詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」

2009-05-18 10:12:27 | 詩(雑誌・同人誌)
谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」(「スーハ!」5、2009年05月10日発行)

 谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」。「君」がだれであるか知らないが、私は、こういう書き方が嫌いだ。「こういう書き方」というのは、「君」という人間がきっとこうだという前提でことばを動かす書き方だ。ことばを動かすことで自分が動く、というのではなく、相手を動かす。動かしうる、と思って、ことばを動かす方法である。
 「こういう方法」を私は「嫌い」である。そして、「嫌い」と感じる理由は、そういうことばに対する向き合いかたが、「汚い」と感じるからだ。「他人」をこうだときめつけ、その領域へ他人を追い込むことで、自分を守る。そういう方法を、私は「汚い」と感じる。「汚い」ものは「嫌い」。私は単純である。
 しかし。
 この「汚さ」は悪くはない。「汚さ」をどれだけ貫けるか。ことばにとって問題なのは、それだけである。運動の領域だけが問題である。(ことばの「射程」という言い方もある。)私が好き・嫌いと感じることと、そのことばがもっている「可能性」は別問題であり、そこに「可能性」があれば、それは詩である。
 
沖野よぅ。という問いかけ方は君野氏にあるからしない
かなりむかし、下北沢大丸ピーコック近くの踏切を志し低くくぐり、
君に呈示したぼくの小説はもう時効になったかい?

 この書き出しの3行。「沖野よぅ。という問いかけ方は君野氏にあるからしない」といいながら、「沖野よぅ」と呼びかけている。この行為のなかにある「矛盾」。自分で呼びかけながら、こういう呼びかけかたは「君の」呼びかけ方である、と断定し、自分のしていることを「宙吊り」にする。「君」と「ぼく」との「あいだ」にぶら下げてしまう。
 その「あいだ」は、今風にいえば「空気」ということになるのだろう。
 谷合のことばは、いわば、そういう「空気」を汚染させ、その「濁り具合」を詩として呈示するというものである。
 冒頭の3行では、「ぼくの小説は時効になったかい?」が一番重要な要素のように見えるけれど、それは「空気」には触れていない。だから、それはこの詩では重要ではない。他のことばを動かすための「方便」である。
 冒頭の3行で、谷合がこころを砕いているのは「踏切を志し低くくぐり、」の「志し低く」である。そのことばに「空気」がある。「ぼく」が「肉体」から吐き出したものが、どんよりと漂っている。踏切をくぐるとき「志し」が「低い」か「高い」かなど、なんの意味もない。電車が来るか、来ないか。はねられるか、はねられないか、が問題である。踏切を渡るときには、志の高低など、「ぼく」の体のなかにとじこめておいていいもの、とじこめておかなねければ、社会が動いていかない。(事故が起きれば、それによって人が影響を受ける。)そういうほんらい、「肉体」のなかにとどめおくべくきものを、わざと吐き出し、「空気」を汚す。汚して見せる。そうして、その瞬間の、「君」の反応をみている「ぼく」。「空気」が「君」の反応によって、どうかわるか、それを見ようとしている「ぼく」。

 「空気」を描く。--それは「情緒」が個人のものではなく、「空気」に属するものだという判断があるからだと思う。そして、そのとき「空気」は「もの」ではなく、ただ「肉体」から吐き出された「口臭」で汚れつづける。

時代の方がぼくたちより逃げ足速く
ぼくのこころはすでに手におえない石をかかえていて
あふれるほどの友情を感じながらひとりはなれて
新宿ゴールデン街をさまよえば

 「時代の逃げ足」「手におえない石」「あふれるほどの友情」。何もない。具体的なものは何もない。具体的なことをいわないで、「空気を読め」と迫るずるさ。「ひとりはなれて」と偽装される孤独。「ぼく」をただひとりの純粋の「被害者」のように偽装する。そのための「口臭」。「肉体」から吐き出された、ことば。ことば。ことば。

だから、東北沢から下北沢への通路(パサージュ)をもう
忘れてしまったといっても怒らないでくれ

 「東北沢」「下北沢」という地名が喚起する「周辺」という意識、「パサージュ」という用語(わざと「ルビ」につかう手法)--それも「肉体」から吐き出された「口臭」である。汚いものを、全部吐き出して、「肉体」のなかの「空気」だけは新鮮にしておく。ずるくて、「汚い」、ことばの運動。
 この手法(ことばの運動)で作品が20篇、一冊の詩集ができれば、そこに詩が成立すると思う。おもしろい詩集になると思う。
 私は不勉強で(いい加減な性格なので?)、谷合の詩をこれまで読んできたかどうか、よくわからない。はじめて、読んだ--という印象がある。
 「スーハ!」には、谷合は、もう1篇「微動だにしてはならない」という作品を書いているが、「空気の汚染」という感じは弱い。

朝まだき、ゼラチン状の奇蹟
わが植物に滴るのは
翼を折られ恥じらう言葉たちの痛み
三〇〇〇光年に群れるものたちの後姿
ねむりとうつつのあわいで
ライフルを持ち乳房の厚い扉を撃つ

 2行目の「わが植物」の「わが」、5行目の「あわい」に「空気」への意志を感じるが、この詩では「空気」が「物語」と混同されている感じがして、とても残念である。
 2篇の詩を読むと、谷合がめざしているのはどちらなのか、よくわからない。「汚い空気」の方だったら、とても楽しみである。「汚い」ものは嫌いだけれど、嫌いだからこそ、また読んでみたい。どこまで嫌いと言い続けられるか、それを知りたい。


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『田村隆一全詩集』を読む(88)

2009-05-18 01:08:23 | 田村隆一

 「蟻」。この作品にはたしかに「蟻」が描かれている。それはそれでおもしろいが、私は、その「蟻」が登場するまでがとても好きだ。

秋は
あらゆるものを透明にする
神の手もぼくの視野をさえぎることはできない
小さな庭の諸生物も
鈴虫の鳴き声とともに地下に消えた

 この書き出しは「蟻」とは無縁である。そればかりか「蟻」を遠ざけている。「秋」は「蟻」の季節ではない。
 どうして、「蟻」が登場するのか。
 秋、日が落ちてしまったら、田村はひとりで旅に出る--と書く。そこから、ことばが動いていく。

ぼくの一人旅とは
まずポーカー・テーブルのスタンドに灯をつけて
三人の椅子にむかって
カードをくばるだけ
それから赤ワインをグラスにつぎ
おもむろに自分のカードを眺める 白波に消えた足跡の砂浜
グリーン・リバーという混濁した川が流れているロッキー山脈の小さな町
無数の生物とその毒素を多量に排出する南アフリカ
星座をたよりに航行する深夜の貨物船

ぼくは半裸体の漁師のペテロ
ぼくは廃屋の三階建てをたった一人でツルハシをふるっている青年
ぼくはペスト コレラ エイズ まだ持ち札はたくさんある
ぼくはマドロス・パイプをくわえた貨物船の船長
ぼくは熱帯にも寒帯にもコロニイをもっている蟻
蟻 おお わが同類よ
宇宙から観察したら 身長3ミリの蟻と
一七五センチのぼくとたいして変らない

 「蟻」にたどりつくまでに、田村は、さまざまな場所を通る。複数の人間になる。そして、ペスト、コレラ、エイズという病気になる。複数の存在になる。複数の存在になりながら、同時に、その存在を捨てる。一瞬のうちに、その生を生きて、それを捨てる。その過激な運動の果てに、「蟻」にたどりつく。
 したがって、そのとき、「蟻」とはまた、さまざまな生を生きてしまった何かなのである。「蟻」という存在のなかに、人間の複数の可能性を田村はみている。
 こういうありかたを「肉眼」というこれまでの田村の表現を借りて言い直せば「肉・蟻」というものが、ここでは描かれているのだ。
 田村が「蟻」を描くことで、その「蟻」は「肉・蟻」になる。「肉・蟻」から世界を見ると、「肉眼」で見た世界が見える。
 ここに、田村の詩のひとつの秘密がある。
 田村は、ぼくを描くが同時に、ぼく以外も描く。「他人」を描く。詩のなかで「他人」になる。それは、自分の「肉眼」ではなく、「他人」の「肉眼」で世界を見るためである。「他人」の「肉眼」こそが、田村自身の「肉眼」を育ててくれる。

全世界に分布している蟻は一万種 人種の総人口よりはるかに多い

ギリシャ神話では
アイギナ島の住民が疫病で全滅したとき
ゼウスは蟻をその住民に変えたという
さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
人間の世紀末
1999

 ゼウスが「蟻」を人間に変えたのなら、田村はことばで「ぼく」を「蟻」に変えるのだ。そして「肉・蟻」になるのだ。それは「肉眼」よりももっと、「未分化」の「生」である。

蟻と人間だけが一億二千万年も生きながらえてこれたのは

という行を手がかりにするならば、その「一億二千万年」の「いのち」そのものになる。「蟻」になることによって。そのとき「世紀末」はひとつの「断崖」である。そこには半裸体のペテロもツルハシをふるう青年もペストもコレラもエイズも同時に存在する。


青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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山本美代子『夜神楽』(4)

2009-05-17 15:09:29 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(4)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 山本が触れているのは何なのだろう。どの詩にも「対象」を超えた何かがある。「子守唄」には赤ん坊が登場する。

赤ん坊の 透き通った涎が 小さな唇から
するすると落ちて 無垢のひかりを集めてい
る 無防備な湧出 無辺際の水脈 なめらか
な輝く細い雫

 「涎」。「無垢のひかり」。このつながりはとても自然だ。赤ん坊の「無垢」としっかり結びついている。けれど、その「無垢」を「無防備」「無辺際」と押し広げて行くとき、それは「赤ん坊」を逸脱している感じがする。「赤ん坊」が「赤ん坊」ではなくなった感じがする。
 そして、

赤ん坊は重く 薔薇の蕾みよりも 藤の篭よ
りも てんとう虫よりも 繭よりもずっしり
と重いので 両の手に余る

 と、つづけば、それはもう「赤ん坊」ではない。人間の「赤ん坊」が薔薇の蕾、藤の篭、てんとう虫、繭より重いのはわかりきっている。そのわかりきっていることを「わざと」書くとき、両手が感じているのはほんものの「赤ん坊」の「重さ」ではない。三千グラムとか四千グラムという「重さ」ではなく、もっと「抽象的」な「重さ」である。「重さ」という「概念」そのものである。
 このときから「赤ん坊」は実在の赤ん坊ではなく、「赤ん坊」という意識である。

重い赤ん坊を抱いて 満開の桜が支えている
がらんどうの空の下を歩くと 赤ん坊のあと
を 灰色の象がついてくる なみうつ灰色の
皮膚 一片の花びらも零さず 息をつめてい
る花の下で 小さなあくびをする赤ん坊

 「重さ」。その充実とは対照的に「がらんどう」の空。その不思議な感覚の亀裂に「灰色の象」が侵入してくる。「灰色の象」って何? たぶん、だれにもわからない。わからない何かのために、花びらさえ「息をつめて」緊張している。
 「重さ」は実は「軽さ」でもある。不安でもある。「存在の耐えられない軽さ」とミラン・クンデラは言ったが、その「不安」に通じるものが、ここにある。「いのち」に対する「不安」である。「赤ん坊」とは生まれてしまった人間であるけれど、ここには何か、生まれる前の「不安」、「いのち」がつながることの「不安」のようなものがある。
 一般的に考えれば、「いのち」がつながるというのは「安心」だけれど、その「いのち」が「無垢」「無防備」であるがゆえに、「いのち」のつながりは「不安」にかわるのだ。「重さ」は「軽さ」にかわるのだ。
 象は、そういう「不安」の象徴かもしれない。「赤ん坊」が引き寄せてしまう「不安」、「赤ん坊」を見守るとき、「母」のなかにふっとわいてくる「不安」かもしれない。

赤ん坊を展いていく 花の透視図法 空の黄
金比 風の平均律 野の遠近法 水の屈折率
片端から欠けていく 物のかたちを埋めなが
ら 眠りつづける赤ん坊
赤ん坊が来た道を 老いた象が還っていく
ゆれながら遠ざかる 長い灰色の鼻

 「不安」の「遠近法」のようなものがある。「花の透視図法」「空の黄金比」「風の平均律」……。具象と抽象がぶつかりながら「不安」を定義しようとしている。その「迷い」のようなもの、「ゆらぎ」のようなもの。

 「子守唄」とは、「赤ん坊」をなだめるための歌、眠らせるための歌であるけれど、それを歌うとき、ひとは、ほんとうは自分のなかにある「不安」、「いのち」がここに存在するということに対するとらえどころのない「不安」と向き合い、それをながめようとしているのかもしれない。
 「赤ん坊」のためではなく、自分自身のために歌うのだ。「不安」が、「老いた灰色の象」が、「赤ん坊が来た道」、つまり「いのち」以前の世界へと還っていきますように、と祈りながら。

 「帰る」という詩の最後の2行。

無への ささやかな供物として 口を小さく
開けて 帰る

 あ、「帰る」とは「還る」でもある。山本は、「いのち」以前の世界、「無」の世界へ「かえる」何かがあることを知っている。「かえる」ことこそ出発することだと知っている。
 「象」は「還る」。そして、その「還る」という動きかあるからこそ、「赤ん坊」が「来る」(生まれる、生きる)ということもある。「還る」と「来る」は切り離すことのできない「いのち」そのものの動きなのだ。「還る」と「来る」を常に往復しながら(同時に行ないながら)、人間は存在している。
 山本が触れているのは、そういう「存在形式」である。存在の運動のありかたである。



遠野―詩集
山本 美代子
花神社

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『田村隆一全詩集』を読む(87)

2009-05-17 00:53:21 | 田村隆一
 「他人」をことばのなかに引き入れながら、田村のことばはどんどん自在になる。どこへでもゆく。「アブサン」は、そうした作品群のなかにあっても傑作である。
 最終連。3行

この世の外(そと)なら
どこだっていいさ
どこだって

 どこだって「歩きたい」。1連目の書き出し「ぼくはまだ/砂漠を歩いたことがない」を手がかりにすれば、ここには「歩きたい」が省略されている。「歩きたい」は「行きたい」と同義だろうと思う。そして、そう思った瞬間、その「行きたい」は「生きたい」でもあるということに気がつく。「生きたい」はこの詩のタイトル「アブサン」(Absent」(不在)の反対語である。存在したい。どこででって、存在したい。「この世の外なら」。
 「この世の外」はふつうは「死後の世界」のことだが、田村にとっては「死後」ではなく、「生まれる前」(未分化の領土)である。
 そのこと、「この世の外」が死後ではなく、「未分化の領土」であることを語るために、この詩のことばは動いている。
 ジャン・ギャバンの主演した『地の果てを行く』から、ロートレックを経て、砂漠ではなく「断崖」をイギリスに求めて歩いたことを書き、次のようにことばは展開する。

一篇の詩
その一行 一行が断崖だとしたら
作品ははじめて死体からよみがえる
そんな作品が書けたら
北アフリカの砂漠を歩いてみるか
「アブサン!」

 「断崖」ということばは田村のひとつの理想である。いま引用した連の前(第3連)には、「ぼくは断崖そのもののような詩が書いてみたい」ということばがある。それは「この地」と「他の場」との絶対的な境目である。直立し、切り立ち、そこには「死」が隣り合わせにある。「生」と「死」が向き合ったまま、「垂直」に駆け上る。あるいは、落下する。どちらへ行くかわからない。そういう緊張した「場」である。
 そういう「場」で、

作品ははじめて死体からよみがえる

 「死体」と「よみがえる」(生)。矛盾したものが拮抗する。生から死へではなく、死から生へという動き自体が「矛盾」しているが、この「矛盾」こそ、田村のことばをつらぬくエネルギーのすべてである。「矛盾」が、互いを破壊しながら、矛盾を超越して、止揚とは無関係な何かになってしまう。「この世」にあるものではなく、「この世の外」にあるものになってしまう。
 「アブサン」(不在)の存在となって、北アフリカの砂漠を、ジャン・ギャバンのように。いや、ジャン・ギャバンを超越して。
 それは実際に歩かなくても歩いたことになる存在の仕方だ。
 ことばが、そういう「場」を獲得するなら、そこはいつでも「生」が「不在(アブサン)」の、つまり「死」でありながら、そこからはじまる「生」であるという「矛盾」なのだから、「ここ」は「ここではなく」、「ここ」であることが「北アフリカの砂漠」であるという「矛盾」を引き寄せてしまうからである。歩かなくても歩いたことになる。行かなくても、行ったことになる。それがことばの運動というものである。
 そして、田村によれば、そういう「運動」を「ことば」ではなく色彩と線で、つまり、絵画で達成したのがロートレックである。
 ロートレックを「語り直し」て、田村は次のように書いている。

ロートレックの最晩年の「砂漠」は
ムーラン街24番地
モンマルトルの娼婦の館(やかた)こそ
心という絶えず移動する水平軸
魂は断崖と砂漠をつなぐ垂直軸
肉だけで構成されている砂嵐のアトリエで
男の油彩も三百点の石版も
十九世紀最後の十年間に稲妻のごとく仕上げられたもの
十九世紀以外に「世紀末」はない

この世の外なら
どこだっていいさ
どこだって

 「この世」(十九世紀)を超越して、魂は、ここではないどこかへ、存在しない「場」を生きる。「存在しない場」であるからこそ、「アブサン(不在)」であることが「生」である。人は死ぬことで生きるのである。
 田村のことばは矛盾のなかで、矛盾を叩き壊しながら、輝く。



僕が愛した路地 (1985年)
田村 隆一
かまくら春秋社

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山本美代子『夜神楽』(3)

2009-05-16 09:04:54 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(3)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 「ふるさと」という作品。その冒頭。

わずかな種火を求めて ふるさとへ降りてい
く そこでは 近親憎悪の うすい血をそそ
ぎながら ひとふりの短刀が 鍛えられてい

赤く溶けて ゆがんだ鉄に 向かい合って
重い槌を 打ち下ろしている者がいる
阿吽の呼吸でつなぐ 父と子 祖父 曾祖父
はるかずっとむこうまで つながっている

 これは刀鍛冶、製鉄(たたら)のことを描いているのかもしれない。そして、「阿吽の呼吸」とは、その作業のときのリズムを指しているのかもしれない。しかし、私は、それとは違うことを感じてしまった。
 いのちのリレーというか、血のつながりを考えるとき、私はどうしても「母」をとおして考えてしまうが、あ、そうか、父の側(男の側)にも、血のつながりはあったのか、とふと思った。
 そして、その父から子への交代。そこに、山本は「阿吽の呼吸」を感じている。その「阿吽の呼吸」ということばに、「つながり」の強さを感じた。「阿吽の呼吸」とは別個の存在の呼吸なのだが、別個であるからこそ「阿吽」という関係が成り立つ。(ひとりでは「阿吽」はありえない。)そして、別個であるからこそ、その「阿吽」の関係が濃密になる。「阿」と「吽」で一対になる。そのときの「見えない意識」。それを山本はじっと見ている。

 この詩にはつづきがある。私は、わざと、「つながっている」までで引用をいったん中断したのだが、つづきは……。

阿吽の呼吸でつなぐ 父と子 祖父 曾祖父
はるかずっとむこうまで つながっている
男たちの修羅 燃え盛る炉 飛び散る火花
鞴の熱い風 火の過剰 火の爆発の寂しさ

 これも、蹈鞴の作業の継承を描いているといえばそれだけなのかもしれないが、「男たちの修羅」ということばが、そういった「労働」の継承以外のことを感じさせる。
 父と子の争い。そして、交代。「阿吽の呼吸」。それは、静かに、無言で、「肉体」が反応し合って、はじめて成り立つ。
 「ふるさと」というのは、そういう「阿吽の呼吸」を濃密にする。「血」をつなぎ、継承する作業が、修羅と阿吽の呼吸で、男たちのあいだでつながっていく。「父」の「女」を「子」が奪っていく。奪い・奪われる一瞬は「阿吽の呼吸」である。それが、いまもあるかどうかは問題ではない。そういう交代劇が、「肉体」のなかにひそんでいる。それを山本は見つめ、そういう劇が存在する「場」が「ふるさと」だといっているのだ。
 あ、そうか、そういう見方があるのか。私は、びっくりしてしまった。「いのち」というものは、女と男が協力して「つなぐ」ものだけれど、その背後には、また男の密約のようなものもある。「阿吽の呼吸」がある。そういう「阿吽の呼吸」の「場」が「ふるさと」だ。
 このとき「ふるさと」とは、具体的な地名であると同時に、ひとつの「場」を超えて、「神話」につながる「場」でもある。

低い軒の下で 一本のローソクをともす 消
えがての わずかなぬくもり それを 両手
で囲って 水の上に移すと 魂のようにあか
るんで 灯籠は 川を流れてゆく 女たちの
溟い海まで
土塀のように崩れている 喪壊われた時間の上
に やがて 冷たいひとふりの短刀が ひっ
そりと置かれる

 「女たちの溟い海」は「子宮」に、「短刀」は「ペニス」に見える。「喪われた時間」とは「阿吽」の「阿」と「吽」の「間」のことに思える。それはほんとうは「喪われ」てはいない。「間」があるから「阿吽」なのだが、それをあえて「喪われている」と否定することで、「時間」を動かしている。過去から、未来へ。
 「肉体」には「過去」も「未来」もない。「いま」しかない。けれど、「人間」の「いのち」を「歴史」のなかで眺めるなら、たしかに「過去」や「未来」はあると考えた方が考えを押し進めるとき都合がいい。(簡単にものごとを考えることができる。)「阿」「吽」はつながっていて、分離できないもの、まじりあっているもの、融合したものなのだが、「間」をあえて導入した方が、ここまでが「阿」(たとえば「過去」)、ここからが「吽」(たとえば「未来」)と「図式化」するのには都合がいい。

 私は、たぶん、とても奇妙なことを書いているのだと思う。山本の詩から逸脱して、かってに自分の考えていることを書いているだけなのかもしれない。誤読を拡大しているだけなのかもしれない。--けれど、誤読こそが、詩を読む楽しみ(文学の楽しみ)なのだから、もう少し、誤読を重ねる。
 「血のつながり」(いのちのちながり)を、私は、長い間、女(子宮)と関係づけて考えてきた。子宮のなかで育まれるいのち。子宮のなかで育まれて、育てられていくいのち。たしかにそれはそうなのだが、女のみでは、子宮のみでは、いのちはつながらない。そこには男の介入がある。そして、そこには男の死がある。女たちは、子宮のなかでいのちを育て、そこから「生まれ変わる」。それに対して、男たちはただ死んでゆく。死んでゆくことが「阿吽」の呼吸を活かすことなのだ。

 女性から見れば、そういう「人間の歴史」があるのかもしれない。そう見えるのかもしれない。男は死んでゆけ、女はいつまでも生まれ変わってやる--というと、たぶん、いいすぎになるのだろうけれど、そんなふうに見える世界を、山本は、わざと「男の阿吽の呼吸」を前面に出すことで、その裏側に、隠しているのかもしれない。


方舟―詩集 (1968年)
山本 美代子
蜘蛛出版社

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ロン・ハワード監督「天使と悪魔」(★★★)

2009-05-16 08:44:31 | 映画
監督 ロン・ハワード 出演 トム・ハンクス、アィエレット・ゾラー、ユアン・マクレガー、ステラン・スカルスガルド

 前作(?)の「ダビンチ・コード」はさんざんな映画だった。映画なのに、ひたすら「文字」を映している。まるで本を読んでいる感じだった。その印象が強すぎて、今回の映画の採点は甘くなっているかもしれない。前作ほど、ひどくない。その「ひどくない」がふつうの映画という感じになる。(ほんとうなら★★くらいの映画だろう。)
 今回も「文字」がカギをにぎっているが、「土」「水」「火」「空気」というだれにでもわかることばなので、「文字」が重要という意識があまりない。それがよかったのだろう。
 「文字」、しかも「鏡文字」の一種、左右対称というキーも、最後の瞬間に、うまくいかされている。ユアン・マクレガーの胸に刻印される文字が、天地が逆になる。それはなぜ? この瞬間だれが犯人かわかるのだが、その処理が簡潔なので、なかなかいい。あとで、その瞬間に犯人探しのカギがあった--というような、うるさい「解説」がないのも、とてもいい。(小説には、その部分の解説があるかもしれない。トム・ハンクスが、「あそこで気がつくべきだった」というような反省?として、ひとことくらい漏らしているかもしれない。映画よりは、はるかにていねいに、たぶん一番ていねいに描写されているだろうと思う。)
 映像として見るべき部分はあまりなく、見せ場の「反物質」の爆発と、その影響などあまりにもばかばかしいところがある。真上から爆風がくるのにパラシュートがなんの役に立つ?というひどいひどい矛盾がある。小説では、その矛盾は、まあ、目立たないだろうけれど、映像では「嘘」がみえすいてしまう。「反物質」の爆発自体が、「ザ・エンド・オブ・デイズ」の核爆発のきのこ雲を背景にしたキスシーンと同じようにひどいけれど……。
 映像として見せ場がない部分は、ひたすらローマ市内を移動することでごまかしている。改修中の聖堂や地図といった小道具で、「意識」をかきまぜたり、整理したりというのもいいし、最初のトム・ハンクスのプールの水泳(吹き替え、だね)の伏線も無理がない。前作の評判がよくなかった(?)ので、ずいぶん改良しようとした感じがする映画ではあった。



アメリカン・グラフィティ [DVD]

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『田村隆一全詩集』を読む(86)

2009-05-16 01:41:22 | 田村隆一

 「他人」を語り直す。それは「アフリカのソネット」にとてもわかりやすい形であらわれている。書き出し部分。

第一次世界大戦の数年前
「ぼく」はケンブリッジ大学の自然科学部門のカレッジの奨学金を得たとき
まだ十七歳 一年待たなければ入学できないから
パリをうろついてフランス語を勉強したり
北アフリカの エジプトに近いスーダンまで足をのばしたり
そこで偶然珍らしい甲蟲(ビートルズ)を見つけることになる

 田村は詩の登場人物の主語に「ぼく」をつかう。この詩でも「ぼく」ということばがつかわれている。しかし、この詩の「ぼく」は田村自身のことではない。(ぼく、ということばそのものも、カギ括弧のなかに入っていて、田村自身ではないことを明確にしている。)「オズワルド叔父さん」のことである。田村の叔父さんではない。ロアルド・ダールの長編小説のなかに出てくる主人公である。田村は、その小説の主人公になって、「ぼく」といっている。(小説は、田村自身が翻訳している。)
 そこに書かれることは、したがって「小説」の要約ということになる。
 そのビートルズからは「世界最強の媚薬」を作ることができる。
 「ぼく」は、つまりオズワルド叔父さんは、次のようなことをしている。

まんまと媚薬を製造すると クラスメイトの美女と共謀して
世界的天才の精液を冷凍庫に密閉し 金満家の有閑夫人に高値で売りつけるベンチャービジネスを開始する
指導教官は自然科学の老教授

精液を採取された人物を列記する--
アインシュタイン フロイト ストラビンスキー ピカソ 「蝶々夫人」で有名なプッチーニ プルーストにいたってはペニスがエンピツより細かったと女学生に報告させている

 なぜ、田村は、こういう「語り直し」をしたのだろうか。たぶん、小説の翻訳だけでは物足りなかったのだろう。翻訳をとおりこし、「オズワルド叔父さん」を生きてみたかったのだろう。自分のことばにしてみたかったのだろう。自分のことばにして、「オズワルド叔父さん」を生きるとき、何が見えてくるか。「オズワルド叔父さん」の「肉眼」に何が見えてくるか。

クローンは一九〇三年にH・ウエッバー博士が名付けた遺伝子の結合体。クローンによる最初の生物は蛙。現代ではクローン猿。どんなに厳重な国際的監視下でもクローン人間は誕生する。

近く自然人の芸術は消滅するだろう ソネットが聞きたかったら
アフリカへ行け
新鮮で猛毒のウイールスの群れの
音のないソネット
 
 田村の「肉眼」は、「音のないソネット」を「聞いた」。「見た」のではなく「聞いた」のである。ここにはふたつの「越境」がある。「肉眼」は「耳」ではないのに「音」を聞いてしまう。しかも、それは「音のない音」という矛盾を内包している。たむらは「他人」になることで、そういう領域にまで越境していく。そういう領域にまで、「田村」自身を「破壊」していく。
 「他人」を語ること、語り直すこととは、「田村自身」という「枠」を破壊し、「肉・ことば」になることなのだ。
 「他人」を語るということは、「他人」の「時間」を自分のなかに引き入れることでもある。「他人」の「時間」が、田村ひとりでは体験できなっかたものを感じさせてくれる。田村自身の「枠」を破壊するのを手伝ってくれる。
 「他人」とは、「肉・ことば」の「教授」なのである。



オズワルド叔父さん
ロアルド・ダール
早川書房

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山本美代子『夜神楽』(2)

2009-05-15 09:49:41 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(2)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 山本美代子の「身体感覚」はとても自然だ。まず小さく動いて、それから徐々に大きくなる。そのため動きに不安定さがない。
 「アンダンテ」

直立歩行を始めてから ひとはいつも 首の
あたりが寒い 地熱がこいしくて なずなの
微小な花に目をとめたりする 水溜まりに映
る 空の深さ

 「首のあたりが寒い」というのは、ごくふつうの表現だけれど、この「あたり」という幅のもたせかたが不思議に山本のリズムである。「身体感覚」である。「首筋が寒い」でもいいのかもしれないけれど、それだと「肉体」が限定される。「あたり」というひとことが、「肉体」と「空気」をなじませる。その「なじむ」広がりがあるから「寒い」→「熱」→地熱という動き、首(肉体)→空気(あたり)→地という動きがとてもスムーズになる。あ、山本は、いつもこんなふうに「肉体」を「空気」(世界)のなかでなじませながら生きているのだな、と自然に分かる。だから、地→なずな→花、という動きが自然だし、地→水溜まりが自然だ。そして、そこに一気に侵入してくる空。水の中で地と天が融合し、しかも「浅い」はずの水溜まりが「空の深さ」によって活性化される。
 ただ一方方向へ広がっていくのではなく、その方向と逆、あるいは垂直にまじわる方向へも広がり、世界が立体化する。そして、その「立体」のなかに「肉体」が位置をしめる。その確かさが、とても自然で、とてもいい。

歩くはやさで通りすぎる 今 歩くはやさで
感じる やわらかな純粋 弾む抽象
同じ高さで移動していく こころと身体 ゆ
っくりと運んでいく 刺

 「肉体」の確かな位置があるから「やわらかな純粋」「弾む抽象」もなじむ。「やわらかな」「弾む」のなかに「肉体」のイメージが侵入してきているからだ。「頭」ではなく、「肉体」の手触りのようなものが侵入してきているからだ。
 科学や論文では、こういう「肉体」の侵入は不純物になる。つまり、なんのことかわからない、あいまいな言語の混乱になるが、詩では、この「混乱」が世界の豊かさにつながる。異質なものが(定義不能なものが)ことばに侵入してきて、それが定義不能であるからこそ、その定義不能を超えて何かが動くのである。それは山本のことばを借りて言えば「こころと身体」という「結びつき」そのものである。「こころ」と「身体」ではなく、「こころと身体」という結びついたものが、そのまま動くのである。
 そして、唐突な、



 説明が省かれた、この一語。
 それは「純粋」「抽象」を「こころと身体」で言い直したことばだ。「比喩」だ。「概念」になる前の、つまり「頭」で整理される前の「こころと身体」が、直接とらえた、ことばにならない「状態」(空気)そのものだ。
 「刺って何?」と聞かれたら、私は、それについてどう答えていいかわからない。わからないけれど、わからないからこそ、そのことばが「真実」だと感じる。

 山本の「肉体」が広がっていくのは「空間」だけではない。
 「遠くへ」。その書き出し。

まもなく 遠くへ行ってしまう ひとがいる
ので 時間の堰の 水位が増していく

 山本の「肉体(こころと身体)」は「時間」も「あたり」(首のあたり、のあたり)を自然に引き寄せる。「まもなく」が、なんとも不思議である。「遠くへ行ってしまう」はこの詩では「死ぬ」ことである。その「死ぬ」という現象と、「まもなく」が「あたり」の感覚で融合する。
 うーん、そうか。
 私は、そううなってしまった。
 私は父の死に目にも母の死に目にもあっていないので、その死の瞬間を知らない。兄が死んだときは立ち会ったが、まだ若くて、死そのものがなじみのないものだった。そのときの時間の動きが、よく思い出せない。しかし、そうか、「まもなく」という感じで、時間が「肉体」に近づいてくるのか、それは堰に水がたまるような感じか、と不思議に納得してしまった。

まもなく 遠くへいってしまう ひとがいる
ので 向こう岸からのまなざしが ときおり
入り混じる リンゴは目の前で 四次元の球
体を強固にし 言葉は 意味を追いかけて
迷走をはじめ 脳髄までとどく 水仙の香の
なかで 手の位置 足の置き場所を はじめ
てのように探す

 そして、山本の「時間」は「向こう岸」の「時空間」を引き寄せる。「まもなく」という「あたり」の感覚が、そういうものを呼び寄せてしまう。
 なんとも不思議で、なんとも魅力的である。
 人が死ぬのを「魅力的」といってはいけないのだろうけれど、あ、その、彼岸と此岸が入り混じった「時間」(あたり)を見てみたい、と思わず思ってしまった。
 でも、この感覚は、やっぱりとても強烈なのだろう。
 その後の山本のことばは少し乱れる。「言葉は 意味を追いかけて 迷走をはじめ」が正直で、とても気持ちがいい。そして、その迷走のまま(?)、次の「脳髄までとどく」の主語がわからなくなる。主語は「迷走」する「言葉」? 「意味」? それとも「水仙の香」?
 このわからなくなる感覚がいい。とても自然だ。言葉、意味、水仙の香が融合して、区別のつかないものになる。その実感がいい。山本に「肉体」があるように、「言葉」や「意味」「水仙の香」にも「肉体」があるのだ、と気づかされる。山本の「肉体」は、そういう「肉体」とも交感している。響きあっている。

 これはすごいことだなあ、と、ほーっとため息が漏れる。
紡車―山本美代子詩集 (1979年)
山本 美代子
芸風書院

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『田村隆一全詩集』を読む(85)

2009-05-15 00:39:20 | 田村隆一

 「春画」は金子光晴のことを描いている。

男は三十二歳 昭和三年に女房をつれて
日本脱出の計画をたてる
この男の「計画」は場あたりだが
パリへ行きたくても大阪までの汽車賃しかない
そこで 上野の美校の日本画科に半年ほどいただけだが
清長風の押し売り用の春画を描きまくって
長崎まで
モデルは大阪では胴長柳腰の日本女
長崎ではオランダの微風が目にささやいてくれるから
日本女でもバタ臭くなる しかし目は
なかなか多彩な花を咲かせてくれる球根にはなってくれない
春画を売りつづけて やっと上海まで
目は南画風だが多彩な色彩が生れる

 この詩にかぎらないが、田村のことばの動きは不思議だ。何かをたんたんと書いているように見える。ここでは、金子光晴のことをたんたんと書いているように見える。しかも、その金子光晴の姿は何かが特別変わっているわけではない。(と、思う。)田村が書くまで、だれも知らなかったという「事実」は書かれていない。それにもかかわらず、なぜか、引き込まれて読んでしまう。
 そして、思うのだ。
 詩とは、新しいことを書かなくてもいい。知っていること、知られていることを、そのまま書いても詩である。
 ただし、条件がある。
 そのことばには詩人独自の語法がなければならない。ことばがなければならない。自分のことを書かなくても、(他人のことを書いても)、そこに詩人自身の語法・文体があれば、そこには詩が成立する。

 今年の3月、私は伊藤比呂美と偶然話す機会があった。そのとき伊藤は、彼女の詩は「語り直し」なのだと言った。自分の体験を語っているのではなく、すでに語られたことを語り直す。それが、詩。語り直すとき、そこには彼女自身のすべてが反映される。そして、詩が誕生する。伊藤の「声」で語れば、それが伊藤の体験でなくても、伊藤そのものの体験したことになる。語り直しとは「他人」になることだが、「他人」になることが伊藤そのものになることなのだ。「伊藤」であることをやめ、「他人」になったとき、「伊藤」が生まれるのである。矛盾→破壊→誕生。その動きが、「語り直し」のなかにある。
 田村のこの詩もほとんどが「語り直し」である。
 金子光晴という人間の「語り直し」である。そして、語り直すとき、そこに田村の「こだわり」、つまり田村自身の「声」がつけくわえられる。「時間」がつけくわえられる。
日本女でもバタ臭くなるしかし 目は
なかなか多彩な花を咲かせてくれる球根にはなってくれない

 「目」へのこだわり。それは「肉眼」へのこだわりと同じである。
 田村は、金子の描いた「目」の変化をおいながら、その「目」が単に「目」なのか、「肉眼」なのか見ようとしている。それはそのまま、金子の「目」が「目」のままなのか、それとも「肉眼」なのか、それを見極めることである。
 「多彩な花を咲かせてくれる球根」--それが「肉眼」である。「肉眼」で対象を見れば、その対象から多彩な花が咲き始める。「いま」「ここ」にはない花が咲き始める。その多彩な花が「春画」のなかにあらわれないかぎり、金子は「肉眼」を手にいれていないことになる。
 その金子の姿を描くことで、田村自身が、「肉眼」を手に入れる。金子になる。金子にぴったり重なる。(金子を、自分の「理想」として引き寄せる。)

男は男娼以外のあらゆる労働に従事しながら
東南アジアのゴム園で汗をながし 近代世界の原罪を
白色と夕食のナショナリズムのエゴイズムを
一九三〇年代のヨーロッパの危機を
骨の髄まで体験する それにつれて
春画のモデルも多様化せざるをえない
黒い人 白い人 黄色い人
男の放浪 地と汗の放浪は十年におよぶ
男は金子光晴という筆名で不朽の詩集『鮫』を刊行する

 男は画家だったはずである。しかし、春画を描いているうちに、ことばにたどりついてしまった。この越境。それは、田村が常に思い描いている「肉体」の越境と重なる。目は見るのではなく、聞く。耳は聞くのではなく触れる。舌は味わうのではなく見る……。そんなふうにして「越境」することで、目が「肉眼」に、耳が「肉耳」に、舌が「肉舌」になるように、絵は、その線と色は、「肉・線」「肉・色」になる。その「肉・線」「肉・色」が「肉・ことば」である。
 だから、「不朽の名作」になる。ことばは単にことばなのではない。そこに書かれていることばは「肉・ことば」なのだ。他のものから越境してきたもの、他のもの(ここでは絵画だが)を破壊して誕生したものなのだ。
 そう書くことで、田村自身「肉・ことば」を手にいれるのだ。

 「語り直し」。それは、金子光晴だけを「語り直し」ているとき、何を書いているか、はっきりとは見えにくいかもしれない。金子光晴のこと、みんなが知っていること、春画を書いていたが、ある日、詩集を出した。それは不朽の名作『鮫』である、というのでは田村が書き直す(語り直す)までもないではないか、という印象を与えるかもしれない。
 しかし、違うのだ。
 田村は、金子は春画を描きながら「肉・ことば」の世界に到達した、と書いているのだ。それは、田村しか書けないことである。
 その「肉・ことば」で、別な人を「語り直す」--そういう試みをすると、その「肉・ことば」の動きがどんなものか、どんなに個性的かわかる。つまり、田村にしか書けない世界かがわかる。「語り直し」は創作である。発見である、ということがわかる。

アインシュタインよ どうして
十六歳の美少女と恋愛しなかったのだ
彼女の陰毛の下に 核分裂と融合の
化学方程式を薔薇の形で刺青(いれずみ)にしておけば
二十世紀は灰にならずにすんだのに

 ここに描かれた「アインシュタイン」。それは金子光晴の「肉眼」(肉・ことば)と、田村の「肉・ことば」が描き出すアインシュタインである。
 この5行は、いわば、「反歌」である。それまでの金子の描写(金子の半生の語り直し)という長歌にたいする反歌。
 ふたつは向き合うことで、互いを照らし、そこに「ことば」そのものを浮かび上がらせる。「肉・ことば」の力を、浮かび上がらせる。

 田村のことばは「他人」を語り直すことで「多彩」になっていく。その世界をひろげていく。田村の詩が多彩なのは、それが田村自身の「体験」にことばを従属させるのではなく、「語り直し」という運動のなかでことばを解放するからである。



僕が愛した路地 (1985年)
田村 隆一
かまくら春秋社

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山本美代子『夜神楽』

2009-05-14 09:11:01 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 山本美代子の感覚が共振している世界はとても深い。広い。
 「帰る」。

結婚斑をつけた サクラマスのように 小さ
く口を開けて帰る 未生の記憶のなかの 肌
に添う 懐かしい水のある処まで

 これは神楽を舞い終えて舞台を降りる役者(演者)の姿であろう。呼吸が荒くなって、もう口が自然に開いてしまう。それでも、まだだらしない身体を見せたくないので、そっと口を開いている。押しとどめている。その姿からマスを連想している。人間とマスが重なる。そして、その重なりの中に、「いのち」が浮かび上がる。
 「未生の記憶のなかの 肌に添う 懐かしい水」。それは「口に含む水」「飲み水」を超えて、「いのち」を抱いている水、羊水のように感じられる。
 「水」をくぐり、「水」のなかで、生まれ変わる。生まれ変わるというのは、誕生するということでもある。水の中には「いのち」のドラマがある。そして、そのドラマのなかで、あらゆるものが入れ代わる。人間はマスになることができる。また人間は、神楽の登場人物になることができる。もちすん、その登場人物から人間に、マスから人間になることもできる。「水」によって。「羊水」のなかで育てられてきた「いのち」が「水」からでて、「水」を飲む。肌に添っていた水が「肉体」のなかを流れる。そのとき、ふたつの「水」はとけあっている。「肉体」そのものが「水」になっている。だからこそ、マスにもなれるのだ。

河のかたちに蛇行したあと すべて海に消え
る物語を遡る 膨張するピポポタマスの 重
量をかきわけ 人の顔をした鳥の飛跡を追っ


 「海に消える物語を遡る」。このことばのなかにある反対の方向の運動の統一。川は山から海へ流れる。マスは海から山へ帰る。遡る。最初に引用した部分には「未生の記憶」ということばがあったが、「未生の記憶」へ帰るのも、時間を「遡る」ことである。
 過去を耕す。時間を耕す。そのとき、あらゆる「いのち」が出合う。--山本の思想・哲学は、そこにある。

夜神楽を舞う若者は 同じ平面で 飽かず 
繰り返し旋回する ひとつ回って 取り外す
地のえにし ふたつ回って 振り切る 肉の
しがらみ かぞえきれず回って 幻暈のロー
トの中 限りなく覚めている現存
海への ささやかな供物として 口を小さく
開けて 帰る

 「現存」ということばが思わず出てくる。しかし、それをすぐにサケの「口を小さく開けて」という姿に引き戻す。ことばを必ず具体的な描写へかえす姿勢に、山本の思想のたしかさがある。広さがある。広いから、どこへ還っても「いのち」のかたちになる。

 「指」は薔薇と指の関係、指さすものと指さされるものの関係を描いている。

よあけ 開きはじめた 薔薇の蕾を指差し
て 薔薇色の色彩に染まる指

 指さすことは、対象になることなのだ。何かを認識するということは、何かになることなのだ。「マス」とことばにすればマスになる。薔薇とことばにすれば薔薇になる。かけ離れたふたつのものをことばがつなぐとき、そこでは「いのち」がつながっている。

よる 闇の中で 色彩の無い薔薇を指差しつ
ずける指 約束は永遠に守られるだろう
薔薇は咲ききって ある刻ふいに崩おれて 
散る 指差したものに指差される 死すべき
ものの 感触のある指
弥勒菩薩の頬に添えられた 指差すことのな
い しなやかな 指の形

 だが、ほんとうに弥勒菩薩の指は何も指さしていないのか。何も指ささないということは「無」を指さすと言い換えてもいいかもしれない。きっとそうに違いないと思う。
 「指差したものに指差される」とは、川を遡るマスの運動に似通ったところがある。そこではふたつの逆向きの、つまり対立する(矛盾する)運動がある。対立・矛盾の「場」というのは「無」に通じる。「無」とは「明確なひとつの形(運動形式)がない」ということであって、何も存在しないということではない。どこにでもエネルギーはある。「いのち」の運動がある。そして、その運動は、何かに逆らうようにして常に動いている。矛盾を超越して動いている。そういう「場」が「無」である。(「帰る」の最後にでてきた「無への ささやかな供物」というときの「無」も同じである。「未生」としての「場」である。「未生」は未だ生まれていないではなく、これから生まれる、という意味である。「未来」が未だ来ないではなく、これから必ずやって来る、という意味であるように。)

 指は、何かを指さすことで「無」に触れるのだ。そうであるなら、ことばもまた、何かを「指さす」ことで「無」に触れる。



 蛇足だが「指差しつずける指」は「つづける」がいいだろう。「帰る」の「幻暈」は私は「眩暈」と読んだ。

山本美代子詩集 (1982年) (日本現代女流詩人叢書〈第11集〉)
山本 美代子
芸風書院

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『田村隆一全詩集』を読む(84)

2009-05-14 00:34:26 | 田村隆一

 「油」には「物」が出てくる。すでに田村が何度か書いている。「物」。

枯れ草の細い道を歩いて行くと
「物」つくっている仕事場にたどりつく
むろん
「物」は人が作るのだが その人も
「物」にならないければ「物」はうまれない
人間が「物」になる仕事場には
どんな秘密がかくされているか

 これでは堂々巡りである。なぜ、堂々巡りが起きるのか。「定義」が不完全だからである。「物」とは何なのか--その「定義」が不完全である。
 「物」とは何?
 「物」とは単なる存在ではない。「物」と抽象的にいわれているのは、それが「抽象」でしかいいあらわすことのできない存在だからである。「机」「椅子」あるいは「機械」という個別の名詞をもった存在ではなく「物」。個別の存在ではなく、存在を「個別」に存在させる前の、「未分化」のものが「物」と呼ばれているのだ。
 何かを作るとは、その素材を破壊し(○○をつくるための「素材」という概念から解放し)、その素材の新しい可能性を引き出すということである。こういうことができるのは、こういうことをするためには、まず人間は△△という素材は○○をつくるためのもの、という概念を叩き壊さなければならない。人間が自分のもっている(自分がしばられている)概念を叩き壊し、概念のない状態=物になってしまわなければならない。概念のない状態、概念というものがうまれてくる前の状態になってしまわなければならない。そういう状態になって△△という素材を見ると(「肉眼」で見ると)、それは○○をつくるためのものという「枠」がら解放されて、何につかっていいかわからない存在になる。何につかうかという「分化」が起きていない状態、「未分化」の状態になってしまっている。
 そこからしか、「物」はつくれない。

 「概念なし」--これを、田村は「無私」と言い換えている。

「物」が「物」を作る
無私とはこういうことかと ぼくは観察するよりほかにない

 この「無私」の「無」は「カオス」(混沌)の「無」と同じである。何もないのではなく、そこにはエネルギーはある。エネルギーを形にする定まった様式がないというだけである。様式なし、「未分化」のエネルギーだけがある。「私」は「分化」していない。「人間」そのものになっている。「肉体」そのものになっている。

 この「無私」をさらに、田村は言い換えている。

「私」を滅却するためには若干時間がかかる

 「私」を「滅却」した状態が「無私」である。「私」が存在しなくなった状態が「物」ということになる。「私」が「私」であることをやめ、「未分化」の「いのち」そのものになったとき、素材もまた△△という名前であることはできない。むりやりいってしまえば「無・素材」というものになる。名前のないもの、「未分化」のものになる。「未分化」のものが出会い、そこで、いままでなかった「分化」の化学反応をおこす。
 核融合をおこす。
 そのとき「物」は誕生する。
 そして、その運動、化学反応のためには「時間」がかかる。

 「時間」とは「他人」のことだ。「私」を否定する力のことだ。「私」を否定するがゆえに、それは「物」でもある。
 あ、また、堂々巡りにもどってしまった……。




詩人のノート―1974・10・4-1975・10・3 (1976年)
田村 隆一
朝日新聞社

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佐藤恵「ティア(みずうみ)」

2009-05-13 06:15:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤恵「ティア(みずうみ)」(「スーハ!」5、2009年05月10日発行)

 佐藤恵「ティア(みずうみ)」は、亡くなった人を送る。その静かな感じがとても気持ちよく響いてくる。

わたしたちはひとりびとりの胸に
ちいさな骨壺をさげて
今昇ってきた月光をたよりに湖を渡って行く
湖面に敷き延べられた銀の浮き布よ

重みのあるものはこの白い骨片(かけら)だけあとは捨ててきたので
かかとのまるみだけ沈んでも
ゆらめきながら渡って行くのだ

静かな摺り足のささなみ
かそけき骨の鳴き音
さぎりのような葬列

 「重みのあるものはこの白い骨片あとは捨ててきたので」という1行が痛切だ。この1行には、ふたつの文がある。「重みのあるものはこの白い骨片」と「あとは捨ててきたので」。「あとは捨ててきたので」は最初の文につけくわえた補足、理由説明である。ふたつの文の間には、論理上の呼吸がある。しかし、その呼吸をこの1行は消してしまっている。ふたつの文を密着させている。論理上は切り離せても、心情的に切り離せないからである。そのこころの動きがそのまま「肉体」を動かす。
 ここから、ことばは、論理とは違ったものを描き出す。

かかとのまるみだけ沈んでも
ゆらめきながら渡っていくのだ

 物理の論理では、人間は湖を(水面を)渡ることはできない。けれど、その「肉体」がこころであるときは、そこには「物理の論理」は働かない。そういう論理の超越を、あるいは特権ともいうべきものを、「重みのあるものはこの白い骨片あとは捨ててきたので」という1行がつくりだしている。
 改行や1行あきには、それぞれ意味があるのだ。
 「かかとのまるみ」のかかとは、骨壺を持つひとのかかとであるはずだが、論理が物理を超え、こころと「肉体」が融合したものについて語るとき、その「肉体」もまた死者の「肉体」と一体になっているような感じがする。かかとは、亡くなったひと自身の、美しいかかとでもあるのだ。
 だから「かそけき骨の鳴き音」ということばも生まれる。死者は泣かない。骨は泣かない。泣くのは、生きている人間、骨壺をもった人間である。けれども、このとき、亡くなったひとと、骨壺をもつ人間は一体になっているので、骨壺をもっているひとが泣けば、それにつられて骨もまた泣くのである。「泣かないで」といって泣くのである。
 最後の3行。これは、とても美しい。

昇りきった者たちもまた
しずくほどの重みを与えられ
おびただしい雨粒となって還ってくる

 湖の水分が天に昇り、そこで冷やされて雨粒になって降りてくる--と読めば、これは気象の動きそのままである。けれど、私には、佐藤が書いている「雨粒」は「雨粒」ではなく、「涙」というふうに感じられる。
 亡くなったいとしい人は、涙となって、佐藤の「肉体」へ還ってくる。涙を流すとき、佐藤は、その最愛のひとと「肉体」としてひとつになり、静かに交流している。

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『田村隆一全詩集』を読む(83)

2009-05-13 00:32:40 | 田村隆一

 『1999』(1998年)の「美しい断崖」。繰り返し田村が書いてきたことが、ここでも書かれている。「肉眼」の問題である。

ネパールの草原では月は東に陽は西に
その平安にみちた光景には
心を奪われたくせに
「美しい断崖」にはなってくれない
きっとぼくの眼は
肉眼になっていないのだ
ただ視力だけで七十年以上も地上を歩いてきたにちがいない
まず熟性の秘密をさぐること
腐敗性物質という肉体のおだやかな解体を知ること

 ある対象を見る。それは「視力」の仕事である。「肉眼」の仕事は「対象」を超えて何かを見る力である。それは「対象」の向こうにあるのではなく、その内部にある。「対象」の内部にあって、「熟性」するもの。
 「腐敗性物質」とは人間のことだが、その「肉体のおだやかな解体」とは何だろうか。死だろうか。それとも生だろうか。それは死であり、誕生である。ふたつが結びついたものだ。田村にとって、あらゆる存在は、生と死のように矛盾したものが固く結びついている。その結びつきこそ「美しい断崖」だ。生にとって死は断崖。死にとっても生は断崖である。矛盾したものがぶつかるとき、そこに「断崖」があらわれてくるのだ。

愛が生れるのはその瞬間である
視力だけで生きる者には愛を経験することはできない
生物は「物」である
生物の本能もまた「物」である
だが
視力が肉眼と化したとき
物は心に生れ変る たとえ
地の果てまで旅したとしても
視力だけでは「物」は見えない

肉眼によって
物と心が核融合する一瞬
一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある

 「視力」が「肉眼」になるためには何が必要か。「ぼく」の解体である。「ぼく」だけにかぎらないが、あらゆる存在は「形」をもっている。視力が見るのは「形」である。その内部ではない。
 「本能」ということばを手がかりに考えてみる。「本能」は「人間」の(あるいは生物の)内部にある。その内部こそ、田村にとっては「物」である。(外部は「物」にはなっていない。「物」以前の何かである。)
 視力が「肉眼」になるとは、「視力」が「内部」を見る力を獲得するということだが、それは「内部」そのもの、本能そのもの、「いのち」そのものに生まれ変わることと同義である。
 「視力」が「内部」のもの、「肉眼」になったとき、あらゆる存在の外部は解体し、形が存在する前の、「未分化」の存在になる。あらゆるものが「未分化」の状態で平等に結びつく。
 「人間」の内部にあるもの。それは、たとえば仮に「心」と呼ばれたりする。
 「肉眼」によって、「心」と「物の内部・本能」が出会う。そのときのことを、田村は強烈なことばで書いている。

核融合する一瞬

 それは単なる「融合」ではない。「核融合」。激しい爆発。出合った「心」と「物」が融合するだけではなく、そのとと、その周囲にあった存在もすべてとかして爆発する。世界が一変する。そういう瞬間。

 矛盾→解体→生成。田村のことばの特徴として、そういうことを何度か書いてきたが、そのときの生成は世界の破壊でもある。

一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある

 消えないもの--それは何か。破壊する力である。核融合は「未分化」そものもさえも破壊するかもしれない。それは、矛盾した夢である。けれど、矛盾しているから、そこに、ほんとうの何かがある。田村の夢がある。祈りがある。



半七捕物帳を歩く―ぼくの東京遊覧 (1980年)
田村 隆一
双葉社

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北川朱実「ロバの来る日」、橋本和彦「木の哲学」

2009-05-12 08:39:49 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「ロバの来る日」、橋本和彦「木の哲学」(「石の詩」73、2009年05月20日発行)

 北川朱実「ロバの来る日」は、ブラジルの村のことを描いている。ロバが本を背中にかついでやってくる。移動図書館である。

とても会いたかった人に会うときのように
大人も子供も
装いを正して木陰に集まってくる

開いた本に木漏れ日があたって
文字が
ゼリービーンズのようにはね

黒いアゲハ蝶が
古い布の切れはしみたいに
少女の肩で休む

 「とても会いたかった人に会うときのように」が美しい。「正装して」ではなく「装い正して」ということばの流れが美しい。そして「文字が/ゼリービーンズのようにはね」の改行がとてもとても美しい。改行があることによって、ことばを探している「間」と、ことばがその「間」の向こうからあらわれてくる新鮮な感じがいい。ことばにならなかったものがやっとことばになった、という印象を引き出す「間」。「間」によって生まれる飛翔感。その「いま」「ここ」という時空間が破られた印象(錯覚?)があるから、次のアゲハ蝶の3行が不思議な世界になる。
 それはほんとうのアゲハ蝶? アゲハ蝶が少女の肩から本をのぞきこんでいるのか。あるいは、ゼリービーンズのように本の中から飛び出してきた蝶が肩にとまっているのか。現実なのか。比喩なのか。
 そこから、ことばが「思考」にかわってゆく。

卵からかえったばかりの雛を
両手で包むようにしてページをくる少年は
ふと顔をあげ
文字を指さして何かを言おうとした

それは
初めて人間が言葉を持つ
瞬間のような表情だった

 いま、少年は、「卵からかえったばかりの雛」そのままに、「人間」に生まれ変わっている。ことばとともに、人間は生まれ変わるのである。
 生まれ変わると、どうなるか。

私は気づいていた
文字を旅して帰ってくると
彼らはすこし無口になることに

日暮れて
私たちの上空を
真珠色に光る蝶の群れが
一すじの川になって渡っていった

 ことばとともに生まれ変わると人は「無口になる」。ことばを知ることが人を無口にする。それは矛盾である。矛盾だから、そこに真実がある。その無口を「肉体」のなかでしっかり吸収し、それから人はやっと話しはじめるのである。そのとき、ことばは初めて「思想」になる。
 北川の書いている「一すじの川」は現実なのか、比喩なのか。私は「天の川」と思って読んだ。ことばを知ったとき、ことばは、それまで見えていたものを、違った形にしてしまう。ブラジルのこどもたちがことばを知った。そして、彼らがことばを知ったということを知って、北川も生まれ変わる。そのとき、「天の川」は「天の川」ではなく、新しいことばで呼ばれることを欲する。その願いに答えるようにして「真珠色に光る蝶の群れが/一すじの川になって渡っていった」ということばが生まれる。
 
 今夜、私は、北川が見た「天の川」が見れるだろうか。見てみたい。そう思った。



 橋本和彦「木の哲学」は「木」をテーマに橋本自身の存在形式の夢を語っている。「木を満たすのはそれぞれの語彙と語法であり」という1行が出てくるが、橋本自身も、自分を満たす語彙と語法をひたすら追求している。

木の表皮が厚く無骨であるのは偶然ではない
気のない面はそれぞれで全く異なっており
一本一本が全く別の生き物とも言える程だが
内面集中度の高さにおいては近似している

 「内面集中度」ということばに橋本の理想が託されている。


人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社

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フォン・イェン監督「長江にいきる秉愛(ビンアイ)の物語」(★★★★)

2009-05-12 06:19:10 | 映画
 長江に計画されている三峡ダム。水没する村。その立ち退き交渉。ドキュメンタリー。
 ここに登場する「おかあさん」がすごい。夫は病弱。こどもが二人。とても貧しい。とても貧しいのだけれど、家族を愛している。いまの暮らしを愛している。立ち退きはいや、と最後まで抵抗する。最後は、役人にだまされるようにして(?)家を追われる。
 むかし、愛し合った男がいた。けれど父親に反対されて、いまの夫と結婚した。ふつうは恋愛し結婚するのだが、私の場合は結婚して、そのあと恋愛がはじまったというようなことから語りはじめる。流産したことや、堕胎したことなども、「暮らし」として、しっかり語る。
 仕事は農業。土地と向き合い、土地と暮らす。そこには土地さえあれば、人間は生きて行けるという思想がある。立ち退きを拒むのも、いま、ここで世話をしている(?)土地とはなれたくないという思いがあるからだろう。別の土地、ではなく、この土地というこだわりがある。
 そのことを雄弁に語るエピソード。「おかあさん」が夢の話をする。「いつも古里の夢を見る。いまの土地の夢を見るようになったのは、ここに住んで20年ほどしてからだ。魂は体ほど自由に動けない」。
 感動してしまった。
 生きるとは、こういうことを言うのだ。自分の体験していることを、しっかりとことばにする。自分で語る。そうすると、そこにおのずと「哲学」が顔を出してしまう。「魂は体ほど自由に動けない」というようなレトリックを「おかあさん」はどこかから学んだわけではないだろう。確かに高校までは卒業しているが、そこに描かれる日々の暮らしに本など出てこない。雑誌や新聞、テレビも出てこない。こどもの「宿題」が出てくるくらいである。けれど、そういう暮らしのなかでもことばは哲学の高みに到達する。自分のことを「正確」に語りさえすれば。
 映画は、このことばに呼応するように、土地をしっかりととらえていた。それは肥沃な土地ではない。荒れた土地である。しかし、その荒れた土地を少しずつ耕してサツマイモ(だと思う)やトウモロコシを育てる。ミカンを育てる。野菜、果物は、その手入れに応じて実る。裏切らない。荒れた土地なのに、みどりはしっかり生きている。その、裏切らないものへの愛着があるから、土地を離れたくない。役人の「ことば」ではなく、土地を信じる。
 最後に、役人のことばの攻撃にどうすることもできなくて、家を立ち退かざるを得なくなるシーンには涙が流れてしまう。風が吹き荒れる高台で念書を書かされるのだが、そのとき「おかあさん」は、気持ちが昂っていて、どう書いていいかわからない、と役人に助けを求めるしかなくなる。
 あ、役人は、「おかあさん」から土地だけではなく、「ことば」まで奪ってしまったのだ。なんという横暴。なんという暴力。「念書なんか、書いたらだめ」とこころの中で叫んでみるが、もちろんスクリーンには届かない。
 無念、という気持ちがわいてくる。映画が終わっても、しばらくは席を立てない。最後は「字幕」で「おかあさん」の行く末が語られるのだが、もう一度、あの、強い顔を見たい、もう一度スクリーンに写し出されないものか、と強く強く願った。

 いつの日か、また、あの「おかあさん」の強い顔が戻ってきますように。「木靴の樹」の最後で、「ミネク、幸せになれよ」と祈ったように、「おかあさん」の幸せをこころから祈らずにはいられなかった。


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