詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎の十篇(2 かなしみ)

2014-06-11 14:22:22 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(2 かなしみ)
                           2014年06月11日(水曜日)

かなしみ

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった



 私が谷川俊太郎という詩人を知ったのは、どの作品が最初だったか、はっきりしない。『二十億光年の孤独』ではないと思う。私が詩を書きはじめた一九七〇年代には谷川はすでに何冊も詩集を出している。そのうちの、どれか。あるいは「現代詩文庫」がまとまって読んだ最初かもしれない。
 当時の私には、難解で過激なことばの洪水が「現代詩」の主流のように見えた。何一つ理解できていなかったが、字面の鮮やかな熟語を過激に組み合わせ、いままで存在しなかったイメージを噴出させるものが「現代詩」であると思っていた。その先入観で見ると、谷川の詩は何か軽い、繊細な青年の美しさを生きているという印象があった。難解な熟語がなく、真似して書けそうな気もした。青春時代の私は谷川の詩が好きではなかった。
 当時の私の思いには、谷川俊太郎が谷川徹三の息子で、谷川徹三が息子の詩を三好達治にみせ、三好達治がその才能を評価し、谷川を詩人として売り込んだというエピソードの方が強く影響しているかもしれない。「親の七光か」という偏見や先入観をもっていた。『二十億年の孤独』を「偏見」なにし読めるようになったのは、ずいぶんあとになってからである。
 というのは、個人的な「前置き」で……。
 初期の谷川の作品では、私は「かなしみ」が大好きだ。特に2連目が好きだ。

 この詩の2連目をどう読むか。落し物をしたと届けに行くのか。落し物を受け取りに行くのか。二通りの読み方ができる。
 まず「落とし物をした」と届けに行ったと思って読んでみる。届けたら「余計に悲しくなってしまった」のは、落としたものが大事なものであると気づいたからである。「余計に」は「さらに」という意味になると思う。見つからないかもしれない。もう出て来ないのではないか。
 あるいは「僕」、何を落としたかわからないが、「何かとんでもない」ものを落とした(なくした)という「喪失感」そのものを届け出たのかもしれない。こんな「喪失感」をわかってくれるひとはいない。遺失物係だって、届け出を受け付けてくれるとはかぎらない。だから「余計に」悲しくなったのかもしれない。
 落とし物が出てきて、それを受け取りにいったという読み方ではどうか。
 落とし物が出てきたのだから「悲しい」はずはない。そういう読み方はできない--というかもしれないが、私はそうは思わない。
 落とし物が出てこないのはたしかに悲しいが、見つかったとしても、それがうれしいとは限らない。こんな言い方が適切かどうかわからないが、何かが充たされるとき、それが求めていたものであるにもかかわらず、逆に「裏切られた」という気持ちになるときがある。不幸が味わえない、不満を味わえない気持ちがどこかからあらわれる。人間はときには「悲しい」を思う存分味わいたいのに、それが味わえなくなった悲しみ。(特に青春時代は、自分を悲劇の主人公にしたい気持ちにあこがれる。悲しみにあこがれるものである。)
 理不尽な思いだが、そういう気持ちがある。
 「余計に」は落とし物をしたとき悲しみとは違った悲しみの、その「違った」を意味する。同じものではない。むしろ、あってはならない「感情」。それは「余計な感情」である。「余計な悲しみ」である。
 谷川は「余計に」と書いているであって「余計な」ではない。だから落とし物が見つかって悲しいという読み方は間違っている--という指摘を受けるかもしれない。
 それは承知している。そう言われることはわかっている。わかっているけれど、私は、そう読みたい。人間のなかにある矛盾したこころ、気持ちを、矛盾したまま放り出している詩として読みたい。
 そう読むとき、「余計に」の果たす役割が大きくなる。悲しくなるはずがないのに悲しくなる――そこに「余計」がある。「意味」の「過剰」がある。余計とは過剰のことなのである。その過剰は、少し多いではない。多すぎて矛盾にまでたどりついてしまう過剰だ。

 この矛盾と1連目は響きあう。矛盾にたどりつくことで見えてくる1連目の不思議さがある。
 落とし物が見つかるという悲しみ--それは、落とし物という自覚がないときの方が強いかもしれない。自分では大事なものとは思わない。だから落としたことに気がつかない。それなのに遺失物係から「落とし物ですよ。届け出がありました。受け取りにきてください」と連絡がはいる。えっ、僕は落とし物をしたのか?
 遺失物係から連絡が入って、やっと「何かとんでもないおとし物を/僕はしてきてしまったらしい」と気づく。気づくといっても、そこには「らしい」という不確定な要素がまじる。ほんとうに落とし物をしたのだろうか。それはほんとうに僕の落とし物なのだろうか。
 受け取りにいって、その落とし物を目にしたとき、あ、それは僕のものだと気づく。
 それならまだいいが、その落とし物に僕の名前が書いてあるのに、僕のものであると自覚できない--そういう読み方もできる。落としたものは「もの」ではなく、何か精神的なもの、こころようなものかもしれない。

 読みつづければ読みつづけるほど、「意味」が確定できない。「意味」は特定できないのに、何か透明な不安のようなものを感じる。「透明な」というのは、「意味」が特定できないからこそ感じるのかもしれない。「存在する」ことは「わかる」のに、それをあらわすことばがない。
 そして、意味が確定できないと思ってもう一度読み返すと、一行目の「あたり」という表現も不思議な感じがする。絶妙な感じがする。「あたり」か。ぼんやりと指定されているが、明確な一点ではない。「特定」されていない。「不確定」は一行目からはじまっている。

 いくつかの読み方から、どの「意味(ストーリー)」を採用するか。自分の「解釈」とするか。はっきりしない。私は「落とし物が見つかって受け取りにいって、余計に悲しくなった」と読むのが好きだが、その読み方にしても、日々、違う。同じ感想が書けない。何か余分なことを書き加えたり、書いたことばを削ったりする。
 この揺れ動きが、たぶん「詩」というものだと思う。
 同じことばなのに、ある日突然、違った「場」で、どこからともなくよみがえり、いまある現実と結びつき、そのいまを違ったものに変えてしまう力--あ、あれは、こういうことだったのかと私を納得させてしまう力をもったことば。それが、詩。
 「かなしみ」は短い詩だが、そういう力が随所に輝いている。全体を統一している。この不安定な、そして透明な揺れ動きに比べると「二十億光年の孤独」は妙に落ち着きはらっている。有名な、

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

 は、「意味」の力がみなぎっている。「定義」になりすぎている。
 最後の二行、

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

 これは洒脱すぎる。洒脱すぎて「洒脱」という意味になって、揺るぎなく存在している。
 この詩よりも、やっぱり「かなしみ」の方がいいなあ。

二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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ウェス・アンダーソン監督「グランド・ブダペスト・ホテル」(★★★★★)

2014-06-11 12:37:52 | 映画
監督 ウェス・アンダーソン 出演 レイフ・ファインズ、F ・マーレイ・エイブラハム、マチュー・アマルリック、エイドリアン・ブロディ、ウィレム・デフォー



 この映画にはシンメトリーが多用される。それは室内の影像、屋外の影像だけではなく、登場人物の「構造」もまたシンメトリーなのである。二人一組。その二人はホテルのコンシェルジェ(師匠)とベルボーイ(弟子)、ホテルのオーナーとオーナーを取材する作家が特徴的だが、一種の反シンメトリーを装いながら、鏡のように互いを整える。作家は整えられない、完全な観察者である--と思うかもしれないが、そうではない。作家の「ことば」がオーナーの「思い出」をたどることで、整えられ、ひとつの形(作品)になっていくという意味では、作家もまたモデルによって整えられるのである。
 なぜシンメトリーが多用されるかというと、影像の情報量が多いからである。多すぎるからである。こんなに多くの情報量を形式にあてはめないで映し出したら、観客は混乱してしまう。シンメトリーにすることで、「半分見ればいい」(あとの半分は同じもの)という感じになれる。この「半分」の効果は大きい。シンメトリーで半分になりながら、その半分は、さらに互いの「同じもの(鏡像になりうるもの)」だけを選んでいるからである。シンメトリーのなかで、あふれかえる情報がどんどん省略されていく。
 色彩も同じような感じだ。たくさんの色彩がある。けれど、そのなかから基調の色を選ぶと、それが全体を染め上げるので、細部を見なくてすむ。情報が多いにもかかわらず、見なくてもすむように全体を整理している。
 だから、登場人物がどんどん増えてきて、話がどんどん複雑になっていっても、ぜんぜん「複雑」にはならない。コンシェルジェが膨大な遺産の受取人になる、それをベルボーイが目撃し、やがてそのベルボーイがコンシェルジェの遺産を受け取るという形にストーリーが展開することがとてもよくわかる。さらに言えば、そのストーリー(遺産)を作家が受け取り、大成功する。ストーリーの反復は、いわば「時間」のシンメトリーである。意識のシンメトリーである。「整理」、単純化である。情報が増えれば増えるほど、「共通項」だけが、そのなかから浮かび上がる。その「整理」の方法がシンメトリー(二人一組)なのである。
 情報量が増えれば複雑になる--というのが一般的な考え方だが、ウェス・アンダーソンは、これを逆手にとっている。舞台となっているグランド・ブタペスト・ホテルもそうだが、膨大な遺産を残した女の住む城(?)の、たとえば次々に開かれていく扉は、単純にこの城は巨大だ、豪華だという認識に整理されていき、個別性は消える。
 だからこそ。
 監督は役者を次から次へと、豪華に出演させる。どの役者も映画の主人公を演じられる。けれど、映じさせない。脇役さえも演じさせない。一瞬でてきて、もうおしまい。それは、まるで縮小していくシンメトリーの目印のようでもある。登場人物が個性的でなければ、何もかもが消えてしまう。個性的であることによって、かろうじてシンメトリーを破っているのだ。
 そして、個性的な役者にシンメトリーを破らせながらも、なおかつ、その破れ目がどんどんシンプルなシンメトリーを生み出すように時間を動かしていく。これは、大変な力業だ。
 で。
 このシンメトリーには最後に大変な「仕掛け」がある。この映画のなかに「りんごを持った少年」の絵が出てくる。値段のつけられない傑作の一枚ということになっているのだが。--その絵のモデルがクレジットに出てくる。その役者は絵として登場するが、本人は出演しない。絵と映画にはでてこない役者がシンメトリーをつくっているのだ。
 そして、ここにこの映画の「哲学」がある。私たちが見ているもの(影像)はほんものではない。それは「モデル」を写し取ったもの。ほんとうは、ない。
 もし、ほんとう(ほんもの)があるとすれば、そのつくりだされた影像(絵)をから逆戻りしなければならない。影像(絵)を鏡にして、自分の生きている世界を、いま見たもののシンメトリーとして見る必要がある。
 できる?
 そう問いかけて、監督は高らかに笑っている。映画なんて遊び。映画なんて、おもちゃ箱さ、というわけだ。
                        (2014年06月08日、天神東宝5)



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(81)

2014-06-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(81)          

 「アイミリアノス・モナイ、アレクサンドリア人、紀元六二八年-六五五年」は、人と対面したときに武器ではなく「みなりと作法と話し方を/恰好の鎧にしよう」とした男のことを描いている。
 だが、そんなことが可能なのか。

奴等は私をいたぶりにかかるはずだ。
だが、そばに来る奴の誰一人として
私の傷のありかはわかるまい。私の弱い箇所は
詐術が私をすっぽりと覆っているから大丈夫だ」

アイミリアノス・モナイはそう言って胸を張った。
だが、あいつはほんとにそんな鎧をつくっていたか?
とにかく、長く身に着けていなかったのは確かだ。
二十七歳でシチリアで死んだのだから--。

 「紀元六二八年-六五五年」はどんな年なのか。何が起きたのかわからないと、この詩を理解したことにならないかもしれないのだが、そういう時代背景を抜きにしても、人は「みなり、作法、話法」だけで世の中を潜り抜けられないことを知っている。いつだって「詐術」だけでは生きていけないことを知っている。
 カヴァフィスは、なぜ、こういう詩を書いたのか。
 「話法」そのものが「主観」であるとカヴァフィスは感じていたのかもしれない。対人心理だけで生きていける--そう信じるのも「主観」である。カヴァフィスは「主観」ならばどんな「主観」であっても肯定しようとしているのかもしれない。
 その一方で、「だが、あいつはほんとにそんな鎧をつくっていたか?」という一般的な疑問も「主観」として登場させている。「みなり、作法、話法(詐術)」では生きていけないと考える「主観」もきちんと描いている。
 その対比によって、世間一般が「時代」をどのように見ていたかがわかる。そんなもので「長く」世の中をわたっていくことはできない。常に「時代(の支配者)」がかわりつづける。
 乱世なのだ。
 「話術(詐術)」が通じるのは、平和な世界である。
 「とにかく、長く身に着けていなかったのは確かだ。」という行には、時代を見誤ったものへの冷たい視線がある。「長く」ということばに皮肉の冷酷な響きがある。
 人は誰でも、他人のふりを見てわが身をなおす。自分の動き方をきめる。「モナイになってはいけない」と乱世の人は思っただろう。
 そんなことより「紀元六二八年-六五五年」とわざわざ生きた年代を書いていること、時代に個性(時代の主観)を見て、モナイを強調している手法に目を向けるべきだったか。カヴァフィスはいつも個性と普遍を重ねている。
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谷川俊太郎の十篇(1 鉄腕アトム)

2014-06-10 10:53:30 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(1 鉄腕アトム)
                           2014年06月10日(火曜日)

鉄腕アトム

空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム 十万馬力だ 鉄腕アトム

耳をすませ ラララ 目をみはれ
そうだ アトム 油断をするな
心正しい ラララ 科学の子
七つの威力さ 鉄腕アトム 七つの威力さ 鉄腕アトム

街角に ラララ 海のそこに
今日も アトム 人間まもって
心はずむ ラララ 科学の子
みんなの友だち 鉄腕アトム みんなの友だち 鉄腕アトム

*

 谷川俊太郎の詩に出会ったのは、これが最初だ。と言っても、谷川の詩とは意識していない。谷川がどういう詩人かも知らずに、ただ、そのことばと出会った。
 「ラララ」が楽しい。ここがいちばん好き。
 なぜ、そこが好きなのか、子どものときのことを思い出せない。で、どうしてもいまの感想をまじえて書くことになるのだが……。

空を超えて 星の彼方

 と、「ラララ」を省略しても意味はかわらない。そうなら、「ラララ」はなくてもいいのに、そのなくていいものがなぜ好きなんだろうか。
 たぶん。
 「意味」ということばを手がかかりに子ども時代をふりかえると、子どものとき「空を超えて」の「意味」はわかっていなかった。「星の彼方」の「意味」もわかっていなかった。ただ何となく、いま自分のいる地球(地上)よりももっと遠く、見えている空よりももっと遠くという感じだけが漠然と「わかった」。
 「空を超えて」と「星の彼方」が同じ意味であり、それが「宇宙」をあらわし、またそれが「どこまでも」という「比喩」であると言いなおすことができるようになるのは、ずーっとあとのことだ。
 子どものときは、「空を超えて」と歌ったあと、わけもなく「ラララ」と一呼吸置いて「空の彼方」とことばが動いていくときの、その呼吸がうれしかった。
 「意味」ではない、ただの音。しかも明るい「ラララ」という音が楽しかった。
 「空を超えて」には意味はある。子どものときは明確に意味を考えないけれど、考えなくても意味があることはわかる。けれど「ラララ」には意味がない。ただ声を出すことのよろこびがある。

 あ、そうか、私は意味よりも音、声が好きなのか。私は「ことば」が好きなのではなく、声が好きなんだなあ。音が好きなんだなあ。何と読んでいいかわからないむずかしい本が私は苦手だが、あれはむずかしいことば(漢字)のなかから音が聞こえてこないからだ。日本語として聞こえてこないから、なじめないんだ、きっと。

 むずかしいことばに比べると「ラララ」はいいなあ。
 「ラララ」という音は、私の肉体のなかに「楽しい」何か、「明るい」何か、「軽い」何かを思い出させる。
 ひとは楽しいとき、うれしいとき、こころが軽いとき「ラララ」と口ずさむ。「リリリ」でも「ルルル」でも「レレレ」でも「ロロロ」でもない。「ラララ」と声にしてしまうのは「本能」なのか、それとも楽しそうな顔をした人が「ラララ」と声をはずませるのを聞いたことがあって、それを覚えているために楽しいと感じるのか。つまり、楽しいとき人は「ラララ」ということを、無意識のうちに学び、覚えてしまうのか。
 どちらかわからないが、覚えたことが「本能」になってしまうということもあるだろう。
 そのとき「覚える」のは「ラララ」はいう声(音)だけでもない。「ラララ」と一緒にある楽しい表情、目の輝き、ほっぺたや唇の色、手足のはじけ方--説明しようとするとことばがどれだけあっても足りないものを、一瞬の内に「全体」として覚えてしまう。「ラララ」と口にしながら、子どもだった私は、その「全体」を自分の肉体で再現していたのだと思う。そして、うれしさを思う存分味わったのだ。

 そして、いま思うのだが--つまり、これから書くことは子どものときは絶対にことばにすることができなかったことなのだが、--その「ラララ」は「空を超えて」と「星の彼方」のあいだにだけあるのではない。書かれてはいないけれど「ラララ」はアトム全体をつつんでいる。周り中に溢れている。アトムのいる世界が「ラララ」なのだ。
 テレビにかじりついてアトムを見ている。そのとき私はアトムではなく「ラララ」を見ていたのだ。「ラララ」という音楽を聴いていたのだ。

 「ラララ」という音に関連して、こんなことも考えた。(私は文章を書くとき、結論を想定せずに書きはじめるので、必ず脱線してしまうのだが……。)「二十億光年の孤独」の独特の火星人の描写に不思議なところがある。

火星人は小さな球の上で
何をしているか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)

 「ネリリ」「キルル」「ハララ」の意味はわからない。けれど、それが「動詞」であると「わかる」。それは「している」という動詞に引き継がれるから、そう感じるのかもしれないが、私には、動詞の「活用」そのものに感じられる。母音の変化が、日本語の動詞の活用の変化を連想させるのだ。
 「ラララ」という音を聞くとき、その音の周辺に、明るい笑顔やはじける手足が動くのと同じように「リリ」「ルル」「ララ」という音のまわりに「五段活用」のようなものを見てしまう。日本語だからこそ「ネリリ」「キルル」「ハララ」のなかに「意味」があるんだろうなあ、と感じる。
 この「活用」を谷川が「ら行」をつかって再現しているのは、とても楽しい。「ら行」の繰り返しが、この動詞によってあらわされている行為を楽しく、明るく、そして軽くしているように思う。
 架空のことばなのだから、ネググし、キダダし、ハビビしているでも、「何かしている」という意味は変わらない。でも「意味」ではない何かが変わる。
 それはなんだろう。
 「音」が変わることで、「音楽」が変わるように思える。谷川は、この「音楽」の感覚が鋭いのだと思う。(私は音痴だから、「音楽」ということばをつかうと、なんとなく見当違いのことを書いているかもしれないなあと思うのだが……。)

 「鉄腕アトム」にもどろう。
 「鉄腕アトム」の詩には実際に音楽がついていて、歌われるのだが、そういう「楽曲」としての音楽ではなく、別の音楽がある。
 どう言い直せばいいのか、私は、まだはっきりとはわからないのだが、「文体の音楽」とでも呼べそうなものがある。
 どんな文章にもそれぞれの音楽がある。「音韻」とは別の何か「音楽」としか呼べない何かがある。自立して動いていく音の運動がある。
 別の言い方をしてみる。
 もしこの詩から「ラララ」を省くとどうなるだろうか。「意味」は変わらない。アトムの活躍に変化はない。けれど、何か物足りなくなる。もちろんその物足りなさは私が「ラララ」があることを知っているから――ということもできるのだけれど、この詩に曲をつけた作曲家は「ラララ」がある詩しか知らない。詩の「ラララ」に誘われて曲をつけている。「ラララ」がなかったら、この曲は違っていただろう。だから「ラララ」がこの曲を作ったともいえる。
 だから、私は、この詩には最初から「音楽」がある、というのである。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(80)

2014-06-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(80)  
        
 「その港にて」はカヴァフィスの「声」の音域の広さを物語る。シリアで香料貿易の勉強をするはずだった若い男が航海中に病気になり、上陸したとたんに死んでしまった。その男のことを短編小説ふうに書いている。

いまわの際につぶやいた。
何でも「故郷」「年取ったふた親」とか。
だが誰も親の名を知らなかった。
どこを故郷と言ったのかも聞けなかった。
ギリシャ世界は途方もなく広い。
いや、これで良いのかも。こうだからこそ、
この港町に眠る彼を
まだ生きているはずと両親が希望を持ち続けられるわけ。

 若い男の不運に同情しながらも「これで良いのかも」と別な視点から考え直す。そこに不思議なあたたかさがある。もし、彼の故郷と両親がわかれば、誰かが青年の死を知らせる。そうすると、不幸は青年だけに終わらず、両親の悲しみにもなる。両親を悲しませずにすむから、これはこれでいいのだ。
 これはしかし、絶対的な「良いこと」ではない。だから、ことばの調子もどこか自分自身に言い聞かせるような静かな響きだ。いつものカヴァフィする「主観」の強さがない。最後の「わけ」という弱音の響きがとても切ない。「続ける」と断言してしまうと、ことばが強すぎる。
 しかし、ことばは不思議だ。「わけ」は理由の補強というか、念押し、という印象を引き起こすことが多い。「こういうわけだから、こうしなさい」と言われたとき、それに反論するには別の「わけ(理由)」を探さないといけない。けれども、この詩のように、その「わけ」が自分が(自分たちが)納得するためのものの場合は、逆に「強引さ」が消える。

何でも「故郷」「年取ったふた親」とか。

 というあいまいな「伝承」の感じ、あいまいだけれど多くの人のこころに残ったということと、自分たちを納得させる静かな調子が響き合うのも気持ちがよくて、それが短編小説という印象を強めるのだろう。

 それにしても、この詩は不思議だ。前半の省略の多い文体はたしかにカヴァフィスのものだが、後半の静かな音は、カヴァフィスの魔法のようなことばの強さからはるかに遠い。「論理(理由)」は「主観」よりは弱い--というのはとてもカヴァフィスらしいとも思うが……。
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谷川俊太郎の十篇(まえがき)

2014-06-09 10:51:26 | 谷川俊太郎の10篇
谷川俊太郎の十篇(まえがき)
                           
 『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)を手にして、私が最初にしたことは「父の死」を探すことだった。私は谷川の作品では「父の死」がいちばん好きだ。日本の詩の最高傑作だと思っている。
 ところが、その「父の死」がない。
 なぜなんだろう。
 私は谷川俊太郎の詩が好きだが、私の「好き」という気持ちは、どこか間違っているんだろうか。
 『自選集』を読み通してみると、ほかにも私の好きな詩がない。
 なぜなんだ!
 まるで恋人に振られたかのような衝撃を受けてしまった。動揺してしまった。
 
 『自選集』の最後に山田馨の「解説」がある。そのなかに「この詩集を起点にして、谷川さんの広大な詩の海に乗り出していって欲しい。そして一人一人の方に、自分らしい、個性的で、贅沢な、一大アンソロジーを編んでいただきたいと願う。」と書かれている。よし、それでは、私は私なりに谷川の十篇を選んで、どんな具合に「好き」なのか、それを語ってみよう。谷川さんのほんとうの姿はこうなんですよ(こう見えるんですよ)と伝えたい。そうすることで「父の死」を選ばなかった谷川を、「父の死」振り向かせてみよう。まるでふられた恋人の敵討ち(?)みたいな感じだが、そんなふうに思った。私が「父の死」を書いたわけでもないし、私が「父の死」という作品でもないのだが……。
 そして書くなら十篇。膨大な作品の中から十篇だけ選ぶ方が百篇選ぶよりも贅沢だ。誰も書かなかった谷川俊太郎を書くぞ、と決意した。「鑑賞」でも「批評」でもなく、「体験」として書いてみようと思った。
 恋愛が「体験」なら、詩との出会いもまた「体験」だからだ。
 だが、篇を選ぼうとして、困ってしまった。あれも好き、これも好き、と目移りしてしまう。何編か抜き出してリストをつくってみるが、リストに入りきれなかった作品が気になる。ほんとうにこれだけで谷川が語れるのか。あちこちで読んだ谷川作品への評価がちらちら動いたりする。あの作品が入っていないのはおかしい--と言われるだろう。何と言われようと関係ないはずなのに、気になってしまう。谷川も「私の代表作は別にある」と言うかもしれない。「世間の批評」に邪魔されて、初めて読んだときの、読んだ瞬間の気持ちにもどれない。
 でも、書きたい。気取った(?)批評ではなく、「出会い」を書きたい。
 予行演習をしてみよう。
 「十篇」を覚前に『こころ』をテキストに、初めて詩を読んだ瞬間の気持ちを書く練習をしてみよう。詩との出会いは恋人との出会いに似ている。最初の印象がいちばん正しい。いや、すべての印象は最初にかえっていく。
 そうやって書いたのが『谷川俊太郎の「こころ」を読む』(思潮社、06月末発行予定)のブログの文章。悪口のようなこともかなり書いてあるので、隠しておくと陰口みたいになっていやだなあ、そう思いブログを冊子にして谷川におくった。すると谷川が「おもしろい」と言ってくれた。本にする手筈を整えてくれた。びっくりしてしまった。うれしかったが、ここでまた雑念のようなものがはいり込んでしまった。
 えっ、気に入ってくれている?
 ここで、変なことを言ったら、嫌われてしまうかなあ。もっと変なことを書きたいんだがなあ。
 昔なじみの池井昌樹には「おまえ、ここは谷川さんの気持ちを優先しろよ。嫌われるようなことはするなよ」と脅された。
 あ、こんなことを考えていたら、「私の好きな十篇」とは違ったものになってしまいそう。
 本が出るまでは、一休みということにしようかな。本が出てしまえば、すべてがリセットされる。『こころ』についての感想は、もう私のものではない。本は谷川の思いとも、私の思いとも無関係に動いていく。読者がかってに動かしていく。誰がなんと言おうと、私には何もいえない。

 あ、これだね。
 
 詩もまた作者とは関係がない。読んだ人間がかってに動かしていく。私の書きたいことは、簡単に言ってしまえば、こういうことなんだ。
 谷川は「父の死」を書いた。私はその詩が好き。谷川の気持ちと私の気持ちは関係がない。私は谷川が「父の死」をどんな気持ちで書いたか、ということは気にしない。そこに書かれていることばが好き。そこに書かれていることばを自分勝手に解釈し、感想を言うだけだ。
 私の感想が、谷川の気持ちと重ならなくたって関係ない。
 読んだ瞬間から、詩は作者のものではなく、読者のものである。どんなふうに読もうと、それは読者のかって。「父の死」にかぎらず、そのほかの谷川の詩も、それは読んだ瞬間から「私のもの」。谷川の「真意(心情)」も世の中の「批評」も関係ない。
 だいたい、作者の思い(思想?)どおりに読まないと「正しくない」、作者の思いを「正しく」読み取るのが「文学鑑賞」だとするなら、「文学」に駄作はなくなる。どんな作品にも作者の「正しい思い」はある。「正しい思い」を「正しく読む」とき、すべての作品は「正しい」ものになってしまう。
 そうではなくて、どんなふうに間違っても、それでもなおかつ「おもしろい」のが文学というものだろう。こんな間違え方をしても、なお、ことばはそのまま楽しく動いている。まだこんな間違え方もできるぞ、と遊ぶのが文学だろう。

 さて。
 踏ん切りがついた。(出版の予告も出たし……。)
 「谷川俊太郎の十篇」。私は「間違い」だらけの感想を書く。初めて読んだときの、わけのわからない興奮を、矛盾したまま書いていきたい。
 
 (作品の感想はあすから随時連載します。)

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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米田憲三「冬の銀河」

2014-06-09 09:30:11 | 詩(雑誌・同人誌)
米田憲三「冬の銀河」(「原型富山」163 、2014年04月10日発行)

 米田憲三「冬の銀河」は、

星ひとつ流れしというわが追えど天涯淡々として鎮まる銀河

 という歌ではじまる連作。ちょっとわかりにくい。「星ひとつ流れしという」の「という」が弱々しくて「天涯」とか「銀河」という強い響きに正確に向き合っている感じがしない。
 おかしいなあ。
 何か気になるなあ。
 そう思いながら読み進むと、妹の長男(米田の甥)が職場で倒れ、そのまま帰らぬ人になった経緯が歌になってつづく。
 「星ひとつ流れし」というのは、その長男である。
 米田、妹、甥という登場人物の関係が「という」ということばのなかにも反映しているのかもしれない。肉親だけれど、一等親ではないので、完全に米田の肉体と向き合わない。米田には米田の肉体があり、そのことが甥よりも銀河そのものを身近にしているのかもしれない。
 連作中、妹、甥が出て来ない作品の方が緊迫感があるのは、米田の肉体と自然が直接向き合っているせいだろう。

通夜の場をぬけて帰るに狂い降る吹雪に巻かれ途失う

灯りなき夢幻の雪野を迷わせて卍巴に襲いかかる雪

 この2首は、雪そのものを感じさせる。それは米田の肉体を阻んでいるのだが、米田を阻むことで、米田そのものとなる。雪が米田の悲しみを襲っているというよりも、悲しみが雪になって米田を襲っている。この雪と向き合うことで、米田は悲しみをはっきりと向き合う--という感じだ。
 言いなおすと。
 「通夜の……」の「帰るに」「吹雪に」の「に」の繰り返しの中に、不思議な音の力がある。同じ音が別なものをひとつにする。「帰る」の主語は米田で、歌の意味はそこでいったん切れるのだが、意味を切らずに(?)、そのまま米田が「狂い/降る」という動詞を経て、吹雪「に」なってしまう。吹雪になって狂うしかない悲しみ、吹雪になって狂うことができればすくわれるのにといった感じの悲しみが見えてくる。「に」の音が同じであるために、意味が錯綜する。そして、その錯綜がそのまま米田「に」(この「に」は私が強引に付け加えたものだが)返ってきて、米田は「途(を)失う」。悲しみと「途失う」は、そのとき「同義」になる。
 そういう葛藤というか、混沌としたところをくぐりぬけたあと、米田は、甥と妹にもう一度出会う。
 吹雪に向き合ったあと、米田のこころは、ストーリー(甥が急病に倒れ、亡くなるという事実)から少しはみ出す。描写が「説明」ではなくなる。この変化が、私には、とてもおもしろく思えた。人間が動きだした、という感じがしたのである。

少年の君は夏陽に焼かれつつ屋上にトランペット吹きいし

長子逝かせ一気に老けし妹の髪白く姿も小さくなれる

 甥の思い出と、いまの妹の姿の描写だが、その描写の中に自然に米田自身の肉体がとけこんでいる。ストーリーを追うのではなく、ふたりを肉体ごとつつみこんでいる。
 そういう変化があって、最後の3首。これが美しい。

街を抜け一人ひとり降りてゆきてわれのみとなる寒き終バス

心ほそりて日々暮らしいむ汝のことまたも思えり如月の雪



誰が母神零しし乳か流れゆくそのはて知れず冬の銀河の

 特に「誰が……」では、米田は妹(母神)になって、長子への乳を零している。銀河(ミルキーウェイ)を客観的に描写しているのではなく、あれは息子を育てる母の乳だと、息子の母(妹)になって実感している。離れた場所から「母」を客観的に描写しているのではなく、「母」の主観として、歌が生まれてくる。

 連作だからこそ生まれた1首なのかもしれないが、連作を突き破って屹立する感じがするのは、この歌のなかで米田が完全に生まれ変わっているからだろう。
ロシナンテの耳―米田憲三歌集 (原型叢書)
米田 憲三
角川書店
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(79)

2014-06-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(79)          2014年06月09日(日曜日)

 「アリストブゥロス」も歴史が題材。アリストブゥロスは権力争いの過程で溺殺された。その死をヘロデ王は悲しむ、国民全てが嘆く。もちろん母も。その母の描写。

そのひとアレクサンドラは悲劇に嘆き、泣く。
だが人目がなくなる刹那に音調が変わる。
吠え、猛り、呪い、忘れるものかと誓う。
よくもコケにしたな。だましたな。
ついにやりおった。
アスモナエアス家を絶滅させた!
どうしおったか、あの王の漫画め。
陰謀、小細工、悪人め。
どうしくさったか?
よほどの筋書き、仕組んだか。

 第一太后が、その気品ある人間とは思われないことばを吐く。「地位」とは無関係に、母そのものに生まれ変わってことばを発する。ただことばを発するだけではなく、「音調が変わる」。ことばの「意味」は辞書にあるのではなく、いつでも「口調」にある。「肉体」を通ってくるときの「音」の違いのなかにある。
 この「音調」の違いを中井久夫は「俗語(口語)」を駆使してあからさまにしている。「よくもコケにしたな。」という気品をかなぐり捨てたことばのスピード、なまなましさが、そのまま読者の「肉体」に響いてくる。
 「よくもコケにしたな。」ということばを読むとき、読者は、そのことばの「意味」を考えない。意味を考える前に、そのことばが発せられたときの(そのことばを聞いたときの)、相手の顔を思い出す。「怒り」はことばでは説明できない。ことばでは説明できない「怒り」の煮えたぎる肉体、目の色、手足の動きが目に見える。
 「ついにやりおった。」「どうしくさったか?」も同じだ。そのことばに「意味」はない。そのことばは「意味」ではなく「肉体」をもっている。「肉体」が動いている。破裂する音そのままに、「肉体」が破裂している。「声」が破裂して、荒れている。
 そして人は、彼女の怒り、嘆きがどんなものであるか、その感情を自分のものとして理解することはないけれど、怒っているということだけははっきりと「わかる」。「肉体」が共感する。感情を描いているが、これはギリシャ悲劇のように、叙事詩だ。
 最後の方のことばも強烈である。

人民のところへ出て行って
ヘブライの民に叫びたい、

 第一太后は、そのとき「人民」の肉体を生きている。肉体の共感を求めている。この肉体は、ことばの「音調」からはじまっている。
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「こころ」再読が本になります

2014-06-08 11:10:52 | 詩集
「こころ」再読が本になります


 ブログで連載した「こころ」再読が本になります。
 「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、06月30日発行、定価1800円)(予定)

 谷川俊太郎さんが「帯」を書いています。

 「びっくりしました、詩ってこんなに面白く読めるんですね。
  詩人になりたい人、詩が好きな人、詩が苦手な人、
  詩を教えている人に読んでほしい。」
 
 実は、谷川さんにお会いし、出版の話をしていたとき、
 「谷内くん、こんな本を出したら詩壇から抹殺されるかもしれないなあ(爆笑)」
 と言われてしまった。
 そのことばを「帯」につかいたいと言ったところ、「そんなのじゃだめ」というので、一転して、上記のような「帯」を書いてくれました。
 矛盾の多い、型破りな、思潮社らしくない本かもしれません。
 担当してくれた思潮社の高木さんも、「そのまま活字にして大丈夫なのかなあ。谷川さんがいいと言ってくれるかなあ」とずいぶん心配していましたが……。

 それやこれや、付録(?)のような形で、ブログの「日記」が本になるまでの過程(裏話)も収録しています。ブログでいろいろな発表活動をしている人、出版をめざしている人の参考にもなるかもしれません。
 谷川さんの『こころ』(朝日新聞)とあわせて読むと楽しく読めるのではと思っています。

 最寄りの書店、思潮社(TEL03・3267・8153FAX03・3267・8142、sichosha@sight.ne.jp) でご予約下さい。Amazonでは、まだ予約はできません。


 ツーショットの写真は、打ち合わせのために谷川さん邸を訪問したときものです。高木さんが撮ってくれました。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(78)

2014-06-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(78)          

 カヴァフィスの詩には歴史に詳しくないとわからないものが多い。「アレクサンドリアからの使節」もそのひとつ。中井久夫は注釈で「プトレマイオス『愛母王』とプトレマイオス七世『善行王』との王位争い」を描いたものであると簡単に説明しているが、歴史に疎い私には、何のことかよくわからない。
 けれども詩の「口調」から、史実とは違った何かがわかる。

こんな素敵な供え物はなかったな、そう、何世紀も、
プトレマイオス家の二兄弟、このライバルの二王ほどのは。
頂戴はしたが司祭らはびくびく、
どう予言する? 微妙妙のきわみ、
生涯の経験全てを総動員して、さあ、どう表現するか、
二人のどちら、こういう兄弟ならどっちを斥けるべきか、
司祭らは深夜ひそかに頭を集めて
ラギデス家の家庭問題を討議。

 どちらを王に相応しくないと「予言」すべきなのか(斥けるべきか)、悩む司祭たち。「予言」はそのまま実行・実現されるだけではなく、どうしたって生身の反動をともなう。王に相応しくないと言われた方の男が力づくで司祭を殺害し、予言を変えてしまうということだってあるだろう。権力争いにけりをつけるはずが、権力争いの渦中にまきこまれる。斥ける(亡き者にする)は、そのまま司祭に跳ね返る。
 そのときの司祭の不安の「声」が、司祭の「主観」があざやかに描かれている。王位争いという「歴史」の舞台裏の、司祭の姿が、「歴史」を卑近なもの、庶民に近いものに変える。王位争いは庶民には縁がないが、王次第でどんな政治がおこなわれ、その結果どんな苦労をしなければならないかは庶民の問題である。そういう不安があるから、庶民は王位争いを注目する。
 さて、そのときの司祭たち。「深夜ひそかに頭を集めて」という描写がおもしろい。実際に頭をつきあわせている司祭たちの姿が見える。頭をつきあわせるのは、ひそひそ声で会話しているからだ。ほかの人間には聞かれないよう、小さな場所にあつまり、さらに小さくなって会話している。
 そして、その会話の内容といえば、「王位争い」と言えば聞こえはいいが、なに、たかが「家庭問題」である。兄弟のだれが王になるかというのは、司祭にも庶民にも関係がない「王家」の「家庭問題」である。
 この「家庭問題」はいうことばが、とてつもなくなまなましい。「家庭問題」なら、だれでも知っている。体験している。うんざりしている。こういうことばが、「歴史」をぐいと「いま」に引き寄せる。
 この詩も「ネロの生命線」のように短編小説ふうの「オチ」がついている。
 司祭たちの不安は、「オチ」によって一気に解決されるのだが、この急展開のことばはこびも、「歴史」を身近に引き寄せる力になっている。
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永井孝史「歩きのうどん」

2014-06-07 09:04:55 | 詩(雑誌・同人誌)
永井孝史「歩きのうどん」(「詩的現代(第二次)」9、2014年06月発行)

 永井孝史「歩きのうどん」は書き出しがおもしろい。

硝子戸をガシッと開けると
店の人はどの顔も訝しげである
ひやひやの大
と一気に注文したいけど
釜の前に立つおとこの人も
ガラスケースを触るおばさんも
店の人たちが変にこわばっている
丼鉢を抱えた先客が一人いて
歩いてきたんか
と聞くから
ええと答えたそのとたん

 「そのとたん」どうなったかは、まあ、省略してもわかるだろうから書かない--のではなく、どうもおもしろくないので引用しないことにする。「意味」はわかるが、詩は「意味」ではないのだから、「意味」を前面にだしてしまっては味気ない。
 詩がうどんなら、うどんを食う気にならない。
 と、批判を先に書いてしまうと何だか、この詩がおもしろいのか、おもしろくないのか、どっちなんだと言われそうだが……。最初に書いたように、私が引用している11行はとてもおもしろい。
 ことばにリズムがある。そしてそのリズムは「肉体」の動きにぴったりかさなる。
 「硝子戸をガシッと開けると」の「ガシッ」ということばにさえ手応えがある。古くて力を入れないと開かないのだ。ガタが来ていて、スムーズに開けるにはコツがいる。なれている人ならそれができるが、初めての人には無理。だから、むりやり開ける。そうすると「ガシッ」。これだけで、その店の造りがわかるだけではなく、永井がその店にはじめてやってきたこともわかる。「ガラス戸」ではなく「硝子戸」というのも、思わず漢字で書きたくなる古びた感じなんだろうなあ、とわかる。
 そういう店は、常連だけしか来ない。常連は来る時間が決まっている。だから、見なれない人が入ってくると「誰なんだ」という目つきでみんなが見る。無言で(「いらっしゃい」も言わないで)見つめ返す眼。無言だけれど「誰だ、お前は」と問いかけているのがわかる。それも詰問するというよりは、逆に、警戒し、怯えている感じ。
 で、「ひやひやの大」(冷しうどんの大?)と注文したいけれど、声が出て来ない。店の緊張に永井が感応してしまっている。
 店の人の視線からはじまった緊張(視覚の緊張--影像が一瞬、写真のように固定した感じ)が、先客の丼鉢、それを抱えた姿と動いていって、その姿のなかから、

歩いてきたんか

 と声が動く。視覚をおしのけるようにしてあらわれる。声。聴覚が動き、永井自身も動きはじめる。「ひやひやの大」ではなく「ええ」と弱々しい返事。でも、なんとか声が出た。
 ここから状況がかわる。
 この「かわる」が「意味」なんだけれど、これをどう書くかはとてもむずかしい。書かなくても「かわる」ことがわかっているので、それを「書いて」、それを「リアル」なものに感じさせるには、「わかる」以上のことを書かないといけない。
 「硝子戸をガシッと開ける」の「ガシッ」と同じように、そう書かれた瞬間に、「肉体」が覚えている過去がぱっと思い出され、「いま」となって炸裂するようなことをことばにしないといけない。
 ここで、永井は失敗している。

店の緊張が
***と解けた

 「***」は私が伏せた。永井はちゃんと書いているのだが、これが実につまらない。(どんなにつまらないかは、作品で確かめてください。)この2行から以降、詩が詩ではなくなる。説明になる。肉体が消えてしまう。
 途中、

旨そうで昼前でそれは正しいうどんであって

 という魅力的な1行(「正しいうどん」か! と私は唸ってしまったが……)、あとがほんとうにつまらない。
 「好みにあわない」うどんだったようだが、うどんを「食べている」肉体が見えて来ない。うどんの「うんちく(教養?)」が延々とつづく。それは「頭」で整理したうどんの分布であって、そんなものを私は食べたくないなあ。
 せっかく「歩いて」、つまり腹がへるような具合に肉体を動かして行ったのだから、「まずい(好みに合わない)」は「まずい」で、肉体にことばをくぐらせて書かないと「味」が出て来ない。

店の緊張が
***と解けた

 という、へんな「解説」(説明)がこの詩をまずくしている。そこから味がどんどん変質していっている。
 悪口を書くとどんどん気持ちが悪くなり、もっともっと書かないとおさまらないという悪循環に陥ってしまうので、これでやめておこう。

ムー大陸にアメがふる―永井孝史詩集
永井 孝史
ワニ・プロダクション
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(77)

2014-06-07 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(77)          

 「ネロの生命線」は短編小説のような趣がある。

デルポイの予言を聞いて、
ネロは全く心配しなくなった。
予言は言っていた。「七十三歳の年に気をつけよ」
楽しむ時間はたっぷりある。
今を盛りの三十歳。
神の引きたもうた生命線は
これからの危険の安全保障じゃ。

 ところが、この「七十三歳の年」というのはネロ自身の年ではなかった。七十三歳の男に気をつけろ、という意味だった。それを理解できずに、いまは三十歳だから七十三歳までは安心して生きていける。気をつけなくても平気だ、と受け止めてしまった。
 そうしたときの、ネロの口調がおもしろい。

さて、すこし疲れた。ローマに帰ることにすっか。
だが、楽しい旅の疲れだなあ。
まったく快楽のための旅だからの。

 「すっか」「……の」という口語そのままの音。この、俗人(?)丸出しの口調。ネロがほんとうにそういう口調だったかどうか、あるいはカヴァフィスがそういう口調をことばにしているかどうかわからないが、中井久夫の訳にかかると、英雄ではなく、気楽な俗人の雰囲気がぱっと広がる。運命に対して、まったく心配していない感じ、だらけた感じが実感としてつたわってくる。
 この砕けた文体に、最後の三行が厳しく対峙する。

スペインではガルバ。
ひそかに軍を選抜・練兵。
ガルバ。当時七十三歳。

 その結果何が起きたのか、この詩は書いていない。史実、周知のことだから書かないともいえるが、文体の違いで何が起きたかを暗示できるから書かない。
 カヴァフィスはもともと省略の多い詩人だが、ことばを省略するかわりに、口調(音の響き)で何かを知らせる詩人なのだろう。耳のいい詩人だ。その耳のよさを中井はしっかりと受け止め、口語に翻訳している。ことばの「意味」ではなく、そのことばが発せられたときの口調(肉体の様子)で、意味を予感させている。
 こんなだらけた口調の男なら、不意をつかれて死んでしまうのもむりはない--そう感じさせる。
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夏目美知子「二月の静物」

2014-06-06 09:33:14 | 詩(雑誌・同人誌)
夏目美知子「二月の静物」(「乾河」70、2014年06月01日発行)

 夏目美知子「二月の静物」は、なんとなく、もたもた(?)した感じで詩がはじまる。詩を読んでいる感じがしない。

銀杏通りの銀杏が
枝をすっかり伐られてしまった
てっぺんも真横に切ってある
太い幹しか残っていない
薄日を浴び
道沿いに並んで立っている

 ていねいに書かれているのだが、どうもすっきりしない。ことばが多いのかもしれない。「てっぺんも真横に切ってある」のあと「太い幹しか残っていない」とつづくと、せっかく見えた「真横」が見えなくなってしまう。そのために、もたもたという感じがするのかなあ。「道沿いに並んで立っている」の「並んで」と「立っている」も重複のように感じられる。
 でも、これが突然、

カチリというのは私の胸の音
銀杏はそのまま
静かに前を見ている

 うーん。
 「カチリというのは私の胸の音」の「カチリ」がふいに聞こえた。枝を伐られた銀杏を見て、何かを感じる。違和感に襲われる。それが「カチリ」という音を立てる。この突然の音に、はっとする。
 ここから、詩は、飛躍する。
 1行の空白のあと、2連目へと進む。

夜の食事の支度に
ズッキーニを切る
人参も切る
まな板の上に
輪切りのズッキーニと人参が
倒れたドミノのように重なりながら
じっとしている
ものにも
眼差しはある

現状を黙って受け入れるもののことを
静物というのだ

 ほう、おもしろいなあ、と思う。
 急にことばにスピードが出てきた。1連目の終わりの方の3行「カチリ……」から、ことばが加速している。ズッキーニ、人参ということばが繰り返されているけれど、切られる前と切られたあとの区別がくっきり見える。1連目の銀杏の、伐られながらも伐られていないような感じとはまったく違う。1連目の銀杏は伐られてしまっていて、その姿を見ながら夏目は伐られていない銀杏を思い浮かべているからかもしれない。記憶の銀杏といまある銀杏を比較しているので、ことばがもたもたするのかなあ。それに対して、ズッキーニ、人参は切られる前、あとを比較していない。切られる前(まるごと)を捨てて、切られたものにぱっと転換しているからかなあ。
 で、その「切られたもの」のなかに「眼差し」を見た瞬間……。
 1連目の最後の行の「静かに前を見ている」が、ぱっと、つながる。瞬間的に、つながってしまう。
 そうか、伐られた銀杏は、前を見ていたのか。
 でも、前って、どこ?
 一点透視の遠近法の焦点、道が小さくなっていく方向? それとも、時間?
 こんなことは、「答え」をだしてもしようがない。わからないまま、そうか「前」を見ているのかと思うしかない。
 そして、「前を見ている」その視線を感じた瞬間、また飛躍して3連目。

現状を黙って受け入れるもののことを
静物というのだ

 これは、ふいにやってきた「哲学」(思想)なのだが、この突然がいいなあ。
 「意味」を考える時間的な余裕がない。
 2連目のことばのスピードが、そのままひきよせた「錯乱」である。
 「錯乱」と言ってしまうと、何だか夏目の努力(?)を否定してしまうようでもうしわけないが、この2行は「描写」じゃないからね。「描写」を突き破っているからね。文体が突然変わってしまっているから、「錯乱」と呼ぶしかない。
 で、「錯乱」なので、「意味」はわからない。「意味」はぶっ飛んでいる。
 それなのに、「あ、そうだったのか」と「わかる」。納得する。
 この「わかる」は、1連目の「カチリというのは私の胸の音」の「カチリ」に似ていて、説明のしようがない。
 こういうことばは、ただそのままの形で覚えておいて、ある瞬間、「あ、これだった」と思い出すものなのだ。そういう「不運/好運」を黙って受け入れていることばである。それを、私は「静物」ではなく、「詩」と呼びたいなあ。

 ことばというのは、書いている途中で突然変異をする。だから、最初がしっくりこなくても、変化が起きるまで追ってみないといけない。--というのは、私の自省。
 読み落としている詩がたくさんあるね、きっと。



私のオリオントラ
夏目 美知子
詩遊社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(76)

2014-06-06 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(76)          

 「認識」は一筋縄ではつかみきれない。

私の若かった日々。官能の生活。
今 その意味がわかる。明確に。

はかない後悔は無用であった。

もっとも、当時は意味が見えなかった。

 官能におぼれた若い日々。後悔などしなかった。その意味が、いまはわかる。そのときはわからなかった(見えなかった)意味が。--でも、その「意味」とは? これだけでは、わからない。若かったときに、詩人が官能におぼれたということしかわからない。

わが若い日の放埒な生活だった、
詩作の衝動が生じたのも、
わが芸術の輪郭が描かれたのも、
後悔がその場限りだったのも、
「止めよう、生き方を変えよう」という決意が
せいぜい二週間のいのちだったのも、
そのためだった--。

 詩作(芸術)を生み出すために、カヴァフィスの「官能の日々(放埒な日々)」があった、詩人は開き直っているのか。そうかもしれないが、その開き直りのなかに、

「止めよう、生き方を変えよう」という決意が
せいぜい二週間のいのちだったのも、

 という「後悔」が書き込まれているところがおもしろい。「後悔」さえも、いや「後悔」があるからこそ、官能が複雑に揺れ動く。「後悔」がなく、官能におぼれているだけなら、その官能は人を引きつけないかもしれない。芸術にならないかもしれない。
 官能の絶対的な消尽は、人を拒絶する。官能はあくまでも個人的なものであり、他人には共有されない。肉体的でありすぎる。
 けれど「後悔」は肉体を離れた「意味」であり、他人によって共有される。
 それにしても、その「後悔」を「せいぜい二週間のいのち」と「肉体」につながる「いのち」ということばで動かしてみせる強さはどうだろう。「二週間とつづかなかった」では「意味」に終わってしまう。「いのち」ということばが、「後悔」を「意味(精神)」であると同時に「肉体」に変え、それが「官能」ということばを輝かせる。
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齋藤健一「数直線」ほか

2014-06-05 11:49:49 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「数直線」ほか(「乾河」70、2014年06月01日発行)

 齋藤健一の文体にいつも魅了させられる。それは、とても遠い。つまり、私のだらしない文体からかけ離れている。簡潔で、きっぱりとした断言がある。そして、そのために遠いのだけれど、くっきりと見える。遠いはずなのに「距離」が消えて、目の前にあらわれてくる。
 「数直線」。

落ちくぼむ二つの眼。天井にひらく。そのままである。
微睡むサーカス。対称形の赤色が返える。丁寧な会釈を
する少年だ。硬い椅子の玩具や。ハンカチの真四角や。
立つ者はぼくの子供ではないのだ。腕時計と脈拍。硝子
器へ病室の全部が映る。暖房空気。衝立の下の自分のス
リッパである。

 「病室」ということばが出てくるが、入院している「ぼく(齋藤か)」が見つめる世界が描かれていると思って読んだ。
 齋藤の文体が「遠く」感じられるのは、そこに「動詞」が少ないからだ。「動詞」が少ないと、そのひとの肉体の動きがわからない。そのひとの肉体と自分の肉体を重ねてみることが、なかなかむずかしい。
 私は、ことばが「わかる」というとき、「動詞」が重要な働きを担っていると考えている。たとえば「水を飲む」。この日本語がわからなくても、たとえばどこかの外国人に対して、コップに入れた水を飲んでみせながら「水を飲む」と言えば、外国人に「水」ということばも「飲む」ということばも、「意味」を通り越して「わかって」もらえる。「意味」以上のことが「わかって」もらえる。これは「飲んでも大丈夫なのだ」ということがつたわる。そして実際にコップの水を飲むという肉体の運動をとおして「水を飲む」ということばを「わかる」ようになる。それぞれの「単語」の「意味」がわかるのではなく、肉体がうけいれることができるもの、肉体でできることが、「世界」として「わかる」。そのときの基本になるのが「飲む」という「動詞」である。
 そんなふうに考えている私からみると、齋藤のことばは「動詞」がとても少ない。だから、どんなふうに私の肉体を重ねてみればいいのかわからず、一瞬、とまどってしまう。
 たとえば、1行目。

落ちくぼむ二つの眼。天井にひらく。そのままである。

 これは、

落ちくぼんだ二つの眼(を)天井に(み)ひらいて、そのまま動かずにいる(じっとしている)。

 ということだろうか。主語は「眼」になるのか、「私」になるのか。「私は落ちくぼんだ二つの眼を天井にみひらいて、そのまま動かず、じっとしている」と読むと、主語、述語の関係が「学校文体」らしくなる、と思う。私の、だらだらした文体に近くなると思う。私は無意識のうちに、そういう置き換えをしながら齋藤のことばを追っている。
 そして、同時に、その私の文体が齋藤によって、切断されるのを感じる。つまり、「断絶」を感じる。これが「遠い」という印象を呼び起こしている。でも、その「遠い」がとても気持ちがいい。言い換えると、私の文体が切り刻まれる瞬間、何か、とても気持ちのいい感じがある。私の文体で言いなおす前の何かが、「切断」と同時にぱっとあらわれてくる感じがする。
 これは、何なのかなあ。

 もう一度、1行目を読み直してみる。そうすると、ちょっと違った「言い方」(動詞の動き方)があることに気がつく。

落ちくぼむ二つの眼(がある)。(その眼は、)天井にひら(かれて、ある)。(その眼は)そのままである。

 「主語」は「二つの眼」で統一される。そして「動詞」も「ある」によって統一される。
 この「ある」という「動詞」はとても変な動詞である。「肉体」で再現できない--というか、「動詞」なのに動かしようがない。「肉体」が「ある」から、「肉体」を動かすことができる。つまり、「動詞」の出発点というか、原点であり、それは「肉体」そのものなのである。
 齋藤は、世界を「ある」によってとらえなおしている。
 「肉体」を動かし、そこに「動詞」をつかった場合でも、その「動詞」を「ある」に固定して、世界を把握している。
 「天井にひらく」は、「ひらく」で終わっているが、すぐに「そのままである」、つまり「ひらかれた状態である」と言いなおされている。

 齋藤は、世界に対して「動詞」で働きかけ、世界を動かそうとはしていない。世界が「ある」ことを「自分がある(生きている肉体がある)」ことと対等化して(「ある」という動詞で統一して)、受け入れている。
 世界を受け入れているから、世界が目の前に「あらわれる」(あらわれて、ある)。

硬い椅子の玩具や。ハンカチの真四角や。

 という奇妙な文体(「学校文体」からみると奇妙である、という意味である)は、そこに「ある」を補うと、「意味」になる。

硬い椅子の玩具(がある)や。ハンカチの真四角(がある)や。(=ハンカチは真四角である)

 「や」が浮いて見えるが、それは「……や……や……がある」という具合に、意識を「ある」に統一していくためのことばである。
 「ある」は単に「動詞」であるだけではなく、齋藤にとっては「主語」でもある。
 日本語は、しばしば主語を省略する。日本語は主語を省略できるが、齋藤は「ある」ということばをつかうことで、この「主語」を「ある」という状態にのみこんでしまうのである。
 つまり「主語」が消える。「齋藤」が消える。だから、そこに書かれていることば(世界)は「齋藤」を経ないまま、直接、私の目の前にあらわれる。
 「齋藤」は「遠い」。しかし「齋藤のつくりだす世界」は目の前に「ある」ということが起きている。

 「ある」は齋藤の詩の「キーワード」である。
 キーワードというのは作者にとってあたりまえすぎてつかっている意識がないし、あたりまえなのでついつい省略してしまう。書かなくても無意識につかっている。
 どうしてもつかわないといけないとき、何か特別なことをいわないといけないとき、それは少し変な形であらわれる。つまり、「学校教科書」とは違った形であらわれる。
 「年齢」の後半。

                       散歩
中の遊蕩児。内気な特徴がある。袋小路の右横にひとつ
だけ戸口がのぞく。そのペンキ色の椅子に彼は坐ってい
る。

 「内気な特徴がある」の「ある」。これは、一般的には(学校文体では)、「(彼の)特徴は内気である」というふうに言われると思う。そのときの「である」は「だ」とも言い換えられる。「彼は内気だ」という具合に。また「彼は内気」と「動詞」抜きで言われることもある。
 齋藤は、しかし、けっしてそんな具合には書かない。
 「ある」が「内気」に従属してしまうからである。
 齋藤は逆に考える。「ある」が「主語」で「内気」は「補語」なのだ。齋藤がいいたいのは「ある」ということなのだ。
 「戸口がのぞく」と齋藤は書くが、それは「ある」を隠すための、文体のねじまげのようなものである。「戸口がある」、そしてその戸口はちらりとのぞいている状態に「ある」。「彼は坐っている」も「座った状態に、彼は、ある」なのだ。


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谷内 修三
思潮社
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