監督 ジャンニ・アメリオ 出演 ジャック・ガンブラン、カトリーヌ・ソラ、ドゥニ・ポダリデス
カミュの自伝(?)というか、カミュを描いた映画である。
カミュよりも、その周囲の人間、特に祖母がとても印象的である。厳格である。家長として一家を支配している。カミュはその祖母のもとで母と叔父(母の義弟)といっしょに暮らしている。父はカミュが生まれてすぐに戦死している。
私はカミュを真剣に読んだことがないので間違っているかもしれないが、あの切り詰めたような文体は祖母の正直の影響を強く受けていると思う。
忘れられないシーンに、カミュが肉代をくすねて雑誌を買うエピソードがある。祖母が肉が少ないと肉店に苦情を言いにゆく。その帰り道、カミュは実はトイレでお金を落として、それで肉が少なくなったと嘘をつく。祖母はカミュに店に誤りにゆけと命じる。ここで終わるのではない。祖母はカミュがお金を落としたというトイレへゆき、汚物のなかに手を突っ込み、金を探そうとする。そこには生きることの「正直な真剣」がある。「もの」はなくなりはしない。持っているもの(存在するもの)は必ずそこにある。あるべきところにある。金だけではなく、あらゆるものはなくならない。人間性、人間の「本質」というものは、なおさらである。
人間の本質は奪い去ることができない、暴力では略奪できない、と考えるとカミュに近づくことになるかもしれないが、そこまではこの映画は言わない。だが、どぎまぎしてしまう。この正直には、思わずどきりとする。カミュは祖母の姿を見ながらシャツの下に隠した雑誌をそっと捨てる。祖母の正直に触れて、さらに正直になることができなかった。そういう「負い目」のようなものが、祖母をとても美しく輝かせる。
さらに、教師がカミュの家にやってくる。進学を勧めるためである。夜。家には電気がない。ランプの明かりのなかで、祖母が「あいにくこのあたり一帯が停電になってしまった」と言う。これは嘘である。だれもがわかる嘘である。嘘とわかっても嘘をつく。その嘘のなかにある「ほんとう」。電気がなくても「生きていける」という「ほんとう」があり、祖母はその人間の「尊厳」のようなものを守ろうとする。祖母は生きることの「尊厳」を知っている。「生きている」ということはそれがどんな暮らしであろうとはずかしいことではない。尊ばれることなのだと祖母は「知っている」。その知っていることをカミュは肉体にたたき込まれたのだと思う。嘘を突き破る「尊厳」と「正直」が人間の「肉体」の奥でつながっているということをカミュたたき込まれたのだと思う。
似たようなエピソードに祖母とカミュが映画を見るというのがある。当時は無声映画。字幕で台詞が出る。祖母は文字が読めない。だから字幕をカミュが読むのだが、まわりから「静かに」と注意される。そのとき、祖母は「眼鏡を忘れてきた(ので字が読めない)」と主張する。ここには「ことば」と「真実」の乖離がある。そして、このときの映画というのはちょっと複雑な恋愛もの(タイトルは私にはわからない)で、スクリーンの二人が恋人かいとこかよくわからない。それを祖母がカミュにどっちなんだと聞く。カミュはこたえられない。そのことを叱られる。「何もわかっちゃいない」と。
これはなかなか手厳しい指摘だが、祖母の「正直の真剣」と「人間関係の表面」とをぶつけて考えると、非常に哲学的なテーマが浮かび上がってくる。人間の関係はときには表面的である。そこでおこなわれていることは第三者にはわかりにくいことがある。しかし、それではその第三者がおこなっていることのなかに「正直」がないかというと、そうではない。「正直」が見えにくいのだ。それは、もしかすると見ている私(カミュ)が正直ではないからかもしれない。「正直」に到達していないからかもしれない。
これに関係するエピソードに、アラブ人の級友とのけんかがある。アラブ人はカミュを批判して「先生におべっかをつかっている。オトコオンナだ」という。そのけんかを先生にみつかる。先生が「どっちが先に手を出した」と質問する。級友が「私です」と手を上げる。そのことにカミュは驚く。そのことからカミュは級友を尊敬することになる。けんかというものは、どちらが先に手を出したかなど実はわからない。級友はカミュをからかい、背中から押さえつけたかもしれない。けれど殴ったのは? カミュかもしれない。どっちでもいい。級友は自分の「正直」をきちんと言うことができた。そのことによって人間としての尊厳を守った。そのことが大切なのである。このことをカミュはしっかり覚えている。
そして、この「正直の真剣」と「人間関係の表面」の問題は、最後に別の形で表現される。カミュは老いた母にフランスへ行こうと誘う。アルジェリアは危険をはらんでいる。だが、母親は拒む。なぜか。フランスにはアラブ人がいない。つまり、母親はアラブ人といっしょにアルジェリアで生きていたいのである。なぜか。これは私の推測にすぎないが、アラブ人がいる、絶対的な他者が自分のそばにいるということが彼女を「正直」にさせるからだ。絶対的な他人の前では嘘は通じない。「正直」だけでわたりあう。「正直」であるかぎり、人間は誰とでもわたりあえる、つまり共生できる。フランスへ行ってフランス人だけとの暮らしになれば、「正直」の度合いが違ってくる。それは自己の尊厳を守って生きるということの真剣さが違ってくるということだ。祖母といっしょに生きることで、母もまた「正直」の血を引き継いだのだ。血はつながっていないが「生き方」という血は誰にでも引き継がれるのである。
この映画のタイトルの「最初の人間」とは、カミュが生まれたとき、産婆が父親に対して「最初の子供か」と質問し「そうだ、最初の子供だ」というところから取られているのだが、映画を見終わったあとでは、「最初の人間」とは「正直」をつかんだ人間という句具合に見えてくる。だれでも「正直」をつかむことで、自分自身で「最初の人間」になることができる。そう教えてくれる。だから、見終わった瞬間、よしカミュを読もう--そういう気持ちにさせられる映画である。自分の「正直」をつかみだすために何をしなければいけないのか考えよう、そう思う映画である。
(2013年01月18日、KBCシネマ2)
カミュの自伝(?)というか、カミュを描いた映画である。
カミュよりも、その周囲の人間、特に祖母がとても印象的である。厳格である。家長として一家を支配している。カミュはその祖母のもとで母と叔父(母の義弟)といっしょに暮らしている。父はカミュが生まれてすぐに戦死している。
私はカミュを真剣に読んだことがないので間違っているかもしれないが、あの切り詰めたような文体は祖母の正直の影響を強く受けていると思う。
忘れられないシーンに、カミュが肉代をくすねて雑誌を買うエピソードがある。祖母が肉が少ないと肉店に苦情を言いにゆく。その帰り道、カミュは実はトイレでお金を落として、それで肉が少なくなったと嘘をつく。祖母はカミュに店に誤りにゆけと命じる。ここで終わるのではない。祖母はカミュがお金を落としたというトイレへゆき、汚物のなかに手を突っ込み、金を探そうとする。そこには生きることの「正直な真剣」がある。「もの」はなくなりはしない。持っているもの(存在するもの)は必ずそこにある。あるべきところにある。金だけではなく、あらゆるものはなくならない。人間性、人間の「本質」というものは、なおさらである。
人間の本質は奪い去ることができない、暴力では略奪できない、と考えるとカミュに近づくことになるかもしれないが、そこまではこの映画は言わない。だが、どぎまぎしてしまう。この正直には、思わずどきりとする。カミュは祖母の姿を見ながらシャツの下に隠した雑誌をそっと捨てる。祖母の正直に触れて、さらに正直になることができなかった。そういう「負い目」のようなものが、祖母をとても美しく輝かせる。
さらに、教師がカミュの家にやってくる。進学を勧めるためである。夜。家には電気がない。ランプの明かりのなかで、祖母が「あいにくこのあたり一帯が停電になってしまった」と言う。これは嘘である。だれもがわかる嘘である。嘘とわかっても嘘をつく。その嘘のなかにある「ほんとう」。電気がなくても「生きていける」という「ほんとう」があり、祖母はその人間の「尊厳」のようなものを守ろうとする。祖母は生きることの「尊厳」を知っている。「生きている」ということはそれがどんな暮らしであろうとはずかしいことではない。尊ばれることなのだと祖母は「知っている」。その知っていることをカミュは肉体にたたき込まれたのだと思う。嘘を突き破る「尊厳」と「正直」が人間の「肉体」の奥でつながっているということをカミュたたき込まれたのだと思う。
似たようなエピソードに祖母とカミュが映画を見るというのがある。当時は無声映画。字幕で台詞が出る。祖母は文字が読めない。だから字幕をカミュが読むのだが、まわりから「静かに」と注意される。そのとき、祖母は「眼鏡を忘れてきた(ので字が読めない)」と主張する。ここには「ことば」と「真実」の乖離がある。そして、このときの映画というのはちょっと複雑な恋愛もの(タイトルは私にはわからない)で、スクリーンの二人が恋人かいとこかよくわからない。それを祖母がカミュにどっちなんだと聞く。カミュはこたえられない。そのことを叱られる。「何もわかっちゃいない」と。
これはなかなか手厳しい指摘だが、祖母の「正直の真剣」と「人間関係の表面」とをぶつけて考えると、非常に哲学的なテーマが浮かび上がってくる。人間の関係はときには表面的である。そこでおこなわれていることは第三者にはわかりにくいことがある。しかし、それではその第三者がおこなっていることのなかに「正直」がないかというと、そうではない。「正直」が見えにくいのだ。それは、もしかすると見ている私(カミュ)が正直ではないからかもしれない。「正直」に到達していないからかもしれない。
これに関係するエピソードに、アラブ人の級友とのけんかがある。アラブ人はカミュを批判して「先生におべっかをつかっている。オトコオンナだ」という。そのけんかを先生にみつかる。先生が「どっちが先に手を出した」と質問する。級友が「私です」と手を上げる。そのことにカミュは驚く。そのことからカミュは級友を尊敬することになる。けんかというものは、どちらが先に手を出したかなど実はわからない。級友はカミュをからかい、背中から押さえつけたかもしれない。けれど殴ったのは? カミュかもしれない。どっちでもいい。級友は自分の「正直」をきちんと言うことができた。そのことによって人間としての尊厳を守った。そのことが大切なのである。このことをカミュはしっかり覚えている。
そして、この「正直の真剣」と「人間関係の表面」の問題は、最後に別の形で表現される。カミュは老いた母にフランスへ行こうと誘う。アルジェリアは危険をはらんでいる。だが、母親は拒む。なぜか。フランスにはアラブ人がいない。つまり、母親はアラブ人といっしょにアルジェリアで生きていたいのである。なぜか。これは私の推測にすぎないが、アラブ人がいる、絶対的な他者が自分のそばにいるということが彼女を「正直」にさせるからだ。絶対的な他人の前では嘘は通じない。「正直」だけでわたりあう。「正直」であるかぎり、人間は誰とでもわたりあえる、つまり共生できる。フランスへ行ってフランス人だけとの暮らしになれば、「正直」の度合いが違ってくる。それは自己の尊厳を守って生きるということの真剣さが違ってくるということだ。祖母といっしょに生きることで、母もまた「正直」の血を引き継いだのだ。血はつながっていないが「生き方」という血は誰にでも引き継がれるのである。
この映画のタイトルの「最初の人間」とは、カミュが生まれたとき、産婆が父親に対して「最初の子供か」と質問し「そうだ、最初の子供だ」というところから取られているのだが、映画を見終わったあとでは、「最初の人間」とは「正直」をつかんだ人間という句具合に見えてくる。だれでも「正直」をつかむことで、自分自身で「最初の人間」になることができる。そう教えてくれる。だから、見終わった瞬間、よしカミュを読もう--そういう気持ちにさせられる映画である。自分の「正直」をつかみだすために何をしなければいけないのか考えよう、そう思う映画である。
(2013年01月18日、KBCシネマ2)
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