詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(9 生まれたよ ぼく)

2014-06-18 11:14:26 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(9 生まれたよ ぼく)
                           
生まれたよ ぼく

生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえてないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか

だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい



 この詩は「生まれたよ ぼく」とはじまる。新生児は泣くことはできても、ことばはまだ話せないから、これはとても非現実的な、奇妙な詩である。
 そうかな?
 読んだ瞬間、変と感じた?
 感じない。そのまま赤ちゃんがしゃべっていると感じてしまった。そして、そこに書かれていることも、うんうん、と説得されてしまった。
 どうして?

 私は、ここに書かれている「ぼく」が谷川であると思わなかった。谷川が、谷川の考えを「ぼく」に代弁させている、つまりそこに谷川の「思想」が語られているという具合には感じなかった。いや、そこに語られている「思い」は谷川のものでもあるんだろうけれど、ちょっと違うことを考えた。
 別ないい方をすると、「説教」を聞いているという感じじゃない。

 「ぼく」は生まれた。
 では、産んだのは?
 そう考えるといいのかもしれない。
 それは、だれの子ども?
 そう考えるといいのかもしれない。

 私は、谷川が「ぼく」を産んだのだと思った。谷川は『女に』以降、女に生まれ変わっているから、こどもを産むことができるのだ。この「ぼく」は谷川の「肉体」から出てきた赤ん坊である。谷川であると同時に谷川ではない。谷川とは別個の「個性」をもった、完全に独立した「肉体」だ。
 新しい「肉体」の誕生には、卵子と精子が必要だ。
 谷川の「卵子(ことば)」は「だれか」の精子(精神の子種)を授精した。「ことば」は「子ども(ぼく)」になって生まれてきた。産んだのは谷川。その子ども(ぼく)のなかには、谷川の「精子」ではないものが結晶し、分裂し、育っている。しかもその精子は「ひとり」の精子ではなく。複数の精子だ。谷川は複数の「精子」を受け入れて、授精し、「子ども」を産むのである。
 一卵性双生児と二卵性双生児の違いは、一個の受精卵がわかれてふたつになったか、もともとふたつの卵子があってそのふたつが授精したかの違いだが、谷川の「卵子(ことば)」と「こども」の関係は、「一個の卵子」に「無数の精子」が授精した感じ。
 だから、その「ぼく」は何でも知っている。ひとりの人間がもっている「精神の情報」は限りがあるが、複数の人間のもっている情報には限りがない。「ぼく」が何でも知っているのは、複数の、無数の精神を授精して誕生しているからだ。
 授精して細胞が分裂して、九か月かかって育って、やっと「肉体」のなかから出てきた。「ぼく」はそういう生命の秘密を「ひとり」から聞いて知っている。目が開いていない、耳が聞こえていないということも、別の「ひとり」から聞いて知っている。「ここがすばらしい」ことも知っているのも、そう感じている「ひとり」が「ぼく」を授精させたからだ。「ひとり」「ひとり」の複数の情報(精神/精子)が、いちばん美しい形で「卵子(ことば)」と結びついて、「ぼく」になっている。
 「ぼく」は、そういうことを「前世」で知っているのじゃない。いまいっしょに、この世に生きている「ひとり」「ひとり」の声から知っている。この世の「声」が「ぼく」なんだよ。
 谷川は、この世で語られる「他人」のすべての「声」を受け入れて、「ぼく」を産んだ。
 「ぼく」のことばは谷川が語っているのではない。谷川が「ぼく」の代弁をしているのでもない。無数の「他人(ひとり/ひとり)」が谷川の「肉体」をかりて「ぼく」になり、自己主張しているのだ。
 
だから邪魔しないでください

 これは「ひとり」の「声」ではない。「ぼく」だけの「声」ではない。いま生きているみんなの「声」だ。みんなが「笑い、泣き、幸せになる」のを邪魔しないでくださいところのなかで言っている。なかなか声に出しては言えないけれど、みんな、そう叫んでいる。
 さらに、「ほく」は生まれたばかりだけれど、「他人(大人)」は人間が死んでいくことを知っている。だから「遺言」さえする。「遺言」はしなければならないものなのだ。生きてきて、その生きてきたことをだれかに伝え、引き継いでもらわないと生きたことにならないから。
 人に対してだけではない。人といっしょにいる山や海や空にも遺言せずにはいられない。

山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい

そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい

 これも、「ぼく」が語っているが、「ぼく」からの遺言ではない。「ぼく」のなかの「精子」のすべての、つまり「人々(ひとり/ひとり)」の「祈り」である。
 ある人が「山はいつまでも高くそびえていてほしい」というと、別の人が「海はいつまでも深くたたえていてほしい」といい、さらに別のだれかが「空はいつまでも青く澄んでいてほしい」という。それぞれの「好き」なことをいう。それぞれの「精神(精子)」のなかにあるものをいう。それぞれが互いを尊重し合って(邪魔しないで)、集まり、支えあうとき「世界」が完成する。山、海、空が一体になる。
 「ぼく」という生まれたばかりの子どもの願いを語るふりをして、谷川は、複数の人間の祈りを共存させている。共存によって世界が輝くのを知っているからだ。
 さらに別の人は「ここにやってきた日のことを/忘れずにいてほしい」と念を押す。

 この詩に感動してしまうのは、赤ん坊の「ぼく」が「人間の祈り、願い」を代弁しているからではない。純粋無垢なこどもが、純粋なままに崇高なことを言うからではない。
 その「主張」のなかに、複数の人がいて、その複数のなかの「ひとり」は、実は「私(読者)」だからである。谷川の書いたことばをとおして、「私(読者)」は「ぼく」になる。「ぼく」の語る純真無垢なことばを読むと、「私(読者)」は「ぼく」と同じ純真無垢になる。ことばをとおして「ぼく」に生まれ変わる。だから、そこに書かれていることばを自分の声で読んでみる。肉体にしてみる。読むと、声に出すと、「同じことば」がちゃんと自分の中から出てくる。やっぱり、これは自分の「声」だと、そのとき確信できる。谷川が産んでくれた「ぼく」は「私(読者)」だったのだ、と気づく。「私」のために「ぼく」を産んでくれたのだと思う。
 ここに書かれているのは赤ん坊の「祈り」でもなければ谷川の祈りでもない。「私そのものの」の祈りである。だれもが、「これこそ私の祈りだ」と言える。谷川は、それくらい多くの人の「精神(精子)」を授精している。そして出産したのだ。

 谷川は「他人」を書く。だが、それは谷川にとっては「他人」だが、読者にとっては「他人」ではない。読者から見ると、それは「私」だ。この赤ちゃんは「私」なのだ。
 谷川が書いていることは、「私」のいのりそのものだ。「私」の言いたかったこと、私がいつも思っていたことは、こういうこと。谷川がことばにしてくれたから、はっきりわかっただけで、それは谷川の考えではない。「私」の考えだ。私がことばにしようとしてできなかったこと、「肉体」では覚えているのに、ことばがはっきりしなかったこと--「私の未生のことば」なのだ。わがままな読者である私は谷川の詩を読むと、谷川を脇へのしのけて、そう叫んでしまう。「これこそ私だ」と。

 詩でも小説でもそうだが、感動的なことばというのは、いつでも「私の未生のことば」(私が言いたくて言えなかったことば)である。体験して「わかっている」ことばである。わかっているけれど「言う方法を知らない」ことばである。
 「わかっていることば」「わかることば」だけにしか、人間は反応できない。「ほんとう」の気持ちを見つけ出せない。
 谷川のことばをとおして、私たちはひとりひとり、自分の「ほんとう」を自分のものにする。そのときから、そのことばは「谷川のことば」ではない。「私のことば」。
 だから、私は、私の勝手に読む。勝手に、それ以後を動かしていく。



 私のこの文章は、比喩として精神=精子と結びつけているので、なんだか女性を排除してしまった感じだが、私は女性ではないので、女性の「卵子」をつかった比喩は考えにくかった。むりに考えれば何か言えると思うが、むりに「意味」をつくるとうそっぽくなる。感じたことと違ってくるので、それは書かなかった。
 女性が「生まれたよ ぼく」をどんなふうに自分の「肉体」に引きつけて読むかは、女性にまかせたい。


子どもたちの遺言
谷川 俊太郎,田淵 章三
佼成出版社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(88)

2014-06-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(88)          2014年06月18日(水曜日)

 「イメノス」はイメノスの「書簡の抜粋」という形をとっている。「ユダヤの民について(紀元五〇年)」と同じように、他人のことば(声)をそっくり引用している。この引用がほんとうの引用なのか、カヴァフィスの創作なのかはわからないが、引用部分はいつものカヴァフィスとは違う文体である。

「……いやがうえにもいつくしまれるべきは
官能の快楽、それも病的、腐敗的に得られるものです。
これを感じる身体は得難いものです。
この病的、腐敗的な快楽は
健康などのあずかり知らない強烈なエロスです……」

 三、四行目の「これを」「この」という指示詞の使用。前にでてきたことばをしっかりと受け止めながら「論理」をつづけていくというのはカヴァフィスの文体ではない。カヴァフィスは、そういうことはわかりきっているものとして省略する。
 「され」「この」ということばの省略が「こと」を独立させる。一回限りの「こと」として浮かび上がらせる。カヴァフィスは、そうやって感情(意識)にそまらない叙事的に正確をことばに与えるのが特徴だ。「これ」「この」という指示詞の多用は、カヴァフィス自身の声ではないと印象づけるためのものである。
 ここに書かれている官能、エロスの称賛はカヴァフィスと共通するが(共通するから、カヴァフィスは自分の「主観」を補強するために、イメノスのことばを引用したのだろう。同じことを考える人間がいる、といいたいのだろう)、リズムやことばとことばの粘着力が違う。
 イメノスは、「これ」「この」という指示詞で、論理に「粘着力」をもたせる。カヴァフィスは、そういうことをしない。「もの/こと」があれば、それは「ある」ということだけで、完結しているからである。
 
 カヴァフィスがイメネスの文を引用(あるいは創作)したのはなぜだろう。「身体は得難いものです」ということばが気に入ったのだろう。その身体は2連目で「血」ということばで引き継がれる。

ミハイル三世た頽落の世に
崩れぶりでジュラクサイに悪名高き
貴族の血を引く青年イメネスの
書簡の抜粋。

 快楽をえることができるかどうかは身体で決まる。身体は「血」で決まる。だからこそ、どこの国の人間であるかも常に問われる。
 カヴァフィスは、どこまでもギリシャに沈潜していく。
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谷川俊太郎の十篇(8 父の死)

2014-06-17 10:53:56 | 詩集
谷川俊太郎の十篇(8 父の死)
                           
父の死

私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ。
死ぬ前日に床屋へ行った。
その夜半寝床で腹の中のものをすっかり出した。
明け方付き添いの人に呼ばれて行ってみると、入歯をはずした口を開け能面の翁そっくりの顔になってもう死んでいた。顔は冷たかったが手足はまだ暖かかった。
鼻からも口からも尻の穴からも何も出ず、拭く必要もないきれいな体だった。
自宅で死ぬのは変死扱いになるからというので救急車を呼んだ。
運ぶ途中も病院に着いてからも酸素吸入と心臓マッサージをやっていた。馬鹿々々しくなってこちらからそう言ってやめて貰った。
遺体を病院から家へ連れ帰った。
私の息子と私の同棲している女の息子がいっしょに部屋を片付けていてくれた。
観察病院から三人来た。死体検案書の死亡時刻は実際より数時間後の時刻になった。
人が集まってきた。
次々に弔電が来た。
続々花籠が来た。
別居している私の妻が来た。私は二階で女と喧嘩した。
だんだん忙しくなって何がなんだか分からなくなってきた。
夜になって子どもみたいにおうおう泣きながら男が玄関から飛びこんで来た。
「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と男は叫んだ。
諏訪から来たその男とは「まだ電車あるかな、もうないかな、
ぼくもう帰る」と泣きながら帰っていった。
天皇皇后から祭●料というのが来た。袋に金参万円というゴム印が押してあった。
天皇からは勲一等瑞宝章というものが来た。勲章が三個入っていて略称は小さな干からびたレモンの輪切りみたいだった。
父はよくレモンの輪切りでかさかさになった脚をこすっていた。
総理大臣からは従三位というのが来た。これには何もついてなかったが、勲章と勲記位記を飾る額縁を売るダイレクトメールがたくさん来た。
父は美男子だったから勲章がよく似合うと思った。
葬儀屋さんがあらゆる葬式のうちで最高なのは食葬ですと言った。
父はやせていたからスープにするしかないと思った。
   (注 ●は「次」という漢字の下に「米」を組み合わせた文字。祭●=さいし)



眠りのうちに死は
その静かなすばやい手で
生のあらゆる細部を払いのけたが
祭壇に供えられた花々が萎れるまでの
わずかな時を語り明かす私たちに
馬鹿話の種はつきない

死は未知のもので
未知のものには細部がない
ということろが詩に似ている
死も詩も生を要約しがちだが
生き残った者どもは要約よりも
ますます謎めく細部を喜ぶ



喪主挨拶
                 一九八九年十月十六日北鎌倉東慶寺
 祭壇に飾ってあります父・徹三と母・多喜子の写真は、五年前母が亡くなっ
て以来ずっと父が身近においていたものです。写真だけでなくお骨も父は手元
から離しませんでした。それが父の母への愛情のなせる業だったのか、それと
も単に不精だったにすぎないのか、息子である私にもはっきりしませんけれど
も、本日は異例ではありますが、和尚さんのお許しをえて、父母ふたりのお骨
をおかせていただきました。母の葬式は父の考えで、ごく内々にすませました
ので、生前の母をご存知だった方々には、本日父とともに母ともお別れをして
いただけたと思っております。
 息子の目から見ると、父は一生自分本位を貫いた人間で、それ故の孤独もあ
ったかもしれませんが、好運にかつ幸福に天寿を全うしたと言っていいかと存
じます。本日はお忙しい中、父をお見送り下さいまして、ありがとうございま
した。



 杉並の建て直す前の昔の家の風呂場で金属の錆びた灰皿を洗っていると、黒
い着物に羽織を着た六十代ころの父が入ってきて、洗濯籠を煉瓦で作った、前
と同じ形で大変具合がいいと言った。手を洗って風呂場のずうっと向こうの隅
の手ぬぐいかけにかかっている手ぬぐいで手を拭いているので、あの手ぬぐい
かけはもっと洗面台の近くに移さねばと思う。父に何か異常はないかときくと
大丈夫だと言う。そのときの気持はついヒト月前の父への気持と同じだった。
場面が急にロングになって元の伯母の家から庭を見たところになった瞬間、父
はもう死んでいるのだと気づいて夢の中で胸がいっぱいになって泣いた。目が
さめてもほんとうに泣いたのかどうか分からなかった。



 「父の死」を読んだとき、真っ先に思い浮かんだのは森鴎外の文章である。谷川は森鴎外になった、と思った。
 作品は四つの部分から成り立っているのだが、その最初の部分が、特に鴎外を感じさせた。鴎外というより、鴎外の散文精神を、と言いなおした方がいいかもしれない。
 散文精神は、事実を積み重ねて書いていく。そのとき、結果を想定しない。事実を一つずつ書き、それについて思うことがあるなら、それを書く。書きながら、精神(思考)を整えていくのだが、求める結論のために事実を都合よく整理したりはしない。精神(自分の思い)よりも事実を尊重する。精神がどこへたどりついてもかまわないという気持ちで、ただ事実を積み重ねていく。
 この「どこへたどりついてもかまわない」というのは、鴎外の大傑作「渋江抽斎」の基本である。評伝なのに主人公の渋江抽斎は途中で死んでしまう。それでも評伝はつづいていくのは、「結論」が想定されていないからである。渋江抽斎のなかでは、周囲の人を描いていると、その人の中に渋江抽斎が次々にあらわれ、いきいきと動き、ますます「結論」がどこへいくのか分からないという魅力がある。
 「父の死」も、

私の父は九十四歳四ヶ月で死んだ。

 と書きはじめられたあと、いったいどこへ進んでいくのか分からない。「死ぬ前日に床屋へ行った。」と突然時間が逆戻りするし、「運ぶ途中も病院に着いてからも酸素吸入と心臓マッサージをやっていた。馬鹿々々しくなってこちらからそう言ってやめて貰った。」というようなことも起きる。
 この「どこへたどりついてもかまわない」は、『女に』に結びつけて書けば、何が起きても、そのつど「リセット」すればいい、という感覚である。というか、「リセット」するしかない、ということかもしれない。「父の死」というのは一回しか起きないできごとである。すべてが新しい。すべてを受け入れるしかない。
 そのなかで、私が特におもしろいと感じたのは、次の部分。

夜になって子どもみたいにおうおう泣きながら男が玄関から飛びこんで来た。
「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と男は叫んだ。
諏訪から来たその男とは「まだ電車あるかな、もうないかな、
ぼくもう帰る」と泣きながら帰っていった。

 この男については、説明は、ほかにない。男の名前がわからない。男がが谷川徹三とどういう関係だったのか、わからない。谷川が知っている人か、知らない人かもわからない。まったくの他人だ。男についてわかることは、「先生死んじゃったよォ」と泣いたこと。弔問に来たのに「まだ電車あるかな、もうないかな、ぼくもう帰る」と電車のことを気にしていたことだけである。
 いや、そうじゃない。実際に男がどう感じていたかわからないけれど、あ、男は谷川徹三をとても尊敬していたのだ、ということがわかる。谷川徹三には、こういう無邪気な「信頼」を引き寄せる力があったのだと、わかる。私の書いた「わかる」は、間違っているかもしれない。もしかしたら、膨大な金を貸していたのに返してもらう当てがなくなって泣き叫んでいるのかもしれないけれど、私はそんなふうには考えずに、こんなに無邪気に自分のことだけを言って泣いているなんて、よほど谷川徹三が好きだったんだと思ってしまう。えっ、こんなときに、こんな無邪気に泣き叫んで、自分のことしか考えられない大人がいるんだとわかって、感激する。「わかった」と書きながら、実は、そこに泣きじゃくる男がいる、男は泣いているのに帰りの電車を気にしているということ以外はわからないのだけれど。そこで起きている「こと」、そこでだれかがした「こと」しかわからないのだけれど。
 これが、散文。
 これが、叙事。
 散文とは、事(こと)を叙述すること。「情(気持ち)」を書いたりはしない。「気持ち」を書くかわりに、行動を書く。「悲しい」と書くかわりに「泣いた」と書く。「泣いた」はわかっても、「悲しい」かどうかは、わからない。「泣いた」から悲しいと私がかってに思うだけである。
 だから--と私は飛躍して書いてしまうが、この詩を何度読んでも、私は谷川俊太郎の悲しみをわかったとは思わない。感情がわかった、その悲しみに共感したとは、私には書けない。谷川の悲しみを理解し、同情し、「お悔やみを申し上げます」というより先に、わっ、おもしろい。こんなことが起きるんだ。谷川徹三が死んだとき、谷川はこんなことを体験したんだ、とわかる。どれもこれも、私の父が死んだとき、私が体験したこととはまったく違う。
 同居している女と二階で喧嘩した、とか天皇からきた「祭●料」の袋にゴム印が押してあったのを見た、ということがわかる。そこに、そういうものを見ている男がいるということが鮮明にわかる。谷川もきっと三万円のゴム印が印象に残ったのだろう。だから、それを書かずにいられないんだろうと、と「わかる」。いや、そう勝手に想像する。
 この私の想像、私が感じることが、谷川の感じたままであるかどうかはわからない。わからないけれど、それは私には気にならない。谷川がどう感じるかではなく、私がどう感じるか、なのだ。
 そして何度も書いてしまうが、私は、谷川の気持ちを無視して、そこで起きている「こと」をおもしろいと思ってしまう。人が死んで、そのことを悲しんでいるのにおもしろいという感想をもつのは不謹慎かもしれないけれど、おもしろい。興味をそそられる。もっと読みたい、と思ってしまう。
 ギリシャ悲劇を見ている感じだ。オイディプスが嘆き悲しむ。その嘆き、悲しみの深さがわかるわけではないが、オイディプスが体験した「こと」がわかる。そして、そこに嘆き悲しんでいる男がいるという「事実」がわかる。それから先は、私がオイディプスになって感じることであって、オイディプスが感じているこことは違うかもしれない。しかし違ったとしても、私たちは、自分の感情が動けば、自分の感情の方をほんものと思って、嘆き、悲しむ。自分が涙を流して、はじめて「悲しい」という気持ちにひたる。役者が舞台で流している涙は演技かもしれないが、それを見て流す観客の涙はほんものなのだ。「叙事」に触れて動く読者のこころはほんものなのだ。
 書いた人(演じる人)の「こころ」の「ほんもの」よりも、読者(観客)は、自分の「こころ」をほんものだ信じる。「こころ」はあくまで個人的なものであって、共有できない。「こと」とは違う。
 そこに何が起きているか、だれが動いているか、それがわかればそれでいい。

 あ、これでは説明しきれていないかもしれない。言いなおそう。
 「父の死」の最初の部分は「叙事詩」である。そこでは「事実」が書かれている。「事実」とは「他人」(自分の感情/精神では支配できない)もののことである。

自宅で死ぬのは変死扱いになるからというので救急車を呼んだ。
運ぶ途中も病院に着いてからも酸素吸入と心臓マッサージをやっていた。馬鹿々々しくなってこちらからそう言ってやめて貰った。

 自宅での死亡を「変死」と扱うのは「他人」である。死んでいるのに酸素吸入や心臓マッサージをするのも「他人」である。「他人」は谷川の論理(感情を含む)とは無関係に動いている。違う基準で動いている。その行動は谷川から見ると「馬鹿々々しい」かもしれないが、そうするのが彼等の基準なのである。
 「別居している私の妻が来た。私は二階で女と喧嘩した。」というのも、「他人」の発見である。別居している妻が来たのは、谷川徹三が「義父」だから、来るしかない。それに対して女が「なぜ、別居している(別れている)のにあの女が……」「だって、義父だよ」というような喧嘩をしなければならないのも、二人の女が「他人」だからである。(こんなことは谷川は書いていないが、私は勝手に想像したのである。)他人は谷川の思いなど気にしない。自分の思いを気にして行動している。だからというわけでもないが、私も谷川の思いなど気にしないで、勝手に感想を持ってしまう。
 他人の思いは、説明を聞いたってわからないことがある。説明がなければ、なおのことわからない。ただ、そこにそう反応する女がいる。そこに、こんな行動をする救急隊員がいる、医師がいる、ということしかわからない。
 別な言い方をしてみる。この死には複数の人が出てくる。しかし、そのだれかが谷川の思いを代弁するわけではない。谷川の悲しみを説明してくれるわけでもない。むしろ谷川の悲しみを否定するかのように勝手なことをしてくる。無意味な心臓マッサージがその最たるものだ。
 また登場人物に谷川が自分の感情を託しているわけでもない。他人は谷川の感情を受け入れてはくれない。女は谷川とけんかをする。けんかしているときではないのだが。この詩のなかの登場人物の感情と谷川の感情はまったくといっていいくらいにまじわらない。ただ「こと」だけが谷川のまわりで繰り広げられる。
 その「こと」のなかには、天皇から「祭●料」がくるとか、その金額が三万円とか、金額はゴム印で押してあるとかということや、勲章がくる、勲章を狙った額縁屋のダイレクトメールがくるといった庶民には関係ないような「事実」もある。その「事実」があらわれるたびに、私は、へーっ、そうなんだ、と妙に感心する。なんておもしろいんだと思ってしまう。
 一方、勲章を見ながらレモンを連想し、そこから父親がレモンで脚をこすっていたというようなことを谷川が思い出すを発見し、そうか、そんなふうに具体的に思い出すくらい谷川は父とは密接な感じがあったんだなあと思う。そのときの谷川の悲しみの深さはわからないが、思い出すということは感情が動いていることであり、その動きにつられてしんみりしたりするのだけれど、でも、それよりもレモンで脚をこすっていたのか、という「事実」の方がおもしろいなあ、とこころが動く。私もやってみようかな、と思ったりする。

 で、おかしいばっかりなのだけれど、そのおかしさを全部読み終わると、何か、こころが落ち着いている。そうか、そうなんだ。これを全部受け入れるということが、ひとりの死を受け止めることなんだ、とわかる。
 谷川は、散文を書き、その散文を「叙事詩」にまで昇華させている。それが「父の死」の最初の部分である。--そう、わかる。

 このあと、詩は、行わけの、詩らしいことば、喪主あいさつとつづき、最後に、「その後」が書かれている。父が死んで、葬儀もすんで、ちょっと落ち着いたときの谷川の様子が書かれている。
 その最後が私は、とても好きだ。

                                  父
はもう死んでいるのだと気づいて夢の中で胸がいっぱいになって泣いた。目が
さめてもほんとうに泣いたのかどうか分からなかった。

 「夢の中で泣いた」。それは「夢」だったのか、それとも「ほんとう」なのか。それが「分からない」。
 これを、どう読むか。
 私は「自分のことは分からない」と読む。他人の「こと」は、わかる。だれが何をしたか、それは客観的に「叙事」することができる。けれど、自分に起きている「こと」は客観的には「叙事」できない。「わからない」。
 ここに「抒情」のはじまりがある。「叙事」と「抒情」のつなぎ目がある。
 谷川は、この詩で、その「つなぎ目」をはっきりと見ている。
 「ほんとう」の気持ちは「わからない」。わからないから、わかるようにするために、「抒情詩」は自分の気持ちをつくっていく。ことばで整理し、強調していく。
 谷川は、しかし、その「気持ち」をつくりすぎるということがない。
 特に「父の死」以後の作品には、何か「自分の気持ちをつくる」(整える)という感じがしない。ことばが谷川自身に対してさっぱりしている。谷川自身よりも、「他人」が出てくることが多くなったと思う。少女とか、若い女性とか、女が「主役」の詩が多くなったと思う。谷川は「他人」を書くようになった。「他人」の「こと」を書くようになったと思う。「他人」の「こと」なら、ほんとうが書けるからである。
 このとき谷川は「他人」に自分を代弁させたりはしない。あくまで「他人」は「他人」のまま動く。--だから、私は、それを「叙事詩」と呼びたい気持ちになる。



 少し脱線。
 私が谷川とはじめて会ったのは数年前。福岡で催しがあって、私はそれを見にいった。催しのあと、谷川と少し話す機会があった。そのとき私は「父の死」が日本語の詩のなかではいちばん好き、と言った。「森鴎外の散文精神を思い出した。岡井隆の『注釈するもの』は巨大なビルのようなおもしろさがあるが、「父の死」は平屋建ての美しさがある。散文と詩が融合している」というようなことも言った。そのあと、
 「この作品で、谷川さんは、がらりと変わった。そう感じた。何かあったんですか」
 「父が死んで、重圧がなくなった」
 正確ではないが、そんなふうに答えた。
 へえーっ、と声が出るくらいに私は驚いた。そうなんだ、谷川のような有名な詩人になっても、なおかつ谷川徹三というのは重圧だったんだ。
 妙に感心(?)してしまったが、何か「枠」のようなものがとれたというのはほんとうだろうと思う。
 佐野洋子との出会い、谷川徹三との別れ--このふたつによって、谷川はほんとうに激変した。『女に』と『世間知ラズ』の二冊の詩集で、私は谷川が大好きになった。

世間知ラズ
谷川 俊太郎
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(87)

2014-06-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(87)          

 「ユダヤの民について(紀元五〇年)」は、「イアンテス」というギリシャ風の名前の青年を描いている。「画家。詩人。走者。円盤投擲者」であり、父親は「アントニウス」とローマ風の名前。そのイアンテスの主張が、そのまま語られる。

「私の最良の時は
感覚の美の追求をやめる時です。
優雅ではあるが厳格なヘレニズムの教えに背を向ける時です。
ヘレネスの教えは、完全な形の、だが朽ち果てる定めの白い四肢に
身を焦がす教えです。

 「時は……の時です」「教えは……の教えです」という枠構造の中でことばが動いている。硬苦しい感じのする文体だ。いつものカヴァフィスのもの(存在)を投げつけたような、歯切れのいい文体とはずいぶん違う。カヴァフィスにはユダヤの文体は、ここに書かれているように「厳密な論理」(同義反復、異質なものを排除する主義)に見えたのかもしれない。カヴァフィスは、こんな風に自分の「声」とは違う「声」もきちんと聞き取り、それを他人の「主観」として書くことのできた詩人だ。
 カヴァフィスが自分自身の主張をするなら「時は……時です」というような同じことばの反復で世界を閉じるのではなく、違ったものを持ち込むことで「定義」を解放するだろう。異質なものぶつけることで、風穴を開けるだろう。その風穴をとおして読者が何を見るかは読者にまかせるだろう。
 だが、この厳密な「論理」は、どこまで有効か。ギリシャの、アレクサンドリアのなかで「論理」を守れるか。

だが、やりおおせる場所柄じゃなかった。
アレクサンドリアの芸術と快楽主義に
どっぷり漬かって、その申し子であり続けた。

 これはカヴァフィスの「声」。アレクサンドリアにはアレクサンドリアの「論理」がある。それはユダヤの論理とは違う。アレクサンドリアに生きている限り、ユダヤの論理は守りとおすことはできない。「芸術と快楽主義」に溺れ、それを生きるしかない。それに染まってしまう。ギリシャにとっては、芸術と快楽こそが「論理」である。
 ユダヤの「論理」はギリシャの「論理」にのみこまれ、吸収される「論理」である。--ユダヤの「論理構造」にしたがって言えば、そうなるのだろう。
 カヴァフィスは、他人の「声」を引用しながらも、そしてそれを利用しながら、自己主張(ギリシャこそが絶対)という「主観」をきっぱりと語っている。
 「やりおおせる場所柄じゃなかった」の「場所柄」ということば、「柄」という「あいまいな広がり」がユダヤの厳密と向き合い、そこから反論がはじまるのもおもしろい。ユダヤの「論理」では「場所」とは言っても「場所柄」とは言わないだろう。
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谷川俊太郎の十篇(7 なめる)

2014-06-16 11:08:43 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(7 なめる)
                           2014年06月16日(月曜日)

なめる

見るだけでは嗅ぐだけでは
聞くだけではさわるだけでは足りない
なめてあなたは愛する
たとえば一本の折れ曲がった古釘が
この世にあることの秘密を



 『女に』を読んだときのことを私はいまでもはっきり覚えている。「詩学」から執筆依頼がきた。批評の依頼だ。テーマはなんだったか忘れたが、わりと自由に書いていいという感じだった。そのテーマを探しに書店に行って『女に』を見つけた。
 詩の一篇一篇が短くて、薄い。立ち読みで、あっと言う間に読み終わった。読み終わった瞬間、批判を書きたいと思った。
 『定義』や『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『コカコーラ・レッスン』とあまりにも違いすぎている。軽い。そして弱い。よし、谷川批判を書こう、とその瞬間に思った。
 そのとき思ったことを、思ったままを書くと、ことばの「勃起力」が弱い。たとえば中上健次は「長々と射精した」というような行をどこかに書いていたが(吉行淳之介が「弱々しく射精した」と書いたころである)、その激しさがない。読んでいて、その射精の感覚にあこがれる、というようなことがない。欲望をそそられることがない。
 この詩集では「……」に

正義からこんな遠く私たちは愛しあう

 とエクスタシーを書いている作品もあるのに、セックスの充実感(射精感)がない。女と手を取り合って、それだけでうっとりとしている、恍惚状態になっている。
 こんなんじゃつまらない。バタイユの向こうを張れとはいわないけれど、クンデラと拮抗するくらいの強靱さがほしい。
 そう思った。
 で、家に帰ってもう一度読み直し、どの作品を取り上げて批判すべきか……とことばを動かしているうちに、私の感想は一八〇度転換してしまった。批判するはずだったのに、感心してしまった。その感心したことを書きたいと思った。
 谷川はこの詩集でひとりの女(佐野洋子)と出会い、愛し合うのだが、その仮定が、人間が生まれてから(生まれる以前から)死ぬまで(死んだあとも)の「時間」のなかで再現されている。両端のない長大な時間(永遠につながってしまう時間)の中を、それでは猛スピードで駆け抜けるかというと、そうではない。「少しずつ」進んで行く。
 猛スピードで駆け抜けると中上健次やバタイユになるのだが、谷川と佐野は、まったく逆に「少しずつ」しか進まない。進むというより、ある一瞬に「時間」をとめさえしている。それなのに、生まれる前から死んだあとまでの「時間」がすぎている。
 これはいったい何なんだ。

 考えながら読み直したとき「少しずつ」に出会った。「少しずつ」は、『女に』のキーワードで、それは「会う」という詩の中に一回だけ出てくる。

はじまりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた

 という具合に出てくる。
 「私はあなたに少しずつ会っていった」というのは、かなり奇妙な日本語だ。ふつうの日本語なら、「あなたに何度が会っているうちに、少しずつあなたのことがわかるようになった」というかもしれない。けれど、谷川は「わかる」とは書かずに「会う」ということばで世界をとらえている。そして、その会い方は(わかり方は)、「手に触れる前に /魂に触れた」という具合に、ふつうの順序とは逆なのである。手に触れて、ほかの部分にも触れて、その「肉体」の奥にある魂にようやく触れることができるのが一般の出会い方なのに、谷川は逆。手に触れる前に、いきなり「魂」と接触する。それも「過激に」ではなく、「少しずつ」の繰り返しで。
 これは、とても不思議だ。
 さらに不思議なのは、その「少しずつ」は詩集の中で一回限りしか書かれていないのに、実はどこにでも補うことができることだった。ほんとうは「少しずつ」はあらゆるところに書かれている。「少しずつ」がこの詩集の基本的な「生き方」なのである。
 これは、『日本語のカタログ』の職業訓練について書いた部分を参照してもらえると、わかりやすいかもしれない。「カタログ」では身体障害者厚生指導所での訓練内容を羅列した部分があったが、そこでは「技術習得訓練」ということばはすべて取り除かれていた。それは「わかりきっている」ために書かれていなかった。同じように「少しずつ」は谷川にとって「わかりきっていること」なのでほかの詩篇では書かなかった。書かないと「意味」がわかりにくい「会う」という作品にだけ、それが書かれていた。(『日本語のカタログ』では「自動車操作訓練」にだけ「訓練」が書かれていた。)
 「わかりきっていること」、その人の「思想の本質」は、ふつうは口に出されることはないのだ。
 筆者には「わかりきっている」ために省略されてしまうことばを探して行けば、筆者の本質に迫ることができると、この作品を読むことで私は発見したのだが、その省略されたことばを中心に詩集読み直し、この詩集がとてもよく「わかった」。そして谷川を新しく発見したと思った。谷川は、この詩集で生まれ変わっている。新しく誕生した。再生ではなく、完全に新しくなった。その新しい谷川に、私はこの詩集で出会った。

 乱暴な言い方をすれば、それまでの谷川は「男の詩人」だった。しかし、『女に』を書くことで「女に」生まれ変わった。私はこの詩集のことばは勃起力に欠けると書いたが、女にはペニスがないのだから勃起しようがない。射精の愉悦がないと批判したが、女は射精しないのだからその愉悦もないのは当然である。
 それでもこの詩集には、生きているよろこびがある。
 それはこの詩集のことばが「女」のことばを生きているからである。「少しずつ」生きる変化していくというよろこびが「すこしずつ」大きくなって、男と女を超えて、いのちをつつんでしまう。

 女と男は、どう違うか。
 男はばかだから、一度始めたことを壊してやりなおすということができない。詩でも小説でもそうだが、ある作風(個性)をつくりはじめたら、それをただひたすら巨大にすることしかできない。女は違う。女は、いつでも「リセット」してしまう。月経のたびに、次の排卵期こそ授精して子どもを産もうと思うことができる。(男は次の射精のときこそ、なんて思わない。)女は出産することで、女をもういちどやりなおす。生まれ変わる。その生まれ変わりを肉体そのものの力として実感できる。
 男も、女を妊娠させ、子どもの出産に立ち会うたびに男に生まれ変わる--と言えるかもしれないけれど、いやあ、これは空想だね。概念だね。肉体的には何も感じない。女が子どもを産むことは「肉体」をわけること(肉体が分離すること)だが、男はそれを概念としては理解できても実感できない。
 だから「リセット」ということができない。どうしても、過去に始めたことをそのまま繰り返し修正するという形で拡大することしかできない。そして、どんどん概念的なことばの世界に閉じこもってしまうことになる。本人は閉じこもっているつもりはないだろうし、作り上げたことばの構造物の巨大さをほこるだろうけれど……。

 谷川は、そうではない。生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」することを覚えた。『女に』は『定義』『夜中に台所で』『コカコーラ』とつながるものはない。ことばを積み重ねることで、ことばを超えようとする暴力はない。むしろ、ことば以前になることで、生まれる前から死後の世界までをとらえてしまおうとする「矛盾」のような不思議なうごきがある。ことばがないなら、何もとらえられないのに、ことば以前、未生のことばをめざすのだから、これは矛盾としかいいようがない。
 --というのは、男の「論理」であって、女の「リセット」を生きる生き方にとっては「論理」の矛盾は意味をなさない。「リセット」の瞬間、論理はなくなるのだから、矛盾もなくなるというのが女の肉体(思想)だろう。
 どうやって谷川はそれを手に入れたのか。佐野洋子と出会うことによって、としかいいようがない。私は佐野洋子を知らないので、私の書いていることはいいかげんなものになってしまうが、ともかく信じられないような影響を谷川に与え、谷川を「リセット」させたのだ。
 「リセット」した瞬間、谷川は、男でも女でもなくなった。「いのち」になった。
 --と書いてしまうと、観念すぎて、うそっぽい。書きながら、私は、あ、ただ恰好よさそうなことばを並べているなあ、と思ってしまう。

 二〇年以上も前のあのとき、ほんとうに思ったこと、前後の脈絡もなく、突然思ったことを書こう。
 あ、谷川は女に生まれ変わった--そう思ったのが「なめる」である。

なめてあなたは愛する

 この詩の真ん中にある一行を読むと、「なめる」のはあくまで「あなた」(佐野洋子)であって、「私(谷川)」ではないが、「なめる」ことを書くとき、谷川のことばは実際に何かを「なめている」。
 その次の行の「一本の折れ曲がった古釘」というのは何だか古びたペニスを連想させ、そうなると「あなた」がなめているのは「私のペニス」というエロチックな図が浮かんでくるが、そのエロチックなものはすこしわきにおいておいて、「なめる」ということそのものを考えてみると……。
 「なめる」--これはかなり危険なことである。異物を口に入れることだから。なめたものが体内に入り、体内の組織を破壊するかもしれない。その結果、死んでしまうということだってある。それなのに、なめる。なめるは「受け入れる」という動詞の、原始的な形なのかもしれない。
 谷川は「古釘」がなめられる快感の中で、なめる行為の強さを知ったのかもしれない。何でも受け入れ、受け入れてから考える「女」の思想というものを「肉体」で感じたのかもしれない。
 あなたが「一本の折れ曲がった古釘が/この世にあることの秘密を」なめて知ったとき(確かめたとき)、私は「なめられる」ことをとおして、「なめる」は世界の秘密を解くことだと知ったのだ。「自分の中に入れてしまう」ことで、自分自身が生まれかわることを知ったのだ。
 それは「古釘」をペニスに置き換えて言いなおせば、ペニスはなめられて、口の中で大きく成長していく。なめることは、なめたものを自分の中で成長させること、新しい力をよみがえらせ、誕生させることだ。他人が自分を突き破って育っていくことを受け入れることだ。自分を突き破っていくように促すことだ。

 こんな例がほんとうに正しいのかどうかわからないまま書くのだが。
 たとえば初期の作品の「ビリー・ザ・キッド」。あの作品では、谷川はビリー・ザ・キッドを自分の「肉体」のなかに入れていた(取り込んでいた)というよりも、自分の感性、思想をビリー・ザ・キッドの「死体」のなかに投げ込み、死体はこう感じるだろうと想像しているように思う。
 しかし、最近の詩集『こころ』に登場する少女たち、女たちは、谷川の「肉体」の内部から生まれてきている。谷川が少女や女たちに自分の思いを代弁させているのではなく、少女や女たちが逆に谷川の「肉体」を借りてことばを発している--そういう「いきいき感」がある。
 佐野洋子になめられて谷川のペニスがむくむくと育つように、谷川のなめた(口に含んだ、谷川の口のなかでことばになった)少女や女たちは、谷川を突き破って動いていく。谷川がどう考えているかとは関係なく、少女自身の、女自身のことばを動かす。それまでの谷川のことばを突き破って、自在に動く。その自在に動くことばの躍動を、谷川はなめて、口のなかで感じて、味わっている。
 ことばのセックス、オーラルセックス。

 『女に』を分岐点にして、谷川は生まれ変わった。「リセット」した。「リセット」する方法と「女になる」方法を、「なめる」という詩を書くことで、佐野洋子から吸収し、奪い取った。「女になる」は男の否定ではない。女になったあと、またリセットすればいいのだから。すべてを捨て去って、最初から、最初以前(未生のことば)からやりなおせばいいのだから。何度でも、何人の人生でも、そうやって生きることができる。

女に―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
マガジンハウス
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(86)

2014-06-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(86)          

 「憩いに就く」は男色の詩である。

夜中の一時だったか。
それとも一時半。

      酒場の隅だったね。
板仕切りの後ろ、
きみと二人きり。他に人はいなかったね。

 と、はじまる。そこで肉欲にふける。時間が具体的に描かれているので、つい最近のできごとなのかと思う。「隅だったね。」「いなかったね。」と問いかけるような口語も最近という印象を呼び起こす。親しい人に呼び掛ける口調が、親しい(親密な、つい最近の)時間を引き寄せる。

胸ははだけて--もともとろくに着ていなかったね、
神のごとき七月の燃えさかる中。

 この行も「七月」という具体的な言及が、いまはせいぜいが八月か九月という印象、どんなに遠くても一年前という印象。ふたりは神の(彫像の)ように、燃えさかった。「神の」というのは、人のことなど無視して(関係がない)という感じで、だろう。最近のことなので激しさがあざやかによみがえる。ところが、

大きくはだけた着物と着物の間の
肉の喜び、
肉体はただちにむきだしとなって--
そのまぼろしは二十六年の時間をよぎって
この詩の中で今憩いに就くのだよ。

 なんと、それは二十六年前のことなのだ。
 カヴァフィスにとって「時間」とは「時」と「時」の「間」ではない。「間」はいつでも、存在しない。あるのは、ある一瞬の時、そして別の時。そこに隔たりはなく、かわりに「親密さ」がある。時と時を結びつける、強烈な「主観」がある。
 この詩はたまたまカヴァフィスの二十六年を結びつけているが、彼が史実をもとに、誰かを主人公にするときも、詩人は、歴史上の人物と自分を「主観」で結びつけ、「時間」の「間」を取り去って、そこに動いている「主観」を描く。「……だったね」「……だよ」と親しく寄り添って。寄り添うことで、「できごと」を詩の中に、カヴァフィスのことばの中に抱きしめる。抱きしめられた「できごと」は、やっと「憩い」を見出す。ことばになることができないとき、「できごと」は「時間」の「間(魔)」を彷徨う。
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谷川俊太郎の十篇(6 日本語のカタログ「588」)

2014-06-15 15:44:09 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(6 日本語のカタログ「588」)
                           

七沢第一更生ホーム 厚木市七沢五一六-一 〇四六二(四八)二一一一 理学療法、作業療法、職業訓練
新潟県身体障害者更生指導所 新潟市岸町三-二一 〇二五二(六六)四一〇八 縫製、印刷、自動車操作訓練
富山県立身体障害者厚生指導所 富山市石金六〇 〇七六四(二一)一一六一 編物手芸、洋裁、自動車操作訓練、タイプ、写植
石川県身体障害者更生指導所 石川郡野々市町末松酉三二一 〇七六二(四八)三二〇四 洋服、洋裁、和裁、縫製加工
福井県身体障害者更生指導所 福井市尖陽二-三二一 〇七七六(二四)五一三五 洋裁、メガネ枠、編物、写植印刷
長野県身体障害者リハビリテーションセンター 長野市大字下駒沢字横町六一八-一 〇二六二(四三)三九五三 時計、縫工芸、クリーニング、孔版、精密機械



 この詩には「リハビリテーション関係施設一覧より」という注釈がついている。しかし、その注釈がなくても事故か何かの後遺症などで身体に障害をもったひとが訓練を受ける施設が書かれていることがわかる。
 まず、それぞれの施設の「名称」が書かれる。次に住所(所在地)、さらに電話番号、そこで受けられる職業訓練の内容が書かれている。そう「わかる」のは、その書き方が、いわば「定型」だからである。いつか、どこかで似たものを見た(読んだ)記憶があり、それを思い出すから説明がなくても何が書いてあるかわかる。「定型」は記憶を誘い出す装置、記憶をよみがえらせいまを整理する装置である。
 施設名、住所、電話番号、訓練内容という順番に並んだ「定型」が、そこではこれこれの訓練ができ、それをマスターすれば自立できるという「定型の意味」を強固にする。
 「定型」が「意味」をつくり、そこから「リズム」が生まれるので、私たちは「リズムに乗って」、つまり「軽々」とした感じで、そこに書いてあることを把握することができる。楽々と「わかる」。「定型」は「わかる」を助けてくれる。
 「定型」は項目の羅列の順序だけではない。施設の名前にも「定型」がある。「地名」があって、そのあと「身体障害者」「更生(厚生)」「指導所」とつづいていく。(一部に「身体障害者」ということばがないけれど。)その順序にかわりはない。
 「住所」も同じ。「県」からはじまり、「市」「町」へとつづく。「住所」はそういう表記が「習慣」だからそうなっているのだが、これも「定型」である。ほとんど「定型」とは意識しない「定型」。
 で、「定型」があるために、私たちは、それをさっと読むことができる。省略しながら読むこともできる。実際にその地域に住んでいる人以外は、その地域の項を読みとばす。電話を欠ける必要のない人は電話番号を読みとばす。「定型」は実用にとても便利だ。
 また別のこともおきる。住所にもどって言うと、「県」とか「市」とかを聞き漏らしたり、読みとばしたりしても、それを補って認識してしまう。
 そして、その「補い」は住所の県や市だけではない。
 「訓練」の内容を見ていくと、その「補い」がはっきりする。
 「自動車操作訓練」ということばが何度か出てくるが、そのほかの名詞にも「技術取得訓練」というようなことばを私は無意識に補って読んでしまう。それも瞬時に、ほとんど「無時間」の内に。たとえば、「縫製技術取得訓練」「写植技術取得訓練」という具合。そして、無意識にその「定型」を繰り返すことで、ここに書かれている「指導所」はもっぱら手を使えるひとのための訓練であるということもわかる。手で縫製をする、手で写植作業をする……。
 この「一覧」は、いわば、そういう「補いの定型」を活用してつくられている。ことばには「言わなくてもいいことば」がある。言わなくても、わかることばがある。というより、私がいま書いているように、それをこまごまと書いてしまうと「うるさい」と感じることばがある。
 「定型」は必要とすることばと必要ではないことばを区別するところで成り立っていると言い換えることができる。
 「定型」には「同じ繰り返し」によって生まれるものと、「同じ省略」によって生まれるものがある。「省略」は書かれていないのでわかりにくいが、「定型」なのである。
 谷川の詩を読むと、この「省略の定型」というものが、とても自然につかわれているような気がする。

いもくって ぶ
くりくって ぼ

 この「おならうた」には、「ぶ」「ぼ」の音のあとに、「と、おならが出た」(と、おならが音を立てた)というようなことばが省略されている。省略してあっても、私たちは自然にそれを補って読んでいる。「肉体」がおならが出るときの「音」を覚えているので、いちいちおならが出た、そのときこんな音がしたと書かなくても「ぶ」「ぼ」でわかってしまう。谷川は、そういう「わかっていること」を省略し、「省略の定型」を自然に作り上げる。
 谷川は意識の運動の「定型」を熟知していて、それを利用している。これは谷川の詩を把握するとき、とても大切なことだ。「定型」をどう変更すれば、新しい音楽として美しく響くかを「本能」のように知っている。
 谷川は、この詩で、「定型」の自然な美しさ、うるさくない美しさに共鳴している。「省略の定型」に、無音の「音楽」を感じているようにも思える。「音」だけが「音楽」ではないのだ「省略の定型」を音楽として聞きとる耳、それを再現する声をもっている。

 この「定型」の音楽として、この詩を読むと、また別なことにも気がつく。
 たとえば、多くの住所は県、市、町とつづいていくのだが、長野のリハビリテーションセンターは

長野市大字下駒沢字横町六一八-一

 と「大字」「字」がまぎれこむ。そうか、長野の施設は街の中心地にあるのではなく、郊外の方にあるのだな、と私は想像してしまう。「住所表記の定型」が私のなかにあって、そのためにそう反応してしまう。「定型」を利用すると、「定型」のまわりにある「情報」が自然にことばを整理して、かってに情報を生み出してしまう。
 そのことから、少し目をこらすと……。
 「技術取得訓練」はたいていが似通っているのだけれど、福井と長野にはほかにはないことばがある。

メガネ枠(福井)、時計、精密機械(長野)

 それが、くっきりと目に飛び込んでくる。ことばがきらめいて見える。そして、意識を叩く。そういえば、福井はメガネ枠の生産量が全国一だったな、長野は空気が澄んでるので時計や精密機械の製造には最適の土地だったな、--と社会の授業で習ったなあというようなことが思い出される。
 「メガネ枠」や「時計(精密機械)」は、それまでの「技術」の「名詞」の「定型」を破っている。「定型」は「定型」をはみ出して行くものをくっきりと印象づける。この「定型の破壊」が、私には「音楽」のきらめきのように感じられる。
 「音楽」と思わず書いてしまうのは、それが「意味」を離脱しているからである。それ以外の「縫製」だの「洋裁」「写植」という、どこにでもある「職業」という「意味」を離れているからである。音楽とは「意味」を超えた音である。
 谷川は「省略の定型」(沈黙の音楽)を聞きとると同時に、小さな変化を最大限に響かせる声を知っている。「意味」ではなく、音楽として響かせる方法を知っている。大声を張り上げるのではなく、聞こえるでしょ?という具合に、読者の耳を澄まさせる方法を知っている。これは私(谷川)の声ではありません、あなたが聞きとった声ですと読者に呼び掛けるようにしてささやく声の出し方を知っている。

 この詩以外でも、谷川は『日本語のカタログ』で日本語の「定型」を収集している。たとえば「135」はシャワー付のガス風呂の「取扱説明書」だが、そこには「取扱説明書」の「定型」がある。「661」は「道のきき方」(道の教え方?)の「定型」がある。「定型」があると、その奥に「生活」のようなものが見えてくる。「肉体」が見えてくる。谷川は、こういう「生活の定型」というものを信じてことばを動かしている。
 「定型」を利用して、言わなくていいことを言わない。「意味」を少しだけずらして新しいことを言う。特別なことを言う。ただし、それは完全な無意味ではなく、福井のメガネ枠や長野の時計(精密機械)のように、どこかで生活としっかり結びついている。ことばの背景に暮らし、生活の場、働き生きている人々をつかみとっている。ことばを人(他人/いのち)と結びつけてみせる。そういえば、そうだったなあ、というものを引き出してくる。

 『日本語のカタログ』に集められた複数の「定型」を、複数の「音楽」と呼ぶこともできる。音によってつくりだされた「音楽(たとえばメロディー、和音)」ではなく、「音を動かす運動形式」、運動としての「音楽」と呼ぶことができるかもしれない。
 運動としての音楽、運動形式としての音楽--というのは奇妙な言い方だが、「リハビリ施設一覧」ののようなことばの羅列のなかにも、その羅列を一定方向に整えながら動かす力がある。それを私は「音楽」と呼びたい。動かし方は「意味」ではない何かである。動かすことよって「意味」が生まれるのだから、この動かし方は「意味」よりももっと根源的な、説明のしにくい何かである。(だから私の説明はわかりにくくならざるを得ない--というのは、自己弁護。)
 この複数の「定型」、複数の「音楽(文を成立させる運動形式=文体)」は、また、複数の「他人」と呼ぶこともできる。「文体(としての音楽)」には、それぞれそれをつかう人(好む人)の変更不可能な何かが関係している。
 極端な例をひとつ。
 日本の住所の表記は、県-市-町と広い所から狭いところへと縮小するように動くが、欧米では町-市-県と動く。これは、ものの「見方」の差がそのまま定着したものだ。個性が文体になったものである。私(日本人)と欧米人は、最初から「他人(違った人間)」であるとわかっているので、住所の表記の「定型」が違っていても、気にならない。違っていて当然だと受け止めてしまう。「定型」は「他人(他者)」を識別するのに役立つし、「他人」を受け入れるのにも役立つ。

 谷川の詩には、たいてい「意味」があり、その「意味」はわかりやすい。「意味」が「定型」だからである。「認識の定型(共有された認識)」が「意味」だからである。谷川は、その世間に流通している「意味(流通意味)」をどんどん取り入れてことばを動かす。ただし、そこに、たとえば「メガネ枠」「時計」「精密機械」というような、少しだけ違ったもの(固有の何か)を突き合わせ、「定型」を破ってみせる。完全に破壊するのではなく、その破れ目から人の暮らし、生きている人間がくっきりと見えるようにする。そうすると、その「メガネ枠」「時計」「精密機械」もそれなりに「定型」であるはずなのに、何か不思議な光に見えてくる。新しい音の響きが聞こえてくる。思わず、そこに引き寄せられてしまう。そこに、新しい意味--といっても、すでに存在しているのに気がつかなかった意味、見落としていた意味を見つけ、はっとする。見落としていた思想に頭を殴られた感じだ。
 「定型」が破られ、「定型」が完成するといった感じ、思想が根底からつくりなおされるといった感じの、瞬間的な驚き。

 谷川の詩には、感性の、いのちの「定型」がある。--唐突すぎる「結論」だが、そうメモしておこう。

日本語のカタログ
谷川 俊太郎
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(85)

2014-06-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(85)          

 「午後の日射し」は女性が主人公。カヴァフィスには珍しい作品だ。そのなかに、おもしろい行がある。

戸口の傍に寝椅子ね。
その前にトルコ絨毯。
傍らに棚。そこに黄色の花瓶二つ。
右手に、いや逆ね、鏡付の衣裳だんす。

 「あの家の横を」という作品にもものの羅列が出てきたが、それは「店、横丁、石、/壁、バルコン、窓。」と名詞だけで形容詞を持たなかった。この余分なもの(形容詞)を排除し、本質だけを描出するするというのがカヴァフィスの視力なのだが、「午後の日射し」に登場する女は逆。「トルコ」の絨毯、「黄色」の花瓶、「鏡付」の「衣裳」だんす。女は、ものに附属するものを見ている。「寝椅子」の「寝」さえも修飾語に見える。
 こんなにもののとらえ方が違っては、カヴァフィスと女は相いれないだろう。一緒にいても互いが理解できないだろう。
 とはいうものの、カヴァフィスには、その「声」が聞こえた。こんなふうにものの表面を見て、ものの表面に「意味」を見出す人間がいるということを知った。この詩ではたまたまそれが「女」として登場するが、カヴァフィスの出会った男のなかにも、表面にこだわり、それをいとおしむ人間がいただろう。

ああいう古いものって、まだどこかをさまよっているでしょうね、きっと。

窓の傍らの寝台。
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね。

 表面の変化。ものの表面を動いていく変化。それが動いていくものだからこそ、「どこかをさまよっている」と想像することができる。「古いもの」とは「もの」自体ではなく、それを修飾する性質である。女にとって本質とは変化しないものではなく、移ろうものなのだ。
 だから、別れるしかない。

……あの日の午後四時に別れたわ、
「一週間」って--それから……
その週が永遠になったのだわ。

 しかし、この三行は、女のことばではないかもしれない。あの日の「変化」は「変化」で終わってしまった。普遍になってしまった。終わってしまうと、その瞬間は「もの」そのものの本質のように「永遠」になる。この三行はカヴァフィスの告白だろう。
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谷川俊太郎の十篇(5 タラマイカ偽書残闕)

2014-06-14 11:11:18 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(5 タラマイカ偽書残闕)
                           2014年06月14日(土曜日)

タラマイカ偽書残闕
Ⅰ(そことここ)

わたしの
眼が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
開く。

わたしの
耳が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここで
語る。

わたしの
鼻が
遠くへ
行った。

わたしの
口は
ここに
黙す。

わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ



 この詩の情報量は非常に少ない。書かれている「名詞」が少ない。「動詞」も少ない。けれども抱え込むイメージはとても豊かだ。神話に登場する初めての「人間」の声を聞く感じがする。
 わたしの眼が/耳が/鼻が遠くへ行った。そのときの「遠く」は同じところなのか、違う場所なのか。「遠く」の「場」が同じであったとしても、眼で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだものは同じと言えるか。眼で見たものを耳で聞くことができるか、鼻でかぐことができるか。同じであっても、認識(識別)のありようは違っているだろう。もし識別の仕方、識別というものが違っていたとしたら、それでも「もの/こと」は同じといえるのだろうか。違うのではないだろうか。
 --というのはこざかしい「論理」で、そこに「差異」があっても「ひとつ」にしてつかみ取るのが詩であって、その詩の力がこの詩にはみなぎっている。詩のはじまりの、「詩の神話」のようだ。「差異」を未分化のものに引き戻し、未分化のまま凝縮している。結晶にしている。そこを通り抜けようとすると、私のことばはプリズムのなかに入った光のように、入るたびにさまざまな方向へ屈折してはじき出されてしまう。
 はじき出されるまま、はじき出されたものを書き並べてみよう。

 もし感覚器官によってとらえることができるものが違うとしても、「肉体」にとっては同じ「ひとつの場」であり、同じ「ひとつのこと」。したら、同じ「遠く」へ行ったとしても、なのではないだろうか。「違う」と「同じ」がぶつかりあって、そのときの「肉体」をいきいきさせる。ことばもをいきいきとしたものに変える。

 あ、私は何を書いているかな?
 谷川は何も書いていないのに、哲学の根源にかかわるようなことが、短いことばから噴出してくる。短く、何も言っていないからこそ、そのことばの原始的な力が闇のなかで輝いている。
 でもこんなところで「哲学」とか「意味」につかまっていてはいけない。もっと違うこと--この詩を最初に読んだときの「興奮」は違うところにある。こんなめんどうくさい「論理」を整えるのに時間をかけていてはいけない。どんどん身動きがとれなくなる。
 そのことを書きたい。

 私の感じた最初の興奮。

わたしの
○○は
遠くへ
行った。

 と、同じことばが繰り返される。繰り返されるとき、そこにリズムが生まれる。音楽が生まれる。音楽は、メロディーよりも前にリズムがあるのかもしれない。その短く、間違えようのないリズムに載って、メロディーの一部が、眼、耳、鼻と変わっていく。
 この変化がとても楽しい。「肉体」が谷川のことばにあわせて、しっかりと自覚できるものになっていく感じ。私にはたしかに眼があり、耳があり、鼻があるということが「わかる」。
 それに合わせて、

わたしの
口は
ここに(ここで)
○○する。

 と、最後の動詞が変化する。
 これが「肉体」に響いてくる。そうか、眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、そのとき口は何かをしたくてたまらない。その欲望を、谷川は「いのり」のように厳しく強い「声」で整えている。「口」からことばが生まれてくる--その瞬間に立ち会っているような感じだ。

 と、書いたらまた「意味」を書きたくなってしまった。「意味」なんてうさんくさいといいながら、「意味」を書きたい衝動に駆られてしまった。しようがない。書いてしまおう。私が何を考えたか、「意味」にしてしまおう。

 感覚器官が変われば、口(ことば?)もまた、その対応の仕方が違う。感覚器官に合わせて、ことばは変化する。
 この変化が、もしかすると「意味」というものではないだろうか。ある存在(もの/こと)に対する反応、反応の仕方が「意味」である。
 それも「遠く(そこ)」ではなく「ここ」で起きる。
 「そこ」とは「かつて」行ったところ、「ここ」とは「いま」いるところ。そして、それが「そこ」であれ「ここ」ここであれ、それは「場(空間)」というより、自分の「肉体」のことである。すべてのことは「肉体」といっしょに「起きる」。眼で(眼に)耳で(耳に)鼻で(鼻に)変化が起きて、言い換えると眼が反応し、耳が反応し、鼻が反応し、その反応によって生まれた新しい何かが口から出て行く。ことばになって。口は、あるいはことばにすることをしないで、その「変化」を肉体の内部にだけ押しとどめるということもある。その結果、「意味」(肉体の内部でうごめく変化の仕方)は複雑になる。
 なんだか、いろんな「意味」を言いたくて、私のことばはうずうずしてくる。けれど、それはうずうずするばかりで、明確なことば(意味)にはならない。
 でも、強く感じる。谷川は、ここで「神話」のことばを書こうとしている。ことばの誕生を書こうとしている。不完全なまま、それでも「肉体」を突き破って動くものを書こうとしている。
 そこに書かれている「意味」は不完全だが、不完全ゆえに、まだまだ生まれてくる。これから少しずつ「意味」を完成して行くという予感がある。
 それが、繰り返しのリズムのなかで、リズムそのものとして共有されていく。これから「変化」が生まれる感覚が音楽として共有されていく。「意味」以前の何かが、共有されていく。

 共有?

 私は自分で書きながら、その共有ということばに驚いている。
 この詩には「わたし」というひとりの人間しか出て来ない。それなのに、私は、「わたし」がひとりではないと感じてしまう。この詩の「わたし」のまわりにはたくさんの「わたし」が闇となって隠れている。「わたし」になろうとしている。「わたし」がことばを発したら、そのことばをつかみとって、それを「核」にして赤ん坊のように生まれたがっている「いのち」がうごめいているのを感じる。
 あるいは。
 この詩の「わたし」は「わたし」という人間を産みだすことで、「社会」を「個人」のように統一しようとしている。統一のための、試行錯誤をしている。「わたし」が生まれて、そのあとに「わたしたち」がわっと生まれてくる。「わたしたち」は「わたし」を共有している。いや、「わたし」を生きている。共生している。
 このとき、この「統一」というものと「意味」がたぶん合致するのだ。「統一」のための「認識の仕方(認識のあらわし方)」が「意味」なのだ。「意味」は、そういう視点から見れば重要だけれど、「統一」をめざすがゆえにうさんくさくもある。「統一」に不都合なものを排除しようと動くことがある。
 この詩では、もちろん、そんなことは書かれていない。それが、この詩を幸福にしている。
 「統一」や「意味」のうさんくささが組織化される前の、ことばになりたいという欲望、力だけがあふれている。力がありすぎて、ことばの「意味」を内部で破壊している感じだ。
 「意味」や「統一」が生まれる瞬間のダイナミックな動きが書かれていると感じ、興奮する。

 でも、ことばは、どうやって生まれるのか。
 最初に、やっともどれた感じがする。
 私が書きたいのは、こういうことだ。

 ことばは、まず、音としてある。次にリズムとして存在する。繰り返している内に、そこに変化が生まれる。違ったものを言ってみたくなる。違ったものを、そのリズムに乗せてみたくなる。そうすると変化が生まれる。いままで知らなかった音が広がっていく。音が変わると、それを聞いているときの「肉体」そのものが変化する。
 だんだん、こうした方が気持ちがいい。楽しい、ということがわかってくる。そして、その方向へ自然に音が並んで動いていく。音の形ができてくる。まるで音の肉体が成長していくような感じ。
 強くなったり弱くなったり。それにメロディー(複数の音)が重なり、知らず知らずに音楽に育っていく。ひとつの音だったものが、音の「楽しみ」になり、みんなで共有できる感情(歌)に変わっていく。

わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ

 この最後の二行は、そうやって昇華された「歌」なのだ。

 この詩は「神話」と「歌」が生まれる瞬間をつかみ取って再現している。音が声になり、声がことばになり、ことばの肉体が神話になり、やがて神話のなかに歌がうまれる。神話のなかのできごとを繰り返し語り合う内に、ことばの音が音楽を生み出す。
 逆かなあ。音(ことば/声)のなかには最初から音楽があり、それが神話を内部から鍛えているのかもしれない。
 どう言ってもいいのかもしれない。どっちも同じなのだろう。
 眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、それをことばにしたり、逆にことばにすることを拒んで肉体の内部に隠したりしながら、心は共有されるようになる。
 「ゆきつもどりつ」する心が「歌」なのだ。
 ことばが生まれ、それが歌に変わっていく--その、太古の音楽がここにある。

 『タラマイカ偽書残闕』は十一篇の詩で構成された「長編詩」なのだが、私は、最初の部分がいちばん好き。読んでいていちばん興奮する。初めて発せられたことばのように、「意味」になりきれていない部分、逆に意味の豊穰さを感じる。意味を生み出す力を感じる。
 後半に行くにしたがって、ことばが増え、感情も増えれば論理も増えていくのだが、そうした部分を読めば読むほど、同じことばを繰り返しながら、少しずつ変化していく「Ⅰ」の強いリズムがなつかしい感じでよみがえる。

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(84)

2014-06-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(84)          

 時間の凝縮、反復による時間の隔たりの消滅--は「隣のテーブル」でも指摘できるだろう。

ほら、あの子。どう見ても二十二歳かそこらだろ。
だけど私はおよそそれくらい前にあの子の身体を
味わったよ、たしかに。

 これは、カヴァフィスが二十二歳くらいのときに味わった官能を思い出している。ここには「あの子の身体を/味わったよ」と書かれているが、それは逆かもしれない。つまり、二十二歳のときに自分が味わった官能を、いま、二十二歳の青年を見ることで思い出しているということ。
 官能というのは不思議だ。誰かに導かれて「味わわされた」ものであっても、それは「受け身」のままでは終わらない。「味わう」という「能動」にかわってしまう。自分で味わってこそ、よろこびになる。
 「味わわされる(受け身)/味わう(能動)」は「ひとつ」になる。「同じ」になる。「ひとつ」になってこそ、よろこびである。
 だから、

あの身体だ。同じものだ、私が味わったのは。

 と「同じ」ということばが出で来る。「あの子の身体」を味わったのではなく、あの子の身体が味わうのと同じものを、二十二歳のカヴァフィスは味わったのだ。

どのしぐさにも覚えがある。
そして服を透して、裸が、私の愛した肢体が今一度見える。

 その「幻」は、カヴァフィスが「肉体」で覚えているからこそ見えるのである。
 「覚えがある」は「見覚えがある」ではない。
 途中に、

場所は思い出せないけれど、
それ一つだけの記憶喪失じゃ問題にならんだろ。

 という二行があるが、「場所」は関係がない。「肉体」という「現場」はいつでも「私自身」に属している。「肉体」という現場のなかで、時間は、その肉体を垂直に貫く形で噴出する。
 「時間」は消え、「体験」がいっそう濃密になってゆく。


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谷川俊太郎の十篇(4 かっぱ)

2014-06-13 09:46:48 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(4 かっぱ)
                           

かっぱ

かっぱかっぱらった
かっぱらっぱかっぱらった
とってちってた

かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった



 『ことばあそびうた』の一篇。谷川はいろいろなことば遊びの詩を書いているが、私は「かっぱ」の一連目がいちばん好きだ。響きがいいことはもちろんだが、「かっぱらった」という乱暴なイメージと音の交錯がいい。
 「かっぱらう」は「盗む」という意味だが、「盗む」よりも乱暴な気がする。しかし、陰険な感じはしない。「盗む」の方が、何か暗い感じがする。「かっぱらう」は乱暴な分だけ明るい。隠れて盗むのではなく、目撃されている感じが、豪快だ。
 「かっさらう」ということばもあるが、音の力が弱い。

 なぜ、「かっぱらう」が私を引きつけるのか。
 たぶん、私は何かを「かっぱらっいたい」のだ。欲望があるのだ。
 「かっぱらう」は悪いことである。してはいけないことである。しかし、子どもというのはしてはいけないということをしたい。してはいけないことをやって平気な顔をしている仲間を尊敬してしまう。
 してはいけないことをしたい--というのは反抗期かもしれない。禁じられていることをするのは、子どもにとっていちばんの楽しみだ。「いい子」なんかでいるのはつまらない。「悪い子」の方がどきどきする。わくわくする。とんでもない可能性がある。
 してはいけないことをすると、大人が困る。その困ったが見たい。
 子どもが「うんこ」の話をしたがるのは、人が(大人が)いやがる顔を見たいからだ。大人がいやがる顔を見ると、なんだか大人と対等になった気持ちがする。大人を困らせた、という満足がある。

 この詩の魅力は、しかし、うまく言えないなあ。
 ほかの詩と比較して語るしかないのかもしれない。
 「うんこ」という作品の終わりの方。

どんなうつくしいひとの
うんこも くさい

どんなえらいひとも
うんこを する

 この二連には「意味」がありすぎる。「美しい」と「偉い」を「うんこ」に引きつけて対等化する。「美しい」と「偉い」を「無意味」にする。こういう「無意味化」は笑いを誘うけれど、そこには「無意味化する」という「意味」が頑固に居すわっている。
 「かっぱ」のことばは「無意味化」という運動を含んでいない。むしろ、ラッパをかっぱらって楽しむという「意味」をもっている。欲望が自分のなかで完結している。つまり、批判(批評)というものがない。「批判(批評)」というものは、なんとなく、私にはうさんくさいものに見える。

うんこよ きょうも
げんきに でてこい

 でも、この最後の二行はいいなあ。うんこを励ましている。その声が、そのまま自分を励ましているように見える。うんこが元気なときは自分が元気なのだ。ここには「批判」ではなく「肯定」がある。

 「おならうた」も楽しい。「うんこ」のように「批評」がない。純粋に「音」を遊んでいる。
 「ぱぴぷぺぽ」から外れて、

こっそり す

 という一行が割り込むところが傑作だし、

ふたりで ぴょ

 というのも楽しい。
 でも、あまりにも「純粋」すぎる。
 大人からは、せいぜい「おならの話なんかしないで」と叱られるくらいで、「ものを盗むなんて……」というような叱られ方はしない。
 「おなら」の話は、最初から許してもらえる範囲にとどまっている。
 良心(?)に逆らって悪いことをしているという、快感・興奮もない。
 そこには「暴力」がない。「暴力」があった方が、私は、詩がいきいきしていると思う。
 「うんこ」の「どんなうつくしいひとの/うんこも くさい」も、それが「批評」であることによって「暴力」になっているが、それは同時に「意味」でもある。「意味」のある「暴力」は、うさんくさい。「かっぱらう」は批評を含んでいない純粋の「暴力」である。

 音の美しさだけでいうなら「ののはな」の方が美しいと私は感じる。

はのののののはな
はなのななあに
なずななのはな
なもないのばな

 途中に「ず」「ば」という濁音が入るが、ここが私は好きだ。濁音によって音が豊かになる。でも、それは「暴力」ではない。

 「かっぱ」にもどろう。
 「かっぱ」「らっぱ」「かっぱらった」は音の入れ換えで構成されている。音が入れ換わると意味が変わる。「ののはな」がある種の「意味」で統一されて、そのなかで音の入れ換えがあるのに対して、「かっぱ」は音の入れ換えで「意味」が逸脱していく感じが、とんでもなく開放的に感じられる。
 「らっぱ」から「とってちっとた」というラッパの音に変わるのも、「かっぱらう」を「意味」突き破っていくようで楽しい。
 私は「かっぱらう」という暴力にひかれたのだが、そういう「暴力」という意味さえも突き破っていく。
 音だけで世界がある、という感じが、「鉄腕アトム」の「ラララ」と何か似ている。

 二連目は、一連目に比較すると「意味」になりすぎていると思う。

ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(83) 

2014-06-13 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(83)          

 「あの家の横を」は、むかし馴染んでいた町をふたたび歩く詩。歩くとどうなるか。過去を思い出す。「若かった時、頻繁にかよったところだ。/エロスのおそろしい力が/私の身体をとらえたところだ。」しかし、過去を思い出すだけではない。

古い通りを通った。
店、横丁、石、
壁、バルコン、窓。
みんなにわかに美しく見えた。

 これは、「町」が変わったのではなく、カヴァフィス自身が変わったのだ。「見えた」は「外観」の変化ではなく、カヴァフィスの「内面」の変化である。「美しく見えるようになった」のだ。
 「店、……」からつづく単語の羅列。名詞の羅列。どんな形容詞ももっていない。それが、「内面」の変化の「証拠」である。外見上の特徴(変化)はない。書きようがない。「外観」はそのままで、カヴァフィスの「こころ」が、それを美しくする。

愛の魔法だ。みにくいものは何一つなかった。

 このことばがつづくとき、「みにくいもの」とは「店、……」のように、眼で見える「形(存在)」ではない。「こころ」のことである。エロスを求める力。そのエロスがどんなものであれ、それはみにくくはない。美しい。それは「愛」なのだから。
 若いときは、どこか「こころ」の奥底に「やましさ」のようなものを感じていたのかもしれない。けれど、いまなら、こういえる。「あれは、すべて美しかった」。そして、その美しさは、過去からいまへ蘇ってくる。過去といまがとけあって、カヴァフィス自身を若返らせる。「みんなにわかに美しく見えた。」を私は「みんな若く美しく見えた。」と誤読しそうになる。

あのドアの前でしばらく立っていた。
窓の外をそぞろ歩きしながらとどまっていた。
私の全存在が内にこもっていた官能の情熱を放射した。

 「官能の情熱」がよみがえり、それが「内にこもっていた」ことを気づかさせてくれる。すべては失われてはいなかった。すべては失われることはない。すべては、あらゆる瞬間に時間を超えて、新しくよみがえる。
 この「再生」が詩。
 生まれ変わり、生きなおすとき、その先にあらわれるのは「過去」か「未来」か。区別がない。「過去/いま/未来」がひとつになって「私の全存在」として動く。
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谷川俊太郎の十篇(3 ビリー・ザ・キッド)

2014-06-12 11:25:01 | 谷川俊太郎の10篇
                           2014年06月12日(木曜日)

細かい泥が先ず俺の唇にそしてだんだん大きな土の塊が俺の脚の間に腹の上に 巣をこわされた蟻が一匹束の間俺の閉じられたまぶたの上をはう 人人はもう泣くことをやめ今はシャベルをふるうことに快よい汗を感じているらしい 俺の胸にあのやさしい眼をした保安官のあけた二つの穴がある 俺の血はためらわずにその二つの逃げ路から逃れ出た その時始めて血は俺のものでなかったことがはっきりした 俺は俺の血がそうしてそれにつれてだんだんに俺が帰ろうとしているのを知っていた 俺の上にあの俺のただひとつの敵 乾いた青空がある 俺からすべてを奪ってゆくもの 俺が駆けても 撃っても 愛してさえ俺から奪いつづけたあの青空が最後にただ一度奪いそこなう時 それが俺の死の時だ 俺は今こそ奪われない 俺は今始めて青空をおそれない あの沈黙あの限りない青さをおそれない 俺は今地に奪われてゆくのだから 俺は帰ることができるのだもう青空の手の届かぬところへ俺が戦わずにすむところへ 今こそ俺の声は応えられるのだ 今こそ俺の銃の音は俺の耳に残るのだ 俺が聞くことが出来ず撃つことの出来なくなった今こそ

俺は殺すことで人をそして俺自身をたしかめようとした 俺の若々しい証し方は血の色で飾られた しかし他人の血で青空は塗り潰せない 俺は自分の血をもとめた 今日俺はそれを得た 俺は自分の血が青空を昏くしやがて地へ帰ってゆくのをたしかめた そして今俺はもう青空を見ない憶えてもいない 俺は俺の血の匂いをかぎ今は俺が地になるのを待つ 俺の上を風が流れる もう俺は風をうらやまない  もうすぐ俺は風になれる もうすぐ俺は風になれる もうすぐ俺は青空を知らずに青空の中に棲む 俺はひとつの星になる すべての夜を知り すべての真昼を知り なおめぐりつづける星になる



 詩は、『二十億光年の孤独』がそうであるように、たいてい「私」が主役(話者)である。「私」の気持ちを書いたのが詩。でも、「私」を主人公にしないで、小説のように、「物語」として書くこともできる。「ビリー・ザ・キッド」はそういう作品。詩は、何を、どんな形式で書いてもいい。それが「現代詩」だ。読みながら興奮したことを覚えている。そして、興奮していたときは気がつかなかったが、この詩に谷川の「本質」のようなものがあふれている。
 たとえば書き出し、

細かい泥が先ず俺の唇に

 と、突然「唇」が出てくることに。
 なぜ、唇? 死んで、埋葬される。その死体が、土を最初に感じるのが唇? 背中は、まあ、置いておくとして、土をかぶせられて最初に困るのはどこだろう。顔は顔でも、唇ではなく眼とか鼻とかが気になると思う。死んでしまって見えないのだけれど、土がかぶさればその「見えない」が「現実」になってしまう。それが気になるのでは?
 でも谷川は唇から書きはじめている。
 これは谷川が「ことば」を生きているということ、そしてそのことばは「声」と強く結びついていることを意味しないだろうか。口に出して言ってこそことばなのだ。--いま読み返すと、そう感じる。谷川はいつも「ことば」といっしょにいる。それも「書く」というより「声」のことばといっしょにいるのだ。だから「唇」を最初に書いてしまう。
 私が最初に気にするだろうと想像した眼(まぶた)が登場するのは、そのあとだ。谷川は視覚でことばを動かす詩人ではない。だからこそ、死後という眼では見えない世界を書いてみようと思ったのかもしれない。視覚を中心に生きている人間なら、見えないことを書くとき何を中心にして書いていいかわからない。谷川は、そのことを悩まなかったに違いない。
 目が見えないとき、人が頼るのは聴覚(耳をすます)と触覚(手探り)だが、聴覚が登場するのも、谷川の詩では、まだ先だ。「触れる」ということばはつかっていないが、唇に触れる土を感じ、腹の上に落ちてくる土を感じるということろから、谷川はことばを動かしている。谷川は触覚(直接触れる)ものを重視していることがわかる。直接触れることができるものをことばにする--それが谷川の詩なのだろう。
 その触覚も、よく見ると、とてもおもしろい。

巣をこわされた蟻が一匹束の間俺の閉じられたまぶたの上をはう

 土が触れるではなく、蟻がはう。はうのを触覚で感じる。しかも、その蟻は墓を掘るときに巣を壊された蟻。巣を壊されたのなら何匹も蟻がいるはずだが、「一匹」というのは変かもしれないが、ことばの力点(想像力の力点)は、そこにあるのではなく、「巣をこわされた」にある。
 ビリー・ザ・キッドの世界は人間の世界だが、その世界は他の生き物の世界に広がっている。人はひとりの世界を生きているのではない。他者がいる。そのことを谷川は感じていて、それが無意識に詩に反映している。
 谷川の詩に窮屈な感じがないのは、他人に向けて、ことばがいつも開かれているためだろう。

 この詩の書き出しには、まだ多くの谷川の秘密のようなものが隠されている。論理立てるのではなく、ただ目についた順番にそれを書いていく。

人人はもう泣くことをやめ今はシャベルをふるうことに快よい汗を感じているらしい

 この「快よい」は不思議な「矛盾」のようなものを抱え込んでいる。ビリーを埋葬するのは悲しい。しかし、埋葬するために肉体を動かしていると、その動きをとおして快感が生まれる。こころと体は必ずしも一致しない--というのではなく、こころは、いつでもどこからでも生まれてくる。その「生まれてくる」ということを防ぎようがない。制御できない何かが人間にはある。

俺の胸にあのやさしい眼をした保安官のあけた二つの穴がある

 「やさしい目」も「矛盾」のひとつだ。保安官の眼がビリーに「やさしい」ということはないだろう。けれど、その保安官だって「やさしい」時がある。「やさしい」から人殺しが許せない。だからビリーを殺す。ことばの「定義」はむずかしい。ことばは、いつも「場」といっしょにある。「こと+場」が「ことば」なのだ。ことばはそれが発せられるときひとつの「こと」ひとつの「場」をあらわそうとするのだけれど、隠れている「場」も同時にみせてしまう。かけはなれた「場」が「いま」というときのなかにいっしょになってあらわれてしまう。
 ひとは同時に二つの場に存在できないというのが世界の常識だが(物理の定義だが)、ひとつのことばは複数の「場(背景)」を呼び寄せることができる。だからこそ「解釈の違い」というものも生まれる。
 谷川のことばは、ことばの「定義」をひとつにすることをめざしているというよりも、いくつもの「場(背景)」を呼び集め、どんなふうに読んでもいいよ、と言っているように感じる。
 「矛盾」を随所に放置することで、世界が固定化するのを防いでいる。ある世界を書きながら、同時にその世界を解放/開放している。

 保安官の撃った二発の銃弾。銃弾があけた二つの穴。(ここで、私は、「一匹の蟻」のことをふと思う。あの「一匹の蟻」は「二つの穴」の「二つ」を明確にするために書かれたのだと思う。)そこから血が流れるのだが、

その時始めて血は俺のものでなかったことがはっきりした

 というのも「矛盾」だ。常識に反する。肉体のなかを流れる血はあくまでもその人のもの。でもビリーは違うという。では、だれのものか。保安官のもの? いや、ビリーという人間に、ある夢を見た多くの人のもの。無名の多くの人は、ビリーのように強くは生きられない。あんなふうに生きてみたいという欲望がだれの胸にもある。その人たちの血が流れていくのだ。
 ビリーが死んだとき、人が泣いたのは、自分の「欲望」がビリーといっしょに否定され、失われたからだ。
 この入り組んだ感情の交錯もまた「矛盾」であり、解放/開放である。いろいろな意識を誘い込み、自在に動くように促す。

 その開放/解放(どう書くのがいちばんいいのかわからないので、あえてごちゃまぜにしておく)の行き着く先が「空」、あるいは「宇宙」だ。
 血は、青空へ帰っていく。
 詩は、

俺は帰ることができるのだもう青空の手の届かぬところへ俺が戦わずにすむところへ

 と書かれているが、そのときの「俺」は「俺の肉体」であって、「俺のこころ(ことば)」は青空を意識しつづけている。長々と青空のこそが書かれているのがその証拠である。「肉体」と「こころ(ことば)」は反対の方向(矛盾)へ動いていく。それは矛盾しているけれど、強く結びついていて切り離すことはできない。(切り離せないから矛盾しているとも言えるのだが……。)

 このあと、詩に、不思議な、とても不思議な展開をする。

今こそ俺の声は応えられるのだ

 この「声」とは何だろう。
 谷川には、何か書きたいことがある。書かなければならないことがある。けれど、それはまだ「明確」にはなっていない。「声」にまつわること、ということだけはわかっている。わかっているけれど、その「わかっている」はあまりにも谷川の肉体にぴったりとからみついていて、意識として切り離して語ることができない。だから無意識に「声」と書いた--そういう印象がある。
 無意識に書かれたことば、作者が無意識に書かざるを得なかったことば--それがその人のキーワード(思想の核)であると私は考えているが、この「声」については、それ以上のことはかけない。
 強引に「ことば」に結びつけて「意味」をつくりだすこともできるかもしれない。批評は、「意味」によって、その充分に語られていない「声」を補足し、定義する仕事かもしれないけれど、私はそういうことをしない。
 わからない。けれど、気になる、とだけ書いておく。
 この「声」と書き出しの「唇」が呼応して、何か言おうとしていると感じる、とだけ書いておく。
 あ、すこし補足して、「俺の声」を谷川は二連目で説明しなおしている、とも書いておこう。その「声」のなかに、

もうすぐ俺は青空を知らずに青空の中に棲む 俺はひとつの星になる

 と書いてあることも指摘しておく。「青空に棲む星(白昼も輝いている星)」。谷川は「声」の詩人だが、「声」に力を注ぐのは、実は「青空に輝く星」が見える視力を持っているから、視覚を気にしないのかもしれない。

 (私は眼が悪く、視力の強い人のことばは苦手である。もしかすると、私は谷川の視力の詩を無意識に避けているのかもしれない。最近の谷川は田原の詩に親近感を感じているように見える。その田原はとても視力の強い人である。谷川と田原は視力によって共鳴しているのかもしれない。--これは、蛇足。いつか、視力についてわかったら、何か書いてみたいという私的メモ。)

愛について (1955年)
谷川 俊太郎
東京創元社
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新保啓「黄昏の道」、金井裕美子「置き場」

2014-06-12 10:02:26 | 詩(雑誌・同人誌)
新保啓「黄昏の道」、金井裕美子「置き場」(「詩的現代(第二次)」9、2014年06月発行)

 新保啓「黄昏の道」は犬と散歩する詩。犬のことを「ワンちゃん」と書いている。うーん、いやだなあ。その「ワンちゃん」が「話者」になってる。うーん、こういうのも好きじゃないのだが。

小波が寄せていた
軽い便りのように
道をとぼとぼさせた
平らな道なのに
浮き足だってよろけた

 「小波」って何かなあ。海の近く? 川沿い? 違うだろうなあ。夕暮れの光の「小波」かなあ。夕暮れの、きょう最後の光が道に届く(便りのように)。それが影をつくって、その光と影の交錯が「小波」? わからないけれど、印象に残る。「とぼとぼ」と「平らな道なのに/浮き足だってよろけた」はちぐはぐなのだけれど、何かに向かってむりやりイメージが結晶するという感じはないところが、妙にくすぐったい。

ゆるんだ紐が空にかかり
知らない家と家の
間に
落ちかかっていて
果てしなかった

 「ゆるんだ紐」は電線かもしれない。洗濯物を干す紐かもしれない。
 けれど、私は犬と飼い主をつなぐリードと読みたい。信頼関係があるから、紐はたるんでいる。歩調があっているから、紐がぴーんと張ることはない。その紐は人間の目からは「空にかか」っているようには見えないけれど、犬の低い目線からは空にかかっているように見えるかもしれない。
 ここで、私は、犬になってしまって、「そうか」と感激したのである。
 夕日の名残が広がる道も、きっと人間の目線から見るときと、犬の目線で見るときでは違っているだろうなあ。
 犬は、わざわざそんなことを言わないので、わからないが。(私も犬を飼っているが、そんなことは考えたことがなかったが……。)

まだ帰る気がない人が
いっぱいいて
じゃまだから
道の端を遅れて歩いた

 飼い主のあと(真後ろ)だけは、他人がはいり込む余地がないので安心して歩ける。邪魔者がないのだね。

ワンちゃんが黄昏の道を
歩いていた
遠くから幸せな仲間たちの
声が聞こえてきて
嬉しかった
犬にしか聞こえない声だけれど
家が舞っていることを知らせてくれた
一軒だけ灯りのついていない家が
ぽつんと 遠くで
手を振っていた

 うーん、「ワンちゃん」の思いなのか、飼い主(新保)の思いなのか、区別がつかない。そこがいいんだな。家に帰る。そのことの「意味」を区別してもしようがない。家に帰るよろこび、家にいる(家がある)よろこび--に犬も人も区別がない。
 そして、その家は、「灯り」がついて、完成する。中に人がいて完成する。その完成を家の方でも待っている。「手を振って」を私は、なんとなく「尻尾を振って」と読んでしまったのだけれど。



 金井裕美子「置き場」は、プールに浮かんでぼんやりしているときのことを描いている。水泳の練習なのか。あるいは浮いているのは人間(金井)ではなく、もっとほかのもの、丸太とか死体とかかもしれないのだが、金井と思って私は読んだ。

プールに
浮いています
忘れられた浮き輪のように
ぷかっと
仰向けに浮いています
体の向きが変わって
プールの縁に
頭がこつんと閊えると
鎖骨のくぼみに
ながいながい竿の先がさしこまれて
ぐいっと押されます

 まさか浮いている人間を竿で押し返す、しかも鎖骨のくぼみに竿を差し込んで、ということはないだろうから(だって、痛そうでしょ?)、浮いているのは金井ではないのだろうけれど、それでも金井と私は思いたい。
 金井の肉体が、そのまま浮いている何かになっている。浮いている何かが金井の肉体になっている。その区別がつかなくなっている。この一体感が、詩、なのだ。
 先に読んだ新保の「黄昏の道」では犬と飼い主が一体になっていた。犬と家が一体になっていた。かけ離れたものの偶然の出会いではなく、別個のものが「肉体」をとおして「ひとつ」になるとき、そこに詩があるのだ、と私は思う。
 押し返された何かは別の何かとぶつかる。そのとき、その別の何かは、また別の誰かの「肉体」である。

押されると
思い出したように縁から離れ
漣を寄せて
体は
内へゆっくり移動します
水面に広がって
髪は藻のように揺れます
足の指が
だれかの腰骨に触れると
鳩尾に
差しこまれて
くいっと押されます
体は
あてもなく
ゆらりと向きを変えます

 詩の中に「鎖骨」「足の指」「腰骨」鳩尾」など、肉体の部位を書き込むことで、何かと「肉体」の一体感があふれてくる。浮いているときの「水」さえ、その一体感のなかにはいってくる。
 材木か死体かわからないけれど、そういうものになってみたい気持ちになる。自分の意識は関係なくて、ただだれかに押されてあっちへぷかり、こっちへぷかりと動きながら時間が過ぎていくというのは、いいものかも。
 そこは無為の時間の「置き場」かもしれないなあ。



詩集 あちらの部屋
新保 啓
花神社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(82) 

2014-06-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(82)          

 「九時から」はカヴァフィスのことばの速さをあらわしている。カヴァフィスの詩には省略が多いが、それは省略というより、充実した時から別の充実した時への飛躍と読み替えることができる。

十二時半。九時からの時間の早さ。
明かりを点けてここに座ったのは九時。
本も読まず、口も開かずにずっと座っていた。

 何もしない。それでも時間が過ぎていく。そして、その何もしないとき、人は何をしているのか。

九時に明かりを点けた時から、
若かった私の身体の影が私に憑いて、
思い出させた。過去の情熱を閉じ込めた
むせかえる香の部屋部屋を。

 過去を思い出す。若かった自分の肉体を思い出す。官能のよろこびを思い出す。「部屋」ではなく「部屋部屋」と複数なのは、その思い出がいくつもあるからだ。そして、それはいくつもあるけれど「部屋」というひとつの単語のなかで繰り返される。つまり、それはいくつあっても「ひとつ」と同じことなのだ。
 このいくつあっても「ひとつ」ということが、時間を凝縮させる。時間の隔たりをなくしてしまう。
 若かった二十年前も十年前も、若くはなくなった一年前も、思い出の「部屋」のなかでは隔たりがなく、隣接している。それは「九時から」「十二時半」までの「三時間半」よりももっと「短い」時間のなかに、濃密に凝縮している。
 時間の凝縮が、時間の長さを「省略」してしまう。「時間」をのみこんでしまう。これが、カヴァフィスの「魔法」である。

十二時半。時間の経過のいかに疾き。
十二時半。過ぎし歳月のいかに多き。

 「疾い」と「多い」が重なり合う。区別がない。
 いや、それ以上のことが書かれている。
 してきたこと(過去)が多ければ多いほど、変化に富んでいれば富んでいるほど、それは濃厚な思い出を作り上げる。そして、その濃厚な思い出のなかに、時間はどんどん沈殿してゆく。その結果、時間は加速する。「過ぎし歳月(ひとつに収斂していく思い出)」が「多く」なければ、時間の経過は「疾く」はならないのだ。
 「疾き」「多き」と文語になっているのは中井の工夫だ。そこで時間が止まる。
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