詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「服になる」

2014-06-25 15:04:04 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「服になる」(「地上十センチ」7、2014年06月20日発行)

 和田まさ子「服になる」は鏡の前で、きょうはどの服にしようか、思い悩む詩。「水色のワンピース/白いTシャツにジーンズ」「インド綿のチュニックとスパッツ」と試してみるのだが……

どんな服を着てみても
似合わない気がする
服の空気感がよどんでいる
肌にさっぱりした風が通らない
腐った自分にしかなれていない

 うーん。
 私はだいたい鏡を見ない。見るのは鬚を剃るときだけである。
 で、ここに書かれている「似合わない」というという感じがだんだん変質(?)していく過程が、よくわからない。
 と言いたいのだけれど。
 いやあ、おもしろい。「服の空気感」か。へえーっ、そういものがあるのか。風が通らない、なんていうのは「素材」の問題じゃないのか。服に空気が通らないと「腐った自分」に「なる」のか。
 そうか、それは、服のせいか、と突っ込みたくなるが。
 「服の空気感」か、「よどんでいる」か、……「腐る」か。
 わからないのに、服が気に食わない、いやな気分でいる和田の「肉体」が見えてきて、私の「肉体」に重なる感じがする。

 このあと、和田は、これを別のことばで言い換えている。

あれの蓋とこれの蓋をまちがえた
ぐるぐる蓋をまわしても
永遠にぴったり合わない
まちがった蓋が空をふさぐ日がある
身体と服との関係がそんなふうだ

 瓶の(?)蓋の比喩。わかるけれど、わからない--なのか、わからないけれど、わかる、なのか。私は読みながらちょっと混乱した。わかる、わからないの前に、おもしろいと思った。その「おもしろい」はもちろん「わかる」からおもしろいのだけれど……。
 まちがった蓋を私は「永遠に」まわしたりしない。でも、そのすれ違いが「永遠」であることもわかって、ちょっと困るね。
 こういう困惑のなかで、私の「肉体」はますます和田の「肉体」に重なっていく。うまくことばにできないものが、かってに動いていって、「肉体」を納得してしまう。ことばなんて、あとだしじゃんけんのようなもので、「説明」は強引に書いてしまえば書けるのだろうけれど、それは「にせもの」。うさんくさい。ことばになる前の「肉体」の親近感の方が「ほんもの」だと私は思っている。(ので、こんなふうに、あいまいな、ことばにならないことをごちゃごちゃと書いて、書きながら、それがことばに整っていくのを待っている。)
 詩にもどる。
 「蓋が空をふさぐ」も考えはじめると、変だけれど。でも、そのことばを読んだとき、私は瓶になっていて、瓶のそこから空を見つめて、「おーい、その蓋、まちがっているよ」と声を出していたりする。私の「肉体」はいつのまにか、瓶になって蓋に苦情を言っている。
 ふわーっとした感じで、どこかへ紛れ込んでしまった感じ。「どこか」がはっきりしないから、ますます「肉体」(ことば以前の感覚の場)が一体になっていく感じ。
 
 なんだかうまく言えないけれど、これ、好きだなあ、と思う。
 服のことしか書いていないのだけれど、なぜか「肉体」が見える感じがする。「暮らし」が見える感じがする。「生きている」感じがする。そして、その「生きている」が、「肉体」の外の方へまで広がっている。
 「肉体」の内部に「生きている」があるのではなく、「肉体」の外の方に「生きている」があって、それが和田以外のものと触れ合って、すれ違って、動いている。(和田は「身体」ということばをつかっているけれど、私はなぜが、この「身体」ということばになじめないので、勝手に言い換えている。--たぶん、和田の言う「身体」と私の書いている「肉体」は違うのだと思う。)

 こんなとき、どうするのかな?
 和田はどうするのかなあ。

そこで
鏡に背を向けると
わたしは服になり
わたしの身体はからっぽになった

インド綿のチュニックになってみると
服の縦糸と横糸の間を風が通っていく
布がインドの夢を見ている
わたしはインドの生まれだった
川で布が洗われたときの暑さと冷たさがよみがえる
あのときくっきりとした夕陽が染料の赤色を濃くした
世の中でもっとも美しい色彩の布なのだ

 あ、驚くねえ。「わたしは服になり」か。和田はだいたい何でもなってしまう詩人で、そこがいつもおもしろいのだが、服になったとき「わたしの身体はからっぽになった」とある。--えっ、からっぽ?
 何かになることは「身体」が「からっぽ」になることなのか。
 ここでの「身体」はたしかに「身体」なんだろうなあ。私は「肉体」がからっぽになると感じたことも、考えたこともないので、こんなふうには書かないなあ。--ここをていねいに追いかけていけば和田の「身体」と私の「肉体」の違いが浮かび上がるのだろうけれど、きょうは省略。ほかのことを書きたい。私の「肉体」は和田の「肉体」と違って、「からっぽ」にならずに、他の何かになって充実するんだけれど……。
 で、その「からっぽの身体」は脇においておいて。違いは違いとして、脇においておいて、おもしろいと思ったことを書きつなごう。
 インド綿の描写が清潔でおもしろいなあ。インド綿になってみたい気持ちにさせられる。川で洗われ、夢を見てみたい。夕陽に染められてみたい。「世の中でもっもと美しい色彩」になってみたいなあ。どんなに幸せだろう。もう、このときは私の「肉体」はほとんとインド綿の「肉体」そのもの。写真でしか見たことがないが、夕日に染まったガンジス川のなかでゆっくりと美しい色に染まっている。布であることを忘れて「色」その「肉体」になっているかもしれないなあ。

 しかし、不思議だなあ。
 和田の詩を読むと、私はいつでも、そこに書かれている「もの」になってみたい気がする。「壷」だったり「金魚」だったり「あめんぼう(ミズスマシだったかな?)」だったりするのだけれど。そのときは和田のことは忘れてしまっているのだが……。

 「なる」。何かに「なる」ということは、どういうことかなあ--と思っていると。

わたしは布であり
身体はもはや人ではない
それは
ぴったり蓋のあった世界。

 「なる」とは和田にとって基本的に「身体(ひとの身体)」ではなくなるということ。これは実によくわかる。「からっぽ」で私は一瞬、和田の「肉体」を見失ったけれど、「蓋」が出てきたので、また和田の「肉体」に出会えた感じがした。
 ここに「蓋」の比喩が出てくるのは、

あれの蓋とこれの蓋をまちがえた
ぐるぐる蓋をまわしても
永遠にぴったり合わない
まちがった蓋が空をふさぐ日がある
身体と服との関係がそんなふうだ

 という前の比喩があるからなのだが。
 ね、(何が「ね、」なのか、説明は難しいが、こういうつかい方をするねえ。)
 この比喩のとき、和田も瓶になっていたのだ。和田の「肉体」は、はっきりとは書かれていなかったか、瓶の「肉体」になり、瓶のそこから上を見上げていた。蓋を見ていた。そのとき、その瓶は「からっぽ」だった。からっぽだから、和田はその瓶に入ることができた。
 その「からっぽ」の記憶が、「肉体」のどこかにのこっていて、それが鏡に背を向け、服になったとき、和田の「肉体」を揺さぶったんだろうなあ。

 あ、こんなことは書いていない?
 でも、気にしない。私は、そうやって強引に、詩をひっくり返しながらことばを読むのだった。



わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
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池井昌樹『冠雪富士』(4)

2014-06-25 10:38:11 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(4)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「手の鳴るほうへ」は、母を思い出す詩。

それはきれいなおつきさま
あんたも みてみ
でんわのむこうでいなかのははが
むすこはははのとなりにすわり
それはきれいなおつきさま
かたをならべてみあげていたが

 ことばはすべてわかるが、状況はちょっとわかりにくい。いろいろなことを想像できる。田舎の母が「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」と電話をかけてきた。その電話をとりながら、池井は「はははのとなりにすわり/それはきれいなおつきさま/かたをならべてみあげていた」ときのことを思い出したのか。いま、いっしょに肩を並べて座って月を見上げているわけではないだろう。
 そのことを、まるで「いま」のように思い出してしまうのは、それが池井にとって大切な思い出だからだ。母にとってもとても重要な思い出だ。だから、ついつい昔と同じ口調で「それはきれいなおつきさま/あんたも みてみ」と言う。
 ひとつのことば(声)のなかで、ふたりがいっしょになっている。
 けれど、現実は違う。

そんなうそならもうたくさん
としおいたははおきざりにして
むすこはこんやものんだくれ
ホームのベンチでよいつぶれ
ゆめみごこちできいている
おきゃくさん
さいごのでんしゃ でましたよ

 電話で話したことさえ「いま」ではない。でも、その電話で話した「いま」と、昔いっしょに月を見た「いま」がくっついて離れない。電話で話した「いま」さえも、昔いっしょに月を見た「いま」なのだ。「時」と「時」のあいだ、「時間」は消えて、「いま」だけが池井のとなりに肩を並べている。

 こんなことは、私がごちゃごちゃ書かなくても、読めばわかること。
 でも、どうして、それがわかるんだろう。
 ときどき思うのだが、「時」と「時」の「あいだ=時間」を忘れてしまうのは、池井の表記方法「ひらがな」と「七五調(五七調)」も関係しているかもしれない。「意味」「論理」をきっちりと整理する前に、ことば全体をながれる何かにのみこまれて、「意味」「論理」というものを忘れるのかもしれない。

 でも、それを「意味」「論理」を忘れ、「時間(時と時のあいだ)」を忘れ、「いま」がいつなのか、ここで書かれていることが「いつ」のことなのか忘れたとしても、忘れてはならないことばがある。

あんたも みてみ

 「あんたも」の「も」。この「も」の不思議な静かさ。「池井も」と意味は簡単だが、「も」のとなりにはだれがいる? 父や姉も見ている、だからあんた(池井)も見てみろ、なのか。そうかもしれないけれど、それよりも「私(母)は見ている」、だから「あんたも」なのだ。「も」は省略された「私(母)」を語っている。
 そして、その「省略」のなかには、日本語のリズムと同じように、長い時間をかけてつづいてきた愛がある。私(母)は月を見てきれいだと思う。だから、あんた(池井)も「一緒に」見ようよ、の「一緒に」という誘いかけがある。
 「も」のほんとうの「主役(主語?)」は、この「一緒に」かもしれないなあ。
 「一緒に」こそが、池井の詩では、いつも隠れているのかもしれない。省略されているのかもしれない。

 時と時の「あいだ」が消えるように、いつも何かが省略されている。省略されているけれど、それは存在しないわけではない。存在があまりにもなじみすぎていて、書く必要を感じない。省略されているのではなく、くっきりと存在している。
 時と時の「あいだ」は消えてなくなったようであっても、いつも存在しているのと同じように、人が人と結びつき、そのときできた「あいだ(関係/つながり)」は遠く離れてしまって消えたように感じるときでさえ、いつも存在していて、それが存在しているがゆえに、「あいだ」のなかに「一緒」があらわれる。「一緒」が母を引き寄せる。

やれやれまたか どっこいしょ
こしにてをあてみあげれば
それはきれいなおくいさま
むすこはひとりいずこへと
--あんよはじょうず
  てのなるほうへ

 引き寄せられた「母」はいつでも池井を見つめている。いつでも、どこでも、池井を見つめている視線がある。見守られていると感じる池井のかなしみ、切なさがある。うれしいから、かなしい。うれしいから、せつない。


眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(95)

2014-06-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(95)          

 「アンナ・コムニニ」は長詩『アレクシアデス』に登場するアンナ・コムニニの描写に対するカヴァフィスの不満を書いている。夫が死んでしまって、王妃は「わが眼を涙の河にゆあみさせつつ/わが人生の波高きをなげき」という具合に描写しているのだが、

ほんとう? そうぉ? この権力亡者の女が?
あいつの問題にする悲しみはただ一つ、
自認しなくてもいいさ、この傲慢なギリシャ女の
身をよじらせる痛みとはこれ。
手練手管を尽くしたあげく
ついに玉座に手が届かずじまい。
ヨアネス、けしからぬ、あわやのきわに横取りしおって。

 第三者の立場から「ほんとう? そうぉ? この権力亡者の女が?」とはじまって、それが客観的な見方ではなくなる。いつのまにかアンナ・コムニニのことばになってしまう。そのことばの動き、変化がおもしろい。
 口語の力が大きいのだと思う。
 「ほんとう? そうぉ?」というカヴァフィスの無防備な疑問。「この権力亡者の女」という強烈な批判、「あいつの問題にする悲しみはただ一つ」と冷徹に分析に向かう。冷徹ではあっても、それは慎重というのとはかなり違う。口語のスピードで、ぐいぐいと動く。動かしているうちに、カヴァフィスの声が、アンナ・コムニニの声になってしまう。そして、そのことばの「切り替わり」のスイッチのようなところに、

身をよじらせる痛みとはこれ。

 「痛み」ということばが動くところが、とてもいい。
 「悲しみ」というのは肉体に直接響いて来ないが、「痛み」は直接的だ。他人の悲しみよりも痛みの方が肉体を刺戟する。他人の痛みを感じた瞬間、それは自分の痛みになる。道に倒れて、誰かが腹を抱えて呻いていたら「腹が痛いのだ」と感じるように、「痛み」は「肉体」の「自他」を忘れさせる。自分の「痛み」を思い出して、他人を見て「腹が痛い」のだと思う。
 で、「痛み」を通って、カヴァフィスはアンナ・コムニニになり、「横取りしおって」というような口語を動いてしまう。この口語の動きがなまなましい。強靱だ。
 「けしからぬ」は人前でも言うだろうが、「横取りしおって」の「しおって」は王妃のような立場の人間が言うことばではない。しかし、人前では(公式には)言わないが、非公式の、つまり「こころの声」では、俗語まるだしになる。
 口語、俗語によって、感情が共有されていく。中井久夫の訳は、こういう感情の共有を促す「俗語(口語)」のつかい方がとても巧みだ。読者の感情を煽るように動く。
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池井昌樹『冠雪富士』(3)

2014-06-24 10:20:23 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(3)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「秋刀魚」については、雑誌に発表されたときに感想を書いた。特に付け加えたいことがあるわけではない。いや、前に何を書いたか忘れてもいるのだから、付け加えるとか、修正するとかということではないのだが、ふと、全篇にもう一度つきあってみようかな、という気持ちになっている。

 「谷川俊太郎の10篇」というシリーズを書き終わって、あ、書き漏らしたなあと思ったことがある。
 谷川の詩の行には、ものすごく独創的なことばの動かし方があるわけではない。
 シェークスピアの芝居を見たある人が「シェークスピアは決まり文句だけで芝居を書いている」と言ったそうだが、谷川の詩も、ある意味では「決まり文句(誰かがどこかで言っていることば)」で成り立っている。少女のことばだったり、母親のことばだったり、老人のことばだったり、無邪気な子どものことばだったり。
 そういうことばを読みながら、私は何をしているかといえば、自分自身のことばを整えなおしている。あ、こういう言い方があったなあ、と。そして、そのときの気持ちはこうだったんだ、と思い出している。谷川のことばをつかって、自分の体験を思い出し、それを語るためのことばを整えなおしている。こういう整え方がいいなあ、と感じている。
 それは、こういう言い方が好きだなあ、というのに似ている。
 そして、ことばを整えるというのは、生活を整えるのに似ている。私はほとんど毎日、朝起きると犬の散歩に行き、帰って来て朝食を食べ、新聞を読み終わってから、こうやってパソコンに向かって詩の感想を書いている。目が悪いので、タイマーをかけながらというのが、まあ、私の独自のスタイルだけれど、それを繰り返している。午後から仕事に行く。--この整え方は、他人にはつまらないだろうけれど、私には向いている。この繰り返しが好きだ。好きな詩を読んで、思ったことを好き放題に書いている。
 この繰り返しの生活に「意味」がないのと同じように、私は詩のことばにも「意味」なんてないと思っている。それが好きで、それを読むだけ。それに合わせて自分のことばを動かしてみるだけ。そして、そのとき整っていく「息」のようなものをいいなあと感じ、それで満足。
 「意味」はあとから適当に考える。「意味」が思いつかなくても気にしない。むりやり作り上げたりはしない。見つからなかった、と書いておくだけだ。

 脱線したが。
 「秋刀魚」という詩は、池井が働いている書店を舞台にしている。どうも近くに大きな書店ができるので、さてこれからどうしようというようなことを経営者が話している。それを耳にはさむ。

なにやらおかねのはなしをはじめ
ひそひそぼくのはなしをはじめ
からだぜんぶがみみになり
つむりたくてもつむれずに
ぼくはみもよもなくなって
のどのおくからにがいつば
いっしょけんめいはたらいた
こんなにこんなにがんばった
のに

 あ、この感覚。
 あるでしょ? 会社や何かで。一生懸命働いた、一生懸命がんばった、それなのに誰かがひそひそと自分のことを言っている、そのときの「……のに」と思わず動くことば。
 なんだろうね、この「のに」。
 学校なんかでは教えてくれない。だれものが言うのに、「いっしょけんめいはたらいた/のに」「こんなにこんなにがんばった/のに」。「のに」で言いたいのは、なぜ、自分は報われないのだろう、かな? でも、そこまでは口に出しては言えない。ほかの人だって一生懸命働いて、がんばっているのがわかるからね。言いたいけれど、言えないことばがある。その言えないは、ただ口に出せないだけではなく、ほんとうは、まだことばになりきれていないからだね。「なぜ報われないのだろう」だけではない、もっと違うことばも動いていて、それが単純に「なぜ報われないのだろう」という怒りにつながらない。悲しみや無念ともつながって、肉体の奥に沈んで行く。
 ことばのかわりに「のどのおくからにがいつば」があふれてくる。
 こんなふうに、がまんして、暮らしを整える--そういうことがある。

 池井は、そういう「どこにでもある暮らし」をどこにでもある、その姿そのままに、ことばのなかに整えている。
 こんなことばだから、労働者は搾取されるんだ--なんていう批判は、まあ、何と言えばいいのか「意味」がありすぎて、うんざりするね。「意味」にしばられて動きたくないなあ。「意味」って、どんなに動いてみても、それを動かしている人にとって便利なものであって、その「意味」についていく人にとっては、そんなに好都合なものじゃない。他人の考えた「意味」にあわせて動くなんて、めんどうくさい。自分に嘘をついている。労働者の権利のためにデモするなんて、なんだかめんどう。もっと違うことをしたい。

 で、池井は、どうするのか。

にげだすようにかえってくれば
さんまのけむりがたちこめて
ぱあとですっかりひやけした
あなたがにっこりたっていて

 「いっしょけんめいはたらいた/こんなにこんなにがんばった/のに」の「のに」を共有する妻がいる。にっこりと池井の「のに」を見守っている。見守られながら、池井は妻の笑顔のなかに、やっぱり「のに」が隠れてるのに気づく。

 あ、そんなことまで書いていない?
 書いていなくたってかまわない。私が、私の勝手で、そういうことばを付け加えて池井の詩を読むのである。そして、いいなあ、と感じる。「いいなあ」を強く感じるために、ことばを動かす。そういうことが、私は好き。







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池井 昌樹
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(94)

2014-06-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(94)          

 「ダレイオス大王」は、フェルナゼスという詩人が「叙事詩のさわり」の部分を考える。「ヒュスタスペスの子ダレイオスが/ペルシャの王位を奪うところ。」を書こうとしている。

だがここは難所。考えあぐねる。フェルナゼスたるもの、
ダレイオスがどう感じたか、ひとつ分析せにゃ。
驕りだ、まずな、それから陶酔かな?
いや、むしろ、偉くなる虚しさの直観だ、一種の、だな。

 これはフェルナゼスを利用してカヴァフィス自身の試作方法を明らかにしているとも言える。「詩人」の「詩作中の声」を、カヴァフィスはフェルナゼスと共有している。「驕り」「陶酔」「虚しさの直観」と、まったく別種のことがぶつかり合い、共存している。感覚(感情)統一よりも、衝突によって人間をいきいきと動かそうとしている。
 「抒情詩」なら「感情の統一」が必要だが、「叙事詩」では事件の鮮明さが必要だ。劇的な事件というのは「感情の統一」とは違うところで生まれる。
 ようやく方針(?)が決まったのだが、そこに突然ローマとの戦争の知らせが飛びこんできて、詩作は中断する。

詩人は茫然。何たる災難!
わがミトリダテス・ディオニュソス・エウパトル陛下も、
よもやギリシャ詩など、かまっちゃくださるまい。
戦争の最中にギリシャ詩なんて。そりゃあそうだなあ!

 先に引用した部分の「せにゃ」「だな」というような口語と同じように、フェルナゼス自身のこころのなかの声は口語のままである。ていねいなことばというのは相手がいるからていねいなので、自問自答は口語の早さ、口語の簡便さで動く。「そりゃあそうだなあ!」には、戦争のことを知らない(?)詩人ののんびりさ加減が紛れ込んでいて、とてもおもしろい。中井久夫の訳ならでは、という感じがする。

しかし、詩人の神経が尖るさなかにも、大騒ぎの最中にも、
詩想は押し寄せ、去来する。
驕りと陶酔--これだ、一番確かなのは。
驕りと陶酔をダレイオスは感じたに相違ないな。

 この最後の連は、詩人の本質を語っている。つまり、フェルナデスであるかカヴァフィスであるかは関係なく、「詩人」そのものが動いている。どんなときにも「詩想」がやってきたら、それを一番先に感じてしまう。ほかのことを忘れてしまう。


カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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池井昌樹『冠雪富士』(2)

2014-06-23 10:25:24 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(2)(思潮社、2014年06月30日発行)

 「一夜」は若い時代の池井、妻、こども二人が、「いま」の池井を尋ねてきたという作品。

わたしをたずねてきたという
つとめおわったほんやのよるに
まずわかわかしいおとうさん
まだういういしいおかあさん
おいででしょうか いけいさん
おずおずたずねるそのうしろ
あたまだしたりかくしたり
ちいさなおとこのこがふたり

 誰かをたずねたときの記憶が、自分をたずねてくる。
 こういう「夢」はだれもが見るものかもしれない。でも、なかなか書けないね。こんなふうに自然には。
 こどもがはずかしそうに両親のうしろに隠れたり、好奇心で顔をのぞかせたり。もっと行儀よくしてくれたらいいのにと思いながらも、「おいででしょうか」というような「敬語」で誰かと対応している。そこに、なんともいえず温かい感じが広がっている。こどもへの理解と、自分がしたいことを、微妙なバランスで整えている。
 こういうとき「ういういしいおかあさん」は池井が見ているから、そう言えるのだけれど、「わかわかしいおとうさん」は、どうして言えるのかな? 考えると不思議だ。自分の姿は直接は見えないね。
 でも、直接見えなくても、見えるということはあるのだ。
 妻の態度や子どもの態度、それを気にかけながら自分を整えている、その姿。それは「肉体」のなかに残っている。その「肉体のなかに残っている姿」を、ひとは、自分の肉体でもう一度繰り返すとき、見てしまう。見えてしまう。「目」ではなく、きっと「肉眼」で。このとき「肉眼」とは「肉体」の内部にあると同時に、「肉体を離れた場」にもある。
 「肉体を離れた場」というのは、「永遠」というものかもしれない。「永遠」とは、そして池井の場合、「誰かを見守る場」でもある。
 若い妻と子どもを連れて池井が誰かを訪ねる。その姿を「誰か」がやさしく見守っている。その視線を池井は感じたことがある。その「視線の感じ」が池井の肉体のなかからふわっと外へ出る。そして、池井をみつめている。
 そこには誰かが若い妻と子どもを連れた誰かを訪ねるのを見た池井の記憶もまじっている。あ、あの感じはほほえましいなあ。そこには、両親に連れられて誰かを訪ねたときの池井が子どもだったとき記憶も含まれる。両親に隠れるようにして、知らない誰かを覗き見したこととか。
 時間と事実がゆっくりとけあって、若い両親が子どもを連れて誰かを訪ねるという「こと」が、そこに自然に動いている。

 どこを読んでも、池井のことばには「自然」しか書かれていない。池井は「必然」を「自然」にまで昇華して、それをていねいにことばにしている。

そういえば
あれはいつかのわたしたち
いつかどこかではぐれたきりの
まさしくあれはわたしたち

 「いつかどこか」がわからないのは、それはいつだって「いま/ここ」だからでもある。「はぐれた」と池井は書くが、思い起こせばすぐに「いま/ここ」にあらわれる。「はぐれた」のは「わたしたち」ではなく、池井の「思い」なのである。
 暮らしのなかで、「思い」がはぐれていく。でも、そのはぐれていった「思い」は、ときどき池井を訪ねてくる。
 見守り/見守られて生きるのが人間なのだと、教えにやってきてくれる。

あのものたちはあのひのまんま

 「あのひのまんま」変わらない。変わらないものは「永遠」であり、「自然」にまで昇華した「必然」である。

もうあとかたもないものたちが
こんなさびしいあけがたに
こんなところでいまもまだ

 「あのひのまんま」「いまもまだ」。「あのひ」と「いま」が出会い、一つになるとき「永遠」が見えてくる。それは「さびしい」。
 「さびしい」は「静か」で「懐かしい」「哀しい」かもしれないなあ。
 何かが「肉体のなかからあらわれる」というのは、それを「おぼえている」から。何かを忘れられないというのは「さびしい」。忘れてしまって新しいことをするのが人生の醍醐味かもしれないけれど、そんな具合には人間は生きられないね。どうしても、思い出してしまう。「大事なもの」を。
 「大事なもの」「大事なこと」--それは、繰り返してしまうが、池井の場合「見守り/見守られる」ということなのだと思う。「見守り/見守られる」という「こと」のなかで、人は動いている。生きている。それは、永遠に変わらない。

 私は池井の作品について何度も何度も書いているので、だんだん私の自身のなかに「省略」が多くなって、文章が飛躍してしまう。きっと、私の書いていることは、わかりにくいと思う。--でも、気にせずに、ただ感想を書いておこう。



池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(93)

2014-06-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(93)          2014年06月23日(月曜日)

 「亡霊たちを招く」について、中井久夫は注釈している。

カヴァフィスはロウソク一本をともして部屋に友人を迎えた。過去の愛の亡霊にもその礼を尽くすというわけである。

 だが、逆に読んでみるとどうだろうか。過去の愛の亡霊に礼を尽くすときと同じように、新しい友人を迎え入れるときにロウソクを一本だけ灯した。それは愛の亡霊のために灯すロウソクではなく、友人のだれかを「愛人」として迎えるために灯すのだ。

ロウソクは一本でいい。今宵の部屋は
あまり明るくてはいけない。深い夢の心地、
すべてを受け入れる気持、淡い光--、
この深い夢うつつの中で私はまぼろしを作る、
亡霊たちを招くために--愛の亡霊を。

 過去をいまに現前させるのではなく、いまを過去と同じものにするためにロウソクがいる。カヴァフィスは、詩の中では、過去をいまに現前させる。だからといって、ことば以外の世界、現実の世界でも同じことをするとはかぎらないだろう。
 むしろ、ことばでできることはことばですればいい。ことばでできないことをしようとしていると考えてもいいのではないだろうか。
 不快夢うつつの中で、私(カヴァフィス)は「まぼろし」ではなく、現実の愛人を理想の愛人に作り替える。理想の愛をつくる。そのためには、明るすぎてはいけない、ロウソク一本の灯がちょうどいいと判断している。
 「深い夢の心地、/すべてを受け入れる気持」は相手のことか、それともカヴァフィス自身のことか。きっと区別はない。愛は一方が他方に対しておこなうことではなく、互いにおこなうことだから、「気持」がどちらのものを書いてあるか限定してもはじまらない。限定されないまま、溶け合ってしまう。
 だいたいカヴァフィスが「亡霊」というものを「つくる」ときロウソクなど必要としないだろう。カヴァフィスはロマンチストというよりも、冷徹なところがある。現実主義的なところがある。「もの」を描写するさいに形容詞を省くところなどに、その特徴がある。
 カヴァフィスには「ことば」がある。ことばさえあれは、どんな亡霊もつくれる。どんな過去の人物も、すぐにいきいきと呼び出すことができる。そういうことは何度でもしている。ことばを持たない若い男、そのこころを「愛」でいっぱいにするには、ことばよりもロウソクの淡い灯が必要なのだ。自分のためではなく、相手のためにロウソクを一本にする。そうしてこそ、新しい若い男は「愛の亡霊」の領域に達することができる。
 そういう準備をしている--そう読むことはできないか。
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池井昌樹『冠雪富士』

2014-06-22 11:33:48 | 池井昌樹「冠雪富士」
池井昌樹『冠雪富士』(思潮社、2014年06月30日発行)

 手にとって、すぐにこれは傑作だとわかる詩集がある。手に重くない。ページがぱっと開く。
 で、いちばん大切なのは、最初の予感と違って、「あ、平凡かな……」という印象がまずやってきて、平凡なはずなのに、ぐいぐいとひきこまれてゆく。その感じ。
 池井昌樹『冠雪富士』は、そういう感じ。
 巻頭の「千年」。

私は神鳴りが怖い。音も光も耐え難い。畏ろ
しい。遠雷を聞くだけで身も世もなくなる。
穴があったら入りたくなる。幸いそれが休日
なら耳に栓詰め頭から布団を被る。呆れ顔の
妻を尻目に桑原桑原唱えつつひたすら雷鳴雷
光が去るのを待つ。かたく眼を閉じ天翔ける
麒麟や龍に想いを馳せる。それは至福の一刻
でもある。何時しか転た寝していたりする。
うっすら頭から黄砂被され。束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち。香木の夢を私は夢みる。

 雷がこわくて布団をかぶって隠れている、なんて別におもしろくもない。ばかなやつ。「穴があったら入りたい」というのは怖いときじゃなくて、恥ずかしいときにいうことばじゃない? 雷がこわいということが恥ずかしいから、そんなふうに書いたのかな? よくわからないが、変である。「桑原桑原唱えつつ」なんて、ほんとうにそんなことするの? けっこう余裕があるなあ。我が家の愛犬なんか、なんにもいわない。ただ縮こまる。と、犬なんかとも比べて、池井はばかだなあ、つまんない詩だなあ。こんなものを巻頭において……と一瞬思うのだが。

         かたく眼を閉じ天翔ける
麒麟や龍に想いを馳せる。

 この辺りから、ことばが激変する。
 えっ、雷って麒麟や龍の世界? そうだっけ?
 でも、いいなあ。「風神雷神」を思い出すなあ。天を麒麟や龍がかけまわっているのか。かっこいいなあ。
 布団をかぶって震えると、そういうものが見えるのかなあ。「くわばらくわばら」と言えば、その幻に近づくのかなあ。こんど雷が鳴ったらやってみようかな、と思ったりする。
 楽しいだろうなあ。

至福の一刻

 池井は、そう書いている。こわくたって、麒麟や龍が空を駆け回っているのがみられるなら、それは楽しいさ。幸福になれないわけがない。幸福のなかで「転た寝」してしまうのもよくわかる。
 でも、ほんとうに感心、感動するのは、そのあと。

うっすら頭から黄砂被され。束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち。香木の夢を私は夢みる。

 この書き方、変じゃない?
 さーっと読んでしまうのだけれど、思わず引き返して、何が書いてあったのかなあ、何か、見えないものがあるぞ、という感じで「肉体」が止まってしまう。

うっすら頭から黄砂被され。
虹が立ち。

 これだ。
 なぜ、句点「。」なのだろう。なぜ読点「、」じゃないのだろう。
 さーっと読むとき、句読点というのは読み落とされる。無意識に自分のリズムで読んでしまう。

うっすら頭から黄砂被され「、」束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち「、」香木の夢を私は夢みる。

 私は、句点を読点として読んでしまう。そして、読んだあとに、肉眼が「。」につまずく。あれ、「、」じゃない。
 句点なら「被された。」「立った。」にすればいいのに。
 でも、もし「被された。」「立った。」だったら、私は、この詩はおもしろいとは思わなかっただろうなあ。前半に思ったことそのまま、池井はばかだなあ、というだろう。
 でも、句点で切れているために、何か、ぐいと引きつけられ、うん、傑作だと思ってしまう。
 そして、傑作だ、と思ったあとで、なぜなんだろうと「理由」を探しはじめる。どうことばを補って行けば、自分の感じた感動に近づいて行けるのかな、と考えはじめる。

うっすら頭から黄砂被され。束の間千年の眠
りを眠る。虹が立ち。香木の夢を私は夢みる。

 ここでは「切断」と「接続」が、私たちの常識(あるいは「流通言語(文法)/学校文法」とは違った形で書かれている。
 「頭から黄砂被され」ること(黄砂が降ること)と、「千年の眠りを眠る」こととは別のこと。「切断」された世界。黄砂が降ろうと降るまいと、人は眠ることができる。「虹が立つ」ことと「香木の夢を私は夢みる」ことも無関係。虹とは関係なく、人は千年の眠りを眠ることができる。
 だから、それは切断されていていい。句点「。」で切れていいていい。
 しかし、「。」の前のことばが「終止形」でないと、私たちは(わたは、だけ?)、そのことばを無意識に次にあらわれる文につないでしまう。「。」を「、」のように無意識的に処理して「接続」させてしまう。
 何を切断し、何を接続するか--これは、意識的であると同時に、無意識的でもある。いや、意識的であるというよりも無意識的であるという言い方の方が、たぶん、正しいだろうなあ。
 池井は、この「。」を意識して書いてはいない。
 意識したとしても、「ここは句点にしよう」と瞬間的に思って書いただけで、その「理由」は考えていない。誰かに質問されたら、こう答えよう、と考えて書いているわけではないと思う。「。」にした方が、気持ちが落ち着く--くらいの意識だろう。
 で、こういう「無意識」こそが「詩」なのである。

 池井は現実に生きている。それは「雷がこわい」という世界や、布団をかぶって震えるという世界である。
 その一方で、麒麟や龍が空を駆け回る世界があることを知っている。いや、そういう世界があることが「わかっている」、かな?「わかってる(わかる)」というのは「肉体」で覚え込んでしまっていて、いつでもそれを「使える」ということ。
 英語がどういうことばなのか「知っている」ひとはたくさんいるが、「わかっている」ひとは少ない。「わかっている」ことは「つかえる」ということ。自転車はどうすればこげるか知っているだけでは自転車にのれない。そのときの「自転車の力学」は知らなくても、力の配分の仕方を「肉体」で分かっている(覚えている)ひとは、自転車に乗れる。何かを「使える」ひとは、何かを「わかっている」人である。
 この「わかっている」はほとんど無意識。意識化できない。説明できない。自転車の漕ぎ方をことばで説明するなんていう「意識化」は面倒くさくてできない。そんなことをしなくても「のれる(自転車が使える)」なら何も困らないから、説明できなくてもちっとも困らない。
 で。
 池井の詩にもどると、その「わかる」というレベルで、池井は麒麟や龍を「わかっている」。その「麒麟や龍」は遠い中国からやってきた。黄砂のように。そして、それは「千年」という時間を超える。「千年」を超えるけれど、その超え方は「一瞬」。千年を超えるのに千年の時間はいらない。
 「いま」と「千年を超える時間の向こう」はとても隔たっている。切断されている。しか、それは「一瞬」のうちに「接続」される。思い起こすとき、「いま」と「千年前」も、「いま」と「3秒前」も、想起にとって「差」はない。で、「差がない」からこそ、「接続」はいつでも起きる。

 池井は「いま」を生きていると同時に、「いま」ではない時間と「接続」して生きている。「常識」としては「切断された世界」なのに、遠い世界と「接続」している。それは「接続」というより、同居。同居というより、「いま」ではない時間にすっぽりと抱擁されて生きている。
 この感覚が、句読点の不思議なつかい方のなかに凝縮している。

 さの詩だけではわかりにくいかもしれないが、この詩集に書かれている世界は「いま」が「いまではない時間」によって抱擁され、とろける至福に満ちている--まだ「千年」しか読んでいないのだけれど、そういう「予感」が詩集を開いた瞬間に押し寄せてきた。雑誌で発表された作品、それについて思ったことが、瞬間的に、「千年」を突き破ってあらわれてきた。
 私はいままで、池井の詩について書くときに「放心」ということばをしばしばつかったが、あの「放心」というのは「いま(池井)」が「永遠(遠いけれどすぐ近くにある)」ものに抱擁されて、遠近感を見失うということだったのだなあ、と思った。


手から、手へ
池井 昌樹
集英社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(92)

2014-06-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(92)          

 「シドンの青年、紀元四〇〇年」は何かの催しのために俳優を呼んだ。その俳優が「アイキュロス、アテナイの人、エウフォリオンの子、ここに眠る」を読んだ。すると、そのときひとりの青年が叫んだ、という詩である。

「その四行詩、待った。
そんな気の抜けた感傷はよせ。
ありったけの気合を入れろよ、いいか、自分の仕事に、
いいから仕事以外は一切忘れて--。して仕事だけは忘れるな。
苦しい時にも、人気低落開始の時にも。貴方に望むことはそれ。
貴方もダテス、アルタフェルネスと闘ったが、
ただの兵士、大勢の中の一匹としてだろ。
そんなものの記念のために、
頭の中からすっぽり抜けたらいかんぞ、

 これは戦闘よりも文学(詩)を上に置く主張である。
 そして、引用は前後するのだが、その声を張り上げたきっかけについて、カヴァフィスが書いている注釈のようなもの、感想の類がとてもおもしろい。
 そんなことを叫んだのは、

(俳優は必要以上に強調したのじゃないかな、
「その世に隠れもなき武勇」と「神聖なマラトンの木立」を)、

 と推測している。どの行(どのことば)を問題としているかというよりも、「必要以上に強調したのじゃないかな」の「必要以上に」がカヴァフィスらしいと思った。カヴァフィスの詩のことばは簡潔で、修飾語をもたない。形容詞を必要としていない。形容詞によって、ことばが「必要以上」のものにさせられるのが嫌いだったのだろう。
 形容詞によって詩の世界を統一すること、ひとつの傾向にすることが嫌いだったのだろう。形容詞が多くなると、そこに書かれている「もの」「こと」の本質が見えにくくなる。形容詞が多くなると、そこでは「表層」が動きの中心になってしまう。「こと」の運動が見すごされてしまう。これを「抒情的」という。
 「必要以上」を拒む--これはカヴァフィスの詩の方法そのままである。カヴァフィスは「もの」「こと」から形容詞を剥ぎ取って、ものの本質だけをさらけだす。大きな「主観」を書きあらわすためには、「表層」ではなく強固な「もの自体」が必要だ。
 形容詞は「もの」の表層を飾るだけではなく、「もの」の表層を多い、「もの」にも内面があるということを隠してしまう。
 これはまた戦争批判である--と書くと書きすぎだろうか。鎧、兜、剣で武装してたたかうとき、ほんとうの「肉体」だけの強さが分からない。人間の真の強さは武装によってえられるのではなく、「内面」からあふれる教養(文学)でなくてはならない。
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平地智『カラフェ、しおり、花束』

2014-06-21 12:26:20 | 詩集
平地智『カラフェ、しおり、花束』(私家版、2014年06月01日)

 詩は、どこでやめるかが難しい。書いている人はどこまでも書きたいのだと思うけれど、読んでいる方は読みたいところまで読んでしまうとやめてしまう。その先を読むのは、ちょっと面倒である。
 平地智『カラフェ、しおり、花束』を読みながら、そんなことを思った。平地以外の詩でも、まあ、そんなふうに思うけれど。で、「最後まで読まずに放り出した、許せない」という抗議を受けることもあるのだが。「金を出して(本を買って)読むのは勝手だが、感想は書くな。不愉快だ」と、その人は言ったが。(平地ではないが……。)
 気にしない。私は。

 平地全体的に、読むのがめんどうくさい感じがする。ことばの「音楽」が私の知っているものとは違うからだ。これは、私が九州に住むようになったとき、最初に思ったことに似ている。「標準語」なのだけれど、音が耳に入ってこない。神経を集中しないといけない。ずぼらな私には、これが苦手。
 でも、この詩集では「新しい単語」は、「つまずく」ところが少なかった。わりと自然に読むことができた。でも、途中でやめてしまった。その読むのをやめるまでの部分。

雑貨屋で見かけた水差し
でもなんか他の名前があったような気がして
カタカナの

次にそれを見たのは彼女の家だった
中には氷と水が入れられて
汗をかいてるようにみえる
ときどき氷がからんと音を立てる

「それ、なんて言うっけ?」
「これは、カラフェ」

彼女はいつもの調子で教えてくれた
装飾のない、必要最小限の言葉で

カラフェ
その単語をぼくは彼女の唇の動きと一緒に記憶する

 一連目と二連目がの呼応がとてもいい。
 「なんかほかの名前」と呼ばれた「あいまいな」なにかが「それ」と言いなおされる。この「指示詞」が、その「何か」にすがりつくような、「何か」を引き寄せようとするような、粘着力で引き合う。ここに「音楽」がある。
 その「かけひき」(脈絡?)のようなものが、氷の「からん」と「カラフェ」という「音」のなかの似たものとなって具体化する。音となって響きあうところが美しい。
 そして、その響きあう部分に「汗をかいているようにみえる」の視覚が交錯する。「からん」だけだと透明。しかしカラ「フェ」のあいまいな音が、ガラスの器が汗をかいて半透明になったときの、曇り具合にとてもなじむ。
 音なのに、その音が視覚と融合する。
 で、視覚と融合するからこそ、

その単語をぼくは彼女の唇の動きと一緒に記憶する

 「唇の動き」を記憶するのは視覚だ。この「視覚」を進んでいく「まっすぐ」な感じ、まっすぐな「肉体」感覚は正直でいいなあ。汗を書いているのが「みえる」から、唇の動きが「みえる」、その唇の動きを記憶すると、「肉体」のなかで「みえる」という動詞が動いていく。「肉体」のなかの動きが「肉体」を完成させる。
 唇から「音」は出ているはずなのに、音を忘れて「視覚」へ引き返していく。そして「動き」を記憶するところが、妙におもしろい。

 そういうことを意識しながら読み返すと。
 「カタカナの」。うーん、これも「視覚」だな。「ひらがな」でも「漢字」でもない「カタカナ」を平地は見ている。
 「氷と水」も「視覚」でとらえたことばだ。「漢字」と「視覚」がしっかり結びついて、どこか似たものを引き寄せる。思い出させようとする。
 基本的に平地は「視覚」の詩人なのかな?

 でも、そうなら、もっと「視覚」を整えてもらいたいとも思う。詩の後半は、「ことば」を視覚でとらえきれていない。「これは楽しいぞ」と思った瞬間に、ことばは違う方向へ散らばっていく。その散らばり方がうるさい。
 平地は、「視覚」から「聴覚」へと、往復しようとしているのかもしれないが、私には後半に書かれていることばは「音」も「字面」もうるさいだけで、げんなりする。
 「からん」「カラフェ」の、「カラン」「からふぇ」と書き換えて読みたいような音と視力の響きあいは幻の音楽のように消えてしまう。
 「記憶する」でやめて、なおかつ、3、4連目を整理するといいのになあ、と思う。

 「記憶する」でやめられないのには、平木なりの「理由」があるのだろうけれど、その理由なんて、私にはぜんぜんわからない。





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中井久夫訳カヴァフィスを読む(91)

2014-06-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(91)          2014年06月21日(土曜日)

 「ほんとうに亡くなられたとしても」の「声」を聞きとるのは、私にはむずかしい。アポロニアスという人物はどこへ消えたのか。死んだというのはほんとうか。そういうことがまず書いてある。

だが、いつか前どおりのお姿で
再臨なさる。真理の道をお教え下さる。それから、むろんじゃ、
むろん、わしらの神々の礼拝を復活なさる。
わしらの雅びなヘレネスの典礼も復活なさる。きっとじゃ」

 再臨し、宗教を復活することを願っている。「むろんじゃ、/むろん」の繰り返しが願いの強さを印象づける。それは、しかし、だれの声なのか。アポロニアスの時代の人の声なのか。
 そう思って読むと、この詩の二連目に不思議な仕掛けのようなものが出てくる。

これが、残り僅かな異教徒のさる男の思い。
フィロストラトス著の『テュアナのアポロニアス』を読み終えて
わびしい部屋にぽつねんと座ってこういう思いにふけった。
だが、奴とても--とるにたらぬ臆病な男よ--、
公衆の前ではキリスト者を演じ、教会通いをする。
老ユスティヌスの敬虔なる御代のこと。
して、神の都アレクサンドリアは嫌悪する、
哀れれな偶像崇拝者を--。

 「声」を相対化している。ある「声」をそのまま指示していない。その「声」を読んで、別の時代の男が「声」を批判している。「これが、残り僅かな異教徒のさる男の思い」か、と。それはアポロニアスの時代とは違った時代の人間の思いである。で、その時代は?
 それは、実はいつだっていい。
 カヴァフィスは時代設定をきちんと考えている。中井久夫も時代設定を考えて訳しているが、こういう過去のある時代の「声」を批判するというのは、いつの時代にも起きるる。それがアポロニアスの没後十年、二十年、百年であってもいいし、現代でもいい。--こう書くといいかげんな感じがするかもしれないが……。私はいつでもいいと思う。
 カヴァフィスがフィロストラトスの著を読んだ男を設定したときから、時間は「記憶」の時間になる。歴史の絶対的な時間は消え、「いま/ここ」に思い出すという「行為」の時間になる。そして「時間」を超えて、人は交流する。「時間」はいつでも「いま」でしかない。「過去」の時間などない。
 カヴァフィスは史実を題材に取ることが多いが、題材にした瞬間から、それは「いま/ここ」のできごととして動く。ことばはすべてを「いま/ここ」にしてしまう。
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八重洋一郎『木洩陽日蝕』

2014-06-20 10:02:24 | 詩集
八重洋一郎『木洩陽日蝕』(土曜美術出版販売、2014年06月10日)

 八重洋一郎『木洩陽日蝕』には沖縄がいろいろな形で書かれている。「洞窟掘人(ガマフヤー)」は「洞窟を掘りつづけ、出てきた戦死者の骨を洗い清め慰霊している人」のこと。「戦死者」はこの場合、兵隊ではない。

母の骨を探しあてた時 しみじみと心が
定まったのです
いのちは消えてないのですが 母がこうして私を
迎えてくれた 土の中から
白くなった手を伸べて
深々と心が落着いたのです

 これは、実際に体験しないと出ない声である。
 「私」が母の骨を掘り出した。ようやく見つけて土のなかから拾いあげた。それを、まったく逆に感じる。母が土のなかから迎えてくれた。
 そのとき、こころが定まった。こころが落ち着いた。
 「しみじみと」「深々と」
 むずかしいねえ。
 いや、「わかる」のだけれど、「わかる」からこそ、それを自分自身の「しみじみと」や「深々と」とどう結びつけていいかわからない。私の知らない「しみじみと」「深々と」がある。
 きっと、それは、自分が見つけたのではない、母が遺骨を探している自分を見つけて、手をさしのべてくれたのだという「意識、思い」という形で、くっきりと認識できたということだろう。
 「しみじみと」「深々と」は「母が手をさしのべてくれた」という「思い」とひとつになっている。

母の骨を探りあてた あの時
からだがつちの中にしみ込んでいくように
ふかぶかと心が落ちついたのです

 同じことを書いているようで、すこし違う感じがする。
 手をさしのべられて、その手にさそわれて「私」が「つちの中になかにしみ込んでいく」と書いてあるのだけれど、そのときの「私」は「私」であって、「私」ではないような感じがする。「母」のように感じてしまう。息子に捜し当てられて、ほっとして、あ、これで土のなかに帰れる(ほんとうに死んで行ける)、そう思って「ふかぶかと心が落ちついた」。
 自分のことばとして書いてあるけれど、それは「母」を代弁した声だ。
 あ、でも「代弁」とも違うなあ。
 区別がなくなっている。
 「私」と「母」は区別がない。「私」と「母」の区別がない状態が「定まる」なのだろう。
 母は死に私は生きているが、それは遺骨を探し当てたときに初めてそうなったのであって、遺骨を探し当てるまでは母は死なずにいる、死なずに息子を探している。息子が母を探すように、心は息子を探してさまよっている。土のなかから手を伸ばし、生きている息子を探し当てたとき、やっとさまようことをやめることができた。死を受け入れることができた、ということだろう。
 「定まった」は「受け入れること」、事実を、死を受け入れること。
 そして、受け入れながら、それを拒むこと。
 こういう死のかたちを拒むこと。こういう死を繰り返してはならないと誓うこと。
 「定まった」は「誓うこと」でもある。

 かなり、余分なことを書いてしまったかもしれない。
 ただ「定まった」ときの心の「しみじみと」「深々と」を思うだけで、それだけでいいのだとも思う。
木洩陽日蝕
八重洋一郎
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(90)

2014-06-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(90)          

 「デメトリオス・ソーテール(前一六二-前一五〇)について」は長い詩である。古代を描いているが、ギリシャの現代史を重ねて読むことができる、と中井久夫はセフェリスの説を紹介している。
 その「重なり」を、「声」の重なりとして読んでみよう。人の対応の「声」。人が人に応対するときの「感じ」は時代や場所を超えて共通するものがある。

ローマにおける朕の痛苦よ。
友のことばにかぎつけた不快よ。
もとより友は名家の若き公達。
朕をセレウコス・フィロパルトの子と
心得て礼儀に欠けず、
心づかいも至極こまやか。
だが、いつも感じた、隠されたさげすみ、
ギリシャ人王朝へのひそかな侮蔑。

 「こまやかな礼儀」に対して感じる「さげすみ」「侮蔑」。それは「隠され」ている。「ひそかに」されている。それを人は「かぎつけ」てしまう。ひそかに隠されれば隠されるほど、「かぎつけ」てしまう。
 そして、このときデメトリオス・ソーテールのこころのなかで、抑えていたことばが動く。声に出されなかった主張が。

「どうしてくれよう。
やつらの思いもよらぬ何かしでかす。
決意に欠ける朕ではないぞ。
行動する。闘う。オトシマエを付ける。

 「決意に欠ける朕ではないぞ。」という礼儀正しい(?)表現と「しでかす」「オトシマエをつける」という俗語がまじりあう。この対比がおもしろい。怒りによって、ことばが動詞だけの短いことばになっていくのはカヴァフィスの文体か、中井久夫の文体か。
 鍵括弧のなかに入らない部分にも、口語で洗い流したような、口語で整えなおしたようなスピードがある。これまで読んできたカヴァフィス以外の「声の文体」がある。

よいわ。やるだけやった。
力のかぎり闘った。
この白けの果ての幻滅にあって
朕の誇りはただ一つ。
挫折においても
変わらず不屈の勇気を世に示したることぞ。

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谷川俊太郎の十篇(10 臨死船)

2014-06-19 10:48:51 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(10 臨死船)
                           2014年06月19日(木曜日)

 (「臨死船」は長い詩なので全行の引用は省略する。必要なところだけ引用しながら書いていくことにする。引用は前後するかもしれない。全行の形は、それぞれで確認してください。)

 「臨死船」はタイトルどおり「臨死」の人が「三途の川」の船に乗ったときのことを書いている。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは、鳥の群れを見るところからはじまることば。鳥は成仏しない霊だという話を思い出し、鳥になったら死んでしまった友人たちと話ができないと不安になったあと、

そんな心配は無用だった
鳥の一羽が空の上から呼びかけてきた
鳴き声は聞こえないのに気持ちが響いてくる
五歳で死んだ隣のうちの同い年だった女の子だ
「オ母サンマダ来テクレナイノ
ココノオ花ハイツマデヤ枯レナイヨ」

いろいろ訊きたいことがあるのだが
相手が五歳の子どものままだから困る
この船はどこへ向かっているのと訊いても
毎日何をしているのと訊いても
夜になると星は見えるのと訊いても
「分かんない」の気持ちがか細く伝わってくるだけ

 「気持ちが響いてくる」「気持ちがか細く伝わってくる」。
 この詩には何回も何回も「気持ち」ということばが繰り返される。そして「気持ち」は「響いてくる」「伝わってくる」。つまり、「分かる」。「分かる」のだが、そのいちばん「分かる」のが「分かんない」という気持ちである。この変な「ねじくれた」関係がとてもおもしろい。そして、それが「気持ち」と「気持ち」と結びついているところが、とてもおもしろい。
 この「分からない」は、「私」が臨死から帰ってくる部分でも登場する。

自分が息をしているのに気づいた
さっきまで痛くも苦しくもなかったのに
閻魔に責め苛まれているかのように
どこもかしこも悲鳴をあげている
またカラダのなかに帰って来てしまったのか
嬉しいんだか辛いんだか分からない

 「嬉しい気持ち」なのか、「辛い気持ち」なのか、どっちが「ほんとう」か「分からない」。区別がつかない。
 これは「死」が初めて体験することだから、気持ちがどっちに動いていいのか分からない、気持ちの拠り所(基準)がないということかな? 頼りになるのは自分の「気持ち」だけなのに、あらわすことばがない。「気持ち」というのは、自分のなかにしか基準がないのに、どうしていいか「分からない」。困った……。
 「分からない」のは「事実」というよりも「気持ち」。「事実」がわからないのではなく「気持ち」が「分からない」。逆に言うと、初めて体験することがらなので、「気持ち」が「事実」なのだ。

 そして、この、「気持ちの事実」が「分かんない(分からない)」は、実は、この詩のいたることろに書かれないまま隠れている。 ときには「別のことば」になって、隠れている。

あの世へ行くのは容易なことではないと訊いていたが
このままこの船に揺られていればいいのなら楽だ
と思ったその気持ちがなんだか頼りない(=分からない)
ほんとにそう思ったのかどうかもぼんやりしている
死んだからそうなったのかそれとも
気持ちなんてもともとそういうものだったのか「分からない」

 こうした、どこにでも隠れていることば、作者が無意識に省略してしまうけれど、それを補うと意味が明確になることばを、私は「キーワード」と呼んでいる。作者の思想(肉体)に密着しすぎていることばといういう意味である。この詩のキーワードは「分からない」である。そのキーワードが「気持ち」といっしょに動いているのは、この詩のおもしろいところである。「分からない(頼りない)」という気持ちが「分かる」と、ねじれているのがおもしろさの根っこにある。

 以下、隠されている「分からない」を一行ずつ補ってみる。

あの世はまだまだ遠いのだろうか「分からない」

それともここではもう人語は役立たずか「分からない」

これは終わりなのか始まりなのか「分からない」

 という具合。
 同時に、この「分からない」が省略されているのは、実は「分からない」だけが「わかる」(わかっている)という矛盾した形で成り立っている。「分からないの気持ち」が「分かる」のと同じように……。
 そして、この「分からない」が「分かる」とき、少女との対話にもどれば、「私」と「少女」は「分からない」という気持ちのなかで一体になっている。「ひとり」になる。
 少女だけにかぎらず、「私」は臨死船に乗り合わせたすべての人と「分からない」という気持ちで一体になって、彼等の「分からない」が「分かっている」。「分からない」ということが全員の「共通の気持ち」なのである。
 だから「気持ち」が通じてしまう。
 たとえば「人語は役立たずか」と思った瞬間に、鳥(になった少女)は「人語ではなく、直接「気持ち」に語りかけてくる。「私」は「耳」ではなく「気持ち」で少女とじかに向き合ってしまう。
 「事実」と「気持ち」はどこかで、融合してしまっている。

 ふーん、と私は、読みながら「判断停止」のような感じで、これはおもしろいなあ、とも思う。「分からない」「分からない」と谷川は書いているのに、その「分からない」が「分かる」というのは、とてもおもしろいなあ、と思う。
 なぜだろう。
 自分の「死」を体験したことがないからだ。そうか、こういうことが起きうるのか、と想像力を刺戟されるからだ。しかも、それはまったく「知らない」ことではなく、なんとなく、どこかで聞きかじった感じがするからである。聞いたことがあるぞ、と思うからである。
 それは実際に「死んだ人」のことばではなく、たとえば幼くして死んだ子どものことを思い、「あの子は、お母さんはいつまでまってもやってきてくれなくて寂しいと泣いているに違いない」というような想像のなかでの姿だったりするのだが……。
 想像(気持ち)と事実がどこかで入り乱れ、交錯している。
 そのために「分からない」のに、何かが「わかる」ようにも思えてしまう。

 そうではないかもしれない。
 死(臨死)というような極端な「こと」ではなくても、私たちは「他人」の「気持ち」などわかっていないのではないだろうか。そこに起きている「こと」を見て、そのとき自分の「気持ち」が動いているだけなのではないだろうか。
 道に誰かが倒れている。腹を抱えて呻いている。そのとき、私と、あ、この人は腹が痛いのだと思う。感じる。それはその人の「気持ち(思い)」ではない。あくまで「自分の思い」、思い込み。「痛み」も他人のものであって自分のものではない。でも、感じる。
 「他人」をとおして、自分が覚えていることを思い出し、それで「気持ち」(痛み)を想像している。想像があふれてくると、同情し、その人を助けたりする。大丈夫ですか?と声をかけ、救急車を呼んだりする。
 その判断が間違っている(状況を誤読している)かどうかは、気にしない。
 人はいつでも自分の気持ちで動くだけなのである。
 だからその気持ちを動かす判断基準(経験)がないと、とても不安になる。

 視点を変えてみる。「分からない」をまったく違う角度から考えてみる。
 「分からない」とは、いま起きていることが自分の知っていること、覚えていることと「一致しない」ということ。何かがわかるというのは自分の知っていること(経験)と未知のはずの新しいことが「一致する」こと。一致すると「わかる」。一致しないと「分からない」。
 道に倒れている人の例にもどると、その人の痛みが「分かる」のは、その姿勢が、私が腹痛を体験したときの姿勢と「一致」するからだ。そのときの「うめき声」が私の体験した肉体の声と「一致」するからだ。

 そうだとすると「分からない」とは「他人」と言い換えることができるかもしれない。「他人」の人生を私たちは体験していない。だから「他人」は基本的には「分からない」。私の「分からない気持ち」は、それは「他人」なのだ。「分からない」というとき、それは「私」の気持ちだけれど「私」とは「一致」していない。「私のなかにある他人の気持ち」が「分からない」。「分からない」は「他人」なのだ。
 逆に言えば、「他人」の気持ちであっても、それが「分かる」とき、それは「私の気持ち」になる。少女の「分かんない」が「分かり」、それが「話者の気持ち」になったように。
 このことを利用して、谷川はことばを動かしている。
 他人が出てくる。その他人の動きを書く。すると、それにあわせて読んでいる人(書いている谷川)の気持ちが動く。どう感じたかを書かなくても、分かる。それこそ「分からない」ということさえ「分かる」。

 そして「他人」は「分からない」からこそ、そこにいっしょにいることもできる。「分かる」とめんどうくさいことがある。「わかる」と「他人の思い」を尊重しなくてはならない。「他人」に自分をあわせないといけない。それは面倒だね。
 わかった上で、裏切るという方法もあるけれど、そういう場合は、相手から「分からない奴だ」と批判されるだろう。「合致しない」が「分からない」なのだ。
 何と「合致させていいか」、それが「分からない」という運動だ。

 「分からない」から「他人」が次々に登場する。「分からない」ことが「他人」の姿になる。それは「複数」になる。これを、谷川はなんだか楽しんでいる。自分はどうでもよくて、というわけではないだろうけれど、他人がたくさんでてきて、それぞれに勝手な「声」を張り上げるのを楽しんでいる。他人があふれてくると、自然に「世界」が姿をあらわすからだ。
 谷川は「生まれたよ ぼく」という作品で、新生児である「ぼく」のなかに複数の「他人の声」を同居させたが、今度は「臨死船」のなかに複数の人間を乗せることで、複数の声を再現し、「世界」を描いてみせる。
 いわば「臨死船」は複数の、知っている限りの「他人(他人の精子)」が谷川の卵子(ことば)に押し寄せている状態なのだ。そして、この詩では、その精子は谷川のことばと完全に合体していない。ことばは授精してない。不完全に、精子につつかれている。だから、「子ども」という完成形をめざして細胞分裂し、育っていくことができず、不安のなかを漂っている。
 「私」自身の「声」だって、「私」の声ではない。「私小説」のように「私」の「現実」がそのままそこに書かれているのではない。だれでもありうる「ひとりの男」の「声」が書かれており、そこには複数の男の体験が注ぎ込まれている。

突然自分が船の甲板から吸い出された
と思ったら胸が締め付けられるように苦しくなった
強い光に目が眩んだ 病院の白い寝台の上だ
「おとうさん おとうさん」また女房だ
ほっといてくれよといいたいが声が出ない
だが安香水の匂いがひどく懐かしい

 現在、谷川には「女房」はいない。つまり、ここに書かれていることは、ほんとうではない。まあ、「臨死」体験自体、ほんとうではないかもしれないし……。
 なぜ、こんな嘘を書くのか。虚構を書くのか。
 谷川は「他人の声」が聞こえてしまうのだ。そして、その声を忘れることができないのだ。誰かがこんなことをいいたがっている、と感じてしまう。他人のことなのに、じぶんの声として聞きとってしまう。
 まるでシェークスピアである。
 こんな人間を書いてみたい--というのではなく、ある人の声がそのまま動き回る。そのうごきまわる声を谷川はシェークスピアのように書いてしまう。
 自分を書くのではなく、他人を書く。「他人」が自分の「肉体」のなかで動いておもしろいことなのだと思う。
 そういう意味では、この「臨死船」もまた「他人」の動きを書いた「叙事詩」なのだ。死につつあるときに、起きる「こと」を書いている。「気持ち」は書いていない。「気持ち」は「分からない」としか書いていない。「分からない」ものは書きようがない。「気持ち」は分からないが、ある人がこういった、この人はこう答えた、何が見えた、は書いてある。
 だから、おもしろい。

 ところで「父の死」にも「分からない」が出てきた。夢のなかで泣いた。それはほんとうだったのか、「分からない」。夢のなかで泣いたのは谷川のなかの「他人」である。それは谷川の意識できない谷川であり、無意識の谷川と考えればと、それは谷川の「ほんとう」でもある。意識できないくらい自分にしっかりからみついている「キーワード」ならぬ「キーパーソン」である。「分からない他人」こそが、谷川にとって「本人」なのだ。「思想」なのだ。

 こんなふうに「分からない」がどんどん増えてきたとき、人はどうやって生きていけるのだろう。自分を動かしていけるのだろう。
 谷川は不思議なことばを書いている。

見えない糸のように旋律が縫い合わされていくのが
この世とあの世というものだろうか
ここがどこなのかもう分からない
いつか痛みが薄れて寂しさだけが残っている
ここからどこへ行けるか行けないのか
音楽を頼りに歩いて行くしかない

 「音楽」。--この「音楽」ということばは、最終連の直前にも「酷い痛みの中に音楽が水のように流れ込んでくる」という具合に聞こえてくる。

遠くからかすかな音が聞こえてきた
音が山脈の稜線に沿ってゆるやかにうねり
誰かからの便りのようにここまで届く
酷い痛みの中に音楽が水のように流れ込んでくる
子どものころいつも聞いていたようでもあるし
いま初めて聞いているようでもある

 このことばを手がかりにするなら、その「音」とは「自分の声(谷川の声)」だ。「誰かからの便り」のように聞こえるのは、それが「誰かの声」ではないからだ。「誰かの声」でなければ「谷川の声」でしかない。
 「声」には谷川が耳をとおして聞きとる「誰かの声(他人の声)」と、耳をつかわずに聞いてしまう「谷川自身の声」がある。
 その耳をつかわずに聞く「肉体」のなかから鳴り響く音はは、鉄腕アトムの「ラララ」のように、ことば(意味)にならない「未生のことば=音」である。
 その「未生のことばの音」を基準にして谷川は「他人のことば」を選びとる。「和音」になりうる「他人のことば」を選びとる。それから自分の「ラララ」の音も整えなおす。するとさらに多くの「他人の声」と「和音」が可能になる。そうやって「音楽」が広がって行く。
 それは「他人の精神(精子)」を授精した谷川のことばが分裂しながら子どもに育っているのに似ている。そうやって、谷川の詩は生まれる。そうやって谷川は詩を「出産」している。
 その詩のなかには、いつでも「他人の声」がある。「他人」が生きている。「他人の声」と向き合いながら、自分の「音楽」の領域を広げていく。谷川の詩は「音楽」の「叙事詩」なのだ。



 補足。
 人間はだれでも耳をもっているから、他人の声が聞こえる。谷川も、昔から他人の声を聞いていた。しかし、そのとき聞いていた声は自分の声と共通する声だった。他人を描いても、それは「谷川の分身」だった。
 ところが佐野洋子と出会ってからは、「自分の声」とはまったく違う「他人の声」があると気がついた。そして、その「他人の声」と谷川自身の「ラララ」を合わせることができるとわかり、突然、谷川の声が豊富になった。「他人」が「他人」のまま同居している。そして、動いていく。
 それまでの谷川の「孤独」は「他人の声」と「自分の声」が重なってしまう孤独。重なってしまう結果、宇宙には自分ひとりしかいないことになってしまうという孤独だった。ところが、佐野洋子とあってからは、この孤独の性質が逆転する。「他人」と「自分」が分離してしまう、他人とはいっしょにならないという孤独だ。
 ところが、その他人とはいっしょになれないというときの「いっしょ」にはいろいろなレベルがある。完全に「一体」になれなくても、同時に存在すること、共存することはできる。「声」と「音楽」の比喩をつかっていうと、声を「一体化」するのではなく、つまり「斉唱」にするのではなく、「合唱」にする。「和音」を豊かに、楽しいものにすることができる。谷川は、「他人」を生かしはじめたのだ。「他人」の声を聞き取り、それに合わせるよろこびを知ったのだ。
 「斉唱」が「声の抒情詩(統一されたひとつの感情)」だとすれば、「合唱」は「声の叙事詩(複数の感情を抱えた、複数の声の出会い)」である。
 「臨死船」は、いわば「合唱組曲」のようなもの。ほかの、話者がひとりしか登場しない詩は、合唱のそれぞれの「パート」である。

 またもう一つの「転機」として谷川徹三の死をあげることができるかもしれない。父の死によって、父の存在が隠していた「他人」がぱっと動きはじめた。「他人」がいる。「家族」、あるいは「こころが分かり合った仲間」、自分の感情と「一致」する人間だけではなく、まったく「違う基準」で動いている人間がいると分かった。それが谷川のことばを「叙事」へと向かわせた。そんなふうにも思える。

 私は「十篇」に、『旅』『台所でぼくはきみに話しかけたかった』『定義』『コカコーラ・レッスン』の作品を選ばなかったが、それは私には「独唱」に聞こえたからである。独唱は独唱ですばらしいけれど、私が谷川の詩を心底好きになったのは、「他人の声」が谷川にぶつかり、谷川が変化してからなので、選択が偏ることになった。



 補記の補記。
 詩を読んで、自分の声をどの「パート」にあわせるか。自分の「声」はどの声なのかを発見する。その発見は読者に任されている。--と書いて、私は、ふいに「かなしみ」を思い出す。「かなしみ」の二連目。その「意味」をどうとるか、いろいろ考えられた。そういうあいまいさのなかに、もしかすると最初の「他人」がいたかもしれない。「十篇」について書きはじめたときは、そういうことは考えていなかったが、どの作品を取り上げながら書いてきたのだったかなあとふりかえったとき、ふいに、そういう考えがひらめいた。


トロムソコラージュ
谷川 俊太郎
新潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(89)

2014-06-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(89)          

 「船上にて」はとても美しい。私はこの詩が大好きだ。

このちいさな鉛筆がきの肖像は
あいつそっくりだ。

とろけるような午後、
甲板で一気に描いた。
まわりはすべてイオニア海。

似ている。でも奴はもっと美男だった。
感覚が病的に鋭くて、
会話にぱっと火をつけた。

 恋人の肖像。鉛筆のスケッチ。「まわりはすべてイオニア海」とあるが、その青い海にふたり(カヴァフィスと恋人)は一体になっている。「融合」、溶ける--それを通り越して「とろける」。形が崩れながら一体になる。それは「外形」のことではなく、「味」である。ふたりは「とろける」を味わっている。
 カヴァフィスはあいかわらず「美男」の外観(外形)の描写を省くが、この詩では外形以上のものが書かれている。美男の条件とは……。

感覚が病的に鋭くて、
会話にぱっと火をつけた。

 「感覚」あるいは「精神」の力である。ことばで場を輝かしたり、転換したりする能力。ことばのやりとりのなかで、カヴァフィスは「とろける」。外観の美など、それに比べたら取るに足りない。

似ている。でも奴はもっと美男だった。

 の「もっと」は外見よりも「もっと」という意味に取ることができる。
 「内面」(精神/感覚)の美の思い出は、外形と違って時間が経ってもかわらない。ことばのなかにとどまりつづける。カヴァフィスはスケッチを見ながら「外形」ではなく「内面」を思い出している。だから、次のように言う。

彼は今もっと美しい。
遠い過去から彼を呼び出す私の心。

 カヴァフィスのこころのなかでいっそう美しくなる。これからも、もっと。
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