詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」

2010-10-23 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」(「未来」2010年10月号)

 きのう読んだ小林稔の詩は難解だった。ことばを追いきれない。「その」が何を指しているか、特定できない。そこでつまずいていると、他のことばが、それぞれのことばを突き破るようにして動いていく。動いていることはわかるが、その軌跡がはっきりしない。複雑に入り乱れ、先へ進にしたがって、それまでの「文脈」の修正を要求してくる。「その」ということばで指し示しているはずのものが、どんどん「過去」へ遡っていく--そういう感じがする。
 こういう難解な詩を読むと、何か、思想とか、哲学とか、そういう高尚なものに触れたような気持ちになる。
 けれど、哲学(形而上の問題?)はややこしいことばの運動の中にだけあるのではない。一見、簡単そうに見えることばのなかにもある。それは簡単そうに見えるだけで、実は簡単ではない--ということを、大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」は書いている。
 「リンゴ」という詩を取り上げている。

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここにある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 この作品について、大橋は次のように書いている。

一つのリンゴ、その存在を「まぶしい」と感じられるまで見尽くすのである「リンゴの/この大きさは/このリンゴだけで/いっぱいだ」という杵築は、まどさんにとって、なんという深い驚きであったことだろう。

 「形而上」のことがらを大橋は「深い驚き」と書いている。哲学とは深い驚きである、ということになる。
 哲学は難解なことばによって語られるだけではなく、だれもが知っている「リンゴ」を題材にして、だれもが知っていることばだけでも語られる。いや、そういうことばの動きこそ、哲学というのにふさわしい、ということかもしれない。
 なんといっても、ことばは共有されてことばになるのだから、毎回テキストをそばにおいてでないと語れないようなことは、まだ「哲学」にはなりきれていなことばである、ということになるかもしれない。
 あることばが「深さ」をもてば、それが「思想」である、と大橋は言うかもしれない。私は、この大橋の考えに賛成である。どんなことばでも、それが「いま」「ここ」にある「深さ」と別の「深さ」をもてば、そこには「思想」が存在する、と思う。
 ちょっと、話を変える。

 最近、読者(山内聖一郎さん)から「思想」に関連してコメントが寄せられた。私は書かれている「内容」よりも、書き方(文体)にこそ「思想」を感じるが、山内聖一郎さんは私とは違ったふうに考えている。ひとの考えは違っているからこそおもしろいのだが、まど・みちおの詩を、「文体」から見ていくとどうなるか。そのことを書いてみたい。
 まど・みちおの詩には、山内さんの考える「思想」(答え)はないかもしれない。けれど、私の考えている思想(文体)がある。
 大橋が感心している「リンゴ」の2連目。私も、この連が非常に好きだ。「いっぱい」の発見も好きだが、その「いっぱい」に至る過程--文体に、「思想」を感じる。

リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ

 「この」が繰り返されている。「この」だけではなく、この詩では、すべてが繰り返されているのだか、その繰り返しの「思想的」特徴が「この」にとてもよくあらわれている。
 「この」がなくても、「意味」としては、かわらない。ひとつのリンゴの大きさはリンゴの大きさだけでいっぱいである。ほかのものを含んでいない。リンゴ以外のものを含まないまま、リンゴは「いっぱい」である。
 人間は、そういう具合にはなかなかいかない。人間は、じゃなくて、「私」はと言い換えないと語弊があるかもしれない。「その人」だけで「いっぱい」の「人」もいるかもしれないけれど、そして、そういうのが「私」の「理想」でもあるけれど、私の場合は、そんな具合に「私」ができあがっていない。いろんなもの、あからさまにいえば他人の考えや他人のことばがまじっていて、とても「私でいっぱい」という具合にいかない。
 でも、まあ、そういう「理想」のことを語るよりも……。

 「この」がなくても、意味はかわらない。けれども、まど・みちおは「この」をつかって書いている。それは、なぜなのか。--そういうことを、私は考えるのである。

 この連にあらわれる「思想」としての「この」、その「文体」について考えたことを書こう。(大橋さん、大橋さんの文章に対する感想から逸脱していくけど、許してくださいね。)
 「この」とある存在を特定する。そして、その「この」を繰り返す。そのとき、「この」ということばとともに反復されるのは「もの」ではなく「思考」であると私は考える。「この」とことばにすることで、「もの」から(つまりリンゴそのものから)ことばは離れ、思考そのものを動かす。リンゴはそこにある。思考はリンゴのまわりを動きはじめる。
 「この」を繰り返すとき、その「この」は同じものであって、同じではない。同じであるけれど、微妙に違う。どこが違うのか説明は難しい。あえていえば、「意識する」という精神のありようが違う。「意識する」という精神の動きによって、「もの」は「意識」になる。--あ、こんな書き方ではな、なんの説明にもならないねえ……。
 「この」がないと、「この」の繰り返しがないと、

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

 へとことばが動いていかない。
 「この」という意識は「あること」と「ないこと」を結びつける存在なのだ。それは「接着剤」を通り越して、完全に「融合」している。
 繰り返すことは、分離することである。繰り返すためには、対象を離れなければならない。対象にくっついたままでは、動けない。
 「この」(対象)と「この」(意識)は離れている。そして、離れることが「融合」につながる。繰り返しが「融合」への一歩なのである。それは「ある」と「ない」と同様、ことばにすると「矛盾」するが、その「矛盾」はさらに「融合」によって「矛盾」することで、「いま」「ここ」になかったものを見えるようにする。
 何かを意識し、それを繰り返すとき、最初の何かが変質する。その変質を次の「この」が追いかけるとき、そこに、そのひとのもっている「精神」そのものが動きはじめ、「思想」を形作りはじめる。
 そんなことを、私は考えた。

 大橋は「未来」2010年09月号では、三好達治の「雪」を取り上げていた。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎を眠らせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

 何か私には納得できないことを書いていたので、何が書いてあったか忘れてしまった。(申し訳ない。)その詩で私が考えたことは(感じたことは)、実は、まど・みちおの「リンゴ」の詩に感じることと同じである。
 繰り返しが「思想」の文体である、「思想」は繰り返しの中から生まれる。
 「雪」では「太郎」「二郎」になっているが、私はそこに書かれている「太郎」も「二郎」も知らないから、「太郎」はほんとうは「二郎」であり、「二郎」はほんとうは「太郎」かもしれないとも思う。区別はできないけれど、そこにあえて区別を持ち込むなら、最初の1行と、その1行を少しずらす形で反復(繰り返し)した2行目があるということになる。繰り返すことではじめて、そこに「太郎」と「二郎」が生まれてくるのだと考える。
 最初の1行を「現実」とすると2行目は「意識」である。繰り返すことで「現実」と「意識」が分離し、そこに「現実」と「意識」が生まれてくる。
 ことばは繰り返すことによって、世界は「現実」から離れ「意識」へ踏み込むのだ。そして、この「遊離体験」が、読者を誘い込む。私たちは「現実」の「太郎」「二郎」を知らない。けれど、三好が「太郎」「二郎」とだれかを呼んでいるという世界を知る。そして、そこには雪が降っているということを「現実」としてではなく、三好の意識した「意識世界」として追体験する。私たちの「意識」が三好の「意識」に重なる。「二郎」になってしまう。
 実際に2軒の家があり、そこに「太郎」と「二郎」が眠っていたとしても、「太郎」のあとに「二郎」を繰り返すとき、読者は(私は)、「二郎」になってしまう。「二郎」になって、私の屋根に雪が降り積もる、そして私は眠るという世界が広がってくる。

 ある存在をことばにする。そして、そのことばを繰り返すとき、私たちは「もの」ではなく、何かを語るということの不思議さ、語るときに意識が集中し動くということを知る。その動きの中にこそ「思想」がある。何を使って、どう動くか--「文体」そのものが「思想」になるのは、そういうときである。
 「リンゴ」にもどる。

リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ

 最初の「この」はまど・みちおが持ち込んだ「リンゴ」そのものを指す。ところが次の「この」は、さらにその「リンゴ」そのものを意識する意識によって成り立っている。「意識」しないことには、「この」ということばは動かない。
 ひとつのものを繰り返す。繰り返すことで「集中」する。その「集中」のなかに、「思想」が動いてくるのだ。
 この「集中」を、大橋は「アリ」というまど・みちおの詩に触れながら、次のように語っている。

文字通り「穴のあくほど」対象を見つめるまどさんの尋常一様でない目がある。見つめ過ぎて「いのち」と「からだ」の区別もなくなった激しい光景が出現している。

 見つめること、それをことばにすることによって、「いのち」でも「体」でもないものになってしまう。その運動を大橋は「思想」(形而上)と呼んでいるのだと思う。
 どんなことばにも、見えるもの(対象の描写)と、見えないもの(対象を描写する意識)がある。そして、その意識の運動は、それがどんな形で書かれようと「思想」である。好き嫌いはあっても。



十秒間の友だち―大橋政人詩集 (詩を読もう!)
大橋 政人
大日本図書

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志賀直哉(16)

2010-10-22 23:56:03 | 志賀直哉
「山鳩」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「山鳩」の最後に、「末つ児」の最後にでてきた「相にく」と通い合うことばがある。「意味」ではなく、そのことばのかかえこむ領域が似ている。
 目になじんだ山鳩の夫婦。その一羽が友人によって撃たれ、どうもそれを志賀直哉は食べてしまったらしい。いつも二羽で飛んでいた山鳩が一羽で飛んでいるのを見て、気が咎めた。
 そんなことを話したのかもしれない。次の猟期がきたとき、当の友人にちょっと語りかける。

 「今年は此辺はやめて貰はうかな」といふと、
 「そんなに気になるなら、残つた方も片づけて上げませうか?」
と笑ひながら云ふ。彼は鳥にとつては、さういふ恐しい男である。

 山鳩にとって必ず命を奪われる「恐しい」相手。文章に書かれているのは一義的な意味は、そうなる。しかし、そこには別のにおいがある。山鳩が恐ろしがるというよりも、そこには志賀直哉が感じている恐ろしさが含まれている。
 山鳩を平気で殺すことよりも、志賀直哉が「気になるなら」、その気になるものを片づけてしまえば、気になることそのものがなくなるから大丈夫じゃないか。そう考えるときの、思考の論理が怖い。この論理は、山鳩には関係がない。関係してくるのは、志賀直哉である。
 けれども、それをくだくだと書いてしまうと、友人の姿がぼけてしまう。書きこみすぎて、友人の輪郭がことばに飲み込まれてしまう。だから、そういうことは書かない。書かなくてもわかることは書かずに、読者に想像させてしまう。
 そうすると不思議なことが起きる。
 読んだ文章は非常に短いのに、読むことで動いたこころ(想像)は、はるかに長い。志賀直哉は「恐しい」とだけ書いてあるのだが、私はそのことをめぐって、ここに書いたようなことを感じ、それをことばにする。志賀直哉の書いたこと以上のことばが私のなかで動く。
 そのとき短編が長編にかわる。
 志賀直哉の小説はたいがいが非常に短い。しかし、読み終わると実際の長さの何倍にも感じる。それは志賀直哉の書かなかったことばを、読者がかってに考え、補うからである。充実したことばとは、そういうものだ。
 だから、読みはじめると、何度でも同じところを読み返してしまう。

和解 (新潮文庫)
志賀 直哉
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小林稔「髀肉之嘆(三)」

2010-10-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「髀肉之嘆(三)」(「ヒーメロス」15、2010年09月10日発行)

 小林稔「髀肉之嘆(三)」はよくわからない。難解である。そして、そこがおもしろい。

闇を攪拌(かくはん)する肉の鋏は、たとえば巨大な蟹のそれに似て夜の眠りをむさぼるように棲息しつづけ、夜具に被われた幼年の肢体を捕らえる。海のふところに頚(くび)を抱かれ、頭髪を藻のように静かな流れに遊ばせ、私は陽光の名残りをその肌に感じ入る。

 「肉の鋏」とはなんだろう。わからない。そして、そのわからないものが、すぐにわかりきったものとして登場する。「巨大な蟹のそれに似て」の「それ」は「肉の鋏」であろう。この瞬間、わかるとわからないが逆転する。「肉の鋏」そのものがわからないのに、「巨大な蟹の鋏」がわかるために、「肉の鋏」は「巨大な蟹の鋏」が「肉」になったものとして見えてくる。
 これで、いいのかな? 何か、だまされていない?
 「巨大な蟹のそれに似て夜の眠りをむさぼるように棲息しつづけ」のなかには、「似て」と「ように」と類似のことばがでてくる。「似て」は「ように」と書き換えられるはずである。ここでは比喩が二重に動くことで、そこに書かれているものが「もの」ではなく、「比喩」する認識だということがわかる。
 「比喩」とは一般的に何かの「もの」をわかりやすくするために用いられるが、小林は逆に使うのである。「比喩」を増殖させ「もの」をわからなくする。「肉の鋏」は「比喩」が増えるたびに、それが何であるかわからなくなる。
 そして、わからないということが、何かをわかりたいという欲望のように感じられる。「比喩」を重ねるたび、何かから遠ざかり、遠ざかることが、そのもの「認識」するという運動そのものに重なるのである。

 私は、たぶん、とても変なことを書いている。奇妙なことを書いている。

 「闇」と「眠り」と「夜具」が通い合い、「攪拌する」「むさぼる」「棲息する」「捕らえる」が呼びあう。小林のことばは、ことばがことばのきちんとした積み重ねの論理を破って動く。ことばの運動がことばによって破られる。しかも呼びあいながら、互いを破るのだ。
 ことばが、ことばそのものとしてうまくつながらない。衝突する。互いを破壊する。その瞬間に、ことばにはならない何かが一瞬見える--見えたと錯覚してしまう。
 その見えたと思う瞬間、実際には見えない何か。そこに、詩が動いている。「もの」としてではなく、動きそのものとして動いている。つまり、そこにはエネルギーだけがあって、「もの」は明確な形のまま崩壊するのだ。

 「もの」は明確な形のまま崩壊する--ああ、変だねえ。矛盾しているねえ。でたらめを書いているねえ、私は。しかし、これか私の実感である。

 海のふところに頚を抱かれ(受け身)、頭髪を藻のように静かな流れに遊ばせ(能動)、私は陽光の名残りをその肌に感じ入る。(能動)

 この文章には、「受け身」と「能動」が混在しているが、「主語」は「私は」である。この「受け身」と「能動」の「混在」にまぎれて、ことばがぎくしゃくするのだが、そのぎくしゃくにまぎれて、ことばは強引に進む。動いていく。
 「陽光の名残りをその肌に感じ入る」の「その肌」の「その」は何? 小林はもちろん明確に認識しているのだろうけれど、私にはよくわからない。特定できない。「海の肌」(海のふところの肌)なのか。つまり、私を抱くものがもっている「陽光の名残り」を、抱かれることによって、肌と肌をあわせること、密着すること、区別のない「場」で感じるのか。感じ「入る」と小林は、そこにもうひとつ動詞をくわえて、運動をさらに運動へとけしかけているのだが……。
 そのけしかけられた運動、運動の強調のなかで「その」は、ことばをもっともっと遡って「肉の鋏」の「肉」そのもののようにも思えるのだ。
 ことばが進めば進むほど、認識は逆流し、源から再出発する。ことばの運動は常にことばとぶつかり、分岐しながら、その分岐の瞬間にはね返されるものが(水の流れが巨大な石にぶつかってふたまたに分かれる瞬間、その水の一部は逆流するが……)、源流を強く引き寄せるような感じなのだ。ふくらんで、岩の上を乗り越える水の頂が、遠い源流を呼び寄せるための背伸びのように感じられるのだ。

繰り返す偶然の航跡が必然の糸をたぐりよせてひとつの命をつくり船出させたのであったが、命はそこがふたび還る場処であるかのように記憶しては忘却していく。

 ここでも「そこ」があいまいなまま、まるで既成の事実であるかのように書かれているが、そんなことはいちいち言うまい。おもしろいのは「記憶しては忘却していく」である。「記憶」と「忘却」は逆のことである。矛盾である。矛盾がからみあったまま、矛盾をエネルギーにして進むことばの運動が小林の運動である。
 矛盾することを積極的に選び、そこから、いま、ここにはないものをつかみ取ろうとするのだ。それは弁証法の「止揚」とは逆の動きに、私には感じられる。
 発展していくのではなく、発展を拒絶し、根源へかえるための運動のように思える。

自己を知るには他者という鏡が必要であった。 

 この「哲学」は、「肉の鋏」という出発点ではなく、もっと違った「源流」から始めれば、わかりやすくなるかもしれない。「比喩」に「比喩」を重ねて、矛盾したことばをむりやり互いに解体させるよりも、もっとわかりやすい形で書けるはずである。
 はずなのだけれど。
 そうしない。そんなことをすれば、ことばが動きたがっているそのエネルギーそのものを制御してしまうからだ。制御された「哲学」、完成された「哲学」ではなく、制御されない運動そのものへと小林はことばを帰してしまいたいのだ。

 小林の書いていることは、難しくて私にはなんのことかさっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、そこに激しいエネルギーがあることだけは感じることができる。それは、きっと、わかってしまえば消えるものかもしれない。「完成」してしまえば、きっと瞬間的に手垢にまみれる「現代用語」になってしまう。「現代用語」になって「辞典」に乗る前の、絶叫のような声の高みが、小林のことばにある。あ、すごい声、と私は感じるのである。私はその声に追いつけない、同じ高さの声を出せない--そういうことだけを知らされる。自覚させられる。
 この敗北感はうれしい。私の知らないところで、ことばはまだまだ生きていると実感できるから。




砂の襞
小林 稔
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トム・フォード監督「シングルマン」(★★)

2010-10-21 19:48:43 | 映画

監督 トム・フォード 出演 コリン・ファース、ジュリアン・ムーア、マシュー・グード、ニコラス・ホルト

 コリン・ファースのかけている眼鏡が非常に気になった。どうみても「ダテ眼鏡」にしか見えない。レンズではなくガラスが入っている。うその眼鏡。目の表情を隠す、というのが一般的な「ダテ眼鏡」の利用方法だと思うが、コリン・ファースの場合、というか、この映画の場合は違うような感じがする。
 隠すという要素もあるけれど、視線を目に集中させるという役割も果たすかもしれない。日本人とは違い西洋人は目の輪郭が淡い。目がどこにあるか分からない。ジュリアン・ムーアがアイシャドーで目のラインを濃く描くシーンが象徴的だ。コリン・ファースはゲイだが、さすがにアイラインを描くことはできない。そのかわりに、黒縁のくっきりした眼鏡で目のありかをはっきりさせる。
 それにあわせるように、映像全体が、ちょうどコリン・ファースの眼鏡枠の目のように、意識的なフレームで切り取られアップになってスクリーンに広がる。スクリーンに映し出される映像は、ほんとうはもっと周囲を抱えている。広いはずである。けれど、それを特別な距離で切り取り、独立させ、目のように、「こころ」が見えるまで覗き込む。
目はこころの窓ということばがあるが、切り取られたアップは存在の「こころ」の窓であり、またあらゆる対象(もの)はほんらい「こころ」を持たない存在だから、切り取られたアップは、それを見つめる人の目を、目をとおして「こころ」を映し出す「鏡」かもしれない。
あらゆるものが「こころ」をのぞかせ、あらゆるものが「こころ」を映し出す――そういう苦しい世界をコリン・ファースは生きている。見つめることで「こころ」を告げ、見つめ返してくるのもに相手の「こころ」を覗き見ると同時に、自分の「こころ」を鏡に映して見るように見つめてしまう。
この映画の映像は異様に美しいが、それはコリン・ファースの「こころ」が美しいというよりは、美しいものしか認めないという偏狭さをあらわしているかもしれない。だから、美しいことは美しいが、誘い込まれるような官能性がない。なまめかしく切り取ろうとしているけれど、何か「肉感」に欠ける。健康さに欠ける。言い換えると、人工的すぎる。その人工的、嘘っぽい、というところが、「ダテ眼鏡」につながる。

最後、若い学生との一夜のシーンだけ、コリン・ファースは「ダテ眼鏡」をかけず、その目を素通しで見せているが、それまで苦しみぬいて、やっと「枠」のなかで自分を見せる、「枠」を通して世界を見つめるということをやめた――ということなのだろう。それは、いわば世界との和解だが、和解の直後、心筋梗塞(?)で死んでしまうというのは、ああ、いったい何だろうなあ。
何か、妙なものを隠しているなあ。ゲイであるとカミングアウトしている。それでもなおかつ、まだ何かを隠す。そういう変な「不全感」が残るなあ。

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工藤恵美子『光る澪(みお) テニアン島Ⅱ』

2010-10-21 00:00:00 | 詩集
工藤恵美子『光る澪(みお) テニアン島Ⅱ』(編集工房ノア、2010年08月01日発行)

 工藤恵美子『光る澪(みお) テニアン島Ⅱ』は、工藤が幼い時期にすごした島の記憶である。記憶であるのだけれど、ひとつの特徴がある。「いま」「ここ」に工藤がいてテニアン島を思い出しているのではない。
 「足裏の記憶」の全行。

裸足で歩くのは
何十年ぶりだろうか
波が足跡を消していく

珊瑚の死骸が波に砕かれ
揉まれ揉まれて打ち寄せる浜
ざらざらした砂粒が
足裏を刺す
甦る記憶

ここは私の島
私の生まれた島
砂浜を駆ける
少女の私が見える

 2連目。「足裏を刺す」が工藤の特徴である。「いま」「ここ」--日本にいてテニアン島を思い出すのではなく、テニアン島へ行って、肉体でその土地に触れ、テニアン島の過去を思い出すのである。
 そこには失われた過去がある。そして、その過去は工藤のものであると同時に、他人の過去を含む。他人と語り合う。
 「目印」。

--この手で確かに埋めたのです
父親を埋めた場所を探して
ジャングルの中を掘り続けている人がいる

--これで四度目です 島へきて土を掘るのは
  どうしても諦めきれなくて
当時十四歳だった彼は
六十年経たいまも父親の遺骨を探し続けている

 多くの人がテニアン島の記憶を持っている。そして、その記憶と肉体でかかわろうとしている。「頭」のなかに置いておくだけではなく、直に、その土地に触れ、土を掘る。
 砂浜を裸足で歩いた工藤には、その他人の語ることば、「彼」のことばが単なる「記憶を語ることば」ではなく、肉体としてわかる。工藤は無意識に「彼」になって、同じようにジャングルの土を掘るのだ。
 そうやって他人と記憶を肉体化する。
 こういうことは単にテニアン島においてだけではない。同じテニアンの記憶をもつ人、テニアンから引き揚げてきたひとの、日本における記憶も工藤は肉体化している。
 引き揚げてきて、神戸にいたという「あなた」を工藤は肉体で追いかけている。

あなたが確かに歩いた
メリケン波止場への坂道を降り
海へ出ました
沖へ沖へと延びる澪に
あなたの記憶を追い続けます

 「あなた」は「あなた」であって「あなた」ではない。工藤にとっては「あなた」は「彼」と同様「私たち」なのだ。
 工藤の詩は「私たち」のことばで書かれているのだ。
 工藤は「私」であるけれど、「私」であることを望んではない。むしろ「私たち」になろうとしている。「私たち」になることでしか取り返せないものがある。そして、「私たち」になるために、ことばを書くとき、肉体を重視しているのだと思う。

 詩をことばの冒険、完全に独立した個人のことばを確立する運動という点から見ていけば、工藤の詩は、まったく逆行している。そのために現代詩ではない、と定義することができる。(批判することができる)。しかし、そういう批判は無意味である。工藤は、そういうことを最初から狙っていない。「私たち」になることでしか伝えられないものがあるのだ。
 それは--声として認めてもらえない「個人」の声である。声にならない声である。だれもが声を出せるわけではない。声を出しているけれど、その声がきちんとした「意味」をもち、他人に働きかけるのに充分な力をもっているとは限らない。声にならない声というのは、そういうものである。それは、いわば、区別のない「声」である。
 けれど、その区別できない声、小さな声もひとつひとつ肉体をもっている。
 声にならない声を無視するひとは、また、そういう肉体としての人間を無視するということでもある。
 工藤は声高には書いていないが、そういうことに対して抗議しているのである。
 「骨」。

太平洋戦争で全滅した
南洋の孤島 テニアン島
六十年を経た

民間人だった父の遺骨は
生き残ることが出来た知人が
敗戦の翌年
この戦場の島から持ち帰ってくれた

母は箱の中を確かめた
骨はぎっしりと詰まっていたと言う
島中に 海に あふれた死から
父の骨を選び取ることが出来たのだろうか

 「個人」が識別されない悲しみ。声にならない声が識別されないのと同様、「個人」になることができない人間もまか識別されない。識別されないということは、しかし、存在しないということではない。識別されなくても、ひとりのがわからいえばいつでも「私」は存在する。その「私」を工藤は、たとえば「裸足」、あるいは「土を掘る手」、港町を歩いた「足」という肉体からていねいに追いかけている。
 肉体というのは不思議なもので、だれも自分の手と他人の手を間違えはしない。ことばなら、たとえば書いたことばなら忘れてしまうことがある。あれ、こんなことを書いたっけ。そして、他人の書いたことばが気に入って繰り返しているうちに、自分が書いたことばと勘違いしてしまうこともある。けれど、肉体はそういうことはない。絶対に間違えない。
 そういうところから工藤はことばを動かしている。それは、個人を無視する暴力に対する抗議でもある。
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志賀直哉(15)

2010-10-20 20:48:45 | 志賀直哉
「末っ児」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 最後の部分がおもしろい。こどもに傘を持っていけと志賀直哉は言った。けれど、末っ子は持っていこうとしなかった。

私は急に腹を立て、呼びもどし、持つてゐる竹箒で背中を二三度、強く叩いてやつた。K子は一寸涙ぐみ、黙つて傘を持つて出かけて行つた。然し相にくな事に其日は曇つたままで、夕方K子が帰つて来るまで、遂に雨は降らなかつた。

 私は「急に」腹を立て、がいかにも志賀直哉らしい。それよりも、「然し相にくな事に」がさらにおもしろい。「あいにく」は、こんなふうにつかうだろうか。ふつうは、逆だろう。雨を予想せずに傘を持っていかなかった。しかし、あいにく雨が降ってしまって、濡れてしまった。
 志賀直哉がつかっている「相にく」は、ほんらいなくていいことばである。「相にくな事に」を省略して、「然し其日は曇つたままで、夕方K子が帰つて来るまで、遂に雨は降らなかつた。」の方が「学校教科書(文法)」の日本語になる。しかし、志賀直哉は、そこに「相にくな事に」を入れたかった。使いたかった。
 なぜだろう。
 「あいにく」がだれにとって、「あいにく」なのかが関係してくる。その「あいにく」は末っ子K子にとってではない。
 「あいにく」と感じているのは志賀直哉なのである。こどもを殴ってまで傘を持たせた。必ず雨が降ると言って傘を持たせた。腹を立てて自分の考えを押し通してしまったが、その通りにはならなかった。そのことをこどもから問い詰められると、志賀直哉には返すことばがない。
 それ以前に、末っ子が、いささかこましゃくれた物言いで志賀直哉たちをとっちめているだけに、きっとそういう反撃があったに違いないのだ。けれど、そういう実際の「反撃」を書かずに「あいにく」だけで暗示させている。
 この「暗示」がおもしろいのだ。
 書いてしまうと、それはそれで末っ子の面目躍如ということになるかもしれないかもしれないけれど、そこに書かれることはきっと想像の範囲を出ない。「お父さんは雨が降ると言ったのに、降らなかったじゃない」というようなことにきまっている。もし、デパートで優遇されたときのように、あるいは映画を見に行くときのような、「特別」なことばを末っ子が言ったのだとしたら、それはそれで、しっかり描写されているはずである。そういうありきたりは省略し、「あいにく」とだけ書き、末っ子のおもしろい部分を浮き彫りにする。そのことによって、書かれている「世界」が凝縮したまま完結する。
 書かないことによって、短くなるのではなく、書かないことによって、「世界」の描写そのものが充実し、長くなる。「長編」になる。そういう「仕組み」(仕掛け)が、「相にくな事に」という短いことばの中にある。




暗夜行路 (新潮文庫)
志賀 直哉
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北原千代「果樹園のまひる」

2010-10-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「果樹園のまひる」(「ばらいろの爪」2、2010年09月23日発行)

 北原千代「果樹園のまひる」は不思議な風景である。こういう風景がどこにあるのかわからないが、そこに書かれている「肉体」が奇妙に(わからないのに、という意味である)恋しいのである。そんなふうになってみたいのである。

かぐわしいオリーヴの
あぶらが喉をとおって
わたしを緑の木にしていった

うでをひろげ枝を張り
繁る葉のかさなりに 熟した実をゆらして
きんいろの陽をあびていた

手斧をさげた檜山の祖父が
果樹園にあらわれ
わたしのにおいを嗅いで
梢を撫でた

オリーヴの木になったこと
謝りたくてしかたがなかった
戦いでうけた ひたいの銃創を陽に
かがやかせながら祖父は
わたしの幹の秘密を りりりと撫でた

おお ここにいたのか いっしょうけんめいな迷子よ

ひじの下から
足はそのまま園にあるよう
祖父はやさしくわたしに手斧を揮い
異国風に刈りそろえた

 ほんとうの果樹園ではないかもしれない。オリーブ油のにおい、味が「わたし」をオリーブの木にかえていく。オリーブを食べながら(オリーブオイルをつかった料理を食べながら)、北原はオリーブの木になる。想像力のなかで、いま、ここにはないオリーブの木になる。
 この、何かを食べ、「木になる」という感じが、私にはなぜか、とてもよくわかるのである。単なる個人的な体験だけれど、私は「木」を想像し、「木になる」ということがとても好きなのだ。果実を食べるだけではなく、たとえば公園の木に触れる、そしてその木になってみるということがとても好きなのである。
 だからだろう。北原の書いているオリーブの木がどういう木なのかはまったくわからないが(そして、私は実物のオリーブの木を見たことがないので、どう想像していいのかわからないのだが)、なぜか、2連目の「うでをひろげ枝を張り」という行を読むと、私の「肉体」が同じように「うでをひろげ」てしまうのだ。そして腕は枝になり、そこには葉が繁り、実がなるという感じが、とても気持ちがいいのである。
 しかし、ここから先は、私が絶対に想像できない世界だ。そして、そこからはじまる世界がとても魅力的なのだ。
 北原は、木になったあと、そこに太陽を、その「きんいろの」光を呼び込む。世界が「木」から木の外へと広がっていく。
 あ、おもしろいなあ、と思う。
 その「外」の世界は、単なる風景ではない。「果樹園」ではない。そこに「祖父」がやってくる。北原に近しい人間がやってくる。そして、その近しい人間は、木を見つめ、そこに北原を見つけてしまう。北原は見つけられてしまう。

わたしのにおいを嗅いで

 は、「木」としての「におい」なのかもしれないけれど、「木」になるまえの北原自身のにおいかもしれない。いや、私は、それを北原自身のにおいと読み、とてもおもしろいと感じるのだ。
 「におい」から祖父はその木が北原だと気づく。そして、気づかれてしまった北原は、木になってしまったことを謝りたい。人間でいたいのに、ふと、木になってしまった。想像力が、そんなところへ北原をつれていってしまった。北原はつれてこられてしまった。北原は想像力によって拉致されてしまった。「いま」「ここ」から違う場所にきてしまった。そういうことを謝りたい。
 それに対して、祖父は、

おお ここにいたのか いっしょうけんめいな迷子よ

 と、言う。
 実際に、祖父がそういうかどうかはわからない。それは北原の「願い」なのだ。だれか近しい人に、北原の想像力が北原をとんでもないところへ連れ去ったということを知ってもらいたい、受け入れてもらいたいのだ。北原は迷い込んだ想像力の世界で、近しい人と出会いたいのだ。
 「謝る」というのは「謝罪」ではなく、ともかく声をかけることで接触したいということだと思う。
 これに対して祖父は「いっしょけんめいな迷子よ」と北原が生きていることを認める。北原が想像力でたどりついた世界を否定するのではなく「いっしょうけんめい」の結果だと受け入れ、それをはげましているような感じだ。
 間違っている。木になるなどというのは人間として間違っている。(人間は人間になる、のが正しいのだ。)けれど、その間違っていることを「いっしょうけんめい」ということばで積極的に肯定し、受け入れる。
 その肯定される一瞬を含めた世界まで北原の「木」は獲得する。その瞬間の幸福。
 これが、この獲得が、とても美しい。うらやましい。恋しい。ほかに的確なことばがあるのかもしれないけれど、思いつかない……。
 その幸福があれば、木になってしまったのだから、ほかの木のように切り揃えられても、それはそれで気持ちのよいことなのだ。

紡錘形の実は きんいろに降った
いくつも
いくつも降り散った
檜山の罪のおんなのように 髪はみじかく断たれた

ごめんなさいは 檜山の言葉でなんというのだったろう
りりりりりり たえまなく樹液が流れるのを
てのひらでぬぐってくれた
白い糸杉のような足取りで 祖父はあちらへ行く
ひたいの亀裂がふかく 血潮のあとが透けて見える

いくすじもの光が降り
ゆれている果樹園の脇の小径を

 この詩は、もしかすると「檜山」なのに「檜」にならずに「オリーヴ」になってしまった「わたし」を、「いっしょうけんめいな迷子」と受け止めてくれた祖父との永遠のわかれを思い出している詩かもしれない。
 受け止めてくれるという、やさしい叱り方。その前で「わたし」はだれにも知られないことばで泣いたことがあるのだろう。
 そして、そういう世界は「オリーヴ」と「祖父」とが出会った世界であり、祖父が「あちらへ行く」(彼岸へ行く)と同時に消えてしまう。消えるけれど、「わたし」の記憶にはしっかり残る。そのしっかり残ったものを、さらにしっかり定着させるために北原はことばを動かし、詩にする。

 その運動のすべてを「木」がつないでいる。「木」になることのできる「肉体」がつないでいる。
 遠い幻のようで、胸の奥にある現実のように、とても恋しい。


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ウィリアム・ワイラー監督「ローマの休日」(★★★★★)

2010-10-19 12:00:29 | 午前十時の映画祭

監督 ウィリアム・ワイラー 出演 オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック

 オードリー・ヘップバーンの透明な美しさが輝いている映画である。何度見ても、その透明さに驚く。
 と、書いたあとでこんなことを書くのは変かもしれないが、私がこの映画でいちばん好きなのは舞踏会のシーン。オードリー・ヘップバーンがドレスの下でハイヒールを脱ぐ。右足をほぐし、左足の裏側をかく。そんなしぐさをする。そして靴が倒れる。
 王女もそんなことをするんだ--という、うれしいような感覚が、この瞬間生まれるから、というのはもちろんだけれど……。
 このシーン、とっても変でしょ? 何がって、ドレスの下なんて、見えない。それなのにカメラは平気でドレスの下にもぐりこんでオードリー・ヘップバーンの足を写している。俗なことばでいえば「盗撮」だね。しかも、堂々とした盗撮だねえ。
 でも、映画だから、もちろん「盗撮」ではない。
 では、何か。
 映画の「暗示」である。
 この映画は、オードリー・ヘップバーン王女様が、窮屈な生活から逃れ、ひととき、庶民にもどり、ふつうの生活を楽しむ。その解放感を描いているのだが、その喜びは、実は「外側」だけではない、解放は「外側」だけではない、という暗示である。
 それは、オードリー・ヘップバーンがセックスをしたという意味ではなく、その楽しみはセックスにつながる楽しみであるという暗示である。
 もともと靴を脱ぐというのはセックスをするという意味に重なる。だからポルノ映画で娼婦がハイヒールを履いているのは、実はセックスをしていません、という意味なのである。その姿態が見えていても、隠しています、という意味なのだ。だから、エロチックなのだ。
 この映画では、この靴と肉体の関係はもう一度出てくる。
 オードリー・ヘップバーンはベッドのなか。外から音楽が聞こえてくる。その様子を見るためにオードリー・ヘップバーンが窓に駆け寄る。そのとき侍女が「スリッパを履いて」と注意する。それは足がよごれるというよりもスリッパを脱ぐということがセックスにつながるからである。
 スリッパは「裏窓」でもセックスの象徴としてつかわれていた。グレイス・ケリーがジェームズ・スチュアートのアパートに泊まりに行く。そのときスリッパをもっていく。それは靴を脱ぐ。セックスもする、ということである。知人がスリッパに目を止めたとき、ジェームズ・スチュアートが「そんなところまで見るなよ」というような顔をするのはそのためである。
 そういう暗示を踏まえて、「ローマの休日」を見つめなおすと、ますますおもしろくなる。どこまでもどこまでも清純なオードリー・ヘップバーン。世間知らず。その美しさ。世間知らずだけれど、人間だから嘘をつくことくらいは知っている。知っているけれど、嘘がどんな結果を引き起こすか--まあ、自分で責任をとったことがないので、それもよく知らない。だから、真実の口の中へ手を突っ込むことが出来ない。グレゴリー・ペックの芝居にびっくりしてしまう。これもたわいのないシーンといえばたわいのないシーンなのだが、嘘のかけひきと思うとおかしいねえ。嘘を楽しんでいる。男と女は、ときどき嘘を楽しむね。相手の表情がかわるのが楽しくて。
 オードリー・ヘップバーンが、いわゆるグラマーな体つきでないのも、この映画からセックスを隠し、逆にセックスを感じさせる。オードリー・ヘップバーンよりはるかに王女っぽいグレイス・ケリーがこの役をやっていたら、こんな映画にはならない。少女のまま(少年っぽいとさえいえる--パジャマ姿が、とくにそう感じさせるねえ)オードリー・ヘップバーンだから、それが「恋の芽生え」、そしてそれゆえのセックスを知らない興奮、ときめき、清らかなあこがれになる。装飾の少ないブラウス、そしてシンプルなスカートは、その固い殻のなかで動く肉体をすっきりと暗示する。装飾のない裸の肌の美しさを、処女をそのまま感じさせる。
 処女だから無防備、処女だからそれを守ってやろうとする男。「騎士道」のかっこよさ。むり、というか、粋。やっている本人にいちばん無理なことが他人からは「美しく」見える。そこには一種の逆説のセックスがひそんでいる。矛盾が感じさせるエロチシズムがある。そういうもの、隠されたこころの動きを、カメラは、ほんとうは撮っている。スカートのなかの「盗撮」のように。



 付録。オードリー・ヘップバーンがグレゴリー・ペックのアパートへ行って、「ここはエレベーター?」と聞くシーンもおもしろいなあ。これと逆が「チャンス」にある。ピーター・セラーズがエレベーターのなかで、「ここにはテレビはないの?」と聞く。エレベーターと部屋の区別がつかない。この混同が「高貴」の象徴であるらしい。
                          (午前十時の映画祭37本目)
 
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佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」

2010-10-19 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」(「すぴんくす」11、2010年09月20日発行)

 秋亜綺羅の書く「切断」とは違った「切断」を、急に思い出した。佐伯多美子「いつまでもいつまでもおどりつづける地」が書いているのは、やはり「論理」というか、「精神」、あるいは「想像力」に関したことがらだが、秋亜綺羅とはまた違ったことばの動きである。運動である。

マイケルは えいえんに六十歳にならない。
コトバが そのままえいえんでありえない確率に等しい。

 この「マイケル」は六十歳にならずに死んでしまったマイケル・ジャクソンのことである。死んでしまったのだからもちろん六十歳になることはない。そのことが「コトバが そのままえいえんでありえない確率に等しい。」と佐伯は書く。
 ことばは、「えいえん」ではない--そういうときの「えいえん」の定義はどういうものだろうか。「永遠」にたどりつけない、マイケルが六十歳になれないように、ことばは「永遠」には到達できないというとき、とてもおもしろいのは、「永遠」が存在すると想定されていることである。「永遠」はある。けれど、それにことばはたどりつけない。
 それは、それでいいのだけれど。認識として、あるいは想像として、そういうことを仮定するのは別に問題がないのだけれど。
 でも、その「永遠」(佐伯はひらがなで書いているのだけれど--ひらがなで書くことで、普通にいう「永遠」とは違うということを強調しているのだけれど、私はふつうの「永遠」から逆に佐伯のことばを追いかけてみたいので、あえて漢字で書いておく)--その「永遠」という存在を、佐伯は何によって認識するのだろう。定義するのだろう。
 「永遠」はある。そして、その「永遠」にことばがたどりつけないなら、ことばが「永遠」と合致できないのだとしたら(「えいえんでありえない」の「ある」を、私は「合致」と読んでいる)、ことばは「永遠」を定義できない。ことばでは語れない。
 最初から、何かが矛盾している。そして、この矛盾は、対立というよりも、ぶつかることができない矛盾である。切断されているというより、離されている。「分離」である。
 マイケルが「六十歳」と「分離」されており、絶対に、その「想像力」(ことば?)では書くことができるものに「接続」できないように、ことばが「永遠」から「分離」しているだとしたら、ことばが「そのままでえいえんでありえない」ということが、たとえ真理であっても、何かを考えることの起点にはなりえない。無意味である。
 佐伯は、なにやら、とてもややこしいところから出発しているのである。

(「言葉は肉体から出ている」と演劇人が呼吸をするように言う
(肉体が (言葉を超えると?
(そのとき (コトバは?

老いない伝説は
過去の伝説になるか未来の伝説になるか
(すくなくとも 現在は存在しない という

(現在が不在とうい
(喪失感
(この空洞は

 「永遠」から「分離」されてしまったことば。それは秋亜綺羅のことばが「過去」(意味という構造、その無意識の歴史)を切断し、「現在」のなかに「肉体」だけをほうりだすのとは逆に、「現在」を見出すことができずに、そこにほうりだされている。
 佐伯のことばは、ことばでは書けないけれど「永遠」を知っている。ことばでは書けないので、佐伯は「永遠」という文字ではなく、「えいえん」という「音」を、いま、便宜上書いているだけなのである。そして、このことば(文字)として書けないことを「現在の不在」、「喪失感」と呼んでいる。「永遠」はある、ということを「現在」において、つまり、いま認識する。しかし、その認識はそれこそ永遠に、「永遠」とは結びつかない。つながらない。つながらないことだけが、「現在」から書くことのできることがらである。佐伯は「つながる・つながらない」ということばは書いていないが、この「つながり」の「不在」が「喪失」であり、「空洞」である。

 こんなことを延々と書いていると、何がなんだかわからなくなってしまう。言いなおそう。もっと簡単に断定してしまおう。
 秋亜綺羅のことばは人を「過去」から切り離し、現在のなかにほうりだし、そこからもう一度、肉体でことばを動かせ、と迫る。
 佐伯はそうではなく、永遠(これを「未来」と考えるとわかりやすい--マイケルのたどりつけない「未来」としての六十歳のようなものと考えるとわかりやすいかもしれない)からことばが切り離されているのだから、そのことばにとっては「現在」が存在しないことになる。「現在」はあくまで、「未来」とつながり、未来へ向かうことができるからこそ現在なのである。「未来」を失って、どうやって「現在」を生きることができる。「未来」を失えば「現在」は不在である。肉体は、その「空洞」のなかにほうりだされている。
 秋亜綺羅は、未来をそんなふうには考えない。ことばを縛りつける「過去」を切り捨てる。そうすると、そこには「過去」からの延長ではとらえることのできない「時間」、ほんとうの「未来」、「自由」が出現する。それを手に入れろ、と肉体を励ますのである。
 「空洞」「不在」のなかにほうりだされた「肉体」はどう生きることができるか。佐伯の向き合っているのは、そういう問題である。

狂気のおどり狂喜する(し )
視氏刺市志誌師次紙士史思指詞雌示子肢資歯至私梓仕嗣孜覗糸脂嗜摯賜
支使姿屍伺自施斯飼試茨四柿紫祇弛匙仔祀旨司始姉矢指此枝諮滓恣止翅

狂気の死
狂喜の詩

一分の狂いもなくおどりきる。
生ききる。

 「おどりきる」「生ききる」の「きる」。それは完遂するという意味の「きる」だが、それは「切る」という文字をあけることができる。そして、それは「つきる」「なくなる」という「意味」とも重複する。
 「不在」の「現在」、「空洞」としての「現在」。そのなかで、自己を「つかいきる」「つかいはたす」。残されている生き方(?)は、それしかない。「いのち」のあり方は、そういう燃焼といえばいいのか、消尽といえばいいのか、そういうものしかない。
 それは、どういうことなのか。実際には、どんなことなのか。
 ことばの例として、佐伯は「し」にいつくもの漢字を当てている。そこに書かれている「し」という文字が、すべての漢字であるかどうか私はしらないが、そんなふうにしてともかく自分がもっているものを、「いま」、ここで使い果たしてしまう。
 秋亜綺羅は「一回」で「過去」を切断するのだけれど、佐伯は果てし無く繰り返しながら「過去」を使い果たす。そうすると、過去がなくなり、「不在」の現在が「無」という形で「永遠」になるのかもしれない。

 「いま」につながる「過去」(知識)をつかいきる。そのとき「いま」に残されるのはなんだろう。「肉体」である。「過去」が使い果たされれば、「現在」というものもなくりる。「現在」を支える基盤がなくなる。宙ぶらりんの、一瞬の「とき」だけがあらわれる。それは、もしかすると「永遠」かもしれない。
 佐伯は、マイケルの生涯に、そういうまぼろしを見たのかもしれない。
 すべてを使い「きる」。そのとき、その「きる」という運動が「永遠」と交錯する。うーん。なにやら、バタイユを思い出してしまった。




果て
佐伯 多美子
思潮社

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豊原清明「秋の盛り場」ほか

2010-10-18 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「秋の盛り場」ほか(「白黒目」25、2010年10月発行)

 豊原清明のことばには無防備なところがある。そして、その無防備であることが世界を豊かにする。防御「枠」(壁?)がないために、豊原と遠くが一気につながってしまうのである。
 秋亜綺羅が「論理」の構造を解体し、「論理」を切断することで「解放」(自由)を獲得しようとするのに対して、豊原は最初から「解体」するべき「もの」を持っていない。自分を守る「壁」がないというのは不安な状態かもしれないが、それはそれでまた、読者に(私に)不安というものの美しさを教えてくれるから不思議だ。不安なんて、ほしくない。そうはわかっていても、その不安を美しいと思うときがあるのだ。
 「秋の盛り場」の1連目。

生きている感じが
もの凄くあって
胸がさらさらとして
布団のシーツが
きらきら ぞくぞくして
秋やなあ
と、
秋なんだなって思います

 「生きている感じ」「胸がさらさら」「布団のシーツが/きらきら ぞくぞく」。それは、「切断」されながら「つながる」。だれも結びつけなかったものが、つまりそれまではほかのものとつながっていたものがいったん切断され、それから豊原のことばによって結びつけられる。そこには「論理」のかけらもない。ここでいう「論理」とは「学校教科書」の「論理」のことだけれど。
 言いなおそう。
 「生きている感じ」は、一般的には「胸のどきどき」とか「興奮」というようなことばといっしょになる。高まる動悸が「生きている感じ」であることが多い。「熱く」なるとき「生きている」感じがする。
 けれど、豊原は、その胸を「さらさら」と結びつける。たしかにすがすがしい、さわやかな何かを感じたとき「生きている」という感じはする。けれど、それには一種の「前提」がある。いままでは「さわやか」とは感じなかった状態を生きていた、という「過去」を前提としている。暑苦しい夏、山を登る。動悸が激しくなる。そして山頂。風が吹き渡る。涼しい。生きている。広々とした風景。あ、生きている。--そういうときは、それまでの肉体の苦労が「過去」なのである。
 豊原は、そういう「過去」を書かずに(説明せずに)、いきなり「さらさら」をもってくる。
 私たちが一般的に「さわやか」な感じを説明するのに、苦しい「過去」を前提とするという論理のなかでことばを動かしている、豊原はそういう「論理構造」、ことばの通路の「枠」を必要とせず、「枠」を乗り越えて動いていく。
 豊原にある「過去」は「生きている」ということだけなのだ。そしてそれは「過去」ではなく「生きている」の「いる」が指し示しているように「いま」なのだ。「いま」があふれて、豊原の肉体から流れ出ていく。その流れる、つまずかず、スムーズな感じが「さらさら」。そして、その流れたものは布団のシーツに出会って「きらきら」「そくぞく」に瞬間的にかわる。
 ここでもまた、豊原のことばは「学校教科書の論理」とは違った動きをしている。
 布団のシーツが「きらきら」「ぞくぞく」。感じたことがありますか? 読んだことがありますか? 感じたことがないし、読んだこともない。けれども、わかるような気がする。いや、わかりたいのだ。「きらきら」と「ぞくぞく」が同居するシーツ。どうすれば、そういう「もの」に出会えるのか。
 豊原は、ものすごいことを書いている。

秋やなあ

 えっ? 秋になるだけで、シーツが「きらきら」「ぞくぞく」になるの?
 違うなあ。
 「なる」のじゃなくて、それは「ある」のだ。
 豊原のことばの運動は「なる」ではなく、常に「ある」の発見なのかもしれない。

 秋亜綺羅のことばは、ことばを解体しながら、ことば以前に「なる」。そのための運動である。「現代詩」のまっとうな方法を生きている。
 豊原のことばは、解体などしない。もともと構築されていない。そういうことばが動いて、さまざまな「もの」に出会う。そして「もの」がもっている「ある」を見つける。「ある・状態」を発見する。そういうものを発見し、ことばにするとき、豊原は、その「もの」に「なる」のだけれど、その「なる」の変化のスピードが速すぎて、「ある」として存在してしまう。

秋やなあ

 そう感じたとき、豊原は秋に「なる」のではない。秋として、そこに「ある」のだ。
 「生きている感じが/もの凄くあって」と豊原は書いているが、その「もの凄くあった」という1行にも「ある」が隠れている。豊原は、いつでも生成するのではなく、「ある」なのかもしれない。

 「ある」と「なる」。「なる」と「ある」。
 これは、説明しようとすると、ややこしいなあ。うまく説明できない。
 たぶん、この「ある」の感覚が豊原を「俳句」と結びつけているのだと思う。「俳句」の「一期一会」。何かと出会い、その瞬間、私が私ではなくなる。私を超えて、私と他者とが溶け合って、どこまでもひろがる「無限」(永遠)に「なる」。俳句の成立する一瞬を、そんなふうに「なる」ということばで説明できると思うが--その「なる」が「なる」で終わらない。「なる」のが「俳句」なのではなく、その「なる」を「ある」という状態として存在させるのが「俳句」なのだ。
 「なる」はだれでも「なる」ことができる。けれど「ある」はだれでも「ある」というわけにはいかない。
 なぜなら。
 矛盾した言い方になるが、ひとはだれでも「ある」という状態に「ある」からだ。(もっとほかの「哲学用語」で説明すべきなのかもしれないが、私はそういう用語にはとてもうといのでできない。)
 「ある」から「なる」へ、そしてその「なる」を「ある」に。
 これはことばで書いてしまうと簡単そうだが、難しいなあ。できないなあ。そのできないことを、豊原は瞬間的にやってしまう。
 無防備の力なのだと思う。ひとは「ある」から「なる」へ到達したとき、その「なる」を守ろうとする。(「ある」から「なる」になるのも、まあ、いまの「ある」を守るために「なる」を選ぶということがあるかもしれない。)ところが豊原は「自己保存」のために「枠」をそこでつくろうとはしない。もともと「枠」をもっていないので、「なる」が「ある」にかわってしまうのかもしない。

 「猪の怒り」の2連目も好きだなあ。そこには「秋の盛り場」と類似の行が繰り返されている。

生きている 感じが
凄くあって
郷愁もなく
ただ ほうきの音、
気持ちよく、
眠るばかり
眠る体の音がする

 不定型だけれど「俳句」そのものだねえ。外を(庭か、家の前の道か……)を掃いているほうきの音、それを聞きながら目をつむる。眠る。そうすると、体がほうきの音に「なる」。「なる」のだけれど、いま、豊原は「なる」を超えて、ほうきの音そのものとして「ある」。「肉体」は消え、消えることによって、肉体を超越して、そこに「ある」。
 
 「黒髪の塊」の1連目も不思議だ。

今日、ヨーグルトを一箱食べた
僕は泣いた
原っぱが泣いたから
家になっちまった
千、億単位の一軒家の
連なり

 「なる」ということばが「家になっちまった」という行につかわれている。その「なる」は次の瞬間には、「千、億単位の一軒」に「なる」。そして、そこに「ある」
 この行のなかの「千、億単位」と「一」のことばのなかに「ある」と「ある」の秘密が隠されているかもしれない。
 「僕」は何にでも「なる」。「千、億」のすべての「もの」になる。一期一会の出会いのなかで、「僕」と「千、億」の可能性としての「僕」に「なる」。「千、億」に「なる」のだけれど、「僕」は「僕」で「ある」。いつまでも「一」である。

 そういうことばの運動が豊原の特徴だ。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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秋亜綺羅「ひよこの空想力飛行ゲーム」

2010-10-17 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「ひよこの空想力飛行ゲーム」(「ココア共和国」4、2010年10月01日発行)

 田中宏輔は「そだね。」ということばで、世界をつなぐ。そして、それを「肉体」にしてしまう。
 秋亜綺羅は「つなぐ」ではなく「切る」。切断する。
 ことばが持っている無意識、読者のなかにある意識の連続性を断ち切る。そして、ことばを宙ぶらりんにする。ことばを、ではなく、肉体そのものを宙ぶらりんにする。そう言えるかもしれない。
 「ひよこの空想力飛行ゲーム」というのは舞台の「台本」というべきものかもしれない。活字として読まれるのではなく、役者の(人間の)声として提出されたことばである。そのなかに、秋亜綺羅の「切断する」ことばがでてくる。
 台本に、役者たちはとまどっている。

高橋史生
あの、すみません。おれは「コップの中で昼寝しろ!」って。あの、どうなの、これ。

セトトモコ
わたしは「コップに乗って空を飛べ!」って、それって…。

寺島広
「北朝鮮までコップを投げつける」

黒川麻衣
「海をひっくり返す」

斉藤ら真生
「コップを幸福に飼育する」

江目ひとみ
あたしなんか、「コップで観客をひとり殺す」ですよ。…これって…。

 かっこのなかは秋亜綺羅が指示した「行動」である。(と、思う。)その「指示」に役者たちはどうしていいかわからない。
 「コップの中で昼寝しろ!」そんなことはできない。コップのなかに自分のからだを入れることができない。入れないのに、そのなかで昼寝などできるはずがない。
 --というのは、実は、真実であるかどうか、わからない。わかるのは、ひとつ。高橋が、コップのなかには入れない、だからどうしていいかわからなくて、「あの、どうなの、これ。」という反応しかできなかったことだ。
 高橋だけではない、役者のすべてがどうしていいかわからない。
 わからない、というのは、それをどう「つなげる」べきなのかわからないということである。秋亜綺羅のことばを、どんなふうにして「肉体」につないでいけばいいのかわからない。自分のことばにつないでいいのかわからない。
 それは別なことばで言えば、役者たちは、「つながる」ことのできない「切断」に直面しているのである。彼ら自身のなかにある「つながり」を切られてしまって、彼ら自身が宙ぶらりんになっている。
 この宙ぶらりんが秋亜綺羅の「自由」である。
 切断され、ほうりだされた「肉体」。ことばは動いていかない。ことばは動かないけれど、ことば生まれてこないけれど、そのときもそこに「肉体」がある。そして、その「 肉体」は無力である。ことばとして動くことができない、「意味」として動くことができない、という意味で、無力である。
 無力、無意味--ただ切断されてあること(いること)。
 それを秋亜綺羅は、その無力にとどまるのではなく、それを利用しようとしているのだ。「切断」されてある瞬間、たしかに役者(ことばを発する肉体)は無力である。しかし、それは「ことば」の側から見ると--「ことば」の側といっても、役者自身のことばではなく、無意識を支配して動き回っている「常識的つながり」としての「ことば」だが--そういうことばから見ると、そのとき役者の「肉体」は「常識的つながり」(束縛)から解放されている。
 なにをしようと、「ことば」の側で、役者を「それは間違っている」と否定できないのだ。「つながり」などないのだから、その「つながり方」が間違っているということはありえない。そんなことを言う権利は「ことば」にはない。

 --あ、それはそのとおりなのだが。
 私は、秋亜綺羅のこの手法が、果たしていまも有効なのかどうか、よくわからない。
 私がいま書いたような戦法がことばとの闘いにおいて有効であるというとき、秋亜綺羅が向き合っているのはあまりにも「論理的」なことばである。無意味を語りながら、秋亜綺羅のことばは「意味」としてのことばと向き合い、それを「切断」しているだけかもしれないという疑念が残る。
 「合いかぎ」という詩。

世界の果てのわたしの村に
鍵屋さんがあたらしく出来たというので
記念に合いかぎをつくってもらった
記念にほんもののカギを、捨てた

ほんものを捨てたということは
合いかぎはにせものなのだろうか
もうひとつのカギ、なのだろうか

わたしは玄関に立ち
合いかぎのためのにせものの鍵穴をみつける

合いかぎを合い穴に入れて
合いドアを開ける

 ことばは「論理」「意味」として動いていく。秋亜綺羅のことばとともに、そこにいままで読者が(私が)考えなかった論理が動きはじめる。その常識をひっくりかえすような動き--そして常識がひっくりかえされるときの解放感、それがたぶん秋亜綺羅の詩なのだが、
 うーん、
 この「切断」のされ方が、なぜか「論理的」すぎる感じがするのだ。
 「肉体」の危険を犯していない、と言い換えてもいいかもしれない。過激な感じがしない。危険な感じがしない。
 この秋亜綺羅のことばの運動に比較すると、やはり田中宏輔のことばの運動の方が過激である。危険である。
 「そだね。」の軽いひとことで、文学もゲイのおしゃべりも「つなげ」てしまい、その接続の瞬間に、遠いものが突然結びつき、あ、世界にはかけ離れたものなど何もないと感じさせる。
 秋亜綺羅は、なんといえばいいのだろう、いわば「理解されない孤独」を生きるが、田中は「理解されない非孤独」を生きるのだ。秋亜綺羅はセンチメンタルだが、田中はセンチメンタルになれない悲しみを生きるのだ。
 秋亜綺羅の肉体は「孤独」の入れ物としての肉体だが、田中の肉体は「孤独」を捨てるための肉体である、という気がする。
 秋亜綺羅の場合、ほうりだされた肉体は傷つくが、そのことで「孤独」はより純粋になる。美しくなる。一方、田中の肉体は、愛撫され、なぐさめられるが、そのことで「孤独」はよごれてしまい、そのよごれた孤独が体液のように滲み出し他人を浸食する。そのとき「絶望」が「愉悦」の顔をして肉体を飾る。

 うまく言えないが、何か、あらゆるものが逆転している気がする。「時代」が変わってしまったのに、秋亜綺羅はかわらずに、「過去」を生きている--という具合にも感じてしまった。
 40年たって、あ、それでもなお秋亜綺羅は変わらないと感じ、そはそれでなつかしいが、40年前の「思想」でいまと向き合うのは、うーん、やはり無理があるなあ、と思うのだ。

季刊 ココア共和国vol.4
秋 亜綺羅,いがらし みきお,倉田 めば
あきは書館

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田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(3)

2010-10-16 00:00:00 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(3)(書肆山田、2010年10月10日発行)

 「文体」と「思想」のことばかり書いてきたので、「内容」と「思想」についても書いておくべきかもしれない。

悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。

 ここに田中の「書く」ということに対する「思想」というか「哲学」というか、ようするに考えていることが集約されている。書くということは、書く対象に接近していくことであり、その対象の内部にまで侵入していくことなのだが--それは何といえばいいのだろう、そんなに簡単なことではない。別なものが紛れ込んできて、ときには別なものが自己主張して、それに乗っ取られて自分自身が変わってしまう。
 悲しくて、その悲しみをつきつめようとして書くのだが、その悲しみを書くということが喜びになってしまう。書く、ことばを動かすと、最初に狙っていたことと違ったところへ行ってしまう。それを、とめることができない。
 そして、思想は、そのとめることのできないもののなかにあらわれる--と書きつないでしまうと、また「文体」論にもどってしまうのだけれど……。
 つまり、「悲しみ」はひとつでも、それをどう書くと喜びに変わるか、というその「どう書く」ということのなかに、そのひとの「ひとがら」が出る。「ひとがら」というのは「思想」とは違うことばだけれど、私の考えでは「ひとがら」以上の「思想」はない。
 人は思想というが、何か高尚なことばで語られる難しいものにひかれてある人に接近するのではない。その人を好きになるのではない。(まあ、好きになる人もいるかもしれないが)。人は人を好きになるとき、「ひとがら」にひかれて好きになる。そして硬く結びつく。人と人、他人と他人を結びつけてしまう何か以上の「思想」はない。「思想」は人と人を結びつけて、そのときはじめて「思想」になる--と私は考えているのだ。

 で、田中の詩にもどると……。

悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。

 ほんとうは違っているものが「肉体」のなかで変わってしまう。「肉体」のなかで、それが交錯し、違ったものになり、それなのに「肉体」はあいかわらず「肉体」のまま、そこに存在している。
 「肉体」は、何か、不思議な「るつぼ」なのだ。そのなかには何でも入ってきて、そこで不思議な化学反応みたいなものを起こし、いろいろなことばとなって吐き出される。そして、そういうものを吐き出す「肉体」はといえば、あるものを飲み込んだ後も、そして吐き出した後も、前とつながったまま同じ「肉体」である。
 「そだね。」のように、「肉体」が何かを肯定し(受け入れ)、それを何かに変える。その変化の「場」として「肉体」があり、そういう「肉体」を肯定して、ことばが動いていく。

 あ、どうも、うまくことばが動いてくれない。
 書き直そう。

悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。

 この「変化」を拒否しない。それを「正しい」と断定する。そして、その、いわば「間違える正しさ」を田中は「思想」に育て上げている。
 「悲しみ」を「喜び」にしてしまうなんて、ね、間違っているでしょ? 「悲しみ」なら最後まで「悲しみ」として、どっぷり、その「悲しみ」を生きなければ、「悲しみ」に対して申し訳ないでしょ? ほんとうに悲しいなら。
 でもね、田中は、そんなことはできないというのだ。
 「間違える」ことだけが正しい。何かを間違えて、ほんとうはそうではないものにまで行ってしまうことだけが人間のできることなのだ。それが、いわば「ふつう」の生き方なのだ。
 先の3行は、次のようにつづいているのだ。

悲しみを書くことで
悲しみから離れるからね。
喜びになっちゃうからね。
でも、あの歴史的な悲劇
第二次世界大戦というあの悲劇と
パウンド自体が招いた悲劇のせいで
余裕がないように見えるよね。
メリルは、その点
歴史的な悲劇を被っていなかったということでラッキーだったし
しかも
お金持ちだったでしょ。」

 パウンドからメリルへのつながりは、「文学」という脈絡がある。けれど、「お金持ちだったでしょ。」はなんだろう。脈絡がない。ほんとうはあるんだが、すぐにはわからない。「悲しみ」が書いているうちに「喜び」にかわるというときぐらいに、論理的に考えると脈絡が見出せない。
 その脈絡の見出せない部分ことが「肉体」なのだ。「肉体」のなかにある何かなのだ。それが、ふいに噴出してくる。つながってしまう。
 つながってしまえば、それでいいのだ。つながってしまえば、それで存在するのだ。存在するものは何でも「思想」である。存在しえないものは「思想」ではない。
 田中の、この詩のなかの「おしゃべり」は、文学の話、ゲイの話、食べ物の話など、すべて「つなげる」。つながってしまう。「悲しみ」と「喜び」のように、論理的に考えたらつながりようのないものまで、つながってしまう。
 それが「内容」でもある。

 これを田中は別なことばで書いている。

ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ読んでさ
パウンドやジェームズ・メリル読んだらさ
ほんとに、もう
なんだっていいんだ
なに書いたって詩になるんだ
って思わせられるよね。
自由に書くってことね。
書く自由かな?

 書く自由とは「つなげる」自由である。書くというのは「頭脳」の行為かもしれないけれど、田中はその「頭脳」を「肉体」にしてしまっている。「肉体」が「頭脳」になってしまっている。つまり、それはつながっていて、切れていない。
 ある人々の「頭脳」は「肉体」から切り離されて、「頭脳」として独立している。そういう人たちは、楽々と現代思想の用語を駆使している--他人のことばを楽々と自分のことばのように使っている。「頭脳」だけで「書く」ということをやってしまうので、そこでは「矛盾」はない。
 でも、田中は違う。「頭脳」と「肉体」をつなげてしまって、区別しないので、ときどき「矛盾」してしまう。「悲しみ」が「喜び」になるように。この「矛盾」を「でたらめ」(なに書いたって詩になる--の「なに」、だね)と呼ぶことができるし、また「自由」と呼ぶこともできる。
 自由とは、別のことばで言えば矛盾なのだ。そして、その矛盾をまた別のことばで言えば「エッジ」になる。

芸術ってさ
欠けているとこがあるんだよね。
アンバランスというかさ
不均衡なところがあるんだよね。
過剰な欠如もあるし
過剰なの
でも
欠如してるの。
それがエッジなの。

 田中は、その「エッジ」を田中の「肉体」で、田中のことばで実践している。
 そして、その「エッジ」を私は「そだね。」に感じている。「過剰な欠如」、欠如が過剰にあるということと、過剰なのに欠如しているということの同居--矛盾する自由を感じている。
 --と、ここまで書けば、「文体」と「内容」について「つなげて」書いたことになるかなあ。


The wasteless land
田中 宏輔
書肆山田

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アスガー・ファルハディ監督「彼女の消えた浜辺」(★★★★★)

2010-10-15 22:35:07 | 映画
監督・脚本 アスガー・ファルハディ 出演 ゴルシフテェ・ファラハニー、タラネ・アリシュスティ

 イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミが有名である。映像が非常に美しい。アッバス・キアロスタミを見ていたときは、なぜこんなに映像が美しいのか、その秘密がわからなかった。そして、きょう、アスガー・ファルハディ監督「彼女の消えた浜辺」を見て、その秘密がわかったような気がした。アッバス・キアロスタミとアスガー・ファルハディは別人だから、アスガー・ファルハディを見てアッバス・キアロスタミがわかるというのは奇妙なことだが、共通のものを感じたのだ。
 想像力だ。
 映像が美しいのは、その映像に語るものが欠如しているからだ。欠如を想像力が補う。それは現実よりも想像力の世界の方が「完璧」である、「美しさにおいて完璧である」ということにつながる。
 この映画で私がいちばん好きなシーンはエリが凧揚げをするシーンである。それから、溺れたこども、行方不明になったエリを探す海のシーンも大好きである。そのシーンに共通することは、映像が不完全であるということである。
 エリが凧揚げをするシーンでは、エリと凧は1シーンのなかでは登場しない。エリは凧の糸をもっているが、凧まではいっしょに映らない。かわりに太陽の光のまぶしさと、海の濁った色と、波の音があふれる。凧の欠如を、海、波、音、風の過剰が補うのである。いや、補うを越えて、別の世界に独立して存在させるのである。
 凧はエリの姿とは切り離され、独立して、空中にはためく。それは風を受けてしなり、風を切る音を響かせている。それはほんとうに空に舞い上がった凧なのだが、それ以上にエリのこころのなかで、つまり想像力の世界ではためく凧なのだ。
 現実を越えて、想像力は「完璧な美しさ」を人間にもたらすのである。エリは、この瞬間、その美しさを見ている。糸によってエリと凧はつながっているが、それ以上に想像力がエリと凧をつないでいるのだ。荒々しい海、波、風ははためく凧の姿のなかで、完璧な美に昇華するのだ。
 これは幸福な想像力であり、幸福な「美しさ」である。
 一方、おぼれた子供を探して海を泳ぐシーン。どこにいるかわからないエリを探して海に人間が入っていくシーン、泳ぐシーンは、まったく逆の姿をみせる。想像力は空に舞う凧のように完結しない。「美しさ」となって結晶しない。かわりに、想像力を阻む過剰な水、暴れる波、自然という剥き出しの「現実」が押し寄せる。想像力を、それこそ「飲み込む」。飲み込んでしまう。--そして、その想像力を完璧に拒まれた映像、過剰な現実の力が暴れるシーンも、不思議なことにとても美しいのだ。
 人間を拒む自然があり、それが現実である。そう知っていても、そうわかっていても、それに人間は想像力をぶつけてしまう。想像力は、はね返され、たたきこわされるのだが、その瞬間に、不思議な美しさがある。剥き出しの世界が、いつでも、そこに存在するという美しさである。不幸な(?)美しさである。--想像力にとっては。
 世界は想像力によっては成り立っていない。そして、現実だけでも成り立っていないのだ。現実の存在と想像力がぶつかり合いながら、そのぶつかり合いのなかに、幾種類もの世界を出現させるのだ。そのあらわれ方は無限である。--イランの監督たちは、その「無限」というものを知っている。
 「千夜一夜」の「千」を知っているのだ。
 そして、この「千」が、つまり想像力と現実がぶつかりあってあらわれる世界が「無限」であるという哲学が、映画全体を動かしていく。

 エリって、だれ? どういう生活をしている? 何を考えている? 何を感じている? エリが行方不明になった。だれに知らせたらいい? 警察にはなんと説明すればいいのだろう。
 そういうことを考えはじめたとき、登場人物ひとりひとりの「現実」が浮かび上がってくる。
 エリはエリが空高く舞わせていた凧である。エリの完璧な姿を想像しながら、登場人物のひとりひとりは、彼自身の現実に飲み込まれていく--彼らを飲み込む現実が、エリを飲み込んだ海のように彼らを飲み込み、手におえない巨大な「水の塊」、「海のはらわた」のような現実を見せつける。
 だれのせい? なぜ隠す? 隠す理由は? なぜ嘘をつく?
 親しかった仲間の関係が崩れていく。愛し合っているはずの夫婦の関係が、憎しみという形で「完璧」になる。楽しみは悲しみに、悲しみは絶望に……。
 それは、見つめることしかできない「存在」である。自分を拒絶してくるものがある。そういうものがあるということを、受け入れ、見つめる。そこから自分自身の想像力を点検するしかないのである。
 そういう人間の運動を、イランの監督たちは映像と、そして音でくっきりと再現する。想像力を排除し、想像力を浮き彫りにするのである。
 知っていること、わかることは「世界」の一部である。だから、いつでも「世界」を一部として切り取る。
 スクリーンにエリが映る。凧をあげているようだが、凧は見えない。浜辺を走り回って風をつかもうとしているが、エリの走っている方向もわからない。向きを変えるのでまっすぐではないということだけがわかる。少年を、エリを探して人が海を泳ぐ。濁った水のなかをもぐる。そのスクリーンサイズの現実。その周囲に、その外にこそ世界はあるのだが、人間が向き合うことができるのは、いま、肉眼がとらえることのできる「事実」だけである。想像力は排除され、想像せよ、と呼びかけられている。

 想像力を排除せよ、そして想像せよ、--アッバス・キアロスタミも、アスガー・ファルハディも、そういう「矛盾」を強烈にぶつけてくる。だから、美しい。あらゆる美しさが絶対的に孤立して、孤立することで、存在の核に触れるのだ。





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田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(2)

2010-10-15 00:00:00 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land. V 』(2)(書肆山田、2010年10月10日発行)

 きのうの、田中宏輔『The Wasteless Land. V 』の感想は、かなり中途半端で終わったかもしれない。私は目が悪いので1日に(1回に)書ける時間が限られている。一休みしてつづきを書こうとしたら、つづきが違ったものになってしまう。だから、中途半端でも時間内に書き終わったところで終わりにしてしまうのだ。
 と、書きながら、つづきを書いてしまう。
 いや、つづきかどうかわからないけれど、もう少し田中宏輔の詩について書いてみる。どんなにかけ離れたことを書いても、テキストがひとつなのだからそんなに遠くへは行かないだろう。きのう書いたこととどこかつながっているだろう。

 思想というものを考えるとき、私は、カントだとかデリダだとかマルクスだとか--そういうひとたちのうことばが出てくる文章がよくわからないからついつい敬遠してしまう。そういう「学校教科書」の「哲学」(思想)は、それはそれで意味があると思うが、私にはぴんとこない。
 そういうものとは違うところに、ひとの思想はあると思う。カントやデリダの思想は彼らのことばのなかにあるけれど、それは簡単には他人の思想にはならない。彼ら独自のものであって、それをどこかに引用しても、それは違ったものになってしまう、と思っている。

 で、これならわかる--というものだけを、私は勝手に「思想」と呼んでいる。たとえば田中宏輔の今度の詩集のなかに思想。それは「そだよ。」ということばにあらわれている。「そだよ。」が田中の肉体そのものである。これはもちろん「そうだよ。」がつまったことばである。口語である。肉体になってしまったことばである。
 変形バージョンに「そなの?」がある。
 「そだよ。」と「そなの?」は反対のことばの動き、肯定と疑問(反論?)に見えるが、ねっこは同じである。その根っこは、簡単にいってしまえば、前に話されたことばをきちんと引き継ぐということである。だれかが何かをいう。それに対して肯定するときは「そだよ。」になり、疑問を感じたり反論をいうときの出発点が「そなの?」になる。
 この、先行することばを引き継ぐというのは、相手に対する愛なのだ。無視しない。しっかり受け止める。受け止めた上で、自分のことばを動かす。どこだったか忘れたが、詩集のなかに、相手の目を見ないで言ってしまったことばがあって、それを申し訳ないと田中が思っているという数行があったが、相手をしっかり見て、相手のことばをしっかりと受け止めて、それに対して自分の言えることを言う--そういう生き方がつまっているのが「そだよ。」「そなの?」である。軽いことばに響くけれど、それは意味がないように響くけれど、実際、意味などない。ただ、そこには田中の具体的な肉体がある。相手の前に自分がいる、そのときの肉体がある。それは隠しようがない。隠そうにも隠せない。それを見せて、「私はここにいる」ということを相手にはっきり見せて、それからことばを動かす。 
 ここに田中の「正直」があり、これが田中の「思想」なのだ。ゆるぎのないものであり、田中のひとつの精神の到達点である。

 この「そだね。」のおもしろいのは、それが単に「肯定」だけに終わらないことだ。「そだね。」と肯定して、そこから出発して、先行することばを越えていく。台風の翌朝、鴨川の河川敷をジョギングしていたら足元がぬめる。ザリガニが這い上がってきて、それを自転車が踏み潰していくので、つぶされたザリガニがぬるぬるするのだ。そういう話の後、次のようにつづく。

「ザリガニの死骸がびっしりの河川敷ね。
でも
ザリガニって鴨川にもいるんや。
ふつうは池だよね。」
「いると思わないでしょ?」
「そだね。
むかし
恋人と雨の日に琵琶湖をドライブしてたら
ブチブチ、ブチブチっていう音がして
これ、なにってきいたら
カエルをタイヤが轢いてる音
って言うから
頭から血がすーって抜けてく感じがした。
わかる?
頭から
血が抜けてくんだよ。
すーっと下にね。」

 「そだね。」としっかり相手の言い分を肯定して、それからまた自分の言いたいことを語りはじめる。それは前の話とつながってはいるが、少し変わってもいる。ザリガニのかわりに、カエルがつぶされる。どちらもつぶされる小さな生き物というところではつながっているが、違っている部分もある。ザリガニのぬめる道は走ると危ないので歩いた。でも、カエルのつぶされる道は、そのまま車で走った。あらら。ずいぶん、違うねえ。さらに、その道が危険化どうかではなく、田中は「頭から血がすーって抜けてく感じがした。」と自分の感覚の方にことばを動かしてしまっている。
 こういう「ずれ」は、しかし「ずれ」とはなかなか意識されないなあ。そこがいわゆる「哲学書(思想書)」のことばの運動と違うところで、そこに田中の思想のいちばんいいところがある。
 話はどんなにずれても、逸脱しても、いつでも「肉体」をくぐってことばが動いているのだ。肉体のなかではすべてがつながっている。「ブチブチ、ブチブチ」という音を聞いたのは耳である。そして「カエルをタイヤが轢いてる」という説明を聞いたとき、その「耳」が聞いている音は、車が轢いている音ではなく、きっと田中の足が(肉体が)踏み潰している音なのだ。田中は足の裏にカエルが潰れていくときの感触を感じている。靴を履いてじゃなくて、きっと裸足で。だから、それは肉体に直接響いてくる。頭から血がすーっと抜けていくというのは、そういうことだ。
 田中はいつでも、「精神」ではなく、「肉体」をさらけ出すのである。「肉体」こそが思想なのである。

 「そだね。」は相手のことばを肯定しながら、いったん引き継いだ後は、田中自身の肉体になって、どうしても「ずれ」ていく。「頭」で受け止める抽象的な哲学用語(思想のキーワード)はずれるとたいへんだけれど(話が通じなくなるけれど)、肉体は「ずれ」ても平気だ。もともと「肉体」は他人と共有していない。共有できない。それぞれ独立したものだ。違っていてあたりまえだ。
 それで、というのは変な飛躍なのだが。
 「そだね。」に似たことばで、違うことばもある。「そだ。」これは、「そうだ。」と同じ。ただし、相手への「同意」ではなく、自分自身への「同意」である。
 次のようにつかわれる。

「野生化してるんですよ、
オーストラリアのラクダって。
馬じゃ、あの大陸、横断できなくて
ラクダを連れてきたんですけど。
いまじゃ、オーストラリアから
アラブに輸出しています。」
「そだ。
このあいだ
2ちゃんねるでさ。
外国の詩の雑誌にも投稿欄があるのかどうか
きいてたひとがいたけど、
外国の詩の雑誌にも投稿欄って、あるの?」

 「そだ。」からはじまるのは、前の会話とは関係がない。オーストラリアのラクダとは関係がない。けれども。ここには引用しなかったが、その前にある行と関係している。エリオットやらパウンドやらたくさんの詩人の名前が出てくる。「そだ。」は田中自身の「記憶」(2ちゃんねるで見かけた質問)と関係しているだけのようだが、深いところで、それまで知人と話した内容ともつながっている。
 それはラクダへと逸脱したことばをパウンドやエリオットへと引き戻す具合に動いている。パウンドやエリオットの存在は田中には「肉体」になってしまっているから、そういうことが起きるのだ。「そだ。」と突然思いついたことへ逸脱がはじまるのだが、その逸脱は結局田中の肉体の奥へと帰っていく。 

 あるときは「そだね。」と肯定し、あるときは「そなの?」と疑問(反論)をし、あるときは「そだ。」と飛躍する。けれど、そのことばは全部、田中の肉体のなかを通り、田中の肉体をさらけ出させる。そこにあるものが田中の肉体そのものであることを語る。ただそれだけのためにことばは動く。
 ことばは肉体となって、田中として、そこにある。
 こういうことばを、私は「思想」と呼ぶ。そして、こういう思想のことばの動きを「文体」と呼んでいる。




The Wasteless Land. 2
田中 宏輔
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The Wasteless Land. 3
田中 宏輔
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ジェームズ・マンゴールド監督「ナイト&デイ」(★★)

2010-10-14 23:19:11 | 映画

監督 ジェームズ・マンゴールド 主演  トム・クルーズ、キャメロン・ディアス、マーク・ブルカス、マギー・グレイス、ピーター・サースガード

 「ナイト&デイ」というのは「夜と昼」じゃなかったのか。「KNIGHT & DAY」.
でも、これ、どういう意味? デイはディアスかな? ディアスはスペイン語、英語ならデイになるからね。トム・クルーズのクルーズって「騎士」という意味? それならそれでもいいんだけれど。
 キャメロン・ディアスが好きだから言うんじゃないけれど、この映画、キャメロン・ディアス以外の女優だと映画にならないね。あの、軽いノー天気な感じが、非現実的な話じゃないのを、逆に「お話」ですと強調して、映画にしてしまう。
 でも。キャメロン・ディアスのファンだから言うのだけれど、もう、限界。老けました。表情にもたるみが出て、ときどきノー天気じゃなくなる。普通の人になる。そうなるとおもしろくないねえ。
 生存率が高くなる、低くなる、に始まり、誰が着換えさせたか――という変な反復で笑わせるけれど、あまりにもお手軽だね。

 あっちこっち、海外観光旅行していると思えば、まあ、許せるか。


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