大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」(「未来」2010年10月号)
きのう読んだ小林稔の詩は難解だった。ことばを追いきれない。「その」が何を指しているか、特定できない。そこでつまずいていると、他のことばが、それぞれのことばを突き破るようにして動いていく。動いていることはわかるが、その軌跡がはっきりしない。複雑に入り乱れ、先へ進にしたがって、それまでの「文脈」の修正を要求してくる。「その」ということばで指し示しているはずのものが、どんどん「過去」へ遡っていく--そういう感じがする。
こういう難解な詩を読むと、何か、思想とか、哲学とか、そういう高尚なものに触れたような気持ちになる。
けれど、哲学(形而上の問題?)はややこしいことばの運動の中にだけあるのではない。一見、簡単そうに見えることばのなかにもある。それは簡単そうに見えるだけで、実は簡単ではない--ということを、大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」は書いている。
「リンゴ」という詩を取り上げている。
この作品について、大橋は次のように書いている。
「形而上」のことがらを大橋は「深い驚き」と書いている。哲学とは深い驚きである、ということになる。
哲学は難解なことばによって語られるだけではなく、だれもが知っている「リンゴ」を題材にして、だれもが知っていることばだけでも語られる。いや、そういうことばの動きこそ、哲学というのにふさわしい、ということかもしれない。
なんといっても、ことばは共有されてことばになるのだから、毎回テキストをそばにおいてでないと語れないようなことは、まだ「哲学」にはなりきれていなことばである、ということになるかもしれない。
あることばが「深さ」をもてば、それが「思想」である、と大橋は言うかもしれない。私は、この大橋の考えに賛成である。どんなことばでも、それが「いま」「ここ」にある「深さ」と別の「深さ」をもてば、そこには「思想」が存在する、と思う。
ちょっと、話を変える。
最近、読者(山内聖一郎さん)から「思想」に関連してコメントが寄せられた。私は書かれている「内容」よりも、書き方(文体)にこそ「思想」を感じるが、山内聖一郎さんは私とは違ったふうに考えている。ひとの考えは違っているからこそおもしろいのだが、まど・みちおの詩を、「文体」から見ていくとどうなるか。そのことを書いてみたい。
まど・みちおの詩には、山内さんの考える「思想」(答え)はないかもしれない。けれど、私の考えている思想(文体)がある。
大橋が感心している「リンゴ」の2連目。私も、この連が非常に好きだ。「いっぱい」の発見も好きだが、その「いっぱい」に至る過程--文体に、「思想」を感じる。
「この」が繰り返されている。「この」だけではなく、この詩では、すべてが繰り返されているのだか、その繰り返しの「思想的」特徴が「この」にとてもよくあらわれている。
「この」がなくても、「意味」としては、かわらない。ひとつのリンゴの大きさはリンゴの大きさだけでいっぱいである。ほかのものを含んでいない。リンゴ以外のものを含まないまま、リンゴは「いっぱい」である。
人間は、そういう具合にはなかなかいかない。人間は、じゃなくて、「私」はと言い換えないと語弊があるかもしれない。「その人」だけで「いっぱい」の「人」もいるかもしれないけれど、そして、そういうのが「私」の「理想」でもあるけれど、私の場合は、そんな具合に「私」ができあがっていない。いろんなもの、あからさまにいえば他人の考えや他人のことばがまじっていて、とても「私でいっぱい」という具合にいかない。
でも、まあ、そういう「理想」のことを語るよりも……。
「この」がなくても、意味はかわらない。けれども、まど・みちおは「この」をつかって書いている。それは、なぜなのか。--そういうことを、私は考えるのである。
この連にあらわれる「思想」としての「この」、その「文体」について考えたことを書こう。(大橋さん、大橋さんの文章に対する感想から逸脱していくけど、許してくださいね。)
「この」とある存在を特定する。そして、その「この」を繰り返す。そのとき、「この」ということばとともに反復されるのは「もの」ではなく「思考」であると私は考える。「この」とことばにすることで、「もの」から(つまりリンゴそのものから)ことばは離れ、思考そのものを動かす。リンゴはそこにある。思考はリンゴのまわりを動きはじめる。
「この」を繰り返すとき、その「この」は同じものであって、同じではない。同じであるけれど、微妙に違う。どこが違うのか説明は難しい。あえていえば、「意識する」という精神のありようが違う。「意識する」という精神の動きによって、「もの」は「意識」になる。--あ、こんな書き方ではな、なんの説明にもならないねえ……。
「この」がないと、「この」の繰り返しがないと、
へとことばが動いていかない。
「この」という意識は「あること」と「ないこと」を結びつける存在なのだ。それは「接着剤」を通り越して、完全に「融合」している。
繰り返すことは、分離することである。繰り返すためには、対象を離れなければならない。対象にくっついたままでは、動けない。
「この」(対象)と「この」(意識)は離れている。そして、離れることが「融合」につながる。繰り返しが「融合」への一歩なのである。それは「ある」と「ない」と同様、ことばにすると「矛盾」するが、その「矛盾」はさらに「融合」によって「矛盾」することで、「いま」「ここ」になかったものを見えるようにする。
何かを意識し、それを繰り返すとき、最初の何かが変質する。その変質を次の「この」が追いかけるとき、そこに、そのひとのもっている「精神」そのものが動きはじめ、「思想」を形作りはじめる。
そんなことを、私は考えた。
大橋は「未来」2010年09月号では、三好達治の「雪」を取り上げていた。
何か私には納得できないことを書いていたので、何が書いてあったか忘れてしまった。(申し訳ない。)その詩で私が考えたことは(感じたことは)、実は、まど・みちおの「リンゴ」の詩に感じることと同じである。
繰り返しが「思想」の文体である、「思想」は繰り返しの中から生まれる。
「雪」では「太郎」「二郎」になっているが、私はそこに書かれている「太郎」も「二郎」も知らないから、「太郎」はほんとうは「二郎」であり、「二郎」はほんとうは「太郎」かもしれないとも思う。区別はできないけれど、そこにあえて区別を持ち込むなら、最初の1行と、その1行を少しずらす形で反復(繰り返し)した2行目があるということになる。繰り返すことではじめて、そこに「太郎」と「二郎」が生まれてくるのだと考える。
最初の1行を「現実」とすると2行目は「意識」である。繰り返すことで「現実」と「意識」が分離し、そこに「現実」と「意識」が生まれてくる。
ことばは繰り返すことによって、世界は「現実」から離れ「意識」へ踏み込むのだ。そして、この「遊離体験」が、読者を誘い込む。私たちは「現実」の「太郎」「二郎」を知らない。けれど、三好が「太郎」「二郎」とだれかを呼んでいるという世界を知る。そして、そこには雪が降っているということを「現実」としてではなく、三好の意識した「意識世界」として追体験する。私たちの「意識」が三好の「意識」に重なる。「二郎」になってしまう。
実際に2軒の家があり、そこに「太郎」と「二郎」が眠っていたとしても、「太郎」のあとに「二郎」を繰り返すとき、読者は(私は)、「二郎」になってしまう。「二郎」になって、私の屋根に雪が降り積もる、そして私は眠るという世界が広がってくる。
ある存在をことばにする。そして、そのことばを繰り返すとき、私たちは「もの」ではなく、何かを語るということの不思議さ、語るときに意識が集中し動くということを知る。その動きの中にこそ「思想」がある。何を使って、どう動くか--「文体」そのものが「思想」になるのは、そういうときである。
「リンゴ」にもどる。
最初の「この」はまど・みちおが持ち込んだ「リンゴ」そのものを指す。ところが次の「この」は、さらにその「リンゴ」そのものを意識する意識によって成り立っている。「意識」しないことには、「この」ということばは動かない。
ひとつのものを繰り返す。繰り返すことで「集中」する。その「集中」のなかに、「思想」が動いてくるのだ。
この「集中」を、大橋は「アリ」というまど・みちおの詩に触れながら、次のように語っている。
見つめること、それをことばにすることによって、「いのち」でも「体」でもないものになってしまう。その運動を大橋は「思想」(形而上)と呼んでいるのだと思う。
どんなことばにも、見えるもの(対象の描写)と、見えないもの(対象を描写する意識)がある。そして、その意識の運動は、それがどんな形で書かれようと「思想」である。好き嫌いはあっても。

きのう読んだ小林稔の詩は難解だった。ことばを追いきれない。「その」が何を指しているか、特定できない。そこでつまずいていると、他のことばが、それぞれのことばを突き破るようにして動いていく。動いていることはわかるが、その軌跡がはっきりしない。複雑に入り乱れ、先へ進にしたがって、それまでの「文脈」の修正を要求してくる。「その」ということばで指し示しているはずのものが、どんどん「過去」へ遡っていく--そういう感じがする。
こういう難解な詩を読むと、何か、思想とか、哲学とか、そういう高尚なものに触れたような気持ちになる。
けれど、哲学(形而上の問題?)はややこしいことばの運動の中にだけあるのではない。一見、簡単そうに見えることばのなかにもある。それは簡単そうに見えるだけで、実は簡単ではない--ということを、大橋政人「まど・みちおの形而上詩を読んでみる」は書いている。
「リンゴ」という詩を取り上げている。
リンゴを ひとつ
ここに おくと
リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ
リンゴが ひとつ
ここにある
ほかには
なんにも ない
ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ
この作品について、大橋は次のように書いている。
一つのリンゴ、その存在を「まぶしい」と感じられるまで見尽くすのである「リンゴの/この大きさは/このリンゴだけで/いっぱいだ」という杵築は、まどさんにとって、なんという深い驚きであったことだろう。
「形而上」のことがらを大橋は「深い驚き」と書いている。哲学とは深い驚きである、ということになる。
哲学は難解なことばによって語られるだけではなく、だれもが知っている「リンゴ」を題材にして、だれもが知っていることばだけでも語られる。いや、そういうことばの動きこそ、哲学というのにふさわしい、ということかもしれない。
なんといっても、ことばは共有されてことばになるのだから、毎回テキストをそばにおいてでないと語れないようなことは、まだ「哲学」にはなりきれていなことばである、ということになるかもしれない。
あることばが「深さ」をもてば、それが「思想」である、と大橋は言うかもしれない。私は、この大橋の考えに賛成である。どんなことばでも、それが「いま」「ここ」にある「深さ」と別の「深さ」をもてば、そこには「思想」が存在する、と思う。
ちょっと、話を変える。
最近、読者(山内聖一郎さん)から「思想」に関連してコメントが寄せられた。私は書かれている「内容」よりも、書き方(文体)にこそ「思想」を感じるが、山内聖一郎さんは私とは違ったふうに考えている。ひとの考えは違っているからこそおもしろいのだが、まど・みちおの詩を、「文体」から見ていくとどうなるか。そのことを書いてみたい。
まど・みちおの詩には、山内さんの考える「思想」(答え)はないかもしれない。けれど、私の考えている思想(文体)がある。
大橋が感心している「リンゴ」の2連目。私も、この連が非常に好きだ。「いっぱい」の発見も好きだが、その「いっぱい」に至る過程--文体に、「思想」を感じる。
リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ
「この」が繰り返されている。「この」だけではなく、この詩では、すべてが繰り返されているのだか、その繰り返しの「思想的」特徴が「この」にとてもよくあらわれている。
「この」がなくても、「意味」としては、かわらない。ひとつのリンゴの大きさはリンゴの大きさだけでいっぱいである。ほかのものを含んでいない。リンゴ以外のものを含まないまま、リンゴは「いっぱい」である。
人間は、そういう具合にはなかなかいかない。人間は、じゃなくて、「私」はと言い換えないと語弊があるかもしれない。「その人」だけで「いっぱい」の「人」もいるかもしれないけれど、そして、そういうのが「私」の「理想」でもあるけれど、私の場合は、そんな具合に「私」ができあがっていない。いろんなもの、あからさまにいえば他人の考えや他人のことばがまじっていて、とても「私でいっぱい」という具合にいかない。
でも、まあ、そういう「理想」のことを語るよりも……。
「この」がなくても、意味はかわらない。けれども、まど・みちおは「この」をつかって書いている。それは、なぜなのか。--そういうことを、私は考えるのである。
この連にあらわれる「思想」としての「この」、その「文体」について考えたことを書こう。(大橋さん、大橋さんの文章に対する感想から逸脱していくけど、許してくださいね。)
「この」とある存在を特定する。そして、その「この」を繰り返す。そのとき、「この」ということばとともに反復されるのは「もの」ではなく「思考」であると私は考える。「この」とことばにすることで、「もの」から(つまりリンゴそのものから)ことばは離れ、思考そのものを動かす。リンゴはそこにある。思考はリンゴのまわりを動きはじめる。
「この」を繰り返すとき、その「この」は同じものであって、同じではない。同じであるけれど、微妙に違う。どこが違うのか説明は難しい。あえていえば、「意識する」という精神のありようが違う。「意識する」という精神の動きによって、「もの」は「意識」になる。--あ、こんな書き方ではな、なんの説明にもならないねえ……。
「この」がないと、「この」の繰り返しがないと、
ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ
へとことばが動いていかない。
「この」という意識は「あること」と「ないこと」を結びつける存在なのだ。それは「接着剤」を通り越して、完全に「融合」している。
繰り返すことは、分離することである。繰り返すためには、対象を離れなければならない。対象にくっついたままでは、動けない。
「この」(対象)と「この」(意識)は離れている。そして、離れることが「融合」につながる。繰り返しが「融合」への一歩なのである。それは「ある」と「ない」と同様、ことばにすると「矛盾」するが、その「矛盾」はさらに「融合」によって「矛盾」することで、「いま」「ここ」になかったものを見えるようにする。
何かを意識し、それを繰り返すとき、最初の何かが変質する。その変質を次の「この」が追いかけるとき、そこに、そのひとのもっている「精神」そのものが動きはじめ、「思想」を形作りはじめる。
そんなことを、私は考えた。
大橋は「未来」2010年09月号では、三好達治の「雪」を取り上げていた。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎を眠らせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。
何か私には納得できないことを書いていたので、何が書いてあったか忘れてしまった。(申し訳ない。)その詩で私が考えたことは(感じたことは)、実は、まど・みちおの「リンゴ」の詩に感じることと同じである。
繰り返しが「思想」の文体である、「思想」は繰り返しの中から生まれる。
「雪」では「太郎」「二郎」になっているが、私はそこに書かれている「太郎」も「二郎」も知らないから、「太郎」はほんとうは「二郎」であり、「二郎」はほんとうは「太郎」かもしれないとも思う。区別はできないけれど、そこにあえて区別を持ち込むなら、最初の1行と、その1行を少しずらす形で反復(繰り返し)した2行目があるということになる。繰り返すことではじめて、そこに「太郎」と「二郎」が生まれてくるのだと考える。
最初の1行を「現実」とすると2行目は「意識」である。繰り返すことで「現実」と「意識」が分離し、そこに「現実」と「意識」が生まれてくる。
ことばは繰り返すことによって、世界は「現実」から離れ「意識」へ踏み込むのだ。そして、この「遊離体験」が、読者を誘い込む。私たちは「現実」の「太郎」「二郎」を知らない。けれど、三好が「太郎」「二郎」とだれかを呼んでいるという世界を知る。そして、そこには雪が降っているということを「現実」としてではなく、三好の意識した「意識世界」として追体験する。私たちの「意識」が三好の「意識」に重なる。「二郎」になってしまう。
実際に2軒の家があり、そこに「太郎」と「二郎」が眠っていたとしても、「太郎」のあとに「二郎」を繰り返すとき、読者は(私は)、「二郎」になってしまう。「二郎」になって、私の屋根に雪が降り積もる、そして私は眠るという世界が広がってくる。
ある存在をことばにする。そして、そのことばを繰り返すとき、私たちは「もの」ではなく、何かを語るということの不思議さ、語るときに意識が集中し動くということを知る。その動きの中にこそ「思想」がある。何を使って、どう動くか--「文体」そのものが「思想」になるのは、そういうときである。
「リンゴ」にもどる。
リンゴの
この大きさは
このリンゴだけで
いっぱいだ
最初の「この」はまど・みちおが持ち込んだ「リンゴ」そのものを指す。ところが次の「この」は、さらにその「リンゴ」そのものを意識する意識によって成り立っている。「意識」しないことには、「この」ということばは動かない。
ひとつのものを繰り返す。繰り返すことで「集中」する。その「集中」のなかに、「思想」が動いてくるのだ。
この「集中」を、大橋は「アリ」というまど・みちおの詩に触れながら、次のように語っている。
文字通り「穴のあくほど」対象を見つめるまどさんの尋常一様でない目がある。見つめ過ぎて「いのち」と「からだ」の区別もなくなった激しい光景が出現している。
見つめること、それをことばにすることによって、「いのち」でも「体」でもないものになってしまう。その運動を大橋は「思想」(形而上)と呼んでいるのだと思う。
どんなことばにも、見えるもの(対象の描写)と、見えないもの(対象を描写する意識)がある。そして、その意識の運動は、それがどんな形で書かれようと「思想」である。好き嫌いはあっても。
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