詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋順子「海を好きだった」、高橋睦郎「七月の旅人」ほか

2015-01-05 11:43:05 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
高橋順子「海を好きだった」、高橋睦郎「七月の旅人」、中尾太一「宇宙船のララバイ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 高橋順子「海を好きだった」(初出『海へ』2014年07月)。東日本大震災の衝撃を書いている。津波は高橋のふるさとも襲い、「中学時代の同級生など十四人が波に呑まれた」と書いている。

海が凶暴な力をもっていることは知っていたが
それは海の向こうの海のことだと思っていた
幼かった足うらをえぐる小さくない波の力と砂のつぶを
いまでもわたしの足うらはおぼえている
わたしの海は荒れるときも
防波堤に当たって夢が砕けるように自らを砕き
わたしの夢に侵入することはなかった

 これは1連目の一部だが「知っていた」「思っていた」と「おぼえている」が交錯する。「おぼえている」は「忘れることができない」ということでもある。それは、その「おぼえている」を生きるしかないということでもある。

一ヵ月後余震の中を古里に行くと
家の庭からも前の道からも
それまでは家並みにさえぎられて見えなかった海が見えた
海が見えた というよりは
海を見なければならなかった というべきだろう
海 青い他界
古里の家には昨日青畳が入った
わたしたちは凪を踏むようにして その上を歩いた

 ここには「足うら」ということばは書かれていないが、高橋の足うらは、その青畳の感触を、これからもずっーと「おぼえている」だろう。忘れることはないだろう。幼い日の波と砂粒の感触をおぼえているように。
 「海が好きだった」とタイトルは過去形で書かれているが、いまでも高橋は海が好きだろう。嫌いとは言えない。
 引用が前後するが、2連目に

これが わたしの海か
これが 海のわたしか
わたしの「海まで」の矢印は 海によってへし折られたことを
分かってゆかねばならない

 ここにでてくる「分かる」という動詞は、最初に見た「知る」「思う」「おぼえる」とも、また違う。知っていること、思っていること、おぼえていること--そういうものを全て突き破って「海がある」ということを「悟る」というのに近い。「分かってゆかなければ(分かってゆく)」と高橋は書いている。「分かる」へ向かって動いていく、進んでゆくということだろう。「海がある」とき「高橋がある(いる)」。海によって、いま高橋が「ある(いる)」というところへ。

海が見えた というよりは
海を見なかければならなかった というべきだろう

 ことばでは「見えた」「見なければならなかった」と区別されるが、どちらが「正しい」わけでもない。「認識」を捨てて、「海がある」の「海」そのものに「なる」感じだ。「海」になったとき、「足うら」に「凪」がやってくる。「海」は「凪」になる。「海がある」「高橋がある」が「海になる」高橋になる」「凪になる」。この「なる」が「分かってゆく」の「ゆく」と重なるのかもしれない。
 詩集の感想を書いたときは読み落としていた。高橋の「肉体(思想の動き)」が静かに見えてくる詩だ。



 高橋睦郎「七月の旅人」(初出「鷹」2014年07月号)。
 1連目におもしろいことばが出てくる。

旅人は永遠(とわ)に五十歳
時雨ならぬ 真夏の光ふりそそぐ
大阪南御堂(みなみみどう) 花屋の辻に立つ
天地に沸きかえる蝉声(せんせい)を浴びて
幻視 いや 幻歩するのは
ついに踏むこと叶わなかった 肥前長崎
出島に打ち寄せる 波のあなたの

 「幻歩する」。このことばを私は知らない。知らないことは調べろとひとは叱るが、私は調べない。調べる代わりに、「幻視」を「幻歩」ということばに書き直していると感じる。そのとき、私の「肉体」が「歩く」。歩いているときの感覚が肉体を動かす。
 実際に、そこに「ある」場所ではなく、そこには「ない」場所を歩く。どこかに「ある」場所を歩く。幻を見るように(錯覚するように)、肉体が(足が)動く(歩く)たびに、その足元から、そこに「ない」場所が「ある」ものとしてあらわれてくる。それは「目で見る幻/幻視すること」ではなく、「足で歩くこと」がつくりだす幻だ。幻の歩みが現実をつくりだすのだ。
 そうか、芭蕉は、「奥の細道」のあと、長崎へ、出島へ、さらにその海の向こうへ歩いていこうとしていたのか。南御堂の花屋の辻に立ったとき、すでに「肉体」は歩きはじめていたのか。

五十歳の旅人は 私たちひとりひとり
私たちのいま立つそこが 花屋の辻
一瞬ごとに死んでは甦る私たち
願わくば 五七五の音の巧力(くりき)で
夢の枯野を 現(うつつ)の緑の野に戻して

 「いま立つそこが」どこであれ、芭蕉の立った南御堂の「花屋の辻」。そこからまだ見ぬ場所へ歩いていくと決めたとき、そこが「花屋の辻」になる。「頭の認識」はそこは「花屋の辻」ではないし、「いま」は芭蕉時代ではないというかもしれないが、歩いていくと決めた「肉体」にとっては、「花屋の辻」であり、そのとき「私」は芭蕉そのものである。「私」は芭蕉に「なっている」。
 「一瞬ごとに死んでは甦る」は、そのとき「肉体」を貫く「悟り」のようなもの、「肉体」が「分かっていること」である。「私」というものが消えてしまうことが「分かる」ということなのだ。それは「一瞬ごとに死んでは甦る」世界の全体でもある。
 こういう「世界観」の中心に「幻歩する」ということば、「歩く」という「動詞」を含んだことばがある。「幻視」(幻視する)も「動詞」と言えるが「見る」よりも「歩む」の方が「肉体全体」の存在を感じさせる。動いている感じがする。「肉体」がより身近に感じられる。「肉体」が感じられるので「一瞬ごとに死んでは甦る」に、どきどきしてしまう。「実感」の強さを感じて震えてしまう。



 中尾太一「宇宙船のララバイ」(初出『a note of faith  ア・ノート・オブ・フェイス』2014年07月)。

クエストは象を巻き込んだ包(パオ)
歳をとった僕はzoneに入って
高原地帯に擦り切れたボールを遠投する
ネクストバッターズサークルでは
天使が打棒を掲げ
七本線の楽譜に散らばった罪の音符を
ひとつひとつ打っている

 これはなんだろう。「クエスト」。小倉に住んでいたとき「クエスト」という本屋があったが、違うなあ。「宇宙船」とタイトルにあるから、宇宙船に関係しているんだろうなあ。「パオ」はモンゴルの巨大なテントのような建物? 詩の舞台(場)が定まらないが、「ボールを遠投する」「ネクストバッターズサークル」ということばから野球を連想する。宇宙船はドーム球場のよう? ドーム球場はパオみたい? 宇宙船では、無重力ゾーン(zone)で野球して時間をつぶしている? 連想は身勝手に暴走する。
 で、そのあとの、

天使が打棒を掲げ
七本線の楽譜に散らばった罪の音符を
ひとつひとつ打っている

 これが、楽しい。現実の(人間の)音楽は五線譜に音符。でも人間を越える天使(神の子?)の楽譜は人間の五線譜よりも音域(?)がひろくて七線譜か。そして、「罪の音符」か。八部音符の尻尾は悪魔(罪?)の尻尾?
 こんな空想(飛躍)も「打っている」という「動詞」で「肉体」に重なる。ありえない世界なのかもしれないが「打っている」が「肉体」にはわかる。だから、引き込まれる。その前の「ボールを遠投する」も「遠投する」という「動詞」が「肉体」を引き込む。ただ「投げる」ではなく「遠投する」だと「肉体」の動きも違ってくる。そういう「肉体」の「差異」が、ことば全体を生き生きさせる。「肉体」を生き生きと刺戟してくる。
 だから(?)、
 だからでいいのかどうかわからないが。
 「バット」ではなく「打棒」という古い(?)ことばがおかしいし、「宇宙船」「クエスト」「パオ」「zone」「高原地帯」というような「ばらばら感」のあることばの飛び散り方が楽しい。
 何よりも、ことばの「歯切れ」がいい。ことばを実際に口で(舌で、喉で)動かして詩を書いている感じがする。

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坂を下りて

2015-01-05 00:22:33 | 
坂を下りて

坂を下りてしばらく行くと
家が壊されたあとの空き地があって、
その輪郭をつくる石垣がある。その輪郭の上を
ねずみいろということばが素早く走り、私を驚かせた。

ほかのどのことばへ向かって動いているのか、
不定形の石の影はグレー色、夜明け前の
蝋梅の黄色を引き立てる空は青が混じった灰色。
ねずみいろを受け止めるものがない。

楠木の影は形を消したままアスファルトと見分けがつかない。
藤田内科のビルの後ろの竹藪が風を求めて騒ぐ。
どこかでカラスが鳴いている。

ねずみいろは、やわらかな手触りで
母の着ていた服にかならず隠れていた。
雲のいちばん低いところを縁取る赤い色が見えた。
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