詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柏原寛「なぎさの胚珠」

2011-08-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
柏原寛「なぎさの胚珠」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 柏原寛「なぎさの胚珠」は、どう読んでいいのかわからない。わからないから、ぐいと引き込まれていく。

外階段をかけあがり
見知らないマンションの屋上
見下ろした
人の肉
裸足になって踏んで
毛穴から脂や毛穴から膿汁や
とおくとおくまでのびていくうみ

 この作品の書き出しは、柏原がどこかの見知らないマンションの屋上にのぼって、そこから街を行くひとを見下ろしている状況を書いたのだと思う。「私」という主語が書いてないのだが、私は「私」を補って読んでしまった。
 誰か、そこに声をだす人が必要だったのだ。--つまり、言い換えると、私は、この詩のなかでは「私」を引き受けなくない、と本能的に思ったのだ。
 どこかのマンションの屋上から、通りを行くひとを見下ろす--そこまでは、私がやってもいい。というか、見知らぬマンションではないが、ビルの屋上(あるいは高み)から、ひとを見下ろしたこと、眺めたことがあるので、最初の3行は、私も知っている世界である。
 ところが、4行目からが、ぎょっとするほどすごい。これは私ではない、と声を出していいたくなるのだ。
 詩の、あるいは文学のといってもいいのだけれど、その作品が「いいなあ」と思うのは、共感があるからだ。あ、これこそ、私が言いたくて言えなかったことだ、ということばに出会ったとき、私はその作品が好きになる。作者と私は別人であるけれど、読んでいて、作者と私の区別がなくなる。他人が書いたことばなのに、自分のことばにしてしまいたい、盗んで、それに自分の署名をつけたくなる--そういうとき私は作者に「共感」している。
 4行目からの柏原のことば。
 あ、これには「共感」したくない。人間ではなく、「人の肉」。うーん。その次の「裸足になって踏んで」というのは、あ、むずかしいなあ。私には、なんとなく柏原が裸足になって、その街行く人--人の肉を踏んでいることを想像しているように思えた。
 その「人の肉」を踏むと、「毛穴から脂や毛穴から膿汁や」が滲み出す。
 わーっ、困ったなあ。
 私は、そういうことをしたことはないが(実際にはもちろんできないが、想像でもそういうことをしたことがないのだが)、ふいに、してみたくなったのだ。人を踏むと、その毛穴から脂や膿汁がこぼれてくる--ということがあるかどうかはわからないけれど、してみたい。見てみたい。
 共感--というのではない、と私は言いたいのだが、誘われてしまうのだ。そのことばの強さに。まるで、度の強い眼鏡で、強引に網膜に何かを焼き付けられたように、そこで見たものが脳を麻痺させる。くらくらする。
 それは柏原のことばによって「見させられたもの」なのだけれど、強烈すぎて、あ、こういう世界を見たいと私は感じていたのかもしれない、と錯覚してしまうのである。
 この錯覚を、私は「共感」と呼びたくないのだが、やっぱり「共感」なのかもしれない。だから、困ったなあ、と思うのだ。

とおくとおくまでのびていくうみ

 この「うみ」は「膿汁」の「うみ」だろうか。「毛穴」からあふれだした汚物だろうか。ことばの「論理(?)」に従えば、つまり文脈に従えば、そうなのかもしれないが。
 私は、違う情景を思い浮かべたのだ。
 毛穴からあふれる脂や膿汁がとおくとおくまでのびていくと、それは突然「海」にかわる。その「海」はどこまでもどこまでも、遠くへのびている。広がっている。とてもさわやかな、明るい光景だ。
 毛穴からこぼれる油、膿汁と遠い海のひろがり--これは「美意識(?)」から見ると矛盾している。なにかが、どこかで間違って、つながってしまっている。
 そう思うのだけれど、その「間違ったつながり」、何かを追いかけていると、知らない間に別の世界へ行ってしまっている--その感じが、あ、詩だ、これが詩だ、と感じてしまうのだ。
 ことばが、知っているはずのことばが、突然、変わってしまう。そのことばが変わった瞬間に、なぜか、その「変わる」理由が「わかる」と感じてしまう。
 で、その「わかった」はずの「理由(?)」は、実は説明できない。説明できないまま、柏原のことばにひっぱられて、私は私がわからなくなる。
 そして、そこにいる柏原が「わかる」とも思うのだ。とても「リアル」に見えてくるだ。柏原のことなど、何も知らないのに。

前時代の二槽式洗濯機が
踊り場でまわってる
主婦の土葬の名残りが風に
吹かれてここまで
浜であなたの傷む髪ほどいて
町内に蔓延した事件と細菌で
子らをなくした母親のサークルが
築山の中心で乳房をすり減らしあっている
平日の真昼は
喉つまるさばく
どこまでいってもコンビニしかない

 「主婦の土葬の名残り」はなんのことかさっぱりわからない。そして、そういうさっぱりわからないことばがあるくせに、「どこまでいってもコンビニしかない」がとてもよく「わかる」。私が「わかる」と書いていることが、柏原の書いていることと合致するかどうかはわからないが、「わかる」と感じる。
 「わからない」ことがあるから、逆に安心して(?)、「わかる」ことへと引きずられるのかもしれない。
 わーっ、困った。
 どうしていいか、わからない。--わかったり、わからなかったり、その間で、私自身をどう安定させていいのかわからなくなる。

すれちがうのは老人ばかり
改悛なくした汚染のひとたち
むなしくってつらくなる
しゃがみこんでしまいそう
満たされない
おれは皮の袋で
土砂がつまっている

野花が咲いてる
ああこんなふうにして
閉じ込めていたあの人の吐いた息
漏れていってしまう
この日常はいったいなんだろう
このさびしさは
このみじめさは
もう
生活の果てることのない沼への沈下なんだろ?

 「むなしくってつらくなる/しゃがみこんでしまいそう」や「このさびしさは/このみじめさは」というのは、あまりにも無防備すぎることばで、その無防備さは「現代詩」から遠く感じるけれど、その遠さが逆に、まるで「肉体」の内部にあるような感じで「切実」に響く。
 「野花が咲いて」からつづく4行は、美しいなあ。
 ああ、でも、こんな支離滅裂な--柏原のことばじゃなくて、私自身の、こんな支離滅裂な感じ方--それが変だなあ。
 私は、柏原のことばをつかみきれていないのだ。
 わかっていないのだ。
 でも「わかる」と感じてしまうのだ。

 柏原か書いているようなことを「感じたくはない」。
 でも、「わかる」--いや、違う。
 知りたいのだ。私は、激しく知りたいのだ。
 この不思議な、まるでどこともつながっていないようなことばが、柏原のどこからあふれてきて、何をつなぎとめているのか、私は知りたいのだ。
 もっともっと、そのことばを読みたいのだ。もっともっと読んで、そのことばにおぼれて、私のことばが全部死んでしまえば、私はきっと生まれ変われる--そういうことを感じさせてくれる。

 柏原のことばにふれるとあふれてくる不思議な「予感」。
 私は、その「不思議さ」をまだ把握していないけれど、とても新しい詩を感じる。予感する。
 「新人欄」の作品だが、この作品を選んでくれた平田俊子に最敬礼し、ありがとう、ありがとう、ありがとうと 100回でも1000回でも1万回でも感謝したくなる。







現代詩手帖 2011年 08月号 [雑誌]
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八柳李花「sanctuary18 」、文月悠光「今日の渇き」

2011-08-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
八柳李花「sanctuary18 」、文月悠光「今日の渇き」(「遠来」3、2011年08月06日発行)

 八柳李花「sanctuary18 」は、想像力をむりやり駆り立てる。

行きずりの眩しさに冴え、
駅舎の灰の屋根をたどる
平らかな驟雨に濡れ。
頬を伝わる水滴の酸い汚穢を
舌先でなつかしみながら。
喉をしめらせる過度の慰みを
一身に受け路傍をさまよっている、
夏に廃されたプラットフォームの
白い廃墟に声をからし。
文字と音声のはざまを震撼する
鉄路の響きのうわずみを
かさかさとめくりあげ。

 作品の冒頭の部分である。句点「。」が何回か出てくるが、読点の一般的な使い方と違っていて、ことばはそこでは完結していない。「驟雨に濡れ、○○した。」がない。「結末(?)」を省略したまま、ことばが進んでゆくのである。
 この「中断の継続」を読み進むとき、私は、省略された何か、「○○した。」を追い求めるようにして、先へ進むのである。
 この不思議な中断が、想像力を駆り立てる「仕組み」である。
 想像力が、いま読んだことばではなく、書かれていないことばを追いかけるので、かかれたことばの奇妙さが気にならなくなる。

 (と、書きながら、私はその奇妙だけれど気にならない部分の「奇妙」について書こうとしているのだから、私の書いていることは「矛盾」なのだが……。)

 たとえば、「眩しさに冴え」とはどういうことだろう。冷える・澄む・あざやか。何か、うまく、ことばが結びつかない。ふと出会った光景が「眩しく」感じられる。その「眩しさ」によって、意識のよごれ(?)が払拭され、瞬間的に透明に澄む。その結果、世界があざやかに見える。そうして、意識はまっさらな、冷え冷えとしてような感じになる--ということかもしれないが……。
 なにか、そこには「わからないもの」がある。
 そして、その「わからないもの」がある、という感じが、いっそう想像力を誘うのである。「わからないもの」がある。それは、中断されたことばが、進んでゆく先にあるという印象を強めるのである。
 ただ、そのことばが進んでゆくのは、いま書かれた「ことばの外部」ではなく、「ことばの内部」である。

 と、ここでも、私は「矛盾」を書く。
 中断しながら進むことばを追いかける、と私は書いたが、「進む」というときは一般的に、「いま/ここ」という一点から、外へ向かって進むものである。--しかし、八柳のことばを読むとき、私には、そういう感じがしないのである。
 八柳のことばは先へ進む。しかし、その進む先は、「内部」である。それは別なことばで言えば、「逆戻り」である。
 1行目の「行きずりの眩しさに冴え、」を、私は正確に読むことができない。なんと書いてあるか「わからない」。その「わからない」の内部へとことばが進んでいく、と感じるのだ。1行のなかに、矛盾がある。先へ進むはずのことばが、先へではなく「内部」に向かう。
 --その矛盾のために、ことばは「中断する」。
 「中断」が、ことばの進む方向が「内部」である、と印象づけるのである。

 で、その「内部」なのだが--これが、また何とも不思議。
 古くさい。古くさくないのかもしれないけれど、古くさいという印象を呼び起こす。
 たとえば「駅舎の灰色の屋根」。
 「駅舎」って何? いま、そんなことばつかう? 「駅」としかいわないのでは? いまでは、建物を強調するときにしか「駅舎」とはいわないだろう。それに、建物を強調するときにだって、普通は「駅ビル」だろう。「駅舎」なんて、せいぜいが、明治にたてられた様式風の木造駅舎という具合につかうくらいだろう。
 この古くさい感じが、より「ことばの内部」を印象づける。八柳のことばはいま流通していることばではない時代のもの--八柳のことばは、すでにつかわれなくなったことばなのである。「いま」が封印していることばなのである。
 「内部=過去」へもぐりこみながら、そこから、ことばをあらたに拾い上げている。
 たとえば「平らかな驟雨」の「平らかな」。「驟雨」は古くさいだけだが、「平らかな」は違う。「古くささ」によごれていない。それは、つまり「平らかな驟雨」ということばの結びつきが、「過去」にはなくて(あるかもしれないが、無知な私は知らない)、八柳の「内部」(八柳の「肉体」)にのみ存在するからである。
 句点「。」でことばを中断させながら、八柳は、八柳の「内部(肉体)」に隠れていることばを引っぱりだし、動かす。その動きは、そうして、さらに「内部」へ「内部」へと運動を誘う。

鉄路の響きのうわずみを

 の「鉄路」など、「駅舎」そっくりで、時代後れの新聞の見出しぐらいにしかつかわれないことばだが、そのあとの「響きのうわずみ」の「うわずみ」がとてもいい。「響き」と「うわずみ」を結合させたところがとてもいい。
 「うわずみ」までことばを追ってきて、1行目の「眩しさ」「冴え」が、あ、これなんだ、と「わかる」。(「わかる」というのは、私はそういう風に「誤読」する、ということである。八柳は別の「意味」で書いたかもしれないが、私はそう理解し、納得する。美しいなあ、と思う、ということである。

 何か書きたいことがある。その書きたいことというのは「肉体の内部」にある。八柳自身のなかにある。外にではない。その「内部」へ「内部」へととこばを逆戻りさせるようにして進んでいくと、「内部の内部」に「うわずみ」がある。
 これは、もちろん「矛盾」である。「うわずみ」は上の方にある。「内部(下部)」には存在しない。--けれど、詩のことばの運動では、そういう矛盾を突き破って、そういうことが起きるのである。
 断定せず、中断し、中断しながら継続するという、八柳のことばは、そういうことを引き起こすのである。

 残念なのは、詩の最後である。

信号機は太古に振りおろされていた、
やわらかな軋轢に包まれ。
まるくなる、胎児のように
眼を閉ざしたまま。
私たちは閉ざされたまま。

 「内部」であるから「とざされたまま」というのは矛盾ではない。
 矛盾ではないことを書くことで、最後の最後で、八柳は何かを「間違えている」。「矛盾」で終わらなければ、詩ではない。「内部」へ逆戻りしながら進むことばは、「内部」に閉じ込められてしまってはいけない。「内部」を突き破って、「内部」でも「外部」でもない、「名付けようもない場」を見つけ出さないといけないのだ。
 「閉ざされている」から「聖域」、なのではなく、「名付けようもない」から、「ことばのなかにしかない」(名付けようもないと、ことばのなかにしかない、というのは「矛盾」だが……)から、「聖域」なのではないかと、私は八柳のことばを追いなから思ったのだ。
 --でも、まあ、私がここで書いているのは連作の1篇に対する感想に過ぎない。連作全体で、もっといろいろな動きを書きながら、ことばは別の世界をつかむかもしれない。



 文月悠光「今日の渇き」は、とても具体的である。八柳のことばとちがって、あくまで「私」から「外」へ向かってことばが動く。「私」の「外」、つまりそこにあるものを描写する。だから、とてもわかりやすい。(わかった気持ちになれる。)

日めくり暦を留めていた画鋲を
壁からそっと抜き取ってみる。
日々の重みを一途に受け止めてきたのか、
それは思いの外大きく、壁に穴を拡げていた。

 こういうときに「一途に」ということばが出てくるのは、文月が「一途」な正直さを生きているからだろう。
 具体的に、「外」の世界の「細部」をていねいに描くことが、ここでの文月の「一途」である。
 「一途」に先だつ「そっと」が「一途」をいっそう引き立てているが、これは文月の「狙い」か、それとも「地」か。あいまいなことろが魅力的である。
 と、思いながら読みはじめたのだが……。

穴に額を寄せると、
その細い闇が
ひめやかに胸の芯へと忍び入る。

 あ、この「転調」。いいなあ。「外」を具体的に(そっと)ていねいに一途に描写していると、「外」と「私」のあいだに不思議なつなぎ目(通路)ができる。その通路がきちんとできるまで、文月はことばをていねいに動かす。中断させたり、飛躍させたりしない。
 文月は、とこばを動かさずに「肉体」を動かす。「穴に額をよせると、」という具合に。そして、肉体を動かしてから、ことばを動かすのである。
 これは、ほんの「ひと呼吸」の問題なのだが、この「肉体」を動かしてから「ことば」を動かすというタイミングが、とてもいい。
 で、動きはじめたことばが、加速する。

ひめやかに胸の芯へと忍び入る。

 「ひめやかに」など、なんともうさんくさいことばだと思うのだが、文月のことばがていねいに一途に動いているので、はっと驚くほど美しい。
 ことばは、どんどんことばになっていく。--つまり、ことばが、「いま/ここ」をととのえてゆく。

画鋲の穴がまたたき、星々を成す。
かぼそい闇を抱きながら
壁は星空へ転身していく。

 ことばが世界を描写するのではなく、世界がことばへむかって整っていく。



Beady‐fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂


適切な世界の適切ならざる私
文月 悠光
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ジャン=ジャック・ベネックス監督「ディーバ」(★★★)

2011-08-21 18:32:56 | 午前十時の映画祭
監督 ジャン=ジャック・ベネックス 出演 ウィルヘルメニア・ウィギンズ・フェルナンデス、フレデリック・アンドレイ、リシャール・ボーランジェ

 なんともフランスっぽい。といっても、私が知っているフランスというのは限られているけれど。
 どこがフランスっぽいかというと「個人」主義。この映画には「組織」が欠如している。「組織」はないけれど、個人と個人の人間関係がある。フランスの「組織」というのは、結局、アベック(古いことばだねえ)、2人が基本だ。1人を超えれば「組織」。まあ、これが面白いといえば面白いね。笑えるね。
 「売春組織」も「海賊版組織」も「警察」も、ぜんぜん広がりを感じさせないでしょ? 警察署長に刑事が2人、売春組織の殺し屋2人、海賊版組織も2人、郵便配達の少年(青年?)を助ける少女と中年男が2人、そして主役の郵便配達の少年とディーバがまた2人。単純で、美しい。
 で、このとき「組織」というのは「組織」というより「直接関係」と言い直した方が、フランス人の考え方の面白い部分が見えてくる。何かをするとき、それは、その「対象」と「私」の問題。「他人」は関係ない。「他人(複数)」がいないから「組織」もない。「組織」というのは「複数の他人」を取りまとめる方法だからね。
 そして、この「個人」の問題を、「芸術(音楽)」に重ね合わせたのが、この映画。
 オペラは「集団芸術」だけれど、ここでは一人の歌姫(ディーバ)に焦点が当てられる。「音楽」は「レコード」という媒体(組織が作り上げた、組織の金儲けの手段)を通しては伝わらない。ディーバが歌うその場へ人が出かけ、そこで聞く。会場には不特定多数の聴衆がいるが、「音楽」に触れるのは、あくまで「個人」。「個人」として、音楽を聞くのである。そのとき、ディーバと「一人の聴衆(少年)」の恋愛が成立する。そこに「音楽」の至福がある。
 フランスでは、あらゆることが「恋愛」、つまり、「2人」の関係。
 ディーバの歌う「アリア」も、ディーバにとっては「楽曲」と「歌手」という「2人」の関係。
 「恋愛」だけがフランス人にとって受け入れることができる「組織」というか「団体活動」なんだねえ。
 何が言いたいかというと・・・。
 この映画に登場する「組織(組織の末端)」が「2人」にこだわっているのは、ディーバと少年の「2人」の関係を浮き彫りにするためである。
 だから、といっていいいのかな、ディーバと少年がほんとうに「2人きり」になるシーン、夜のデートのシーンが美しいなあ。少年が傘をさし、ディーバが悠然と、気ままに、街をさまよう。どこかのテラスで休む。最初は2人は離れているが、少年が少しずつ近づいて行き、ディーバの肩に触れる。その「接触」(直接的なふれあい)をディーバは受け入れる。いいねえ。この静かな感じ。恋愛の至福。
 この、夜の散歩と同じくらい気に入っているのが、東洋かぶれの男とベトナム人少女の恋愛の「場」。少年と同じように、「ロフト」に住んでいるのだが、装飾品に「止まらない波」のオブジェがある。その波の色が美しい。その波の底で中年男は「孤独」を生きる。その「孤独」からときどき浮上して、少女と恋愛をする――ここに、中年男の「夢」がある。いつでも「個人」でいたい。「組織」に属さず一人でいたい。けれど、さびしくなったら(?)、「恋愛」をして生きていることを確かめる。女は(少女は)、そういう男のわがままを受け入れる。

 フランス人は恋愛を重視する、恋する女が「不名誉」な状態にならないように配慮する――といわれるけれど、違うんじゃないかな? ほんとうは、女にわがままを受け入れられたい思いの男で満ち溢れているんじゃないのかな? 無理に気取っているんじゃないのかな?
 男がしでかした「結末」を受け入れるのはディーバ(女)であり、女刑事(これがあるから、刑事はやめられない、と最後に言う)だもんねえ。
 ――という、ジャン=ジャック・ベネックスの映画の奥に眠っている「夢」を分析してみました。
 多くの映画は、2度目に見るときは、どうしても視線が「斜」になるなあ。1回目を見るときのように、まっすぐにのめりこめないいなあ、と「午前十時の映画祭」の作品を見ながら思うこのごろ。



 天神東宝の音響は相変わらずひどい。途中で必ず入る「びりびりぶおぉぉぉん」という音はどうにかならないのか。
(2011年08月20日天神東宝3、「午前十時の映画祭」青シリーズ29本目)



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岡井隆「沼津在「恐怖の一夜」にちなんで 清水昶さんの霊に」

2011-08-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「沼津在「恐怖の一夜」にちなんで 清水昶さんの霊に」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 岡井隆「沼津在「恐怖の一夜」にちなんで 清水昶さんの霊に」はタイトルから分かるように、清水昶を追悼した詩である。その書き出しが、非常におもしろい。
 ここには「3つ」の要素が書かれている。

新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ好例だが人名に付された四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことつまりどうでもいいので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

(1)新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ
(2)人名に付された四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことつまりどう   でもいい
(3)清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

 岡井が書きたい結論(?)は、訃報欄で清水昶の名を読み、暗くなった、ということなのだと思うが、私はその「事実」よりも、そのことを書くのに、わざわざ(2)の部分を挿入していることを、とてもおもしろく感じた。「追悼詩」なのにおもしろがってはいけないのかもしれないが、(2)の部分に、岡井を強く感じ、ちょっと笑ってしまったのである。

 たしかに、岡井がいうように、清水昶を個人的に知っている岡井にとって新聞の訃報欄に書いてある「解説」はどうでもいい。新聞の「解説」も「略歴」も、すべて知っていることである。
 では、岡井にとっては何が大切なのか。
 岡井は、最初の文につづけて、清水昶と行った沼津の思い出を書いている。同人誌を発行する相談をしたことを書いている。大雨で恐怖の夜、洪水に襲われたかもしれない恐怖の夜だったらしい。その、酔っぱらったときの、清水昶と岡井の態度がまったく違っていたというようなことが、清水昶の文章を詩のなかにとりこみ、また岡井の短歌を取り込む形で、延々と書かれていく。
 その書かれていることは、実におもしろい。(引用は長くなるので、引用しない。「現代詩手帖」で読んでください。)岡井が朝が「暗い森」になったと書いているのは、それはそこに書かれている思い出が、恐怖にもかかわらず、あまりにも明るくまばゆいことだからである。

 --ということは別にして、私は少し違ったことを書きたい。
 最初に少し書いたが、私は(2)の部分をとてもおもしろいと思った。そして、(2)の部分でも、私が一番魅力的に感じるのは、
 
慮外のことつまりどうでもいいので

 である。
 ここで岡井は「慮外」をわざわざ「どうでもいい」と言いなおしている。「慮外」か「どうでもいい」のどちらかを省略して、

四五行の解説はその人を知るものにとつては慮外のことなので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

四五行の解説はその人を知るものにとつてはどうでもいいことので清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた

 という文章でも「意味」はかわらないはずである。それなのに、わざわざ岡井は、「つまり」ということばをつかって漢字熟語(漢語)を和語に言いなおしている。
 この「言い直し」が、ことばにはふたつのリズムとメロディーがあるということを教えてくれる。漢字熟語のリズムとメロディー。和語のリズムとメロディー。
 そしてその事実は、ことばには、それぞれそのことばが生きたリズムとメロディーがあることを教えてくれる。
 リズムとかメロディーというのは、ことばの「意味」からみれば、まあ、「どうでもいい」ことかもしれない。--と、普通には考えられているかもしれない。
 けれど、違うのだ。
 何を言ったか、どんな意味だったか--ということよりも、どんな口調で言ったかそのときのリズム、メロディーが伝えるものの方が重要なのだ。たくさんのことを語っているのだ。「意味」を越える何かを語っているのだ。
 それは、岡井が引用している清水昶の文章を読めば分かる。清水昶の文章を、岡井は、
アルコールの匂ひが背後にするやや大げさな面白がりのところがないではない

 と批評しながら引用しているが、そこに「人間」がでている。「意味」ではなく、「人間」がでている。リズムやメロディーには、「人間」がでるのである。
 それを知っていて、岡井は、わざわざ(2)の文章を書いているのだ。「慮外のことつまりどうでもいいので」ということばで、リズム・メロディーの複数性を先取りする形で表現しているのである。
 「慮外のことつまりどうでもいいので」ということばで暗示したことを、岡井は、その後、清水昶ことばと岡井のことばを並べて見せることで、具体的に例示しているのである。



 追記。 
 (1)(2)(3)のなかでは、(2)は「意味」的には、無用のものである。つまり、(2)を省略して、

新聞の訃報は人の名前が読むものを打つ。清水昶の名だけで一気にぼくのその朝をざわめく暗い森にしてしまつた。

 書き出しを、そう書いたも「意味」はかわらない。「結論」はかわらない。けれど、岡井は(2)を挿入する。いわば「無意味」を挿入する。そして、その「無意味」に呼応するような、「無意味」なエピソードを次々に書きつづける。
 それは、なぜか私には、「無意味」だけが「意味」をつなぎ、そして「意味」を超越して生き残る--ということを想像させる。
 詩の書き出しの「構造」が作品全体の「構造」をあらわし、同時に、その「思想」をあらわしていると思う。



注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
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粕谷栄市「心願」

2011-08-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「心願」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 粕谷栄市「心願」は『遠い川』の詩群につながる作品である。区別がつかない。ただ同じことを書いている。けれど、私は、その「同じこと」を読むのが好きである。

 ひょうたんが、一つ、所在なげに、そこにころがって
いる。ひょうたんは、ひょうたん以外のものでありえな
い。いつまでたっても、それは、ひょうたんだ。
 だからといって、何があるというわけもないが、私は、
そこで、ひとり、笑っている老人になりたいと思う。
 なぜ、自分がそこにいるのか、どうして、そうなった
のか、何もかも、全く、気にならなくなった老人になり
たいのだ。

 「ひょうたん」があり、「私」がいる。そして、「私」は「ひょうたん」といっしょにいる「老人」になりたい。
 そうして、「私」は実際に、詩のなかでは「老人」になってしまう。つまり「私」と「老人」の区別がなくなる。そうすると、次は、「ひょうたん」と「私」の区別がなくなる。そういう気持ちになる。

 ひょうたんは、いつまでたっても、ただのひょうたん
だ。そのことに関わりがあるのかないのか、老人は、笑
っている。そして、そうしていると分かるが、そこにこ
ろがるひょうたんも、さりげなく、笑っている。
 その茫漠のなかにいると、自分が、そのひょうたんで
あっても、一向、差し支えなくなるのだ。

 「ひょうたん」「私」「老人」がなにやら溶け合って、どこからどこまでが「ひょうたん」であり、どこからどこまでが「私」、さらにどこからどこまでが「老人」であるか、いちいち書き分けるのが、いや、区別しながら読み進むのが面倒になる。
 そして、そうしていると分かるのだが--と思わず書いてしまい、あ、いまの「そして、そうしていると分かるが、」というのは粕谷のことばであった。どうやら、私は粕谷のことばのなかに、完全にはまりこんでしまったらしい。そして、そうしていると(完全にはまりこんでいると)分かるのだが、私(谷内)が粕谷であって、そうして「ひょうたん」と「老人」の詩を書いていても、あるいは、そこにある「ひょうたん」や「老人」であっても、「一向、差し支えなくなるのだ。」

 でも、こんなことを書いていたら、感想でも、批評でもなくなるから、私は強引に私に引き返して……。

 この「そうしていると分かるが、」が粕谷の「思想」である。「肉体」である。そして、その中心は「分かる」ではなく、むしろ「そうしていると」、その「そうして」の「そう」にある。
 「そう」って何?
 むずかしいねえ。「そう」を自分のことばで言いなおすのはとてもむずかしい。
 「そう」の「そ」は「その」の「そ」に似ている。
 何か前に書いたこと、それを指し示し、同時に「肯定」している。「そうしていると」というのは、「そうであることをよし」としていること、「肯定」することである。
 そうすると、「そうしていると分かる」とは「肯定すると分かる」ということでもある。
 実際、粕谷が書いているのは、「ひょうたん」があるということを「肯定」することからはじまっている。そこに「老人」を登場させ、「老人」が「老人」であるということを「肯定」する。(それは「老人」である「私」を「肯定」することでもある。)
 そして、この「肯定」は、また「そう」の「そ」(「その」の「そ」)を、ただくりかえすことでもある。「そ(の)」が指し示す先行するもの・ことをただただ繰り返す。粕谷の書いていることばは、いっこうに前へは進まない。おなじところにとどまり、ただ同じことを繰り返す。
 同じを繰り返す--これが「肯定」である。
 すべてを「肯定」し、何も「否定」しない。
 また、このときの「肯定」は「否定」の反対の姿勢というだけにとどまらない。

 なぜ、自分がそこにいるのか、どうして、そうなった
のか、何もかも、全く、気にならなくなった老人になり
たいのだ。

 「なぜ」を捨てているのだ。「なぜ」を気にしないのだ。「肯定」は「疑問」をもたないということである。「否定」はきっと「疑問」からはじまる。「疑問」をすてれば、自然に、「肯定」になる。
 「そうしていると分かる」は「疑問」をもたずに、「いま/ここ」を「肯定」すると、「分かる」ということだ。
 でも、何が?
 「なぜ」を捨てたあと、「何」が「分かる」のか。

 しずかな四月の昼、ひょうたんが笑っている。自分も
笑っている。そこが、どんな人間も知ることのない、怖
ろしいところだとしても、どうでもいいのだ。
 おのれのまぬけな一生のはてに、私は、その老人にな
りたいのだ。いや、自分がとっくに死んでいることも忘
れている、そのひょうたんになりたいのだ。
 いつの日か、そのでたらめな超越だか永遠だかに、い
や、その丸い尻をした、ただのひょうたんに、心から、
なりたいと思っているのだ。

 「永遠」が「分かる」のである。
 では「永遠」とは何か。
 「そのでたらめな超越だか永遠だかに」と「でたらめ」ということばで「否定」している。これは「矛盾」である。だから「思想」である。この「矛盾」をときほぐすのはむずかしい。
 「いつの日か、そのでたらめな超越だか永遠だかに」の「か」に注目すべきなのだと思う。「か」は「疑問」。「特定」できていないのである。「いつ」を特定できない。「時間」を特定できない。それが「永遠」とつながっている。
 そして、その「時間」を特定できないことを書いた直後に、「いや」と、また「否定」を持ち出してきている。そして、それは「時間」ではなく、「ひょうたん」という「もの」である。
 ふたつを強引に結びつけてみると、「時間」を「否定」した「もの」。「時間」を超越した「もの」。それが「永遠」にならないだろうか。
 「もの」のなかに、「永遠」がある--ということが「分かる」のである。
 これは、「なぜ」を欠いた粕谷のたどりついた「思想」である。それは「納得」と言い換えてもいいかもしれない。



遠い川
粕谷 栄市
思潮社
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パオロ・ベンヴェヌーティ、パオラ・バローニ監督「プッチーニの愛人」(★★★)

2011-08-19 23:44:10 | 映画
監督 パオロ・ベンヴェヌーティ、パオラ・バローニ 出演 リッカルド・ジョシュア・モレッティ、タニア・スクイッラーリオ、ジョバンナ・ダッディ

 映像がとても美しい。台詞はほとんどない。あっても、男たちが酒場でジャンケン(?)のようなものをして、負けたら酒をおごるシーンくらい。それも、声は「掛け声」だけ。あとはときどき手紙が読み上げられる。音楽は、ピアノと、女の歌声だけ。
 しかし、いいなあ。
 どの映像も非常にしっかりしている。「構図」がある。全シーンが名画になっている。こういう「絵」を撮るんだ、というしっかりした意識がある。舟で湖(川?)をゆくシーンなど、葦で舟や人が隠れるときの、その隠れ方、そして次にあらわれるときのあらわれ方まで、綿密に計算されている。--なぜ、このシーンを取り上げたかというと……。水の上って、「線」が描けない。リハーサルと本番とで、映像が一緒になるとは限らない。それでも、完璧なのだ。
 最初にメイドが別荘の窓を開けて光を入れるシーンがあり、最後にホテルのボーイが手紙をもってくるシーンがあるのだが、その最後のボーイの姿は壁に映った影というのも冒頭と不思議な感じに呼応していて、楽しい。
 おかしいのは、プッチーニが浮気をするシーン。使用人に、ピアノの鍵盤に印をつけて、こことここを叩く、と教える。使用人は、それを懸命に叩く。庭には妻がいる。ようするに、ピアノを弾いているという「アリバイ」をつくって、浮気に出かけるのだが。
 えっ、プッチーニの妻は、プッチーニの弾くピアノと使用人が弾くピアノの音の区別がつかなかった?
 あ、そんなんじゃ浮気されたってしようがないよなあ。
 私は妙にプッチーニに同情してしまうのである。妻の嫉妬深さ。そして、娘のずるさ。それに比べると、このプッチーニの「アリバイ」づくりのかわいらしさ。
 「小話」風になっている。
 たぶん、プッチーニの愛人騒動というのは、イタリアでは周知のことなので、人間劇というより、「小話」にしたかったんだろうなあ。監督は無声映画をとってみたかったんだろうなあ。無声映画には、こういう「小話」が似合っているね。
 その「小話」という点からいうと、ホテルのボーイの影(影絵みたい)もしゃれていてとても楽しいのだが、何と言えばいいのだろう、そいう「小話」の部分と「小話」をはみだすものが入り乱れて、少し残念でもある。「小話」にするなら、もうすこし映像が軽い方が楽しい。あまりに映像が美しすぎて、「小話」がかすむのである。
 特に、最後の最後のほんとうのラストシーン。高い木々を下から撮った映像。テレンス・マリックと違って「神」ということばなど出てこないのだが、(神はほかのシーンに出てくるけれど)、神を感じてしまう。静かな気持ちになる。--この静かさ、その沈黙が、うーん、映画をちぐはぐなものにしている。


プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》 [DVD]
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小林稔「他者たち」

2011-08-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「他者たち」(「ヒーメロス」18、2011年06月25日発行)

 小林稔「他者たち」は男色(同性愛)への情念を描いているのか、ことばへの情念を描いているのか区別がつかないが、同じことなのかもしれない。
 このとき、ことば、とは「文学」のことばである。
 「文学」のことばは「男色」というと語弊が生じるが、なにかしら「同性愛」のようなものを含んでいる。ことばが描く「対象」と、ことばはある意味で「同じ」でなければならない。そして、また「同じ」であってはならない。「同じ」なのだけれど、そこに「異質」なものがふくまれていないと、それは「流通言語」になってしまう。「同じ」のなかにある、「同じではないもの」をもとめて、ことばはさまよう。

深紅の片(かけら)がいくつもせめぎあう薔薇の萼(うてな)を口に含んでそのいとおしさに口惜しいまでの執念をもってなでまわしていたこと、私の眼前に友愛を願わずにはいられないひとが現われたのである。そうした想いの根は幼少時まで遡るが、思春期に近づくにつれ、その茎を伸ばし、十二歳を過ぎたころから植物への欲求への固い蕾がゆるみ始めていたのであった。

 「薔薇」、あるいは「植物」を、「文学のことば」と置き換えると、小林の書いていることがわかりやすくなる。片に「かけら」とルビを振り、萼に「うてな」とルビを振るように、「薔薇」「植物」、さらには「ひと」に「文学(のことば)」とルビを振ればいいのである。
 これは強引な方法だが、文学、あるいは同性愛というのは、いくらか強引なものを含んでいるのだ。
 「対象」にはほんらい含まれていないものを、外から強引につけくわえる。ただし「片(かけら)」「萼(うてな)」のように強引といっても、そこには一種の「共有された文化」が介入しており、その「共有された文化」が強引さを薄める。ときには「洗練」や「歴史」を感じさせる。蓄積された「感性」を感じさせる。この「洗練」や「歴史」「感性」というのは、しかし、もっぱら「好み」の問題に集約されるので、いやだなあと感じたりするひともあらわれてくる。(「古くさい」「いまにはそぐわない」という感じが、小林のことばにはついてまわるかもしれない。)
 この強引な接近の仕方は、いろいろあるけれど、小林はいま書いたように「ルビ」に特徴があらわれている。「ルビを振る」という行為にあらわれている。
 完全な言い換え(比喩)ではない。比喩の寸前。「比喩」とは「いま/ここ」にないものを対象に結びつけることだが、小林はそういうことをしない。「いま/ここ」に完全になじんでいるものではない「文化」を併記するのである。
 「比喩」がいわばセックス(性交)をとおして、相手を相手の外へ連れ出す(エクスタシー--自己からの脱出)のに対し、「ルビ」は性交以前である。よりそい、愛撫するだけの行為に似ている。(もちろん、よりそうこと、手をつなぐこと、愛撫することもセックスなのだが、あえて性器の結合とは区別しておく。)
 性交とよりそいながらの愛撫とどこが違うか。
 「距離」が違う。よりそいながらの愛撫は、いわば「迂回」である。長い長い距離をたどる。その指は、クリトリスを刺激するだけではなく、首筋も耳朶も乳房も脇腹も膝の裏も足の指の間もたどる。長い長い距離。--だから、小林の文体は長くなっている。初期の中上健次や志賀直哉の短編の文章のようには、短い距離を、さらに突き破るようには動かない。ただひたすら「中心」をさせるようにして、遠く遠く動くことで、「核心」そのものを目覚めさせるのである。
 めんどうくさい(?)といえば、めんどうくさいが、これが小林の「好み」なら、それはそれで、もう他人が口を挟む筋合いではない。なるほどねえ、こんなふうにして対象に接近するのか、と思って、その「距離」の変化を楽しむしかない。そうやって動くのが、小林の「ことばの肉体」なのだ。

 小林の「ことばの肉体」の特徴は、いま書いたことと重複しながら少しずれるのだが、もうひとつ特徴がある。

私という自我は取り返すべくもなく、他者をつぎつぎに食して私は変成しつづける。とはいえ、それは情念(エロース)の引力のゲームというべきもの、つまり嘗める他者の肉体だけでなく、私を牽引する他者の思惟であり音楽であり絵画であり他者の遺した詩作(ポイエーシス)であった。

 ここではルビが「ひらがな(日本語)」ではなく、「カタカナ(外国語)」である。こういう結合は「異性愛」なのか「同性愛」なのか、ちょっとややこしいが、小林のことばは「日本語」だけを生きていないということである。
 自分の過去(日本語の過去)だけをたどり、そこから「ことば」を探し出す、そんなふうにして「過去」を耕すだけではなく、日本語と「平行」して動いている外国語からも「愛撫」を試みるのである。そのとき、文体はどうしたって「外国語(翻訳語)」になる。「外国語」の「観念」が動いた跡を追いかけるようにして動いてしまう。
 こういうとき、なにかしら、「分離」のようなものが生まれる。
 「愛撫」というのは接近なのだが、どうしても性器同士の結合と比べると「分離」という印象が残る。ことばが、そこに書かれた「表記」と「ルビ」に分離するように、何かが離れる。どんなにていねいに指の動いた距離を描いても「分離」の印象が残る。「一体」になっているという感じではなく「よりそう」という感じが残る。
 これを、どう超えるか--これが、おもしろい。

とはいえ、

 このことばで、併存するものを、それが単なる併存ではなく、併存に見えるのは見かけであって、実質は「同じ」(区別できない)ものであると、ひとつの「段落」(文意の塊)のなかに封印するのである。強引に、内部にわりこむ(あるいは外部にはみだす)。そうして、どっちがどっちかわからなくする。
 指が相手のからだを愛撫するが、それは指の欲望なのか、それとも指は相手のからだの欲望に誘われているだけなのか。小林の「文体」にしたがって言うならば、指が相手のからだを愛撫する。とはいえ、それは相手のからだの欲望に誘われるままに指が動いているのである。つまり、私が相手のからだを愛撫しているだけではなく、私を牽引する相手の欲望があるから私は動くのである。それは相手が生み出した愛の形なのだ。

 この「とはいえ、」は書かれることもあれば、書かれないこともある。
 1連目では「十六歳にもなればその病根は狂おしいほどの邪な願望であるという自覚から隠蔽すべき種子を肉体の秘めた部位に蓄えていたとはいえ、増殖する細胞の逆らいがたい潮は防波堤をのり越えて太腿までも濡らしてしまう刻(とき)がつづいた。」という長い文章のなかに隠れている。これは長い文章という「隠れ蓑」のおかげで目立たない、たいていの場合、目立ってしまうので小林は書かない。
 書かないのは、書かなくても小林の「肉体」のなかで「とはいえ、」ということばが無意識に動いていて、省略しても小林自身気がつかないということもある。こういう肉体化されたことばを私は「キーワード」と呼ぶ。このことばは、小林の文章が、あ、なんだかわかりにくい、ややこしい、と思ったところに、補って読むと、ことば全体がすっきりと動いてくれるものである。
 たとえば、

白や黄色や赤の朝露に濡れた花びらに陽が射し始め、やわらかに縁取る流線の鮮やかさを加えていく薔薇の片(かけら)が外側に向けて夜を開き、やがて萼(うてな)からもがれ地上に落ちふたたび闇に沈む。花々を食み愛でた私の肉体もまた朽ちるが、他者たちの記憶は、書物に編まれた言葉の呼びかけによって、生まれくる他者たちのたましいを凌駕し、<非在>へのさらなる筆記(エクリチュール)を促してくる。

 「白や黄色」から「闇に沈む」までは、薔薇の描写。そのあと「花々を食み」からの文章がとても入り組んでいる。これを「とはいえ、」をつかって書き直すと、次のようになる。

花々を食み愛でた私の肉体もまた朽ちる。「とはいえ、」他者たちの記憶は、書物に編まれた言葉の呼びかけによって、生まれくる他者たちのたましいを凌駕し、<非在>へのさらなる筆記(エクリチュール)を促してくる。

 私の肉体は朽ちる。とはいえ、他者たちの記憶は、「私に」さらなる筆記を促してくる。肉体は死んでも、他者たちがそれを許してくれない。そして、「体験」を「ことば」のかたちで「併存」させるよう誘う。私は死んでも、ことばは、そうやって生き残る。
 体験とことばは表記とルビのように併存する。
 「とはいえ、」は「逆説」のように見えるが(だからこそ、朽ちる「が、」と小林は書いた)、実は逆説ではない。小林にとっては、あくまで「並列」の一種である。あるいは「亜種」というべきか。

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スサンネ・ビア監督「未来を生きる君たちへ」(★★★★★)

2011-08-18 17:33:08 | 映画
監督 スサンネ・ビア 出演 ミカエル・バーシュブラント、トリーネ・ディアホルム、ウルリク・トムセン、ヴィリアム・ユンク・ニールセン、マークス・リーゴード

 アフリカ(どこの国だったかな?)とデンマークで繰り返される暴力。暴力の質も、カメラがとらえる風景もまったく違うのに、違って見えない。アフリカであることを忘れる。デンマークであることを忘れる。ふたつの国の間にある「風土(風景)」の違いを忘れ、暴力の違いを忘れる。
 なぜだろう。
 カメラが、暴力描写に焦点を当てていないからだ。いや、これは正しい言い方ではないなあ。少年が空気入れで学校のボスを殴るシーンはあるし、自動車工場の男が医師を殴るシーンがあるし、何よりも腹部を切り裂かれた妊婦の描写がある。それでも、「暴力描写」という気がしない。映像に誘われて、「暴力の快感」に酔う、ということがない。暴力のアドレナインとは遠い所で、すべてがとらえられている。
 そんなことでは、何の解決にもならない――という声が聞こえてくるのだ。どの暴力描写からも。
 たとえばアフリカの暴力のクライマックス。妊婦の腹裂きの首謀者ビッグマンに対して怒りが爆発してしまう医師。そして、命を助けるのが仕事といって周囲の反対を押し切って治療したはずのビッグマン、そのビッグマンがリンチされるのを許してしまう。そのときカメラはリンチの暴力をとらえると同時に、医師の絶望する表情を映し出す。暴力を暴力で封じても、報復を生むだけ――という「信念」があるはずなのに、どこかで暴力を許してしまっている。自分の「怒り」を許している。抑えきれない「怒り」というものはあり、それはどうしても噴出してしまう。
 そういう絶望の自覚。それが、静かに映像の底に横たわっている。
 ――と、ここまで書いてきて、この映画のテーマが「自覚」だと気づいた。
 象徴的なシーンがある。いじめられっ子の父であり、医師である男。彼はこどもの喧嘩の仲裁に入り、相手の父親に殴られる。しかし殴り返さない。それを見た子供から「相手の男を恐れているからだ」と批判される。医師は、男を恐れていないということを子供たちに証明されるために、わざと殴られる、殴られて見せる。そのあとで、「あの男は暴力では何も解決できない愚かな男だ」と説明する。
 それに対して、いじめられっこの友達の少年は、「でも、あの男はそれを自覚していない」という。
 これはとてもするどい指摘だ。
 誰もが自分の愚かさを自覚していない。自覚できない。そのために暴力が横行している。そして暴力とは、誰かを殴るとか、肉体的な傷をおわせるという形以外でも行われている。そのことに対する自覚はもっと難しい。
 その例として、がんの妻の安楽死を選んだ夫の、子供に与えた「暴力」、浮気を謝罪する医師を許さない妻の「暴力」が描かれる。少年が、安楽死を受け入れた父を許さないのも暴力である。「自覚」の問題を指摘した少年にも、自分のことは「自覚」できない。自覚されない「暴力」は、他者を「許さない」という形で噴出する。そして、この「非寛容」こそが、この映画が追い続けている「暴力」の問題である。
 様々な暴力があふれている。
スウェーデンから移民してきた医師の「発音」の間違いを許さない自動車工場の男の「非寛容」も、手で医師を殴る以上の暴力である。
世界のいたるところに、いつでも「非寛容」という暴力が寄り添っている。そのことは、アフリカもデンマークも変わりがないのだ。世界中、どこも同じなのだ。――この深い哲学が、絶望が、映画の視線を統一している。そのために、映画がアフリカを描こうが、デンマークを描こうが、「同じ次元」として映像に結晶するのである。
このテーマにこたえた出演者の演技がまたすばらしい。怒りを内に抱え込みながら、どうしていいか分からない――その感じが、主要な人物に共有されていて、その「感じ」が映画全体を支えている。
それと。
映画の冒頭に出てくるアフリカの子供たち。医師の乗ったトラックを追いかけて「ハウ・アー・ユー」と叫び続ける。その笑顔の美しさ、明るさ。あ、そこには「絶望」がない。状況は絶望的だが「絶望」がない。他者を完全に許している。「ハウ・アー・ユウ」と相手を気遣っている。彼らに「ハウ・アー・ユー」が相手を気遣うことばという「自覚」はないかもしれない。もしかすると「ギブ・ミー・チョコレート」と同じ気持ちかもしれない。でも、いいなあ。そんなこと、どうだって。「ハウ・アー・ユー」と言っている。そう信じるとき、私にはなんとなく「希望」が湧いてくる。その「希望」とアフリカの明るい光、乾いた空気がとても似合っている。




ある愛の風景 スペシャル・エディション [DVD]
クリエーター情報なし
角川書店
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岡本勝人『古都巡礼のカルテット』(2)

2011-08-17 23:59:59 | 詩集
岡本勝人『古都巡礼のカルテット』(2)(思潮社、2011年05月31日発行)

 岡本勝人『古都巡礼のカルテット』の作品群は基本的には「古都」をめぐる。けれど、そのことばがジョン・ダンの詩からはじまったように、「古都」にしばられるわけではない。
 「第二楽章 巡礼歌は四辻にきこえない」の冒頭。

西大寺から近鉄線にのって
男は奈良駅にもどると
猿沢池まで商店街を散歩することにした
中央の道を遊歩していると右手に池があらわれた
白鷺が首をひねり
岩のうえで亀が甲羅をほしている
三重塔の階段のしたには衣手の柳があり
太陽がおちると路肩から夜の光がはなたれ
男のまぶたに不透明な水面が照射される夕暮れ
右手には柿の葉ずしの料理屋「平宗」がある
左手の奈良町の四辻にいくと元興寺跡にでる
三重塔に登る階段は興福寺南円堂に通ずる道だ
男は「四国九番南円堂」の書字の道標に触れ
「不空羂索観世音菩薩像」と染められたのぼりをみる
おみやげ物店にはいると
北円堂が開帳しているという声がした
「楕円形」との遭遇である

 「四辻」ということばが出てくるが、このことばが岡本の作品を特徴づけているかもしれない。四辻では、何かが出会う。違う方向のものが出会う。そのとき、それは「出会い」だけではない。出会いながら、別な方向へ「開かれる」ことである。
 岡本のことばの特徴は、いくつものことばが出会い、その出会いが重層的に結晶するというよりも、層をつくるのではなく、水平方向へ広がっていくのである。
 いま引用した1連目につづく2連目は次のようになっている。

  太陽神のオベリスクがたつローマの四辻
  北からの巡礼者をうけいれたポポロ門から
  女は歩きどおしだ
  映画にでてくるスペイン階段と
  バルカッチァの泉をすぎる
  バルベリーニ広場のトリトンの噴水は
  アンデルセンの即興詩人の舞台だ
  クアットロ・フォンターネの辻には
  四つの噴水がある
  女はボッロミーニのたてた
  「楕円形」のドームの教会にはいると
  ちかくの教会へと足を延ばした

 「男」が「女」にかわっているが、ここでは1連目の「歩く」「四辻」「階段」が重なり合う。そのために、勝本の作品は「古都=奈良」と「古都=ローマ」を、「古都」という共通項で「重ね合わせ」ているようにみえる。その「重なり」をつなぐものは「古都」であると同時に、岡本の「肉体」であるように見える。
 そして、その重層的な「肉体」から「歴史=時間」があふれてくる。
 --という具合に読んでいきたいのだが、私の印象では、そうならないのだ。
 ここで重なり合うのは「四辻」から人が別な方向へ歩いていくことができる、そしてそこではひとはいままでとは違った何かに出会うことができるという「平面的」な動きなのである。
 もし、そこに「時間」というものがあるとしても、それは垂直に積み上げられた「時間」ではない。重層化した「時間」ではない。
 「四辻」は「2本」の道が交叉してできる。2本のはずなのに、交叉した瞬間、そこに「4」が生まれる。増幅する。「四辻」ということばを選びとったときから、岡本は、歩くことで「増幅する時間」に選びとられているといえる。

 別な言い方をしながら、私の考えたことを説明しなおしてみる。
 ある道を歩いてくる。その両脇には、いろいろなものが存在し、それを見ながらひとは自分がどこにいるか、どんなふうに生きているかを知る。そのまま道をまっすぐに歩いていけば、その生き方はたぶんかわらない。
 けれど、その道と交叉する道に出会い、それをきっかけにたとえば右へ曲がってみる。そうすると、そこにはいままで見てきたものとは違ったものがある。それを自分のことばで言いなおすとき、それはほんらいそこにあったものとは違ったものになる。「別な時間」がそこに噴出してくる。「新しい時間」が動きだす。
 そういうことが起きる。
 ちょっと抽象的に書きすぎてしまったが、角を曲がって知らない通りに踏み込むとき、自分の視線が洗われるだけではなく、そこにあるものも新しい人間の視線に洗われ別の存在になる。
 そういうことが起きる。

  ちかくの教会へと足を延ばした

 この行の「足を延ばした」。それは、その方向へ歩きだしたということだけれど、ただ「歩く」のではない。「延ばす--拡張する」ということが、そこにはあるのだ。
 何かに出会い、それを契機に、考えを「凝縮する」(結晶化する)という方向ではなく、その出会いを利用して、いままでの考えを「延ばす」(拡大する)。
 これは、「開放する」ということだ。「開放する」は「解放する」でもある。「自由」になる、ということでもある。
 実際、岡本は、自在にことばを放り出しているように見える。何か書きたいことがあり(結論があり)、それへ向けてことばを動かすのではなく、どうなってもいい、自分を縛り付けているいくつかのことばを、出会ったものに対してぶつけていく。出会ったものを利用して捨てていく。そうすると、そのことばは、何かしら「自由」になる。
 もとの文体(出典の文体)から解放され、ある意味では「無意味」として動く。つまり、そこにあるものを「無意味」にしてしまうために動く。
 「奈良町の四辻」と「ローマの四辻」はまったく関係がない。関係がなくても、あらゆるものは適当に「理由」をつけて出会うことができる。そこから、東西南北、どの方向へ動いていくかは、まったく「自由」だ。

 ここからはじまることを「信用」していいのか。いいか、わるいか、私にはわからない。けれど、私は信用してしまうのだ。
 「歩く肉体」のスピード感が納得できるからである。

 --抽象的なことばかり書いて、なんだか、岡本にもうしわけない。詩集の感想をもっと早く書きたかったが、書けなかった。それは、いま私が書けることは「抽象的」な印象に過ぎないということが「わかっている」からである。
 岡本の歩行する肉体、出会いのなかで肉体を開放し、それにあわせてことばを解放していく--そのいさぎよい快感。
 こういう詩が、私は、ようするに好きなのだ。
 肉体を感じ、同時にことばも感じる。自由になることばを感じ、肉体が自由になるのを感じる。ここから、新しいことばが生まれるはずだと信じることができる。




ミゼレーレ―沈黙する季節
岡本 勝人
書肆山田
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岡本勝人『古都巡礼のカルテット』

2011-08-16 23:59:59 | 詩集
岡本勝人『古都巡礼のカルテット』(思潮社、2011年05月31日発行)

 岡本勝人『古都巡礼のカルテット』はタイトルどおり古都を旅する詩集である。おもしろいのは、その詩集が「古都」から始まらないことである。

「誰がために鐘は鳴る」という詩がある
ヘミングウェイの小説のタイトルにもなった
詩人で僧侶のジョン・ダンの詩だ
その詩のなかの「島」(Island)は
「なにびとも一島嶼ではない」という意味の島で
「こころのよるべとなる島」は
つながりのある土地の意味だ
インド・ヨーロッパ語に属するサンスクリット語では
島(ディーパ)の語意は燈明(ディーパ)と訳せた
すべては
諸要素のあつまりに過ぎないから
すべては過ぎ去るものであるから
みずからを燈明(ともしび)とし
みずからを島とせよ
釈尊は甘露のふる地上で星になった

 突然、「誰がために鐘は鳴る」という「古都」とは無関係なものから始まる。しかし、それは何やら私の知らないものを経めぐって、「釈尊」という「古都」につながるもの--私が「古都」と関連づけているものへと辿り着く。
 これ、何?
 私にはさっぱりわからない。さっぱりわからないのは、そこに書かれているいくつかのことばの「意味」を知らないからだ。はじめて読むからだ。ジョン・ダンの「島」は

「なにびとも一島嶼ではない」という意味の島

 へえーっ。
 でも、それを、私は私自身とどう結びつけていいかわからない。「知る」、「知ったこと」が、「わかる」になるまでには時間がかかるのだ。そのことばに相当する「体験」をしないことには、「わかる」というところまで辿り着けない。
 で、ぜんぜん「わからない」のだけれど、その「わからないこと」をとおして「わかること」もある。
 そうか、岡本はヘミングウェイもジョン・ダンも読んでいる。そしてジョン・ダンの詩については、ただ読むだけではなく、ていねいにことばの「意味」をジョン・ダンの文脈のなかで把握している。
 さらには、島ということばを手がかりに、英語、サンスクリット語をたぐりよせながら、そのことばの偶然の重なり(?)からインスピレーションに導かれて、釈尊(仏教)を岡本の「肉体」のなかに取り込むところまで理解している。
 この詩には、岡本の「知識」が「肉体」となって動いている。--そういうことが、「わかる」。この「わかる」は、そこに書かれていることは、私の知らないことであるばかりか、「わからないこと」であると「わかる」ことでもある。
 で、「わからないこと」に出会ったとき、それでは「わからないまま」かというとちょっと違う。「わからないまま」でも、先に書いたように「わかる」ことがある。岡本がどういう人間であるか、ということは「わかる」のだ。
 これが、私にとっては、とても重要なのである。
 一昨日、昨日と森川雅美、村嶋正浩の詩を読んだが、私には結局のところ森川雅美は「わからない」。ことばは全部知っていることばだし、私なりに「意味」を語ることはできる。けれど「わからない」。村嶋正浩は、ことばの音が「わかる」。その「わかる」音をとおして村嶋がかろうじて「わかる」。
 岡本は、そのふたりのことばとはまったく違うことばを生きている。そして、そのことばは、私の「知らない」ことばが中心となっている。だから、何も「わからない」のだが、その岡本の書くことばと「肉体」が密接につながっているということが「信じられる」。
 何がどう違うのだ、と問われれば答えに困るのだけれど、岡本のことばは「わからない」けれど、「信じる」ことができる。「わからない」ゆえに、「信じる」ことができる。それは、こどもが両親のいうことに対して、何も理解していないにもかかわらず、そこから何かが「わかる」というのに似ている。「わからない」まま「信じる」。そうやって、つくられていく「肉体」があり、「ことば」がある。
 先の1連目につづいて、2連目は次の行の展開となる。

  この世でみずからを島とし
  みずからをたよりとして
  他人をたよりとせず
  法を島とし
  法をよりどころとして
  他のものをよりどころとせずにあれ

 これはジョン・ダンの詩の引用なのか。あるいは釈尊のことばの引用なのか。無知な私には「わからない」。けれど、1連目のようなことばの「語源」をたどりなおした岡本にとっては、これは岡本自身の「肉体」である。
 その「肉体」のなかには、1連目には書かれていなかったことばがあって、ここではそれが唐突に噴出してきている。「肉体」を破って噴出してきている。
 「法」。
 それは「決まり」であり「哲理」であり「真理」ということなのだろう。
 そんなことは、岡本はここに書いていないが「わかる」。「わかる」というのは、法、哲理、真理--というものを岡本が「肉体化」しているということが「わかる」という意味である。
 ことばの意味、あるいは語源のなかにひそんでいるものを探しつづけて、ことばとことばが出会うたびに、ひとつのことばでは明らかにできなものを浮かび上がらせる。そういう「体験」を岡本は「肉体化」して、そのうえでことばを動かしている。その強靱な「肉体」としてのことばが、ゆるぎなく動いている。

 旅をする--新しい土地に触れる、というのは、新しいことばにであうのとほとんど同じである。新しく見たもの(はじめて見たもの)がことばを刺激し、ことばの「組み立てなおし」(解体と再構築--というのが今風のいいかたになののかな?)を迫る。
 いままでの「ことば」ではとらえることのできないものがそこにあるからだ。
 その、ことばの組み立てなおし(解体と再構築、脱構築と再構築?)を、岡本は「古都」をめぐりながら、これからはじめるのだ。
 「古都」への旅がことばの点検から始まる、「誰がために鐘は鳴る」という岡本のものではないこば、しかし、岡本の「肉体」のなかでなじんでいることばの点検から始まるのは、きちんと「理由」、「根拠」があるのだ。
 だれの「肉体」のなかにも、自分のことばと他人のことばがある。見極めながら、自分のことばをていねいにたぐりよせる、あるいは生まれてくるまでゆっくり動く必要がある。
 岡本が、そういうことをしているということが、最初の1連目、そして2連目を読んだだけで伝わってくる。

 岡本の「肉体化したことば(ことばの肉体)」は「新しいことば」を必然的に生み出す。途中を省略してしまうが、最初の詩では、次の部分。

<おれはひとりの修羅なのだ>
東北の詩人がビオラを弾く
想像とはないものを思うこと
夕暮れの山上都市に
桜の花弁がふる山の風の舌
無邪気な鳥は
空気をあらわす鳥だった
想起とは過去のものを思うこと
雨上がりのしめりけをおびた
熊野の古い道を水がさらさらと流れる
月のような顔の女が
水をあらわす魚を頭においた
表象とはいまあったものを思うこと

 「想像」「想起」「表象」が、新しく「定義」されている。その「定義」はだれそれの「定義」と似ているかもしれない。まったく新しい「定義」ではないかもしれない。けれど、そのひとつひとつが岡本の「肉体」が直接触れた「熊野」の光景・風土・習慣と重なるとき、それは岡本の「肉体」だけが語ることのできる何ものかを内に抱え込んでいる。その何ものかがあたらしい「ことばの肉体」のなかで、さらに次の「肉体としてのことば」を生み出していく。

赤い太陽がしっとりと山のきわにかたむいておちる
透明な夕暮れの空
妖精が大地の石畳のうえで
穀物のみのりをかかえて口笛をふく
杉並区の道の両側にある共同墓地は
霊魂の歴史の一部である

 もう、岡本は「熊野」にこだわらない。そこが「杉並区」であろうが、あるいはニューヨークであろうが、岡本の「肉体」のなかには「古都」が存在しているから(古都が肉体かされているから)、その「肉体」は、次々に「新しいことば」を生み出していくのである。
 いまと交わり、過去と交わり、つぎつぎに生み出すことで、生まれ変わるのである。

東北の詩人はビオラを弾く
父さんがいて
 母さんがいて
  そして ぼくがいる
  青春 朱夏 白秋 玄冬
  青龍 朱雀 白虎 玄武
 ひとは未知 みちて 物質となる
白い道をよぎって 意識よ 休息せよ
なぜか 東西南北
きみたち 無意識のゆくにまかせる
渇ーっ!という声が 響きわたる

 この「肉体」の変遷はとても刺激的である。


古都巡礼のカルテット
岡本 勝人
思潮社
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村嶋正浩『晴れたらいいね』

2011-08-15 23:59:59 | 詩集
村嶋正浩『晴れたらいいね』(ふらんす堂、2011年05月22日発行)

 ことばを人はどうやって覚えるか。私は「声」で覚える。「音」で覚える。そして、詩を読むとき、小説を読むとき、私はとても「音」(声)が気になる。「音」(声)が聞こえないと読んでいる気持ちになれない。--わからない、という気持ちが邪魔して、先に進めない。
 村嶋正浩『晴れたらいいね』には、いくつもの「音」がまじっている。いくつもの「音」を村嶋自身の「声」で言いなおしている。そのとき、「村嶋の声」になるものと、ならないものがある。歌手の「ものまね」でいうと、「ものまね」になっている部分、つまり完全に消化している部分は「村嶋の声」と感じる。こういう「声」は、私は好きである。「ものまね」だけれど、それを村嶋が動かしているからだ。
 そうではなくて、「村嶋の地声」がまじるものがある。そういう部分が、私は嫌いだ。「地声」はオリジナルとは違うのだ。「声」を制御できていない。「ものまね」されたものが、村嶋の声を突き破ってしまう、--というか、「ものまねされるもの」が、逆に、村嶋をまねてしまっている、という感じがする。別なことばで言いなおすと、村山の「声」が、「ものまね」の対象の「声」に負けてしまっている。
 --というようなことを、くだくだ書いても、まあ、わからないね。私の言いたいことは。別な言い方をしよう。もっと具体的に言いなおそう。

 詩集のなかでは、私は「なんてたって」がいちばんおもしろかった。「声」をはっきり聞き取ることができた。

この世の名残夜も名残なんてたってあいどるの蛭子様と書き進めても死にゆく言葉の端々から紙魚が食い散らし愛を契った文字は忽ち零れ落ちて仇しが原の道筋の、伊能忠敬の最初の一歩とある石碑まで韋駄天走りで辿り着き目の前に止まる巡回バスへ上る朝の足もとに、同時多発と咲く花は乱れ乱れて返り花か、嗚呼遥かなマチュピチュを思いつつ有楽町交番を左折するが、なんてたって花をめしませらんらんと歌うのではなく口ずさみ人生は全て鑑賞旅行よ

 わざと「誤読」した引用が絡み合っている。近松からきょんきょん(あ、これは歌手だから、阿久悠?というべきなのか)までが入り乱れる。入り乱れるけれど、そこに「音」の連続性がある。そして、きのう読んだ森川雅美のことばと比べると余分なものがない。音がスムーズに動いていく。つまり、村嶋の「地声」が近松やきょんきょんを潜り抜け(ものまねに成功し--引用を消化して)、きちんと「肉体」のすみずみを通っていると感じる。
 書き出しの「この世の名残夜も名残」が「なんてたってあいどる」とつづくとき、そこには「な行」の響きあいがある。これが気持ちがいい。「肉体」にとてもよくなじむ。なじんでいると感じる。そのとき、ことばは「肉体」そのものとして見えてくる。
 そして「肉体」になってしまったことばは、「意味」を捨て去って、「肉体」そのものとして動こうとする。「無意味」の軽さ、「肉体」そのもののしろやかさで飛翔する。
 いいなあ。
 「意味」は、私は考えない。「死にに行く身を」のかわりに、「死にゆく言葉」があらわれるが、村嶋はここで、ここにあるのは「言葉」にすぎないと言い切ってしまっている。この軽さがいい。「音」口にしている内に、「意味」が消え去り、ただ「音」を発する悦びだけがあふれてくる。「肉体」の悦びである。音痴の私がいうのも変だが、歌を歌うと「肉体」が歓ぶでしょ? 「肉体」が「音」を出しているという悦び。
 私は、それに共鳴してしまう。
そのとき、「意味」はどうでもいい。あ、この「意味」はどうでもいいというのは、あくまで私の考えですから、あまり真剣に考えないでくださいね。

 最後の部分も好きである。

行春を近江の人とをしみけると即身仏の日向ぼっこによい近江路は天国への一里塚で、霾る季節の唯中を赤目の鑑真和上御一行に追い越され独り立ち寄る園芸店、花を召しませランララン、郁子、撫子、買いました。

 「近江の人」と「近江路」がめんどうくさいというか、うるさいのだけれど、「立ち寄る園芸店」以下が、楽しい。「園芸店」のあとに助詞を省略したのが効果的だ。直前の「一里塚で」は、「で」が「音」を邪魔するので、「霾る」などというめんどうくさいことばをはさまないとことばが動けなくなっているのと比較すると、その効果がよくわかると思う。助詞の省略が、ことばを「無意味」にする。「音」が「意味」につなぎとめられる、からめとられることから解放する。文体の「粘着力」を断ち切ってしまう。一気に「音」が加速する。
 「郁子、撫子、」って何なのさ。どうとも読める。郁子(女)と撫子(花)を買いました。郁子(ひと)が撫子(花)を買いました。郁子に撫子を買いました。--全部、間違い。これは単に、「ランララン」を言い換えただけ、という具合にも読める。
 私は、こういうときは、「意味」を捨ててしまう。考えない。ただ「郁子、撫子、買いました」という「音」を「肉体」のなかに取り込む。そうすると、3音、4音、5音と、音が自然に増えて、それがリズムをつくりだしているのがわかる。
 このときの「わかる」が気持ちがいいのだ。
 「肉体」が「わかる」ものは、「頭」で「わかる」具合にはなかなか書けない。ことばにならない。「頭」は「わかる」前に「知る」に近づきたがる。わからなくても知りたい--というのが「頭」である。「肉体」は「知らない」けれど「わかる」、「知りたくない」のに「わかってしまう」。
 こういうとき、「肉体」のなかを動いているのは「音」である--ということを、私は言いたい。村嶋の詩を読んで、「なんてたって」がおもしろいと感じる「理由」をそこに結びつけたいと思うのだけれど、うまく書けない。

 最後に、少し不満を書いておくと……。
 「死にゆく言葉の端々から紙魚が食い散らし愛を契った文字は忽ち零れ落ちて仇しが原の道筋の、」の「零れ落ちて」の「て」がつくりだすリズムが「いやだなあ」と感じる。ここで「て」を削除すると、全体のリズムが狂う。--ということは、承知している。それでもなおかつ書いてしまうのは、「音」は私にはなじみやすいが、リズムにはところどころなじめないところがある、ということである。「同時多発と咲く花は乱れ乱れて返り花か」の「か」も、いやだなあ。

 詩は「意味」ではないから、どうしても、そういうことを感じてしまうのだ。






晴れたらいいね―村嶋正浩詩集
村嶋 正浩
ふらんす堂
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サイモン・ウェスト監督「メカニック」(★★★)

2011-08-15 15:05:52 | 映画
監督 サイモン・ウェスト 出演 ジェイソン・ステイサム、ベン・フォスター、ドナルド・サザーランド

 完璧な殺し屋ジェイソン・ステイサム。でも、騙されてしまって、大切な雇い主であり、かつ友人を殺してしまう。その彼に、友人の息子が殺しや稼業を教えてくれと近づく。
 あ、これはくさーい文学的な映画になるのかなあ。
 というのは、ほんの一瞬の不安。--的中しません。裏切られます。後悔しつづける、というようなことはありません。それがつまらないひとにはつまらないだろうけれど。
 見どころは殺しのテクニックと手際のよさ。殺しではなく、いかに事故にみせかけるか。そのためには、どんな準備をすべきか。とても丹念に描いている。
 いろいろおもしろいところはあるんだけれど、そのなかでも傑作なのが、友人の息子の「初仕事」。きちんとした生活をすることが大事--と言って、チワワを飼わせ(毎日決まった時間に散歩しなければならない)、カフェでコーヒーを飲み、クロスワードパズルを解かせる。これが毎日1時間。なるほどねえ、決まったとおりに決まったことをすることで「強い意志」もつくられていくのか……。と、思っていると、な、なんと、これが殺しの標的を引き寄せるための手段だったんですねえ。その標的はやはり殺し屋なのだが、チワワが大好きで、「ボーイ」も大好き。その男が、毎日決まった時間にそのカフェにくる。それにあわせて、そこに行かせ、接近させる。安心させる--のが狙い。
 この用意周到さ、というか準備のていねいさ。
 それに反して、息子の方は、そのていねいさについていけない。自分の力を過信する。ジェイソン・ステイサムと同じことができると勘違いする。そうして、準備してきた「殺し」の方法とは違う方法で殺そうとする。結果的には殺せるけれど、無駄が多いねえ。そうなんだなあ、なんでも予定を立ててそのとおりにやらないとつまずつくんだなあ、なんて、殺し屋に「教訓」をいただくのでした。
 この殺し屋が、音楽が趣味、しかもアナログにこだわっていて、レコードを、なんと、真空管のアンプをつかって再生させる。ぷっつんというノイズから音楽が始まる。これ、いいねえ。車にも凝っていて、自分で整備している。あくまで自分の手作業、手仕事だけを信じている。--というのが、まあ、単なる性格描写(?)に終わらず、最後の最後にまた生かされているんだけれど。
 つまり、そのレコードプレイヤーにも車にも、ジェイソン・ステイサムにしらかわらない「仕掛け」があって、知らずにつかうとつかった人が「自滅」する。
 と、ここでも、あらゆることを想定し、準備することの「大切さ」を強調している。
 もしかすると、「文部省推薦映画」?

 この殺し屋、次は刑事になります。ハゲを隠さず、鍛え上げた肉体で、あくまでクールに自分を貫く男が、また、やっとスクリーンに復活する時代になったのかも。そのトップランナーだね。あとにつづく俳優がちょっと思い浮かばないけれど。




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森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』

2011-08-14 23:59:59 | 詩集
森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』(思潮社、2011年06月30日発行)

 私は音痴である。音楽の素養というものもまったくない。だから私の書いていることはとんでもない勘違いなのかもしれないけれど……。
 私には、どうしてもなじめない「音」がある。森川雅美のことば、その音の動きは私にはどうにもなじめない。今回の詩集は『夜明け前に斜めから陽が射している』が、もうだめである。「音」が響きあわない。それに、「音」が多い。余分である。どの音が響きあわないのか、どの音が余分かと問われたらわからない。だが、私の耳は、その音をともかく「うるさい」と多いと感じてしまうのだ。私は音読はしないが、黙読のときも肉体の奥で喉や口蓋や舌は動いているらしい。その喉や舌が、ものすごく疲れるのである。森川のことばの場合。簡単には読めないのである。--簡単に読める音がいい詩の条件であるかどうかわからないが、私は、森川の音が苦手である。少し読んだだけで疲れ切ってしまう。なかなか読み進むことができない。

 「草野心平さんに」という詩がある。

あなたに出会うために待っている言葉に
関節は少しだけ折れ落日にも似る
岩だって年をとり中有に引っかり
どうだ水だって愉快に流れるさ
今日の時間が磨り減っていく過程だとしても
もはやあなたに借りたものは手元にはなく
ただひとりで誰にも見られず渡っていけ

 この最初の部分では、私は「関節は少しだけ折れ」という音が好きである。読みやすい。しかし、それが「落日にも似る」とつづくと読むことができない。「音」があっていない。音楽で「ド・ミ・ソ」という旋律の後、「レ・ファ・ラ」とつづくと、なんとなく楽に肉体に響いてくる感じがある。そういう「音」の関連性が、森川のことばには感じられない。「落日にも似る」の「落日」が読めないのである。「らくじつ」と読もうとしても、音にならない。音が聞こえてこない。文字は見えるが、音が聞こえない。「楽譜」をつきつけられたような気分になる。「楽譜」はたしかに音をあらわしているが、音痴には、それが読めない。「ド・レ・ミ」と学校で習ったことを思い出しても、「音」が聞こえてこない。
 音痴の私が言うのだから、これは、まあ、いい加減なことだが、私には、ようするに森川のことばは、「文字」としては知っている文字ばかりなので「わかる」ような気がするが、「音」としてはなじみのない音なので、えっ、それ、何? いま、何て言った? と聞き返したくなるような、変な気持ちになる。
 森川のことばの音は聞いても覚えられない音なのである。もちろん、再現もできない音なのである。それが音であるといわれればたしかに音には違いないが、私の肉体とは接点を持たない音でできている。
 次の「岩だって年をとり中有に引っかり」。私は、「中有」につまずいてしまう。これが「中陰」だったら、ずんぶん読みやすい。耳にも気持ちがいいし、喉や舌にも気持ちがいい。「ちゅうう」の「う」の音、「う・う」のつながりが苦しくて私は声に出せないのである。耳でも聞き取れないのである。「ちゅういん」だったら、この行を支配している「い」の音が助けてくれて、とても楽である。

 音が多い--というのは、たとえば1行目の「あなたに出会うために待っている言葉に」で言えば、3回出てくる「に」。とても邪魔である。そして、その「に」を含んだ「ために」が、うーん、とても気持ちが悪い。乾いていない。軽くない。べっとりと重たい。--というようなことはあくまで「感覚的」なことであり、「意味」には関係ない、のかもしれないが……。私には関係があるのだ。
 1行の中に、2行の「意味」がある。2行にわけて書けば「音」がかわるのに、1行に閉じ込めているために、気持ち悪くなっている。「ために」が、なぜ、2行か--といわれると、私は答えにつまるのだが……。たぶん、「ために」の「ため」が、「理由」となって忍び込んでくる感じが2行を感じさせるのだ。
 あとは、「関節は少しだけ折れ/落日にも似る」「岩だって年をとり/中有に引っかり」なら、そのままでは不安定であり、それぞれ違った音を引き寄せて1行ずつになるだろうと私は感じる。
 「どうだ水だって愉快に流れるさ」はとてもむずかしい。「どうだ/水だって/愉快に流れる/さ」かなあ。「どうだ/水/だって/愉快に/流れる/さ」とさらに細かく音が独立した方が、私にははるかに読みやすい。ひとつづき、1行では、苦しくてしようがない。

 でも、書き出しは、まだ、いい。14ページの、次の部分。(「草野心平さんに」のつづきである。)

背骨が小さな落花やいく本もの電線になり
折れ曲がる影に猫も歩き水面も傾き
直接ものを見る燃え落ちていく一瞬まで
名前になる前に埋もれた脳の水脈を下り
対岸の荒れ果てた山林を耕し

 これは、もう、私の耳を完全に超えているだけではなく、眼をも超えている。眼は「字面」を追うけれど、読めない。知っている文字しかないが、読めない。
 こんな字、どうやって書くのだろう。さっぱりわからない。

 「野村喜和夫さんに」には魅力的な行もある。

おくふかいあしどりで綴られていく

 あ、いいなあ、と思う。音の響き、ゆらぎが気持ちがいい。

はだにうつる梢のかげはおいぬかれ

 この行は、「梢のかげは」がうるさい。「梢は」か「かげは」だと、とても美しい。--といっても、あくまで、私の耳にとっては、ということだけれど。
 いま引用した2行は、まあ、いいのだけれど、

ふめいにだれかからてわたされる畝

 うわーっ、これはなんだろう。私は思わず目を閉じて、耳を塞いでしまう。「畝(うね)」という文字も醜悪だし、「音」はノイズを通り越している。
 「新藤凉子さんに」の、

くりかえす脳のだんさをこえ

 これにも、ぞっとしてしまった。

 こんな読み方をしてもらったら困る--と森川は言うかもしれないが、私には、こういう読み方しかできない。音がなじめないと、ことばを追っていても、つまずいてばかりで先へ進めない。




夜明け前に斜めから陽が射している
森川 雅美
思潮社
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アルフレッド・ヒチコック監督「鳥」(★★★★★)

2011-08-14 09:39:59 | 午前十時の映画祭
監督アルフレッド・ヒチコック 出演鳥、ロッド・テイラー、ジェシカ・タンディ、ティッピー・ヘドレン

 何度見ても飽きることのない大傑作。なぜ鳥が人間を襲うか――なんてくだらない謎解きの答えなら、いくらでも考えだすことができる。女の嫉妬。それが引き寄せる「禍い」の象徴とか、ね。ラストでティッピー・ヘドレンがロッド・テイラーの母と手を取り合ったとき平和が訪れるのは、その暗示。あるいは、田舎町に突然あらわれた都会の金持ち娘とエリート(弁護士)の恋に対するやっかみが鳥となって襲う、とかね。主人公の二人だけではなく町中を襲うのはなぜかって? どいういうやっかみも、やっかんだひとにはねかえるもの。「理由」は、どのシーンにもつけられる。小学校の女性教師が鳥に襲われ死んだのは、結局、恋の戦いでティッピー・ヘドレンに負けたから、とかね。
 でも、そんなことはどうでもいいなあ。
 ヒチコックは美女が不安におののく顔が大好き。ティッピー・ヘドレンは私の基準では美人度が低いんだけれど。まあ、これは個人的な好みの問題だね。
 で、美女が不安におののくとき、そこに「サスペンス」が生まれる。サスペンスが先にあって、それから美女が不安におののくのではなく、美女が不安におののくとき、その不安を実現(?)するためにサスペンスが必要になる。必然としてサスペンスが生まれる。逆じゃないんです。女性をもっともっと怖がらせるために、次々にサスペンスが作り上げられていく。そして、このとき、観客は、怖がる美人(ティッピー・ヘドレン)そのものになる。
 この映画は、その典型。たとえば、スピルバーグの「激突!」もこの系統。タンクローリーに追いかけられる「理由」は「追い越したから」などというのは、付け足し。ただ、タンクローリーがどこまでも追いかけてくるという「恐怖」をリアルに描いて、観客をその恐怖に引き込むことだけが狙い。そういう頂点として輝く大傑作。
 理由なんていらない。ただティッピー・ヘドレンが怖がればいい。金持ちで、わがままで、気が強い女――まともな(?)ことじゃ、怖がらない女。男に関心を持つと一人で車で追いかけてゆく。気づかれないように車ではなくボートで家に近づく……なんでもやってしまう。車の運転はもちろん、ボートの運転だって楽々。なんでも、できてしまう。できないことは、相手が必要な「恋」を成就させることくらい。それを、やろうとしている。こういう女は「理不尽」なもの、「理由」がわからないものじゃないと、怖がらないよねえ。
 鳥が襲ってくるのは、ティッピー・ヘドレンに原因がある。おまえは魔女だ、と言われたって、平気。逆上して、批判した女をひっぱたくんだもんね。人間がやること(人間が言うこと)なんかで怖がらない。人間がやることは「理不尽」にみえて、ちゃんと理由がある。そんなものは、「理由」を解決すれば解決する。わけのわからないことを言う奴は、ぶん殴って怒りをみせてやれば、それですむ。自分の方が「上」と見せつけて、怖がらせれば、それですむ。
 鳥――自然がやることは「理由」がわからない。自然は怖がらない。だから、怖い。
 最後まで、「理由」を明かさない。あらゆること、鳥が世界で何種類、何羽いるとか、小学校の教師とロッド・テイラーの間に何があったか、その母親とどんな関係にあるとか、さらにはガソリンにマッチの火が引火しそうとか、うるさいくらいにあれこれ説明するのに、鳥が人間を襲う理由だけは決して明かさない。
 これは、いいなあ。
 いまならCGでもっと鳥の動きも正確(?)に映像化できるんだろうけれど、そうじゃないところが、またまたおもしろい。ファーストシーン(クレジット)を横切るのは鳥の影ばかりで、どんな鳥なのか全体がわからない。本編のなかでも、くちばしを変にアップにしたり、全体が写らないように翼で画面を邪魔したり。カラスや鴎といった誰にでもわかるような鳥だけはきちんと「顔」を見せるけれど、あとはよくわからないまま、つまり「鳥」のまま。
 それからジャングルジムや電線にとまった大量の鳥。足の踏み場もないくらい庭を覆った鳥。いやあ、すごい執念だねえ。あんなに鳥を集めちゃって。(その執念の方が、怖い?)いったいどこから集めたんだろう。(餌とか、糞の始末とか、どうしたんだろうねえ。)
 それから。
 この映画には、私の大好きな「お遊び」がある。ティッピー・ヘドレンがロッド・テイラーのいる町まで車を飛ばす。助手席に置いた鳥籠のなかに「愛の鳥」がいる。この鳥が、車が急カーブを曲がるたびに、人間の体みたいに左右に傾く。2羽、仲良く。笑ってしまうねえ。かわいいねえ。
 最後に、この2羽が一緒に救出される(脱出できる)のだけれど、いいねえ。
ヒチコック以外に、こんなおもしろいシーン、洒落た遊びのシーンを撮る監督はいないなあ。
              (「午前10時の映画祭」青シリーズ29本目、天神東宝)




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新井啓子「問い」「邂逅」

2011-08-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「問い」「邂逅」(「かねこと」創刊号、2011年07月30日発行)

 詩を読むとき、どんな詩でも「わかる」部分と「わからない」部分がある。そして、この「わかる」部分というのが、ちょっとややこしい。「わかる」のだけれど、どう「わかる」のか、自分のことばで語りなおすのがむずかしい。「わかる」のに、というより「わかる」からこそ、そういうことが起きるのだと思う。
 (これは、ちょっと前に書いた「田村隆一私論--現代詩講座」と重なる部分がある。「知っている」ことと、「わかる」ことは別。知っていても、わからないことがあるし、わかっていても知らないことがある。)
 「問い」という作品。

なぜ といって枝は伸び
どうして といって枝は曲がる

固い古枝の皮を破り
毛虫の抜け殻をつけたまま
高みを目指す梅ヶ枝
傷ついた果実は捨てられるのに
はてしなく背伸びするのを恐れない

脚立の上 首筋にあおい香りが下りてくる
反り返った若葉がさわぐので
葉暗がりに鋸をひき
答えは闇に残しておく

 この詩に「知らない」ことばはない。全部知っている。けれど、その全部が「わかる」かと言えば、そうではない。--そのことは後回しにして。
 私が、この詩でいちばん「わかる」部分は、

首筋にあおい香りが下りてくる

 この行の、「あおい香り」であり、またそれが「下りてくる」である。
 そして、このとき私が「わかる」と言ったのは、実は、新井の「肉体」が感じているそのままではない。私は私の「肉体」が体験した「あおい香り」と「下りてくる」が「わかる」のだ。「青い」ではなく「あおい」と書くとき、その「肉眼」が見ている「色」がわかる。もちろん、それは私の錯覚であり、私が「わかる」のは、田舎の家の庭になっていた梅の実であり、そのにおいである。それが「あおい香り」ということばとともに、ぱっと私の「肉体」をとらえる。そして、あ、あれは「あおい香り」だと確信する。「下りてくるも同じだ。私は「脚立の上」にのぼったりはしない。直に木に登るが、それでも、そのときの「香り」の動き--「下りてくる」が、そのまま私の「肉体」の覚えていることにつながる。
 「わかる」というとき、私は私の「肉体」が、新井のことばによって、刺激され、何かをはっきりと思い出しているのである。けれど、それは、私の「知っている」ことではない。知らなかったことだ。そんなふうにことばになるとは知らなかった。特に「下りてくる」が、まったく「知らなかった」ことである。香りが体を包むでもなく、そこに香りが広がっているでもない。たしかに、梅の香りは「下りてくる」。
 --私の書いていることは、たぶん、とても変である。
 「肉体」が体験している。けれど「知らない」とは、どういうことか。「肉体」がわかるのに、「知らない」とはどういうことか。
 「知らない」とは、私自身のことばで「言い換えることができない」ということである。私なら、どう言う? 言えない。言おうとすると、新井のことばをただ繰り返すだけなのだ。
 それなのに「わかる」?
 そこが、不思議。だから、私は、こういうことを「誤読」と自分に言い聞かせている。「誤読」して、その気になって、そのことばを好きになる。

 これは、もっと別な言い方をした方が正確かもしれない。
 私は、「わかる」のではない。ただ、そのことばが「好き」なのだ。あ、このことばいいじゃないか、と思う。「好き」だから、奪い取ってしまいたくなる。新井がよそ見をしているあいだに、盗み取って「谷内」と署名して、自分の作品、と言いたくなる。
 でも、そんなことをしたら「盗作」。だから、私は、ぐっとがまんして「わかる」というのである。
 これは異性を好きになるのと同じ。好きになったら、全部「わかる」でしょ? 全部、そのまま受け入れるでしょ? 何も知らないのに。--そして、行き違い、けんか、別れ……というような面倒なことが起きる。
 それは、おいておいて。

 次の、

反り返った若葉がさわぐので

 これが、私にはやっかいである。
 「反り返った若葉」も「さわぐ」も「わかる」。でも、そのあとの「ので」が「わからない」。
 「ので」が「理由」をあらわすことばであることは「知っている」。「知っている」けれど、というか、知っているからこそ、わからなくない。
 「ので」ということばとともに新井の「肉体」のなかで動いているものがわからない。なぜ、それが「理由」になる?
 ここに、私には「わからない」新井がいる。
 それが、この詩をむずかしくする。
 「ので」は「さわぐ」にだけかかるのかな? それとも、その前の行の「下りてくる」にもかかるのかな?
 きっと、両方にかかる。
 伸びた梅の枝、その高みから下りてくるあおい香り、若葉のさわぎ--それは新井の「肉体」に直に「ふれる」のである。「首筋に」と「肉体」の部位まで新井は特定しているが、それらは新井の「肉体」に緊密に結びついている。
 そして、それゆえに--つまり「……ので」、枝を鋸で切る、ということになる。
 でも、この「理由」というか、「ので」は実は、新井にもよくわからないことなのかもしれない。

答えは闇に残しておく

 というのは、学校教科書のような読み方をするかぎりは、最初の1、2行目の「なぜ」「どうして」という「問い」の「答え」になるかかもしれないが、そうではなくて、ここでは同時に新井の「……ので」という「理由」に対する書かれない「答え」のようにも見えてくる。
 そして、「ので」が新井の「肉体」と深くかかわるとき、最初の行の「なぜ」「どうして」というの梅の「問い」は新井の問いと区別がなくなるように見えてしまう。このとき、新井は枝を切る人間であると同時に、枝を切られる梅なのだ。新井の肉体が梅の枝になっている。だから、「答え」はでない。
 だって、というのは、今度は私の「肉体」からの声である。
 「脚立に立って」木の枝の中に「肉体」を放り込んだとき、その「肉体」に梅のあおい香りがふれてきた。首筋まで下りてきた。そして、若葉が騒ぐのを新井の耳は聞き、目は見たのだ。そのとき、新井は梅と同化している。梅の木になっている。
 梅の木になってしまえば、その枝を切られなるというのは、どんな「理由(ので)」があろうと理不尽である。「理由(ので)」に、答えなどない。
 答えは出しようがない。
 だから、「残しておく」。
 そんなふうに読んでくると「ので」が突然、「わかる」。「理不尽さ」が突然、「わかる」のである。

 あ、でも、こんな読み方でいいのかな?
 「誤読」だね。「誤読」するとき、ここから私はまた強引に書いてしまうのだが、梅の木の枝のなかで新井が梅の木になったように、私は「誤読」のなかで新井の「肉体」になっていると感じる。なろうとしている、と感じる。
 --こういう感じになれる詩、それが、私は好きだ。

 新井は、「知っている」と「わかる」をはっきり区別して、そのあいだをつないで詩を書く、ことばを書くのかもしれない。
 「邂逅」の2連目が、とてもおもしろい。

茂った葉の間から時々星が見えました
何という名前か知りませんが
知られずにそこに光っていました
さみしい声 どこかで獣が啼いていました

 星の名前は「知らない」。しかし、それが光っている--それは「わかる」。知っているではなく、「わかる」(わかっている)。この「わかる」があって、「さみしい声」がある。「さみしい声」の「さみしい」は「知っている」ではない。「わかる」のである。その獣がどこで啼いているか、「知らない」。けれど、それが「さみしい」と「わかる」。
 「啼く」。息が喉をおとり、外に出る。そのときの肉体の中を動く感情--それが「わかる」。そのとき、新井は、どこかで啼く獣である。
 最終連。  

沼にいきました 獣がまた啼いています
暗くて深い甕の底にいるようです
甕を誰かが倒したのでしょうか
水音が響きました
そのまま転がっています
言葉は通じます

 「獣の言葉」を新井は知らない。けれど「わかる」のである。

 これに先だつ部分にある、

火を焚くにおいが漂ってきて 喉にからみます

 この「肉体」に正直なことばが美しい。こういう肉体の力(ことばを動かす肉体)が、あらゆる「わかる」の基底にあると、私は思う。



遡上
新井 啓子
思潮社
コメント
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