詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

椅子に座って

2015-01-18 01:28:53 | 詩(雑誌・同人誌)
椅子に座って

椅子に座って、
卵を見ている。その男がなぜ卵を見ているか、そのことを
ことばは書きたいと思った。

夜遅く椅子に座って、
灰皿を見ている。灰皿にはたばこの吸殻がいらだった匂いを発して重なっている、
それを書いたのではつまらない詩になってしまう。

椅子に座ったその右側の引き出しが半分開いている。
外国のはがきがある。外国とわかるのはカテドラルが写っているからだ。
それは、ことばの書きたいことではない。

バスの椅子に座って外を何とはなしに見ていると、
バスが歩いている女を追い越した。女は大きな硬い鞄を持っていた。
どこか外国の街で見た風景のようだった。

椅子に座って、
引き出しのなかから取り出した封筒、切手のはってない封筒から取り出した
手紙を机の上に拡げた。その紙の谷と山の折れた形、

椅子に座って、
集中しなければと、ことばは思った。集中するために卵を見つめているのだ。
無意味に。






*

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デビッド・フィンチャー監督「ゴーン・ガール」(★★)

2015-01-17 09:33:13 | 映画
監督 デビッド・フィンチャー 出演 ベン・アフレック、ロザムンド・パイク


 笑えないなあ。夫婦の「いらいら」、欲求不満を拡大して描いたブラック・コメディーなのだが、笑えない。特に、ロザムンド・パイクは殺人を犯しているのに、それを警察も、ベン・アフレックも受け入れてしまうというのが、「どうせ映画」を通り越して理不尽すぎる。平気で男を殺してきた女と、いっしょに暮らせる?
 あ、私は平気で人殺しをする犯罪映画って好きなんだけれどね。血が飛び散るホラー映画で、みんなが「キャーッ」と叫ぶところで「わっはっはっはっ」と大笑いする人間なんだけれどね。でも、それって、「どうせ映画、偽物」だからね。つまり、それは「現実」ではなく、監督が「見せたい」と思ってつくったものだからね。「ゴッドファザー」のように「事実」らしいことも、あくまで監督が「見せたい」と思って暴力を描いている。
 この映画、では、デビッド・フィンチャーは何を「見せたい」のか。
 ひとつはアメリカの「夫婦」の「裏側」。倦怠と憎悪。「ほんとうの姿」はだれも知らないということ? うーん、でも、それって別に「知りたくない」。日常だから。「ゴッドファザー」なら、そうか、首を絞められて死ぬときこんな感じに舌がでるのか、とか乱射とはこういう具合のことなのか、美しい映像だなあ、もう一度みたいなあ(死にたくはないけれど)と思う。
 この映画では、見たいものはないなあ。見て引き込まれるものが、ないなあ。
 いや、あったぞ。
 ベン・アフレックのにやけた顔は、やっぱりにやけているなあと確認した。そして、ロザムンド・パイク。偽の日記を書いているシーン、クライマックス(?)の殺しのシーンの冷徹な感じ……ではなく、逃亡途中の駄菓子を食いながらぶくぶく太るシーン。
 現実の日数からゆくと、おなじスタイル(顔つき)のままでも不自然ではないのだが、夫を陥れるために身を隠しているシーン、安ホテル(アパート?)で女と知り合って、テレビを見るシーン。顔がたるんで、全体に太っている。きちんとした食事ではなく、駄菓子を食いつないで空腹をまぎらわれている。そのだらしない感じが、すごいなあ、と思う。
 ロザムンド・パイクは「完璧なナントカカントカ(女の子の名前)」シリーズの小説を書いた流行作家。「完璧」が好きなのだ。完璧な「夫婦(家庭)」を求めているのだが、「完璧」が実現されないので、夫を殺人犯に仕立て(被害者は自分)、別な土地、別な男を求めて逃走する。「完璧」を求める裏には「完璧」にほど遠い自堕落がある。自堕落を制御できないので「完璧」にすがるということかもしれない。
 一種、複雑な心理を描いているのだが、これをロザムンド・パイクはだらしない部分を「肉体」の変化そのものとして具体的に表現していて、「おおっ、これは見物」と思ってしまった。
 私はだいたい「肉体を改造して役に迫る」という演技は好きではない。太ったり、痩せたり、実在の人物そっくりの風貌になって演じる演技を演技とは思っていないのだが、今回の自堕落ぶりはすごいなあと思った。役者なんて、ほんとうはこうなんじゃないか、映画にでていないときはみんなぶくぶくなんじゃないか、と思わされる。
 そこだけは「演技賞」ものだ。「演技」というのは「演じる」のではなく、きっと「演じる」ことをやめて「地」を出すことなのだ。映画に限らず、日常でも、みんな「地」を隠しているからねえ。「地」が出てくると、どきどきしてしまう。えっ、このひと、こんなひとだったのか……と。
 でも、不思議。
 こんなに自堕落なら、どうして彼女を助けてくれた金持ちの男を殺してしまうんだろう。何もせず、ただ家でぶらぶらしていることを許してくれる男なのに。金持ちでも、見栄えがしないから「理想の男」ではない? 金持ちでも、そこにいる限り「自由」はないから、嫌い?
 わがままだねえ。男を支配し、世界を支配しないかぎり、満足できない。
 でも、それじゃあ、「誘拐被害者」を装って、男を殺してきて、もう一度ベン・アフレックといっしょに暮らして、それで満足できる? きっとできないね。それなのに、そこで映画は終わる。ベン・アフレックも、一度「理想の夫」を演じてしまったために、それを捨てきれず、世間の目を気にして「愛している」の嘘をつきつづける。二人で「演技」を重ねることになる。ブラックな結末だなあ。
 でも。
 ほんとうのブラックは、この映画のあとの方、描かれない時間の方じゃないのかな?それを描いたときに、ほんとうの映画になる。ほんとうに見たいのは、そこだね。それを描いていない。「日常」そのものの「地」を描かないと、ね。
                       (2015年01月14日、天神東宝2)
*

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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美術準備室

2015-01-17 01:03:32 | 
美術準備室

もしかしたら間違っているかもしれない、
階段の途中で気がついて引き返した。

鍵を開けた瞬間、乾く前の粘土の冷たい匂い。
あの棚の後ろ。

間違っていなかった、
そこから私をみつめていた。

先生のつくりかけの、その塑像。
あと少しで棚から落ちる位置まで動かすと、

そうされることは知っていたという目をした。
そして次の日に起きたこと。

もしかしたら間違っているかもしれない。
十五歳の放課後。


*

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金堀則夫「悪水」、北川透「難破船バリエーションズ」、北爪満喜「鏡面」

2015-01-16 11:29:12 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
金堀則夫「悪水」、北川透「難破船バリエーションズ」、北爪満喜「鏡面」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 金堀則夫「悪水」(初出「東京新聞」2014年09月27日)。田は巨大なダムである。田が日本の治水にはたしている役割は大きい。

沼に淀んだ排水を
先代たちは土をもり水路と畦で
井路川と水田にした
水田は稲をそだて米となって生きていく
山辺のため池から水をひいて田をみたし
排水は水と稲によみがえって
空に昇り 海に流れ浄化していく

 自然の循環。それを描きながら、2行目に静かに書き込まれている「先代たち」ということば。これが美しい。金堀は自然をみつめると同時に人間をみている。「先代たち(祖先/その土地に生きるひと)」は自然の循環を生かすために、土地をととのえた。暮らしをととのえた。それが、そのまま暮らしに反映している。そこには「先代たち」の工夫がある。
 「ととのえる」を超えて、何かを「つくる」。そうすると、どうなるか。

人力よりも巨大なものが爆発した
飛び散った危険な物質を洗い落とす
汚染水は海に排することもできない
浄化装置も役立たず
外気から遮断し貯蔵する
海水にもどせない排水をわたしたちはもち続ける
農耕の排水は 水田とともに
水を生かして流れていく
水田から追放されたわたしの
排水はどこへゆく

 「ととのえる」は「生かす」ということでもある。
 土地と、そこに生きる人の暮らし、その暮らしのととのえ方に視線を注ぎつづける金堀の肉体(思想)が静かに語られている。東京電力福島原子力発電所の事故、発電所をつくった人間を静かに批判している。



 北川透「難破船バリエーションズ」(初出「KYO 峡」5、2014年09月)。

難破するは花で言えば開花前の朝顔の蕾
難破するは年齢で言えば十三歳の少年または十六歳の少女
難破するは芸術のジャンルで言えば詩またはジャズ
難破するは男女で言えば精子あるいは♂
難破するは小説で言えば「花ざかりの森」

 「難破するは○○で言えば○○」という行が、終らないんじゃないかなあ、と思う感じでつづいていく。「比喩」の羅列。
 比喩というのは、簡単に言うと「あること(もの)」を「あること(もの)以外のこと(もの)」で言いかえること。「おなじではないもの(こと)」を「おなじもの(こと)」と言いかえること。
 北川のこの詩、「難破するもの」が次々に言いかえられていく。

難破するもの=A
難破するもの=B
難破するもの=C

 そうであるなら、A=B=C?
 そうなのかなあ。「論理的」にはそうならないといけないのかもしれないけれど、詩を読んでいると、そういう感じがしない。

開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」

 一部省略して図式化してみたが、この羅列は、とても「イコール」では結べない。
 比喩はA=Bという簡便な図式では定義できない。それなのに詩を読んでいるときは「おなじ比喩」と勘違いして読んでいる。
 ある存在と比喩、そのふたつのものは完全に重なり合うわけではないが、見方によっては重なり合う部分がある。その「重なり合った部分」が、比喩でつたえたいことの「本質(真実)」ということか。そうだとしても、「開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」」に重なり合う部分をみつけだすことは難しい。
 何を書いているのかなあ。北川は「でたらめ(思いつき)」を書いているのかなあ。詩なのだから「思いつき」の意外性だけを書くというのも、それはそれでいいのだけれど。他に読み方はできないかなあ。

 北川のこの詩を読んだ最初、「開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」」というのは変だぞ、などとは思わない。すらすら読んでしまう。読んでしまって、感想を書こうとすると、つまずく。
 私の「(詩を)読む」から「(感想を)書く」への「移行」の間に、何か、変なものが紛れ込んでいるのである。
 ここから、反省をこめて、引き返す。
 詩を読んだとき、私の「肉体」のなかに最初に起きたことは何か。
 「難破するは○○で言えば」を何度も何度も通る。繰り返す。そうすると、「肉体」のなかに「難破するは○○で言えば」という言い方が定着する。「難破するは○○で言えば○○」の、あとの方の「○○(である)」は次々に変わるから「おぼえる」ことはできないが「難破するは○○で言えば」はすぐにおぼえてしまって、北川の詩を読まなくても「難破するは○○で言えば」と言えてしまう。そのことばを「つかう」ことができるようになっている。そして、それが「つかえる」ということは、北川にかわって後半の「○○(である)」を言えるということでもある。
 ことばのつかい方の「定着」。
 「A=B」という比喩、そのときこの詩では、イコールで結ばれるのは言いかえられたAとかBとかではなくて、その前の「難破するは○○で言えば」という「言い方」をとおして北川と読者(私)が「ひとつ」になる。そこに書かれている「比喩」、「比喩」が明るみに出す何か(真実?)よりも、言い方のなかで、北川と私(読者)がひとつになって動き、「比喩」の「ずれ(?)」を超えていく。
 「難破するは○○で言えば」という「言い方」が共通なので、そのあとに何が来たって平気。ただその変化のあり方を楽しめばいい。
 これは、そういう詩なのだ。

 しかし、こんなふうに簡単に思ってはいけない。「ことばのつかい方(言い方)」になじみ、それが自分でも言えると思った瞬間、詩の最終行。

難破するはシェイクスピアの戯曲『あらし』のセリフで言
えば「おめぇ、どうやって助かったんだよう? どんなや
り方でここまで来たんか? えっ! この徳利にかけて誓
え! おれはなぁ、水夫が海に放り込んだ、でっかい酒樽
に掴まって漂流している内に、助かったんよ。このおれ様
の徳利はなぁ。渚に打ち上げられてから、樹木の皮をひん
剥いて、おれ様が作り上げたもんだ。これで焼酎飲むと見
える世界が変わるんよ。」

 わっ、突然、突き放されてしまう。北川の肉体(ことばの言い方)はわかった、と思った瞬間、それがまったくの「誤読」だったことがわかる。ここに出て来る口調をまねて言えば、北川は「おれ様は、こういうことが言える。おまえは何が言える?」と問われた形。
 どんなことばも、どこかから来て、どこかへ帰っていく。その往復のなかにいて、北川は、自在に動いている。「難破するは○○で言えば」の繰り返しに誘い込まれて、ことばの肉体を身に着けたと思ったら大間違い。
 でも、これは北川の、読者への「拒絶」ではなく、読者への「誘い」なのだ。
 ことばのつかい方(言い方)を「肉体」にしてしまって、その「肉体」を動かして動かして動かして、動かしぬいて、完璧に動かし方を「肉体」にできたなら、そこから飛躍してみよう。その瞬間、どこへ飛び出すか。それを楽しんでみよう。
 そう言っているように、私には感じられる。その誘いの声が聞こえてくるので、この詩は楽しい。



 北爪満喜「鏡面」(初出『奇妙な祝福』2014年09月)。生家にもどったときのことを書いているのだろうか。父母はもう死んでいない。人の住まない家の荒れた感じがていねいに描写される。そして、

永く開けない窓に
蛾が 干からびている
鼻から口の感じがずれて
鏡の私は 別の顔になっている

陽に焼かれた闇に冷え
時間をためていた鏡面に
吸い込まれ崩れ
幽かな記憶から出てきたような
みたこともない顔を
もらう
可笑しくて哀しい
鏡面には
剥げかけた金色で前橋信用金庫
の文字

 荒れた家の様子に、それをみつめる北爪の表情もかわってしまう。その顔が鏡に映っている。そのあとの「剥げかけた金色で前橋信用金庫/の文字」。この終わりの2行がいいなあ。昔、銀行から鏡をもらうことがあった。そこにはたしかに銀行の名前が書いてあった。どこの家にも、そういう鏡があった時代がある。「前橋信用金庫」というのは他者なのだが、その他者の存在によって、「自己」である「家/顔」がくっきりと浮かび上がる。鏡に知らない私が映っているだけでは、その顔がどんなに違っていても「自己同一」に終わってしまって、ことばが生きてこない。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
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雨が上がると、

2015-01-16 01:15:42 | 
雨が上がると、

雨が上がると、遠くから川の匂いがやってくる。
少し膨らんで、けだるくなっている。

錆びた自転車が川を上ってくる潮に押されて浮き上がるように、
--という比喩を受け止める動詞がわからない。

「知っていることがおなじすぎて、会話がだんだんなくなる」
と言ったのは、私だったか、その人だったか。

雨が上がると、
遠くから川の匂いがやってくる。


*

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川上未映子「こんなにも、わたしたちのすべて」

2015-01-15 10:49:28 | 詩(雑誌・同人誌)
川上未映子「こんなにも、わたしたちのすべて」(「読売新聞」2015年01月14日朝刊)

 川上未映子「こんなにも、わたしたちのすべて」はランコムの1ページ半の広告に書かれていた詩。「美しい肌は、幸せのはじまり。」というコピーがついている。美容液の宣伝のために書かれた詩である。

朝、はじめて鏡のなかでみる肌が、きれいなとき。
目の奥が明るくなって、
胸がやさしくひらいていくような、
そんな気持ちになる。

夜、眠るまえに手のひらでつつみこむ肌が、
やわらかなとき。
くちびるからうっとりした息がもれて、
眠りはしなやかな熱をおびる。

 女のナルシズムがあふれている。こんなに自己陶酔していいのか、とちょっとこわいぞ、これは。
 「はじめて鏡のなかでみる肌が、きれいなとき」というような行を読むと、そうか、「きれい」を自分で確認するのか、と私は驚く。「きれい」というのは「自分の外」にあるものに対して感じる感覚であって、自分のことを言うためのことばではないと思うのだが……。「目の奥が明るくなって」もそうだし、「胸がやさしくひらいていくような」の「やさしく」も同じ印象。他人の目がある瞬間「明るくなる」というのは見ていて気がつくけれど、だいたい「自分の目をみる」ということ自体、ふつうはできない。だいたい、目に何かが入ったときくらいしか目を鏡でみるということがないと思うのだが、女は違うのか、と一行一行に驚かされる。そして、その一行一行を、「きれい」「あかるく」「やさしく」「やわらか」「うっとり」「しなやか」という「詩的」なことばで装飾しているのをみると、「まあ、宣伝だからね」という気もする。美しいことば、耳に心地よいことばで飾って、それで気を引く。売れればいいだけ。流行作家は、いい商売ができてうらやましい。原稿料も高いんだろうなあ。やっかみを含めて、そんなことを思う。
 1連省略して、4連目。

想いをこめて、
愛情をかけた肌に美しさが育つのを感じるたびに、
うつくしくて、つよくなる。
肌の輝きが増すたびに、
自由になってゆく。
どこにだってゆけて、
何にだってなれるような、
凛としたちからが、
内側から満ちてくるのだ。

 ここもナルシズムと言えば言えるのだけれど、自分への酔い方が「外面」で終っていない。
 そうか、美しさを育てているのか。美しいというのは、そんなに「自信」になるものなのか。「恋愛」のことを書いた詩、セックスのことを書いた詩よりも、なんだか生々しい感じがする。女の「本音」をのぞいたような感じ。
 でも。
 「自由」と「凛としたちから」は同じものなのだ。そしてそれは「内側から満ちてくる」のか。これは、なかなかいいなあ。
 その「内側」と「肌」が同じなのか--というのは、まあ、男の側からの「ちゃちゃ」みたいな批判だが、じっくり考えてみるとおもしろいかもしれないなあ。
 で、「内側」ということばが出てきたあとの、5連目。

しあわせには、いくつかの種類がある。
記憶のなかに息づくもの。
何かによって、
誰かによって、
与えたり、
与えられたりするもの。
自然に生まれてくるもの。
想像のなかにきらめくもの。
きっと、
そのほとんどがかたちのないものだけれど、
目にみえて、
手のひらで確かめることのできるしあわせが、
あなたのなかにある。

 ここで、私は、「宣伝」であることを忘れて引きずり込まれた。うーん、いい詩だ。「目にみえて」から、またちょっと「宣伝」にもどるのだけれど、「しあわせ」をひとつにせず「いくつかの種類」にひろげる「寛容」がおもしろい。「寛容(広がり)」とは「哲学」なのだ、と思ってしまう。「与える」「与えられる」は反対の動き。「生まれる」は「与える/与えられる」とは違った運動(動詞)なのだが、「しわあせ」を「主語(主役)」にして考えると、そこに結びついてしまう。その不思議な広さ。
 人がいろいろな動詞(運動)をひとりで引き受けて動くように、「しあわせ」もいろいろいな動詞をひとりで引き受ける。「しあわせ」は生きている。「しあわせ」は文法上は「名詞」だが、自分で動くことのできる「自動詞」なのだと気づく。

 ランコムの美容液を買った人の何人がこの詩を読んだだろうか。どう感じただろうか。川上の紹介メモに「作家/芥川賞作家/谷崎潤一郎賞受賞」と書いてある。川上は中原中也賞、高見順賞も受賞している詩人でもある。ぜひ、多くの人に、詩も読んでもらいたいなあ、と思った。詩のことばは、「陶酔」のためだけにあるのではなく、ほかのことも書いてある。そのことに触れる「入り口」のようなものに、この詩はなっている。

愛の夢とか
川上 未映子
講談社

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早熟な少女

2015-01-15 00:10:31 | 
早熟な少女

本当にあるのか、それとも架空のものなのかわからないが、その画家の描く静物画のどこかに必ず大理石の少女像があった。ワインの瓶よりすこし背が高いくらいの小さなものだが、首をひねりながら微笑んだ口元が挑発的で、そのくせ接近してくるものを侮蔑している。

私がその早熟な少女像を忘れられないのは、しかし、彼女のあまりにも人間的な姿、形のためではない。セザンヌを思わせる堅牢な色彩の静物のなかにあって、大理石の白は激しく消耗している。だれも描かなかった白だ。画家の「視力を使い果たしてしまった、疲れてしまった」というつぶやきが聞こえてくるような感じがする。本物か、架空の像かわからないという印象は、そこから来ている。

人物画(肖像画)を一枚も残していない画家の秘密を見てしまった--そういう錯覚に襲われるのである。



*

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岩佐なを「Mパン」、海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」ほか

2015-01-14 11:02:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
岩佐なを「Mパン」、海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」、榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 岩佐なを「Mパン」(初出「交野が原」77、2014年09月)。棚の上に紙がある。前半は、その紙の行く末を、紙になって思い描いている。それもおもしろいのだが、後半、詩の世界ががらりとかわる。

いちまいのまっさらな紙は
ティッシュペーパーの代役で机に出され
上に黄色く甘いにおいの満月を載せられた
満月、ちがう、亀だよ
汗のようにキラキラとグラニュー糖が散り
表面サクサク中フカフカの
亀は声もたてずに食われていく
身体を失っていく途中の
変形(残存)体が紙の上に横たわる
大きな歯形が痛々しく
いきもたえだえかい
ああ、亀鳴くや(それは季語)
いちまいのもはや少し汚れちまった紙との
最期の接触を惜しみ
消えた
さようなら
亀の綽名は
メロンパン

 紙を皿がわりにして、メロンパンをおく。それを食べる。そういうことを、「メロンパン」ということばをつかわずに書いている。最後に「メロンパン」ということばは出てくるが、これは「オチ」だね。
 メロンパンを「亀」と言いかえるのは「比喩」だが、名詞の置き換えだけではなく、置き換えた後それを「亀」として動かしていく。「甘いにおい」「グラニュー糖」「表面サクサク中フカフカ」という食べる方の感触と、食べられる「亀」の「表面サクサク中フカフカ」「変形(残存)体」「大きな歯形」という描写が共存し、そのあと

いきもたえだえかい
ああ、亀鳴くや(それは季語)

 この漫才のかけあいのような呼吸がおかしい。
 「いきもたえだえかい」と聞いたのは誰だろう。メロンパンを食べている人だろうか。食べられるメロンパンを見ている人だろうか。「ああ、亀鳴くや」と言ったのはだれ? そして、その直後の「(それは季語)」と言ったのはだれ? 別の人? それとも同一人物? 「ああ、亀鳴くや(それは季語)」はきっと同一人物だね。「亀鳴くや」と言ってしまった後、すぐに「季語があったなあ」と自分で気づいている。
 ひとはあることを思い、一瞬にして、それとは違うことも思う。何かを思い、それをことばにするとき、それだけを思っているわけではない。いろいろなことを思っている。
 そう考えると、それはこの詩の世界そのものを言いなおしたことになる。
 メロンパンを食べる。その触感の甘さ、やわらかさ、硬さ(表面)を味わいながら、形が亀に似ているなあ、食われる亀は痛いかなあ(食われれば痛いに決まっているかもしれないけれど)。どうでもいいこと(?)なのだけれど、そういうどうでもいいことを私たちは考えることができるし、それをことばにすることもできる。
 あ、ことばにできる、と書いたけれど、ふつう、ひとは、思ったからといってそのすべてをことばにするわけではない。思っていてもことばにしなかったことをことばにしてしまえば、それは詩なのだ。
 引用しなかったが、前半の紙の行く末(何か印刷され、張り紙にされ、はがされることなくビルといっしょに壊される)というのも、ありうるけれど、そんな「不経済」なことはひとはことばにしない。ことばの経済学に反している。つまり「無意味」。--ということは、「無意味」を書けば詩になるということでもあるね。
 あ、脱線したかな?
 かけあい漫才の後の、

いちまいのもはや少し汚れちまった紙との

 この一行もいいなあ。中也の「汚れちまった悲しみ」を思い出させる。ついつい口をついて出てくる。
 岩佐の詩には、そういう「口をついて出てくることば」が知らん顔して紛れ込んでいる。「亀鳴く」(季語)というのも、そうだ。思いつくままでたらめを書いているようであって、それは「肉体」に充分になじんでいる「ことば」だ。「ことば」が「肉体」となって、自然に動いている。
 だから不思議なおかしさがある。そこに書かれていることは「知らないこと」ではなく充分に「知っていること」「肉体がおぼえていること」。「肉体がおぼえている」けれど、それをこんなふうに「動かしてみる」ということ、「つかってみる」ということがなかった。こんなふうに「肉体がおぼえていること」を「ことばにして動かす(ことばをつかってみる)」と、忘れかけていたあれこれがひとつひとつ生々しく動く。それがおもしろい。おかしい。
 書く順序が逆になったが、「ティッシュペーパーの代役で机に出され」という「日常」もおかしい。皿がないとき、ティッシュを代役にする。紙は皿の代役なのに、皿の代役ティッシュの代役、つまり代役の代役という具合に世界がずれていくのも、「紙の行く末」から「メロンパン」へと「ずれ」ていくのを誘い出すようで、とても楽しい。
 あとは余談だが……。
 私はこのメロンパンというものが大嫌い。岩佐は以前、三角形の、なかにチョコレート(?)が入っているパンのことも詩に書いていたと思う。名前があったが、忘れた。この菓子パンも私は嫌い。嫌いだから名前もおぼえない。岩佐は、私が嫌いなもの(苦手なもの)ばかりを題材にして書いている(ように思える。)
 で、私は、昔から岩佐の詩は気持ち悪い、気持ち悪いと書きつづけているのだが、最近は、その気持ち悪さが岩佐なのだとわかってきたのか、慣れてきたのか、変におもしろくて困っている。
 でも、メロンパンは食べない。あの表面のべたべたつきが大嫌い。砂糖の粒が歯にあたったときの、甘さが弾ける刺戟を思うと、脳が萎えそう。



 海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」(初出『かわほりさん』2014年09月)。タイトルをのぞくと、ひらがなだけで書かれている。「骨灰」をどう読むか。「ほねはい」(ほねのはい)、「こっかい」。きめかねて、ことばが交錯する。

こっかい、そこからさけびが、うもれるのだろうか。いつ
かみちて、きっとおだくをてんかいする。かたどったな
ら、やけばいい。たとえば、あめとうみ、のよう、はんて
んし、べつのひふをおびてゆく、くぐもるきせつの、なま
えにおいて。しめりけが、においをつめこみ、ひびいたは
だだ。とつぜんならば、だれをもいわない。いわく、あた
らしい、ようぶん、とどいて。

 漢字まじりにすれば「骨灰、そこから叫びが、埋もれるのだろうか」になるのだろうか。私は「埋もれるだろうか」ではなく、最初「生まれるだろうか」と読んでしまった。あ、「生まれる」ではなくて、「叫び」が「埋もれる」か。「叫び」はたしかにとどかないことがある。
 何かを読み違えながら、そこから海埜の世界へ引き戻されるようにして詩を読むことになる。
 「汚濁を展開する」ということばも「汚濁点を介する」と、私は読み違えていた。そのことばの前後に、さけ「び」、かた「ど」った、やけ「ば」、たとえ「ば」という具合に「濁音」があるからだ。「濁音」の「ちょんちょん」が目について「汚濁点」と間違えてしまう。
 「あめとうみ、のよう、はんてんし」からは「羊水のなかの反転」という「漢字まじりの文」が誘い出される。「海」が「羊水」につながる。「羊水」のなかでは胎児は頭を下にしている、さかさま、反転している。その胎児は「(母親とは)別の皮膚を帯びる(身にまとう)」。胎児には「養分」が届く。
 「骨灰(死)」の一方で、そういう「誕生」の世界がある。
 私の「誤読」は海埜の書いていることとは無関係かもしれない。私が「誤読」しているだけなのだが、その「誤読」に対して、海埜の「ひらがな」が違う、違うと訴えかけてくる。違う、違うが聞こえるのに、私はそれでも「誤読」がしたい。
 そういう感じで、私は海埜の詩を読んだ。主語/述語の関係がたどれない部分では、さらに「誤読」が拡大するのだが、詩なのだから「誤読」でいいと私は思っている。他人のことばに触れながら、自分自身のことばの動かし方を見つめなおすのが詩なのだと思っている。



 榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(初出『空腹時にアスピリンを飲んではいけない』2014年09月)。
 以前、榎本の詩について感想を書いたところ、「本を買って読むのは自由だが、感想を書かれるのは迷惑だ。やめろ」と言われたことがある。私は人が怒るのをみるのは大好きなので、「やめろ」と言われたけれど、感想を書く。なぜ、人が怒るのをみるのが好きかというと、怒った瞬間「地」が出てくる。その輝きが、なかなか楽しい。なかなか怒らないひとは、少しずつつっつく。そうするとだんだんいらいらしてくるのがわかる。これも、妙に楽しいものである。

ピザが運ばれてくる--腰にタブリエを巻いたきれいな黒
髪の青年が、注文したペリエをもってテラスへとやってく
る妄想--、チーズの海にはオタリアなどの海棲哺乳類が
産卵のためにあつまってきていて、にぎやかな祝祭が衛星
中継によってその腥みとともにテーブルのうえへと--飴
いろのニスが剥げかけて、エボラ出血熱の流行をくいとめ
ることもできない歯痒さがオリーブの樹につぎつぎ実って
いくのを、睥睨する--、とどけられたのだったが、半島
の端を摘もうとする指がまがるにつれ、

 これは書き出し。ことばがたくさん出てくるが、海鮮がトッピングされたピザを注文し、それをウエーターが運んでくるということを書いているのだと思う。私が要約したように書いてしまうと詩にならないので(ほんとうに詩にならないかどうかは、わからないが……)、榎本は「いまある状況」を「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばのなかへ拡散していく。あるいは「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばを「いまある状況」に持ち込む。その「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」を榎本のことばのなかで融合させ、「世界」をつくる。
 岩佐が「Mパン」で書いていたように、ある状況に直面したとき、その状況のなかにある何かが別なものを連想させ(メロンパンの形が亀の甲羅を想像させ)るということがある。そして、それを状況説明につかうと、そこに独特の「味」(個性)がでてきて、それが楽しいということがある。詩は、たしかにそういうものだと思う。
 で、そういうとき、どういう「ことば」を持ってくるか。
 榎本はことばの数はとても多いが、そのことばは意外と常識的である。ピザを運んでくる青年が「きれいな黒髪」というのは常識的な好みのようであまりおもしなくない。「タブリエ」「ペリエ」「テラス」というカタカナ語の通い合いも常識的すぎる。「妄想」というには、女性の嗜好が単純すぎる。
 「ピザ」を「チーズの海」と言いかえ、「海」から「海棲哺乳類」へのつながりもうるさいだけ。「哺乳類」が「産卵」するかどうか、私は生物の知識がないのでわからないが、「産卵」「祝祭」、「産卵」「腥み」、「祝祭」「衛星中継」というイメージを交錯させながら響きあわせる方法も、連想が近すぎるように思う。
 「衛星中継」(世界規模)の視野が「エボラ出血熱」という「現在」を呼び込むのも、私には、連想が近すぎると思う。
 連想が近いときは、岩佐がやったように、ことばを「肉体」に引きつけると「肉体」が見えてきておもしろいのだが、榎本は「肉体」を出さずに、「頭」で「連想」を加速させるのが好みのようである。しかし、「頭」で加速させることばの乱反射は、先に指摘したように意外と「常識」の範囲を超えない。「頭」は「読んだことば」を整理するのは得意だが、「読んだことば」というのは「書かれてしまったことば」だから、どんなに「逸脱」しても「流通文化」になってしまっている。
 後半に出てくる「マロ楽団」「セイレーン」「異教徒」「金髪の乙女」「半獣神」「宮殿」「混血の作家」なども、イメージの統一には役だつが、イメージの暴走にはならないと私は感じる。
空腹時にアスピリンを飲んではいけない―榎本櫻湖詩集
榎本櫻湖
七月堂

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牛乳を飲む

2015-01-14 01:46:00 | 
牛乳を飲む

冷蔵庫のなかで眠っていた紙パックの牛乳がコップの内部に触れ
反転し、暗くなる。
牛乳の夢がたたき起こされて不機嫌になったのか、
コップの底に沈んでいた夜が撹拌されたのか。

どこに当てはめればいいのだろう、
ジグソーパズルのあまった一片のようなことば。
散らばったノートと本を積み重ね、テーブルに空き地をつくる。
牛乳のこぼれたあとが輪になったトレーをおく

それから再びノートを引き寄せ、
形のないことばを解読するために、本の任意のページと照らし合わせる
そのまえに。
あるいは牛乳を飲み、牛乳が感情のようになじむのを待つ。



*

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平岡敏夫「月の海」、藤井貞和「アカバナー 2」、やまうちかずじ「逢坂」

2015-01-13 10:43:51 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
平岡敏夫「月の海」、藤井貞和「アカバナー 2 化(まぼろし)」、やまうちかずじ「逢坂」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 平岡敏夫「月の海」(初出『月の海』2014年08月)。

月の海
黒く輝く広い海
桃の花に乗った女の子が
両手で小枝の両側をしっかり握り、
唇を小さく噛んで、静かな海を流れて行きました。

月の海
黒く輝く広い海
柏の葉に乗った男の子が
両手で葉の両側をしっかり掴み、
唇を固く閉じて、静かな海を流れて行きました。

 「童謡」なのだろうか。「桃の花」は女の子の節句。「柏の葉」は男の子の節句。でも、こどもの成長を静かに祈っているという感じとは少し違う。音が暗い。短調の響きがある。

子供らの魂を乗せた桃の舟、柏の舟は、次々と、
黒く煌きながら、遥かな月の海を流れて行きました。

 幼いまま亡くなった子どもを追悼しているのかもしれない。
 「童謡」には楽しいと同時に不思議な悲しさがある。「赤い靴はいてた女の子……」の歌も、妙に不気味でこわい。
 月は明るい。けれど、その月夜の海は白く輝く光の柱以外は黒く輝いている。強烈な対比が、幼い子の死の幻を引き起こすのか。



 藤井貞和「アカバナー 2 化(まぼろし)」(初出「水牛のように」2014年08月号)。藤井のこの詩も、また「歌」なのかもしれない。平岡の詩は「童謡」なので、そこに書かれていることばはイメージになりやすい。「絵」を想像できる。しかし、藤井の詩は簡単にイメージを結ばせてくれない。イメージを完結させてくれない。

月しろの光、光のくさむらに、(のたうつかげのわれらの- 不乱
舞茸を舞々つぶり、食えば舞う。 (かなしむ- 月光下の、 撒(さん)である
月の兎、 (腐肉の犠牲。 いま明かり行く真性の菌(たけ)に   食われて
夏越しの茅の輪、 (燃える地上にかげもまたスリラー、潜るスクリーン
うしろの正面の磔。 (怪かしの来てむさぼる、 ぼろぼろの鬼ごっこ

 これは書き出しの5行。「主語」と「述語」がわからない。つまり、散文になっていない。「意味」がわからない。ところどころ、イメージが、ただイメージとして浮かんでくる。
 月が出ている。光が白い。草むらが光っている。草が揺れると影が乱れる。乱れるということばが「不乱」ということばによって逆に印象的に見えてくる。舞茸を食って、毒に当たり(?)、狂ったように舞う。舞いは楽しいはずなのに、狂気はかなしい。かなしいけれど、そこには何か「真実」がある。正確な「論理」にできないことばの飛躍のなかに、何かが見えたように感じる。
 錯覚かもしれない。
 月の兎。月には兎が住んでいる。それは幻、錯覚だけれど、月の影に「兎」の姿を見てしまうという想像力は「ほんもの」である。見たものは「にせもの」であっても、それを見る力は「ほんもの」。
 その「ほんもの」は見たものが「幻」であるだけに、「ほんもの」であることを証明するのはむずかしい。いつでも「ほんもの」は「事実」によって検証される。そして「にせもの」(まちがい)と断定されるのだけれど、そういう「科学の経済学/論理の経済学」を超えて「夢見る力の経済学」は動いてしまう。
 月の光、満月の日の「うしろの正面だあれ」。輪になってまわるとき、その輪は「夏越し祭」の「茅の輪」に似ているか。輪の中の鬼。それは、何をくぐり、何を手に入れるのか。
 藤井は、書かない。
 私の書いてきたことは、単に私の「空想」であって、藤井の考えていることかどうかはわからない。わからないが、ことば、その飛躍は、ある種の「音楽(歌)」になって人間を動かす。
 「かごめ、かごめ」をしながら、子どものとき、「肉体」のなかに何をおぼえてきたのだろう。それは「科学の経済学/論理の経済学」からすると何の役にも立たない。「資本主義の経済学」にも縁がない。(何かの役に立っているかもしれないが、よくわからない。)
 何の役にも立たないかもしれないが、人間は、ことばの、「役に立たない音楽(歌)」のようなものに反応してしまう。その反応、ことばを書きながらの反応そのものを藤井は書いている。「歌」として書いている。「意味」ではなく、「歌」う瞬間に「肉体」のなかで起きる「意味」を超えた何かを響かせようとしている。

 この詩は、最初

月しろの光、光のくさむらに、(のたうつかげのわれらの- 不乱

 と、具体的な何かを書いて、そのあとに丸括弧をひらいて、それに向き合う反対というか、真奥というか別なことを書く。最初に書いた「月しろの光、光のくさむらに」の「光」に対して「かげ」をぶつける。(影は光という意味もあるので、必ずしも反対のものとは言えないけれど……。)
 そして、の丸括弧は閉じられず、つまり、半分意識をずらす形、イメージ論理が完結しない形のまま次に「音楽」としてつながっていく。「意味」ではなく、聞き覚えのある「音」をたよりにことばが響きあう形でつながるのだが、
 うーん、どこからだろう、ことばの前半と後半が入れ代わる。括弧の形がかわる。括弧が閉じられるようになる。(括弧を開きはじめた場所が、あいまいなまま、閉じられることだけが強調されるような感じ。)

あらしのゆくえ、 いつしか)みとせの(あなたに遠のいて)、化(まぼろし)が来る
嘆きの水よ)、 くれないの死者に)寄り添う(小動物を追う)、 あぶくま- 遥か
吹き落ちて)、 心火のあまい)乳汁を、あかごなす、魂か- 泣きつつ渡る)
つぶたつ) 粟のそじしに、惨として別れた)。 そじしが)切り立っていた)

 ものを見てことばを最初に発したときは、まだ「もの」が優勢だった。「もの」を語ろうとしていた。けれど語っているうちに(歌っているうちに、「対象」よりも「歌う」とう「動詞」が自立して、勝手に動いていく感じだ。
 「歌」は意味を必要としない--と書くと、書きすぎなのかもしれないが、「意味」はだんだん暴走し、「意味」をなくしてしまい、声を発する(ことばを発する/歌を歌う)という「欲望」が「意味」を乗っ取ってしまう。
 悲しいはずの「童謡」も、子どもは大声で歌ってしまうような、何か原始的(野性的?)な「歌」の衝動がある。



 やまうちかずじ「逢坂」(初出『わ音の風景』2014年08月)。

でんしゃが河をわたり、高層ビルがちかくになったとき、
ケータイがなった。シートを立って、デッキにむかう。で
んわは、まえに逢ったことのあるおとこからのはずだが、
走行音でなまえはきこえない。えきで待つといって切れ
た。着信履歴にばんごうがひかる。

 表記の仕方がかわっている。ところどころ漢字をつかわずに、ひらがなをつかている。そのひらがなを読むと、そこで私の意識は急にゆっくりする。このリズムの変化が、妙にあやしい。
 詩は、文学仲間(詩の同人のたぐい?)が集まって話をして、また別れるということを書いているのだが、その「内容」よりも、そのときの会合の、書き方が、書き出しと同じリズムである。(2連目は「場所」の説明なので、そこだけ通常の漢字のつかい方をしている。)
 その、仲間が会ったときの4連目。

新装まもないギャラリーきっさ。モネの絵の詩をかいた神
戸のじょせい。マンションから見あげるそらに廓のおんな
のおもいを重ねる八十よわいの元院長夫人。富士登山のつ
えを擬人化してかいた後期高齢よびぐんのだんせい。おも
いついた感想ですがとまえおきして話す白いパンツのじょ
せい。おとこの咆哮を詩集にあんだかんれきの求職者。交
わす批評。コーヒーカップのすれあうおと。

 藤井の作品と違って、「意味」はわかる。情景が思い浮かぶ。--けれど、「ほんとう」かな? 私が思い浮かべた情景は、やまうちが見たもの(体験したもの)なのかな? これが微妙である。
 私は「喫茶」「女性」「空」「女」「齢」と、やまうちの書いたことばを次々に漢字の「意味」で追いながら、同時にひらがなの「音」にとどまる。ひらがなを一字一字目で追うことに時間をかける。やまうちは、こんなふうにゆっくりと対象をみつめているのかな、「意味」にならないように「なま」の感じでつかみとっているのかな、そんなこと、そんな思いを無意識に繰り返しているが、それでいいのかな?
 たぶん、間違っているだろう。
 間違っているのだろうけれど、私は、実は気にしない。そうか、同じ時間、同じことをしていたとしても、私とやまうちでは、「肉体」のなかで動いていることばが違っている。似ているようでも違っている。「音」にしてしまうと、そっくりだけれど、違うんだぞという感じが、私のなかに残る。
 詩は(文学は)、いままで人が気づかなかったこと、わかっているけれどことばにできなかったことをことばにするものだけれど、やまうちは、同じことばでしか言えないけれど、ちょっと違うと言いたい--ということを書いているのかもしれない。

月の海
平岡敏夫
思潮社
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紙の上に

2015-01-13 01:48:27 | 
紙の上に

紙の上に横たわる鉛筆の影は
私の感情になりうるか

と書いたまま、動かなくなることば。
その真ん中に鉛筆で傍線を引く。

ここでことばが真っ二つになり、
隠れていた意味がさわぎはじめれば

きょうの私の詩はおわることができる、
はじまることができる。
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中正敏「雨ですか 日照りですか」、長嶋南子「ホームドラマ」、野村龍「光」

2015-01-12 12:26:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中正敏「雨ですか 日照りですか」、長嶋南子「ホームドラマ」、野村龍「光」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中正敏「雨ですか 日照りですか」(初出「詩人会議」2014年08月号)を読みながら「文体」について考えた。

その日 雨ですか 日照りですか
たれが ボクの死を見つけるのだろ
ボクは 自身の終りを知りません
それ故 どなたにも知らせません

 これは1連目。終わりの2行が「なるほど」と思わせる。そうか、死は自分では知ることができないのか。死んだら何もできないから、ではなくて知ることのできないことは知らせることができない。達観した笑い(発見の驚きが引き起こす愉快な感じ)があって、おもしろいなあ、と感じる。

沈黙が 告げるでしょう
世界は 喧ましく死は置きざりにされ
死骸は 空と握手するしかございません
しかし 空は空(から)っぽです風が抜けてゆきます

 「死」から「沈黙」への移行。こここには「ボクは 自身の終りを知りません」のような「笑い(発見の驚き)」がない。誰もが「死は沈黙である」という。せっかく「連」が変わったのに、ことばが逆戻りしている感じがする。「常識」、あるいは「常套句」へ。「沈黙が告げる」というのも「常套句」だね。「世界は」はおおげさだなあ。「死骸」は露骨だなあ。「空」は「そら」とも「くう」とも読むことができて、それが「からっぽ」と言いかえられても、驚かない。
 行頭に3文字のことば。1字あけて、つぎのことばというスタイルだけは1連目から2連目へつながっている。
 これは、しかし、3連目へいくと、違うスタイルになる。

ヒ孫の愛里(アイリ)ちゃんがモミジの手で
ボクの住んでいた月日を数えていて
数えきれずに瞳を隠します

 3連目が「起承転結」の「転」で、だからスタイルを変えた、のかもしれないが。
 でも、「論理的」にことばを動かすという中の基本的なスタイルは持続している。「それ故」「しかし」という「論理」をつかってことばを動かしていく方法は貫かれている。 「数えきれずに瞳を隠します」は、

数えきれずに「それ故」瞳を隠します

 数えきれないからといって、瞳を隠す(涙を隠して泣く)とは限らないが、「それ故」という論理性の強いことばで「事実」を「真実」にかえる。論理で事実が真実にかわるとき、そこに詩があらわれる--というのが中の「文体(ことばの肉体/思想)」なのだろうと思う。
 4連目。

鯉のぼりの吹き流しが風と遊んでいます
矢車が大世界のように廻りますか
五月雨でしょう蛇口で公園の人が洗顔しています

 最初の2行は2連目と呼応しているのだろう。飛躍があるようでも、その飛躍を暴走させないというのが中の論理のスタイルだろう。
 では、最終行には、どんな「論理」のことばが隠れているのだろう。「それ故」か「しかし」か。私は、次のように読む。

五月雨でしょう「それでも」蛇口で公園の人が洗顔しています

 「五月雨」と「公園の人が洗顔する」ということの間には関係がない。「無関係」。その無関係を承知で、「それでも」結びつけてしまう。そういう論理の「強引さ」。
 きっと、強引なんだろうなあ、中は。

ボクは 自身の終りを知りません
それ故 どなたにも知らせません

 これも考えてみれば「強引」だ。「ボクは 自分の死を知りません」というのなら、誰かボクのかわりに知らせてください。ボクは死んでしまったら何もできません、だから、誰かボクのかわりに知らせてください、というのが「ふつう」の論理。でも、中は論理を他人に任せてしまうことができない。自分のことを言ってしまう。強引な自己主張。
 この「強引さ」が、2連目を少し変にしているのかなあ、とも思う。2連目の「沈黙」「世界」「空(空っぽ)」が、どうも抽象的すぎて(あるいは、常識的論理で動きすぎていて)なんだか落ち着かない。自己主張にこだわっている。せっかく死ぬのに自己を捨てきれていない。--そのために、ことばは「哲学」に昇華しきれずにいる、という感じがする。詩になりきれていない、何かが残っているという感じがしてしまう。



 長嶋南子「ホームドラマ」(初出『はじめに闇があった』2014年08月)も「論理的」であるといえば「論理的」である。ただし、その「論理」は中が書いているように「理詰め」ではない。「それ故」とか「しかし」は存在しない。もし何かことばを補うなら「そして」だけである。あらゆることが「そして」でつながっていく。

ムスコの閉じこもっている部屋の前に
唐揚げにネコイラズをまぶして置いておく
夜中 ドアから手がのびてムスコは唐揚げを食べる
とうとうやってしまった
ずっとムスコを殺したかった

うんだのはまちがいです
うまれたのはまちがいです
まちがってうまれました
まちがってうんでしまいました
まちがわずにうまれるひとはいません

 引きこもりのムスコの世話がめんどうになり、「死んでしまえ」と思う。さらに「うんだ/うまれた」について自分勝手なののしりあいをする。こういう乱暴は、どれだけ乱暴であっても「肉親(母とムスコ)」なので「平気」である。「論理」を超えた「強いつながり」がある。それは「そして」という具合に、順番につながっているだけである。それは「超論理」と言いかえた方がいいのかもしれない。いちいち「論理」なんて言っていられない。「倫理」なんていうことも面倒くさい。「いのち」というのは切っても切れないつながりなのであって、つないで行くしかない。「それ故」なんて気取って「頭」のなかを整理する必要はない。肉体は産む/うまれることによって、「ひとつ」から「ふたつ」に分離している。そして「分離」が実は「いのちをつなぐ」こと。そのときから「矛盾」(分離/つながり)は同時に存在してしまっている。共存している。これをいちいち整理する必要はない。世界(?)がかってに「共存」を受け入れている。

主婦はなにごとがあっても子はうみます
ご飯をつくります

 「なにごとがあっても」。これが長嶋の「肉体/思想」である。
 この「なにごとがあっても」は、中が最終行で省略(?)していた「それでも」にいくぶん似ている。中も「それ故」「しかし」というようないかにも「論理」ということばを捨てて「それでも」で押し通せばおもしろいのかもしれない。
 「なにごとがあっても」が「おばさんの哲学」なら、「それでも」を押し通せば「おじさんの哲学」が詩になるかも知れない。「それでも地球はまわっている」が世界を変えた「哲学」になったように、と突然思いついた。「信念」というのは他人の「頭(論理)」をぶち抜いて動くものなのだろう。
 長嶋のことばには、他人をぶち抜く強さがある。

きのう子どもを食べているゴヤの絵を見ました
きのう天丼を食べました
カロリーが高いのでめったに食べません
どんぶりのなかにムスコがのっています
母親に食べられるのは
たったひとつできる親孝行だといっています

 これは「殺してやる」「ああ、殺せ、殺されるのは本望だ」というようなその場の口げんかを言いかえたようなもの。「おれには唐揚げで、おまえは(母さんは)天丼か」「たまには天丼くらい食べたってバチはあたらないよ、できそこない」というような、元気な「肉体(の声)」が聞こえてきそう。
 切っても切ってもからみついてくる「いのち」のつながり。「愛情」なんていうものより、もっと面倒くさい。「論理的」に説明できない。それと向き合い、大声を張り上げながら、だんだん「張り上げ方」を「肉体」がおぼえてくる。大声を出しても、もう声はかすれたりはしない。「腹式呼吸」「腹から押し出す声」になっている。
 元気でいいなあ。こういう詩を読むと、元気になるなあ。
 私は長嶋を知らないので、ずいぶん「誤解」しているかもしれないが、ほんとうは長嶋は苦労しているのかもしれないが、元気なおばさんと「勘違い」させておいてください。いっしょに暮らすと困るかもしれないけれど、傍から見ているのは楽しい。(ごめんね。)



 野村龍「光」(初出『Stock Book』2014年08月)。

濡れた翼を折り畳んだばかりの羅針盤から
今 暖かな輝きが溢れ出す

羽根ペンは 薔薇のしなやかな茂みに身を寄せて
波間に海燕の仄暗い歌を綴る

 こんな感じの2行1連のことばがつづいていく。「こんな感じ」と書いてしまったが、「こんな」を別なことばで言いなおすと……。
 一読すると「主語」がよくわからない。乱れる。
 最初の連は「暖かな輝き」が「主語」で「溢れ出す」が「述語」ということになるのかもしれないが、1行目との関係がよくわからない。「輝き」が「濡れた翼を折り畳む」? 「折り畳む」の「主語」は何? これが、あいまい。「濡れた翼を折り畳む」は、たとえば海鳥を主語にするとなりたつが、それと「羅針盤」の関係がよくわからない。
 動詞(述語)がことばを統一しているというよりも、そこにある「もの」が世界を統一しようとしている。「濡れた翼(海鳥)」「(船の)羅針盤」「暖かな(海/波の)輝き」。海は荒れているが正確に動く羅針盤が心強い--といったような世界。
 2連目は「主語」が「羽根ペン」で「述語」が「歌を綴る」だろう。おもしろいのは、しかし、そういう「主語/述語」の「枠」を内部から破壊するように挿入された「薔薇のしなやかな茂みに身を寄せて」という表現。文法的にはここでも「主語」は「羽根ペン」、「述語」は「身を寄せた」なのだろうけれども、読んでいる瞬間は「比喩的修飾節」の「内部」を意識が動いてしまう。「薔薇」が「主語」になって「身を寄せる」を思い浮かべてしまう。「羽根ペン」と「薔薇」のイメージの距離が遠すぎて、すぐには「比喩」としてつながらない。「比喩」が独立して全体を破っていく。
 この瞬間に、たぶん、野村の詩はある。
 ことば全体の「構図(絵)」を破って、部分が独立して自己主張する。その部分の「独立性」の輝きのようなものが、野村の詩のように思える。そして、その独立して自己主張する「もの」の存在の共存が「動詞(述語)」のつくりだす世界を超えていく。
 「もの(存在)」の乱反射が野村の詩。「濡れた翼」「羅針盤」「輝き」「羽根ペン」「薔薇」「海燕」「仄暗い歌」こういう「もの(名詞)」が「主語」というよりも「動詞」として働いている。それらの名詞につながる「動詞」は、実は、動かない。「名詞」が勝手に動き回るのをかろうじて制御するという感じ。
 文法が逆転したことばの暴力。それが野村の、この詩の特徴だ。
 「もの(存在)」を順々に追っていくのではなく、その全てを一気に「一枚の絵」のように把握する。把握するために、読者が自分自身で「動詞」とならなければならないのかもしれない。「名詞」のなかに飛びこんで、「主役」になって「名詞」を動かせると、野村の詩はきらきらと輝く「光」になる。


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野村龍
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谷川俊太郎の『こころ』を読む
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何の間違いだろう

2015-01-12 00:55:35 | 
何の間違いだろう

何の間違いだろう、
ことばは左肩をガラスの窓に押しつけて体を休めようとしたとき、
何を間違えたがったのか、
冷たいガラスのなかから右肩があらわれて
ことばの左肩で休もうとしている。

何の間違いだろう、
ぬれた靴下のなかで指を動かしてどうにもならない欲望をなだめた日。
何を間違えたがったのか、
ガラスから古いセーターの硬い匂いがして、
ことばの形は手紙に書いた絵の構図に似てくる。



*

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スティーブン・ダルドリー監督「トラッシュ! この街が輝く日まで」(★★★★)

2015-01-11 21:13:27 | 映画
監督 スティーブン・ダルドリー 出演 リックソン・テベス、エデュアルド・ルイス、ガブリエル・ウェインスタイン

 ごみ拾いをしている少年が腐敗した政治家の「証拠」へつながる財布を拾う。そのために警察に追われる。頼りになるのは、それまで身に着けてきた「生き方」だけ。何度も何度も警官から逃げてきた。その「逃げ方」が、映画の展開のなかで何度も何度も生かされる。身軽に狭い街を駆け抜け、塀を飛び越し、あるいは渡り、屋根の上をかけまわる。下水のなかも平気で進む。「肉体」でおぼえていることを最大限に生かす。警官が危険、汚いと思っていることを逆手にとって逃げる。
 はらはらどきどきというよりも、わくわくする。警官なんかに負けるな、がんばれ、がんばれ、と思わず応援してしまう。一瞬一瞬が、冒険である。新しいことをする喜びがある。深刻で重いテーマの映画だが、その深刻さ、重大さ、社会的な「意味」を忘れて、ほんとうにわくわくして見てしまう。
 主役の3人の少年がすばらしい。ごみ拾いをしている。汚れているのに、汚れがしみついていない。単に服や汚れているだけ。肉体は汚れていない。こういうとき、簡単に「瞳が汚れていない、目が輝いている」、あるいは「こころが汚れていない」という言い方をするが、私は「肉体が汚れていない」と言いたい。「肉体」がしていいこと、してはいけないことをしっかりつかみ取っていて、それが汚れを撥ねつけるのである。
 いろいろ好きなシーンがあるが、「肉体が汚れていない」と強く感じたのが、二人が川に飛びこんで遊ぶシーン。財布をひろった直後、わりと速い段階のシーンである。その川は汚れている。ごみが浮いている。水も透明ではない。けれど少年は気にしない。汚れた水のなかで、汚れをおしのけて、「水」だけを自分の「味方」にしてしまう。汚れた水のなかにある、汚れとは無関係な「水」だけを身にまとう。まるで純粋な「肉体」と純粋な「水」が触れ合って、そのまわりだけ「純粋」にしてしまう。
 このシーンが、一見、無造作で、無意味なようで、少年たちの「暮らし(生き方)」そのものを描ききっていて、とても好きだ。ごみ拾いの仕事が終わったから、遊ぶ、水で汚れを落とす--それだけのことなのだが、そこに「肉体」が、「生き方」が強烈にでている。何も主張せずに、ただ「肉体」として描かれている。
 この「汚れ」を寄せつけない働きを、この映画では「正しさ」と呼んでいる。「水」はからだを清める、「水」はからだを冷やす--その「正しい水」が、少年が川へ飛びこむことで、そこから生まれてくる。
 少年の「肉体」には、そういうエネルギーがある。
 少年が「事件」のなかへ飛びこむと、その「事件」から「汚れ」がはじき出され、少年のまわりには「正しいこと」だけが集まってくる。「純粋」を引き寄せる力がある。教会で英語を教えている女性が、少年に頼まれて刑務所にいる弁護士(不正を追及したために逮捕された)に会いに行く、その典型である。政治家の家で働いている男が、政治家の秘密をぽろりと語ってしまうのも、そういうことのひとつの言えるだろう。
 少年たちは、その「肉体」が頑丈で「正しい」力に満ちているだけではなく、「頭脳」も強靱である。健康である。学校に行っているわけではないのだが、というか、学校に行けないからなのかもしれないが、聞いたことを覚えてしまうという力を持っている。耳にしたことを手がかりに生きている。「手紙」を覚えてしまうという記憶力も活躍するが、クライマックスの聖書の暗号解読が、実におもしろい。「英語教室」でカードをつかって動物の名前を覚えるというシーンが、信じられない形で甦ってくる。英語の聖書なので、暗号解読は無理とおとななら思ってしまうかもしれないが、英語であってもわかるかもしれないと思い、読みはじめる。「暗号」の手がかりをさがす。そうして、ことばを「意味」ではなく「もの(存在)」としてつかみ取って、そこから暗号を解読してしまう。
 このときも、できるかどうかわからない、けれどやってみよう、という感じで解読がはじまるのがいいなあ。ここにも、最初に書いた「わくわく」があふれている。「正しいこと」をやりたいというよりも、したいことをやりたい、という感じになっているのが、とてもいい。
                        (2015年01月11日、天神東宝4)

*

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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笹本淙太郎「久遠へ」、粒来哲蔵「海馬よ、海馬」、那珂太郎「四季のおと」

2015-01-11 11:02:46 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
笹本淙太郎「久遠へ」、粒来哲蔵「海馬よ、海馬」、那珂太郎「四季のおと」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 笹本淙太郎「久遠へ」(初出『有の光芒』2014年08月)について、私は何を言えるだろうか。

森羅なる万象を鳥瞰し
未だ見ぬ銀河を尋ね
憶え得ぬ久遠へ

 私のつかわないことばが、漢字熟語のまま、並んでいる。私は日常的に漢字熟語をつかわない。カタカナ語をつかわないのと同じだ。
 漢字熟語を「見る」と私が肉体で覚えていること、ことばで言うのが面倒くさいことが、「結晶」したようにしてそこに「出現」しているような気持ちになる。私の手の届かない世界を笹本は漢字熟語でつかみ取っている。思っていることを、というよりも「思考」を、あるいは「思念」と呼ばれるようなものを書いているんだろうなあ。「あいまいな思い」ではなく、「意味」を日常の次元を超えた感じで結晶させようとしているんだろうなあ。

訥々として千古の思考を束ね
数知れぬ行為を聚め
総覧と闇路を綯い交ぜに思想となすが
有の縷々たるは可能の方途であるか

 これは「聞いて」もわからないなあ。目で「漢字」を見ながら「意味」を考える必要がある。「集め」と「聚め」は耳で聞く限りは同じ「音」だが(同じだと私は思うが)、漢字の表記は違う。その違いのなかにも笹本は「意味」をこめているんだろうなあ。
 「思考を束ね」「思想となす」という表現があるが、「思考」を「漢字」をとおして「思想」にまで作り上げる、鍛えて育てる。そういうことを笹本は「肉体」にしようとしているのだろう。
 私の「誤読」になるのだろうが、(というより「誤解」かも……)、こういう書き方は何か「漢字(表意文字)」がもっている「意味」に頼っているような気がする。別な言い方をすると「漢字の意味」を信じきっているような感じがする。その、あまりにも「純粋」な信じ方が、私には、ちょっとこわい感じで、知らず知らず身を引いてしまう。「立派な思想詩(哲学詩)ですね」と言って、あとは知らん顔をしてしまう。



 粒来哲蔵「海馬よ、海馬」(初出『侮蔑の時代』2014年08月)。粒来も「漢字」を利用している。しかし、その「利用」の仕方が笹本とは違う。

 妻は私に隠れて余程以前から海馬という馬を飼っていた
らしい。河馬ならばともかくも、海馬となると並の図鑑に
は載っていない正体不明の馬だから放っておいたが、妻が
老いると海馬も老い、人馬共に老耄を託ちながら共々に得
体の知れぬ生物に変貌しつつあるようだった。

 「海馬」は脳の一部。アルツハイマー病が起きるとき、最初に海馬が変化すると言われている。こういうことは最近はニュースで言われているので、海馬が実際に脳のどこにあるのか知らない人もなんとなくわかっている。
 この「海馬」から粒来は「馬」を取り出す。さらにその「馬」に「海」ではなく「河」をくっつけて「河馬」にしてみる。これは、まあ、なじみのある動物だ。動物園へ行けばたいてい、どこにでもいる。映像でもよくみかける。
 この「海馬」と「河馬」の比較(?)は、本来の「海馬」の「意味」からすると「ずれ」ている。間違っている。間違っているのだけれど、この間違いは、人を引き込む「ほんとう」をもっている。
 私たちは(私だけかもしれない。知らないことは調べればわかる、なぜ調べないと最近もある人から叱られたばかりだ)、知っていることを頼りに、勝手に「考える」。「覚えている」ことを思い出しながら、その「覚えていること」を動かしてみる。そして、「誤読」する。
 「海馬」は「馬」か。「海の馬」は知らないが「河の馬」なら知っている。カバは「河馬」と書く。馬というより巨大な豚に近い感じがするが、太った馬と昔のひとは考えたのか。豚よりも馬の方が身近に感じる人が「河馬」という表記を思いついたのかもしれない。--ということはおいておいて……。「馬」なら生き物である。生き物なら、年を取ると徐々に変化する。
 そうか、脳のなかに生きている「馬」が変化すると、脳そのものも変化して、人間も変わっていくのか。

 妻の寝息の中に、時々海馬の嘆き節が混じるようになる
と、妻の言動に乱れが出始めた。

 これはアルツハイマー病が発症したことを書いたのだろうけれど、「馬」が「妻」のなかで変化し、それが妻の肉体を動かしているという感じが、「肉体」そのものに響いてくる。
 人間の肉体のなかに生きている動物が人間の理性の支配を離れて野生を生きはじめる--これは肉体の衝動、本能の目覚めのように響いてくる。とても生々しい。
 「意味」(つまり、医学的な述語の世界)からみると、こういう「誤読」は「間違っている」のだが、「間違っている」方が「肉体」には納得しやすい。脳のなかで海馬がどのように萎縮し、それが神経にどのように作用し、言動が乱れるかということを医学述語で正確に言われたとしても、何のことかわからない。どこまで調べれば「理解」できるのか、「理解」したことになるのか、見当がつかない。それに、「医学述語」は時代と共に変化していく。きょう正しいと言われていることが、ある日、新発見によって覆ることがある。そういう「日常の理解」を超えた世界を「正確」に知るよりも、自分の「肉体が覚えていること」を頼りに生きた方が、生きるということを納得しやすい。人間の野性が動きはじめるの方が、自分の覚えていることとつながりやすい。
 妻はだんだん「馬」になりつつある。妻が「馬」になるから、「馬」と生きればいい。「馬」には「馬」の「能力(可能性)」がある。
 詩の最後で、「妻」が「白い小房の花」にみとれる。

  私はその小花を知っていた。馬酔木だった。海馬はつ
とにこの花に酔ったのだ。妻とはいわず、海馬よ海馬……
と口籠もりながら、私は妻の背を叩いて覚醒を促した。妻
の目にうっすらと馬影が映っていた。

 この詩の美しさは、「海馬」ということばの「意味」の不正確さから生まれている。「海馬」の「誤読」から生まれている。野性、本能にたいするいたわり、やさしさが生まれてくる。「意味」は自分で捏造するものである。そのとき動く「肉体」が詩である。「意味」を破壊し、別の「こと」をつくり出していくのが詩である。



 那珂太郎「四季のおと」(初出『宙・有 その音』2014年08月)。那珂太郎は、粒来とはまた違った形でことばを「解体」し、「再構築」する。「春」の部分。

ひらひら
白いノートとフレアーがめくれる
ひらひらひらひら
野こえ丘こえ(まぼろしの)蝶がとぶ
ひらひら
花びら(の)桃いろのなみがだ舞ひちる
ひらひらひらひら
ゆるやかな風 はるの羽音(はおと)

 粒来は「海馬」から「馬」を独立させて、「誤読」を加速させた。那珂は「文字」ではなく「音」を独立させ、音を「誤読」し、音を暴走させる。ただし、「暴走」とはいうものの、那珂の場合、日本語の伝統への意識(意味への脈絡)が非常に強い。どんな「音」もそれぞれに「文化的背景」を持っている。その音(ことば)が、どのようにつかわれてきたかという歴史をもっている。那珂は「自由」なようであって、でたらめではない。その伝統(意味)をしっかり踏まえている。
 「ひらひら」ということば。それは日本語の歴史のなかで、どうつかわれてきたか。「ひらひら/めくれる」「ひらひら/とぶ」「ひらひら/まう」。「ひらひら」は「うすい」。「うすいもの」、たとえば「ノート」「フレアー(スカート)」「蝶の羽」「花びら」。那珂のことばは、ほんとうは「暴走」していない。
 これは「なみだが舞ひちる」をよくみるとわかる。涙は「流れる」。あるいは「こぼれる」。しかし、「流れる」「こぼれる」という「動詞」は「ひらひら」とは相性がよくない。「ひらひら/流れる」「ひらひら/こぼれる」とは、よほどのことがないかぎり言わない。「きらきら/流れる」「さらさら/流れる」「ちらちら/こぼれる」。どのことばにも、それぞれの相性が合って、相性の合うものと結びつく。そしてその結びつきが「感覚の意味」になる。那珂は、この感覚の「意味」を「音」のなかでつかみとっている。それを自立させ「音楽」に高めている。
 ことばのなかの「音」が「音楽」にまで結晶すると、そこからおもしろい現象も生まれてくる。「音」が「意味」を超えて、別なものになる。粒来が「海馬」から「馬」を独立させて別なものにしたのと似ているかもしれないが……。
 たとえば「四季のおと」は「四季の音」であると同時に「四季ノート」であり、「はるの羽音(はおと)」は「はるのハート」でもある。那珂は「羽音」にわざわざ「はおと」とルビを打っているのだが、これは「羽音」を「はねおと」と読んでしまっては「ハート」にならないからである。



宙・有その音
那珂太郎
花神社
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