詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭「アジサイ喰い」、天沢退二郎「二つの家」、伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」

2015-01-21 18:41:32 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
阿部嘉昭「アジサイ喰い」、天沢退二郎「二つの家」、伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 阿部嘉昭「アジサイ喰い」(初出『陰であるみどり』2014年10月)。「アジサイ喰い」とは何のことだろう。「アジサイ」は花(植物)のアジサイ? 私は食べたことがない。

たえず緯度の老齢で
紡錘の絞められる北地にも
ようやくいろづきだした
聖水たたえる球を
えらばずにほおばってゆく

 書き出しから、何のことかさっぱりわからない。「紡錘」「いろづく」「球」「ほおばる」から、色づいた鬼灯をほおばっているのかとも思ったが、「アジサイ」とは季節があわない。
 「緯度」「老齢」「北地」というのは緯度の高い北の土地を想像させるが「ようやくいろづきだした」の「ようやく」もわからない。緯度の低い南の土地なら「ようやく」色づくという表現はあると思うが、北の土地なら「はやくも」色づき出したということばを私は思い出す。
 「流通言語」を否定し、それとは違ったつかい方をする--それが詩、ということなのかな? 
 でも、そうなら……。

しずかな未遂の亡霊がうかぶ
くちをもやす花喰いびとにあり
ぼろまとうアジサイ喰いは
ふくみあやまる毒でくちを消し
かち色の身もしずめながら
ゆきかうだけをくりかえして
まぼろしなすその挙動から
不審な珠などあふれしめ
つながってゆくひかりみな
ひとしく狂れだすよう
よわさをそこへ火ともす

 亡霊が「浮かぶ」、ぼろを「まとう」、身を「しずめる」という「定型」の「動詞」は、どういうことだろう。
 まぼろし「なす」、あふれ「しめ」という口語から遠い表現も気になってしまう。口語から遠いくせに(あるいは遠いから、なのか)「定型」の文体(動詞の意味の働き方)が気になってしまう。ことばに酔って「頭」が「定型」を動いていない?
 「ようやくいろづきだした」という表現も、阿部の「頭」がおぼえている「定型」ではないのかなあ。今は北海道に住んでいるようだけれど、それ以前に住んでいた土地のことばの「定型」が無意識に出てきてしまったのではないのかなあ。
 詩なのだから「意味」があろうとなかろうといいと思うけれど、ことば酔った音の動きが気になる。ことばに酔うことは詩の大事な部分を占めるけれど、でも「酔う」のは読者であって「作者」ではないなあ。筆者は醒めていて、読者が「酔う」のが詩だと思うなあ。
 酒席で、ひとり酔いの頂点にいる人を見るような感じがする。



 天沢退二郎「二つの家」(初出『贋作・二都物語』2014年10月)。「私」は「僕」であり、「俺」でもある。「僕」と「俺」の違いは、住んでいる家の違い(家にいる小母さんの違い)。三叉路がある。Yの字をつかって天沢の詩の「僕」「俺」と「二つの家」の関係を図式化すると、Yの下の方に「僕の家」、左上に「俺の家」、右上が図書館。交わっているところに「ブルー」というカフェがある。その「ブルー」で……

そこで一服してから、わが家に入ると、
驚いたことに、玄関口に僕の家の小母さんが
大きな顔をしてがんばっているではないか!
何だ? どうしたんだ! 全く理解不能だ
あまりの驚きに 僕?/俺?は
その場で失神してしまった



気が付くと、さっきのカフェ・ブルーの、
三叉路に面した席に座っていた
この私は、いったい僕なのか、俺なのか

 ここに書かれていることは、すべて「頭」のことばである。「理解不能」ということばが出てくるが、「理解」とは「頭」ですること。「頭」が「理解不能」と言っている。
 天沢は、これを「肉体」のことばで言いなおしたりしない。「頭のことば」をそのまま動かしていって、それを「ことばの肉体」にしてしまう。「肉体」というのは、どういういときでも「ひとつ」である。「ひとつ」であることによって生きている。「僕」と「俺」は「ことば」としては「ふたつ」であり、さらにそれを認識する「私」をくわえると「みっつ」になってしまうが、それを「ひとつ」にして生きる。動く。そうすると、どうなるか。

外はもう夜で、店員が、閉めるから出てくれと
言っているが、その私は今ここでは
僕なのか、俺なのか、
それがきまらないかぎり、ここを出ても
二つの家のどっちへ行ったらいいのか
わからないではないか!?
                       (注・「!?」は原文では1文字)

 「わからない」にたどりつく。この「わからない」を「わからない」まま書くのではなく、あくまで「わかる」ことば、「わかる」論理を動かしていく--そのときに「ことばの肉体」が見えてくる。
 これが、おもしろい。
 「わからないこと」(理解不能)のことを、ことばは「わかる」ように書ける。他人が共有できるように書くことができる。「わからない」が「わかる」。「私」が困っていることが「わかる」。
 ことばの不思議は、ギリシャの時代から「矛盾」と向き合っていることだ。ギリシャ人の明晰な頭脳を困惑させたのは「ない」を考えることができるということだった。「ある」はそこに「ある」もので証明できなるが「ない」はそれ自体確認できない。でも「ない」が、「わかる」。そこから「論理」が動いている。
 私は「頭のことば」は好きではないが、「頭のことば」が「ことばの肉体」にまでなってしまった「ことばの運動」を読むのは大好きだ。「肉体」になってしまったことばは、どこまでも動いていける。そういう自在さがある。自由がある。そして、その自由さの度合いは、ことばのスピードそのものになってあらわれている。軽さ、明晰さにもなってあらわれている。



 伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(初出『undefined 』2014年10月)。「現代詩手帖」に掲載されているのは「抄」。だから全体の内容はわからないのだが、女と知り合いホテルで一夜を過ごす。朝、電話をとるが、雑音で聞こえない。女はとなりでうめいている。

 女は体中に穴を開けていた。あたしは穴という穴のすべ
てに舌を這わせ、何度も舐めあげたけれど、その穴が昨夜
はあんなにいとおしかった、レズビアンの耳の穴にある骨
の形がストレートとは違っているとどこかで読んだことが
あるけれど、それはもしかすると真実なのかもしれない、
これと同じことは二ヶ月前にもあったし、たぶん、来年も
あたしは同じことを繰り返しているだろう。耳の穴の暗闇
にぽっかり浮かんだ、白い骨。

 そんなことを思っていると、地震があってテレビをつける。地震情報を確かめようとする。
 阿部のことばの動きとも、天沢のことばの動きとも違う。
 私たちが日常つかっていることばのまま、伊藤の体験したことが、並列して書かれている。わかることばで、私の知らないことが書かれている。でも、何が「わかったか」ということは、たぶん、「わからない」。伊藤が女といっしょにホテルにいるときのことを書いている、ということだけが「わかる」。

贋作・二都物語
天沢 退二郎
思潮社
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田島安江「ひとあしおさきに」

2015-01-21 10:25:51 | 現代詩講座
田島安江「ひとあしおさきに」(現代詩講座@リードカフェ、2015年01月14日)

 詩を複数のひとと読んでいると、ときどきおもしろいことに出会う。ひとりで黙読しているときには感じなかった刺戟がある。

ひとあしおさきに  田島 安江

夜半にゆるゆると起き上がり
ひそかに
音のしないようにそっとシャワーを浴び
終い湯に浸ると
家族の落としもののような垢や恥毛が
ゆらゆらと過ぎて行くのを眼の隅におさめる

じっと湯を眺めていると
甘い夢の欠片などすっと消えて
しらじらとした闇の正体を見定めたくなる
舌を刺す牛乳にむせたときのように
腐敗は白い乳の色から始まる
とっくに知っていたはずなのに
なにも慌てることなどないではないか
わたしのなかの腐敗はとっくに始まっているのだから

ベッドの裾から
冷たい気配がはいのぼってくる
冬の夜更けには肩こりがひどい

寝る前に脱いだ洋服が夜半になるとかさこそと音を立てる。たたまれたり開かれたり。洋服の中から覗いた誰かの足が伸びたり縮んだり。洋服を着たまま、その人はすっくと立ち上がり、「それではひとあしおさきに」といってほんとうに行ってしまった。

 受講生の感想は、「不思議な感じ。誰かが先に行ってしまった。主人公が、肉体、内面を観察せざるを得ない状況にいる。」「現実の中の異界を描いている。気配ということばが出てくるが、気配を描いている。」「最後の連はこわい。洋服のなかから手足が伸び縮みしたり、人間が立ち上がり出て行くというのは現実にはありえない。」「現実をしっかり観察している。甘い夢が消える感じ。自分自身の内面を描いている。」「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる、という2行から、生まれた赤ん坊は誕生のときから腐敗(死)が始まっている、という言っているよう。」
 この感想のなかで私が「あっ」と思ったのは「主人公」という指摘。
 「講座」では出席者の書いてきた詩を読み、感想を語り合うのだが、「主人公」ということばが感想の中に出てきたのは初めてのような気がする。詩にはたいてい「私」が出てきて、それは筆者を指すことが多い。暗黙のうちに、私たちは詩を「私小説」のように「私詩」と思ってるので、めったに「主人公」ということばをつかって感想を言わない。
 けれども、今回「主人公」ということばが出てきた。類似のことばで「自分自身の内面」という表現も出てきた。これも、詩は自分自身の内面(精神/感情/感覚)」を描くものという暗黙の了解があるので、なかなか「ことば」として口に出すことはない。感想をいうとき、わざわざ「自分自身の内面」とは言わないような気がする。
 なぜ「主人公」ということばが感想に紛れ込んだのか。
 たぶん、「異界」というものが見えたからだと思う。この詩を書いた田島は、「私たちとは違う世界にいる」。それは知っている「田島さん」ではなく、別の人間。詩のことばのなかを生きている「別人/詩の主人公」。あえて言えば「日常の田島さん」ではなくて「詩のなかの田島さん」。
 どうして、そういう「思い」が強くなるのか。これは「現実を観察している」という指摘があったが、たしかに「現実」を書いているからである。

終い湯に浸ると
家族の落としもののような垢や恥毛が
ゆらゆらと過ぎて行くのを眼の隅におさめる

 ここには生々しい「現実」が描かれている。そして、その「現実」は「垢」「恥毛」といった、ふだんは口にしない「肉体」をとおして描かれる。こういうことばを読んだとき、だれも田島の家族の「垢」あるいは「恥毛」を思い浮かべない。自分自身が風呂に入ってみてしまう他人(家族)の垢、恥毛を思い浮かべる。田島の詩なのに、自分自身の「肉体」と「現実」を思い出してしまう。自分の肉体で田島の「現実/肉体」を受け入れてしまう。田島になってしまう。田島になってしまうのだけれど、もちろん他人だから田島にはなれない。「ずれ」が生まれる。
 「ずれ」は「現実」であると同時に、「現実」を見せてくれる「仮構/虚構」である。自分であるかもしれないけれど、自分ではない、他人だ、と言いたい感じ--それが、ここに登場する「わたし」を「主人公」と呼ばせてしまう。それは「私ではない」。書かれていることから「私の現実/肉体」を思い出すけれど「私ではない」。切り離すことで、「安心」したいのかもしれない。突き放して見たいのかもしれない。
 「とっくに知っていたはずなのに」ということばが詩の中央あたりに出てくる。ここに書かれていることは、そうなのだ、「とっくに知っている」ことなのだ。「じっと湯を眺めていると/甘い夢の欠片などすっと消えて」いくというのは、誰もが何らかの形で感じている。「わたしのなかの腐敗はとっくに始まっている」もわかっている。「冬の夜更けには肩こりがひどい」もわかっている。同じ「肉体」を生きている。その「肉体」の感覚をおぼえている。だからこそ、「わかりたくない」。自分であるとは思いたくない。あくまで、ことばのなかの「主人公」として受け止めたい。
 そして、好都合なことに(?)、最後は、自分の感じていることとはまったく違うことが書かれている。自分の「肉体」ではおぼえていなかったことが書かれている。よかった、これは「私」ではなく詩の「主人公」の体験なのだ、と思うのだ。
 
 でも、そうなのか。私は実は最終連の光景を見たことがあると感じた。いくつかの夜を思い出した。受講生のひとりは「怖い」と言ったが、私はなつかしく感じた。湯船の垢や恥毛もなつかしく感じた。「肉体」がおぼえていることは、どんなことでもなつかしい。

 で、最後の「その人はすっくと立ち上がり」の「その人」とは誰だろう。「主人公」か「主人公以外の人(他人)」と質問してみた。
 「主人公」「主人公とは別な人の方が恐怖感が増す」「主人公の分身」。意見は分かれた。作者の田島は「わたしではない」と言った。このとき、私は、「その「わたし」というのは2連目に出てくるわたしなのか、それとも田島さん自身のことなのか」と聞きそびれてしまった。
 こんなふうに見方がそれぞれ違うというのが、とてもおもしろい。「正解」はない。田島が「私はこう思って書いた」と主張しても、それが「正解」かどうかはわからない。違っていていいと私は思っている。
 私は「その人」を「まったく別人」と読んだ。それまで書いてきた「肉体の疲労感」のようなものを手がかりに言うと、「疲労してしまう人間そのもの」あるいは「疲労するということ」。誰かというよりも「人間のあり方」そのものが「その人」と抽象的に呼ばれている。この「抽象(疲労するという動詞といっしょにある人間)」を「本質」と呼びかえることもできるかもしれない。
 「抽象」だから、もちろん「全くの別人」であっても「私自身」であってもかまわない。「誰か」にこだわってしまうと、消えてしまう存在である。ある瞬間は「別人」、ある瞬間は「私」。いろいろいな「人間」そのものとして、あらわれては立ち消える。
 私が「主人公は誰?」と問いかけ、それに受講生が答える瞬間、答えながら受講生は「正解/誤読」(正解というものがあったと仮定してだが)を揺れる。言った瞬間に自分の言った「正解」は「誤読」になり、他人の「誤読」を聞くたびに、それが「正解」になる。「答え」はなくて、「感じている」ということだけが、そこに「つかみきれない幻」のように動く。
 それが、詩だ。
 「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる」は赤ん坊のことを書いたのではなく、現実の牛乳と腐敗、舌先の感覚について書いたのだと田島は言ったが、(私もそう思って読んでいたが)、赤ん坊を思い浮かべ、腐敗を思い、「それではひとあしおさきに」とつなげると、人間の生まれて死んでいくという「一生」が「その人」となって動いているとも読むことができるだろう。
 人の一生は、それぞれがきちんと「生きている」(実践している)にもかかわらず、つかみきれない。つかんでいると思ったらするりとどこかへ逃げてしまっていて、もう何も残っていないと思ったら、目の前にある。

 田島は「現実」を書いた、自分の感じていることを書いたのかもしれないが、そのことばの運動のなかに、何か田島を超える「存在」が動いている。異質な感じが動いている。それが「主人公」という感想になってあらわれ、その「主人公」という感想に刺戟されて、全員で詩を読み直したという感じがあった。

               (次回は、2月25日、水曜日、午後4時-6時。)

詩集 遠いサバンナ
田島 安江
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