詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャンニ・アメリオ監督「最初の人間」(★★★★)

2013-01-19 11:48:20 | 映画
監督 ジャンニ・アメリオ 出演 ジャック・ガンブラン、カトリーヌ・ソラ、ドゥニ・ポダリデス

 カミュの自伝(?)というか、カミュを描いた映画である。
 カミュよりも、その周囲の人間、特に祖母がとても印象的である。厳格である。家長として一家を支配している。カミュはその祖母のもとで母と叔父(母の義弟)といっしょに暮らしている。父はカミュが生まれてすぐに戦死している。
 私はカミュを真剣に読んだことがないので間違っているかもしれないが、あの切り詰めたような文体は祖母の正直の影響を強く受けていると思う。
 忘れられないシーンに、カミュが肉代をくすねて雑誌を買うエピソードがある。祖母が肉が少ないと肉店に苦情を言いにゆく。その帰り道、カミュは実はトイレでお金を落として、それで肉が少なくなったと嘘をつく。祖母はカミュに店に誤りにゆけと命じる。ここで終わるのではない。祖母はカミュがお金を落としたというトイレへゆき、汚物のなかに手を突っ込み、金を探そうとする。そこには生きることの「正直な真剣」がある。「もの」はなくなりはしない。持っているもの(存在するもの)は必ずそこにある。あるべきところにある。金だけではなく、あらゆるものはなくならない。人間性、人間の「本質」というものは、なおさらである。
 人間の本質は奪い去ることができない、暴力では略奪できない、と考えるとカミュに近づくことになるかもしれないが、そこまではこの映画は言わない。だが、どぎまぎしてしまう。この正直には、思わずどきりとする。カミュは祖母の姿を見ながらシャツの下に隠した雑誌をそっと捨てる。祖母の正直に触れて、さらに正直になることができなかった。そういう「負い目」のようなものが、祖母をとても美しく輝かせる。
 さらに、教師がカミュの家にやってくる。進学を勧めるためである。夜。家には電気がない。ランプの明かりのなかで、祖母が「あいにくこのあたり一帯が停電になってしまった」と言う。これは嘘である。だれもがわかる嘘である。嘘とわかっても嘘をつく。その嘘のなかにある「ほんとう」。電気がなくても「生きていける」という「ほんとう」があり、祖母はその人間の「尊厳」のようなものを守ろうとする。祖母は生きることの「尊厳」を知っている。「生きている」ということはそれがどんな暮らしであろうとはずかしいことではない。尊ばれることなのだと祖母は「知っている」。その知っていることをカミュは肉体にたたき込まれたのだと思う。嘘を突き破る「尊厳」と「正直」が人間の「肉体」の奥でつながっているということをカミュたたき込まれたのだと思う。
 似たようなエピソードに祖母とカミュが映画を見るというのがある。当時は無声映画。字幕で台詞が出る。祖母は文字が読めない。だから字幕をカミュが読むのだが、まわりから「静かに」と注意される。そのとき、祖母は「眼鏡を忘れてきた(ので字が読めない)」と主張する。ここには「ことば」と「真実」の乖離がある。そして、このときの映画というのはちょっと複雑な恋愛もの(タイトルは私にはわからない)で、スクリーンの二人が恋人かいとこかよくわからない。それを祖母がカミュにどっちなんだと聞く。カミュはこたえられない。そのことを叱られる。「何もわかっちゃいない」と。
 これはなかなか手厳しい指摘だが、祖母の「正直の真剣」と「人間関係の表面」とをぶつけて考えると、非常に哲学的なテーマが浮かび上がってくる。人間の関係はときには表面的である。そこでおこなわれていることは第三者にはわかりにくいことがある。しかし、それではその第三者がおこなっていることのなかに「正直」がないかというと、そうではない。「正直」が見えにくいのだ。それは、もしかすると見ている私(カミュ)が正直ではないからかもしれない。「正直」に到達していないからかもしれない。
 これに関係するエピソードに、アラブ人の級友とのけんかがある。アラブ人はカミュを批判して「先生におべっかをつかっている。オトコオンナだ」という。そのけんかを先生にみつかる。先生が「どっちが先に手を出した」と質問する。級友が「私です」と手を上げる。そのことにカミュは驚く。そのことからカミュは級友を尊敬することになる。けんかというものは、どちらが先に手を出したかなど実はわからない。級友はカミュをからかい、背中から押さえつけたかもしれない。けれど殴ったのは? カミュかもしれない。どっちでもいい。級友は自分の「正直」をきちんと言うことができた。そのことによって人間としての尊厳を守った。そのことが大切なのである。このことをカミュはしっかり覚えている。
 そして、この「正直の真剣」と「人間関係の表面」の問題は、最後に別の形で表現される。カミュは老いた母にフランスへ行こうと誘う。アルジェリアは危険をはらんでいる。だが、母親は拒む。なぜか。フランスにはアラブ人がいない。つまり、母親はアラブ人といっしょにアルジェリアで生きていたいのである。なぜか。これは私の推測にすぎないが、アラブ人がいる、絶対的な他者が自分のそばにいるということが彼女を「正直」にさせるからだ。絶対的な他人の前では嘘は通じない。「正直」だけでわたりあう。「正直」であるかぎり、人間は誰とでもわたりあえる、つまり共生できる。フランスへ行ってフランス人だけとの暮らしになれば、「正直」の度合いが違ってくる。それは自己の尊厳を守って生きるということの真剣さが違ってくるということだ。祖母といっしょに生きることで、母もまた「正直」の血を引き継いだのだ。血はつながっていないが「生き方」という血は誰にでも引き継がれるのである。
 この映画のタイトルの「最初の人間」とは、カミュが生まれたとき、産婆が父親に対して「最初の子供か」と質問し「そうだ、最初の子供だ」というところから取られているのだが、映画を見終わったあとでは、「最初の人間」とは「正直」をつかんだ人間という句具合に見えてくる。だれでも「正直」をつかむことで、自分自身で「最初の人間」になることができる。そう教えてくれる。だから、見終わった瞬間、よしカミュを読もう--そういう気持ちにさせられる映画である。自分の「正直」をつかみだすために何をしなければいけないのか考えよう、そう思う映画である。
                      (2013年01月18日、KBCシネマ2)






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陶山エリ「巣箱のふたり」ほか

2013-01-18 23:59:59 | 現代詩講座
陶山エリ「巣箱のふたり」ほか(「現代詩講座」@ リードカフェ、2013年01月16日)

 今回のテーマは「開く」。「開く」ということばをどこかに入れて作品を書く。
 陶山エリ「巣箱のふたり」がおもしろかった。

薄闇に包まれた祭壇の前に跪き
柔らかく瞳孔が開くのを潮に
尼僧は夕刻の礼拝を終える
白壁を染める葡萄酒の色の夕暮れが
尼僧のなだらかな肩にも降りてくる

お怪我の一日も早い回復を
シスター・ベルナデッタ
主よ、溢れる御加護の在らんことを

ふたり、小鳥のような
ささやかな糧を啄み
逞しく畑を耕し
日に一度はルルドの泉に触れた

小鳥たちは寄り添って
坂の途中にある整形外科を訪れた
姉と妹は
診察室の中でも寄り添うので
医者を密かに戦かせた
姉の右腕の、思いのほか大きすぎるギブスに
妹は羽を猛禽類のように広げて
俯いたままの姉の狼狽を呑み込んだ

小鳥たちとギブスに平等に与えられる夜
ロザリオよりもなお重い
蒼白い大気を羽織りながら
いつもと異なる静寂に息をひそめる姉と妹

窓辺に近づいてはなりません
シスター・ガブリエル
裏木戸の周りを徘徊する気配は福音ではなく
それは肌触りの好い母音を乗せた
御霊の悪ふざけ
さえずりを許される夜明けが来るまで
妹よ
細部から滲み出た日記の
封印した頁が不覚にも開いてしまわぬよう
巣箱の鍵を開けてはなりません

 受講生の感想は
 「情景に広がりがある」
 「尼僧とか礼拝堂が出てきて、フランス映画を見ているみたい」
 「妹は羽を猛禽類のように広げて、というところの猛禽類に違和感を感じた」
 「おもしろい。実際にみた光景、尼僧(シスター)を小鳥にしたことで、表現がこうなったのだと思うけれど、小鳥ではなくてもよかったかも」
 「白壁を染める葡萄酒の色の夕暮れ--というような、ありそうなことばはやめた方がいい」
 「気分がよくわからない。頭の中で翻訳しないといけない」
 「気分が……というのは、陶山さんの気持ちのこと?」
 「体験を感想として書くのではなく、物語風に書いているからそういう印象になるのかなあ」
 そういう話の途中で、「これは実際に見た光景です。病院でシスターが二人待っていて、診察室に二人そろって入っていって、出てきたときひとりがギブスをしていた」「シスターが実際にいる学校で学んだ」「映画で見たシーン、刑事が修道院で食事をもらうのだけれど、そのときこんな小鳥の食事のようなものを食べてるんですか、と言ったこととかが3連目に反映している」というような陶山自身の体験も語られた。
 私は阿部日奈子の詩を思い出し、そういうことも話したが、陶山は阿部を知らないということだった。
 「頭のなかで翻訳しないといけない」という意見が出たときには、翻訳調の文体についても触れた。たとえば夕暮れが肩にも「降りてくる」の動詞のつかい方、あるいは小鳥とギブスに夜が「平等に与えられる」という言い回し。これは通常の日本語にはない。けれど翻訳にならありそうな気もする。
 尼僧、礼拝、シスターという名詞よりも、動詞のつかい方がどちらかというと翻訳っぽい。独特のつかい方をしていて、そこに「詩」がある。「わざと」があって、それが読んでいて新鮮な感じを受ける。
 陶山自身映画の影響と語っているが、実際の体験をその体験のまま書くのではなく、自分が見てきた「映画」などの「芸術」をくぐらせることで、現実を「異化」するということがおこなわれていて、それが「文学」の匂いにつながっているのだと思う。
 私はこの詩では、最終連の「妹よ」の転調がとてもおもしろかった。
 それまでのことばは陶山が「作者」の立場にいて、シスターを見ている。第三者として、小説の登場人物のように描いている。ところが、最終連では、シスター・ベルデッタ(姉)がシスター・ガブリエルに、名前ではなく「妹よ」と呼び掛けることで、突然、陶山がシスター・ベルナデッタになってしまう。
 会話(発言)を陶山はカギカッコでくくっていないので、最終連はすべてシスター・ベルナデッタのことばであるようにも読むことができる。(2連目の3行をシスター・ガブリエルのことばと読むことができるように。)
 しかし、そうではなく、「妹よ」から「主役」のなかに陶山が入り込んだ、と読む方がおもしろい。3連目をすべてシスター・ベルナデッタのことばとして読むと、作者(陶山)が物語の外にいることになる。最初から最後まで、物語を客観的に描写している感じになる。それではほんとうに「物語」である。
 でも、そうではなく、書いている途中で気持ちが乗り移って、陶山が「作者(語り手)」であることを忘れて登場人物に「なってしまって」、その結果「妹よ」と言ってしまった読むと、とても「いい感じ」になる。こういう転調はとても難しいのだけれど(書いていると調子が乱れた感じが自分肉体のなかに残るので)、それをすーっと書いていてとてもおもしろい。
 受講生のなかから「作者の気持ちがわからない」という意見もでたのだが、こういう主客の転調の瞬間に「作者」が「顔」を出す--客観的な「作者」のままではいられなくなったということろが何となくおもしろいのである。「日記」ということばにも、何かしら体温のようなものがにじむ。つまり、ここに「作者の気持ち」がある。「悲しい」とか「うれしい」とかいった、普通に語られることばでは言えない「気持ち」がある。ことばにならない「気持ち」。それはほんとうに「転調」としか言いようがない。岩崎宏美の「思秋期」は後半2度転調する。半音ずつ音が高くなる。メロディーラインそのものは同じで、半音あがって繰り返されたメロディーがまた半音あがって繰り返される。このときの「気持ち」というのは「悲しい」とか「さびしい」では言い表せない。ことばにならないから「転調」で表現している。転調するたびに「気持ち」が集中し、「透明」になっていく--私は、この集中と透明の変化が好きで、岩崎宏美の歌が好きなのだが……。
 脱線したので、詩に戻る。陶山の作品の「転調」。

細部から滲み出た日記の
封印した頁が不覚にも開いてしまわぬよう
巣箱の鍵を開けてはなりません

 の「巣箱の鍵」は、何となく「日記の鍵」にも思えてくる。鍵があろうがなかろうが「日記」は他人が読むためのものではないけれど、「日記の鍵」と「巣箱の鍵」が交錯し、そこに「秘密」めいたものが漂う。「巣箱」ということばからは「愛の巣」というようなことも連想され、そうすると、シスター・ガブリエルというような「客観的なことば」ではなく、「妹よ」と呼び掛けるその声にもあやしげな愛の体温が漂ってくる。「客観的な物語」(シスターのひとりがけがをして、もうひとりが病院へついていった)の奥に書かれなかった「秘密」が動きはじめる。
 こういう「読み方」は「誤読」なのかもしれないが、そういう「誤読」を誘ってくれることばはなかなかいいものである。ふいに噴出した「秘密」のようで、見たけれど見なかったことにする--という感じで肉体のなかに何かがたまってくる。

妹よ

 この1行がことばを詩に高めている、と私は思う。



 上原和恵「静けさ」は闘病の末、亡くなった弟のことを、闘病から火葬までを描いている。

半眼で口を開け
もがきながら
悪い奴らとたたっている
弟を
覗いているだけの
無力が押し寄せる

悪い奴らは追いかけても
こっそり見えないところに隠れ
隘路を流れ
善良者を追い詰めて
のさばりかえり
臓器や脳に巣食い
人間を壊していく

耳を開いても
心臓の鼓動や寝息も漏れてこない
目を集めても
ただベッドに横たわり
鼻腔は動かない
指先は
頬の冷たさを知る

台車は車輪を軋ませ
火の海に吸い込まれていく
鉄の扉の閉まる残響に心が震え
嗚咽と足音だけが付いてくる

鉄の扉の向こうから
やってきたのは白い輪郭だけ
最期に放つ熱を感じながら
骨上げ用の箸と箸が触れ合い呻く

 受講生の声は、
 「3連目から4連目へが突然すぎる。もっと死と闘っている描写がほしい」
 「病気と死が並列で、対等すぎる」
 「小説を読んでいるみたい」
 「骨と書かずに、白い輪郭だけと比喩にしているところがいい」
 「もっと弟を書いてほしい。生きている人間のようにして書くといいのでは」
 上原からは自分の「感想」が書けていないのではという気持ちが残る、というようなことが語られた。
 「感想」に関して言えば「無力」とか「広大な」ということばのなかに「感想(気持ち)」を知ることができるけれど、ただ上原が書いているのは感想=説明になっている。「無力」と書かずにもっと具体的な何かを描写すれば、それは説明ではなく、その人だけの感想になるのではないだろうか、と私は言った。
 ただし具体的にといっても、「骨上げ用の箸と箸が触れ合い呻く」の「骨上げ用」という描写では、やはり説明に終わってしまう。「骨上げ用」と言わなくても「白い輪郭」でわかるのだから、最後の行は「箸と箸が触れあう」だけの方が感じが伝わるというようなこともつけくわえた。
 この詩のいい部分は、

耳を開いても
心臓の鼓動や寝息も漏れてこない
目を集めても
ただベッドに横たわり

 の「耳を開いても」と「目を集めても」。ここには具体的な「肉体」の動きがことばとして定着していて、そのことばに誘われるようにして私の肉体も動いてしまう。あ、上原はほんとうに「耳を開いて」「目を集めて」弟と接したのだということがわかる。「耳(目)を近づけても」では、かなり印象が違ってくる。
 「耳を開き」「目を集める」と、普通のひとがつかわないことばを動かさないとあらわすことができない何か--そこに「肉親」のつながりの強さがある。「思想」がある。



 次回から少し変わった試みをします。小説を題材に、そこから詩をつくる。ことばを動かすということをやってみます。テキストは「チャタレイ夫人の恋人」。50ページまで読んで、そこから題材を探す。チャタレイ夫人になって書いても、夫になって書いても、森番になって書いてもいい。森の木や川でもいい。--嘘のなかでことばを自由に動かしてみよう、という試みです。
 参加希望者は書肆侃侃房(←検索)田島さんまで連絡してください。






詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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チュ・チャンミン監督「拝啓、愛しています」(★★★)

2013-01-18 10:30:08 | 映画

監督 チュ・チャンミン 出演 イ・スンジェ、ユン・ソジョン、キム・スミ

 主人公の頑固なおじいさんが牛乳配達をしている。そのおじいさんが坂道で貧しいおばあさんに会う。そして恋をする、という現代ならではの物語なのだが。
 一か所、とても感心した。この主役のおじいさんはおんぼろのバイクで牛乳配達をしているが、実はかなり立派な家に住んでいる。で、牛乳配達以外にすることがないので朝からアダルト番組を見るくらいの元気者なのだが、うーん、こんなに金持ちならなぜ牛乳配達? これが最初はわからない。実は、隠された秘密がある。
 おじいさんは当然だけれど結婚していた。妻がいた。その妻が病気で入院した。ベッドの上で「牛乳が飲みたい」という。おそらくはじめての、妻のための買い物が牛乳だった。病院の売店で買ってくる。けれど看護婦が言う。「牛乳を飲ませてはいけません」。牛乳が飲めない病気なのだ。飲むと治療に悪影響が出るのだ。--おじいさんは妻に何もしてやれなかった。そのことが後悔としてずーっと残っている。それで誰よりも早起きして牛乳配達をしている。そうか、そういうわけだったのか。
 そのおじいさんが、墓参りにゆく。墓にそっと牛乳をかける。水とか酒ではなく、牛乳。ずっーと妻と牛乳のことを思っている。いいなあ、この感じ。こういう愛情の表現の仕方。
 おばあさんとの恋の合間に、駐車場の管理をしている元タクシー運転手の男、その妻とも知り合いになり、いわばこの映画はふたつの恋(愛)を平行して描いていく。その愛の描き方が丁寧で気持ちがいい。気持ちがいいけれど、おばあさんはその恋がすばらしすぎて不安になり、田舎へ帰ってしまう。おじいさんは失恋をする。
 で、そのあと、またなかなかいいシーンが出てくる。
 おばあさんが住んでいた家には、いまは新しい家族が越してきている。夜、その前の路地を娘といっしょに通り、思い出話をする。そのとき新しい家族のこどもが家に入る前に外灯に灯をともす(スイッチを入れる)。「暗いと牛乳配達の人が困るから」。おじいさんはそのことを知らなかった。いつも通る道。暗い朝、外灯がついている。それは当然のことだと思っていた。けれどもそうではないのだ。誰かがつけてくれていたのだ。おじいさんはだれかしらない人に助けられて生きていたのだ。
 その誰か--それがおばあさんであるかどうかははっきりとは描かれていない。けれどおじいさんは、あのおばあさんが外灯の灯をつけてくれていたのだと思う。おじいさんはその外灯の下をおんぼろのバイクで通ることで「目覚まし時計」のかわりをしていたが、そのおじいさんを助けてくれる人もいたのだ。ひとは知らず知らずに助け合っている。そのことに気がつく。そして田舎へおばあさんを迎えにゆく。いっしょに住むために。
 いいねえ。これ。
 人がしていることは誰も知らない。誰も知らなくても、人はすることをして生きている。それが互いを助け合うことになっている。そのことを「これを見なさい」とは言わない。声高に主張しない。ただ何でもなかったことのように描いて終わる。恋のハッピーエンドに隠して終わる。
                      (2013年01月10日、KBCシネマ2)


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季村敏夫『災厄と身体』

2013-01-17 10:22:45 | 詩集
季村敏夫『災厄と身体』(書肆山田、2012年10月25日発行)

 01月17日は阪神大震災の起きた日である。季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)にそのときのことを書いている。何度か感想を書いたので、違う本に触れることにする。『災厄と身体』は阪神大震災を体験した季村が東日本大震災後に書いたものである。『日々の、すみか』に書かれていたことと重なる部分がある。
 「超越者としての震災」という文章がある。

 体験したことのほんとうの意味、記憶のほんとうの意味は、遅れてわかる。わかるというか、気づく、自覚が促されるのは時間的な経過を待たねばならないとおもいます。

 これは私が『日々の、すみか』から衝撃とともに学んだことである。そのことを季村は再び繰り返している。「出来事は遅れてあらわれた。」を季村は季村自身でここでも書いている。何度書いても書き足りないのだと思う。それくらい「出来事は遅れてあらわれる」。そう言いつづけなければならない。出来事はどんなに「遅れても」あらわれたときにそのつど書き残さなければならないということだろう。
 季村は最初「わかる」と書く。そして「わかるというか、気づく」と言いなおす。さらに「自覚が促される」と言いなおす。ここにとても大切なものがある。私たちは「わかる」のではない。「気づく」のでもない。ただ「自覚が促される」のである。「自覚」は完全に覚醒されるわけではない。どうしても「自覚」できないものが残る。だから、何度でも何度でも「遅れてあらわれる」ことを「遅れてあらわれた」と書きつづけなければならないのだろう。
 季村はさらに言いなおしている。

いや、気づけずに、意識のどこか深いところで眠りにつき、目覚めることなく沈黙してしまう、これが普通かもしれません。わかりません。気づきという事態を想定すると、それは突如、時間を切断して訪れる。あるとき不意に、向こう側から、襲ってくるようにもたらされる。はじめに、このことを、自分への自覚のためにいっておきます。

 「出来事は遅れてあらわれた。」と書いた季村でさえ、なお、意識が眠ることを自覚している。「ことば」が「目覚めることなく沈黙してしまう」ということを自覚している。そしてそのことを「自分への自覚のために」書いている。--ここに、とても正直な季村を見る。正直に触れて、私はびっくりしてしまう。
 また「時間を切断して訪れる」ということばにも私ははっとした。いや、こちらの方にさらに衝撃を受けた。すぐにそれを衝撃とかけないくらいに衝撃を受けた。
 出来事は「遅れて」あらわれるのではなく、「時間」を切断して--無視して、つまり「時間」を越えて、言いなおすと過去-現在-未来というふうに「時間」は流れているという意識を突き破ってあらわれる。そこには「時間(過去-現在-未来)」はない。「過去」の出来事が「遅れて」いまにあらわれるのではないのだ。それは「過去」ではなく「いま」なのだ。出来事はいつでも「いま/ここ」でしか起きないのである。この、季村の肉体(思想)の強靱な力に私は肉体ごと揺さぶられた。
 だれでも自分が体験したことを「最大の体験」と思う。阪神大震災のような大規模な震災を体験すれば、それを上回る震災があるとは想像しにくい。そして、それを想像しなかったとき、それは「意識が眠っている(眠った)」のである。意識が眠ると、知らず知らずのうちに、その領域を「過去」が侵犯しはじめる。出来事が「過去」になる--と、いま、私が書くことは簡単だが、あ、きっとそれが人間なのだと思う。そういうことがないと、また生きられないのだとも思う。だからこそ、忘れながら、同時に思い出しつづけるという矛盾を生きるしかないのである。
 その「自覚」を季村は、東日本大震災によって促された。目覚めさせられた。それは、季村のことば通り「遅れてあらわれた」。「出来事は遅れてあらわれた」と書いた季村においてでさえ、まさかあらわれるとは想像していなかったときに、遅れてやってきた。そして、その遅れてやってきたものに促されて、あ、こういうことがあったと、阪神大震災のある出来事を「遅れて」、つまりいまになって思い出す。肉体が「覚えていて」、ことばにできなかったことをふいに思い出す。ことばが動きだす。阪神大震災が「過去」ではなく「いま」なのだ。「いま/ここ」に季村とともにある。季村は、東日本大震災に向き合いながら、阪神大震災を語りはじめる。語るしかない。

 家屋全壊、まさに偶然でした。全壊ですから、家屋の死。身体としての私は生き残り、このように生き延びることが出来ましたが、壊滅という事態の到来とともに、自分のなかの何かが、確実に滅んでしまった。抉られ、胃袋を鷲づかみにされ、何かを奪われ、奪われているという事態まで奪われてしまった。そんな感じでした。この事態は凌辱ではないのか。陽光にさらされた女性の下着、身体に薄くまとわりついていた下ばきをガレキのなかに見出したある日、自然による暴力、しかも凌辱だと覚りました。にもかかわらず、あまねく光が覆っている。ありえない光が、かつてみたことのない痕跡をあらわにした地平を覆っている。この光はなんなのだ、めまいを禁じえませんでした。

 光の発見。めまい。--これは、『日々の、すみか』のなかに書かれていたか。私には記憶がない。ここで詩集をもう一度読み返してもあまり意味はない。そこに書かれていたとしても、私はそのことに気がつかなかった。それを、東日本大震災のあと、いま、気がついた。東日本大震災を語る季村を通して(東日本大震災を通して阪神大震災を語る季村を通して)私はそのことに「いま」気づいた。気づかされた。--東日本大震災によって、私の中の何かが目覚め、それが、この季村のことばを受け止めさせてくれているということの方が大事なのだ。私はそのようにして自分自身の「遅れ」をいま自覚するのである。
 そして、たぶん、これは季村にも同じように起きたことだと思う。たとえ『日々の、すみか』にその光を書いていたとしても、そのときはそれほど「自覚」していなかったのではないかと思う。「出来事は遅れてあらわれた」というこの方が衝撃が強すぎて、ほかのことばを押さえつけていたというべきか。--それが、東日本大震災を目撃することで再び呼び覚まされたのである。
 季村は相馬海岸を訪れている。

 相馬海岸での光景、「いま・ここ」を、まざまざとおもいます。一月十七日以降のある日、「凌辱」という事態に突き当たったといいました。東北の惨状の「凌辱」には、自然の凶暴な意志が示されていました、まさに根こそぎ、奪われているということすら奪われている凌辱だった。しかも自然の光が極限の冷酷さで覆っていた。光の過剰、壊滅した光景に放擲され、光景という、まさに光そのものを私は目撃しました。

 「光の目撃」。東北で光を目撃して、そのことが季村の肉体が覚えていた阪神大震災の光を目覚めさせたのである。阪神大震災の光は、このように「遅れてあらわれた」のである。「遅れてあらわれる」ことで、「いま/ここ」にあることの「意味」をさらに問いかけるのである。「いま/ここ」にある、この「光」--それは何なのか。
 「光の過剰」「光そのもの」。それはなぜ、そこにあるのか。

壊滅したそこ、いまだ見たこともない痕跡の散乱、超越者は不在のまま、見たことのない痕跡を散乱させていた。壊滅の周囲を光が覆っていた、このことに、うちのめされました。

 「めまいを禁じえませんでした」から「うちのめされました」までの距離(?)の遠さ、あるいは近さ。肉体の中では、その遠近はない。だから、それをひっくるめて受け止めるしかない「肉体」を思う。そして、その「肉体」の外にあふれる「光」を思い、私は何書いていいかわからない。
 このわからなさを、季村はまた正直に書いている。

 敗戦後の坂口安吾は、壊滅した光景を「偉大な破壊」と呼び、「人間の姿は奇妙に美しい」と『堕落論』に刻み込みました。破壊した相馬海岸の光、崇高とした呼びようのない光、それは奇妙に美しい光だったか。偉大な破壊がもたらされた、確かにそうなのだが、崇高としか呼びようのないおののきにふるえ、私は光景のただなかに、うちすえられていただけですが、神戸に戻ってから、「出来事の表象不可能性」ということについて改めて考えました。

 「いま/ここ」にある光。光の過剰。「崇高」「美しい」ということばがそれに結びついてしまう。--それで、いいのか。よくないのかもしれない。けれど「肉体」が「覚えている」のは「崇高」「美しい」なのである。そのことを、季村は正直に向き合い、正直にそれをことばにしている。
 「いま/ここ」にある光を「崇高」「美しい」と呼ぶのは最終的には間違っているかもしれない。やがて訂正しなければならないかもしれない。けれど、「いま」は「崇高」「美しい」ということばを通らないとどこへもいけないのだ。そこをとおってしか「肉体」の「奥」、ほんとうに「覚えていること」にはたどりつけない。「覚えていること」は「遅れて」あらわれるしかないからである。「出来事の表象不可能性」とは、そういうことを含んでいると思う。
 季村は、次の体験も書いている。

釜石市両石町在住の瀬戸元(はじめ)さんが、三月十一日咄嗟に撮影した到来する大津波を、「いま・ここ」でいっしょに見ることになります。「いま・ここ」を暴力的に蹂躙する映像は酷薄そのものです。隠れているもう一つの自然、その凶暴性の顕現に、私たちはあっけなく飲みこまれます。ところがその後に宮本隆司さんによって切り取られ、読みとられた、日常に戻った光景、陽射しが美しく輝き、小鳥のさえずりが画面いっぱいにあふれる、日常という光景に、私たちは、改めて震撼させられます。めまいのするような落差、非日常と日常の「あいだ」、「あいだ」に居る死者を抱え、あくまでも陽射しにさらされながら、宮本さんの眼と耳は、どこに向かっているのでしょうか。

 わからない。ほんとうにわからない。自然の暴力。それは暴力的ではないはずの光にもあるのだろうが、暴力的である光は同時に輝かしい美しさにあふれている、崇高である。その「落差」を埋めるものを私たちは、まだ持っていない。「ほんとう」は「遅れている」。まだ「あらわれてはいない」。だからこそ「あらわしたい」。
 この苦悩の中で、季村は書いている。正直だ。

「いま・ここ」に、なぜ居るのか。ほんとうのところは、わからない、こうおもいます。要請に従い、今ここに来てはいますが、ほんとうの促し、内在的な促し、そういうものが実はあるのだ、もう一つの要請が「あいだ」から発せられる、促しは死者からなのだ、私はそうおもいます。表現というのは、「いま・ここ」からズレた「あいだ」からの促しであり、促しにつんのめっていく行為だとおもいます。

 何らかの「促し」に「つんのめっていく」。そこには自分の意思はあると同時にない。「促し」によって「肉体」がつんのめり、その「つんのめる肉体」をささえようとして、「肉体」の本能から何かがあらわれてくる。それを待ちつづける--それがたぶん書くということなのだろうと思う。

 季村のことば、その「ことばの肉体」のなかにある何か--それを私は「わかる」とは言えない。けれどそのことばに促されていることだけは確かである。「出来事は遅れてあらわれた(る)」と季村でさえ言う。「遅れ」に対していままでも待つことくらいはしなければならないと思うのである。せめて、そういうことだけはしたいと思う。





災厄と身体―破局と破局のあいだから
季村 敏夫
書肆山田
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松下のりを『栞紐』

2013-01-16 09:53:02 | 詩集
松下のりを『栞紐』(土曜美術社出版販売)

 「現代詩」の定義はむずかしい。「現代」書かれているから「現代詩」といえるかというと、そうではないような気がする。「現代詩」には何かしら、「現代」ではないものが含まれていないといけないのだろう。そしてそれは「未来」というものだと思う。いままでのことばではとらえることのできないものを、いまのことばでとらえる--というのは矛盾である。矛盾であるけれど、矛盾だから「現代詩」という具合にわざと「現代」ということばをくっつけて矛盾を隠して、「これが正しい(新しい)」というのだろう。「正しい(?)」と「新しい」という一致する必要のないものが「ひとつ」になって「現代」ということになるのだろう。「新しい」が「正しい」かどうかは、「いま」はわからないことだからね。
 松下のりを『栞紐』のことばは、そういうこととは関係がない。「正しい」に疑問符はつかない。そのかわりに「新しい」に疑問符がつく。これが「新しい?」。いや、ちっとも新しくない。けれど、それでは古い? うーん、むずかしい。どんな古いことでも「いま/ここ」にあるとき、その「古い」は過ぎ去った時間のなかにあるのではないからね。まあ、こういうことを書いているとなんだかめんどうくさくなるのだが、ようするに、そういう詩である。そういうことばである。
 たとえば「炭の音」。

二日半日焼いて火止めをし
数日たった炭窯の前に
四、五人の男がたむろしている

もうぼつぼつよかろう
小屋の前の焚き火に
「飛騨の里」の雪が映えていた

二羽の白鳥が棲む池は
水車小屋の筧から水の落ちる場所以外
白く凍り
一羽は水のなかに
一羽は氷の上をゆっくり歩いていた

どうだ もうぼつぼついいだろう

炭を出す男たちの顔が
うなずきあった

炭窯のなかをのぞくと
骨のように焼けたナラ炭が
白い粉をふき
ぎっしりと窯の奥深くまで
つまっている

取材の記者たちが
カメラのフラッシュをたく

一本一本ふれあうと
カチンカチンとひびきのある
音がする
炭が生きているというのは
この音だ

 炭の窯出しの様子を描いている。ここに新しいことばはない。「炭が生きている」というのもごく普通のことばである。(私の田舎では、それぞれの家で炭焼き小屋をもっていて、それぞれの家庭が炭をつくっていたので、私にはとくにかわったことばには聞こえない。)普通のことばなのだけれど、その「普通」のなかにある「生きている」ということばが、あ、これが松下の「現代」なのだと教えてくれる。
 書かれていることは「新しくはない」。それがそれでも「いま/ここ」に「生きている」ことばとしてあらわれるとき、それは古いとは言えない。「過去」が「いま/ここ」と正確につながる。正確につながって、そこから「過去-いま」という「時間」を消してしまう。それは同時に「過去-いま(現在)-未来」という時間も消してしまうということである。「時間」が消えると「生きている」という「こと」だけが残る。そして「生きている」のなかで「炭」と「人間」が出会う。
 そうか。「出会い」がすべてなのだ。何かと出会う。そのとき、その「出会い」のなかに自分の抱え込んでいる「過去」が呼び出される。その「過去」と正しく向き合えるか。そこでは「自分」が試されている。
 炭がふれあうときのカチンカチン。その音をどう聞くか。透明な音、澄んだ音、はりつめた音……そういう形容詞ではなく「生きている」。「生きている」としっかり感じることができるかどうか。「生きている」をそれからどうやって動かすか。つまり、どう「覚えている」につなげるか。「生きている炭」--これは長持ちするのだ。火力が強いだけではなく、消えない。「長生き」する。「生きている」とは「長く生きる力がある」ということなのである。そういう火と炭の関係を肉体で覚えている人(その炭火にあたりながら、火の熱さを肉体で覚えた人)なら、そのことはすぐわかるだろうが、そうではない人には、この「生きている」はわかりにくいかもしれない。「生きている火」だからそれをつかって作る料理も味が「生きている」。そうして人の暮らしの「生きている」がつづく。
 そして、この「生きている」という感じは、そこに肉体をしっかり向き合わせるとき「生きている」ではなく「いっしょに生きる」にかわる。「いっしょに生きている(共生)」の感覚は、炭と人間の肉体という無関係なものを結びつけるだけではない。「いま/ここ」に生きている他の存在とも自然に結びついてひとつになる。
 詩の前半に白鳥が描かれている。この白鳥は炭焼き(炭の窯出し)とはまったく関係がない。白鳥がいようがいまいが炭は焼かれ窯出しされる。けれども、そういう「こと」のなかに白鳥は自然にとけこみ「いっしょに生きる」。そのとき松下は人間であると同時に「白鳥」でもある。白鳥だからこそ「生きている」ということばが広がる。

 誰かが生きるとき、ある存在の「生きる」を強く実感するとき、そこにはまったく別な何かが生きている。それを、どれくらい「ゆったり」した広がりのなかに抱え込むことができるか。自分の「肉体」をどれくらい包容力のあるものにできるか--「他者」をつつみこみながら、世界を実感できるか。
 これはむずかしい問題なのだけれど、そういうことができたとき、それはなんとも楽しいものになる。生きているということの不思議なおもしろさにふれあうことができる。
 「壺」という作品。

口の小さな白磁の壺を
お千代保稲荷の骨董屋でみつけた
店の親父のことばがいい
口の小さい壺は
幸せを入れたら外に出さない
縁起壺と呼ばれている
なる程
口が小さく下ぶくれした
大きな壺に
山水の青が美しい
普通だったらうん十万もするのだが
お宅さんの言い値で手を打ちましょう
おかみさんのしぶい顔が
しぶしぶ壺を霧の箱に入れた

あとで
小さな口をとがらせて
もめるだろうに

 口の小さな壺と口をとがらせて口を小さくしたおかみさんが重なる。ひとつになる。おかみさんが壺として「いっしょに生きる」。そのとき、おかみさんのなかには、たとえ不平をこぼし親父とけんかをしていても「幸せ」がつまっているとわかる。この感じがいい。こういう「幸せ」はことばを重ねて説明すれば嘘になる。「生きている」「幸せ」ということばだけで十分。肉体が「覚えている」幸せのすべて、「生きていること」のすべてをつれて、「いま/ここ」にあらわれてくる。



栞紐
松下 のりを
土曜美術社出版販売
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ローランド・エメリッヒ監督「もうひとりのシェイクスピア」(★★★)

2013-01-15 22:59:27 | 映画
監督 ローランド・エメリッヒ 出演 リス・エヴァンス、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョエリー・リチャードソン

 この映画はかなり風変わりなはじまり方をする。役者が大急ぎで劇場へ駆けつける。開幕寸前である。息をととのえて、舞台に立つ。幕があがる。そこで口上。これからお見せする芝居は云々。映画なのに、それを「舞台」の枠に入れ、「舞台」なのに劇場を飛び出し、カメラは現実の世界(といっても、いまの世界ではなくシェークスピアのロンドンだから嘘の世界なのだが)へとびだす。
 なぜ?
 シェークスピアの実像は知られていない。ほんとうにいたのか。誰か別人が戯曲を書いていたのではないのか--というストーリーなのだから、わざわざ前にこれからはじまるのは「芝居」です、と舞台をでっちあげて説明しなくてもいいのでは? 直接、シェークスピアのいたロンドンからはじめてもいいのでは? 映画はもともと「嘘」と見ている人は知っているのだから。
 でも、違うんだろうなあ。
 映画が嘘--現実そのものではないということは観客のだれもが知っている。そのために、そこでは「想像力」が働かない。観客の想像力は過剰な映像でどんどん磨り減ってゆき、さらに過剰な情報を求める。これはかなり不幸なことである。
 そんなふうに「受け身」になって映画を見るのではなく、もっと想像力を働かせてみてほしい。芝居を見るように……。そういう「願い」がこの映画の初めに語られるのだ。
 同調するように、シェークスピアのことばが映画の中の舞台で語られる。「想像力を働かせて見てほしい。舞台の上の役者はひとりでも、そのひとりは1000人の兵士なのだ。ここは舞台小屋ではなく戦場なのだ……。」そうなんだねえ、芝居は「想像力」がすべて。役者は観客の想像力を刺戟する存在である。観客を煽動する存在である。(これは、この映画の最後の方のクライマックスでもう一度語られるテーマだが、まあ、省略する。で、この想像力の刺戟という点で、「レ・ミゼラブル」という映画は大失敗している。想像力を否定して映像の洪水で観客を溺れさせている。だから、大嫌い。)
 で、その想像力。それは、どこから生まれ、どう動くか。
 いやあ、これがまたおもしろい。映画はシェークスピアの戯曲のことばをどんどんふくらませる。シェークスピアの書いたことばは単なる芝居ではなく、そこに語られることばには違う現実(背景)があったのだ。たとえば「真夏の夜の夢」は女王と若い恋人(ほんとうは彼が戯曲を書いていた、という設定。貴族が芝居を書くのは貴族らしくないので、戯曲を芝居小屋で見つけた男に託していた云々がこの映画の謎解き)の出会いをそのまま再現したものだし、「ロミオとジュリエット」のダンスシーンはそのまま二人のダンスシーンである。そういう現実(現実の体験)がないことには、ことばはシェークスピアが書いているように「ほんとう」となって動くはずがない。--いやあ、シェークスピアを読んだ人間ならだれでも思うことだよね。ことばは事実をつくりださない。事実があって、それを記録したのがことばなのだ。事実が先なのだ。
 で、王宮を舞台に繰り広げられる権力闘争(オセロ、ハムレット、リア王など)はそのまま「現実」を反映していたものになる。ストーリー全部が一致するわけではないが、そのてかのことばは「現実」をそっくり映したものである。そしてその「映し(現実の反映のさせ方)」は観客には丸見え--というか、観客は、どうしても「芝居」の裏にある「真実」を想像してしまう。(これがクライマックスに応用される。)
 いやあ、楽しいなあ。ことばによって、どんどん「妄想」が膨らんでゆく。女王に隠し子がいて、その子は大きくなって王女と交わり、こどもをまた私生児として産み……ギリシャ悲劇からつづいてきた「妄想」がそのまま「現実」になっていく。人は「現実」を知らずにに、「妄想」を実現させてしまっている。
 というようなことが、何といえばいいのか、ジェットコースターのように超スピードで語られる。映画だねえ。これを芝居でやると、もたもたしてたいへん。芝居は映画のように画面を切り換えることができないからね。映画特有の、カメラの切り替えで舞台を次々に飛躍させ、けれどもその飛躍を貫くように「ことば」が連続する。その瞬間に、妄想が暴走する。そうか。シェークスピアが生きていたら、映画はこんな風になったかもしれないと思わせてくれる。
 そう思わせるためにも、映画は「舞台」ではじまり、「舞台」で終わる--つまり「ことば」から始まり「ことば」で終わる必要があったのだ。

 それにしてもねえ。もしこの世にシェークスピアがいなかったら、英語はどうなっていたのだろう。そして私たちの想像力はどうなっていただろう。私はシェークスピアをほとんど知らないけれど(だからこそ?)、そうか、シェークスピアを読まないことには英語を話したことにはならないぞ、英語にふれたことにはならないぞ、と思ってしまった。シェークスピアを全部覚えればイギリス人になれるとさえ思ってしまった。--これって、私の「妄想」なのだけれど、そういう「妄想」を引き出し育てるのが「文学」というものなんだろうなあ。

 あ、女王のヴァネッサ・レッドグレイヴ、すごいなあ。女王ならではの貫祿とわがままと、さらに女の情念の噴出がすごい。この女がシェークスピアを産み、育てたのだ--ということが「比喩」ではなく「現実」に感じられる。そして、その「比喩」ではなく「現実」というのは映画のなかでは大胆なストーリーとして動いていく。これは映画で確認してくださいね。
                        (2013年01月14日、天神東宝3)


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藤井晴美『今、ミズスマシが影を襲う』

2013-01-15 11:33:51 | 詩集
藤井晴美『今、ミズスマシが影を襲う』(七月堂、2012年09月01日発行)

 藤井晴美『今、ミズスマシが影を襲う』は、短かったり長かったり、いろいろなのだが、短い方がいいかもしれない。
 「ある交響曲」は巻頭の作品である。

 死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。そこに薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私がそこに電磁誘導されるわけだ。

 私は、なぜ私か。この問いの不可思議さは、恐怖によって担保されてきた(鮮度が保たれてきた)。

 この詩は1段落だけの方が私にはおもしろく感じられる。2段落目は説明が多くておもしろくない。とくに「恐怖によって担保されてきた」が「鮮度が保たれてきた」と言いなおされるとき、ことばがまったく進まなくなる。
 「私は、なぜ私か」というのもありきたりな問いで、ばっさり半分にしてしまった方が楽しいと思う。
 1段落目には「なぜ」がない。「理由」がない。それが刺激的である。死んだあと自我が薄く水が張られた皿に電磁誘導される、ということがほんとうかどうかなんてどうでもいい。ことばがそう動くなら、そのことばのためにそういうことが起きたってかまわない。ことばがそう動いたのなら、絶対にそうなってほしいと私は思う。で、そんなふうにことばが動くとき、そこには「ことばの肉体」があって、それがおもしろいのだが……。そして「肉体」というのはいつでも「絶対的な他者」である。つまり「わからない」、だから「ほんとう」に思える。
 それなのに。
 2段楽目で「なぜ」がでてきたときから、「肉体」が「頭」にかわってしまう。「なぜ」という「理由(根拠)」は「頭」が考えるものである。「肉体」は「なぜ」など考えない。ただ動く。なのに、「なぜ」がその動きをとめてしまい、さらには「担保されてきた」を「鮮度が保たれてきた」と言いなおすので、どうしようもなくなる。「論理」問いうのは「他者」ではな、「共有」を求めて動くおもしろみに欠けるものである。「わかってくれ」と求められて「わかる」ということほどつまらないものはない。「頭」で共有されるものは何だか肉体を疲れさせる。
 タイトルの「交響曲」にかこつけていえば、1段落目はちゃんとした「演奏」だったのに、2段落目は「楽器」が消えてしまって「楽譜」を見せられた感じ。「楽譜」を見せられて、そこから「音楽」を正確に把握しなさいといわれてもぐったりするでしょ? 「楽譜」にも音楽はあるのだけれど、「音」のように直接「肉体」に飛び込んで来ない。
 まあ、これは私が「音楽」を完全に知っていないからなのだけれどね。--という言い方を流用すれば(?)、私はことばの動きを完全に知っているわけではないので、藤井が書いているように、ことばが「頭」へ向かって動いてくると、なんだか読むのがつらくなるのである。「頭」のなかで動くことばを生きている人(「楽譜」の音楽を生きているような人)には、それが楽しいかもしれないけれどね。

 詩集中で一番気に入ったのは「2009年5月25日7時40分頃/死亡逃亡」という2行のタイトルをもつ詩である。

 小雨の中を懸命に自転車を漕いで投稿する女子高生。田舎の道。
 その女子高生の白い脚を自宅二階のベランダから見ている初老の男。
 そのすぐ下に巨大な温室が隣接していて、そのなかで農作業を続ける男。温室のガラスは蒸気で曇っている。そのため中の男は、緑色の中に溶けだして、すっかりにじんで見える。彼自身が栽培している植物と同化してしまうとでも言うように。
 昨夜見た夢から逃げるように少女は急いでいた。

 主語が次々にかわっていく。このときの「変わり目」に詩がある。切断する力に詩がある。「その女子高生」「そのすぐ下」「その中」「そのため」と「その」ということばが繰り返される。いったん句点「。」で切断しながら、その切断したものを(先行するものを)、「その」ということばで強引に引き寄せ、いままで存在しなかったものに接続する。そのとき「飛躍」が生まれる。「その」という粘着力が「飛躍」を浮き彫りにする。その「矛盾」--「接続」と「切断」、「粘着」と「飛躍」という矛盾がつくりだすリズムがとてもおもしろい。「他者」が次々に増えてゆき、その増え方が「社会(現実)」と重なってくる。あ、こういう世界の広がり方ってあるよなあ、と感じる一瞬だ。
 これは「ある交響曲」にも実は存在した。

 死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。そこに薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私がそこに電磁誘導されるわけだ。

 「その」ではなく「そこ」。これは、

 死ぬ間際に私は、自我の受け皿を自室に置いた。「その皿」に薄く水が張られていた。簡単に言えば、死後私が「その皿に張られた水」に電磁誘導されるわけだ。

 と書き直してみれば「その」が存在することは明白だろう。先行することばをきちんと踏まえながらことばを動かす、という「散文」の「文法」を守りながら、(守るふりをして?)、そこに「詩」の「文法」でことばを接続させる--異質なものを出会わせる。
 このとき、その「異質なもの」というのは、ある種の「肉体」である。最初に「いま/ここ」に存在する「もの」とは違う「もの」のぶつかりあい。「ぶつかるということ」が起きる。そうすると、その瞬間「頭」は混乱するね。それが「詩」。
 こういうものに「なぜ」というような「頭」の「文法」は不要。

 このバランスは、しかし、藤田の詩ではまだ安定していない。どうしても「頭」がでてきてことばを動かしてしまう。それが残念。

 あ、「茶箪笥から出てきた男」には、

 アンパンほお張る海あかり。

 という1行があった。これはいいなあ。前後は、私にはあまりおもしろくないが、この1行は楽しい。この1行を読むために、この詩集がある、とさえ思える。

 アンパン「を」ほお張る海あかり。

 ではないところが、とてもいい。スピードがある。異質なものがであうというとき、そしてそれが「こと」という事件になるとき、それを可能にするのはスピードなのだ。「頭」をとっぱらって「肉体」だけが動く。「ことばの肉体」が動いてしまう。この筋肉がもっとついてくると藤田の詩はとても楽しくなる。そういう予感がある。


今、ミズスマシが影を襲う―藤井晴美詩集
藤井晴美
七月堂
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岡田ユアン『トットリッチ』

2013-01-14 08:40:17 | 詩集
岡田ユアン『トットリッチ』(土曜美術出版販売、2012年10月01日発行)

 ことばは「意味」を求めている。--というのは、ほんとうかどうかはわからないが、ことばを書いてしまうと、そこに「意味」を求めたくなるようにしむける力があるかもしれない。それはことばの本能なのか、それとも書いた人間の本能なのか。どっちでもいいことかもしれない。区別の必要はないかもしれない。そのときそのときの「方便」でどちらかを言ってしまえばいい、と私はいいかげんなことを考えている。岡田ユアン『トットリッチ』を読みながら。
 この詩集には「行分けの詩」と「散文形式の詩」がある。散文形式の詩には「意味」を求める力が濃く出ている。散文というものが「意味」を必要とするものだからかもしれない。
 「うえお」という作品。

うえお、うえおだ。駅裏にある、うえおに行こう。暖簾をくぐり、引き戸を開け、糊のきいた割烹着を着た大将がカウンターで仕事をしている。(略)注文など其方(そっち)退(の)けにして聞く。大将、愛の行方をご存知でしょう。(略)だからうえおなどという名前をお店につけたのでしょう。あいは料理に使うからありません。あいの痕跡を残してうえおとつけた。そうでしょう、大将。

 「うえお」という店の名前から「あい・うえお」を思い浮かべ、「あい」をとっぱらった「うえお」なのだという「意味」を見つけ出す。そして、

もう居ても立ってもいられず、走り出します。大将の頷く姿が目に浮かびます。もっと早くに気つくべきだった。もっと早くに気づくべきだった。

 ことばが「走り出す」のにあわせて「肉体(岡田)」が走りはじめる。「頭」がつかみとった「意味」に夢中になり、それを「頭」の中だけのことではなく「事実」にしたい。誰かと共有したいのだ。その「頭」がつかみとったことばを、肉体ごと届けたい。肉体が目的地にたどりついたら、ことばも目的地に着くのだ。「ことば」を運ぶのは肉体である。肉体が「ことば」を運んでいく、「頭」のなかの「意味」を運んでいく。と、岡田は思っている。思っているように見える。この「ことば」と「肉体」の一致(一致させようとしている感じ)がなかなか気持ちがいい。「意味」を「頭」だけで考えるのではなく、「肉体」でもつかみとろうとしている感じがする。なんだかわくわくする。
 で、「もっと早く気づくべきだった。」が2回繰り返されるのだけれど。あ、このときちょっと工夫をして、

もっと早くに気「が」つくべきだった。もっと早くに気づくべきだった。

 と1回目は「が(助詞)」を明確に書いて、2回目は省略するという具合にすると、意識が加速度をあげた感じがする。省略できるものを省略してしまうのが意識というものだから。「肉体」はそういうことができない--ということは、逆に言えば、岡田は「意識」ではなく「肉体」で書いている。しかも、先へ先へと急ぐ「意識」で「肉体」をただ動かすことに夢中になっているという「証拠」になるのかな?
 で、急いで急いでたどりつくのだが。状況はなかなか思い描いたとおりにはならない。「意味」を求めているのに、「意味」はすぐにはこたえてくれない。

大将と言いかけておしぼりを渡された。意味ありげな笑みを浮かべている。私はおしぼりで手を拭きながら大将と言いかけたが、それより先に、お待ちしておりましたと大将が言った。ああ、ああ、と私の口からは感嘆詞しか出てきません。これで知ることができる。胸が躍りました。言葉よりも先に言葉にならぬ声がもれました。おまかせで、となんとか口にしました。そこへお通しが出てきました。ごぼうと牛肉のしぐれ煮です。甘めの味付けでした。

 このじれったい感じがいいねえ。大将は岡田の「肉体」を見る。「頭」のなかを見ない。で、すぐには「ことば」が、つまり「意味」が共有されない。「肉体」はすぐわかるが、「ことば/意味(頭)」はわからない。割烹屋は、そこへやってくる人間を食べ物を杭に来たとしか思わないからね。
 それでもそこにたどりついた岡井にとっては状況が違う。ここまで「肉体」が来た。「頭」がここまで来た、「意味」がここまで来たというのが岡井の「肉体」である。
 「胸が躍りました。言葉よりも先に言葉にならぬ声がもれました。」は「意味(ことば)」と「肉体(胸・声)」の競走の具合がそのまま反映されていて、とてもいい呼吸だなと思う。「ことば」ではなく「胸(肉体)」が踊る。「ことば」ではなく「言葉にならぬ声(肉体の息)」がもれる。特に何が書いてあるわけではないのだが、その何も書かずに(つまり「意味」にならずに)ことばと肉体の競走そのものを再現しているところがとてもいい。
 そして、

今だと思いました。このお店の名前の由来を聞かせてください。

 それなのに……。

 ああ、大将は照れたように笑いました。名字が植尾と言いまして、そのまま平仮名にしてつけました。お客様によく聞かれますが、わけを知ると皆さん青ざめた顔になりそのままの状態でいらっしゃるので、何か悪いことをした心持ちになります。

 いやあ、いいなあ、岡田の青ざめた顔が見えるようだ。そうか、描写はこんなふうに、人の会話はこうなふうに取り込むのかと思うね。相手の「ことば」と「肉体」がそのままぶつかってきて、「肉体」が反応してしまう。そして「意味」を裏切る。「事実」が噴出してきて「詩」になる。ここはこの詩のなかで一番いいところだね。
 ところが、その後の展開がとてもつらい。

そこで姉妹店を作りました。オーガニックレストランあいです。はめ込んだような過剰な驚き声が背後から聞こえました。声が背中に覆いかぶさります。

「あい対するものを求めよ!」             我らをさだめしものの声。

 「過剰な」声というより「意味」がここからあふれはじめる。
 せっかく一度は「意味」を裏切ったのに、散文が「意味」を求めて動きはじめ、岡田はそれについていってしまう。
 面倒なので概略を書くと、「あい」は完全菜食の店。「うえお」は魚や肉を出すので、どうも折り合いがうまくいかない云々。
 で、そこに書かれていることは、実は「うえお」と「あい」のことではなくて、ことばと肉体のバランスの崩壊そのもの。「意味」が我が物顔に出てきて、岡田の「肉体」の疾走をとめてしまう。
 そして大将が完全菜食主義と肉食の違いなどを語るのだが、このときから岡田の「肉体」が消えてしまう。突然つまらなくなる。大将が「意味」を引き継ぐというか、そこに別の「意味」をつけくわえる。そこには大将の「肉体」もない。そこにはいない客の肉体のことがことばで語られるだけである。菜食主義の店と肉食主義の店はあわない。菜食主義のあと肉は食べられないとかなんとか。--これがおもしろくないのは、そこには岡田の「肉体」も大将の「肉体」も存在せず、単に客のことばを反芻する大将と岡田の「頭」があるだけだからだ。言い換えると、そこでは菜食主義という「意味」と肉食主義という「意味」が出合い、「意味」同士が上滑りするからだ。つまり詩ではなく「物語」がどんどん長くなってしまう。
 「意味」は「肉体」によって叩き壊され「無意味」になってしまわないと詩にはなれない。「肉体」が覚えている「真実(事実)」を掘りあてたことにはならないのだ。
 岡田の詩にはおもしろい部分もあるのだが、岡田の「頭」はそのおもしろい部分を壊すようにして動いている--私にはそんなふうに見える。







詩集 トットリッチ (詩と思想新人賞叢書)
岡田 ユアン
土曜美術社出版販売
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レア・フェネール監督「愛について、ある土曜日の面会室」(★★★★★)

2013-01-13 17:47:47 | 映画
監督 レア・フェネール 出演 ファリダ・ラウアッジ、レダ・カデブ、ポーリン・エチエンヌ、マルク・バルベ

 三つの愛の物語なのだが、テーマはひとつ。
 そのテーマが色濃くあらわれるシーンのひとつが、服役中の男の身代わりになる男が、その前夜女とセックスするシーン。女が何度も「私を見て、私を見て」という。性器と性器の交わりがセックスなのではない。見つめることがセックスなのだ。そして、そのとき「私を見て」は別なことばで言いなおすと「私をわかって」である。
 そうなのだ。あらゆるときに、そうなのだ。「私を見て(私の顔を見て)」とは「私をわかって」なのである。
 これとまったく逆の視線の動きがある。相手をじっと見つめる。刑務所の面会室で息子を殺された母親が加害者の青年と対面する。そのとき母親は青年をしっかり見つめる。そしていう「教えて」(これは字幕の文字で、実際には「シル・トゥ・プレ(お願い)」ということばが繰り返されるのだが)。「教えて」とは「あなたの肉体が隠していることをわかるようにことばにして」ということである。
 「わかって」と「教えて」が複雑に絡み合うのである。
 この映画は三つの愛が語られるが、それは「絡み合う」といっても実際には絡み合わない。三つの愛はたまたま刑務所の面会室で最後に集まるだけで、映画の登場人物たちはそのことを知らない。私たち観客だけがそこに三つの愛があるということを知っているだけなのだが、これがまたおもしろい。
 「わかって」というとき、それは「わかっている」。十分に「わかっている」のだが「もっとわかって」。つまり、それは「わかっている」ということを「わかるように教えて」と言っているのだ。そして「教えて」というときも実は「わかっている」けれど「もっと教えて」なのである。
 おそろしいことに、人間には「わからないこと」がない。どんなことでも「わかる」。それはたまたま秘密をみてしまったことによって「わかる」ということもあるのだが、そのときも実は「秘密」の内容がわかるのではない。
 たとえば面会の付き添いを頼まれた意思は女学生のもっている処方箋から少女が妊娠していると「わかる」。でも、それは妊娠していることがわかる以上に、彼女がそれを秘密にしている、自分だけの問題として解決しようと苦悩していることが「わかる」のである。同じように、息子を殺された母親のバッグのなかから息子の写真を見つけ出した加害者の姉は、母親の「正体」が単なるベビーシッターではないということが「わかる」だけではなく、彼女がどんなふうに「いま/ここ」で仕事をしているか、その苦悩が「わかる」。「目的」ではなく、「苦悩」が「わかる」。
 このとき姉は、母親と顔をあわさない。--これは、この映画ではとても重要なシーンである。顔をあわせる、見つめ合うということは「わかりあう」ことの始まりなのだ。人間は「わかりあわなければならない」のだけれど、「わかりあっていてもわからない」という状態でいなければならないことがあるのだ。「わかっている」ということを「わかられてはだめ」ということがあるのだ。「わかっていることがわかられてしまう」と、その「わかられてしまったひと」の行動に違うものがまじってきてしまう。そこに「自由」がなくなってしまう。その人の「自由」を尊重するなら、「わかっていてもわからない」をつらぬかなければならないことがある。
 これは最後の最後の医師と女学生の別れのシーンにも描かれている。女学生は刑務所のなかの恋人をふりきってしまう。そのときの苦悩を医師ははっきりと「わかっている」。そしてそれが「わかっている」ということを少女は「わかる」。だから「ありがとう」という気持ちからキスをする。「いわないで」という意味である。「わかっていることは、わかっています、だからそれをことばにしないで」。
 人間はほんとうに複雑である。あらゆることをことばで聞きたい。ことばで「わかりたい」。でも、その一方で「わかっている」から「言わないでほしい」とも思うのだ。それはまた「わかっているのだから言わせないでください」ということにもなる。

 こういうことは書けば書くほど面倒なことというか、うるさいだけのことになる。
 この「わかる」「わからない」「わかって」「教えて」をその「具体的な内容」をことばにしないで、視線の交錯だけで映画にしてしまう。しかもひとつのストーリーではなく三つのストーリーを絡まないように(つまり登場人物たちが他の登場人物のことをまったく知らないままに)描きながら、観客の肉体のなかにだけ「真実」を刻み込む--あ、これはすごい映画だ。2013年に最初に見るべき1本である。



 余談になるのか、あるいは「核心」に触れることになるのかわからないが。
 私はこの映画を2013年01月13日KBCシネマ1で見た(14時10分からの上映)。私は後ろから4列目の中央で見ていた。映画が終わったあと、後ろから6列目の男が5列目の女に対して、「服役している男にそっくり男が面会にやってきて、いれかわるというシーンが納得できない。そっくりな男が会いに来てだれも怪しまないということが納得できない」と話しかけていた。
 あ、これはたいへんな勘違いだなと私は思った。
 人は自分の関係する人しか見ていないのだ。刑務所で働いている職員は服役している男の顔は見るだろうが、面会にやってくる人の顔など見はしないのである。だれが会いに来ようがそんなことは関係がない。それは同じように面会に来る人たち同士にも言える。隣の人が誰に会いに来たか、どんな事情があるのかなど見てはいない。わかろうとはしない。「わかりたい」のはただ会っている人のことだけである。そして「私自身」のことだけである。なぜ会いたいのか。何を私はしたいのか。それ以外は関係がない。
 それを象徴するように、冒頭に、突然どこかへ夫が移送されてここにはないと知った女が「誰か助けて」と周りの面会者に訴えるが、誰も助けはしない。同情もしない。声をかけない。ここにある「真実」、人は自分のことで手がいっぱいを見落とすと、視線のドラマが見えなくなる。
 みんながそれぞれに「自分だけの愛」を見つめている。つかもうとしている。確かなものにしようとしている。そのために苦悩している。「愛」がけっして第三者とは共有できないものであることを知っているから「わかって」「教えて」「わかっている」「わかっているけれどわからないことにする」が苦しく切ないのである。
                      (2013年01月13日、KBCシネマ1)



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田島安江「ラクダの涙」

2013-01-13 11:47:18 | 詩(雑誌・同人誌)
田島安江「ラクダの涙」(「something 」16、2012年12月25日発行)

 田島安江「ラクダの涙」にとても美しい行がある。

この草原には何もない
何もないけれど何でもある
草原の深い井戸の底から湧き出る水
地下水の湧き出るその場所で
動物たちと並んで手のひらに水を受ける
手のひらに温かいラクダの涙があふれる

草原から遠く離れたその場所で
生まれてまもないラクダの子ども同士
つながれたまま
日暮れて母の帰りを待つその場所で
わたしたち
ラクダの乳でできた固いチーズを食べる
草原の香りを食べる

星が空に満ちるのを待って
母ラクダが帰ってくる
草をたっぷり食べたラクダの肌から
草の匂いが漏れる
ラクダからしぼられる乳からも
草の匂いが漏れてくる

 人間はラクダのチーズを食べる。ラクダの子どもはチーズは食べない。母親の乳の飲む。チーズは乳からできているから人間はチーズを食べることでラクダの乳を飲んでいることになる。ラクダのチーズを食べるとき、人間はラクダの子どもになる。
 そういう体験をしたあと、母親のラクダが帰ってくるのを見る。ラクダから草の匂いがする。それは草を食べたからだ、と田島は書いている。それが証拠にはラクダの肌からだけではなく乳からも草の匂いがするからだ。
 あ、この乳のなかの草の匂い。
 これは田島が嗅いだものだろうか。もちろん田島が嗅いだものだが、そのとき田島は人間だったのか。それともラクダの子どもだったのか。私はラクダの子どもになって乳から草の匂いを嗅ぎとっているように思える。
 これがいい。
 ラクダの肌から草の匂いを嗅ぎ取っているときは田島はまだ人間だ。しかし乳から草の匂いを嗅ぎ取るとき、もう田島は人間ではない。ラクダになって母の乳房の近くにすりよっている。そして草の強い匂いを嗅ぐ。そしてこのとき、実際に母ラクダの乳房にすがっている子どもラクダはラクダではなく、田島なのだ。人間なのだ。人間というより「いのち」の子どもといえばいいのか。そこには人間・ラクダという区別はなくなっている。
 母親が子どもに乳をやるという動きだけではなく、草の匂いと結びつけているところがとても美しい。「いのちの子ども」というようなことばは「抽象的」なものである。だれでも考え出すことができる。そういう段階で詩をとめてしまうと、それが実際に見てきたものであっても「空想」になる。体験を自分の肉体のどの部分で引き受けたか--その「証拠」のようなものが「草の匂い」。
 嗅覚は無防備である。匂いはどこからともなく突然やってくる。鼻をおさえれば匂いはしなくなるかもしれないが、そういうことができるのは匂いを嗅いでしまったあと。匂いは突然やってきて、肉体のなかに入り込む。その肉体のなかに入ってきたものを田島は忘れずにしっかりことばにしている。

満ち足りたラクダは眠りに向かう
わたしはそっと
ラクダのごわごわした毛に触れる
どこかでわたしを呼ぶ声が聞こえる
手風琴の音色のようになつかしい
ラクダの大きな瞳に涙があふれる
ラクダの子の瞳にも涙があふれる

 なぜ「満ち足りたラクダ」と田島は書けるか。繰り返しになるが、それは田島がこのとき「人間」ではなく「ラクダ」だからである。ラクダになって満ち足りているから、そう書いてしまうのだ。そしてそのラクダは乳を飲んだ「子どものラクダ」であるだけではなく、乳を飲ませた「母親のラクダ」でもある。一度人間が人間ではなく「子どものラクダ」になってしまえば、もう「母親のラクダ」にならなくてはすまない。一度人間でなくなったものは「子どものラクダ」だけでとどまっていることはできない。ひとりで「何役」でもやってしまう。すべてが「一体」になる。
 そしてその「一体(感)」は、実は生き物(動物/人間)だけではない。そのまま、そのときの「宇宙」そのものと「一体」になる。

どこかでわたしを呼ぶ声が聞こえる

 それは「宇宙」の彼方であり、同時に「田島自身の肉体の奥」でもある。だれが呼んでいるかわからない--というのは、実はだれが呼んでいるか「知っている」ということでもある。知りすぎていて、それをことばにする必要がない。知りすぎていて、それをことばにすれば嘘になる。「声が聞こえる」だけで十分なのだ。「声」が真実なのだから、余分な「誰か」など書く必要がない。「肉体が覚えているということ」はそういうものである。
 どんなに遠くにあるものでも、それは「肉体の内部」にある。つまり「肉体が覚えている」。だからこそ、それはなつかしい。「ごわごわした毛」さえ「なつかしい」。それがごわごわしているのは、ごわごわしていないと守れないものがあるからだ。そういうことも肉体は覚えている。直感的に思い出している。
 「匂い(嗅覚)」「触れる(触覚)」「聞く(聴覚)」--肉体が様々に働き、様々になることでより強く「ひとつ」に戻る。そこに「宇宙」ができあがる。

ラクダの大きな瞳に涙があふれる
ラクダの子の瞳にも涙があふれる

 このとき、当然、田島の瞳にも涙があふれる。書かない。書く必要がない。これは田島の肉体の内部の中心ですべてのことばを動かしている力だからだ。書かなければならないのはいつでも「肉体」が「覚えていて」、いま、ここに書かないことには「あらわれることができない」ことばである。「肉体」が「覚えていること」を丁寧に掘り起こし目覚めさせるのが詩の仕事である。








トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房
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池井昌樹「兜蟹」

2013-01-12 11:21:16 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「兜蟹」(「鶺鴒通信」冬号、2013年01月10日発行)

 肉体は覚えている。肉体は覚えていることを間違えない--ということを池井昌樹の「兜蟹」を読みながら思った。
 詩集『明星』を校閲中に編集者から詩のなかに「兜蟹」が出てくるが「兜蝦」の間違いではないかと指摘されたという。海に生きる兜蟹が水田にいるわけがない。兜蝦ではないか。兜蟹では「フィクション」になってしまう、というのである。(この、フィクションということばのつかいかたは少し奇妙だけれど。)それで池井はいったんは「兜蝦」に直すことを受け入れるのだが……。

それから程無いある昼下がり、勤務する本屋の客も疎らな売り場から、ぼおっと天井を見上げていると、私の胸底をこつこつと打つものがある。兜蟹だった。私の産土(うぶすな)香川県坂出(さかいで)市梅園(うめぞの)町は古い埋立地で、井戸水にも淡い塩味があった。田圃(たんぼ)の井出(いで)には生活用水も注いだが、小学校の行き帰り、私たちは藻の揺れるその陰で銀河のように渦巻く美しいものを見ていた。まぼろしではなく、掌に掬えば琥珀色に澄むその甲殻を飽かず見ていた。「どんがめだ」。「どんがめだ」。辺りに歓声が起(た)ち……。そうだ、あれは、やはり兜蟹だった。

 思い出して、池井は「兜蝦」をもとの「兜蟹」に戻す。
 このとき、「私の胸底をこつこつと打つものがある。」この「胸底」が美しい。池井は「頭」で兜蟹を覚えているのではない。兜蟹は「胸底」という「肉体」に棲んでいる。いまも生きていて、それが池井の肉体をたたく(こつこつと打つ)。
 この「胸底」というのは「比喩」であってほんとうの「肉体」ではない--という人がいるかもしれないが、「比喩」に何をつかうかによって、その人がわかるのである。何を生きているかがわかるのである。
 きのう読んだ財部鳥子の詩には「乳房」が出てきた。それは「本物」の乳房であるけれど、「透明な/乳房」であった。実際に透明な乳房などないから、それは「比喩」でもある。しかし架空の存在ではない。実際の肉体である。
 「肉体」を「比喩」としてつかうとき、そこにはほんものの「肉体」があり、実感がある。「頭」で捏造した「体験」ではなく、「肉体」そのものが動いている、「肉体」が動くときの「こと」がある。ここでは「こつこつと打つ」という「こと」が兜蟹と池井によって共有される。この「肉体」と「こと」の問題は「肉体」と「運動」の問題につながるのだけれど、書きはじめると面倒なので省略。
 で、「肉体」は「肉体」をさらに覚醒させる。あることを「胸底」でしっかり思い出したら、ほかの体の部分も目覚める。井戸水には「薄い塩味」があった。舌がその味を覚えている。肉体は間違えないのだ。肉体が覚えていることは、必ずよみがえってくる。

私たちは藻の揺れるその陰で銀河のように渦巻く美しいものを見ていた。まぼろしではなく、掌に掬えば琥珀色に澄むその甲殻を飽かず見ていた。

 「銀河のように渦巻く美しいもの」は「兜蟹の幼生」だが、それは池井にとっては「自己」から切り離された別個の生き物ではない。池井にとっては「肉体」そのものである。「掌」に掬う。そのとき池井は「掌」であるだけではなく、その掌のなかの兜蟹でもある。池井は兜蟹を見つめるだけではなく、兜蟹も池井を見ている。そしてその肉体の中に住みつくのである。池井の肉体を生きる場所として選びとるのである。ただ遠くから見ていたのではなく、掌で掬う--その「肉体」の運動、肉体がした「こと」によって、その「こと」のなかで池井と兜蟹は「個別性」をなくす。共同で「こと」を行ない、「一体」になる。一体になることで、より鮮明に池井と兜蟹であることを「実感」する。
 「こと」のなかに、池井と兜蟹を切断し、同時に接続するものがある。
 兜蟹の幼生--その「幼」という文字は「幻」に似ているが、そこに「肉体」がしっかりと結びつくとき、それは「まぼろし」ではなくひとつの「力」になる。そして、育っていく。

 私たちの「肉体」のなかには、私たちの「肉体」以外のものが「肉体」をもったまま生きている。そういう体験を「肉体」を通してどれだけ自分のものにするか。あるいは、それを「覚えていること」としてどれだけ「いま」に呼び戻してくることができるか。
 池井は、こういうことに関しては、まったく希有な詩人である。その「肉体」がもっているものはほんとうに大きい。私は、池井というと若いときのデブの「肉体」をいつも思い出すのだが、「他人の肉体」を「自分の肉体」のなかに同時に抱え込んでいたら、どうしたってその「肉体」はふつうの人間の肉体よりも膨らんでしまう。デブになってしまう。あるときラーメンを食べたら、そのラーメンの丼の形だけ池井の腹は膨れ上がったが、あれは池井ほんらいの姿なのである、と思う。
 あ、脱線してしまったが……。

そういえば、生家の縁の下へは柘榴(ざくろ)の爪を振り立てながら海生の蟹も姿を見せた。何処をどう経巡りあんなところへ現れたのか。ちちははのちちはは、そのまたちちははの遐(とお)い遐い昔から、ながくながく私たちとともに在り続けてくれたものたち、

 「ちちははのちちはは、そのまたちちはは」--長い時間を思い出すとき、池井の肉体が思い出すのは、そういう肉体(血)の実際のつながりである。時間がつながっているのではない。「肉体」がつながっているのである。そして「肉体」がつながっているからこそ、私たちは自分の肉体以外が「覚えていること」を自分の「肉体」のこととして思い出すことができる。ちちははの肉体が覚えていることを思い出すことができる。それは人間だけではない。縁の下に現れた蟹--それは海を覚えている。そこに海があったことを覚えていて、埋立地の池井の家の縁の下までやってきたのである。その蟹の肉体とも池井はつながっている。

あのものたちは何処へ往ってしまったのか。否(いや)、あれらはほんとうにあったこのなのだろう。ぼおっと天井を見上げながら、淀みに浮かぶうたかたを、かつ消えかつ結びてとどまることのない歳月を、差し込んでくる陽の底で。

 それが「ほんとうにあったこと」かどうかはわからない。しかし、それがいま「ほんとうにある」という「こと」はわかる。池井が肉体の奥から「覚えていること」を丁寧に掬い出し、それをことばにするとき、それは「いま/ここに/たしかにあること」なのだ。それは池井の「肉体」がある限り、全体的な「真実」である。つまり、詩である。



明星
池井 昌樹
思潮社
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財部鳥子「引揚者の十月」ほか

2013-01-11 10:23:29 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「引揚者の十月」ほか(「鶺鴒通信」冬号、2013年01月10日発行)

 財部鳥子「引揚者の十月」原文は行の頭がそろっていないのだが、それをそのまま引用するのは目の悪い私にはかなりむずかしい仕事なので、頭をそろえた形で引用する。

夕陽は落ちて たそがれり
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
トラックの荷台に乗った女子学生たちは
揺られながら悲しい歌を繰り返し唄っていた

なんと悲しいエッセンスだろう
なんと透明な
乳房だろう
教育だろう

 「エッセンス」はどういう意味だろう。というか、何を指していっているのだろうか。よくわからない。財部が書いている1連目--その「記憶」の抽出具合を「エッセンス」と呼んでいるのかな?
 わからないことはわからないままにして、そのあとの

なんと透明な
乳房だろう

 あ、これはいいなあ。歌を歌っている女子学生たちの乳房を言っている。そこには財部も含まれるのかもしれない。「透明な」には「純潔の」という意味が含まれるかもしれない。まだ誰もさわっていない乳房。その乳房の奥に「さらば故郷」と歌う「胸」がある。「女子学生」に「故郷」と言ってもねえ……。たぶん「故郷」の実感はそんなにない。ただ、そこに住んでいただけというだけであって、自分がつくりだす暮らしというものがないからね。だから「さらば故郷」と言ってみても、それは「自分の体験」というより歌の作者の体験である。つまり「清潔な乳房」と同じように「純潔」である。「未経験」が「透明」ということばのなかで出会うのだ。
 これは不思議な感覚なのだけれど、たぶん、郷愁とか抒情というものは「個人の体験」というより「個人以前の体験」なのかもしれない。「山のあなたの空遠く……」にしろ「ふるさとは遠きにありて思うもの」にしろ、それに最初に感動するのは中学生くらいのときで、よくよく考えるとそのとき中学生にはそういう「郷愁」の原点になるような体験というのはないね。未経験。それでも感動する。これは「あこがれ」のようなものだ。自分にないのに、それを自分が体験したらどんなにいいだろう……。自分の体験が入り込まないから、それは「透明」だ。
 でも、そういう「透明な体験」に突然、暴力的に割り込んでくる体験「強制体験」のようなものがある。それが財部の書いている「引き揚げ」ということになる。そこには、ほんとうのことと、体験とは知らずに体験してしまったことがある。その交錯を「透明」が貫き通すところが、なお美しい。
 そのまじり具合、交錯する感じが不思議である。

海を越えて大陸から逃げ帰った少女 私は
歌のなかに消えそうだ
私の故郷はもう消えたのだから
合唱する友だちも消えたのだから

 故郷は消え、友だちも消えた(亡くなった、交遊関係が途絶え消息がなくなった)。それでも「歌の記憶」がある。それが財部の「故郷」、つまり帰ることのできる場所である。それはそして「透明な乳房」の奥の「胸」である。「透明な乳房」といいたい気持ちがとてもよくわかる。
 私は女ではないので、これが「わかる」というのは変な感じで、それを「わかる」と言ってはいけないのかもしれないのだが、そうなんだろうなあと思う。「歌った記憶」(歌の内容)と同時に、そのときの「肉体」を思い出す。それは「頭」が覚えていることではなく「肉体」が、「透明な乳房」が覚えていることなのだと感じる。男に触らせていない乳房で「さらば故郷」と歌った。肉体で覚えてることには、たぶん男と女の差はない。「ひとり」と「ひとり」の違いがあるだけだ。
 その乳房はどこへ消えたか。「歌のなかに」消えた?
 消えないだろうね。
 いつまでも財部の「いまの乳房」のなかに「透明な乳房」がある。それを覚えている。覚えているからこそ、「なんと透明な/乳房だろう」と書く。「肉体」のなかにあるもの、「肉体」が「覚えていること」しか、人は書くことができない。肉体が覚えたことは、そして絶対に消えない。消えないからこそ、書かずにはいられない。あるいは、肉体が覚えていることは、ことばになっておのずと出てきてしまう。

女子学生たちは
メロディの中に住んでいる
楽しくて荷台から降りられないのだ
停留所の後の大岩の上には灰色のコウノトリ
巣があるのか鳴くでもなく丸くうずくまる

コウノトリに訊く 道はここで終りですか?
トラックから降りた運転手は
煙草に湿気たマッチで火をつけようとしている
喫煙は楽しいから彼は答えないだろう

 詩の終わりは「短編小説」のような感じだが、そこに書かれていることはなんだろう。トラックの運転手に、「透明な乳房」のその「透明」はわかりはしないということだと思って私は読んだ。(ほんとうは「わかる」のだけれど、とここで反論してもしようがないので反論は省略しておく。)女子学生だった財部(少女だった財部)にしかわからない「透明な乳房」があり、他方でそれを知らない「運転手」がいる。それが「生きる」ということかもしれない。だから、いま財部はその運転手に対して「知らないでしょ」(知らなかったでしょ)と書くのである。書かないと、財部の「透明な乳房」は誰にも知られず、財部の「肉体」のなかにだけ存在したことになってしまうからである。



 張愛玲「野営の喇叭」を張玲蘭が訳している。とても美しい文章である。「私」は喇叭の音を聞く。叔母に言うと、そなんものは聞こえない、という。空耳なのか。自分の記憶のなかにあるメロディーなのか。自分の「肉体」だけが「覚えている」音ではないのか。だが、誰かが口笛で喇叭のメロディーを吹いている。それが誰かはわからないけれど、「私」はとてもうれしくなる。窓辺に駆け寄る。--そういう「内容」なのだが、ここには「私の肉体」の中にあるものが、他者の肉体によって変奏されることで(誰かの肉体が同じものを覚えることで)、それが「私の肉体のなかにあること」ではなく、「事実」になるという悦びがある。
 この悦びに通じるものを、財部は「透明な乳房」で書いていると思う。財部の「透明な乳房」を誰かわからない人が書くわけではなく、財部は自分で書くのだが、書くことで「他人」になり、それを「肉体」から引き出し、「事実」にするのだ。







財部鳥子詩集 (現代詩文庫)
財部 鳥子
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北村真『ひくく さらに ひくく』

2013-01-10 09:34:15 | 詩集
北村真『ひくく さらに ひくく』(ジャンクションハーベスト、2012年12月27日発行)

 北村真『ひくく さらに ひくく』のなかに「鳥を放つ」という作品がある。東日本大震災を題材にしているのだと思うが、わからないところがある。

舟の
かたちをした月が
浮かんでいる

あらゆる色のクレヨンで
塗りつぶしたキャンバスのように
海岸線と港と田畑と道と家々
暮らしのすべてを
真っ黒い波が
蔽い尽くしたから

折れ曲がった爪で
折り重なった黒を
スクラッチ画のように
少しずつ
けずりとる

あかね
こはく
ふかみどり
ぐんじょう
それから
ぎんの
耳を

ひとつ またひとつ
それぞれの耳を
ほりおこす

そのたびに
舟の
かたちをした月から

白い翼の鳥が放たれてゆく

 「耳」がわからない。津波によって破壊された古里。古里をおおいつくす様々なもの。それは「暮らし」を物語っている。第三者にはわからないけれど、たとえば「あかね色」の何か。それは「あかね色」というだけで誰の洋服とわかる。誰の食器とわかる。
 で、そういう「もの」を北村は「耳」ということばでとらえている。「色」は「眼」で見るのに、眼で識別するのに「耳」。
 これはどういうことだろう。
 私はしばらく考えてしまった。「ほりおこす」何かが「耳」である。なぜ「耳」?
 「耳」が出てくるたびに「月」から放たれるものは「白い翼の鳥」だという。その白い翼の鳥も眼で見るものだろう。眼で見たものだろう。なぜ「耳」?

 掘り起こされたものは何なのだろう。「色」を持っているが、それは何なのだろう。洋服であったり食器であったりと、私はさっき書いたのだが、それはいったい何なのだろう。
 しばらく考えて、ふと、それは「暮らしの証言者」だと気づいた。「暮らしの証言」だと気づいた。そこにあった「暮らし」。それを語っている。そして、それが「証言」ならば、それを聞くには「耳」が必要である。
 あ、そうなのか。様々なものを見つけ出しながら、北村はそのとき、そこで暮らしていた人の「声」を聞いているのだ。
 しかし、それならば、「耳」ではなく「口」を掘り起こすことではないのか。

 うーん。

 しかし、私の直感は「違う」という。私の本能は「口」ではない、という。そして、これは全体に「耳」でなければならないという。
 北村は確かに「証言」を聞いたのだ。そのとき北村の肉体は「耳」そのものになった。手で掘り起こし、眼で確認するのだが、「声」が聞こえた瞬間、北村の肉体は「耳」そのものになった。その衝撃があまりに大きいので、いま掘り起こしたものが「耳」そのものに感じられたのだ。北村自身の「耳」がそこからでてきたように感じたのだ。いや、そうではない。北村は自分の「耳」を掘り起こしたのだ。それまで北村に「耳」はあってもそれは耳ではなかった。何かを掘り起こしてその声を聞いたとき北村は「耳」になったのだ。
 「暮らし」のなかで人は語り合う。その「声」を聴きつづけた「耳」と北村の「耳」が一体になっている。「証言」を聞き取ることができるのは、そこで暮らした人の「耳」。そこで暮らした人がいつも話し合い、同時にそのことばを聞いていた「耳」。その「耳」に北村はなっているのだ。
 その「声」を聞くたびに、聞かれた「声」は自由になる。(こんなとき、自由といっていいかどうかわからないが--重い様々なもののなからか解放されて、ただひとつの「声」として何かを訴える。訴えることができることを、私はとりあえず「自由」と呼ぶのだが……。)

 何かを発見するとき、その発見とともに、その人の「肉体」のある器官は「肉体」のすべてになる。「肉体」の存在そのものを代表する。そうして、そういう「肉体」の「部分」になってしまうことで、何といえばいいのだろうか、対象に組み込まれていく。「自分の肉体」をはなれて「他者の肉体」に同化する。「一体化」する。私が「肉体」すべてであるとき、つまり「主人公」であるとき、それは「他者」の「肉体」の一部を引き受けることである。
 あ、ちょっと飛躍しているのだが。
 補足すると、たとえば道でだれかが倒れている。腹を抱えてうずくまり、うめいている。このとき私たちはその「他人の肉体」を見ながら「腹が痛いのだ」と思う。そのとき「他者の肉体」から「腹」を引き受け、それを「痛い」と感じるということが起きる。このとき私たちは道に倒れている誰かの「肉体」そのものを引き受けているわけではない。
 それとは逆のことが、北村のこの詩では起きているのだと思う。
 北村の肉体が「耳」に特化し(?)、それがいま掘り起こされた「他者」の何ものかのなかに受け入れられ、そこで「生きている耳」として、掘り起こされるものたちが語る「声」を聞くのだ。
 そしてこういう変化が「肉体」に起きるとき、それは「耳」にとどまらない。ほかの器官にも影響する。

舟の
かたちをした月から

白い翼の鳥が放たれてゆく

 「眼」はそれまで見ることのできなかったものを「見る」ようになる。「耳」がそれまで聞くことのできなかったものを「聞く」のと同じように、「眼」もまた新しい「眼」として生まれ変わる。
 北村は「頭」ではなく、「肉体」が呼びあう何かをきちんと把握できる詩人なのだと思う。「肉体」が「肉体」を呼吸する、という感じ。
 「空を殺める」という作品にもそういうことを感じた。

つくったばかりの
まだ乾いていない粘土の器を
つぶしてしまうことがあるのです

そんな時は
小さくすぼまった喉もとを
ひとおもいにしめるのです

うっ
ほそいくちびるから
かすかな息がもれます

空気がのこっていると
つくりなおした器に火を入れたときに
悲鳴のようなひびが走ってしまうから

ひととき器がほうばった空を
すっかりおしだすように
シゲオさんは
からだじゅうの重さをてのひらにあつめます

粘土のおくから
もういちど
てのひらをおしかえすものがやってくるまで

なんどもなんども
シゲオさんは空を殺めつづけます

 これは陶工・シゲオさんの動きを描写したものであるけれど、北村はそれを眼で見ているのではなく、手のひらとなって体験している。そして、そのときその手のひらは単なる「土」ではなく、生きている土の「肉体」に触れている。土の「のど」にもなれば、「内臓」のようなもの(外からは見えない何か)にも触れている。「肉体」そのものに触れている。そして、それを北村は「肉体のことば」として書いている。
 これは、とてもいい詩だ。




詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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佐川亜紀『押し花』

2013-01-09 10:10:56 | 詩集
佐川亜紀『押し花』(土曜美術出版販売、2012年10月20日発行)

 佐川亜紀のことばには独特の強さがある。硬さがある。そのために私の肉体にはすっとは入ってきてはくれない。ただし、その抵抗感(?)はきのう読んだ苗村吉昭の「頭」が肉体を支配しているという感じとはかなり違う。苗村の場合は、そのこだわり(数字のように客観的なもので肉体を定義していく)はあくまで「個人的(苗村的)」なのだが、佐川の場合は少し違う。佐川は「個人的」という感じで書いていると思うけれど、私は「個人的」という感じには受け取れない。
 微妙な言い方になるが、苗村の詩を読む場合、目の前に苗村がいて、そのことばが私の方にぐっと近づいてくるとき、私の肉体は思わず身を引いてしまう。佐川の詩の場合、そのことばは近づいてくるというより、私の肉体に対して「こっちへ来い」と誘う。私が近づいて行かないといけない。で、その「誘い」なのだが、肉体へ直接呼び掛けてくるような誘いならふらふらと肉体は動いていく(頭が「だめだ」と拒絶してもふらふらとついて言ってしまう)のだが、どうも違う。そこで私はとまどうのである。肉体への呼びかけというのは、「こっちへ来なさい」と同時に「こっちへ来てはだめだよ」という「矛盾」を抱え込んでいるのだが、佐川のことばは「こっちへ来なさい」と同時に「こっちへ来なくてはだめ」という命令(?)のようなものを含んでいて--うーん、これが、私のように軟弱な人間にはつらい。
 軟弱な人間というのは、「こっちへ来てはだめだよ」と言われると反対にその方へ行きたくなる。「こっちへ来ないとだめだよ」と言われると行きたくなくなる。「だめ」と言われることの方をしたがるのが軟弱な人間の「定義」なのだ。

 前置きが長くなったけれど。たとえば「花は時の手のひらを開く」という、ちょっと興味をそそられるタイトル詩。

花の柔らかい体には
時の闇と光が刻まれている
首を長くして
なつかしい方を望む

花の足を通った泥の流れ
夜の皮膚を何枚もはがし
朝の海をかき乱し
青い乳が流れる

 軟弱な(つまり、すけべな)私は「夜の皮膚を何枚もはがし」という行に反応して想像してはいけないことを想像する(だめと言われるとしたくなる、というのはこういうこと)。そうすると「花の足を通った泥の流れ」というのも凌辱された女の、暴力に汚れた足のように見えてくるし、「朝の海をかき乱し」も「そうか、夜通しそういうことがあったのか」と思う。「青い乳」は幾人もの男の精液かもしれない。
 そういうこともきっと踏まえて書いているのだろうけれど、それが次の連で、

爪を染めた鳳仙花の花びらは
異国の土地まで連れ去られ
初雪は軍靴に踏まれた

 こうなると、それは単なる強姦(レイプ)ではなくなるね。1連目の「時の闇と光が刻まれている」というときの「時」は、「個人的」な時間ではなくなる。もちろん「歴史」も「個人的」なものを除外しては歴史にならないのだけれど--個人がちょっと消えてしまう、個人が「集団」の一員になってしまうのが歴史というような気がして。「軍靴」の「軍」ということばが象徴的だが、「軍」には「個人」はない。「個人」の主張が乱立すれば「軍」は動けなくなる。
 さらに、

花は時の手のひらを開こうとする
手にこびりついた血の臭い
日本の私たちの罪が
赤い水時計の中で落ち続ける
解けない時は
氷のように固いままだが
日本の震災犠牲者に捧げた祈りは
空に高く広がる

光の方を向くもの
光に包まれるべきもの
その苦しみの言葉は
魂の新生の羽根を運ぶ

 「日本の私たちの罪」と言われても、私は困る。それは確かに「日本の罪」だろうけれど「私たち」のであるかどうか。そのことを私の「肉体」は納得しない。それを「わかる」のは「頭」であって、私の肉体はそれを「覚えていない」。
 ここがむずかしい。
 肉体で「覚えている(覚える)」ことには限界がある。「肉体」はひとつだからね。だからそれを「頭」で補いながら「知識」を増やしていかなければいけないというのはそのとおりなんだけれどね。
 でも、それを詩の世界にまで要求されてもねえ。
 佐川は要求などしていない、佐川自身がそうしたいからそうしているだけと言うだろうけれど。
 でも、そういう「頑張る佐川」を見ると、うーん、なんとなく自分の軟弱さが気にかかる。後ろめたくなる。「後ろめたさ」を「基準」にして動いてもいいのかもしれないけれど、うーん、私はやっぱり「好き」という欲望で動きたい。「してはだめだよ」ということをするのも「後ろめたい」よりも「それがどうしようもなく好き」ということなんだと思っている。
 佐川は、この詩で、「日本の私たちの罪」は罪として知った上で、それでも韓国の人たちが東日本大震災の日本の犠牲者に祈りを捧げているということに対して感謝し、その祈りから「魂の新生」がはじまると言っていると思うのだが。
 これって、「日本の私たちの罪」を「土台」に据えないことには(鳳仙花の咲く大地を描かないことには)、描けないものなのだろうか。なぜ、韓国の人たちの祈りを紹介するのに「日本人の私たちの罪」をわざわざ書かないといけないのか、それが私の「肉体」には納得できないのである。

 どんなことにも「歴史」がある。そして「歴史」があるかぎり、そこには「私たち」が存在する。「いま」という時は「いま」だけで存在するのではなく「過去」を持っている。「ここ」も「ここ」だけが存在するのではなく「広がり」を持っている。その時間と空間の「広がり」のなか、「連続」のなかで人間を見つめなおさなければならない。
 それはその通りだと思う。佐川は完璧に正しい。そして、その「正しさ」が私のような軟弱な人間にはつらい。軟弱な闇に隠れていないで、こっちの「正しさ」の方に出てきなさい、と言われても……「頭」はそのとき出ていくかもしれないけれど、「肉体」はきっと軟弱な闇に隠れてじっとしている。早く「頭」を解放してくれないかなあ、許してくれないかなあ、と思いながら肉体は我慢している。
 そういう感じがする。

 佐川のことばは、とても清潔ですっきりしていて気持ちがいい。一篇一篇を同人誌などで読む時より、こうやって一冊にまとまったものを読むと特にその美しさが際だってくる。どこまで言っても汚れないことばは、それが佐川の「肉体(思想)」になっているということを教えてくれるけれど--それは私の「肉体」とはぴったりあうという感じではない。変な言い方だけれど、佐川の「ことばの肉体」と私の「ことばの肉体」はセックスができない。佐川の「ことばの肉体」の前では私の「ことばの頭(?)」は、教えを受ける「生徒(児童かもしれない、園児かもしれない)」になってしまうのである。
 佐川の書いている「ことばの肉体」は、「先生」の会話にまかせてしまいたい、というような気がしてくる。







押し花―佐川亜紀詩集
佐川 亜紀
土曜美術社出版販売
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苗村吉昭「意識のケヤキ」

2013-01-08 09:38:37 | 詩(雑誌・同人誌)
苗村吉昭「意識のケヤキ」(「歴程」582 、2012年12月20日)

 苗村吉昭「意識のケヤキ」を読んで体がぞくっとなった。体の芯が反応してしまった。近づいていっていいのか、遠ざかるべきなのか。そういう恐怖心が稲妻のように体の芯で光った。

この宿泊所には都合三回やってきている
滞在期間が三日のときも一年のときもあったが
俺はそのたびに似ているが違う部屋をあてがわれた
一度目はこの棟の五〇五号室
二度目は大きなケヤキの木を挟んだ向こうの棟の四一八号室
そしていま俺は六六二号室の鍵を開け荷物を降ろした
俺はケヤキの葉を通して四一八号室を覗き見た
よくは見えないが誰かが微かに動いている
そう
一年間の俺は確かにあそこにいたのだ
俺は四一八号室からケヤキの葉を通して何度もこの部屋を見ていたはずだ
このとき俺は奇妙な感覚に捕らわれたのだ
四一八号室の俺は過去の五〇五号室のことを認識しているが未来の六六二号室のことは知らない
しかし四一八号室の俺は予感のように六六二号室の俺を見上げ日々を送っていた
六六二号室の俺は懐かしむように四一八号室を眺め五〇五号室思い出している

 私は何が怖かったのか。「五〇五号室」「四一八号室」「六六二号室」ということばの「数字」が怖いのだ。部屋があればその部屋に番号がある。それだけのことかもしれないが、その部屋を思い出すのに、はっきりと「五〇五号室」「四一八号室」「六六二号室」と数字を繰り返すということが怖いのだ。
 途中に「一年間の俺は確かにあそこにいたのだ」という行がある。その「あそこ」は私は怖くない。「あそこ」というとき、動いているのは「肉体」である。ほかのことばにしなくても「あそこ」ではっきりとわかるし、「あそこ」だけで、そのときのあれこれを思い出すことができる。体が覚えている「こと」と「あそこ」はしっくりなじむ。
 そして、その「なじむ」感じは、その前の行の「よくは見えないが誰かが微かに動いている」の「よく見えないが」に通じるものがある。「よく見えない」けれど、それが「わかる」。つまり「よく見えなくても」納得できる。体で反応してしまう。
 ここまでは怖くないのである。ところが、

俺は四一八号室からケヤキの葉を通して何度もこの部屋を見ていたはずだ

 ここから、急にぞくっとしはじめる。

俺は「あの部屋」からケヤキの葉を通して何度もこの部屋を見ていたはずだ

 なら、たぶん、ぞくっとはしない。「あの部屋」から「この部屋」を見ていた。それは「肉体」のなかにはっきり「覚えている」感じがする。ところが「あの部屋」ではなく「四一八号室」になるととたんに「肉体」が消える感じ、肉体の持っているあいまいさ、いいかげんさが拒絶された感じになる。これが怖い。
 さらにそのあと「四一八号室」「五〇五号室」「六六二号室」という具合に、部屋が厳密に特定され、そこから「過去」「未来」というものが出てくる。

四一八号室の俺は過去の五〇五号室のことを認識しているが未来の六六二号室のことは知らない

 うーん。苗村にとって「過去」「未来」は私の感覚とはまったく違っているのだと思う。「時間」の感覚が違っているのだと思う。
 この詩には明確には書かれていないが、「五〇五号室」にいた「過去」と、「四一八号室」にいた「過去」というものが苗村にははっきり区別されている。まあ、それはほかの人にも区別されるものかもしれないけれど--私が言いたいのは、「五〇五号室」にいた「過去」を思い出す(A)、「四一八号室」にいた「過去」を思い出す(B)とき、わたしの場合にAのB距離(?)が同じになる。思い出す「こと」というなかにのみこまれて、違う時間なのだけれど、それを「思い出す」とき、「いま」と「あのとき」、「いま」と「そのとき」の距離の差がない。空間化できないというか「過去A-過去B-いま」と線上に記す具合には「肉体」のなかにおさまらない。でも、苗村は「部屋」を番号で区別するように、きっと「過去」も「番号」を割り振るかなにかするように区別してるんだろうなあ、と思う。その「番号」と「部屋の番号」はきっちりと「一体化」する。
 言いなおすと、そのとき「一体化」しているのは苗村の「肉体」と「時間」、苗村の「肉体」と「部屋」ではなく、肉体よりも「時間」と「部屋の番号」の方である--そういう気がする。だからこそ「部屋の番号」を正確に書かずにはいられないのだ。「あの部屋」「この部屋」「別の部屋」ではきっとだめなのだ。
 それが、なぜか、とても怖い。

そうだ
現在・過去・未来は同時に存在しながら意識のポジションを移行させているに過ぎない
ケヤキの葉が手招きするように風に揺れている
俺はそれぞれの部屋の眼になり現在・過去・未来が照応するの声を聞いた

 「現在・過去・未来は同時に存在」する。ただし、それは苗村の「肉体」のなかで「一体化」して存在するのではなく、「それぞれの部屋」と「現在・過去・未来が照応する」のである。それが「意識のポジションを移行させている」ということなのだろうけれど--私の場合、意識のポジションは移行しない。同時に存在するものは同時に存在するのであって、それを「意識」の操作で別々にはしない。けれど苗村はそれを別々にする。それが怖い。なぜかというと、意識を移行するとき、それにあわせて肉体も変化する。つまり、「眼」は苗村の「肉体」から離脱して「それぞれの部屋の眼」として存在する。--肉体も「ひとつ」の肉体としてそこにあるのではなく、機能の器官として独立し、「空間」として存在し、「時間」として存在する。この感覚が怖い。自分の肉体がいくつにも分裂して離れていくという感じが怖い。
 「意識」ということばが象徴的だが、これは「意識」の詩なのである。そして、その意識というのは、何か「肉体」を拒絶し、「頭脳(論理・思考)」と合致する。肉体は切断さればらばらになるかわりに(肉体の分離を犠牲にして)意識は連続する。「意識の連続」が苗村にとって「肉体の連続(肉体はひとつ)」よりも優先する。それが怖い。
 「あの部屋」「この部屋」「別の部屋」と「あのとき」「このとき(いま)」「別のとき」という表現では他人にはわからないけれど自分にはわかるからそれでいい--と私などは思ってしまうが、苗村はそうではないのだろう。それぞれをきちんと他人と共有できる「番号」のように客観的なものとして握り締めないと「事実」をつかんでいる気持ちになれないのだろう。
 そのことに、私は、ぞくっとしてしまったのである。
 私はよく一センチの円に内接する正千角形と正九九九角形は肉体では区別できない、それは「頭」でしか区別できないというようなことを書くが--ああ、この「比喩」は苗村には通じないなあ、と感じ、それが怖いのである。一センチの円に内接する正千角形と正九九九角形は意識(頭脳)に区別できる限り、それは肉体でも識別できるはずであると主張されそうで、怖いのである。




エメラルド・タブレット
苗村 吉昭
澪標
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