柏原寛「なぎさの胚珠」(「現代詩手帖」2011年08月号)
柏原寛「なぎさの胚珠」は、どう読んでいいのかわからない。わからないから、ぐいと引き込まれていく。
この作品の書き出しは、柏原がどこかの見知らないマンションの屋上にのぼって、そこから街を行くひとを見下ろしている状況を書いたのだと思う。「私」という主語が書いてないのだが、私は「私」を補って読んでしまった。
誰か、そこに声をだす人が必要だったのだ。--つまり、言い換えると、私は、この詩のなかでは「私」を引き受けなくない、と本能的に思ったのだ。
どこかのマンションの屋上から、通りを行くひとを見下ろす--そこまでは、私がやってもいい。というか、見知らぬマンションではないが、ビルの屋上(あるいは高み)から、ひとを見下ろしたこと、眺めたことがあるので、最初の3行は、私も知っている世界である。
ところが、4行目からが、ぎょっとするほどすごい。これは私ではない、と声を出していいたくなるのだ。
詩の、あるいは文学のといってもいいのだけれど、その作品が「いいなあ」と思うのは、共感があるからだ。あ、これこそ、私が言いたくて言えなかったことだ、ということばに出会ったとき、私はその作品が好きになる。作者と私は別人であるけれど、読んでいて、作者と私の区別がなくなる。他人が書いたことばなのに、自分のことばにしてしまいたい、盗んで、それに自分の署名をつけたくなる--そういうとき私は作者に「共感」している。
4行目からの柏原のことば。
あ、これには「共感」したくない。人間ではなく、「人の肉」。うーん。その次の「裸足になって踏んで」というのは、あ、むずかしいなあ。私には、なんとなく柏原が裸足になって、その街行く人--人の肉を踏んでいることを想像しているように思えた。
その「人の肉」を踏むと、「毛穴から脂や毛穴から膿汁や」が滲み出す。
わーっ、困ったなあ。
私は、そういうことをしたことはないが(実際にはもちろんできないが、想像でもそういうことをしたことがないのだが)、ふいに、してみたくなったのだ。人を踏むと、その毛穴から脂や膿汁がこぼれてくる--ということがあるかどうかはわからないけれど、してみたい。見てみたい。
共感--というのではない、と私は言いたいのだが、誘われてしまうのだ。そのことばの強さに。まるで、度の強い眼鏡で、強引に網膜に何かを焼き付けられたように、そこで見たものが脳を麻痺させる。くらくらする。
それは柏原のことばによって「見させられたもの」なのだけれど、強烈すぎて、あ、こういう世界を見たいと私は感じていたのかもしれない、と錯覚してしまうのである。
この錯覚を、私は「共感」と呼びたくないのだが、やっぱり「共感」なのかもしれない。だから、困ったなあ、と思うのだ。
この「うみ」は「膿汁」の「うみ」だろうか。「毛穴」からあふれだした汚物だろうか。ことばの「論理(?)」に従えば、つまり文脈に従えば、そうなのかもしれないが。
私は、違う情景を思い浮かべたのだ。
毛穴からあふれる脂や膿汁がとおくとおくまでのびていくと、それは突然「海」にかわる。その「海」はどこまでもどこまでも、遠くへのびている。広がっている。とてもさわやかな、明るい光景だ。
毛穴からこぼれる油、膿汁と遠い海のひろがり--これは「美意識(?)」から見ると矛盾している。なにかが、どこかで間違って、つながってしまっている。
そう思うのだけれど、その「間違ったつながり」、何かを追いかけていると、知らない間に別の世界へ行ってしまっている--その感じが、あ、詩だ、これが詩だ、と感じてしまうのだ。
ことばが、知っているはずのことばが、突然、変わってしまう。そのことばが変わった瞬間に、なぜか、その「変わる」理由が「わかる」と感じてしまう。
で、その「わかった」はずの「理由(?)」は、実は説明できない。説明できないまま、柏原のことばにひっぱられて、私は私がわからなくなる。
そして、そこにいる柏原が「わかる」とも思うのだ。とても「リアル」に見えてくるだ。柏原のことなど、何も知らないのに。
「主婦の土葬の名残り」はなんのことかさっぱりわからない。そして、そういうさっぱりわからないことばがあるくせに、「どこまでいってもコンビニしかない」がとてもよく「わかる」。私が「わかる」と書いていることが、柏原の書いていることと合致するかどうかはわからないが、「わかる」と感じる。
「わからない」ことがあるから、逆に安心して(?)、「わかる」ことへと引きずられるのかもしれない。
わーっ、困った。
どうしていいか、わからない。--わかったり、わからなかったり、その間で、私自身をどう安定させていいのかわからなくなる。
「むなしくってつらくなる/しゃがみこんでしまいそう」や「このさびしさは/このみじめさは」というのは、あまりにも無防備すぎることばで、その無防備さは「現代詩」から遠く感じるけれど、その遠さが逆に、まるで「肉体」の内部にあるような感じで「切実」に響く。
「野花が咲いて」からつづく4行は、美しいなあ。
ああ、でも、こんな支離滅裂な--柏原のことばじゃなくて、私自身の、こんな支離滅裂な感じ方--それが変だなあ。
私は、柏原のことばをつかみきれていないのだ。
わかっていないのだ。
でも「わかる」と感じてしまうのだ。
柏原か書いているようなことを「感じたくはない」。
でも、「わかる」--いや、違う。
知りたいのだ。私は、激しく知りたいのだ。
この不思議な、まるでどこともつながっていないようなことばが、柏原のどこからあふれてきて、何をつなぎとめているのか、私は知りたいのだ。
もっともっと、そのことばを読みたいのだ。もっともっと読んで、そのことばにおぼれて、私のことばが全部死んでしまえば、私はきっと生まれ変われる--そういうことを感じさせてくれる。
柏原のことばにふれるとあふれてくる不思議な「予感」。
私は、その「不思議さ」をまだ把握していないけれど、とても新しい詩を感じる。予感する。
「新人欄」の作品だが、この作品を選んでくれた平田俊子に最敬礼し、ありがとう、ありがとう、ありがとうと 100回でも1000回でも1万回でも感謝したくなる。
柏原寛「なぎさの胚珠」は、どう読んでいいのかわからない。わからないから、ぐいと引き込まれていく。
外階段をかけあがり
見知らないマンションの屋上
見下ろした
人の肉
裸足になって踏んで
毛穴から脂や毛穴から膿汁や
とおくとおくまでのびていくうみ
この作品の書き出しは、柏原がどこかの見知らないマンションの屋上にのぼって、そこから街を行くひとを見下ろしている状況を書いたのだと思う。「私」という主語が書いてないのだが、私は「私」を補って読んでしまった。
誰か、そこに声をだす人が必要だったのだ。--つまり、言い換えると、私は、この詩のなかでは「私」を引き受けなくない、と本能的に思ったのだ。
どこかのマンションの屋上から、通りを行くひとを見下ろす--そこまでは、私がやってもいい。というか、見知らぬマンションではないが、ビルの屋上(あるいは高み)から、ひとを見下ろしたこと、眺めたことがあるので、最初の3行は、私も知っている世界である。
ところが、4行目からが、ぎょっとするほどすごい。これは私ではない、と声を出していいたくなるのだ。
詩の、あるいは文学のといってもいいのだけれど、その作品が「いいなあ」と思うのは、共感があるからだ。あ、これこそ、私が言いたくて言えなかったことだ、ということばに出会ったとき、私はその作品が好きになる。作者と私は別人であるけれど、読んでいて、作者と私の区別がなくなる。他人が書いたことばなのに、自分のことばにしてしまいたい、盗んで、それに自分の署名をつけたくなる--そういうとき私は作者に「共感」している。
4行目からの柏原のことば。
あ、これには「共感」したくない。人間ではなく、「人の肉」。うーん。その次の「裸足になって踏んで」というのは、あ、むずかしいなあ。私には、なんとなく柏原が裸足になって、その街行く人--人の肉を踏んでいることを想像しているように思えた。
その「人の肉」を踏むと、「毛穴から脂や毛穴から膿汁や」が滲み出す。
わーっ、困ったなあ。
私は、そういうことをしたことはないが(実際にはもちろんできないが、想像でもそういうことをしたことがないのだが)、ふいに、してみたくなったのだ。人を踏むと、その毛穴から脂や膿汁がこぼれてくる--ということがあるかどうかはわからないけれど、してみたい。見てみたい。
共感--というのではない、と私は言いたいのだが、誘われてしまうのだ。そのことばの強さに。まるで、度の強い眼鏡で、強引に網膜に何かを焼き付けられたように、そこで見たものが脳を麻痺させる。くらくらする。
それは柏原のことばによって「見させられたもの」なのだけれど、強烈すぎて、あ、こういう世界を見たいと私は感じていたのかもしれない、と錯覚してしまうのである。
この錯覚を、私は「共感」と呼びたくないのだが、やっぱり「共感」なのかもしれない。だから、困ったなあ、と思うのだ。
とおくとおくまでのびていくうみ
この「うみ」は「膿汁」の「うみ」だろうか。「毛穴」からあふれだした汚物だろうか。ことばの「論理(?)」に従えば、つまり文脈に従えば、そうなのかもしれないが。
私は、違う情景を思い浮かべたのだ。
毛穴からあふれる脂や膿汁がとおくとおくまでのびていくと、それは突然「海」にかわる。その「海」はどこまでもどこまでも、遠くへのびている。広がっている。とてもさわやかな、明るい光景だ。
毛穴からこぼれる油、膿汁と遠い海のひろがり--これは「美意識(?)」から見ると矛盾している。なにかが、どこかで間違って、つながってしまっている。
そう思うのだけれど、その「間違ったつながり」、何かを追いかけていると、知らない間に別の世界へ行ってしまっている--その感じが、あ、詩だ、これが詩だ、と感じてしまうのだ。
ことばが、知っているはずのことばが、突然、変わってしまう。そのことばが変わった瞬間に、なぜか、その「変わる」理由が「わかる」と感じてしまう。
で、その「わかった」はずの「理由(?)」は、実は説明できない。説明できないまま、柏原のことばにひっぱられて、私は私がわからなくなる。
そして、そこにいる柏原が「わかる」とも思うのだ。とても「リアル」に見えてくるだ。柏原のことなど、何も知らないのに。
前時代の二槽式洗濯機が
踊り場でまわってる
主婦の土葬の名残りが風に
吹かれてここまで
浜であなたの傷む髪ほどいて
町内に蔓延した事件と細菌で
子らをなくした母親のサークルが
築山の中心で乳房をすり減らしあっている
平日の真昼は
喉つまるさばく
どこまでいってもコンビニしかない
「主婦の土葬の名残り」はなんのことかさっぱりわからない。そして、そういうさっぱりわからないことばがあるくせに、「どこまでいってもコンビニしかない」がとてもよく「わかる」。私が「わかる」と書いていることが、柏原の書いていることと合致するかどうかはわからないが、「わかる」と感じる。
「わからない」ことがあるから、逆に安心して(?)、「わかる」ことへと引きずられるのかもしれない。
わーっ、困った。
どうしていいか、わからない。--わかったり、わからなかったり、その間で、私自身をどう安定させていいのかわからなくなる。
すれちがうのは老人ばかり
改悛なくした汚染のひとたち
むなしくってつらくなる
しゃがみこんでしまいそう
満たされない
おれは皮の袋で
土砂がつまっている
あ
野花が咲いてる
ああこんなふうにして
閉じ込めていたあの人の吐いた息
漏れていってしまう
この日常はいったいなんだろう
このさびしさは
このみじめさは
もう
生活の果てることのない沼への沈下なんだろ?
「むなしくってつらくなる/しゃがみこんでしまいそう」や「このさびしさは/このみじめさは」というのは、あまりにも無防備すぎることばで、その無防備さは「現代詩」から遠く感じるけれど、その遠さが逆に、まるで「肉体」の内部にあるような感じで「切実」に響く。
「野花が咲いて」からつづく4行は、美しいなあ。
ああ、でも、こんな支離滅裂な--柏原のことばじゃなくて、私自身の、こんな支離滅裂な感じ方--それが変だなあ。
私は、柏原のことばをつかみきれていないのだ。
わかっていないのだ。
でも「わかる」と感じてしまうのだ。
柏原か書いているようなことを「感じたくはない」。
でも、「わかる」--いや、違う。
知りたいのだ。私は、激しく知りたいのだ。
この不思議な、まるでどこともつながっていないようなことばが、柏原のどこからあふれてきて、何をつなぎとめているのか、私は知りたいのだ。
もっともっと、そのことばを読みたいのだ。もっともっと読んで、そのことばにおぼれて、私のことばが全部死んでしまえば、私はきっと生まれ変われる--そういうことを感じさせてくれる。
柏原のことばにふれるとあふれてくる不思議な「予感」。
私は、その「不思議さ」をまだ把握していないけれど、とても新しい詩を感じる。予感する。
「新人欄」の作品だが、この作品を選んでくれた平田俊子に最敬礼し、ありがとう、ありがとう、ありがとうと 100回でも1000回でも1万回でも感謝したくなる。
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