない部分もあるかもしれない。けれど、その豊かな音楽に触れて、映画を見ている私自身は、とても幸福だった。不思議な言い方になるが、どんなときでも人間は生きていけるのだ、という感じが強く伝わってくるのである。実感できるのである。悲しみも、怒りも、絶望も、歓びも、それをただぶちまける。それは、いろいろな形で他人に受け止められ、さまざまに「変奏」されるのだが、そういう「変奏」の全体として、人生は、きっと「音楽」になる。そんな感じがとても強くこころに残る。

 イーストウッドの「グラン・トリノ」は傑作だった。「チェンジリング」も傑作である。けれど、このジョナサン・デミの「レイチェルの結婚」はそれを上回る。この映画には、人間の「豊かさ」がある。
 「グラン・トリノ」や「チェンジリング」は、ストーリーをとおして、そこで起きたことを「愛」とか「希望」とか、シンプルなことばに昇華してしまう。
 それに対して、「レイチェルの結婚」は、「純粋さ」ではなく、「純粋さ」を叩き壊しながら「不純」さえも輝かせる。それは、いうなればストーリーから逸脱してゆく「豊かさ」である。「世界」にはいくつも「ストーリー」がある。けれど、「世界」はひとつの「ストーリー」ではない。(ひとつの「ストーリー」を追い求めるとき、「全体主義」というとんでもないものが登場するかもしれない。)人間には、それぞれ「ストーリー」があるのはもちろんだが、人間は自分自身の「ストーリー」からも逸脱していく自由をもっているはずである。この映画は、そういう人間の可能性をも描いている。逸脱しながら、人間は「豊か」になっていく。そういうことを感じさせてくれる映画である。




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『田村隆一全詩集』を読む(94)

2009-05-24 00:10:26 | 田村隆一
 『ぼくの鎌倉八景 夜の江ノ電』(1987年)。詩画集である。『田村隆一全詩集』(思潮社)には絵がないので、ことばに対する感想だけを書く。
 「第一景 野原の中には」。この詩には、注釈(?)がついていて、その注釈が詩よりもおもしろい。注釈を書きたくて詩を書いているようにさえ感じる。

 この野原は、鎌倉の二階堂、永福(ようふく)寺跡にあって、ほぼ二万坪、ヤングにはメートルで云わないと、分からないけれど、約七万平方米である(正しく調べたかったら、鎌倉〇四六七-23-三〇〇の鎌倉市役所におといあわせください)。
 (略)
 そして、この野原は、いまも現存し、考古学者が発掘している。まわりにはロープがはりまわしてあって、
「ま虫に注意」という立札がいくつもあって、女の子が若い母親にたずねていた。
「ま虫ってドンナ虫?」
「こわーい虫のことよ」

 「ヤングにはメートルで云わないと」の「ヤング」が私には最初分からなかった。「ヤング」って、田村の連れのだれか? 外国人といっしょに野原へきたのかな? 「若者」とわかるまでに、しばらく時間がかかった。変な言い方かもしれないが、この、ことばがなんのことかわかるまでの「間」が、私には詩に感じられる。ことばが「意味」になるまでの、ゆらぎ。ことばが、音のまま、どこにも所属せず(?)、宙ぶらりんに浮いている。そのとき、不思議に、こころが誘われる。
 「ヤング」が「若者」とわかったときの驚きは、石川淳の小説「狂風記」の「ポンコツのカー」の「カー」が「車」とわかったときと同じように、不思議に、目の前がぱーっと明るくなったような感じがした。
 この、一瞬の、ためらい(?)のような瞬間。そして、そのあとの解放感(?)。もしかすると、田村も、そこに詩を感じているのかもしれない。
 「ま虫」の立て札についてのエピソードがおかしい。「ま虫」はもちろん「蝮」である。蝮は虫ではないが、不思議なことに(?)漢字では虫ヘンである。蛇も虫ヘンである。ヘンである。と、ちょっとだじゃれを言ってみたい気持ちになるが……。
 女の子はもちろん「蝮」を知らないのだろう。若い母親はどうか。わかって言っているのか、わからずに言っているのか。ちょっと、わからない。「ヤング」というのは、こういうひとのことを言うのかな? ふと、意識が最初の「ヤング」にもどる。響きあう。
 偶然か、故意か。
 わからないけれど、こういう瞬間に、ことばの楽しさを感じる。

 「第二景 天園 あるいは老犬のこと」にも注釈がついている。

 その天園にのぼってみて、オデン屋があって、そこで一杯ひっかけてみようとしたら、ジュースやコーヒーのコイン・ボックスがならんでいて、かんじんの酒がなくて、老犬だけが店番をしていて、その老犬は、なにやらぼくに親しげで、ぼくのことを「老犬」だと思いこんでいるらしい。

 タイトルにわざわざ「あるいは老犬のこと」と書いてあるように、この詩は、その老犬のことを書きたかったのだろう。
 ここでも、「野原の中には」と同じように、あれっ?と思うことばがある。「コイン・ボックス」。これ、自動販売機?
 ものには名前がある。そして、名前というのは、「共有」されるものである。共有されることで、意味を持つ。そういうものに対して、田村は独自に名前をつけている。「わざと」、そう呼んでいる。その「わざと」のなかに、詩の芽がある。もしかすると、それは詩の「眼、肉眼」かもしれないけれど。
 そして、この独自に何かに名前をつける、ということをするのは、詩人だけではない。犬も、そうしているのだ!

その老犬は、なにやらぼくに親しげで、ぼくのことを「老犬」だと思いこんでいるらしい。

 老犬は、田村に「老犬」という名前をつけている。田村が自動販売機を「コイン・ボックス」と命名しているように。
 独自に何かに名前をつけて世界を見つめなおす--そういう「時間」を田村は、天園の犬と「共有」している。
 不思議なおかしみがある。
 「ま虫」とは違った、おかしみがある。





鳥と人間と植物たち―詩人の日記 (1981年) (徳間文庫)
田村 隆一
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清野雅巳「実家」、青野直枝「降誕祭」

2009-05-23 09:14:25 | 詩(雑誌・同人誌)
清野雅巳「実家」、青野直枝「降誕祭」(「雲雀料理」6、2009年05月10日発行)

 清野雅巳「実家」はことばがていねいだ。特別なことが書いてあるわけではないが、そのていねいなことばの動きに、ふっと誘い込まれる。

正月
実家でテレビを見ていると
討論番組に
イラク人質事件の帰還者が
あれから四年 いや五年か
ぼくとそんなに違わない年に見える
これから国際交流のありかたについて
語るという
そこへ母が来て
風呂がわいたと告げた
ぼくはテレビを消して立ち上がった
湯船で足を伸ばしながら
くもりガラスを見た
窓の外は暗く
耳をすますと
遠くで車が
砂利を踏みしだいている

 「そこへ母が来て」からが、とてもていねいである。なんでもないことのようだが、「テレビを消して」という1行は、最後の「遠くで車が/砂利を踏みしだいている」を静かに支えている。家のなかでテレビの音が消えているから、遠くの音が聞こえるのである。
 風呂の窓が「くもりガラス」というのは、すりガラスのことなのか、湯気で曇ってのことなのか、はっきりとはしないが、たぶんすりガラスだろう。外から風呂のなかが見えないように配慮して、半透明になっているのだろう。そういう「暮らし」のありかたと、テレビは見ないときは消すという行為がゆったりと、しっかりと結びついていて、不思議に安心感がある。
 くもりガラスであっても、外の様子は窺い知ることができる。「暗い」。暗いから、自然に、その外に広げる感覚も「視力」ではなく「聴力」になる。これも自然だし、それに先だつ「湯船で足を伸ばしながら」もなんともいえず気持ちがいい。足を伸ばして体を解放する。それにあわせて感覚も自然に広がっていく。その広がった感覚が、遠くの音を聞きとるのである。
 ただし、この感覚は、自然と広がるものではあるけれど、そこには「意識」も働いている。広がっていく感覚を、ただ広げるのではなく、とぎすますというとおおげさになるかもしれないけれど、しっかりとその感覚を生きる。「耳をすます」。その結果として、遠くの音が耳にとどくのだ。
 感覚を広げ、同時に、その感覚の広がりがとらえるものをていねいにすくい取る。ことばにする。その感覚の動きを実感すると、清野が聞きとった「音」、「車が/砂利を踏みしだく」音が、どこかで「国家」が「若者」を踏みしだく「音」とも重なって聞こえる。清野はそんなことまでは書いてはないのだが、「イラク人質事件」が、この詩では必然的なものに見えてくる。感じる人が感じればいい、自分の感覚は押しつけない、という「生きかた」が、そこには反映されているかもしれない。まず、自分自身の感覚をしっかりつかみとる、というていねいさが清野にはある。



 青野直枝「降誕祭」には、眩暈のように美しい行がある。

両面張りの鏡が
上下を映したとき
より低く映るのは
空なのか海なのか

 「両面張りの鏡」を空と海とのあいだに水平におけば、物理的に言えば、空は「上面」、海は「下面」にしか映らない。「下面」を「低い」ととらえれば、「海」が低いにきまっている。
 しかし。
 空は鏡まで降りてくる。海は鏡まで昇ってくる。その「動き」を考えると、空は「低く」降りてきた。海は「高く」昇ってきた、ということになる。「低く」と「高く」が逆転する。
 鏡のなかで、空と海が出会い、その固い結びつきが「低い」「高い」のなかにひそむ矛盾したものをひとつにする。
 その瞬間が美しい。
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『田村隆一全詩集』を読む(93)

2009-05-23 00:06:17 | 田村隆一

 「肉眼」とは「直接的な目」である。それは、「愉快な対話」のなかの、「目」に関する部分を読むと、よくわかる。

あの
顔みたいなものに張りついている丸い穴は
何ですか
二つありますね
一般的には目と呼んでいますが
形だけは目ですが、じつは
何も見えないのです
カメラのレンズと思ってくれればいい
TVカメラだと移動もできますし
拡大レンズもある
そのカメラに写るものだけが世界で
信用できるものだと人は思いこんでいる
色彩も音もついていて
しかも何度も繰り返しがききます
デジタルの時代になりましたから
肉眼なんて余計なもの

 「肉眼なんて余計なもの」とは、もちろん田村流の逆説である。「カメラ」のレンズ、テレビカメラがとらえるものは「間接的」である。人間の目は、いまは、もうそういうものになってしまっている。
 「何度でも繰り返しがききます」はたいへんな皮肉である。「目」は、人間の「視線」のありかたを知らず知らずに身につけている。人間がつみかさねてきた「視線」、形成してきた「視線」をそのままつかって世界を見つめる。「一点透視図」のような「視線」もあれば、「古今風の感性」というような「ことばの視線」もある。それは蓄積され、数値化され、デジタル化していると言えるかもしれない。田村が書いているように。
 それは、「殺人」が「肉眼」だとすれば、「ホロコースト」を「目」と呼ぶようなものかもしれない。

 「目」と「肉眼」の違いを、田村は次のようにも書いている。

人間の悲惨という輝しき存在も、どこを探したっていない、赤ん坊が
母胎からポトリと落ちて消耗するだけ

 「目」は何も生まない。ただ「消耗する」。すでに形成された「視点」で世界を見つめるとき、世界はただ「消耗」される。
 「肉眼」は、そういう「消耗」そのものを破壊し、「視線」のとらえる世界を破壊し、ことばにならないものを、「未分化」のものに、直接触れる。そして、そういう「直接性」は、まだ人間に共有されていないがゆえに難解でもある。
 「人間の悲惨という輝しき存在」ということばが象徴的である。ふつうの、つまり「目」の「視線」から見れば、「悲惨」が「輝しい」というのは奇妙である。ほんらい結びついてはならないことばである。だから、そのままでは「難解」である。「難解」のなかには、すでに形成された「視線」ではとらえられない(理解できない)、まったく新しいものがあるのだ。「目」を叩き壊し、そういう新しいものを「直接」放り出すのが詩なのである。




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山本まこと「冬の日溜まり」、福間明子「絵空事」

2009-05-22 10:35:05 | 詩(雑誌・同人誌)
山本まこと「冬の日溜まり」、福間明子「絵空事」(「水盤」5、2009年05月20日発行)

 山本まこと「冬の日溜まり」を読みながら、ふと池井昌樹の詩を思い出した。放心の感覚が似通っている。

冬の日溜まりには
猫がつけてきた草の実を
うつらうつらと取り除く母がいる
母はもういないのに
その日溜まりに許されて
また母を見る
セーターのほつれなんかはそのままに
私はまだ生まれていなくていいような
生まれるものは影だけであっていいような
そんな奇妙な時間
カクレンボのオニじゃあるまいし
ホラ、見つけたよ
とも言えないで

 「冬の日溜まりに許されて」の「許されて」が気持ちがいい。私たちは何かを錯覚する。たとえば、この詩では、山本はいないはずの母をいると錯覚する。それは「許されて」そう錯覚するのである。私たちを「許す」何かが存在する。
 そういう感覚のとき、すべてはゆったりととろける。断定の必要がなくなる。
 「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」と2度繰り返される「いいような」というぼんやりした感じが、放心の豊かさをあらわしている。「ホラ、見つけたよ/とも言えないで」の「言えないで」の中途半端の感じも、とても美しい。



 福間明子「絵空事」は、山本まこととは違った形の(たぶん、正反対の)こころの形を描いている。「放心」できないこころを書いている。

誰とも共有することのできない時間があるとするならば
橋のたもとから眺める山の端に茜の夕焼け
空に夕月がかかる頃合いとか
淋しさ哀しさ懐かしさがごちゃまぜに
そのごちゃまぜは自分のものであるだけに
異様に重く感じられるだけにせつない
生きているのだから生きていればいい
「また絵空事ばかり言って」
祖母はいつもわたしにそう言って笑った

 「共有することのできない時間」。「放心」するとき、人は、誰かと「時間」を共有している。「放心」することを「許す」何かと時間を共有している。そして、その共有のなかへ、いま、ここに、不在の母もあらわれる。それは、母もその時間を共有しているということでもある。
 福間は、時間を共有しない。そうすると、どんなことが起きるか。
 こころが「ごちゃまぜ」になる。そして、その「ごちゃまぜ」は「自分のもの」である。自分だけのものである。
 こころとは不思議なもので、山本のように、自分のものではなくなって(誰かに「許される」ものになって)、そのことを「幸福」を運んでくるのに、福間の書いているように「自分のもの」であるときは、なんだか苦しいのである。苦悩を吸い込んでしまうのである。

 こころを放してしまう(放心)と、こころを放せない苦悩。ひとところにとどまらず、揺れ動くから、おもしろいのだろう。

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『田村隆一全詩集』を読む(92)

2009-05-22 01:22:09 | 田村隆一

 「鳥語」には文体が乱れたところがある。最終連。

殺人という人間的行為には
宗教的な匂いがする
ホロコーストなんて一人の人間が一人の人間を毒殺したり射殺したり
アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない そういえば昔
『情熱なき殺人』という洋画があったっけ
ぼくの墓碑銘はきまった
「ぼくの生涯は美しかった」
と鳥語で森の中の石に彫る

 3行目の「ホロコーストなんて」ということばを引き継ぐ「動詞」がない。これは、田村にはわかりきったことなので、書き忘れたのだ。書き忘れても、書き忘れたことさえ意識できないほど、田村の「肉体」にしみついていることばなのだ。
 「ホロコーストなんて」「人間的行為ではない」。したがって、「宗教的な匂いもしない」。田村は、そう書きたい。
 では、「人間的行為」とは、何か。

アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇

 である。「アリバイを主張する」とは、主語が「殺人者」の場合、嘘をつくことである。ことばで真実ではないことをいう。それが「人間的」なのである。真実ではないことのなかに、「自由」がある。真実を破壊して、真実から人間を解放する。
 それはたしかに「宗教的」なことかもしれない。人間は死ぬ。その絶対的な真実を破壊し、否定し、宗教は、死とは対極にある「永遠のいのち」を語る。現実には、だれも体験したことのない「生」を語る。
 「性行為そっくりの劇」。これは何だろう。興奮である。「直接性」である。相手がいるときはもちろんそうだが、相手のいないオナニーもまた直接的である。「肉体」に直接触れない性行為はない。
 「アリバイ」の主張と、この「性行為」の直接性を結びつけて考えるとき、不思議なものが見えてくる。
 「アリバイの主張」、その嘘は、けっして何かと触れない。不在。そこに存在しないことがアリバイである。「性行為」が直接的であるのに対して、「アリバイ」は直接性を否定する。他者との関係の直接性を否定する。しかし、その直接性の否定が嘘によってつくられるとき、そこには何が起きるのだろうか。意識のなかでは、他者との直接的な関係が強く結びついて離れない。--そこには、何か矛盾したものが、分かちがたく結びついているのである。
 たぶん、「ホロコースト」には、この直接性がない。直接性がないから、矛盾もない。ホロコーストには「肉体」が関与する部分が少ない。殺人が直接的ではなく、間接的におこなわれる。実感がない。だから、いったんホロコーストが起きると、その間接性(直接性の欠如)ゆえに、行為が暴走する。矛盾をかかえこまないものは、踏みとどまることができない。
 田村の詩について、何度か「矛盾」ということを書いてきたが、その「矛盾」は、「直接性」と深くつながっている。「直接」とは、何かしら「矛盾」しているのである。「直接性」も、田村の「思想」のひとつである。

 「直接性」は、また別の角度からも見つめることができる。

アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない そういえば昔

 この1行。なぜ、1行なのだろう。末尾の「そういえば昔」は、「アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない」とは文脈上、結びつかない。「そういえば昔」は次の行の「『情熱なき殺人』という洋画があったっけ」と結びついている。
 行が、ある意味で「不自然」な形で展開している。文脈を優先するのではなく、ほかのものを優先している。
 何を優先しているのか。「論理」ではなく、「論理」にならないものを優先している。「論理」以前のもの、「論理」を破壊するものを優先しているのだ。
 「ホロコースト」ということばを出したために、文脈はぶれたが、その「ぶれ」をもういちど元へ戻すために、田村は「殺人」ということばをもう一度登場させたいのだ。殺人の直接的なもの--その美しさ、直接的なものだけがもつ美しさを取り戻したいのだ。

アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない そういえば昔

 この1行には、ことばにならない「直接性」が隠れている。「ホロコーストなんて」ということばが「述語」を欠いたまま、「直接」「殺人」と対比され、「直接」対比することで、そのなかでねじれた「未分化」の「論理」のようなものが、バネの反動のように、揺れ動いている。
 そこが、この詩の、おもしろいところである。

 直接的なものは、すべて美しい。田村が、墓碑銘に選んだ「ぼくの生涯は美しかった」ということばのなかにも「美しい」が輝いている。「ぼくの生涯は美しかった」とは、言い換えれば「ぼくの生涯は直接的だった」ということである。
 田村は「肉眼」ということばを何度もつかっている。それは、「見る」という「方法」を破壊して、(人間が歴史のなかで形成してきた「視点」を破壊して)、「未分化」の「いのち」としてものを見るということだが、これは「いのち」が「直接」ものを見るということ--と言い換えることができるかもしれない。



鳥と人間と植物たち―詩人の日記 (1981年) (徳間文庫)
田村 隆一
徳間書店

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時里二郎「夏庭」

2009-05-21 11:02:35 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「夏庭」(「ロッジア」4、2009年01月31日発行)

 書き出しの第1段落に、おもしろい表現がある。

そう考えないでは、このコロニーが広大であるとはいえ、収容されている私たちが二、三十人程度で、だれともほぼ毎日顔を合わせることを思えば、牧場のような広さの庭がそれぞれの家に附属しているとは考えにくい。

 「考えないでは……思えば……考えにくい。」ちょっと眩暈をおぼえる。わからないわけではないが、もっとわかりやすい表現があるのではないか、と思う。「わかりやすい」というのは、もっと整理されたということかもしれない。ことばの重複を避けて、ことばが直線的に進んでいく「論理」があるかもしれない。
 しかし、もし、そういう表現が可能だとして、わかりやすい表現にしてしまったとしたら、そこには詩はない。少なくとも時里の詩は、そこにはなくなってしまう。時里の詩は、読点で区切られた文ごとを読むかぎり明瞭なのに、ひとつづきに読んでしまうと、どこか「正しい(?)」とこばとは少しずれたところに引きずり込まれたような、一種の眩暈のなかにある。
 時里の見ている風景(光景)は、少し、日常的な風景(光景)とは違う。いや、風景(光景)自体は、それほど違わないのかもしれないが、その風景(光景)を描写することばの動きが微妙に違っていて、そのために、なんだか不思議なところへ引きずり込まれたような気持ちになる。
 別な言い方をしよう。
 時里は、ある描写をする。そのときの「対象」それ自体は、そんなに複雑なものではない。ある意味では単純なものである。たとえば、この作品では、「夏庭」と名付けられた「庭」が描写されている。ところが、いったんことばが動きはじめると、それは「夏庭」を離れて、ことばそのものを追いかけている感じに変わる。「夏庭」という対象そのものではなく、ことばそのものの運動のなかにひきずりこまれた感じになる。
 描写の「対象」は消え、描写そのもの、ことばの動きだけが浮き上がってくる。対象とことばが分離して、ことばが、無重力状態のなかで自在に動き回る。その浮遊感、別なことばで言えば、足が浮いてしまったような不安定感、不安定なのにその「場」が無重力なので倒れないという変な感じ、眩暈としかいいようのない奇妙な感じに引きずり込まれる。そんな不安定な感じのなかで、なぜか、ことばだけはくっきりと輪郭をもっている。
 そこに、時里の独自性がある。詩がある。

 この作品の最後の部分。

 影はわたしたちを内省的にします。影に気づくことによって、わたしたちは、みずからの存在を反省的に触知する。しかし、それは文字どおり、わたしたちの存在を脅かす影。
 コロニーでは、あなたの影がわたしなのです。

 この「影」を「ことば」と置き換えて読みたい衝動にかられる。どうしても「ことば」と置き換えて読んでしまう。

 「ことば」はわたしたちを内省的にします。「ことば」に気づくことによって、わたしたちは、みずからの存在を反省的に触知する。しかし、それは文字どおり、わたしたちの存在を脅かす「ことば」。
 コロニーでは、あなたの「ことば」がわたしなのです。

 「あなたのことば」は「時里のことば」でもある。時里の詩を読むと、どうしても「ことば」というものに気づく。「ことば」が、その運動が気になる。書かれている「対象」はほとんど「意味」がない。なにを書いてあるかはどうでもいい。どう書いてあるか、ということだけが気になる。どう書くか、というのは、つまり、対象にどんなふうに近づいてゆき、どんなふうに距離を保ち、どんなふうに「考える」か、ということなのだ。
 そこに書かれているのは、「時里のことば」であるけれど、それは「読者のことば」でもある。そのことばの運動にすっぽりとりこまれて、時里の考えるようにしか考えることができなくなるからである。
 時里のことばは、そういう「引力」をもっている。


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ナ・ホンジン監督・脚本「チェイサー」(★★★★★)

2009-05-21 02:08:21 | 映画
監督・脚本 ナ・ホンジン 出演 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ソ・ヨンヒ

 これは非常におもしろい。元警官がデリヘル斡旋をやっている。その元警官のたいせつな金づるが消えてしまう。どこへ消えた? それを追っているうちに、猟奇的な殺人者と出会う。彼がデリヘルを殺していたのである。犯人はわかっている。その犯人を元警官はつかまえる。それなのに、追いつめることができない。この矛盾。そこがおもしろい。
 そして、その捕まえたのに追いつめられないという「矛盾」のなかに、人間がなまなましく浮かび上がってくる。「社会」が浮かび上がってくる。
 犯人は、女を殺しました、とあっさり告白する。どんなふうに殺したかを、簡単に語る。異常性を平然と語る。それなのに、彼は釈放されてしまう。現在の法律では、きちんとした「証拠」がないと、公判を維持し、「殺人者」を裁くことができないからである。犯人は、それを知っている。そして、警官たちもそのことを知っている。検事は「証拠」を要求するだけではなく、また犯人に対する「人道的取り扱い」も要求する。犯人に暴行を受けたあとがある。それだけで、不当捜査の証明になる。逮捕は無効になる。
 犯人の方が上手なのである。殴られても、いっこうにへこたれないのである。殴られること、暴行を受けることが自分にとって有利であることを知っている。「肉体」がすべてを隠してしまうのだ。「肉体」が傷を受ければ受けるほど、彼は犯人ではなくなる。犯人であることからまぬがれる。このとき「肉体」が引き受けるもの、その「闇」のようなものが、とても怖い。こんなふうにして「肉体」を利用してしまう犯罪というものが、とても怖い。
 理不尽さのなかで、元警官のいらいらだけがつのる。犯人は、最後のひとりはまだ生きているというからなおさらである。まだ殺していない。殺しかけている最中なのだ。なんとかすれば助けられるのである。そうわかっているから、いっそうあせる。やみくもに「肉体」でぶつかっていくしかない。犯人を殴るだけではなく、女がいるだろう「家」を探して走り回る。その、じれったいような「肉体感覚」がとてもいい。
 この二人の肉体のあいだに割って入り込む、他の「肉体」もすごい。「肉体」が増えれば増えるほど、つまり登場人物が増えれば増えるほど、犯人は犯人であることが明確になるのだが(誰もが彼が犯人だと思うようになるのだが)、犯人はどんどん犯罪から遠のく。「自由」になる。ついには保釈されてしまう。そして、女刑事に尾行されながらも、最後の犯行をやり遂げさえするのである。
 「雨」もなんだか、すごい。雨のシーンが多いのだが、その雨さえも「肉体」のように感じられる。「空気」が「肉体」になって、二人のあいだを、広げたり縮めたりする。別なことばで言えば、濃密にする。元警官が、女の手がかりをもとめて街をさまよう。そのとき、元警官は、探している女の娘(少女)をいっしょに車にのせている。そして、あるデルヘル嬢から、男が女を殺す嗜好をもっていることを聞き出すのだが、そのことばを少女は聴いてしまう。
 そのあと。
 男は車を走らせる。少女は助手席で大声で泣いている。この映像を、カメラは雨越しにとらえる。少女の声は聞こえない。ただ、大きく開いた口、目をぶって泣く顔だけがアップで映る。男の、やりきれない顔が映る。雨が映る。とても、いい。とても、せつない。とても悲しい。
 あらゆる「肉体」がぶつかりあう。あらゆる「肉体」が傷つく。だれも救われない。だれも救われないのに、はげしくこころを揺さぶられてしまう。剥き出しの感情に触れるからだ。感情というと、ことばが美しすぎるかもしれない。ことばにならない、いらいら、無残さ、むごたらしさ--そういうものに直に触れるからだ。



 ここまで書いてきて。
 どうも、感想の書き方を間違えたらしい、とも思う。

 役者の肉体、その顔を中心にして書いた方がよかったのかもしれない。元警官と犯人。あるいは、まわりの警官、精神分析官(?)、検事--その顔と肉体。被害者の女の顔。少女の顔。元警官の助手の顔。
 元警官の顔は「だらしがない」。しまりがない。すくいがない。犯人は、陰湿である。ずるい。その肉体が絡み合う。そこへ、直接、事件そのものとは関係ない「第三者」の警官(事件を事件として追っている--元警官のように、自分の金づるの女を助けたいと思って追っているのではない警官)の、一種、覚めた肉体が割ってはいる。どうしても「肉体」はしっかりとかみ合わない。殴り合うことはあっても、相手の「肉体」の「痛み」のようなものは、まったく触れ合わない。どんなに傷ついても、その傷が互いに影響するわけではない。あくまで「他人」の傷である。
 人間関係がかみ合わないということは、日常でもよくあることではあるけれど、それは実は「頭」や「利害」がかみ合わないのではなく、ほんとうは「肉体」がかみ合わないのではないか、と思えてくる。他人の「肉体」を感じられなくなっているのではないかと思える。相手のちょっとした動作、表情--そこから相手の感情を読み取り、何かを理解するということがなくなっているのではないかと思う。
 犯人は、あたりまえのことかもしれないが、元警官が気にしていることなど、いっこうに気にかけない。女が心配? それが、いったい、どうした? その他人の痛みを感じない「肉体」、その「肉体」の存在感が、とてもすごい。とても不気味だ。そして、元警官は、人間的な痛みを感じない犯人の「肉体」にいらだつ。同時に、自分の「肉体」のいらだちに共感しない警官たちの「肉体」にいらだつ。
 現代は、「肉体」の共通感覚をなくした時代なのかもしれない。
 その「肉体感覚」の共有が失われたということを、俳優という特権的「肉体」をつかって表現した、これは、とてつもない映画である。
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『田村隆一全詩集』を読む(91)

2009-05-21 00:32:39 | 田村隆一
 「黒いチューリップ」という作品がある。「自由」について語っている。

「自由」
この言葉くらい厄介なものはない

 なぜ、厄介か。だれも否定できないからだ。「自由は悪だ」という人はいない。「自由」を否定できない。だから、厄介である。ある意味では「自由」はもっとも不自由なことばかもしれない。

「自由」
この言葉くらい厄介なものはない
クネッサンス・イデオロギーのおかげで
裸体の美女を拝むことはできたが
その代償に「自由」という不良債権を
人類はかかえる破目になった
(略)

「自由」を求めるなら 化学的な
ガス・チェンバー シベリアの強制収容所 三千万単位で粛清する強力な独裁者
その独裁者を創造するのだって 緻密な権力闘争の構造が必要だ
「自由」を求めたかったら まず「強制収容所」をつくること

 この引用部分の最後の行に、田村の「思想」が集中している。どんな「思想」でも、何かを否定し、破壊してはじめて誕生する。「自由」もまた何かを破壊した結果としてそこにあらわれてこなければ「思想」ではない。はじめからそこにあるものではなく、そこにあるものを否定する。破壊する。そのとき、その破壊の果てにあらわれてくるものが「思想」でなければならない。
 「自由」はそういう意味では、もっとも手にいれにくい「思想」なのである。
 そこに「自由」があるとき、それは「思想」ではない。破壊し、その破壊のなかで獲得しないかぎり、「思想」が手に入らないとすれば、「自由」は「いま」「ここ」に存在してはならないことになる。
 なんとも、厄介な「矛盾」である。

 そんな「矛盾」を書いたあと、この作品は、唐突に連を変える。

トルコの球根から
東洋と西洋との接点に黒いチューリップが咲きはじめる

 詩のタイトルの「黒いチューリップ」は出てくるが、この2行が、「自由」とどんな関係にあるのか、ここではなんの説明もない。
 わけのわからない「飛躍」がここにはある。
 わけがわからないけれど、この「飛躍」を私は美しいと思う。ことばには、こんなふうに「飛躍」する「自由」がある。そして、これは、田村の「自由」の実践なのだと思える。
 先に私が書いたこと、「自由」は破壊のなかから手にいれなければならない、というような「意味」を破壊して、この2行は存在する。
 「自由」は、いま、そういう形でしか存在し得ないのである。

 ことばは、どんなことばでも「意味」をかかえこんでしまう。「意味」の体系が(文脈が)ことばを拘束する。そこから、どうやってことばを解放するか。意味を叩き壊し、意味のない「自由」を獲得するか。
 それには、「頭」を捨て、「肉眼」になって、そこに存在するものを「見る」しかないのである。




詩と批評E (1978年)
田村 隆一
思潮社

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藤原菜穂子「雪の降りはじめた午後」、宮城賢「傘寿から惨寿へ」

2009-05-20 10:51:44 | 詩(雑誌・同人誌)
藤原菜穂子「雪の降りはじめた午後」、宮城賢「傘寿から惨寿へ」(「アンブロシア」25、2009年04月20日発行)

 藤原菜穂子「雪の降りはじめた午後」は犬小屋に置き去りにされた犬を描いている。その最終連。

二月 雪の降りはじめた午後おそく
犬は小屋から出て
娘の来る方向へ身を投げるようして倒れていた
長い鎖をぎりぎり引っぱって
暮れてゆく雪のむこうへ
飢えたたましいが跳び出した
こらえきれず 息絶えてしまった
娘はまだ来ない
雪は降る 静かな白い布を広げるように

 「飢えたたましいが跳び出した/こらえきれず 息絶えてしまった」の2行。「こらえきれず」がとても痛切である。



 宮城賢「傘寿から惨寿へ」は、人間の「死」と向き合っている。高齢になって、突然、食べ物が食べられなくなった。胃がうけつけなくなったのだ。今夜は肉料理だというけれど、食べられるだろうか。それを心配している。すると……

お父さん、もうちょっとの辛抱よ
そんな妻の声が聞こえる
ああ、さうだといいけどな
さうだわよ、きっと
妻には生者には見えぬものが見えるらしい
死者は偉大なものだ

 「もうちょっとの辛抱よ」。この「辛抱」は、藤原の描いていた犬の「こらえきれず」と同じものである。それにしても「もうちょっとの辛抱よ」はいいなあ。もう少ししたら、食べ物なんか関係なくなる、死んでしまえるから。生きていることとは、苦しみをこらえることなのだ。
 これは、死を受け入れはじめている、というより、生きることは苦しいことだということを受け入れはじめている、ということである。苦しいということを受け入れ、もうちょっと、もうちょっととこらえて生きる。
 「もうちょっと」はなかなか言えない。いつでも言えなければならないことばなのだろうけれど……。

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『田村隆一全詩集』を読む(90)

2009-05-20 00:02:33 | 田村隆一

 「一滴の涙」は短い詩だが、とても美しい。

サイトウ・キネン・オーケストラの
「 ザ・ウエイ・オブ・マイライフ」という
ロンドン初演の交響曲を
近所のオールド・ボーイ・スカウトの
元気な老人に教えられて
ぼくはNHK kw遺贈で聴いた 見た
作曲は武満徹 指揮は小澤征爾
混声合唱団と斎藤秀雄先生の優秀なお弟子さんたちの
オーケストラ テーマは ぼくの詩「木」と散文と対話

「時」が過ぎるのではない 人が過ぎるのだ

よく眠ること
よく歩くこと
ぼんやりしていること
みんなで美しくぼけましょう

歌手はバリトンのドワイン・クロフト
曲がフィナーレに入って小澤征爾の目から
一滴の涙がおちるまで
三十五秒

 私が特に美しいと感じるのは、「「時」が過ぎるのではない 人が過ぎるのだ」という1行と、その次の連である。小澤の演奏を聴きながら思い浮かんだことなのだろうけれど、それがどうして小澤の演奏と関係あるのか、小澤の演奏のどの部分と関係があるのか、明確ではない。けれども、そこには不思議な悲しみがある。寂しさがある。そして、その寂しさのことを考えると、「一滴の涙」のまえにおさめられている「養神亭」がとてもなつかしくなる。「養神亭」の最後の1行、

いくら探しても養神亭は消えていた

 ということばが。

 「「時」が過ぎるのではない 人が過ぎるのだ」という1行と「いくら探しても養神亭は消えていた」は、深いところで響きあっている。

 この「時」とは何なのだろうか。それは「時間」とは違うものなのだろうか。

その足で養神亭という明治創業の
古い割烹旅館を探して歩いた 大正十二年九月一日の関東大震災 その翌二日
第二次山本(権兵衛)内閣がこの宿で成立
昭和九年 ぼくは尋常小学校六年生
夏のあいだ滞在していた明治生れの祖父に呼び出されて
ぼくは横須賀線に乗って養神亭に泊った
その晩 六年生だというのに寝小便
明け方までからだを左右に動かして体温でオネショを乾かす
翌朝 夜具を押入れにつっこみ
なに喰わぬ顔をして ぼくは東京へ帰る

いくら探しても養神亭は消えていた

 「時」とは、たしかに「過ぎる」ものではなく、そこにとどまっているものなのだ。そこにあるものなのだ。「大正十二年九月一日」という「時」。「その翌二日」という「時」。「昭和九年」という「時」。それは探さなくても、いつでも、そこに「ある」。そして、その「時」と「いま」が結びついたとき「時間」が生まれる。「時間」のなかを「人」が、つまり「ぼく」が過ぎてきたことがわかる。「ぼく」は「ぼく」ではなくなっている。「ぼく」は「ぼく」ではなくなったのに、そこには「ぼく」というものが「時」と同じように「ぼく」のまま、残っている。「とき」とともに、そこに「ある(残っている)」。その、「残っている」ことが「時・間」の「間」なのだ。「時」と「時」「間」を「残っている」ものが埋める、つなぐ、そして「時間」になる。
 そして、その「残っている」ことのなかには、「ぼく」以外のものも含まれる。
 「時」と「時」の「間」で、「養神亭」もまた「過ぎて」、「養神亭」ではなくなっている。そして、なくなったこと、消えることよって、「養神亭」は「残る」。もし、消えずにいまも「養神亭」が存在するなら、そこには「養神亭」はない。
 「矛盾」である。
 この「矛盾」は「時間」、「時・間」を省略するために起きる。「時・間」のなかに「養神亭」が「ある」。そして、そこを「過ぎて」いるのだ。移動しているのだ。人間が移動する(成長する、年をとる)ように。
 「養神亭」が移動するというのは論理的にありえない。「矛盾」であるが、「矛盾」であるからこそ、いまも「養神亭」が存在するなら、そこには「養神亭」はないという「矛盾」をかき消すことができる。

「時」が過ぎるのではない 人が過ぎるのだ

 物理学なら、たぶん、こんなふうには言わない。「時」は過ぎる。また人も過ぎる。人の運動とともに「時」も運動する。運動の経過を数値化するために時という「物差し」が採用される。「過ぎる」という運動と「時」は分離不能である、というかもしれない。
 だが、詩は物理学ではない。だから、その論理を逸脱していく権利を持っている。詩のことばは「わざと」ことばは逸脱していくのだ。

「時」が過ぎるのではない 人が過ぎるのだ

 この1行は、「わざと」書かれたことばなのである。「よく眠ること」からはじまる4行も、「養神亭」にとまったとき寝小便をしたということも「わざと」書かれたことなのである。
 あらゆる「もの」(できごとを含む)は、それぞれの「時」とともに、いつも「そこ」にある。その「時」はどんなにかけ離れていても、「四千年まえの 二千年まえの 百年まえの」(「哀」より)の「時」であっても、「いま」と対等に結びつく。人間の「肉体」は4000前と1秒前を識別できない。その識別できないものを「頭」は識別し、「間」をつくりあげる。そして、その「間」を「肉体」がつなぐのである。

5分前 (1982年)
田村 隆一
中央公論社

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監督・脚本 テンギズ・アブラゼ「懺悔」(★★★★★)

2009-05-19 18:49:32 | 映画
監督 テンギズ・アブラゼ 出演 アフタンディル・マハラゼ、ゼイナブ・ボツヴァゼ、ケテヴァン・アブラゼ

 グルジアの映画は初めて見た。初めて見る監督の映画はいつもおもしろい。発想が新鮮なのだろう。個性的な発想が刺激的なのだ。
 この映画は「市長」の死から始まる。市長は埋葬されるが、そのたびに掘り出される。市長によって粛清された父を持つ女性が掘り起こしていたのだ。彼女は、市長は死なない、市長がやった「事実」は決して歴史からは消えない(忘れない)と裁判で主張する。彼女のした行為は、市長の告発であり、自分は無罪だという。
 ストーリーが寓意に満ちている。そしてその寓意を、「ことば」ではなく映像で見せる。最初の、「市長は死なない(死ねない)」も、ことばではなく、「死体」を掘り出しつづけるという行為で見せる。死体そのものを地下から掘り出して、見せる。そして、掘り出すのは、あくまで個人である。市長のしたことを明確に記憶している個人、被害者が、「過去」を掘り出すのである。掘り出すことで、「過去」を現代へと継承する。
 裁判での、彼女の姿勢、服装がとてもいい。毅然として、晴れ舞台の女優のようである。彼女はたしかに演じているのだ。「告発者」を、そして演じることで、裁判の場そのものを「劇」にする。「劇」にして、傍聴者を「劇」のなかに引き込み、現在を活性化させる。
実際、市長の家族の「現在」が、あばかれる「過去」によって、徐々に変化していく。

 裁判の被告の姿が「劇的」であるように、「過去」も「劇的」である。
 墓を暴いた女性の父親に、市長が横恋慕する。その時はまだ市長ではなく警官(警察の幹部?)なのだが、着ているコートが白い羽(?)でおおわれ、肩がせり出している。一目で「特別な人」とわかる。劇的なシーンでは、朗々とオペラのように歌を歌ったりする。「日常ではない」ということがひどく強調される。
 もちろん「日常」も出てくる。墓暴き女性の一家。彼女の子供時代。父は芸術家だが、まわりは「日常」である。服装も、彼女の一家は普通である。父はジャケットを着て、パンツをはいている。その「日常」があるだけに、市長(警察幹部)の、異様な感じが浮き彫りになる。
 また、粛清時代の、胸に迫るリアルなエピソードもある。父は粛清でシベリア(?)へ追いやられた。そこから街へ木材が届く。列車が大量の木材を運んでくる。少女は母と一緒に、その木材を見にゆく。木材に切り口には「名前」を刻んだものがある。「生きている」と連絡するために、粛清られ、労働を強制されている人たちが、必死の思いで自分の名前を刻むのだ。その名前を少女と母は探すのである。
 粛清時代の、ひとびとの「知恵」がそこにある。
そうしたリアルな現実が、他の幻想的に見える映像、寓意的に見える映像も、リアルなのだと告げる。あまりにもリアルすぎて、現実が現実に感じられない時があるが、その映像が寓意に見えるなら、それはたぶんそうした事情によるのだ。起きていることが強烈過ぎて、精神がそれを正確に受け入れられない。何かを欠いた状態、何かが強調された状態で、精神に刻印される。その刻印がそのまま映像として定着したために、幻想的な印象を生むのだ。

 ある意味では、この映画で告発されていることは「事実」を超越しているかもしれない。いや、そうではなくて、ここに登場する映像は、その裏付けとなる「事実」が不足しているために、いびつに見えるのかもしれない。墓暴き女性の告発だけではなく、もっと多くの告発が重なれば、いびつにみえたものの細部が補強され、歴史が正確になる。――たぶん、いや、絶対にそうなのだ。
 「市長(独裁者)は死んでいない」と女性がいうとき、それは、まだ死なせてはならないという意味でもある。「過去」は語らなければならない。「過去」を語ることだけが「未来」へと人を運ぶ。
 堅苦しくならず、笑いと華麗な映像で、この映画は、そういう「哲学」を語っている。



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全美恵「デオドラント効果」

2009-05-19 07:33:59 | 詩(雑誌・同人誌)
全美恵「デオドラント効果」(「さよん・Ⅲ」2009年05月10日発行)

 全美恵「デオドラント効果」には「鼻」ということばがたくさんでてくる。

鼻を明かしてやる
鼻高々なやつらだから
鼻で笑ってたこと わすれない
鼻にかけるところ だいきらい
考えただけでも 鼻息が荒くなってしまう

 「決まり文句」をならべ、それをならべているうちに「物語」ができてくる。その「物語」がときどき「決まり文句」から逸脱する。そのとき「意識」ではなく「肉体」がことばにまじってくる。それがおもしろい。

鼻汁(はな)たれ小僧たれてない時は 鼻水が乾いて その
そのハナクソをほじくってたの
まるくまるくおおきく丸めて
遠くに飛ばす競争してた・・・
私に当てるレンシュー?
ちがう・・・まさか

 このあと作品は「奴らのボスは団子っ鼻」という具合にまた「決まり文句」にもどるのだが、逸脱と「決まり文句」が並列にあるから、この詩は愉しい。
 「鼻につく」から「臭う」へと進んで、さらに、

目を閉じれば、見えなかったものが
いっぺんに見えてくるらしいわ
目を開けていると判らない
そんなものが
鼻先から入ってくるって
鼻ですべてを把握できるって
確かにそういっていたもの

 ふいに、ことばが「哲学」に触れてしまう。この瞬間がいい。「鼻」。匂いを嗅ぐとは、「空気」を「肉体」の内部に取り入れること。「肉体」の内部で、あらゆる「情報」は、あらゆる「感覚器官」によって教諭され、ひとつの感覚ではとらえきれなかったものがみえてくる。
 それは「真実」がわかるということ。「見える」ということ。
 でも、見えすぎてしまったら、どうする?

鼻に障害がある私には
鼻の利かないものには判らない
だから、見えるもの聞こえるものしか信じない
いままでも、これからも、ずっと
臭うものにはふたをして
鼻をつまんで生きていくわ

 全は笑い飛ばしてしまう。鼻が利かないはずなのに「鼻をつまんで生きていくわ」という決まり文句で逆襲する(矛盾を前面に押し出す)ブラックユーモア。
 「肉体」をもっている人間の健全さに満ちている。
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『田村隆一全詩集』を読む(89)

2009-05-19 01:18:46 | 田村隆一
 『帰ってきた旅人』(1998年)の「帰ってきた旅人」とはもちろん西脇順三郎のことである。 「哀」という作品に、田村と西脇の出会いが書かれている。

ぼくは十七歳の四月 早稲田の古本屋で
不思議な詩集を見つけて
東京の田舎 大塚から疾走しつづけた
ワインレッドの菊型の詩集をめくっていると
ほんとに手まで赤く染まってきて
小千谷の偉大な詩人 J・N
言葉の輪のある世界に僕は閉じこめられてしまって
古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし
イタリアの白い波頭に裸足のぼくは古代的歓喜をあじわって
だしぬけに中世英語から第一次大戦後の
近代的憂鬱に入る

 西脇のことばに触れる。そのとき、田村は西脇に触れているのか、それとも他の何かに触れているのか。

古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし

 この1行は、その疑問に何も答えてくれない。答えるのではなく、疑問を、さらにかきまぜる。「灰色の菫」。それは酒場であると同時に、ほんとうの菫である。菫が灰色というのは、ほんとうか。そんな菫があるのか。わからないけれど、いや、わからないから、それが本物に見える。ほんものの菫ではなく、ほんものの「ことば」に。
 田村がおぼえたもの--それは「ことば」なのだ。「ことば」が、そこにあるということなのだ。「ことば」があるとき、その向こう側にあるのは何だろうか。現実だろうか。意識だろうか。人間だろうか。時間だろうか。場所だろうか。すべてがある。そして、そのすべては一瞬のうちに、ことばを通って現実になる。感覚を、意識を刺戟するものになる。古代ギリシャも「灰色の菫」も酒場も、第一次大戦も、近代的憂鬱も、同じように存在する。そこには時間、空間、そして物質そのものの差異さえない。すべてが「等価」になる。すべてを「等価」にする--それがことばだ。ほんもののことばだ。

ぼくは五十歳 偉大なるJ・Nは八十歳
ハムレットの「旅人帰らず」という台詞がお気に召したらしく
J・Nはピクニックに出かけてしまったが
「じゃ現代はいったいなんなのです?」
おお ポポイ
哀ですよ
人は言葉から産れたのだから
J・Nは言葉のなかにいつのまにか帰っているのだ

 「言葉から産れ」「言葉のなかに」「帰っている」。この運動。運動がつくりだす「間」のなかに、東洋も西洋も、あらゆる時代が平等に存在する。等価に存在する。その「等価」を「等価」のまま輝かせるのが、詩、なのである。
 「等価」のなかで、ことばはの祝祭がはじまるのだ。

四千年まえの 二千年まえの 百年まえの
言葉という母胎に帰ってくる旅人たち
<四月は残酷そのものさ>
いつのまにか猟犬が鼻をつけ
まるでT・Sエリオットのような声で
ここ掘れワンワン
ここ掘れワンワン
吠えつづけている

 四千年前も、二百年前も、エリオットも花咲爺も同じ。それが、詩。いいかえれば、そういうものすべてを「等価」にしてしまうことばのエネルギー自体が詩なのだ。そこにあるのは秩序ではなく、秩序を破壊し、秩序からの解放なのだ。祝祭なのだ。
 ことば、ことば、ことば。
 ことばの、

ここ掘れワンワン
ここ掘れワンワン

 それがどこか。「ここ」と信じて掘りつづけるとき、詩が誕生する。




詩と批評E (1978年)
田村 隆一
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