詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「路線バスを待ちながら」

2014-11-24 11:16:20 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「路線バスを待ちながら」(「文藝春秋」2014年12月号)

 秋亜綺羅の詩は理屈っぽい。理屈を読ませる、理屈を裏切る--その瞬間の驚きのようなもの、それを詩と考えているのかもしれない。
 こういう詩は、意外なことに、短いとおもしろくない。長い方が生き生きする。論理がしょっちゅう動いた方が楽しい。
 「文藝春秋」の詩の欄は小さい。従って作品は短い。

人間が横暴だといわれるのはなぜですか
シマウマを食べるライオンだからですか
ゾウを倒すアリの大群だからですか
いいえ、夢を作って食べつくすバクだからだよ

人間が幸福を感じる生物であるのはなぜですか
ひとが死んだとき、ああ自分じゃなかったと思うからですか
バケツいっぱいのプリンを食べて死のうと夢見るからですか
いいえ、いま向こうから近づいてくるバスが
時刻表にないことを知らないからだよ

 「なぜ」と問いかけ(自問し)、それに対して自分で答え、さらにそれを否定して飛躍する。これが一連目と二連目で反芻される。二連目を読むときは、「いいえ」が出てくるタイミングまでわかってしまう。ことばの、わかりきった運動。どんなに意外なことが書かれても、そこに運動の「論理」(問いかけ、自答し、否定する)が一貫しているので、意外な感じがしない。
 これが延々と繰り返されると、その繰り返しがリズムになり、ことばを疾走させる。こんなに短いと、繰り返しが疾走にならない。躓きになってしまう。つまんないね。
 だから、私は、この詩を読みながら作り替えて(秋亜綺羅をコピーして)、書かれていない詩を楽しむことにする。
 「横暴」と「幸福」。その「意味」はわかったようで、わからない。だから、一連目と二連目の「横暴」と「幸福」を入れ換えてみる。

人間が幸福だといわれるのはなぜですか
シマウマを食べるライオンだからですか
ゾウを倒すアリの大群だからですか
いいえ、夢を作って食べつくすバクだからだよ

人間が横暴を感じる生物であるのはなぜですか
ひとが死んだとき、ああ自分じゃなかったと思うからですか
バケツいっぱいのプリンを食べて死のうと夢見るからですか
いいえ、いま向こうから近づいてくるバスが
時刻表にないことを知らないからだよ

 何か、変わった?
 変わらない。「横暴」は「幸福」であり、「幸福」は「横暴」なのだ。そして、「横暴/幸福」とは、自問自答し、否定するということのなかに完結してしまうことである。
 もうひとつ、バリエーション。

人間が幸福だといわれるのはなぜですか
ライオンに食べられるシマウマだからですか
アリの大群に倒されるゾウだからですか
いいえ、バクに食べつくされる夢を作るからだよ

 被害者と加害者を入れ換えると、そこに「偶然」ではなく「運命(宿命)」があらわれる。運命の方が「人生」に近い。
 この「幸福」をもう一度「横暴」に戻してみようか。

人間が横暴だといわれるのはなぜですか
ライオンに食べられるシマウマだからですか
アリの大群に倒されるゾウだからですか
いいえ、バクに食べつくされる夢を作るからだよ

 どう?
 被害者は一般的には不幸な人間に分類されるが、こうやって書いてみると違う感じにも見える。なぜライオンに食べられるままのシマウマでいる? どうして闘わない? 闘わないのは、自分の人生に対して「横暴」じゃない?
 ほら、そういう「論理」で「組織」をつくろうとする人間がいるでしょ? いやだな、と思ったことはない? 「論理」の正しさなんかどうでもいい。「論理」を無視して、だらだらしていたい、だらしなく生きてみたいと思ったことはない? すべてのシマウマがライオンに食べられるわけではない。自分は食べられずに一生を生きてゆけるかもしれない。闘うなんてことはしないで、草を食べて満腹になって、さらに鼻いっぱいに草の匂いを吸い込んで、幸福を感じていたっていいんじゃない?

 まあ、こんなことは秋亜綺羅が書いているわけではないのだけれど。

 秋亜綺羅の詩にはいろんなハプニング(論理のひっくりかえし)が隠れているが、それは「仕掛け」である。論理は実はひっくりかえらない。ひっくりかえったことを装って、起き上がる。おきあがりこぼしが秋亜綺羅の「肉体」なのだ。
 そうであるなら。
 何度でもひっくりかえり、何度でも起き上がる。七転び八起きという運動を連続した形で見せないとね。偶然こそが必然を明らかにするということろまで書かないと。
 秋亜綺羅には短い詩は向いていない。

ひよこの空想力飛行ゲーム
秋亜綺羅
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(17)

2014-11-24 10:16:53 | 詩集
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(17)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「もどかしい」は白いつるつるしたページに印刷されている。右ページはピンク色。このピンクは何だろう。ピンクの裏は庭を歩き回る鶏の群れ。ピンクの鶏冠があるかもしれないが、眼の悪い私にはよく見えない。この写真のなかのピンクが裏側から見られているというわけではないようだ。いままで見てきた写真とその裏側の関係は、ここではいったん断ち切られているように感じる。でも、その鶏の反対側にピンクがある。壁にはられた「春」という文字。正月の飾りだろうか。その「春」はピンクの紙に書かれている。「もどかしい」と向き合っているピンクは、写真を一枚通り越して、このピンクと向き合っているのだろうか。
 なんだか、じれったい。それこそ「もどかしい」。離れたところにある何かと呼応している。そのときの、呼応しているよりも「離れた」という感じが「もどかしい」。どうしていままでの写真と色のように「表裏一体」ではないんだろう。
 と、思いながら読んだのか、あるいは詩を読んだからそんなことを思ったのか。いま書いたことと、詩の印象が行き来する。

タマシヒがカラダを連れて
林の中へ入ってゆく
耳が風の音を聞く
鼻が大気の匂いを嗅ぐ
つむっていた眼を開けると
遠く逆光に輝く海がまぶしい

昨日はカラダごとあのひとに会った
耳も鼻も眼も肌も気持ちも
あのひとでいっぱい
でもタマシヒは
あのひとのタマシヒはどこ?
タマシヒはもどかしい

カラダでは探せなかった
ココロでは見つけられなかった
あのひとのタマシヒ
いくらコトバで考えても
見えてこない聞こえてこない
それなのに ある

タマシヒは不思議

 二連目の最後の「タマシヒはもどかしい」は「私のタマシヒはもどかしがっている」ということだろうか。私のタマシヒは、あのひとのタマシヒと出会いたがっている。カラダが一体になったように、タマシヒも一体になりたがっている。でも、そのタマシヒがみつからないので一体になれずに、もどかしい気持ちでいる。
 三連目の最終行「それなのに ある」は谷川の「思想(肉体)」があらわれた特徴的な行だと思う。
 私は「魂はない(存在しない)」と考えているから、見つけられないだけではなく「コトバで考えても/見えてこない聞こえない」なら、それは存在しない。私の「論理(意味)」では、コトバで考えても/見えてこない聞こえない/「だから ない(存在しない)」になってしまう。
 それなのに。

それなのに ある

 ふつうの(一般的な--と私は考えているが)「論理」を超えて、谷川は谷川自身の「論理」ではないものを「それなのに」ということばをつかって、そこに書いてしまう。「それなのに」は、それまで書いてきた「論理」を否定して、矛盾したことを書くための「論理の技法」である。
 論理を論理の技法で否定する、その強さ。
 本能、むきだしの欲望、こどものわがままのような力。
 谷川が書いていることは「論理的」には納得できない。わからない。けれど、谷川がタマシヒはあると信じているということは、わかる。そう信じる谷川が、そこに「いる」ということが「わかる」。「いる」が「わかる」のは、そこに「肉体」があるからである。「肉体」が「ある」ことが「いる」ということ。「思想」は「ことば(論理)」にはならずに、無防備の、「肉体」そのものとして、そこに「ある」。
 そのことを感じる。
 「肉体」は「耳」となって風の音を聞き、「鼻」となって大気の匂いを嗅ぎ、「眼」となって逆光に輝く海を見た。それは「肉体」のなかで統合されて、「私」の内の世界と外の世界が溶け合う。その「肉体」がそこにあるのを感じる。

 谷川は、そしてほかの読者は、別な考え方をするだろう。
 「それなのに ある」と書くとき谷川が問題にしているのは「あのひと」のタマシヒであって谷川のタマシヒ、あるいは一般的なタマシヒのことではない。
 詩の書き出しの「タマシヒがカラダを連れて」という行は、私(谷川)のタマシヒが谷川のカラダを連れて、という意味である。主語(主体)はあくまでタマシヒである。タマシヒがカラダ(肉体)を統合し、動かしている。
 自分の「肉体」のなかにタマシヒを感じている。だから、それが他人(あのひと)のなかにも「ある」と信じる。林の中に入っていけば、それぞれの「肉体」に呼応して森のタマシヒがあらわれる。風の音になって、大気の匂いになって、タマシヒがあらわれる。タマシヒは何かを動かし、何かをつなぐエネルギー。それ自体は「不動」のものなので、見えない。
 だから、もし、「あのひと」が林のなかで何を聞き、何を嗅いだか、そして目をあけて何を見たかを語ったなら、そこに「あのひとのタマシヒ」があらわれる。「あのひと」が私とは違った何かをカラダでつかみとり、それをことばにするなら、そのとき二人のタマシヒは触れあう。一つになる。そのとき、「あのひと」がまったく違ったことを語ったとしても……。
 そう読むと、この詩は、切ない切ない恋の詩になる。「あのひと」に、何か言ってほしい、何でもいいから言ってほしいという「もどかしい」気持ちをあらわした詩になる。
 それは「もどかしい」気持ちのなかで、あのひとのタマシヒに触れるということかもしれない。触れているということかもしれない。「ない」ではなく、「ある」と感じているのだから。

タマシヒは不思議

 あ、これは私のことばではなく、谷川の書いた詩の最終行。

 このあと、詩は空白の裏を経て、家を写した写真へとつづく。その家の屋根瓦はピンク。入り口を飾っている紙のしめ縄(のれん?)のようなものもピンク。ピンクは、いのりのときの心臓の色かも。
 このピンクの補色になるのか、家の前には稲の葉っぱのみどり、屋根の向こうには木々のみどり、そしてページを戻って「春」の文字の裏にはみどりの水に浮かんだみどりの水草(このみどりの変化が美しい)。「春」の文字がはさんでいる窓枠のなかの壁も水に似通った、暗く沈んだ静かなみどり。
 写真の中にある何かと、谷川のことばのなかにある何かを、結びつけたがっている私を、私は見つけてしまう。


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失くした本のなかで--小倉金栄堂の迷子

2014-11-24 00:18:35 | 
失くした本のなかで--小倉金栄堂の迷子

失くした本のなかでそのひとに会った。
広いガラス窓のテーブルの、あの椅子に座っていた。
雨が降ると夜の街がアスファルトの上ににじむ。
車がとぎれた瞬間にあらわれる逆さまの街が、

失くした本のなかでそのひとと舗道を歩くと
この街から離れていくような気がする。けれど、
そのひとが見せてくれたモノクロの写真には
ガラスにこびりついている雨粒を車のライトが照らしている。

写真の雨を見ながら想像した。下着を脱ぐときの手と足の動きを、
雨を見るふりをして、そのひとのなかに何を見つけ出そうとしたのか。
そのひとは私の探していたものを知ろうとしただろうか。

失くした本のなかでそのひとの声はすっかり変わっていた。
節度を超えた冷淡さな響き。
あるいはまだ書かれていない本のなかでのことなのか。
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吉田大八監督「紙の月」(★★★)

2014-11-23 21:35:09 | 映画
監督 吉田大八 出演 宮沢りえ、池松壮亮、大島優子、小林聡美

 映画だけのことではないのだが、作者(作り手)の「声」を聞くと、途端に作品がつまらなくなるときがある。吉田大八監督は「桐島、部活やめるってよ」がとてもおもしろかった。宮沢りえも舞台を見てから突然大好きになってしまった。それで、見にいったのだが……。
 映画のあと、吉田大八監督と池松壮亮の舞台あいさつがあった。知らずに見にいって(なぜ、この回だけ満員なのだろうと不思議に思っていたのだが)、偶然、二人の「声」を聞くことができた。
 で、そのとき吉田大八監督が、映画と小説の違いを説明し、「大島優子、小林聡美の役は小説にはなくて、映画のためにつくった。宮沢りえのこころの声を代弁するためにつくった」と語った。これは、その通りなのだろうけれど、それを聞いた瞬間に、おもしろかった映画が途端につまらなくなった。
 映画を見ながら、大島優子と宮沢りえ、小林聡美と宮沢りえの「かけあい」の部分がおもしろくて、うーん、うまい。りえに台詞を言わせず、他人に言わせて、それにりえの表情を重ねる(同居させる)ことで、他人の台詞をりえの「こころの声」に変えてしまう。これはは映画でしかできない。
 傑作誕生!と思った。
 そして、横領が発覚したとき、大島優子の台詞を流用してアデランスの上司と向き合うところでは、楽しくて声を上げて笑ってしまったのだが……。
 そうか、このいちばんおもしろい部分は吉田大八監督の創作だったのか。
 それはそれでいいのだけれど、こういう部分は観客が自分で発見してこそおもしろい。映画の楽しさを発見したと喜んでいるところへ、「あれは、私の工夫です」と言われたら、なんだか手品の種明かしをされたようでがっかりする。「わかりやすく」なったのだけれど、そういうことってわからない方が楽しいんじゃないかねえ。
 どうしても言いたいんなら「映画には小説に登場しないキャラクターが登場しています。興味のある人は小説を読んで探してみてください」くらいで止めておけばいいのに。

 で、私は、映画の感想を書く気持ちが半分以上萎えてしまったのだけれど、宮沢りえが大好きなので、気持ちを奮い立たせて、感想を書いている。
 りえは、うまい。
 先に書いたが大島優子、小林聡美との「かけあい」の表情の変化がいい。やっぱり美人はすごい。ほんの少しの動きで「こころ」が顔に出る。乱れた顔(?)では、顔に「こころの乱れ」が反映のしようがない。(私は、美人大好き、ブスは嫌いという人間だから、こういうことを平気で書くのである。)
 相手役が画面に登場しないシーンでもおもしろい。ニセの書類をつくっているときコピー機が故障して紙がつまる。そこへ夫から電話がかかってくる。電話でやりとりしながらコピー機と格闘する。そのときの一人芝居がすばらしい。「おいおい、芝居だろう。ほんとうにコピー機が故障したわけじゃないのに、そんなに真剣になるかよ」と思わず言ってしまいそう。「脚本、読んだ? 単なる紙詰まりでしょ?」と。そのあと、ちゃんとコピーできるんでしょ?
 この全身の演技は舞台で鍛えた成果だねえ。
 全身の演技といえば……追い詰められて、窓を破って、走って逃げるシーン。カメラは途中からりえの顔だけを写しているんだけれど、そのときの「全身」感がいい。写っていない部分もちゃんと走って逃げる演技をしていて、その肉体のリズム(肉体の連続感)が顔にあらわれている。
 いいなあ。
 バックに流れる賛美歌(?)の嘘っぽい響きもいい。「桐島、部活……」でもラストのブラスバンドが効果的だったが、同じ曲を何度もつかいながら、違う場面とシンクロさせる手法がとてもおもしろい。音楽のなかには音楽鳴り響いていたときの「時間」が残っていて、音楽が流れるたびに「過去」の時間が甦ってくる。「過去」が「いま」を突き破って「未来」へと動いていく。
 りえの「逃走」にぴったり。
 いいなあ。ほんとうに、いいなあ。
 でも、映画はどうしてここで終わらないのだろう。ここで終わればいいのに。
 途中で空白のスクリーンがあるのだけれど、その空白で終わってしまえばいいのに。
 一呼吸おいて東南アジアのどこからしい街が映る。りえは、そこに逃亡している。そこで出会う果物屋の男は、もしかするとりえが小学生(中学生?)のときにお金を送っていた少年かもしれない。--これは現実ではなく、りえの夢かもしれない。現実ではりえは逮捕されているのかもしれない。どうとでも解釈できる。だったら、ない方がすっきりするだろうと思う。りえの行く末は観客がかってに考えればいい。監督に教えてもらわなくても(暗示されなくても)、かまわない。いや、暗示されたくない。舞台あいさつでの発言といい、吉田大八監督は、少し観客に対しておせっかいすぎるかもしれない。
 吉田大八監督の発言を聞かなかったら最低でも★4個をつけていたと思う。映画が賛美歌をバックに、りえが走るシーンで終わっていたら、絶対★5個だな。
                     (2014年11月23日、ソラリアシネマ7)


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(16)

2014-11-23 10:00:06 | 北川透『現代詩論集成1』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(16)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「ひととき」は静かな詩である。

長い年月を経てやっと
その日のそのひとときが
いまだに終わっていないと悟るのだ

空の色も交わした言葉も
細部は何ひとつ思い出さないのに
そのひとときは実在していて
私と世界をむすんでいる

死とともにそれが終わるとも思えない
そのひとときは私だけのものだが
否応無しに世界にも属しているから

ひとときは永遠の一隅にとどまる
それがどんなに短い時間であろうとも
ひとときが失われることはない

 「意味」、あるいは「論理」の強い詩である。そして、その「意味(論理)」が、「いま/ここ」ではなく、どこか別の場所へと私を運んで行ってくれる。この詩に書かれている「ひととき」が「私」であるとするなら、それを「永遠」へと運んで行ってくれる--という感じがする。「いま/ここ」が「永遠」とつながっているから「静かな」という印象になるのだと思う。
 谷川は、その「つながり」を「私と世界をむすんでいる」「世界にも属している」という具合に、「むすぶ」「属する」ということばで言いなおしている。「むすぶ」も「属する」も「もの」がひとつではできない。「むすぶ」「属する」ということばは、「ふたつ」のものを必要とする。そして「むすぶ」とき、「属する」とき、その「ふたつ」は「ひとつ」になる。
 ことばもまた、何かを書き、その何かと「むすび」あい、何かに「属する」(あるいは、何かがことばに「属する」のかもしれない)。そうして、「ひとつ」になる。そのとき、そこに「永遠」があらわれるのかもしれない。
 「いま/ここ」が「永遠」とつながるのではなく、「いま/ここ」が永遠になるのかもしれない。

 この詩では、私は、そういう「意味」とは別に、一連目の「悟る」ということばに立ち止まった。この詩集の感想を書いている途中で、私は「わかる」と「さとる」は違う、というようなことを書いた。もう、何と書いたかはっきりとは思い出せないのだが、「わかる」と「さとる」は違うと私は思う。
 「わかる」は「分かる」と書くことがある。そのときの「分」という文字は「分ける」にもつかう。何かを「分ける」ことで、そこに「意味」を与える。未分節を分節化する。それが「わかる」ということだろう。「さとる」は「分ける」ことをせずに、全体をそのまま受け入れ、納得するようなものだと思う。未分節のまま、それでいい、と思うことが「さとる」。「未分節」のまま世界を動かすのが「さとる」だろう。
 そういう風に考えると、谷川の書いている二連目以下は、どうなるのだろう。そこでは「世界」が「分節」されている。「空の色」「交わした言葉」が「その日」から「分けて」取り出され、「何ひとつ思い出さない」と動詞に結びつけられて「意味」になっている。そして、それでも「ひととき」は「実在している」と「分かる」。「ひととき」が「私」と「世界」を「むすんでいる」と「分かる」。
 いや、それは「分かる」ではなく、「悟る」であると考えるべきなのか。谷川は「悟る」と書いているから、それは「分かった」ことではなく「悟った」ことなのか。
 たぶん、そうなのだと思う。
 そうだとしたら、その「悟る」の「証拠」はどこにあるか。なぜ、二連目以下に書かれていることが「分かる」ではなく「悟る」なのか。その「証拠」は?
 書いていることが前後してしまうが、その「証拠」は「むすぶ」にある。「むすぶ」は「分ける」とは別な動詞である。
 「ひととき」と「世界」は別なものとしていったん「分けられた」。「ひととき」が「世界」とは別のものであると「分かった」。分かった上で、それをもう一度「むすぶ」。「わける」をなくしてしまう。「分節化」されたものを「未分節」に戻してしまう。あるいは、「分節/未分節」を自在に往復する。それを「さとる」と言うのだ。

 分節/未分節を自在に往復する--という自在な運動から、私は、この本を読んだときの、最初の印象にもどる。分節/未分節を往復するというのは「ことば(論理)」では可能だが、そういう動きは実際には存在しない。精神の動きというのは「分節」化するときにのみ存在し、「未分節」に戻ってしまえば、動きがなくなる。「未分節」は「分からない(「分かる」が「無い」)」ということだから、そこでは何も動いていない。
 そこには分節化された「有」と未分節のままの「無」がある。「有」と「無」の結合がある。
 これは、矛盾。
 もし魂が存在するとしたら、この矛盾と密接な関係がある。
 それを直観することが「悟る」かな?

 こういう抽象的なことばをつなげていくことは、私は、好きではない。どうしても嘘を書いている気持ちになってしまう。「意味」をつくり出しているような気がして、そのとき、ことばに何か無理なことをさせていると感じる。知ったかぶりをしているなあ、と自分で感じてしまう。分かったようなふりをしているが、悟ってはいないと言えばいいのか……。

 で、詩にもどる。
 この詩では、もうひとつ「否応無しに」ということばが印象に残った。読みながら思わず傍線を引いてしまった。
 「否応無し」とはどういうことだろう。「私(谷川)」が「否定」しようが「応諾」しようが関係なしにということだろう。「私」の「意図/意思」と関係なしに、ということは、そこでは「私」は無力であるということだ。
 「私」が「無」になる瞬間がある。「私」は「有」なのだが、その「有」が「無」としてあつかわれる瞬間がある。「世界」に「属し」て、「未分節」になるということかもしれないが、それは「否応なし」。それは「私」とは別の「論理」で起きることである。
 それがどんな「論理」なのか、「私の論理」では「分からない(分節できない)」。けれど、そういうことがある--それは「さとる」しかないことなのだろう。「否応無し」を受け入れることが「さとる」ことなのかもしれない。

 と、書いてくると。
 谷川は詩を「否応無し」に書かされているのかもしれない、という気持ちにもなる。書いているのではなく、何かに書かされている。何にか。「タマシヒ」に、と言ってみたくなる。魂の存在を信じていない私がこんなことを書くのは変だが……。

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あの通りで、

2014-11-23 01:03:03 | 
あの通りで、

あの通りで会ったことはないが行き違ったことはある。
それから何度、雨上がりの暗がりで待ったことだろう。

きょうこそは、と思いながら
目をあわせることを避けたあの日、
視線の動きで互いを知り尽くしていることがわかったあの日、

遠くの明るい通りでは、
救急車が来て、担架が出てきた。ひとを載せている間も
ほかの車は走りつづけていた。
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岡本啓『グラフィティ』

2014-11-22 12:10:42 | 詩集
岡本啓『グラフィティ』(思潮社、2014年11月25日発行)

 岡本啓『グラフィティ』を読みながら、映画を見ている気持ちになった。あるいはアメリカ文学の翻訳を読んでいるような。
 描写(視線の動き方、ことばの切り取り方)が日本語の「なじみ」から少し逸脱している。
 タイトルのない巻頭の詩。

肩のあまったシャツ
もたれかけた指をはなすと
頬にニュースのかたい光があたった
あっおれだ、いま
映った、いちばん手前だ ほらあいつ、ほら
いまレンガを投げつける

 端正な映像(描写/カメラ)の3行のあと、説明を省略して口語(声/会話)が動く。そのリズムのなかに話者の「肉体」がある。「肉体」が履歴をもっていて、それを直接「肉体(耳)にぶつけてくる。
 こういう肉体表現を豊原清明も映画のシナリオで書いている。(たぶん岡本は知らないだろう。)映画の「文法」に親しんでいるのかもしれない。

きみは興奮しながらスープの豆を口に運ぶ
母親がひたしたスープ
煙がくるなか、担架を 肌のちがう二人が持ちあげて
走りさる

 「煙がくる」の「くる」という動詞は書かれてしまうとそのまま読んでしまうが、なかなか自分で書くのはむずかしい。対象の見方が日本語からは離れている。日本語では「火がくる」「水がくる」というような人間の手には負えないものは「くる」かもしれないが、煙は火に付随するもので主語として「くる」というのは、なかなかむずかしい。「主語」になりにくい。主語になるときは「襲ってくる」とか「這ってくる」とか、複合動詞の形になるかもしれない。「くる」のような単純な動詞の主語になるには存在感が薄い。
 で、あ、これは「翻訳」の文体、と私は思ってしまったのだが。

 こういう新鮮な感覚が随所にある。

掃除機がなっている
礼拝堂のなか
つるつるした木の背もたれ、お尻のところ
どの椅子も
そこだけニスが剥げている
きっと月曜は毎週そうしてきたんだ
Tシャツごしに
せなかの死亡をゆらすかれは
こちらを気にとめない                     (「椅子」)

 これも、映画。礼拝堂の内部が全景(遠景)でとらえられ、そこに掃除機の音(ノイズ/雑音)がある。礼拝堂の静けさと矛盾したノイズが、映像に活気を与える。カメラは全景から椅子へと動いていく。焦点がしぼられていく。眼(視線)が「つるつる」を通って触覚を刺戟する。それが「お尻」という「肉体」のボリュームへ動いていく。そういう径路を通って、再び「そこだけニスが剥げている」と視覚へ戻ってくる。
 そして、「きっと月曜は毎週そうしてきたんだ」と転調する。自分のこころの「声」を聞く。「声」をことばにする。
 映像と「声」の組み合わせ方が映画文法(アメリカ映画文法)にとても似ている。

あの日は それからつれだって
ワシントン・モニュメントのほうまで演説をみにいった
めのまえ
蚊がおんなの黒い肩にとまって
おぼえてる
すっぱかった すごいひとで
おれは息があがってた                   (「8.28.1963 」)

 岡本の実際の体験を描いているのかどうか、わからない。タイトルとなっている「日付(?)」からすると体験ではないのかもしれないが。
 群衆を「めのまえ/蚊がおんなの黒い肩にとまって」といきなりアップの映像でつかみとるところが映画的だ。それから「おぼえてる」と「声」を重ね、「すっぱかった」と視覚を別の感覚(味覚? 嗅覚?)に切り換えて、肉体で「人間」をつかみとる瞬間の文体の短さ、文体の速さがアメリカ文学のようで、新鮮だ。
 ほかにもこういう文体で書く詩人がいるかもしれないが、私は、最近、読んでいない。とても新鮮で、明るい気持ちになる。
 詩の内容(意味)は明るくないのかもしれないけれど、文体の強靱さが、読んでいて気持ちがいい。
 一方で、

シモバシラ
ちいさな地球のおと
一晩かけてゆっくり地面をもちあげた
そのちからに触れたくて
おもわず掘りおこす
やわらかなひかりを反射する
つめたいかけら                      (「グラフィティ」)

 という日本の古典文学のような繊細なことばもある。漢字とひらがなのバランスを考えながらことばをていねいに動かしている。

排水溝へとつづく砂のながれも
みずをほしがってた                    (「ペットボトル」)

 という美しい二行もいいなあ。

 でも、詩が長くなるにつれて、映像と声の交錯が、モノローグになってしまっているような感じがする。それが岡本の本質なのかもしれないけれど、私は前半の映画そのものをアメリカ文学の文体で再現した感じの詩が好きだなあ。

グラフィティ
岡本啓
思潮社
谷川俊太郎の『こころ』を読む
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15)

2014-11-22 11:10:10 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(15)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「アイ」は「故郷」とも「ひらがな」とも違うタマシヒを書いている。違うのだけれど、強く結びついているとも感じる。

一人のカラダがもう一人のカラダの深みに沈むとき
タマシヒはさらに深いところにいる
情に流されず
知に惑わされることもなく
人はヒトデナシという生きものになっていて…

タマシヒに守られて
アイに近づく

 一行目はセックスを連想させる。セックスを書いているのだと思う。セックスをするときタマシヒはどこにあるか。セックスとタマシヒは共存できるか。
 私はもともと魂の存在を信じないので、魂とセックスの関係を考えたことがないのだが、魂ほどセックスに似合わないことばはないように思う。「大和魂のセックス」なんて、変だよね。きっと人はセックスするとき、セックスにおぼれるとき、魂のことなんか考えない。
 そのことを谷川は、「タマシヒはさらに深いところにいる」と書いている。この「さらに深いところ」というのはカラダが沈み込んでいる深みよりもさらに深いという意味だけれど……。
 私は馬鹿だから何でも具体的に考えてしまうのだが、一行目の「一人のカラダ」と最初に書かれているのは男だろう。それが「もう一人のカラダの深みに沈む」とは女のカラダの深みに沈む。ペニスがヴァギナの奥に沈み込むと想像する。
 そのまま「論理」的に考えると、それよりも深いところ、ペニスが沈み込んだところよりも深いところ--これは、どこ? 女の子宮?
 うーん、変だぞ。男のタマシヒは女のカラダの奥にあることになってしまう。
 どこで間違えたのか。男のペニスが女のヴァギナに入っていくことがセックスととらえる男根主義(マチズム)が間違っている。私は古い人間なので、ついつい男根主義の手順(?)でセックスを想像してしまうようだ。反省。
 男と女が肉体をあわせる。結びつく。そのとき肉体に起きていることは、入る/入られるということではないのだろう。それは「便宜上」の動作であって、肉体はもっとほかのことをしている。簡単に言うと、男は女の肉体のなかに入っていくふりをして、自分の肉体の奥へ入って行っている。そして奥から、いままで自分が体験して来なかった快感をひっぱり出そうとしている。男根主義者なら女のなかから快感を引き出し、女によろこびを与える、というかもしれないけれど、そういう欲望も男の肉体のなかにあるのだから、男は男で自分の肉体と欲望を貪っている。自分に夢中になっているというのが恥ずかしいので、女によろこびを与えると嘘をつくのである。
 そういう「夢中」のさらに「深いところ」にタマシヒは「いる」と谷川は書いているのだろう。肉体のよろこびに夢中になる欲望(本能)とは別のところにタマシヒは「いる」と。
 で、そういうタマシヒから人間を見ると……。

人はヒトデナシという生きものになっていて…

 うーん。「ヒトデナシ」か。そうか、「ヒトデナシ」か。そうだろうなあ。「ヒトデナシ」だろうなあ。
 これは、別な言い方をすると「タマシヒデナシ」かもしれない。
 タマシヒではない、タマシヒとは別なもの。
 そう考えると「大和魂のセックス」というのが変ということもよくわかる。魂とセックスは決していっしょにならないのだ。魂がセックスを「魂でなし」と呼ぶのだ。ヒトが人を「ヒトデナシ」と呼ぶときがあるように。
 「タマシヒデナシ」ということばはないから、そのことばをつかって考えるのはむずかしいが、これを「ひとでなし」で考えてみると。
 「ヒトデナシ」と批判されても、そのときその人は「ヒト(人間)」なのだし、また、その「ヒトデナシ」と呼ばれる行為を止めるというのもむずかしい。どうしても「ヒトデナシ」になってしまう。ならずにはいられない。
 「ヒトデナシ」のなかには、セックスのことばで言えば「エクスタシー」が含まれている。自分が自分でなくなってしまう快感が。

 私はきのう(11月21日)、映画「俺たちに明日はない(ボニー&クライド)」を見た。二人は銀行強盗を重ねる。殺人もやってしまう。「ヒトデナシ」の行為だ。その最初の犯行のときの快感が「エクスタシー」。その瞬間、失業者であることを忘れる。ウェートレスであることを忘れる。何と名づければいいのかわからないが、たしかに「いままでの自分」の「外」にいる、自分を突き破って「外」に出た感じがある。自分が自分でなくなってしまう。何でもできるんだとうい悦びで肉体が満たされる。
 そういうことに対して、親の世代は「ヒトデナシ」とひとくくりにする。「ヒト」の道義に外れる、ということである。人間にはしてはいけないことがあり、それをすると「ヒトデナシ」になる。
 そう考えるとタマシヒは「道義」のようなものかもしれない。「道義」のように、変わらずにある何かに通じるものかもしれない。

 脱線したかな?

 谷川の詩がおもしろいのは、「ヒトデナシ」のような、論理ではうまく追うことのできない何かをつかんだあと、それが「意味」になる前に、そこからぱっと飛躍してしまうところだ。

タマシヒに守られて
アイに近づく

 セックスを描き、「ヒトデナシ」という「声」を聞き取り、そこから一気に「アイ」に飛躍する。この「アイ」は「愛」かもしれないし、英語の「I(私)」かもしれないが、「ヒトデナシ」になって自分から飛び出してしまって、そのあとで初めて「愛」に近づく。逸脱していく「私」をタマシヒが「愛」へと導く。
 「愛」は自分のに閉じこもっていては愛にはならない。愛とは、自分が自分ではなくなってしまってもいいと覚悟して、他人についていくこと、他人に従って自分の外へ出ていくことだから。自分ではなくなることによって、初めてほんとうの自分(アイ/I)になる。
 それこそ「情に流されず/知にも惑わされることもなく」、強い「愛」そのものになるのかもしれない。

 --こんなめんどうくさいことを谷川は書いているのではないのかもしれない。けれど、なぜか、こんなふうに私はめんどうくさいこと考えてしまう。
 谷川の書いていることばはどれもこれも簡単なことばというか、聞いたことのあることばなのだが、その「聞いたことがある」を私は自分の「肉体」のなかに探し回ってしまう。これは、いつ、どこで、どんなときに聞いたのだろう。そのとき私の「肉体」は何をしていたのだろう。それを思い出そうとすると、手探りになってしまう。
 手探りして、何かが見つかるわけではないのだが、手探りをしているとふと何かに触れたように感じる瞬間がある。あ、これはあれかな、とことばにならないまま、「あれ」を感じる。

 セックスと「ヒトデナシ」と「タマシヒ」と「アイ」。論理的に言いなおそうとすると、ごちゃごちゃしてしまうけれど、それはきっと「知に惑わされている」のだろう。「知」を捨てて(論理的になることを止めて)、きょうは「ヒトデナシ」と「アイ」がどこかでつながっているぞ、とだけ覚えておこう。

 この「アイ」のとなり(左ページ)に洗濯したシャツの写真。針金のハンガーに五枚。右側の三枚は風のせいでシャツがくっついている。左の二枚は離れている。光があたっている。影もある。その光と風と影の動きに、私は「肉体」を感じてしまう。それを着ていた「肉体」のことを思ってしまう。
 「アイ」というよりもセックスについて思ったからだろうか。




おやすみ神たち
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あの日に、

2014-11-22 01:30:13 | 
あの日に、

きょうをあの日に戻したい。
噴水が枯れてしまって冬の光は行き場を失なっていた。
あの日、さらに別なあの日をひっぱり出してきて、
池の中央に並んだ杭にユリカモメを止まらせてみる。
水面に逆さまの白い形を見るために。
さらにあしたと別なあしたを入れ換えてみるが、
あの日は、もう直せないところまで直した記憶。
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(14)

2014-11-21 09:07:57 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(14)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「故郷」は「ひらがな」と対になっているように感じられる。

とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
ここからはみえない                     (「ひらがな」)

 と、ことばのなかにあらわれた「いつか、どこか」で見たもの(こと)がタマシヒの故郷だと私は思うが、谷川はもうひとつの「故郷」を書く。

タマシヒのこの世での故郷は音楽
耳に聞こえる音が描く見えない地平を越えて
タマシヒは帰ってゆく
どこまで帰るのだろうとヒトは訝(いぶか)る

 「ひらがな」と対になっていると感じるのは、

耳に聞こえる音が描く見えない地平を越えて

 と、そこに「見えない」があるからかもしれない。「ひらがな」の「ここからはみえない」と「見えない」が重なる。「見えない」のに「ある」ということがわかる。
 私は魂が「ある」とは思わない。それを「見た」ことがないからである。そういう人間が「タマシヒ」について書かれた詩の感想を書いているのは奇妙なことだけれど、「見えない」のに「ある」ということが「わかる」ということが、たぶん、谷川の詩と私をつないでいるのだと思う。
 「見えない」のに「ある」ということが「わかる」。そして、それを「書く」ことができる。書いたときに「見えない」ものが「ある」ということが、ことばのなかで「事実」になる。
 魂は「ない」。「ない」なら、それを考える(想像する)ことはできないのかもしれないが、「ある」と同様に「ない」も想像できる。そして「ない」と書いたときに「ない」がことばのなかで「事実」になる。
 「ある」と「ない」がことばのなかで同じように「事実」になる。その「なる」になるようにことばが動く--そこにある「共通の何か」が気になる。
 あ、だんだん、ややこしくなる。
 中断しよう。詩に戻ろう。

 音楽は不思議だ。音は一瞬一瞬消えてゆく。けれど聞いた音が「肉体」のなかに残り、音をつないでゆく。そのとき時間は次々にあらわれる音を追いかけると同時に、過去へも逆戻りしている。矛盾した方向へ広がっている。「いま」が「いま」ではなくなる。「いま」ドの音が聞こえても、その音だけでは音楽ではない。(そういう音楽もあるかもしれないが……。)いくつもの音が聞いた音(過去)のなかへ帰ってゆき、そこから新しい音となって「いま」を突き破って次の音(未来)になる。
 そのとき「見えない地平」というのは、どこにある? 過去の方? 未来の方? それとも突き破られた「いま」のどこか? たぶん、「過去/未来/いま」の区別がない。区別がなくなるところに「見えない地平」がある。区別が「ない」と見え「ない」がいっしょになって「ある」に変わる瞬間。
 「ない」と「ある」が交錯する。
 これは、ほんとうに「どこまで帰る(どこまで広がる)」かわからない。わからないから「訝る」のだけれど、わからないを通り越して、どこかに「ある」らしい。その「地平」は。「とおくにやまなみがそびえているらしい」と同じように……。

 音楽。
 私は音痴で音楽はほとんど知らないが、谷川が音楽が好きなことはよくわかる。この詩がその例になるかどうかわからないが、音楽というのはそれまで出会ったことのない音が出会って新しい音に変わるよろこびのなかにある。
 谷川の詩は、いつでも「変な音」を含んでいる。ここで、どうして、こんな音が出てくる?と言いたくなるようなことばが出てくる。そして、どうしてこんな音(こんなことば)?と思いながら、それを聞き終わった瞬間、あ、これがいい。いま聞いた音がもう一度聞きたいと思う。
 二連目。

この世での故郷の先に
あの世での故郷があるのではないか
タマシヒは多分それを知っている
そう思ってヒトはもどかしく
寂しく楽しい

 「この世」に対して「あの世」が出てくる。これは、ちょっと変だけれど、まあ、ことばはそんなふうに動くかもしれない。いや、そんなふうに動くと動きやすいから、そう書いているのだなと思う。いわゆる対句。私はこういうことばの動きを「頭で書いている」という具合に批判するのだけれど、批判とは関係なしに、これはこれで「対句」という音楽形式。私がいちゃもんをつけているだけ。
 あっと驚くのは、最後の、

寂しく楽しい

 だいたい「寂しい」と「楽しい」は同居することばではなく、矛盾することばだ。「寂しく悲しい」か「にぎやかで楽しい」が一般的な言い方。だから、谷川の書いていることは変。
 変なのだけれど、それがいい。
 こういうところだね。音楽を感じるのは。あまりにもかけ離れた音が出会うのはいままでの「和音常識」からはありえない。知ったかぶりをして書くと、和音のコード進行からいうとありえない。でも、それが書かれた瞬間、それが存在し、その存在に触れた瞬間、「そうだ」と思う。「これこそ聞きたかった音」と思う。同時に、それを「知っている」と思う。
 「寂しく楽しい」を知っている。
 「寂しく楽しい」というのは矛盾しているから、そして矛盾だという声が自分のなかから(たぶん頭のなかから)聞こえるから、それをことばにすることができなかったけれど、「寂しく楽しい」は「知っている」。いつも感じている。感じながら、ことばにできなかった。
 谷川より先にことばにすれば、私の方が詩人になれたのに。
 二連目の「この世」「あの世」の対句の動きは、なんだかうるさいのに、そのうるさかったことも忘れて、最後の行で、ああ、いいなあ、と思う。
 そして詩を最初から読み返す。「意味」というか、「論理」はわかったようで、わからない。タマシヒと音楽と故郷について書かれているということだけは「わかる」。それが「寂しくて楽しい」に変わるのも「わかる」。
 「わからない」ものがある。それは「寂しい」。けれど「わからない」が「ある」と考えることができるのは、「楽しい」。「わからない」が「ない」ではなく「ある」と言えるのは、きっとことばにならない何かを「わかる」から。

おやすみ神たち
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(13)

2014-11-20 11:06:11 | 北川透『現代詩論集成1』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(13)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 自転車に乗っている少年や、空中の凧(?)の写真があって、青と白の横縞のシャツを着た少年が傘の上でペットボトルの写真を回している(?)。その裏は青と白の横縞。これはシャツを写したのではなく、シャツを印刷で再現したものだろうなあ。
 その左隣のページに「ひらがな」という詩。裏が透けて見える。バケツのようなものが見える。--私はいつでもこんな風に余分なことを考えながら詩を読む。余分なものが詩のなかで洗い流されるのか、あるいは詩の感想のなかに紛れ込んでくるのかわからないが……。

いつかだれかがどこかからきて
いつかだれかがどこかへきえてゆく
いつかがいつかどこかがどこか
だれかがだれかだれにもきめられない

 同じことばが繰り返され、いつか、だれか、どこか、というぼんやりしたことばが「きて(来る)」「ゆく(行く)」という動詞のなかで「消える」。明確にではなく、ぼんやりと、しかし、はっきりと。ちょうど、その詩の裏側にあるのがバケツの写真だとはっきりとわかる感じ。不安の手応え(?)のような感じが、孤独を誘う。
 孤独というのは、何かが(いつか、だれか、どこか)が「ある」ということはわかるけれど、自分とうまくつながっていない、親密な状態にないときに感じるものだと思う。写真のバケツが裏から透けて見えるように、何か不思議な「距離感」が孤独のまわりにあるように思う。
 これは、抽象的な感覚だ。
 これを、谷川は二連目で言いかえる。(言いかえているのかな、と思う。)

とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
ここからはみえない
こんなふうにタマシヒはひらがなにやどっています

 孤独な人間は何か「ここ」から切り離されて、ぼんやりと「どこか」を思う。
 「くもりぞら」はぼんやりしている。青空に比べて、のことだけれど。「らしい」も、そのぼんやりと重なる。「あいまい」。断定ではないからね。そういうことばが、私には「孤独」につながるように思える。
 おもしろいのは、そのあと、「ここからはみえない」。
 見えないのに、私たちはことばを動かして、それがあると言うことができる。ほんとうは「とおくにうみがある」のかもしれない。あるいは「とおくに街がある」のかもしれない。でも、谷川は「やまなみがそびえている」らしいと書く。書いたときに、「やまなみ」が生まれてくる。
 そうであるなら。
 「とりがいちわくもりぞらをとんでゆく」もことばにすることで、そこにあらわれてきた世界かもしれない。ことばにしなかったら、それはあらわれてこない。くもりぞらも、とりも、そこには存在しない。そして、それをことばにすることで、それとつながる「孤独(な人間)」も存在しない。
 ことばが、人間を何かとつないでいく。ことばが世界をつくっていく。
 「いつか」「どこか」「だれか」もことばといっしょにあらわれて、やってきて、消えて行く。
 それも「ここからはみえない」世界。

 最終行は、どういうことだろう。タマシヒはカタカナで書かれている。タマシヒはひらがなではなく、ひらがなに宿るものだから、ひらがなにしてしまうと区別がなくなるからかな?
 でも、ひらがなと対比されているのはきっと漢字だろうなあ。
 タマシイを考えるとき漢字は似合わない。ひらがながいい。ひらがなは、音。漢字は表意文字、つまり意味。意味を厳密に考えると、タマシヒは押し出される。あるいは遠ざけられる。意味は「頭」で考えるものだからかな?
 「いつか」「どこか」「だれか」がわからないまま、ぼんやりと揺れ動く。やってきて、消えていくものと、出会い、別れる。世界が姿をあらわし、また消えていく。そのときやってきたのは「いつか」「だれか」「どこか」だろうか、それとも「タマシヒ」があらわれて、タマシヒが「いま/わたし/ここ」を世界に変えたのか。
 あ、こんなふうにして「意味」を探してはいけないのだろう。

とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい

 これは、いつか、どこかで私が見たこと。それはまた、いつか、だれかが、どこかで見たこと。その誰かを私は知っているわけではないが、きっと誰もがいつか、どこかで見ている。思っている。
 誰かが「誰も」になる世界。
 その鳥の名前は決めない、その山並の名前は決めない。「とり」「やま」という何でもないものを通って「誰も」が「誰か」になる。

とりがいちわくもりぞらをとんでゆく
とおくにやまなみがそびえているらしい
ここからはみえない

 あ、とりも、やまなみも、「ここからはみえない」。でも、それが「ある」ことは「わかる」。そして、そう「わかる」とき、「誰も」が「誰か」ではなく「私」になる。きっと「タマシヒ」になる。


おやすみ神たち
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ギョーム・ガリエンヌ監督「不機嫌なママにメルシィ!」(★★)

2014-11-19 23:59:57 | 映画
監督 ギョーム・ガリエンヌ 出演 ギョーム・ガリエンヌ



 ギョーム・ガリエンヌの自伝の舞台を映画化したもの。ギョーム・ガリエンヌが本人とママの二役をやっている。このママをも演じてしまうところがこの映画のポイントで、それは映画だからこそできることなのだけれど。(舞台では、ひとりが二人として同時に存在することはできないからね。)そして、視線の演技など、芝居ではむずかしい部分が映画では救済されているというか、わかりやすくなっているのだけれど。
 うーん。そこが、つまらない。
 舞台を見ているわけではないのだが、この「芝居」がおもしろいとしたら、それはあくまで「語り/ことば」が想像力を刺戟してくるから。「語り/ことば」が舞台にはいないママを観客の想像力のなかに描き出すからだろう。
 それを先回りして、映像にしてしまっては、「ことば/語り」の魅力が半減してしまう。いや、9割減くらいになってしまう。想像力で映画に参加することができない。つまり、自分の人生を重ね合わせることができない。
 娘をほしがったママ、そのために娘として育てられた少年(青年)というような体験は特異なもので、そのまま自分の人生が重なる人などほとんどいないかもしれないが、ほとんど重ならないからこそ、重なる部分へ自分の体験を重ねるというのが「芸術」である。先日見た「レッド・ファミリー」だって、そういう「家族」を生きてきた観客はいないだろう。それでも自分の家族を重ねてみてしまう。家族という「関係」を見てしまう。
 この映画でも、女性観客は主人公にはなりきれないわけだから、自分自身の体験を重ねることができないようであって、実は重ねてみてしまう。人と人との関係、どんなふうにしてママが自分に影響を与えたか、ということを思い出してしまうはずである。
 で、そのとき、そこに主人公そっくりのママが出てきてしまっては、想像力の入り込む余地が少なくなる。ことばだけの方が、自分のママを、自分のなかにみつけることができる。
 人はだれでも他人を見ると同時に、その他人をとおして自分を見るのだと思う。そのときの関係が複雑になればなるほど、それは映画のように具体的な映像をもたない芸術、ことえば舞台に向いている。役者が再現できないもの(自分とママの二役)というものがあってこそ、その再現できないものを観客が想像力で再現してしまうというのが「芸術」の醍醐味である。省略と抽象のエネルギーが噴出するのは舞台の方であろう。
 私は目をつぶって、半分眠ってしまったが、眠らずにことばだけは聞くようにして見たらおもしろいかもしれない。スタンダップコメディーにして、舞台のストーリーにはなっていない部分を映像で見せるのもおもしろいと思う。舞台になっていることだけを映画にしているから退屈なのだと思う。
                      (2014年11月19日、KBCシネマ2)



 


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/



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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(12)

2014-11-19 10:12:54 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(12)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 「草木に」の右側は空白のページ(「枯葉の上」の裏側)。詩は、左ページの左端に印刷されている。多くの作品は、同じように「左詰め」で印刷されている。そのため、長い「空白」のあとに、ぽつりと洩らされたことば、という感じがしてくる。

祈ってもいいだろうか
草木に
神が見当たらぬまま
祈ってもいいだろうか
ただともに生きていたいと
無言の草木に
祈ってもいいのだろうか
今日の陽の光を浴びて
叶えられぬ明日を

 いろいろなことを思う。まず「神が見当たらぬまま」に少し驚く。そうか、「祈る」のは神に祈る、ということか。私は、神について真剣に考えたことがない。祈る、というのも真剣に祈ったことはないような気がする。でも、「神が見当たらぬまま」「祈ってもいいのだろうか」と悩む気持ちは、わかる感じがする。神の存在を信じていないから、なんとなく親近感を覚えるのかもしれない。妙な言い方だが。
 親近感を覚えるは、「草木に」祈る、ということにも関係する。私は「草」には何も感じないが、木には不思議な畏怖を感じる。ときどき木に引きつけられ、木に触ると落ち着く。だから神に祈るのではなく、木に祈る、というのはなんとなく、わかる。
 でも、何を祈るのだろうか。

ただともに生きていたい

 あ、これは「祈り」なのかなあ。
 「祈り」とは、何なのだろう。辞書(広辞苑)には「祈り」を「祈ること」、「いのる」を「言葉に出して、神仏から幸いを授けられるように願うこと」という具合に書いてあるが、「ただともに生きていたい」とは「神から授けられる幸い」なのかな?
 「辞書」通りには、ことばの「意味」は動かない。「辞書」は役だたない。
 「多々ともに生きていたい」は、誰かから授けられる幸福というものではないように私には思える。
 私には「祈り」というよりも「欲望」のように感じられる。「欲望」を語りかけてもいいかな、ということだろうか。
 でも、こう書いた瞬間に、「ただともに生きていたい」は「欲望」と呼んでいいのかな、という気持ちにもなる。
 「生きていたい」は究極の願い。夢。理想……。ことばが見つからないが。
 どんな思想も「人はどうしたら幸福に生きていけるか」ということにつながる。それにつながらない「思想」はない。そうすると、「ともに生きていきたい」は「思想」ということになる。

 人は「思想」を「祈る」のだ。

 で、この詩を読んで、そこに「神」を感じないけれど(谷川自身「神が見当たらぬ」と書いているが)、純粋な「思想」を感じる。そして、その「純粋な思想」を「神」であると感じる。
 あ、矛盾しているね。「神」を感じないけれど、「純粋な思想」に「神」と感じるというのは。「ともに生きていたい」と思うとき、人は「神」になるのかもしれない。知らずに、自分を超えて自分以外のものになる、と言えばいいのか。

 ことばにしようとすると、だんだん変な具合になってしまうが、あ、これ、わかる。そうだなあ、そんなふうに思う瞬間があるなあという気持ちは変わらない。
 かわらないのだけれど……。

叶えられぬ明日を

 この最終行は何だろう。とても不思議だ。このあとに、もう一度「祈ってもいいのだろうか」という行が省略されているのだと思うが、なぜ「叶えられぬ」? 不可能なことを「祈る」?
 考えるとわからない。
 けれど、考えないと、「わかる」。
 決して叶えられない。みんながともに生きて、ともに幸せになるというのは叶えられない夢である。だからこそ、それを願うのだ。そうあってほしい、それに近づきたいと思うのだ。
 この「願い」をしっかり「肉体」のなかに抱え込むとき、人はやっぱり、人であることを超えて「神」になるのかな? 「神」になれば「神が見当たらぬ」はあたりまえのことになるのかな。

 ことばを多く書きすぎてしまった。
 何も書かずに、ただ読み返せばいいのかもしれない。そうして、自分のことばを「空白」にして、ここにあることばになってしまえばいいのだろう。谷川の詩なのだけれど、谷川が書いたということも消してしまって。


おやすみ神たち
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中島悦子『藁の服』

2014-11-18 11:51:57 | 詩(雑誌・同人誌)
中島悦子『藁の服』(思潮社、2014年10月25日発行)

 中島悦子『藁の服』には複数の文体がある。というか、複数の文体があるということが、この詩集の(中島自身の)文体(肉体)である。思想である。
 「柩をめぐる」の書き出し。

きらきら市役所の前に柩が置かれた。柩には、「生きながら、入り
ますか?」という張り紙がしてあった。きらきら市役所のシステム
は、すでに魂が抜けており、この事件をどのように対処すべきか分
からなかった。これは、批評ですか。批判ですか。というか、芸術
表現ですか、いわゆる。ついこの間の合併でできたばかりのきらき
ら市のシステムにとっては、まともに批判を受け入れることができ
るわけもない。結論は、所詮芸術ですから、表現の自由ですから、
とにかく自由におやりになれば。と言うが早いか、すぐさま柩は粗
大ゴミ置き場に直行させられた。

 ある「こと(もの)」がある。それは何だろうか。私は「もの/こと」としか思わない人間だが、中島は「批評ですか。批判ですか。」と考えている。さらにそれを言いかえて「芸術表現ですか」と言う。
 そうか「表現」か。「表に表す」という「動詞(動き)」がそこにはある。背後にあるものを、「表」に「表す」、見えるようにする。「批評/批判」ならば、自分の「意見」を表に表す、わかるようにするということか。
 「批評/批判/芸術」ということばのあいだにはさまれた「というか」ということばの方が重要かもしれない。
 「もの/こと」を言いかえる。最初の「表現」では言い切れないものを、別の形で言いなおす。それは、隠れているものを、さらに表に出すということだ。
 隠れているものを「表に出す」、さらにその「表に出したもの/こと」を、別の形で「表に出す」。その結果、そこに書かれていることは必然的に「複数」になる。(中島の文体(肉体)が複数で構成されているというのは、そういう意味である。)
 これが中島のことばの「肉体」の動きの基本だと思う。つまり、思想の基本。
 そして、そのときの特徴として、「これは、批評ですか。批判ですか。というか、芸術表現ですか、いわゆる。」という口語のリズムがある。口調がある。厳密に論理を組み立てて「結論」を提出するというよりも、その瞬間瞬間に、ぱっと別の角度からのことばをぶつける。そのフットワークの軽さ、フットワークの強さ、それが中島の「肉体」なのだと感じた。

毒の雨は降る。堂々と。今となって隠すことは何もない。こんな雨
の日には、ショッキングピンクの長靴を膝まで履いた女が無言でバ
スに乗ってきて、つかまるところもなく立っている。この抗議のス
タイルを内閣総理大臣が見ることはない。だって、大衆のバスだよ、
ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。 
                             (「屋根をめぐる」)

 「この抗議のスタイル……」にこめられた批評、批判、あるいは芸術。そこには「文語」ではなく「口語」が生きている。批評、批判というのは「表現」であり、「表現」は「文語(鍛えられた文章)」になることで「意味」が明確になり、そういうものが「芸術」と呼ばれたりするのだが、中島は、こういう「洗練」に抗議している。確立された「意味」ではなく、そういうものになる前の衝動(本能)のようなものを、次々に、奥から(あるいは別の角度から)ひっぱり出してきて、そのまま無軌道に動いていく。
 洗練の拒否という洗練--ということもあるかもしれないが、私は、そんなふうに「芸術」に与するよりも、「無軌道」の力そのものを信じたい。
 「だって、大衆のバスだよ、ここは。大衆は、ある場所でバスごと棄てられたのだよ。すでに。」ということばにくっきりとあらわれている言ったあとで考える、その結果、「倒置法」になってしまうというような「口語」、倒置法によって念押しする力の入れ具合の見せ所--そういうものが、とてもおもしろい。

 「神無月をめぐる」は東電福島第一原発の事故を描いているか。

ふくこ はなこ ゆりこ うめやすふじ
きたふじ みどり さくら

毒を巻かれて、手放した牛たちの名前。あの子らの名前を忘れない
ようにしようと思って紙に書いて仮設の壁に貼りました。みんなか
わいくてしょうがない子たちだったのです。牛小屋に泊まって世話
したこともありました。

あの政府のほっとしたような顔を見ましたか? 毒と病気との因果
関係が証明されないという科学の報告書をもらった時の顔は、スロ
ーモーションで報道すべきでした。

あかるひめ しこぶち いづのめ うむぎひめ かやなるみ
わかむすび くくりひめ このはなちるひめ たけいわのたつ
てなづち おもいかね

 「あかるひめ……」は牛の名前なのか、それとも古い伝承歌なのか、私にはちょっと分からないのだが、牛の名前と思っておく。
 「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」も口語の批評、批判のひとつだが、私は、それよりも牛の名前の羅列の方が強烈な批判(芸術)になっていると思う。名前にはそれぞれ「過去」がある。その名前をつけたときの、飼い主の「思い」が「口語」として残っている。名前の「いわれ」を聞かれたら、それぞれあるだろうが、そういうことは言わずに「肉体」そのもので納得している「時間」がある。その名前といっしょに生きてきた「具体的な時間」がそこにある。「牛小屋に泊まって世話をしたこともありました。」というような、見えない「時間」がそこには動いている。
 それが「あかるひめ……」のように、かなり複雑な「音(音楽)」そのものとして、変形できない形、強靱な結晶のようにして噴出してきている。名前だから「分節」されているのだけれど、その「分節」は、私のように実際にそこで牛を飼っていない人間には見えない。つまり「未分節」なものである。私にとっては「未分節」であるけれど、飼っていた人にとっては「分節」された世界。名前の数だけ、複数の「肉体」があるのだ。
 私には「未分節」世界が、そこに「分節」されて、「ある」。それに触れた瞬間に、私の「未分節」が「分節」されて新しく生まれる--これが優れた芸術だ。
 それが「批判」という形で、たとえば「あの政府のほっとしたような顔を見ましたか?」という形になってあらわれる。その奥にある「未分節」がなまなましく動いている。口語は、その「未分節」のものを「肉体」そのものとして、そこにあらわれる。そのことばを発した人の顔、肉体の動き、批判されている政府の顔、肉体も見えるでしょ?
 見えるものにどうしても視線はひっぱられるけれど、その見えるものの奥でうごめいている「あかるひめ……」という「分節」があってこそ、それは見えるようになっているのだ。



 例年、10月以降は詩集がたくさん出版される。なかなか読み進むことができないのだが、これはいい詩集だ。「現代詩手帖」12月号(年鑑)の展望で6冊の詩集をとりあげて感想を書いたのだが、この詩集をもっとはやく読んでいればと反省した。
 とても印象に残る詩集だ。


藁の服
中島 悦子
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谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(11)

2014-11-18 10:35:01 | 谷川俊太郎『おやすみ神たち』
谷川俊太郎(詩)川島小鳥(写真)『おやすみ神たち』(11)(ナナロク社、2014年11月01日発行)

 私はこの日記ではもっぱら谷川の詩について書いている。写真がいっしょになっていて、写真の方がページが多いのに写真のことは語っていない。引用がむずかしいから、どうしてもそうなってしまう。
 そして引用がむずかしいといえば、この本の「構成」そのものも引用がむずかしい。実際に本を手にしてもらうしかないのだが、そのむずかしい写真と構成のことを書いておきたい。以前書いたことにつながるのだが……。
 きのう読んだ「アンリと貨物列車」の裏側は空白である。空白だけれど、裏の文字は透けて見えない。不透明の白。あ、これは間違いで、紙が「不透明」なのだろうけれど。
 その白が、見開きの左の写真とつながっている。左の写真は白壁の向こうに消えていく豚の尻と尻尾と後ろ足。それを見ていると、右のページの空白は空白ではなく白壁にも見える。写真はパノラマのように見える。右はただ壁しか写っていないのだけれど。
 それはある意味では「無意味」。あるいは「中断」。
 こういうものがあると、ほっとするなあ。
 私はきのう私の「肉体」がすべての「もの」と「肉体」としてつながっているというようなことを書いたが、そのつながりはつながりのままではかなり窮屈。必要なときだけつながって、それ以外はつながっていないのがいいなあ。わがままな考えかもしれないけれど。そして、そのつながっていない感じ、「中断」(切断)した感じがあると、なんだかほっとする。
 この写真の右ページがそういうものかもしれない。
 「中断」といえば、豚の尻と尻尾も「中断」ではあるね。頭と前足が見えない。見えないけれど、それがあるとわかる--と書くとまたつながってしまう。そうではなくて、つながっているとわかっているけれど、それを「中断(切断)」して表現してしまう。そのときの「中断」をめざす(?)動きが、なんだかほっとする。
 それは「中断」されて(切断されて)も、そこに「充実」があるからかもしれない。
 写真というのは、切断(中断)され、そこで輝いている「もの/こと」だろうか。世界はどこまでもつづいている。それをカメラのフレームが強制的に切断し、そこに「もの/こと」をとらえてしまう。
 そういう写真が何枚かつづいて、ガラス窓をつたう雨粒の写真がある。その裏側は不思議な灰色、あるいは水色。雨粒が見ているガラスの色だろうか。雨粒がかかえてきた空の色を、雨粒はガラスに映して見ているのだろうか。どこから、何を見れば、その色が見えるのだろうか。肉眼で見る色ではなく、想像力で見る色かもしれない。

 で、想像力。

 灰色とも水色とも見える色の、その隣(左ページ)に「枯葉の上」という詩がある。いまは秋なので、そして町には街路樹が木の葉を落としているので、谷川がどの場所を書いているのかわからないが、私は私の知っている枯葉を思い浮かべながら読む。
 ことばを読む、あるいは写真や絵を見るとき、想像力で、そこにはない何かを見ている。そういう「飛躍」の踏み台になっているかもしれないなあ、あの水色(灰色)は、というようなことも私は考えたりするのだが……。
 詩に戻る。あるいは、詩へ進む。

散り敷いた枯葉の上に陽がさした
相変わらず見えないし聞こえもしないが
未知に近づいているせいか
タマシヒは謙虚になっている
とココロは思う

 二行目の「相変わらず見えないし聞こえもしない」とは何のことだろう。何が見えない、何が聞こえない? 「相変わらず」って、いつから?
 「タマシヒ」が見えない、聞こえない。「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」のは見える。そのとき、そこにある音がないとしたら、その「ない」が聞こえている。だから、町の風景ではない。それを見て、それをことばにしようとした何か--タマシヒが見えない、聞こえない。
 けれど、町を「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばにすることで、タマシヒはどこかに近づいていこうとしている。「未知」へ。まだ、ことばにできない、どこかへ。そして、その未知の中心(真実とか事実とか)に近づいているのだなと感じてタマシヒは謙虚になっている。
 と、「ココロは思う」。
 ココロにもタマシヒの姿は見えない、タマシヒの声は聞こえない。それはどこある? 見えないのだから、特定できない。でも、遠くにあって見えないのではない。聞こえないのではない。遠くだったら「感じる」ということもできないだろう。
 見えすぎる、聞こえすぎるのかもしれない。見えすぎ、聞こえすぎて、ココロにはタマシヒの見たもの、聞いたものが、ココロ自身が見聞きしたことのように思えるのかもしれない。錯覚してしまうのかもしれない。
 タマシヒはココロの内部、ココロの奥深くにあって、ココロを支えているのではなく、ココロに直にくっついているのかもしれない。すぐ背後にタマシヒはあって、それがそのままココロを直接動かして「散り敷いた枯葉の上に陽がさした」ということばになった。そのことばを聞きながら、ココロはタマシヒの「謙虚」を感じている。何も言わないので「謙虚」と感じているのかもしれない。
 ほんとうはココロとタマシヒが「距離のない」対話をしている。「一体」になっ「対話」している。「一体の対話」は「独白」の形になってしまうので、ココロにはそれがわからない。

枯葉を踏んで音もなく猫がやってきた
穏やかな一日があれば他に何も要らない
とタマシヒが囁(ささや)いたような気がして
ココロは朝の光に寄り添う

 対話することは、同時に「肉体」を寄り添わせることである。離れていては対話はできない。「一体」になっているココロとタマシヒは「寄り添う」必要はないのだけれど、「一体」ということについて考えるために、「寄り添う」ということばが必要なのだ。
 囁いたのはタマシヒか、ココロか、寄り添うのはココロかタマシヒか。区別の必要はない。別々の名前で区別することがあっても、それは便宜上のことだ。つながっているから「ひとつ」。その「ひとつ」になる瞬間を感じ取ればいいのだろう。
 で、タマシヒとココロが「ひとつ」になったとき、散った枯葉も、その上にさしてきた陽の光も、猫もみんな「ひとつ」になって、その「ひとつ」であることが「穏やか」ということだなあ、とわかる。

 あ、書き漏らした。
 「相変わらず」って、いつから? きっと最初から。それは「いつも」のことなのである。「不変」であり、それは「普遍」でもある。
 タマシヒはいつも動かない。だから見えないし、聞こえない。動いたときはココロと「一体」になっているので、ココロにはタマシヒが動いたとは感じられない。ココロが動いているだけで、タマシヒはココロの動きをじっと見ているだけ。じっと見ながら、タマシヒが「未知(永遠)」に近づいていく。ココロに従って「未知(永遠)」近づいていく。「謙虚」で「従順」なタマシヒ。

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