詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

テレンス・マリック監督「ツリー・オブ・ライフ」(★)

2011-08-13 08:40:29 | 映画
監督 テレンス・マリック 出演 ブラッド・ピット、ショーン・ペン、ジェシカ・チャスティン、フィオナ・ショウ

 私はこういう映画が大嫌いである。「美しい」映像を断片的に見せる。そして、その美しさに「神」を代弁させ、人間の弱さを対比させるという作品が大嫌いである。この映画は、映像に「神」を代弁させるだけでは満足できずに、登場人物に「神」について語らせてもいる。
 というより、そこにある「もの」をカメラで写し取るだけでは「神」を描けなかったのだね。何を写し取っても「神」を感じさせることができないのだとしたら、それは「神」の不在そのものを証明していることになる。何か特別な「美しいもの」だけが「神」の存在の証明というのでは、ばかばかしくて、欠伸が出るばかりである。
 「悪趣味」に輪をかけているのが、宇宙や生命の誕生、地球の歴史(?)を連想させる映像をつらねることである。そうすることで映画に壮大さが出るとでも思ったのだろうか。だれがつくったか知らないが、水辺で恐竜が歩くシーンは、恐竜が歩くにもかかわらず、水面に波紋も立たないという「ご立派」なCGだった。このCGが特徴的だが、あまりにも安直なのである。こうすれば、こう想像するだろう--という「既成概念」を映像でなぞっているだけである。
 手持ちカメラで映像のフレームを揺らしたり、わざと映像の「枠」から「世界」をはみださせるのも無意味である。人間はいつでも「枠」をはみだすものだが、それは「枠」が固定されているからである。動く「枠」からはみだすのでは、人間がはみだしたことにならない。
 カメラが勝手に演技している。
 カメラが演技する映画も好きだが、この映画のようにほとんど全編、ただカメラだけが演技する映画では映画にならない。役者がいる意味がない。

 この映画のすくいは、ショーン・ペンの子供時代を演じる少年である。ショーン・ペンそっくりなのでびっくりするが、彼がブラッド・ピットの「暴力」に耐えながら反抗心を強めていくときの演技がとてもいい。
 役者にしっかり演技をさせ、人間の感情をていねいに描き、その上で、人間の感情を無視してそこに存在する自然の美しさ、木の美しさ、水の美しさ、風の美しさ、さらには人間が作り上げた建築物などの絶対的な美しさを対比させればいいのに、と思わずにはいられない。
 それにしてもなあ。
 ブラッド・ピットが失業して、一家で引っ越して、それから先が完全に省略されて、突然、ショーン・ペンが「大成功」を収めているというストーリーはむちゃくちらゃすぎる。子供時代のショーン・ペンが弟とけんかしていて、弟がショーン・ペンを許す--そこから寛容さを知り、「神」に目覚め、成功していくというのは、それはそれでいいけれど、もう少し、どんなふうに人間的に変化していったかを描かないと、人間を描いたことにならないのでは?

 「シン・レッド・ライン」もこの映画も、私は汚れたスクリーンで見ている。本来のテレンス・マリックの美しい映像から遠い映像を見ている。そのため、何かを見落としているかもしれない。あるいは、そのおかげで、テレンス・マリックの奇妙なマジックに騙されずに見ているのかもしれない。--どっちだろう。
                           (08月12日、中州大洋1)





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弓田弓子「ほそい闇」

2011-08-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
弓田弓子「ほそい闇」(「ゆんで」3、2011年07月発行)

 弓田弓子「ほそい闇」は埴輪の印象を書くことから始まる。

その埴輪と対面していると
こころがざわめく
目の位置にある左右の
ほそい闇
まっすぐな鼻筋
その下のかすかな横線
唇だが
いつでも
喋っている
だれから受け継いだのか
早口である
訛りがある
口の中も闇
闇にむかい
いくつかのことばを
こちらから押しこむ
右の目がやや大きい
唇の線はほほえみ
左の目がたれて
闇がいどうする
彼女のいしだ
ためいきがもれてくる
首飾りがずれる

 ことばの変化--対象との距離の変化がおもしろい。
 「目の位置にある左右の/ほそい闇」というとき、弓田はまだそれを「目」とは認めていない。けれど、「目」ということばを書いた瞬間から、「鼻」があられわて、「唇」があるわれる。鼻の位置にあるもの、唇の位置にあるもの--ではなく、鼻筋、唇と意識が動いていく。
 弓田は埴輪の中にある「闇」について書いているのだが、それはそのまま「認識の闇」を思わせる。--ちょっとことばが暴走しすぎた。「認識の闇」と私が書いたのは、ひとが何かを認識するときに手さぐりでくぐりぬける不明領域のことである。(あ、ますますことばが暴走したかもしれない。)
 埴輪がある。埴輪には目がある。鼻がある。口がある。--のではなく、「目の位置」に孔が穿たれている。「鼻の位置」には隆起がある。「口の位置」にはまた孔がある。それを見て、私たちは目、鼻、口(唇)と呼ぶが、これはほんとうか。もしかすると違ったものかもしれないのに、私たちはやすやすとそれを目、鼻、口と判断してしまう。
 私たちの「目の記憶・目の認識する力」が土の像でしかないもの、その孔や突起を、私たちが「いま」知っているものと結びつけ、埴輪の各部位に「名前」をつけるのだ。そのときの、知っているものを呼び出し、各部位に名前をつけるという行為のあいだにある「認識の闇」--それがあるから、たぶん名付ける、埴輪の各部位を目、鼻、口と呼ぶことができるのだ。もし、私たちの「認識(記憶)」と「もの」のあいだに「闇」がなかったら、ものに名前はいらない。
 動物のように、じかに「もの」と接することができる。

 土の像の各部位に、目、鼻、口と「名前」をつけてゆくこと--ことばを結びつけ特定してゆくこと。
 その行為が、「闇」を不思議な形で歪ませていく。

だれから受け継いだのか
早口である
訛りがある
口の中も闇
闇にむかい
いくつかのことばを
こちらから押しこむ

 各部位に名前をつけるだけではなく、その闇に「歴史」を持ち込む。時間を持ち込む。たとえば口。弓田が書いているのは口だが、人間の口というのはことばを発するものである。話すとき、そこには、そのひとの「過去」があふれてくる。習慣としての早口。その土地の訛り--というのは「事実」にみえて「事実」ではない。それは、そう弓田が考えただけである。そして、その考えを弓田が埴輪の「闇」に、「こちら(弓田)」から「押しこんだ(押しつけた)」ものである。
 「目の位置にある」ものを「目」と呼び、鼻の位置にあるものを「鼻」と呼び、口の位置にあるものを「口」と呼び、そのまわりを「唇」と呼ぶのも同じである。それはすべて弓田が押し付けたものである。
 埴輪と弓田のあいだにある「間」--その見えない「闇」をわたって弓田はことばをおしつける。
 そうすると、そのことばを「埴輪」が生きはじめる。弓田のことばによって、動かないはずの埴輪が動く。

右の目がやや大きい
唇の線はほほえみ
左の目がたれて
闇がいどうする
彼女のいしだ

 これは、弓田のことばが動いているのであって、埴輪が動いているのではない。いや、そうではなくて、弓田の意識のなかで、弓田は埴輪になって動いている。埴輪と弓田が「ひとつ」になり、動く。埴輪と弓田が「ひとつ」になる--というのは現実にはありえない。埴輪と弓田は「離れている」。けれど、その離れた距離のなかにある「見えない闇」をことばがわたるとき、その闇を手さぐりでわたることばのなかで「ひとつ」になる。
 これは、大げさに言えば、セックスである。セックスは、もちろん楽しむためのものであるかもしれないが、同時に「何もの」かを生み出してしまう危険(?)を孕んだ行為でもある。
 で。
 弓田の場合、その「何もの」、あるいは「変なもの」が、やっぱり生まれ。産んでしまう。

 闇が「いどうする」、彼女の「いし」だ。

 「いどう」は移動、「いし」は意思(意志)。漢字で書けるはずのことばが「ひらがな」の形で書かれている。その「ひらがな」のなかに、「何もの」かがある。「変なもの」がある。弓田だけが感じた「何か」がある。
 だから「こころがざわめく」。
 「わかる」のに、「ことば」にならない。感じていることを語るには、どんなことばが正しいのか、弓田は知らない。
 だから、少しずつことばを動かしていく。
 この、ゆっくりしたていねいな動きが、「いどう」「いし」ということばのなかで結晶する。結晶している。



大連―弓田弓子詩集
弓田 弓子
ワニ・プロダクション
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池井昌樹「座敷童子考」

2011-08-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「座敷童子考」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 池井昌樹「座敷童子考」は3篇の詩から構成されている。そのうちの「座敷童子三考」は大学時代の池井のことを書いている。その冒頭に書かれている中野区沼袋のアパートには行ったことがある。東京駅で待ち合わせたが、携帯電話のない時代、すれ違って会えなかった。私は住所を手がかりにアパートへたどりつき、池井の部屋で眠っていたらやがて池井が帰って来た--というようなこともあった。夏は、部屋のにおいがものすごいので、フマキラーをしゅーっ、しゅーっと撒き散らしてにおいを消すというものすごい部屋だったが……。
 そこで池井は何をしていたか。詩を書いていた。大学ノートにびっしり書いていた。そして同人誌をあれこれ出していた。『露青窓』という同人誌をはじめとして、いくつかあったようだが、ほかは思い出せない。--そのいくつかの同人誌の紙を工面しに、雪の日に、製紙工場まで行ったときのことが書いてある。
 へぇーっ、そんなことをしたことがあるのか。池井は紙にまでこだわって詩を書いていたのか、と知らない池井に出会って、びっくりした。
 その、ハイライトの部分。

しかし、漸く辿り着いた工場で事情を話し案内を乞う内、更に輝かしい林檎の頬の拘引が私の前に現われ、恰も主を迎える使徒のように親密な敬虔さで私の要請を受け容れ様々な紙を取り出し、更には場長らしい年輩の紳士も奥から現われ、来訪の動機を濃やかに尋ねては感じ入ってくれ、満ち足りた私が礼を言って紙の束を受け取り辞去しようとすると、恰も旅立つ主との別れを惜しむ使徒のように親密な敬虔さで彼らは私を見送り手まで振ってくれたのだ。

 と、ここまで書き写して、私は、びっくりした。あっ、と声を上げた。



 最初、ほかのことを書こうとしていたのだが、予定変更。

 なぜ、ここで私がびっくりしたかというと、思い出したのだ。池井は、たしかこの話をしてくれたことがあった。私は昔から紙だとか活字だとか、そういうものにこだわりがないので、そんなものどうだっていいじゃないかと聞き流していたと思う。だから、忘れてしまっていた。どこで聞いたかもまったく思い出せない。
 だが、思い出してしまったのだ。
 書き写している内に、思い出してしまった。ことばを繰り返している内に、それが甦ってきたのだ。

 実は、8月10日の夜、自転車で帰宅中に池井から電話があった。「座敷瞳子考」を読んだか、と尋ねる。まだだ、というと「あれは傑作なのだ。でも、評判が悪い。評判が悪いが、書かなければならなかったのだ」と説明する。「誰だって書かなければならないから書いた、だから傑作だ、というなら、誰のどの作品も傑作になる」と私は池井の考えを否定した。
 作者がどんな思いで書いたか--それは読者には関係ない。
 で、そういうことを最初は書こうと思っていたのだ。
 でも、気が変わった。

 なぜ、池井がかつて話していたことを思い出したのか。--偶然なのか、必然なのかわからないが、

恰も主を迎える使徒のように親密な敬虔さで

 ということばが繰り返されている。ちょっと「嫌味なことば」だけれど、繰り返された瞬間に私はあれっと思ったのだ。さっきもこのことばがでてきたじゃないか。うるさいじゃないか。こんなことはへたくそがやることだ--と批判しようとする思ったのだが。
 繰り返しのなかに、なのか、繰り返しの奥からなのか、わからないまま、繰り返しに誘われるようにして、池井が現われてきたのである。工場まで紙を工面しに行った池井が現われたのである。
 池井の書いている詩--体験した事実を書くこと、というのは、それはそれで「繰り返し」なのだが、繰り返すことで何かが現われる。繰り返す必然性といえばいいのだろうか、繰り返すことでしか現われない何かが現われる。
 あ、私のことばは堂々巡りをしているね。
 繰り返すというのは、繰り返しのあいだに「間」をつくることである。その「間」にだけ現われる何かがある。その現われたものは、どうなるかというと……。

今にして思えば夢だけ喰(くら)って生きている未だ生活を持たない方言丸出しの学生に、かつての自分たちの若かりし姿を重ね合わせての深切に過ぎなかったのかもしれないが。その後私は一面の雪景色の中をどう帰宅したのか、しなかったのか、杳として知れない。

 「杳として知れない」。
 あらわれながら「杳として知れない」ものがある。
 それは「知れない」--知らない(と言い換えてみようか)ものである。知ることはできない。知ることはできないけれど、「わかる」。
 はっきりわかるのだ。あれが、「池井昌樹」だと。(池井に言わせれば、あれが「私」だと。)
 この「わかる」は誰にもわからないかもしれない。つまり「知る」という形で伝えることができないものかもしれない。「論理的に共有できることばの運動」のなかにはおさまらないものだと、思う。
 「知る」という形で書き表すと「杳として」しまう。
 けれど、その「杳としてしまう」ということ--そのことが「わかる」ときに、その「わかる」の向こうに「池井(池井に言わせると、私)」が存在する。はっきりと。

 それが、なぜか、私には「わかった」のである。「池井」を感じたのである。若い時代の池井を思い出す--とは、若い時代の池井がわかるということでもある。知っているのではない。わかっていたのだ。
 いまは、私は単に池井を知っているひとりに過ぎないが、かつてたしかに、私には池井がわかった時代があったのだと、ふいに思い出したのだ。同人誌の紙なんかどうでもいいじゃないかと否定しながら、否定することで、わかることができていた。
 それは何と言えばいいのか--けっしてそこなわれることのない池井なのだ。
 その池井はどこへ行ったのか、池井も知らない。けれど、それはどこかでしっかりと生きている。そのことは「わかる」のだ。

 その、不思議を、池井は、かなりへたくそに書いている。
 池井によれば、この詩は評判が悪いそうだが、そりゃあ、そうだね。へたくそだもの。でも、そのへたくその中に、池井がいる。永遠に傷つかない、無垢の池井がいるなあ。それが、ことばを書くとき、ふいに(?)、池井を見つめてくるのだ。
 それが、私には「わかる」。
 わからなければ、きっと気が楽(?)なんだろうけれど、「わかる」。だから、ときどき、いやだなあ、と感じる。



母家
池井 昌樹
思潮社
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J ・ブレイクソン監督「アリス・クリードの失踪」(★★)

2011-08-11 09:32:28 | 映画
監督 J ・ブレイクソン 出演 ジェマ・アータートン、エディ・マーサン、マーティン・コムストン

 ふたりの男が何もしゃべらず、車を奪い、大工道具をあれこれ買い込み、部屋を改造し、女を誘拐してくる。--この前半は、とてもおもしろい。特に説明があるわけではないのだが、部屋の内側に防音素材を張り巡らしたりする手順が、なんとういか、はじめてではなく何度も何度もやっているような「熟練」の領域に達している。それが、まあ、嘘っぽいといえば嘘っぽいのだけれど、スピーディーでリズムがいい。映像もすっきりしている。来ていた服を焼いて処分し、「目撃情報」を消してゆくところなど、そうか、こういうことって犯人しか知り得ない「情報」だねえ、と思い感心する。
 そして。
 誘拐--やってみたい。女を監禁し、身代金を要求してみたい、と思ってしまうねえ。私って、悪人?
 特に。
 ベッドに女を縛り付けて(両手に手錠、両足はロープで、女性を「大」の字に縛る)、そのあと服を脱がして全裸にし……それからねえ、監禁用にジャージーを着せるんだけれど、この手際が見事。服を脱がせるときはハサミもつかってだれでもがするようなことをするんだけれど、パンティーをはかせ、ジャージーを着せてゆく手際がほんとうに見事。何回、誘拐した? 何回、こういうことをやっている? プロだねえ。プロの仕事は美しいねえ、と感心してしまうのだ。
 でもねえ。映画は、ここまで。
 3人だけの「密室劇」なのだが、だんだん破綻してくる。「映画」ではなく「芝居」になってくる。誘拐された女は誘拐犯(若い男)の元の恋人。そして、犯人の二人は、実はゲイ。若い男は、男も女ともセックスをする。そこから愛と裏切りがからみあい、ストーリーが、だんだん荒っぽくなる。
 「芝居」の場合、目の前に役者の「肉体」があり、観客の想像力はいつでもその「肉体」に縛られているから(その肉体を通してしか、なにごとも想像しないから)、多少、ストーリーが荒っぽくなっても、引きずり込まれてゆくんだけれど。
 「映画」はだめ。いい加減さが目立ってしまう。
 相手の言っていることがほんとうかどうか知るために、「眼をみろ(眼を見て話せ)」とよく言うけれど、そのときアップになる顔なんか--なんといえばいいのかなあ、もう「常套句」。どんなふうにがんばっても「演技」にしかみえない。「映画」自体が虚構だから(演技だから)、そのなかでもう一度「演技」をしたって、ぜんぜんおもしろくない。「緊迫感」がない。
 (この点では、「スーパー8」の子供たちの「映画」のなかの「芝居」は巧かったなあ。特にリハーサルのシーンなんか、引き込まれてしまう。「芝居」なのに、「芝居」というのは役者の「過去」を暴き出す--「存在感」が勝負になる、ということを「証明」するということを、ちゃんと見せていた。)
 唯一、おもしろいのは薬莢を見つけて、それを隠そうとするシーン。トイレに流そうとするが、流れない。で、若い男は、便器に手を突っ込んで薬莢を拾い上げ、それを飲み込む--このシーンには「台詞」がないので、映像に緊迫感が出る。若い男の「あせり」がそのまま映像になる。若い男が「顔」で演技するのはもちろんだが、このとき「薬莢」は便器の底で、やはり「演技」しているのだ。カメラが「演技」をさせているのだ。
 これはいいなあ。便器。水。薬莢。流しても流しても流れない。紙だけが流れる。こういうことばを語らないものたちが「演技」をすると、映画は格段におもしろくなるのだ。思い返せば、冒頭の部屋を改造するシーンなど、電動ネジ回しや防音シート、ベッドの中板など、それぞれが「演技」しているのだ。役者はそれに手を添えているだけなのだ。すばらしい映画は、いつでもことばのないものたちの「演技」がスクリーンに広がるときに生まれる。

 最初は90点、その後、どんどん点数が下がり、最後は0点で終わる映画です。
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田中庸介「からし壺」

2011-08-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田中庸介「からし壺」(「妃」15、2011年07月30日発行)

 田中庸介は、高岡淳四と同じように、とても正直である。ことばを無理矢理動かさない。自然に動かす。動いてゆけるところまで動かす。ことばが核心にたどりつくまで、ていねいにつきそう。こういうことができるのは正直な人間である。
 わたしはどうしてもめんどうになり、はったりでごまかしたりする。
 正直--嘘がないから、ことばが核心にたどりついたとき、はっとして、あ、背筋をのばしてよまなくっちゃ、と思うのだ。反省するのだ。
 「からし壺」は母が死んで、葬儀があって、その遺骨の一部を「からし壺」に入れて、故郷(甲州)へ帰るときのようすを書いている。

放射能から逃げるようにして東京を離れ山梨。温泉につかって部屋に戻る。
かばんをあけてみるとからし壺のふたが開き、母がかばんの底に
こぼれだしていた。

からし壺のふたがねじ式でないことを父はすっかり忘れていたのだ。

津波の写真が載っている山梨日日新聞のページをあけて。
かばんの中身を新聞の上にあける。
白い粉がさらさら、こぼれだす。

遺灰というものは産業廃棄物になるほどのものだだけれども、
かばんの底のざらざらをそのままにしておくわけにもいかず。
できるかぎり回収してやりたいと思って
裏っ返しにして振るう。
布の目に入りこんだ骨粉を。
一所懸命かきだして新聞の上にあけた。

薬包紙に測りとった試薬をふるうように、
新聞の折り目に沿わせるように、
お骨の粉をもとに戻した。こぼれないように。
失わないように。

(というか、もう失っているのですけれども)
(というか、もう、失っているのですよ)

それでも畳の目にこぼれるわけですじゃんね。
細かい粉が。

それを人差し指でなぞる。
なぞって一つずつ拾ってから、からし壺に戻す。

お骨の断片は意外にとげとげしていて、
眼には見えなくても、指でなぞると指に吸いついて来る。

指に刺さるというか。
母が指に刺さります。

 壺の構造を忘れてしまっていて、遺骨がこぼれた。それを拾い集めた--そのことを淡々と、時系列に従って書いている。
 それだけなのだけれど、その「それだけ」のことのなかに、あるいは「それだけ」のことだからこそ、まじりっけのないものがまじってくる。--あ、変な言い方だね。「それだけ」を書こうとしているのだが、「それだけ」を突き抜けて、田中の「品」が浮かび上がる。「品」が「それだけ」を支えて、たしかなもの、美しいものにしている。
 たとえば、

かばんの底のざらざらをそのままにしておくわけにもいかず。
できるかぎり回収してやりたいと思って

 あることがらを、「そのままにしておくわけにもいかず」と思うこと。そして、その「思い」のままに、自分から出ていくこと。「いま/ここ」の自分から脱けだして、動くこと。
 そのことを田中は「できるかぎり」「してやりたい」と言いなおしている。
 そして、この「できるかぎり」「してやりたい」は、単なる「ことば」ではなく、田中は「行動」として実際に「肉体」を動かす。「やりたい」は「思い」ではなく、実践そのものなのである。
 「実践」というのは、肉体を動かすことである。--あたりまえのことだけれど、これはとはても大切なことである。何が大切かと言うと、肉体を動かすと言うことは、肉体が具体的なものと出会い、それと関わると言うことである。そして、そこには知らず知らずの内に「肉体」の「過去」があらわれる。「肉体」の「暮らし」があらわれる。

薬包紙に測りとった試薬をふるうように、

 田中の「肉体」は試薬を「薬包紙に測りと」るという作業をきちんと組み込んでいる。その組み込まれた肉体の動きが、いま、ここで役に立っている。(役に立っているというのは奇妙な言い方だね。もっと適切なことばがあると思う。ほかにことばが思いつかない。--申し訳ない。)
 そうした「肉体」がなじんでいる動きが、肉体になじんでいることばを動かす。そのことばのなかを動いていく精神は、まっすぐである。--そのまっすぐさを、私は「正直」と呼び、「品」と呼ぶのである。
 ここには「間違い」がはいって来ない。「空想」がはいって来ない。
 想像力を定義して「ものをねじまげる力だ」といったのはバシュラールだが、田中のことばには、そういう「ねじまげられた運動」がない。「肉体」の過去、「肉体」の暮らし、「肉体」の力が、「間違い」を押し出して、ただただ、まっすぐに動くのである。そのまっすぐさと、ことばが少しずつ少しずつ動いていく。
 そうして、そのまっすぐな「肉体」の動きは、

眼には見えなくても、指でなぞると指に吸いついて来る。

 ということを発見する。「眼には見えなくても」。
 あ、この世界には「眼には見えなくても」存在しているものがたくさんある。この「目に見えないけれど存在しているもの」を「正直な肉体」「品のある肉体」は見逃さないのだ。「眼」ではなく「肉眼」で発見する。「肉眼」は普通「こころの中」にあるとおもわれるけれど、そうではないのだ。「肉眼」は「眼」以外の「肉体」にあって、「眼」をつかわずに「存在」を見るものなのだ。
 田中のこの詩では「指」。
 指に「肉眼」がある。それがこぼれ落ちた小さな「遺骨」を見つけだす。「吸いついてくる」--その「触覚」の感じが「肉眼」である。触ることで、見ているのだ。
 顔のなかほどにあるふたつの「眼」は、対象と密着するとなにも見えない。その「眼」は対象と距離をおかないと見えない。そういう「弱点」をもっている。それを「指」の「肉眼」が補っている。「触る」。感じる。そして、そのことを通して「遺骨を見つける」。
 正直に動く肉体、品のある肉体は、そのまっすぐさを生きることで、肉体を超越する。

母が指に刺さります。

 あ、すごい。
 「母」は死んでいない。いないものが「指」に「刺さる」わけがない。けれど、刺さるのだ。そのとき、母は「遺骨」であって、「遺骨」ではない。「肉体」の燃え残った何かではない。そうではなく、「生きている母」である。
 「肉眼」の力が、母を甦らせるのである。

 田中庸介、高岡淳四--このふたりの正直なことばには、私はいつもただただ感動する。魯迅、森鴎外、安岡昇平の正直につながる美しさに感動する。






スウィートな群青の夢
田中 庸介
未知谷
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アルフレッド・ヒチコック「レベッカ」(★★★★)

2011-08-10 13:57:42 | 午前十時の映画祭
監督 アルフレッド・ヒチコック 出演 ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・フォンテーン、ジュディス・アンダーソン

 ヒチコックの映画のおもしろさのひとつに、美女が苦悩する、ということがある。不安、悲しみ、恐怖のなかで、美女の顔が歪む。--歪むのだけれど、その歪みが逆に、その女性の完璧な美しさを想像させる。想像力のなかで、美女がより美女にかわる。
 悦びのなかで美女がさらに美女になるという例は多い。あのシシー・スペイセクさえ、「キャリー」でダンスパーティーの「女王」に選ばれた瞬間、ほんとうの「美女」のように輝いている。
 ヒチコックは、そういう映画には興味がないようだ。美女はあくまでいじめられ、苦悩し、不安におののく。この映画もそうしたシリーズ。いや、そのなかの代表作かな?
 この映画の構造が、想像力そのものをテーマにしているから、よけいにそんなことを感じるのかもしれない。
 ジョーン・フォンテーンはローレンス・オリヴィエに求婚されて、結婚する。大豪邸で住むことになる。しかし、そこにはローレンス・オリヴィエの「前妻」の影がちらついている。絶世の美人。レベッカ。事故で死んでしまった。ローレンス・オリヴィエ自身がレベッカを忘れられずにいるのにくわえ、レベッカにつかえていた夫人(メイド頭?)が常にジョーン・フォンテーンとレベッカを比較し、「前の奥様は……」というようなことをいう。
 ジョーン・フォンテーンは自分自身の「美しさ」を追求することができない。どんなに追い求めても、それより「上」がある。レベッカの肖像を真似て、「理想の美人」になってみると、逆にローレンス・オリヴィエの苦悩を甦らせ、怒らせてしまうという具合。
 で、そのときどきの、ジョーン・フォンテーンの、ああ、美しいですねえ。いや、ほんとう。そうなんだ、美人はいじめるとさらに美しくなるんだ。美人をいじめてみたい。苦悩する顔を見てみたい--という、ちょっとサディスティックな気持ちになりながら、ずーっと映画を見てしまう。ヒチコックの策中にはまり込んでしまったまま、映画を見てしまう。まあ、映画は監督に騙される楽しみだから、それはそれでいいんだけれど。

 ということは、別にして。
 この映画はヒチコックがアメリカで撮った第一作なのだけれど、そこに出てくる人間が、ローレンス・オリヴィエをはじめとして「レベッカ側」がイギリス人。対するジョーン・フォンテーンがアメリカ人という構図が、この映画をまたまたおもしろくしている。
 イギリスの個人主義というのは、アメリカともフランスとも違うねえ。本人がはっきりことばにしていわないかぎり、その「個人の秘密」は存在しない。プライバシーは、本人が語らないかぎり、あくまでも「隠されている」。だれもが知っていても、本人がいわないかぎり、その「秘密」は存在しない。
 シェークスピアの国だけあって、ことばが重要なんですねえ。
 ね、だから、ことば、ことば、ことば。(オリヴィエが出ているから「ハムレット」を引用しているわけではないんですよ。)
 そこに存在しないレベッカ(死んでしまったレベッカ)が何と言ったか。プライバシーをどう語ったか。特に、オリヴィエに何と言ったか、ということがとっても大切になる。オリヴィエに言ったことは「ほんとう」だったのか、それとも「嘘」だったのか。それをことばで追い詰めるようにして、映画はクライマックスへ突っ走る。
 まるで小説を読んでいる感じだなあ。
 これがね、オリヴィエの演じる大富豪がアメリカ人だったら、レベッカがアメリカ人だったら、こんなストーリーにはならない。「嘘」を語ることで自分を隠す(プライバシーを捏造することで、ほんとうの自分を隠す)ということは、しない。ひたすらしゃべって、オリヴィエを自分の問題に(苦悩に)巻き込んでゆく。
 イギリスだから、何かを知っていても(たとえばレベッカが誰かとセックスをしている、浮気をしている、というのを見聞きしても)、そのことを「追及」し、語られていることが真実か嘘かという問題には踏み込まない。語られていないことは、聞いてはいけないのだ。
 これは、ほら、ジョーン・フォンテーンに対するオリヴィエの態度に端的にあらわれている。「過去」を語らない。レベッカのことを最小限にしか語らない。みんな、そうだね。--語られることが少ないということが、つまり、オープンに何でも話してしまわない、というイギリス人の個人主義の「壁」がジョーン・フォンテーンの苦悩をいっそう強めるという仕組みになっている。
 これがこの映画のいちばんおもしろいことろ、と私は思う。

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田村隆一試論

2011-08-09 23:59:59 | 現代詩講座
田村隆一試論(2011年08月08日の「現代詩講座」の再録、補筆)
 
 きょうは、前回、取り上げてほしい要望があった田村隆一。まず、読んでみてください。(受講生が朗読)

幻を見る人    田村隆一

空から小鳥が墜ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

窓から叫びが聴こえてくる
誰も知らない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からした墜ちてこない
窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴こえてこない

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ
叫びが聴こえてくるからには

野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱいだ
わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もいない

(質問--この詩を読んだ時の印象をなるべく短いことばでいってみてください。)
「拒否された世界」「殺人の場面を描いている」「哲学的。人生、生と死を感じる」「何かに抗議している」「ハードボイルド。かっこいい」

 あ、ちょっとびっくり、というか、ちょっと困りました。いきなり、こういう感想を聞けるとは想像していなかったので、……どうしようかなあ。
 考え直しながら、少しずつ進めます。
 実は、きのう受講生の2人に「あす、この詩をとりあげるよ」と話しました。そのとき、「難しい」「かっこいい」という感想が返ってきて、そこからはじめるつもりでいまし。
 「難しい」を自分のことばで言いなおすとどうなるか。--でも、誰も「難しい」とは言わなかったので、ちょっと困りました。
 で、私が「難しい」を言いなおしてみます。
 私には、この詩は難しい。すぐにはわからない。何かを感じるけれど、その感じをうまく言えない--それが難しい。言いたいことがあるのだけれど、それをどう言っていいかわからない。この詩の場合は、そんな感じです。
 ことばは、全部わかる。知らないことばはない。けれど、そのことばを読んでどう言っていいかわからない。考えをまとめきれない。田村隆一のことばと、自分自身のことばの間に、うまくつながらないものがある。一致しないものがある。それで難しく感じる。
 みなさんの感想を聞くと、あたりまえのことだけれど、「ひとつ」ではない。いろいろ違っている。感想が違うのは、詩を読んだ時の「内容(意味)」の把握の仕方がひとりひとり違っているからだと思う。
 誰もが「内容」に接近しながら、誰もが少し「内容」から離れている――ということが考えられる。
 詩は(文学は)正解を追い求めるものではないけれど、どうしてこんな風な違いが出てくるか。それは「難しい」からだと思う。「難しい」何かがあるからだと思う。

(質問--ところで、この詩のなかに、わからないことばがありますか? 意味のわからないことばはありますか?)
 全員「知らないことば、わからないことばはない」

 意味のわからないことばはない。全部知っている。けれど、読んで感想を言おうとするとうまく言えない。言い切れないものがある。そして、みなさんの「感想」もばらばら。これは、何か、この詩に難しいものがあるからだと私は思います。
 なぜ、難しいんだろう。どこがわからないんだろうということを探すようにして、詩を読んでいきたいと思います。

 次に「かっこいい」。
(質問――この詩をかっこいいと感じる。かっこいいを自分のことばで言い直すとどうなるか。どこがかっこいいか。)
「自分では考えられないことが書いてある。憧れ」
「言いきっている感じ。断定している感じがかっこいい」
「(田村隆一の)姿がかっこいい。憧れ」
「力量を感じる」
「頭で書いている。気どり」
「ことばが素敵」

 「難しい」を自分のことばで言い直してみる。感じていることと、言いたいことが結びつかない。言いたいことが言えない。
 「かっこいい」を自分のことばで言い直すと。刺激される。真似してみたい。自分にないものを感じる。自分のとは違う。びっくりした感じ。
 そういうことがだいたいの考え方ですね。
 では、「かっこいい」と「難しい」に共通することは?
 自分とは違う。自分を超えている。――そこには、「驚き」があると思う。

 ここからは、私の感想。
 私はこの詩を「かっこいい」と思う。ことばのリズムが「かっこいい」。「言い切ってしまう。断定がかっこいい」という意見がありましたが、私もそう思う。そのかっこよいリズムは、「断定」にある。言いきってしまう力強さにある。
 こういうところから、少しずつ田村隆一に近づいていって、田村隆一のことばを味わってみたい。
 「文学」なので、「正解」「正しい答え」はありません。あくまで、私が感じ、私が考えたことを、私のことばで説明する。そういうことをしてみたい。

 この詩は「断定」に満ちている。あらゆることを、田村はことばで「断定」している。1連目。「野」は何のためにあるか。

(質問――野は何のためにある?)
受講生「花が咲くために」

 子供が遊ぶため。花が咲き乱れるため。風がわたってゆくため。--そういう「一般的」な野、だれもが思い浮かべる野原を裏切って、田村はこ「小鳥が空から墜ちてくるため」にある、と断定する。この「一般的ではない」野のためにこの詩が「難しい」。「かっこいい」
 「難しい」「かっこいい」は一般的ではない、普通とは違うということと関係しているのがわかる。

 このとき、何が見える?
 空? 小鳥? 射殺? 野?
 それが分離できないもの、「ひとかたまり」に見える。それまで誰も想像したこともない「ひとかたまり」。不思議な出会い。この「ひとかたまり」のかたまり方――それが「かっこいい」と「難しい」に関係している。
 「難しい」から説明すると……。
 たとえば、糸がからまりあっている。長いはずの糸が「ひとつ」に「固まっている」。これを解きほぐすのは「難しい」。「難しい」ものは、自分の手で解きほぐせない「ひとかたまり」のものに似ている。知恵の輪も同じ。絡まっている。解きほぐせない。
 この詩でも、空、小鳥、射殺、野がからみあっていて、うまく解きほぐせない。
 言い換えると、自分の知っている空、小鳥、射殺、野とつながらない。どんなぐあいにつながっているのか、その糸をきちんとたどれない。つながっているけれど、それを自分なりに(自分のことばで)つなぎなおせない。
 そして、何が、絡み合った糸の原因かなあ、と思うと、「射殺」ということばが気になる。
 私は田村の詩を読むまでは、こんな風に射殺ということばが使われるとは思ったことがなかった。その思いもしなかったことばが他のことばを結び付けている。「難しい」「分からない」は、ここに「射殺」ということばがあるからだと思う。

受講生「小鳥を射殺するとは、普通は言いませんね。銃で撃つくらいが普通」

 そうですね、とてもいい指摘だと思う。
 「射殺」はとっても変。そして変なことなのだれど、そのわからない原因の「射殺」があるから、この詩はかっこいい。言い換えると、私の想像力(常識?)を超えている。あ、そんなふうな言い方があるのか、と驚き、この驚きが「かっこいい」ということなんだと思う。それが別の言い方をすると「頭で書いている。気障」にもつながる。

 そしてまた、少し後戻りすると、驚き、びっくりのために「難しい」も生まれている。びっくりして自分の考えがまとまらない。だから、分からない=難しい。
 かっこいいものは難しい。かっこいいものは、自分ではすぐにはまねできないものがある。自分には難しいものがあるからかっこいい。

 繰り返しになるけれど、この分からない=難しい、かっこいい、びっくり、ということのなかには、自分の知らなかった「ことばの出会い」がある。
 詩は、出会うことのなかったものが出会うときにあらわれる、という定義がある。
ここに書かれている、空、小鳥、射殺、野ということばの出会いは、田村がはじめて書いたものである。田村のことばのなかで、それが出会っている。それがいままで誰も書かなかったもの(想像しなかったもの)だから、それが詩である。
 同じように、2連目は、窓、叫び、射殺、世界が田村のことばによって結びつけられている。

 この結びつきを、さらに新鮮に感じさせているのが「誰もいない所」「誰もいない部屋」の「誰もいない」である。
 この「誰もいない」という何気ないことば――これこそ、ほんとうは田村の思想につながっていく大事なことばなのかもしれない。田村を特徴づけることばかもしれないけれど、この問題はちょっとわきに置いておいて、先に進みます。

 この「誰もいない」は矛盾したことばである。
 「誰もいない」なら、誰が「射殺」するのか。誰もいないなら射殺する人もいないということである。射殺される人もいない。
 なんだか変だね。矛盾している。
 この矛盾によって、しかし、逆に「射殺する」という凶暴なことばがリアルに感じられる。
 なぜか。
 それは「射殺」ということを私がことばでしか知らないからだ。「射殺」がどういうものであるか、私は知らない。「射殺」されたらひとは死ぬということはわかるけれど、それを見たことがない。(映画では見たことがあるけれど、ほんものは知らない。)また、誰かを(何かを)射殺したこともない。
 その知らない「射殺」が、普通につかわれる「射殺」とは違った意味(?)でつかわれている。普通とは違う場面でつかわれている。そのために、なんだか、とても新鮮に、刺激的に響く。

 詩でも、作文でも、学校でならうものは、みんな自分の「体験したこと」を書く。これが「学校」の詩、作文。
 知らないことがあると、どうなるか。知っていることを中心にして、その知らないことを考える。そうして、その考えるということのなかで、知っていることばが強烈に結びつく。
 ことばでしか知らない「射殺」があり、「誰もいない」という矛盾があるために、この1、2連は、わからないけれど、印象に残る。--そういうことが、読むときに、頭の中ふこころのなかで起きている。

 私は、結論を考えず、思いついたことをそのままことばにして、行き詰まったらちょっと引き返してもう一度ことばを動かし直してみる。
 そういうことを、ここでもしてみる。
 「難しい」と「わからない」はちょっと違うけれど、似ている。
 私は、さっき「わからない」ということばをつかったけれど。
 「わからない」というのは、この詩の場合、「死」や「射殺」以外にもある。たとえば小鳥の大きさ。小鳥の名前。すずめか、ヒバリかもわからない。小鳥の羽の色。窓の形。叫び声がギャー、かキャーか。世界の広さ。世界と田村が呼んでいるもの。それが「わからない」。
 そして、それでもそのことばが強烈に印象に残るのは、私たちが(読者が)かってに、小鳥や野原や窓を想像するからである。「わからない」くせに、かってに「わかる」(わかったつもりになる)。
 どうしてだろう。
 ことばに触れると、私たちは、自然に何かを想像する。空と聞けば空を想像する。小鳥と聞けば小鳥を想像する。その想像したものは、あいまいなもの、はっきりと意識しないものである。
 その想像を、田村は「断定」で揺るぎないものにする。きっぱりと言い切ることばの調子で、「完璧」な空、小鳥を出現させる。
 「想像」というものは実体がないのだから、ふわふわと頼りないものである。その頼りないものを「ある」と田村が「断定」するので、すーっとその世界に私たちは引き込まれていく。
 繰り返しになるけれど、このとき「誰もいない」という矛盾と、「射殺」という「未体験」のことばが大きく影響する。。そこに書かれていることは、わからない。わからないから、わかることばへ向かって、私たちの想像力は結晶のように固まっていく。この結晶化していくスピードと田村の「断定」の歯切れのよさがどこかで重なり合う。

 2連目は 1連目と構造がとても似ている。ひとつのことを別のことばで言い直したもののように感じられる。

窓から叫びが聴えてくる
誰も知らない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

 1連目について触れなかったことを、ここで補足しておく。
 まず「窓から叫びが聴えてくる」という「事実」が描写される。そのあと「誰も知らない部屋で射殺されたひとつの叫びのために/世界はある」。この2行は「断定」のリズムが強いために、「事実」のように見えるけれど(勘違いしてしまいそうになるが)、「事実」とは言えない。田村の考えたこと。
 象徴的なのが「ために」ということば。
 「ために」ということばが出てくる。
 この「ために」は田村が考えた理由。
 そして、このことが「難しい」にも「わからない」にもつながっている。あくまで、それは「事実」ではなく、田村が考えたこと。
 でも、この「ために」が、ほんとうによくわからない。「射殺」以上にわからない。
 わからないのは、普通はこんな使い方をしないから。
 普通はたとえば「○○さんのために花を飾った」というような使い方が多い。
 理由をあらわす「ために」もあるけれど、「射殺されたひとつの叫びのために世界はある」はどうも奇妙。
 さっき「射殺」という自分の体験したことのないものが書かれているために、わからない、と言ったけれど、そうではなくほんとうは、この「ために」が原因でわからない。
 なぜ、「ために」で関係をむすびつけるのかわからない。

 他人の考えは、わかる、わからない、ではなく、信じるか信じないか。
 考えたことを事実のようにきっぱりと言ってしまう。そのことばの調子、リズムが強い。このリズムの強さ、断定の強さに引きずられて、私は田村の「考え」を信じてしまう。無意識に共感してしまう。「ために」で感じたわからなさを、「ために」があまりにも簡単なことばであるために「原因」であるとは意識できずに、田村のことばにのみこまれてゆく。信じてしまう。
 そのために「かっこいい」という印象が強くなる。

 「ために」が重要なことば、わからなさの原因。
 そして、この「ために」がとても重要。
 田村は実は「ために」、理由を探している。小鳥が墜ちる、叫びが聴こえる――その理由を探しているのではないのか。田村が本当に書きたいことと、「ために」は密接な関係にあるのではないのか。
 「ために」に、田村の思想が集約されているのではないのか。
 ――ということを、私はここまで読んで感じる。

 3連目。田村は、さらに「考え」を書いてゆく。「ために」につながってゆく「考え」(世界の見方、見え方)を書いてゆく。

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からした墜ちてこない

 これは、ほんとうだろうか。この「考え」は間違いないだろうか。
 たとえば小鳥は木から墜ちてくることもある。巣から墜ちてくることもある。電線から墜ちてくることもある。でも、そういう鳥は止まっている鳥。田村が書いているのは、飛んでいる鳥。
 だから、この1行は、

空は小鳥が「飛ぶ」ためにあり 「飛んでいる」小鳥は空からしか墜ちてこない

 ということになる。
 そして、もし、空の小鳥が墜ちてくる、射殺されたら、そのとき、「空は小鳥が「飛ぶ」ためにあり」の「ために」はどうなるのだろう。小鳥が飛ぶ「ために」は否定される。墜ちてくる鳥の「ために」野はある――は、とても変。鳥は普通は飛ぶのが普通。飛ぶのが普通なら、「飛ぶために空がある」が普通。
 普通ではないことをはっきりさせるために、1連目、2連目の「ために」はあるのかもしれない。

 「空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか墜ちてこない」で「飛ぶ」「飛んでいる」を補ったように、

窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴こえてこない

という行にことばを補うとしたら、どうなるだろう。「叫び」を修飾することばは何だろうか。
 たとえば「閉じ込められた」はどうだろうか。
 これは、あとになって出てくる。最初の方で、田村は自分のことばを言い直しているというようなことを言ったが、後から出てくる「閉じ込められた」はまさにそれ。言いそびれたことを付け加えている。
 「わからない」ことで、それが作者にとって重要なことがらは、かならずあとで説明しなおされるので、わからなくても読んでゆけばわかる、というようなことが起きるのは、このため。

窓は「閉じ込められた(閉じ込められている人)の叫びのためにあり 「閉じ込められているひとの」叫びは窓からしか聴こえてこない。

 これは、どういう「窓」を想像するかということとも関係してくる。私は、この詩を読んだとき高い塔の小さな窓を想像した。人を幽閉する塔、その窓。高い塔を想像したのは、たぶん「空」と関係がある。小さな窓を想像したのは「小鳥」と関係がある。
 野原にぽつんとたっている高い塔。そこには誰かが閉じ込められている。彼はときどき窓から、空を飛んでいる小鳥を見ている。--そういう風景を想像する。
 この3連目は1、2連目と違って、簡単には想像できない。何かしら「意味」を考えてしまう。どういうことかな、と考えてしまう。
 この考えは、簡単にはまとまらない。つまり、自分だけの力でまとめることができない。そういうとき、私は、ともかくそこに書いてあることばをそうなんだ、と思って読む。田村の「断定」を、とりあえず信じて先へ進む。

 4連目。ここが、この詩でいちばんおもしろいところ。私はいちばんおもしろいと思った。

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 「ために」で始まる「理由」は田村が考えたこと。自分で考えておいて、「わたしには分からない」って変でしょ。ばかやろう、おまえが考えたことなのに分からないなんて言うな。怒り出したくなりますね。
 だから、おもしろい。
 3連目の2行は、私も、わからない。空は飛ぶ小鳥のためにあり、飛んでいる小鳥は空からしか墜ちてこないというのはほんとうだとしても、どうしてそうなのか、わからない。窓が閉じ込められているひとの叫びを外に伝えるためにあるとてしも、なぜ窓からしか叫びが聴こえてこないのかわからない。
 繰り返しになるけれど、でも、そこに書いていることは田村が書いたこと。田村が理由付けしたこと。
 それなのに「分からない」という。
 ずるい。
 そして、この「わからない」を田村は突然「感じる」にかえてしまう。
 この瞬間、この詩が「考えたこと」「頭で理解していること」を書いているのではなく、「感じていること」を書いたのだとはわかる。
 あるいは、「感じている」ことを書いたのではなく、一歩進んで、「感じたいこと」を書いた。ことばを書くことによって「感じ」をつくっていく。「感じ」というのは「こころ」のなかにもやもやとしていて、はっきりつかめない。それをはっきりつかむために、ことばを動かす。そういうことをしている。そう思って見ると、詩の雰囲気が変わってくる。
 「感じたい」からこそ、「断定する」。
 「感じ」にたどりついたあとの、5連目。
 ここは、とてもかわっている。

小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ
叫びが聴こえてくるからには

 ことばのつながり方がかわっている。いままでの書き方を踏襲するなら、どうなるだろう。

(質問――今までと同じスタイルの展開にすると、この2行はどうなりますか?)

受講生「小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 
    叫びが聴こえてくるからには閉ざされたものがあるわけだ」

 そうですね。普通は、そう書いてしまう。特に詩を書きなれていると、スタイルが優先的に前にでてきて、ことばをそう動かしてゆく。けれども、田村はそうは書かない。倒置法を使っている。しかも「閉ざされたものがあるわけだ」を「小鳥」の行に続けている。ここが田村のすごいところなのだけれど、

(質問――ここから何を感じますか。この、変な書き方をに何が隠されているか。どう、読みますか?)

受講生「田村の地が出ている。怒りが出ている。怒ったとき、興奮して、ことばの順序が逆になったりする」

 そうですね。とても的確な指摘だと思います。
 (私は、実はここで、とても興奮しました。--ここが、今回の講座のハイライトだったと思います。)
 私もそう思います。ここは、論理よりも感情の暴走をそのまま書いている。怒った時、人は論理的ではなくなる。ことばが乱れる。倒置法みたいに、あとで論理をつくりあげるようなところがある。そういう感情の動きを、きちんとことばの順序の変化で再現しているところが、田村の素晴らしいところ。
 倒置法で、わかりにくい。一瞬考えないと分からないのだけれど、そのときのことばの動き、スピード、歯切れのよさ、リズムの変化――そういうものが、かっこいい。

受講生「倒置法はわかったんですが、「小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ」と1行になっているのがわからない。なぜ、小鳥の行に閉ざされた・・・が続くんですか?」

 あ、これはとてもいい質問。
 (ここでも、私は興奮しました。)
 前回取り上げた川邉由紀恵の詩を読んだ時に言ったことと関係があるのだけれど。
 句読点とか、改行とかには、「ひとつづき」のリズムがある。感情や感覚のリズムがある。論理とは別のものがある。
 怒りのために、ことばの順序、リズムが乱れている。その乱れ――つまり、怒りの強さを強調するために、田村はわざと「小鳥」と「閉ざされた」を1行にくっつけている。
 ここには、感情をどうあらわすかという「工夫」があらわれている。

 そしてそれは、「小鳥」と「閉ざされた」を結びつける、つまり1行にしてしまうことで、「小鳥」と「叫び」が田村にとっては同じもの――ということを証明することになる。
 この2行をいままでのことばで書き直してみると、そのことが分かります。
 どうなるかな?

小鳥が墜ちてくるからには「空」があるわけだ 「窓」があるわけだ
叫びが聴えてくるからには

 「高さ」は「空」。「閉ざされたもの」は「窓」。
 ここから、さらに読み進んでみる。
 1、2連目と比較してみる。1、2連目では「空」も「窓」も最初からあった。けれど、この連では「空」も「窓」もない。「小鳥が墜ちてくる」という現実があり、「叫びが聴こえてくる」という現実があるだけだ。「小鳥が墜ちてくる」「叫びが聴こえてくる」ということから出発して「空」があるはずだ、「窓」があるはずだ、と想像していることになる。
 このとき、「空」「窓」というのは田村の欲望である。希望である。「空」を「高さ」と抽象的にいうことで、「希望のにおいがつよくなる。「閉ざされた」は逆説かな? 「窓」は「閉ざされた」ときではなく、「開かれた」とき、内と外をつなぐ通路になる。
 ここには、あってほしいと願っている「もの」が書かれている。
 空は小鳥が自由に飛び回る場。窓は室内と室外を結ぶ通路、かな?
 そして、

小鳥が墜ちてくるからには「空」があるわけだ 「窓」があるわけだ
叫びが聴えてくるからには

 に戻ってみると、「空があるわけだ」「窓があるわけだ」が1行のなかの「言い直し」になっていることに気がつく。「空がある」と「窓がある」は同じものなのだ。「同じ」が言い過ぎなら、どこかで似通ったもの、通い合うものを持った「もの」なのだ。
 そこから、もう一度、オリジナルの行に戻ってみる。

小鳥が墜ちてくるからには高さがあるわけだ 閉ざされたものがあるわけだ
叫びが聴えてくるからには

 そうする、「高さ」と「閉ざされたもの」の逆説が同じもの、あるいは似通ったものであるということがわかる。
 田村は空、小鳥、野の組み合わせ、窓、叫び、世界の組み合わせを、ふたつの組み合わせではなく、ある「ひとつ」のことを言いなおしていることになる。さらには「小鳥が墜ちてくる」と「叫びが聴こえる」は同じである。
 空と窓は同じ、小鳥と叫びは同じ、野と世界は同じ。そして、その「同じ」をつなぐものとして「誰もいない」と「射殺」があった。共通項が接着剤のようにして、そのことばを結びつけていた。
 どちらがどちらの「比喩」なのかわからないが、それらは交互に比喩になっている。
 そして、「ために」がそれを内側から強烈に結び付ける「理由」を暗示していた。

 「比喩」というのは、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものをより強く印象づけることばの運動。
 「○○さん」は五月の薔薇のように美しい--というとき、「○○さん」は「いま/ここ」にいる。けれど「五月の薔薇」はここにない。その「いま/ここ」にないものをいうことで、「いま/ここ」にいるひとに「散る寸前の薔薇」を想像させ、その「想像力の眼鏡」で「○○さん」を見つめなおすように仕向ける。
 「想像力はものを歪めてみる力」といったのはバシュラールだけれど、ようするに、違ったものとしてみる力のこと。
 そういうものが田村の詩の中では動いている。

 空も小鳥も野も、窓も叫びも世界も、「現実」にあるものとは違って、どれも田村が歪めて見ている「もの」。
 田村は、この詩では、1連目が現実で2連目が比喩なのか、それとも1連目が比喩で2連目が現実なのか、はっきりしないように書いている。たぶん、はっきりしないのだ。たがいに現実であり、比喩であるというすばやい動きを繰り返している。互いに現実であり、比喩であるという関係を生きている。
 ただし、そうは言っても「小鳥」ではじめるか、「叫び」ではじめるかでは詩の感じは違ってくる。「叫び」ではじまると抽象的すぎてわかりにくい。「小鳥」の方が想像しやすい。そういう工夫も、詩として、ほどこされている。

 そうして、そういう現実と比喩の関係が明確になったとき、もう一回、いままで書いてきたことの「核心」のようなものがあらためて浮かび上がる。
 それが最終連。

野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱいだ
わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もいない

(質問――この2行には、いままで使われてこなかったことばがありますね。何ですか?)

受講生「死、屍骸」

 そうですね。
 その「死」は何の言い換えだろう。あるいは、どんな「死」だろうか。自然な死だろうか。
 1連目、2連目に「死」を連想させることばがある。「射殺」。
 詩のことばは、言いたいことを何度もことばを言い換えて書いている。言い換えることでことばの意味(言い表したいこと)に幅や深み(読者が共感できる要素)を広げる。
 飯島は「死」ということばを書いているけれど、これは「射殺された死」。
 「射殺された死」というとき、誰に射殺されたのだろう。普通の人が、たとえば強盗に? あるいは暴力団に?

野のなかに小鳥の屍骸があるように わたしの頭のなかは死でいっぱいだ

 この1行の「数」に注目すると、気がつくことがある。野の小鳥、それは「射殺された一羽の小鳥」、「一羽」だった。でも、「わたしの頭のなかは死でいっぱいだ」と「射殺された死」は「いっぱい」。複数。あるいは「ひとり」かもしれないが、野原の小鳥の屍骸が野の一部しか占めないのに、頭の中の死は「いっぱい」の領域を占めている。とても重要な「死」なのだ。
 2連目の「射殺されたひとつの叫び」ということばを手掛かりにすれば、それは田村にとって大切な「ひとり」のことかもしれない。あるいは「ひとつの叫び」とあるけれど、「死」はそれぞれの個人のものだから、ここでの「ひとつ」は無数につながる「ひとつ」かもしれない。「射殺された人(大切な人)」は無数かもしれない。
 無数の死――そして、射殺。ここから想像してしまうのは、私の場合、戦争。
 戦争で、無意味に「射殺された人」、その「死」のことを田村は書いているのではないかと思う。
 また、この最後の連に、頭が出てくるところも大切なのではないかな、と思う。
 「ために」は「考え」を書いている。頭で考えた「理由」をあらわしているという具合に読んできた。そして、その頭で考えていたことを田村は途中で「感じ」に変えた。怒り、激情に変えた。ところが、また、頭に戻ってきている。
 これは何だろう。
 怒りは、だれでも怒る。感情はだれでも爆発させる。それは爆発させるだけでは力にならない。怒りを論理的に説明する--頭でこれこれの理由で怒っているのだときちんというとき、その怒りは「思想」になる。
 田村のことばは、一篇の詩の中で、そんな具合に動いている。成長している。

受講生「最終行がわからないんですが」

わたしの頭のなかに死があるように 世界中の窓という窓には誰もいない

 「世界中の窓という窓には誰もいない」というのは田村の仲間が「射殺」され、もう「窓の中(部屋)」にはいない、死んでしまったということではないだろうか。そして、そのひと(その人たち)の死のことを「わたし(田村)」はいつも考えている――ということではないでしょうか。
 戦争体験が、この詩には反映されていると思います。
 「思想」ということに結びつけると、田村は、戦争の中で無残に死んでいった人(仲間)のことを忘れないと語ることで、「反戦」(戦争への怒り)をあらわしているのだと思います。

 ちなみに、田村隆一は1923年生まれ。1943年に明治大学を卒業している。1943年12月 9日に横須賀第二海兵団入団と「現代詩文庫」の略歴に書いてあります。戦争を体験している。戦争を体験することで「死」をつよく感じ取ったのかもしれない。それが詩に反映していると思います。

 その後の雑談で、次の意見があった。
受講生「小鳥とか、書かれていることが抽象的なので、戦争を超越しているように思います」
受講生「田村の怒りが普遍性に到達しているということだと思います」

                              (2011年08月08日)



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田村隆一全集 1 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
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高岡淳四「時化続きの後、久々に青い空を見るというのに 油山に生きる3」

2011-08-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
高岡淳四「時化続きの後、久々に青い空を見るというのに 油山に生きる3」(「妃」15、2011年07月30日発行)

 高岡淳四「時化続きの後、久々に青い空を見るというのに 油山に生きる3」は自殺した従兄弟の思い出を書いている。
 くだくだと(?)どうでもいいことを書いている。それが不思議とおもしろい。特に、「文体」がねじれるときの、「さらり」とした感じがとてもいい。
 あ、天才だなあ、ことばをほんとうにきちんと動かしているんだなあ、動かすことができるんだなあ、といつも感心してしまう。

本当に、よく私のことが見えているのですよ。東京の、東京大学での学生生活について聞かれると、周りの人が賢いのでたいへんです、などと謙虚そうなそこを言っているけれど、親戚に褒められたりうらやましがられたりするのが本当は大好きなこととか。

 「言っているけれど」の「けれど」の使い方がとてもいい。いや、「けれど」のことばの受け方がいい。「けれど」とつながれば、そこに前の文を否定することばがつづくはずなのだけれど、高岡は、それを不思議な形でするりとかわしながら、文の全体を「本当に、よく私のことが見えているのですよ。」へ引き渡してしまう。その軽いスピードが気持ちがいい。書いていることが「嫌味」にならない。
 補足する。「謙虚そうなことを言っているけれど」と「けれど」をつかえば、普通は「謙虚ではない」という「ない」を含んだ文がつづくはずなのだが、「けれど」だけでそれを省略してしまう。その省略によってスピードが出る。それから「親戚に褒められたりうらやましがられたりするのが本当は大好き」と「謙虚ではない」ことを「事実」として言ってしまう。「ない」(否定)を含まないことばで言ってしまう。それが「否定」をふくまないからこそ、「本当に、よく私のことが見えているのですよ。」にまっすぐにつながる。「ない」(否定)を含んだ文章がここに挿入されると、その瞬間に「謙虚そうなことを言っているけれど、謙虚ではない」で文が終わってしまう。高岡の「自己分析」で世界が完結し、従兄弟の視線と分離してしまう。
 これではまずい。

 私たちは、あれやこれやを抱え込むと面倒くさくなり、適当なところで文を区切る。適当に区切る。そうすることでものごとを「分離」し、「整理」してゆく。それはそれでいいのだけれど、人間にはそういう「分離」とは相いれないような、ずるずるしたつながりがあって、それは「分離」した瞬間に、途切れてしまう。
 高岡は、こうした「分離」を、「分離」の形をとらないまま表現することができる。ずるずるずるーっと動いて、なおかつ、「文体」がみだれた、内容がわかりにくくなったという感じにならないまま続けることができる。
 「接続」の表現が、飛び抜けている。「分離」を内に隠したまま、さらりと「接続」をやってのける。そこから不思議なスピードが生まれる。

私が、お爺さん、お祖母さん、叔父さん、叔母さんに向かって言っていることに聞き耳をたてて、いちいち馬鹿にしたようなことを言うのです。お爺さんも、お祖母さんも、叔父さんも、叔母さんも、みんなそんなことは分かっていて、わざわざ聞いてくれているのに、奴だけは許してくれないのですよ。
と言える程に大人でなかった私は、デブだのハゲだのという攻撃に対して、あっさりと自分の品格を落として、父親と酒を飲み、父親が寝ても冷蔵庫からビールを引っぱり出してきて飲み、正月だから冷えてなくてもいい、とケースから出してきたものも飲んでいたら、お祖母さんからもうやめろと言われ、今度は酔いにまかせて奴に絡みだし、子供の頃の恥ずかしい話しなどをして気がつけば、若いのに髪が大分うすくなった酔っ払い東大生対ひきこもりの腰のひけた立ち回りに至っていた、などということもあった。

 「と言える程に」の「と」。前の文を、ぽんと放り出してしまう。
 そして、ずるずるずるーっと、どうでもいいことを書く。そこに「正月だから冷えてなくてもいい」というような「実感」を挿入することで文を分断しながら、あくまで「挿入」を貫くことで文全体は「接続」(連続)しつづける。
 「分離」は不思議な形で常に隠される。--いまの「正月だから」うんぬんは、一種の笑いによってつながっていく。「笑い」というのはほんらい「分離」の作用が強いのだけれど、高岡は、これを「連続するユーモア」という形でつないでしまう。
 「若いのに髪が大分うすくなった酔っ払い東大生対ひきこもりの腰のひけた立ち回り」という文には、変に笑えるでしょ? 私は高岡にあったことはないので、どんな風貌をしているか知らないのだが、「若いハゲ」を思うとそれだけでおかしい。(失礼!)そうか、「若いハゲ」なのか、会ったらからかってやろう、笑ってやろうなんて密かに思いながら、高岡の書いていることばに引き込まれてしまっている。

 つまらないことがら(?)のなかにあるもの、--つまらないというのは「意味」には無関係なこと、と言い換えた方がいいのかな?--、そのなかの不思議な「笑い」のような軽いもの。あるいは、誰とでも簡単に「連続」してしまう何か。「笑う」とき、何と言えばいいのかな、ちょっと相手を馬鹿にして(自分を優位にして)、相手との関係ができる。その気楽な「接続感(連続感)」で、世界を拡げてゆく。
 私は騙されているかもしれないけれど、こうした「連続感」で広がってゆく世界の中心にいることができる高岡は「正直」だと思う。正直でないと、世界がぶれる。高岡の世界は何が挿入されても(挿入の瞬間に、世界が「分断」されても)、すーっと別のことばとつながってもとに戻る。
 連続(接続)による「復元力」がとても強い。「復元力」が強いので、安心してことばを読むことができる。

 ことばが脱線したとき(ほんとうに言いたいことから「分離」して、どんどん暴走して行ってしまうとき)、それをもとに戻すのはたいへんである。
 私は、「もとに戻る」とその度に書いて引き返すが、高岡は、そんなことをしないで、自然に戻ってしまう。

僕の方が普通は先に死ぬと思うから、好きにしてくれたらいいのだけれども、
僕がつりが好きだからと言って、間違えても、海に蒔かないで。
生きている時、落ちないように、落ちないように、としていた場所に沈められるだなんて、
考えるだけでぞっとする。

 これは飛行機の中で、散骨のことを考えていた時の「脱線」である。そのなかの「落ちないように、落ちないように、」というのは釣りをしているときの岸壁かどこかから「落ちないように」ということなのかも知れないけれど、飛行機に乗りながら、飛行機が「落ちないように、落ちないように」と祈っている(?)感じにもつながり、とても不思議である。 
 高岡のことばは、いつでも自在に「現実」そのものへと戻る。「復元力」は「現実感覚」ということかもしれない。
 (あ、この書き方はちょっと乱暴な論理の飛躍だね。)
 まあ、そういうことを考えた。
 高岡以上の天才、名文家はいない--と私は思う。

おやじは山を下れるか?
高岡 淳四
思潮社
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瀬尾育生「暮鳥」(3)

2011-08-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「暮鳥」(3)(「現代詩手帖」2011年08月号)

 「2」の冒頭。

もしも自然に言葉が与えられたら自然は嘆くであろう。

 これには註釈がついている。ベンヤミンの「言語一般あるいは……」という文章からの引用らしい。私は不勉強でベンヤミンを読んだことがないが、この他者のことばの引用による「分離」と「反復」がおもしろい。
 どういう状況であろうと、何かについて語っていて、そのときにほかの誰かのことばを引用するとき、そこには「論理」の接続があると同時に「分離」があり、また引用の瞬間に始まる「反復」もあるのだが、この反復は2種類ある。この作品に則していえば、ひとつは「ベンヤミン」そのものの「反復」。もうひとつはベンヤミンのことばをたどることで、いままで言ってきた瀬尾自身のことばをたどりなおす--点検し、補強する。
 あ、でも、この作品では、瀬尾が(話者が)、いったい話者自身のどのことばを「反復」しようとしているかわからない。
 わからないまま、「反復」はさらに増幅する。

二週間が経ったころ、夜のなかに歩み出てゆくと、いくつもの匂いと白いものたちの塊りが暗がりの中にとつぜん浮き上ってきた。

 「二週間経ったころ」と「時間」が明確にされる。「時間」による「ある一点(過去)」と「いま」の「分離」がその瞬間に生まれ、また「過去」を意識するときその意識の中では「過去」の一点が「反復」される。
 この一点とは、最初にこの詩を読んだときに「倒置法」について触れたが、やはりここでも「倒置法」によって明示される。
 それは、引用のつづきを読むとはっきりする。

それらの語り出しについて、私はいくつかの木々の名、花々の名を呼んだ。だが彼らは嘆くとしての沈黙の形で嘆くのであろう。

 ベンヤミンの「もしも自然に言葉が与えられたら」が、二週間というの「分離」のあと、いま「反復」されているのだ。自然にことばがあたえられていたら、つまり自然がことばを語ることができるなら--私はそのことばを誘うために、木々の名前、花々の名前を呼んでみる。しかし、木々も花々も答えない。答えないけれど、その「答えない」を、話者は「沈黙の形」と呼ぶことで「ことば」にしてしまう。
 それは正しいか。つまりベンヤミンの言った「言葉」のありようと合致しているか。私には確かめる術はないのだが(ベンヤミンの著作を読めば、それなりの「答え」を言うことができるかもしれないが)、それはどうでもいいのだ。合致しているかどうかはどうでもいいのだ。合致していようがしていまいが「沈黙の形」ということばで話者が「反復」したということにかわりはない。
 「反復」は、ベンヤミンへ近づくことか、遠ざかることか。近づきながら、遠ざかるという「矛盾」を生きることである。話者がベンヤミンそのもののことばになってしまえば、それはベンヤミンではなく話者であるということができる。それはベンヤミンではなくなる。また、ベンヤミンから遠ざかりながら話者自身の思考を突き進めてゆけば、ベンヤミンから遠ざかることになるのかといえば、そうではない。出発点がベンヤミンなら、そのことばがどこまで動いてゆこうがそれはベンヤミンが考えたかもしれないことばの行く末である。遠ざかったつもりでも、それはそこにいないベンヤミンのより近づくことである。
 「分離」と「反復」は、「矛盾」にしかたどりつけないのである。言い換えると「思想」になるかしかないのである。いつでもことばは、矛盾の中で思想になってしまうのである。--というのは、ちょっと先を急いだ乱暴なことばだけれど。

 詩のつづき。

風が葉叢をそよがせ、鳥は鳴き獣たちは吠える。そのようにして彼らは嘆き、かつ沈黙しているのであろう。

 「鳥は鳴き獣たちは吠える。」はたしかに鳥たちの嘆き、獣たちの嘆きかもしれない。そしてそれが「沈黙」という形に見えるのは、実は、話者がその「音」を話者自身のことばに翻訳(?)できないからである。つまり「反復」できないからである。「分離」を感じ、話者のことば自身が「沈黙」していることになる。
 それはそれとして。
 「風が葉叢をそよがせ、」はどうなるだろう。このとき嘆いているのは「風」なのか、それとも「葉叢」なのか。沈黙しているのは「風」なのか、それとも「葉叢」なのか。わからない。そうして、わからないと感じた瞬間、繰り返しになるが、「鳥は鳴き獣たちは吠える」とき「沈黙」しているのは鳥なのか獣なのか、あるいは「話者」なのかわからなくなる。
 このあとが、おもしろい。

私はその嘆きをいっそう深く沈黙させるために、自らをそれらの沈黙者たちの列に埋め込む。

 風・葉叢・鳥・獣という「自然」の「沈黙(嘆き)」を、さらに深く沈黙させる--強く実感するということだろう--ために、自らをその沈黙者たちに埋め込む。その「埋め込み」は「分離」ではなく「接着」のように見える。自らを埋め込むことで、風・葉叢・鳥・獣という「自然」を強くつなぎとめるように見える。(瀬尾のことばが「粘着力」を発揮するのはこういうときである。)
 しかし、そうなのか?

私はその嘆きをいっそう深く沈黙させるために、自らをそれらの沈黙者たちの列に埋め込む。

 このことばは「沈黙」ではない。これはうるさいくらいに「論理的」なことばの運動である。「沈黙」とは正反対のものである。
 「沈黙」に埋め込むことができるのは「沈黙」ではなく、「饒舌」なのだ。
 「矛盾」である。「矛盾」だから、そこに「思想」がある。

私はその嘆きをいっそう深く沈黙させるために、自らをそれらの沈黙者たちの列に埋め込む。

 この「矛盾」は、しかし、どういえばいいのだろう。「文学」の宿命である。

閑かさや岩にしみいる蝉の声 芭蕉

 を、私は、ふいに思い出してしまうのだ。
 ベンヤミンのことばは芭蕉を念頭においてはいないだろう。瀬尾のことばも芭蕉を念頭においてはいないだろう。私も、芭蕉のことばを最初から考えていたわけではない。けれど、突然、芭蕉によって、瀬尾のことばを「分離」してみたくなったのである。そうして「反復」してみたくなったのである。芭蕉の中にある「分離」と「反復」、そしてそのふたつが「閑かさ」、つまり「沈黙」を深めている、いっそう深く閑か(沈黙)という状態を刻印していると感じるからである。

 私の感想は、どんどん瀬尾のことばから離れて行ってしまうかもしれない。「誤読」が「誤読」を通り越して、単なることばの暴走になってしまっているかもしれない。
 瀬尾のことばが、私のなかのことばの「分離」と「反復」を誘発し、そして増幅させているのかもしれない。

詩的間伐―対話2002‐2009
稲川 方人,瀬尾 育生
思潮社
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瀬尾育生「暮鳥」(2)

2011-08-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「暮鳥」(2)(「現代詩手帖」2011年08月号)

 「分離」と「反復」について、さらに考える。

その車(の残骸)は焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた。

 「その」は指示代名詞であり、そのことば自体の中に「反復」がある。話者の意識が、指し示されたものを反復している。--のであるけれど、瀬尾が書いているこの部分の「その」は実は何を差しているか他者(読者)にはわからない。
 私が引用した部分は「1」の3連目の書き出しだが、どんなふうに読んでも「その」を特定できない。「その」は先行する何かを指し示すというよりも、それからつづくことばを誘っている。

その車(の残骸)は焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた。ほとんど黒くなった白のセダンだ。破れたフロントグラスに三メートルくらいの鉄パイプが突き立ててある。その鉄パイプに日の丸がぶら下げてある。

 私の書くことは、ちょっと論理が前後するが、「その車」の「その」と「その鉄パイプ」の「その」を比較すると、ふたつの「その」の違いがわかる。後者「その鉄パイプ」は「破れたフロントグラスに三メートルくらいの鉄パイプが突き立ててある。」という文の中にある「鉄パイプ」を引き継ぐための「その」である。「その」ということばで「反復」が始まる。けれど、「その車」の「その」は先行する「車」を持たない。

その車(の残骸)は焼けて潰れ、

 の、(の残骸)という部分は、とても巧妙で、車(走るもの)を一瞬のうちに否定し、ことばを別次元へ運ぶ。車を「走るもの」という概念から「分離」し、そこにある「残骸」(役に立たないもの)とし反復する契機になっている。(の残骸)という形での「分離」が、それ以後のことばの疾走を誘発する仕組みになっている。
 「その車(の残骸)」は、一種の「倒置法」である。だから、ことばは、つづいていくようにみせかけながら、「その」へと逆流し、車を描写する。

焼けて潰れ、泥の中に横倒しになっていた(車がある、それは車というより車の残骸だが……)。その車は……ほとんど黒くなった白のセダンだ。

 反復することで、「分離」が生まれ、そこにことばの逆流が生まれる。ことばが無意識のうちに(あるいは過剰に覚醒した意識の中で)衝突する。「ほとんど黒くなった白」という「色」の「分離」と「反復」はほとんどギャグに近いが、この無意味な笑いは、ことばを「車」から「鉄パイプ」、さらには「日の丸」へと「分離」(遊離? 乖離?)を促す。「車」はどうでもいい。「鉄パイプ」もどうでもいい。問題は「日の丸」なのである。その、ことばの「分離」の加速度。そのスピードに乗ったまま、ことばは「日の丸」を「反復」しはじめる。「反復」することで「車」を意識から「分離」する。切り離す。

先端から五十センチくらい下げて「半旗」になっている。日の丸は泥と焼け焦げた粉塵と、ことによると血で、汚れている。

 「半旗」は切り捨てたはずの「車(の残骸)」が抱える「死」を反復しているのだが、反復することで旗そのものへと明確に焦点を絞る。もとへ戻る、という働きもしている。「泥と焼け焦げた粉塵」も「車(の残骸)」を「反復」している。
 瀬尾のことばは、こういう「粘着力」から成り立っている。常に「反復」を生きることばの運動から成り立っているのだが、「反復」を生きると同時に「分離」へと突き進むのが瀬尾の文体である。

ことによると血で、汚れている。

 この「ことによると」が瀬尾の瀬尾らしさである。「けれど」という逆説の接続詞のように、意識に強烈に働きかけてくる。ことばが一瞬「もの(対象)」から「分離」するのである。かってに別次元へ動くのである。
 「ことよると」はそれからつづくことばが「想像」であることを明確にする。それまで瀬尾のことばは「事実」を描写してきた。「百足」を千切ると「光る」というのは、想像力だけが見ることのできるものかもしれないが、瀬尾は「事実」として書いている。けれども「血で、汚れている」は事実ではない。あくまで「想像」である。「ことによると血で、」の読点「、」も意識の動きを正確に反映させている。「汚れている」は「事実」。しかし、その汚れが「血」であるかどうかということについては、すこし「中断」をはさんでいる。ことばは、一瞬、「事実」と「想像」のなのかで「分離」を生きるのだ。

ほとんど迷彩にちかく汚れていた日の丸は風が弱いからはためくでもなくぶらさがっている。その日の丸が言う。私は汚れ、焼け爛れた日の丸である。私は潰れた車のフロントガラスに突き立てられた鉄パイプに結ばれて半旗になっている。私をここに立たせるために、この車の残骸はここに放置されている。私はかつてこれほど物質として日の丸であったことはない。

 ここに書かれているのは「逆流」の形で「反復」された風景である。「その車」の「その」そのものが「倒置法」であると最初に指摘したが、この連(段落)自体が「倒置法」の構造を生きるのである。
 おもしろいのは(非常に特徴的なのは)、「その日の丸が言う。」という一文である。「主語」が突然、かわってしまう。それまでの「話者」は誰だったのか、難しい問題だが、とりあえず瀬尾ということにしておくと、「その日の丸が言う。」から「話者」は「日の丸」になる。
 「話者」の「分離」がある。
 もちろんこの「分離」はそれまでの話者(瀬尾)が新たな話者(日の丸)の話を聞くという形で連続しているのだが、こうしたことばの連続性とは別次元の「分離」がある。
 「日の丸」は「もの(物質)」である。それが日本語を話すということ、それ自体が「分離」である。「日常」から「分離」した世界がそこにあることになる。しかし、どんなにそれが「分離」しようが、その「分離した状態」をことばで「反復する(描写する)」と、それはもう「分離」ではなくなる。
 あらゆる「分離」を瀬尾はことばで「反復」する。
 いや、そうではなくて、あらゆる現実をことばで「反復」することで、そこに「分離」を挿入するのか。
 どちらともとれる。--のではなく、その両方なのだ。「話者」はどんなに交代しようが「ひとり」なのだ。
 「話者」は「ことば」そのものなのだ。「ことば」が「話者」なのだ。
 ことばで現実を「反復」することで「現実」から「何か(詩と呼んでおこうか)」を「分離」し、その「分離」した「詩」をさらに反復することで「現実」へ引き返す。このとき、ことばが分離し引き返すという往復運動についやした「エネルギー/領域」が、増殖する形で「現実」とぶつかる。衝突する。そして、「ことば」が「光る」。「話者」が「光る」。「詩人」が鮮やかに浮かび上がる。

 --なんだか、同じことの繰り返し。ごちゃごちゃとことばがぶつかるだけの、いいかんげな「解説」風の感想になってしまったが、詩、への感想なのだから、こんなものでいいんじゃないかなあ。わかったようで、わからない、わからないようで、わかった感じ--でいいのだ。



アンユナイテッド・ネイションズ
瀬尾 育生
思潮社
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モハメド・アルダラジー監督「バビロンの陽光」(★★★★)

2011-08-06 09:10:52 | 映画
監督 モハメド・アルダラジー 出演 ヤッセル・タリーブ、シャーザード・フセイン、バシール・アルマジド

 サダム・フセイン以後のイラクを描いている。「以後」といっても、「直後」である。クルド人の老婆と少年が父の消息を尋ねて旅に出る。歩いて、ヒッチハイクして、バスで……。
 忘れられないシーンがある。
 老婆が「集団墓地」(惨殺した「敵」を埋めた場所)で、息子(少年の父)を探していることを語る。隣では別な女が夫を探していると語る。あとからやってきた男(老婆と少年に付き添っている)は、女に「何を話していたのか」と聞く。女は「「ことばはわからない。けれど悲しみはわかる」と答える。あ、老婆はクルド語を話し、女はアラブ語を話していたのだ。--私はクルド語とアラブ語を区別できないから、二人が違ったことばを話していたとは思いもしなかった。「字幕」を読みながら「意味」を理解していたが、そのとき二人が違うことばを話していたとは知らなかった。
 何度も何度も、老婆がクルド語しか話せないということが描かれているのに、私はそのことを「実感」として感じていなかった。
 この映画には、そういう「実感」として知らないことが、非常にたくさん描かれている。イラクの荒れた大地。その大地の中を走る道路。ひとは、どんなときでも「ここ」と「どこか」を行き来しているという証。山羊やバス。トラック。そういう自然や目に見える何かだけではなく。
 たとえば老婆が決められた時間に礼拝する。その宗教観。実直な信仰を生きる人がいる一方、神など信じないという人。祈ったって何の役にも立たなという人。クルド人を惨殺したサダムの兵士--そのなかには惨殺を苦しんでいる人がいるということ。この映画の老婆と少年のように、「内戦」によって死んでしまった父や夫を探し回っている人がいるということ。
 あるいは、老婆と少年をバグダッドまでトラックでのせていってくれる男が、高い乗り賃をとっていたけれど、やがて親切な男にかわるということ。老婆と少年がはぐれそうになったとき、煙草売りの少年がバスを必死で止めてくれたこと。ここには、もちろんもうひとりの大事な登場人物もいる。クルド人を惨殺した兵士。彼は、老婆と少年に出会い、自分の過去を真摯に反省し、語る。そして、二人のためにあれこれと親切に行動する。クルド人を殺した男なんか近づくなと怒られても親切にする。彼を憎んでいた老婆も、彼を許すようになる。しかも、少年に「許し」の大切さを教えられて……。
 ひとはかわるということ。
 そして、そのとき、ひとは「ことば」を理解してかわるのではない。「意味」を理解してかわるのではない。「悲しみ」を実感して、変わるのだ。集団墓地で、老婆と女が、ことばを超えて悲しみを互いに実感したように、ひとはあらゆる感情を「実感」して、その瞬間、そこにいる人に対して「親切」になる。心を開いて、心でつながる。
 ここから、もうひとつのすばらしいシーンが生まれる。
 老婆は息子が見つからない(遺体すらない)という状況の中で、悲しみのあまり狂ってしまう。集団墓地の、息子ではない遺体(白骨)に向かって息子の名前を呼び、泣き暮れる。少年は「名札」を指し示し、「息子(少年の父)」ではないということを証明するが、通じない。ことばが通じない。そして、そのことばが通じないと知ったとき、少年は老婆と心を「ひとつ」にする。一体になる。だから、その後、少年は付き添ってくれている男に対して、「これからは老婆と二人で父を探す、もう手助けはいらない」と告げる。それまでは、少年は、その男を頼りにしていた。男を頼りにしていたとき、少年の心は老婆の心と完全に「ひとつ」ではなかった。でも、いまは「ひとつ」につながっている。
 だから、といってしまっていいのかどうか、わからないのだけれど。
 老婆は、最後、少年を残したまま、車の荷台で揺られながら死んでゆく。少年の心のなかに、サダム・フセインが引き起こした悲劇がしっかり引き継がれたことを知って、安心したかのように。(安心したかのように、というのは、まあ、語弊があるかもしれないけれど。)
 その強いつながり、その「ひとつ」の心に、この映画を見た私もつながる。
 この映画はフセインの暴力を声高に避難してはいない。「論理的」に告発してはいない。けれども、老婆と少年の感じた「実感」をていねいに描くことで、その「実感」のなかに、私たちを引き込む。
 この「実感」は、最初に書いたことに戻るのだけれど、「ことば」を超えて伝わる。女が老婆のことばを理解できないけれど、悲しみを実感したように。そして、老婆がやはり女のことばを理解していないけれど、悲しみを実感したように。そして、私は、この映画で語られた多くのことばをクルド語、アラブ語だけでなく、日本語(字幕)としてもほとんど覚えていないけれど、老婆の悲しい顔、少年の顔を忘れない。それは悲しみを忘れないということでもある。
 また、それを忘れないと同時に、たとえばいよいよ父に会えるかもしれないというとき、冷たい川の水で顔を洗う少年と老婆の、輝かしい美しさ。「許す」ことの大切さを訴える少年の純粋さを思い出す。人間は美しくなれるだ。そのことも忘れない。



 原題は「バビロンの陽光(太陽SUN)」ではなく「バビロンの息子(SON)」である。同じような「誤訳(名訳?)」をした映画が過去にもあったと思うけれど、今回のタイトルは「息子」の方がいいのでは、と思う。「息子」は引き継いだ感情を、さらに引き継いでゆくのである。「太陽」では、その継承への強い決意がわからない。
                              (KBCシネマ2)
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瀬尾育生「暮鳥」

2011-08-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「暮鳥」(「現代詩手帖」2011年08月号)

 瀬尾育生「暮鳥」は書き出しに非常に惹かれた。

百足を千切ると指先が光った。暗がりの虫たち、爬行する虫たちの汚泥に光が累積する。おまえはその中にもう百日も棲んでいるのだからね。けれどおまえを千切る私の指が光るのは、遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。

 「百足を千切ると指先が光った。」は、とても変である。「百足」に足はあっても指はないだろう。しかし、あの百本の足(誰が数えた?)がわさわさと動くのは足というよりなんだか指のように器用だから、まあ指でもいいのかな? いや、あれはきっと指である。
 私は、ことばをよく読みもしないで、読んだ先から、そんなふうに考える。
 けれど、そうして読んでいくと「けれどおまえを千切るわたしの指が光るのは、」という文が突然出てくる。(瀬尾にとっては突然ではないかもしれないが、私にとっては突然である。)えっ、光るのは「私(瀬尾)」の指?
 うーん。
 「遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。」
 そうか、「分離」と「反復」が「光る」ということなのだな。「分離」と「反復」は「光」のなかで「ひとつ」になるのだな、と私は見当をつける。
 で、その「見当」がつけたとこは、あとからきっと出てくると思うのだが、その前に。
けれどおまえを千切る私の指が光るのは、遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。

 この文章のなかの「私」の反復。
 なぜ?
 一種の「悪文」だね。
 でも、この「悪文」であるところに、瀬尾の「思想」が出る。
 すでに、ここに「分離」と「反復」がある。「私の指」と「私」が「分離」している。「私の指」を「私」が「反復」している。見つめなおしている。それは、百足を千切った指を(指先を)、「光った」と描写したときから始まっている。百足を千切って、百足を描写するのではなく、百足を千切った指を見る(観察する。「光った」と描写する)。このときの百足から指先への視点の移行が「分離(切断)」であり、「光った」と描写することが「反復」である。ことばによって、ある状態を描写するのは、ことばによってある状態を「反復」するということである。
 この「分離」と「反復」には、もうひとつ重要な「構文」というか、ことばがある。「けれど」という「接続詞」である。「けれど」というのは、先行する文章と、これからはじまる文章が矛盾していること、つまりそこには「断絶/分離」があることをあらわす。
 これは、実に、おもしろい。
 「おまえを千切る私の指が光るのは、遠ざかる「分離」を私が今日も反復しているからだ。」という文は、最初から「用意」されていたものではないのだ。
 「けれど」が有効であるためには(つまり、それが「矛盾」をあらわすことばであるためには)、「光る」ものは「私」であってはならないのだ。
 事実(といっていいのかな?)、

百足を千切ると指先が光った。暗がりの虫たち、爬行する虫たちの汚泥に光が累積する。おまえはその中にもう百日も棲んでいるのだからね。

 このことばのつづき具合を追うとき、まず「百足」が印象に残る。「百足」は「暗がりの虫たち」である。その虫たちがうごめくとき「汚泥に光が累積する」という具合に読める。「汚泥」のなかに「百足」は「百日も棲んでいる」。そのために「汚泥」は光る。その「光」は千切られた「指先」という具合に「誤読」することができる。
 「百足を千切ると指先が光った。」と瀬尾が書いたとき、その「指先」はたしかに「百足」のものであったのだ。
 だからこそ、「けれど」ということばで、百足の指先を否定し、そこから切断/分離し、「私の指」にことばを動かしていくのである。
 このとき、「私の指先」は「光る」ことで、冒頭の千切られた「百足」の「指先(足先)」と交錯し、スパークし、「ひとつ」になる。どっちがどっちか、はっきりしなくなる。だからこそ、「私の指が」と書いたあと、「私が」ともういちど「私」を登場させ、主語を明確にする必要が出てくるのである。
 この、ことばの粘着力というのか、修辞学の強靱さというのか、よくわからないが、「矛盾」をぐいとねじまげるようにして、まっすぐにする(?)文体が、とてもおもしろい。
 一度「思想」の核心を通ったことばは、そのテーマである「分離」と「反復」を乱反射させることになる。

ここは漁港だから、自転車いっぱいに魚が積まれて運ばれたり、零れ落ちた魚がまた自転車に轢かれたりする。魚たちの断面が夜、防波堤沿いの路面にあちこち光っている。

 「また」が反復である。「魚たちの断面」の「断面」は「分離」の言い換えである。

今夜生まれる子の臍の緒が切られるときも、その断面が光るのだと私は思う。

 「臍の緒が切られる」は「分離」。「断面」も「分離」。「今夜」は、そうして「反復」である。同じことが繰り返されてきたのだ。子が生まれ、臍の緒が切られるといういのちの繰り返しが「反復」されてきて、それが「今夜」また反復されているのである。
 それは、先に引用した部分の「夜」、そしていま引用した部分の「今夜」という「暗がり」(最初の行に出てた)の中で「光る」。分離(切断)された断面が、暗く光るのだ。光ながら暗さを浮かび上がらせるのだ。
 「けれど」の「矛盾」を呼び出す接続詞は、あらゆるところにひそんでいるのだ。緊密に結びついているのだ。

昔に離れた黒い蛆虫。胎児のだんす。鼻から口から眼から臍から這い込むキリスト。体のあちこちに開孔部をつくり、そこに「主」を迎え入れる。

 「蛆虫」「胎児」「キリスト」が、反復される。それは別々のものであるが、別々のものであるのは、それがたまたま「分離」(切断)されたからそうなのであって、ことばが反復するとき同じように光と闇を生きるだけである。
 差異はない。だから差異はある。
 瀬尾の「けれど」は「だから」(ここには書かれていないけれど)と表裏一体になって動いている。




戦争詩論
瀬尾 育生
平凡社
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秋山基夫『秋山基夫詩集』(4)

2011-08-04 23:59:59 | 詩集
秋山基夫『秋山基夫詩集』(4)(思潮社、現代詩文庫193 、2011年06月20日発行)

 秋山基夫は、基本的に「おしゃべり」な詩人である。「おしゃべり」というのは、聞く人間の表情(反応)を見て、それにあわせて次々に話をかえていくところにおもしろさがある。言いたいこと(結論)が決まっていて、それに向けてことばを動かしていくのではない。ことばを動かしながら、相手の反応を見て、それにあわせてことばの行き先をかえてしまう。
 『二重予約の旅』という詩集のなかの作品群に、その特徴がでている。
 秋山は実際には、そのことばを「おしゃべり」しているわけではなく、書いたのだろうけれど、リズムが「おしゃべり」である。架空の相手--つまり、自分自身を聞き手として、ことばを動かす。
 「生首の隠喩」の書き出し。

         わたしは現実意識をもつこともなく、脳だけは覚醒し、もちろん半覚醒の状態で、考えつづけている。

 「脳だけは覚醒し」と言ったあとに、即座に「もちろん半覚醒の状態で」と言いなおす。というか、つけくわえる。このリズム。これが「おしゃべり」である。この「間」をおかない追加によって、その直前のことばの「矛盾」を覆い隠すのである。
 「現実意識をもつこともなく、脳だけは覚醒し」って、変でしょ?
 「現実意識」のない「脳」の「覚醒」って何? 「脳」というのは「現実」を把握するためにある。そして「脳」が「覚醒」しているなら、常にそこには「現実」がある。たとえ「脳」の考えていることが「空想科学」であろうが、「生首」の登場する「怪談」であろうが、そのとき「脳」が向き合っているのは、それぞれの世界の「現実」である。「脳」は「現実」意外と向き合うことができない。どんなことがらであれ、「現実」と「意識」するのが「脳」というものである。だから、「現実意識をもつこともなく、脳だけは覚醒し」というのは、間違ったことばの運動、間違った「論理」である。
 でも、その「間違った論理」が、即座に隠されることで、「正しい」ものになる。このときの「正しい」を補足・補強するのが「もちろん」である。この「もちろん」は、たとえば私がいま書いたようなことを否定するのではなく肯定することばである。相手の言っていることを「肯定」し、そのうえで、新しいことがらをつけくわえるのである。「覚醒」と言った(書いた)けれど完全な覚醒ではなく、半分覚醒。半分は覚醒はしていない。これは「半分」は聞き手(ここでは、私・谷内のということ思って読んでもらいたい)の言い分を「肯定」し、つまり「完全には覚醒しているというわけではないが」とつけくわえ、それでも「半分は覚醒している」と言いなおしていることになる。
 この「もちろん半覚醒の状態で、」という表現は「曲者」だが、秋山の秋山らしさというか、『二重予約の旅』のエッセンスが凝縮している。聞き手の言い分(反論)を肯定しながら、それを全面的に「肯定」してしまうのではなく、「半分」だけ受け入れる、という姿勢。そして、残りの「半分」に自分の言い分を組み込ませるという方法。話者(秋山)と聞き手(秋山以外のひと--詩を書くときは、もちろんこの秋山以外のひとというのも秋山だけれど)の「論理(ことば)」が「半分」ずつ「肯定」され、「二重」になる。そのとき大切なのは「もちろん」ということ。「否定」を除外するという姿勢。相手の「論理(ことば)」は絶対に否定しない。否定しないけれど、それ全面的に受け入れるのではなく、そこに自分の「論理(ことば)」を重ねることはやめない。その結果、どうなるか。ことばは、どうしても拡大していく。ひとつの「論理(ことば)」を追うのではなく、つねに「二重」の「論理(ことば)」を追うことになる。それは、ことばが進めば進むほど、「二重」が増殖するのだ。枝分かれしていくのだ。
 支離滅裂--かもしれない。けれど、それが「おしゃべり」というものなのだ。「結論」があるのではなく、「結論」は「目的」ではなく、「おしゃべり」というのは「おしゃべり」そのものが目的なのである。ことばがどこへゆくかは問題ではない。どこへたどりつくかはどうでもいい。話している、その瞬間瞬間の悦びがあればそれでいいのだ。
 そして、この「おしゃべり」の快感、というのは、ようするに「口調」なのである。「肉体」のなかに空気をとりこみ、それをはきだす。そのはきだす瞬間、喉や唇や鼻腔や舌や、「声(音)」をだすためのあらゆる器官が感じる「共振」の快感。「おしゃべり」するひとの悦びに、聞く人の悦びが共振する。耳が共振し、目も共振する。肉体が共振する。話し手と聞き手の肉体がことばをはさんで共振する。ことばと向き合って、ふたつの肉体が共振する。その楽しさ。
 この楽しさは、いったん暴走が始まると、止まることができない。「役場の陰謀」の次の部分で、私は、笑いが止まらなくなり、どうしていいかわからなくなった。

体育館のあちこちで老人たちの脳味噌の血管が破裂する致命的な音が、実は現実には何も聞こえないのに、もうすさまじい連続多重音響となって耳の奥で鳴りつづける。

 「実は現実には何も聞こえないのに、」という「反論の肯定」(そんな音が他人に聞こえるはずがないという批判を自分で先取りして肯定してしまうすばらしい論理、「実は」という変な?ことば、「もちろん」に似たすばやい動き)が、絶妙すぎる。「聞こえないのに/耳の奥で鳴りつづける」の巧妙な論理。
 聞こえない? あ、聞こえなくていいんです。それはあくまで「耳の奥」に鳴り響く音であって、耳の外ではないのです。
 おいおい、それじゃ「音」じゃないじゃないか。
 なんて、反論は言いっこなし。これは、詩、なんです。「おしゃべり」なんです。その場限りの、言い逃れなんです。そういうことを、ことばは、やってのけることができるんです。



 思うに。(この、思うに、というのはいいかげんな論理の飛躍を含んでいるのだが……。)
 思うに、秋山基夫の詩群が、長い間「現代詩文庫」から漏れていたのは、「おしゃべり」文体が影響しているかもしれない。
 「おしゃべり」というのは「相手」がいないと成立しない。つまり、ひとりでは完結しない。「現代詩」は長い間、「ひとり」で「完結」する、「孤立した世界」だった。「孤高」であることを誇りにしている世界であった--と、私は思う。
 「孤高」はかっこいい。「おしゃべり」はかっこわるい。
 それが少しずつ変わってきたのかもしれない。「孤高」なんて、きどっているだけ。「おしゃべり」の柔軟さこそ、かっこいいのだ。そういうふうに、ことばの見方が変わってきていることを象徴する一冊だと思った。






秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社



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アク・ロウヒミエス監督「4月の涙」(★★★★)

2011-08-04 19:31:15 | 映画
監督 アク・ロウヒミエス 出演 サムリ・ヴァウラモ、ピヒラ・ヴィータラ、エーロ・アホ

 この映画の感想を書くのは難しいなあ。フィンランドの内戦という歴史を私は知らない。で、白軍の男と赤軍の女が無人島に流れ着いて・・・という始まりから想像すると。どうしても「流されて」を思い浮かべてしまう。
 でも、ぜんぜん違う映画なのだ。
 男と女の愛を描いていることは確かなのだが、「流されて」のように単純ではない。同じ国民同士が戦うという内戦のむごたらしさが、人間の精神にどう影響するか、内戦の影響で人間がどのように変わるか、変わらないかを不気味な静かさで描いている。――不気味な、というのは、その殺戮が「戦場」ではなく、「日常」の場でおこなわれるからだ。捕虜を収容し、捕虜を解放するふりをして「脱走」を仕立て、それを殺戮する。存在しない「物語」が捏造され、捏造された「物語」を根拠に殺戮が行われる。
 戦う根拠などないのだ。内戦に根拠がないのだ。詳しくはわからないが、そしてこの映画でも明確には描かれていないが、フィンランドの内戦とロシアとの関係がわからない。なぜ、内戦をするのか、とりわけ「白軍」の方には理由が分からない。だから殺人(殺戮)の「根拠」を作ってしまう。
 あ、もしかすると、ここにこの映画の「根拠」のようなもの、作らなければならなかった理由があるのかもしれない。アク・ロウヒミエスの描きたいものがあるかもしれない。
 男と女が無人島に流される。そのとき、そこにどんな「物語」が生まれるか。そう考えるとき、「物語」とは結局、人間の欲望だね。どうしたいか。もし、私が女と無人島に流されたら、どうするか、何をしたいか。この「物語」は明白すぎて、もはや「物語」にならない。――だから、そういうことを、この映画は描かない。
 その後に「物語」を複雑に交錯させる。
 男と女とは別の、第三の主人公、判事が「作家」という設定が、この「物語」を面白くさせる。作家は現実ではなく、最初から「物語」を生きている。無人島で男と女は、どんな「物語」を生きたか。その「物語」に自分は参加できるか。できるとしたら、どういう形がありうるか。
 ねじくれているねえ。
 判事(作家)の妻が判事を訪ねてくると、さらに「物語」は錯綜する。判事は、男と妻の間に、男と女の「物語」が生まれるようそそのかす。積極的に「寝とられ男」を演じ、内戦に傷ついた精神を際立たせる。男が手洗いに立ち、妻がそれを追いかけ、セックスするのをドアの外で聞き耳を立てて「目撃」するのである。妻は、夫がセックスを「目撃」していることを知って、というか、夫に知らせるために、わざとセックスをする。それは男色の夫への復讐という「物語」である。異常だねえ。しかし、そこに内戦で苦悩する作家という「物語」、あるいは内戦が引き起こした苦悩によって男色に逃避した男という「物語」を挿入すれば、それな「異常」ではなく「悲劇」に代わる。それはほんとうは「悲劇」ではないが、作家は「悲劇」にしたいのだ。「悲劇の主人公」になることで自分の精神を安定させたい。
 しかもそれは、そこで終わりではない。
 この「悲劇の主人公」は、男に「愛」を求める。そして、無人島での男と女の「物語」を、「何もなかった物語」として求める。男と女の関係がなかった――と聞き出し、その「物語」によって、次に男と男の「物語」を求める。繊細で傷つきやすい精神を持った「教養人」としての二人の「物語」にすがろうとする。
 男(白軍の兵士)は、女を助けるために(女を愛してしまったがゆえに)、この「物語」を受け入れる。
 だが、こんな複雑(?)な「物語」とは無縁の人がいて、つまり「赤軍抹殺」という「物語」だけを自己のアイデンティティとする野蛮な(?)白軍の兵士たちがいて、逃走している赤軍の女を殺しにくる。そうして、もう一度、別の「物語」が起きる。逃げる女を惨殺しようとする野蛮な白軍の男を、無人島で一緒に生きた男が銃殺する。いわば、白軍の裏切り――そして、女への愛の完遂。
 観客は、若い兵士の「愛の物語」として、最終的にこの映画を納得するのだけれど。まあ、しかし、それはこの映画のテーマではないね。やはり、錯綜する「物語」――というより、「物語」抜きには生きてゆけない人間の悲しみが、内戦によって複雑にうごめくということを描きたかっただろうと思う。
 救いは、女の「物語」にある。赤軍の女にとって、男(白軍の男)はただ女をレイプし、殺して喜ぶだけの野蛮な人間だったが、そうではない男もいることを知る。愛に値する男が「白軍」「赤軍」に関係なく存在することを知るという「物語」がありうるのだ。

 あ、ストーリーの紹介に追われてしまったなあ。
 映画は、この錯綜する「物語」の、錯綜――内戦自体が、錯綜する「物語」だね――を汚れのないフィンランドの風景のなかで展開する。4月にも雪は残り、風は冷たい。光は透明で、人間の醜い感情とは無縁である。この対比がすごいなあ。映像が冷徹ですごいなあ。女の、揺るがない視線の強さだけが、フィンランドの大地と向き合っている。そのほかは、弱い男が作り上げた「物語」に過ぎない。
 だから、女は生きてゆくが、男は死んでゆく。「物語」は死に、女が産み続ける命だけが存在する。
                        (KBCシネマ2)






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秋山基夫『秋山基夫詩集』(3)

2011-08-03 23:59:59 | 詩集
秋山基夫『秋山基夫詩集』(3)(思潮社、現代詩文庫193 、2011年06月20日発行)

 「窓」シリーズがある。その「Ⅳ」の後半。

部屋に入って
シャワーをあびて
酒をのんで
もう何もない
からのコップをテーブルにおいて
ねた ねむりの中で
夜どおしシャワーの音が聞こえ
壁に上衣とズボンがたれていた

雨のひとつぶひとつぶが地上に衝突し
細胞のひとつぶひとつぶが消えていく

 この部分がとても印象に残った。書かれていることば、その光景というか、秋山の感じている「虚無」を実感できた。「秋山の感じている虚無」と書いたが、もちろんこれはほんとうのことではなく、私がかってに「虚無」をつくりあげ、それを感じているだけなのだろうけれど。

酒をのんで
もう何もない
からのコップをテーブルにおいて

 この「からの」は「空の」、つまり「何もない」、「何も(はいって)ない」コップのこを書いているのだが、「からの」とひらがなで書かれると、私は、

酒をのんで
もう何もないから
コップをテーブルにおいて

 と、「誤読」したくなるのだ。「理由」を説明するときの「から」として読んでしまいたくなるのだ。

もう何もないから
コップをテーブルにおいて
ねた

 とつづけたくなるのだ。「から」と置き換えなくても、酒をのんで、酒がなくなった、そして、ねるという一連の行動には、虚無的な「理由」がある。しかし、「から」がないと、なんとなく漠然としている。「から」をはっきり書いてみると「理由」が前面に出てくる。
 なぜ、こんなことにこだわるかというと……。
 秋山が「窓」で書いていることがらは、スケッチに見えてスケッチではないからだ。「窓」から見えた光景を描写し、それにつながる光景を描写し、淡々と日常を描いているように見えるが、そうではない。
 たとえば、

ねた ねむりの中で
夜どおしシャワーの音が聞こえ
壁に上衣とズボンがたれていた

 「ねむりの中で/夜どおしシャワーの音が聞こえ」るというのは、ありえる。眠っていても「耳」は目覚めている。眠りきれない「耳」が無意識に音を聞くということはありうる。けれど、ねむりの中で、どうして「壁に上衣とズボンがたれていた」がわかるのか。どうやって見たのか。目をあけて? 目をあけていても、「ねむりの中」? 「耳」は「耳」自身を閉ざすことができないから音を聞いてしまう。けれど「目」は「瞼」を閉ざすことで何も見えなくなる。「ねむり」は「瞼」を閉ざした状態である。そうであるなら、ここに書かれていることは、「現実」ではなく、一種の「嘘」である。
 この「嘘」を意識という。「意識」とは「肉体」ではつかみきれないものを強引につかんでしまう「力業」の「嘘」なのだ。
 一度こういう領域へことばが進んでしまうと、そこからはさらに「意識」の嘘が増殖してゆく。

雨のひとつぶひとつぶが地上に衝突し
細胞のひとつぶひとつぶが消えていく

 この2行。「雨のひとつぶひとつぶ」は目で見えないことはない。雨粒の全部を数えきれないけれど、その数えきれないひとつぶひとつぶは見えてしまうという不思議は不思議としておいておいて……そのひとつぶひとつぶが「地上に衝突」するというのも目で見ることができる。耳がよければ、その音を聞くことができる。けれど

細胞のひとつぶひとつぶが消えていく

 これは、何だろう。「細胞」とは何? 何の細胞? 雨の細胞だろうか。雨粒のなかの「組織」のことだろうか。それとも秋山の肉体のなかの細胞? そう考えるはちょっと飛躍が大きすぎる。とりあえず「雨粒の細胞」ということにしてことばを動かしていく。雨粒が地面に衝突して、雨粒ではなくなることを秋山は「細胞のひとつぶひとつぶが消えていく」と書いたのだと仮定してみる。
 では、そのとき、ほんとうに秋山は「細胞」を見たのか。「目」で見たのか。
 見えないね。細胞なんか。雨粒に細胞があるかどうかも、わからない。
 でも、そういう見えないもの、わからないものも、ことばは書いてしまうことができる。そして、その見えないものをあたかも見えるように感じさせるのが「意識」なのである。「意識」の「嘘」がここにある。
 この「意識」を動かしているもの。それは「事実」であることもあるけれど、別のものもある。「理由」。人間がつくりだした、強引ななにごとか。
 先の2行を次のように書き換えてみる。

雨のひとつぶひとつぶが地上に衝突する「から」
細胞「は衝撃で壊れ」のひとつぶひとつぶが消えていく

 「から」と、雨が降って地面にぶつかるという現象を「理由」にしてしまうと、その「理由」にひきづられて、肉眼では見えないことがかってに動いてしまう。「意識」がどこからかかってに「細胞」ということばをひっぱりだして、見えないことをことばにしてしまう。「嘘」を完成させてしまう。
 「から」をつかうと、どんなことでも「嘘」になってしまう。いや、「嘘」を完成させることができる。
 シャワーの音と壁の上衣・ズボンは、

ねた ねむりの中で
夜どおしシャワーの音が聞こえ「たのは」
シャワーの栓をしっかり締めなかった「から」
壁に上衣とズボン「をひっかけたから、それはそのまま」たれてい「と、意識は判断し」た

 と書きかえることができる。
 秋山が「窓」で書いているのは「現実」の光景ではない。それはあくまで「意識」の光景なのである。
 この「意識」を「私」と置き換えると、とてもおもしろいことがわかる。
 秋山が書いているのは「現実」の光景ではない。それはあくまで「私」の光景である。
 そして、この「私」の光景ということを意識して詩を読み返す。すると、「私」ということばが「窓」シリーズでは一度も書かれていないことが鮮明に浮かび上がる。

「私は」シャワーをあびて
「私は」酒をのんで
もう何もない
からのコップを「私は」テーブルにおいて
「私は」ねた ねむりの中で

 なぜ、「私は」が省略されているのか。日本語は「主語」を省略できるからといえばそれまでだが、ひとがことばを省略するのは、それがそのひとにとって自明すぎることだからである。わかりきったことはことばにできない。ことばにすることを思いつかない。
 「それ、とって」
 親しいひとにそういうとき「それ」はいったひとにはわかりきっている。わかりきっているから「もの」の名前が出てこない。
 同じように「窓」シリーズでは「主語」が「私」であることは秋山にはわかりきっている。だから「私は」という主語はない。そして、そのわかりきった「私」とは「肉体」ではない。「意識」である。ことばが動いてゆくことで、そこにはほんとうは存在しないものを浮かび上がらせてしまう意識、それが「私」である。
 この「意識」の強さ、「意識」の動きの強さが、私が最初に感じた「虚無」に結びつく。「意識」が現実を分析しすぎて、「意識」だけが暴走する。過剰な意識が、現実を遠ざける。
 遠い現実感--それが虚無。
 この虚無を、遠い現実感を、「窓」という身近な「現実」に限定して描くという「矛盾」が、秋山のことばを強いものにしている。清潔なものにしている。

 「矛盾」だけが「思想」である、と私は思う。



岡山の詩100年
秋山 基夫,坂本 明子,岡 隆夫,三沢 浩二
和光出版



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