阿部嘉昭「アジサイ喰い」、天沢退二郎「二つの家」、伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(「現代詩手帖」2014年12月号)
阿部嘉昭「アジサイ喰い」(初出『陰であるみどり』2014年10月)。「アジサイ喰い」とは何のことだろう。「アジサイ」は花(植物)のアジサイ? 私は食べたことがない。
書き出しから、何のことかさっぱりわからない。「紡錘」「いろづく」「球」「ほおばる」から、色づいた鬼灯をほおばっているのかとも思ったが、「アジサイ」とは季節があわない。
「緯度」「老齢」「北地」というのは緯度の高い北の土地を想像させるが「ようやくいろづきだした」の「ようやく」もわからない。緯度の低い南の土地なら「ようやく」色づくという表現はあると思うが、北の土地なら「はやくも」色づき出したということばを私は思い出す。
「流通言語」を否定し、それとは違ったつかい方をする--それが詩、ということなのかな?
でも、そうなら……。
亡霊が「浮かぶ」、ぼろを「まとう」、身を「しずめる」という「定型」の「動詞」は、どういうことだろう。
まぼろし「なす」、あふれ「しめ」という口語から遠い表現も気になってしまう。口語から遠いくせに(あるいは遠いから、なのか)「定型」の文体(動詞の意味の働き方)が気になってしまう。ことばに酔って「頭」が「定型」を動いていない?
「ようやくいろづきだした」という表現も、阿部の「頭」がおぼえている「定型」ではないのかなあ。今は北海道に住んでいるようだけれど、それ以前に住んでいた土地のことばの「定型」が無意識に出てきてしまったのではないのかなあ。
詩なのだから「意味」があろうとなかろうといいと思うけれど、ことば酔った音の動きが気になる。ことばに酔うことは詩の大事な部分を占めるけれど、でも「酔う」のは読者であって「作者」ではないなあ。筆者は醒めていて、読者が「酔う」のが詩だと思うなあ。
酒席で、ひとり酔いの頂点にいる人を見るような感じがする。
*
天沢退二郎「二つの家」(初出『贋作・二都物語』2014年10月)。「私」は「僕」であり、「俺」でもある。「僕」と「俺」の違いは、住んでいる家の違い(家にいる小母さんの違い)。三叉路がある。Yの字をつかって天沢の詩の「僕」「俺」と「二つの家」の関係を図式化すると、Yの下の方に「僕の家」、左上に「俺の家」、右上が図書館。交わっているところに「ブルー」というカフェがある。その「ブルー」で……
ここに書かれていることは、すべて「頭」のことばである。「理解不能」ということばが出てくるが、「理解」とは「頭」ですること。「頭」が「理解不能」と言っている。
天沢は、これを「肉体」のことばで言いなおしたりしない。「頭のことば」をそのまま動かしていって、それを「ことばの肉体」にしてしまう。「肉体」というのは、どういういときでも「ひとつ」である。「ひとつ」であることによって生きている。「僕」と「俺」は「ことば」としては「ふたつ」であり、さらにそれを認識する「私」をくわえると「みっつ」になってしまうが、それを「ひとつ」にして生きる。動く。そうすると、どうなるか。
「わからない」にたどりつく。この「わからない」を「わからない」まま書くのではなく、あくまで「わかる」ことば、「わかる」論理を動かしていく--そのときに「ことばの肉体」が見えてくる。
これが、おもしろい。
「わからないこと」(理解不能)のことを、ことばは「わかる」ように書ける。他人が共有できるように書くことができる。「わからない」が「わかる」。「私」が困っていることが「わかる」。
ことばの不思議は、ギリシャの時代から「矛盾」と向き合っていることだ。ギリシャ人の明晰な頭脳を困惑させたのは「ない」を考えることができるということだった。「ある」はそこに「ある」もので証明できなるが「ない」はそれ自体確認できない。でも「ない」が、「わかる」。そこから「論理」が動いている。
私は「頭のことば」は好きではないが、「頭のことば」が「ことばの肉体」にまでなってしまった「ことばの運動」を読むのは大好きだ。「肉体」になってしまったことばは、どこまでも動いていける。そういう自在さがある。自由がある。そして、その自由さの度合いは、ことばのスピードそのものになってあらわれている。軽さ、明晰さにもなってあらわれている。
*
伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(初出『undefined 』2014年10月)。「現代詩手帖」に掲載されているのは「抄」。だから全体の内容はわからないのだが、女と知り合いホテルで一夜を過ごす。朝、電話をとるが、雑音で聞こえない。女はとなりでうめいている。
そんなことを思っていると、地震があってテレビをつける。地震情報を確かめようとする。
阿部のことばの動きとも、天沢のことばの動きとも違う。
私たちが日常つかっていることばのまま、伊藤の体験したことが、並列して書かれている。わかることばで、私の知らないことが書かれている。でも、何が「わかったか」ということは、たぶん、「わからない」。伊藤が女といっしょにホテルにいるときのことを書いている、ということだけが「わかる」。
阿部嘉昭「アジサイ喰い」(初出『陰であるみどり』2014年10月)。「アジサイ喰い」とは何のことだろう。「アジサイ」は花(植物)のアジサイ? 私は食べたことがない。
たえず緯度の老齢で
紡錘の絞められる北地にも
ようやくいろづきだした
聖水たたえる球を
えらばずにほおばってゆく
書き出しから、何のことかさっぱりわからない。「紡錘」「いろづく」「球」「ほおばる」から、色づいた鬼灯をほおばっているのかとも思ったが、「アジサイ」とは季節があわない。
「緯度」「老齢」「北地」というのは緯度の高い北の土地を想像させるが「ようやくいろづきだした」の「ようやく」もわからない。緯度の低い南の土地なら「ようやく」色づくという表現はあると思うが、北の土地なら「はやくも」色づき出したということばを私は思い出す。
「流通言語」を否定し、それとは違ったつかい方をする--それが詩、ということなのかな?
でも、そうなら……。
しずかな未遂の亡霊がうかぶ
くちをもやす花喰いびとにあり
ぼろまとうアジサイ喰いは
ふくみあやまる毒でくちを消し
かち色の身もしずめながら
ゆきかうだけをくりかえして
まぼろしなすその挙動から
不審な珠などあふれしめ
つながってゆくひかりみな
ひとしく狂れだすよう
よわさをそこへ火ともす
亡霊が「浮かぶ」、ぼろを「まとう」、身を「しずめる」という「定型」の「動詞」は、どういうことだろう。
まぼろし「なす」、あふれ「しめ」という口語から遠い表現も気になってしまう。口語から遠いくせに(あるいは遠いから、なのか)「定型」の文体(動詞の意味の働き方)が気になってしまう。ことばに酔って「頭」が「定型」を動いていない?
「ようやくいろづきだした」という表現も、阿部の「頭」がおぼえている「定型」ではないのかなあ。今は北海道に住んでいるようだけれど、それ以前に住んでいた土地のことばの「定型」が無意識に出てきてしまったのではないのかなあ。
詩なのだから「意味」があろうとなかろうといいと思うけれど、ことば酔った音の動きが気になる。ことばに酔うことは詩の大事な部分を占めるけれど、でも「酔う」のは読者であって「作者」ではないなあ。筆者は醒めていて、読者が「酔う」のが詩だと思うなあ。
酒席で、ひとり酔いの頂点にいる人を見るような感じがする。
*
天沢退二郎「二つの家」(初出『贋作・二都物語』2014年10月)。「私」は「僕」であり、「俺」でもある。「僕」と「俺」の違いは、住んでいる家の違い(家にいる小母さんの違い)。三叉路がある。Yの字をつかって天沢の詩の「僕」「俺」と「二つの家」の関係を図式化すると、Yの下の方に「僕の家」、左上に「俺の家」、右上が図書館。交わっているところに「ブルー」というカフェがある。その「ブルー」で……
そこで一服してから、わが家に入ると、
驚いたことに、玄関口に僕の家の小母さんが
大きな顔をしてがんばっているではないか!
何だ? どうしたんだ! 全く理解不能だ
あまりの驚きに 僕?/俺?は
その場で失神してしまった
Ⅲ
気が付くと、さっきのカフェ・ブルーの、
三叉路に面した席に座っていた
この私は、いったい僕なのか、俺なのか
ここに書かれていることは、すべて「頭」のことばである。「理解不能」ということばが出てくるが、「理解」とは「頭」ですること。「頭」が「理解不能」と言っている。
天沢は、これを「肉体」のことばで言いなおしたりしない。「頭のことば」をそのまま動かしていって、それを「ことばの肉体」にしてしまう。「肉体」というのは、どういういときでも「ひとつ」である。「ひとつ」であることによって生きている。「僕」と「俺」は「ことば」としては「ふたつ」であり、さらにそれを認識する「私」をくわえると「みっつ」になってしまうが、それを「ひとつ」にして生きる。動く。そうすると、どうなるか。
外はもう夜で、店員が、閉めるから出てくれと
言っているが、その私は今ここでは
僕なのか、俺なのか、
それがきまらないかぎり、ここを出ても
二つの家のどっちへ行ったらいいのか
わからないではないか!?
(注・「!?」は原文では1文字)
「わからない」にたどりつく。この「わからない」を「わからない」まま書くのではなく、あくまで「わかる」ことば、「わかる」論理を動かしていく--そのときに「ことばの肉体」が見えてくる。
これが、おもしろい。
「わからないこと」(理解不能)のことを、ことばは「わかる」ように書ける。他人が共有できるように書くことができる。「わからない」が「わかる」。「私」が困っていることが「わかる」。
ことばの不思議は、ギリシャの時代から「矛盾」と向き合っていることだ。ギリシャ人の明晰な頭脳を困惑させたのは「ない」を考えることができるということだった。「ある」はそこに「ある」もので証明できなるが「ない」はそれ自体確認できない。でも「ない」が、「わかる」。そこから「論理」が動いている。
私は「頭のことば」は好きではないが、「頭のことば」が「ことばの肉体」にまでなってしまった「ことばの運動」を読むのは大好きだ。「肉体」になってしまったことばは、どこまでも動いていける。そういう自在さがある。自由がある。そして、その自由さの度合いは、ことばのスピードそのものになってあらわれている。軽さ、明晰さにもなってあらわれている。
*
伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(初出『undefined 』2014年10月)。「現代詩手帖」に掲載されているのは「抄」。だから全体の内容はわからないのだが、女と知り合いホテルで一夜を過ごす。朝、電話をとるが、雑音で聞こえない。女はとなりでうめいている。
女は体中に穴を開けていた。あたしは穴という穴のすべ
てに舌を這わせ、何度も舐めあげたけれど、その穴が昨夜
はあんなにいとおしかった、レズビアンの耳の穴にある骨
の形がストレートとは違っているとどこかで読んだことが
あるけれど、それはもしかすると真実なのかもしれない、
これと同じことは二ヶ月前にもあったし、たぶん、来年も
あたしは同じことを繰り返しているだろう。耳の穴の暗闇
にぽっかり浮かんだ、白い骨。
そんなことを思っていると、地震があってテレビをつける。地震情報を確かめようとする。
阿部のことばの動きとも、天沢のことばの動きとも違う。
私たちが日常つかっていることばのまま、伊藤の体験したことが、並列して書かれている。わかることばで、私の知らないことが書かれている。でも、何が「わかったか」ということは、たぶん、「わからない」。伊藤が女といっしょにホテルにいるときのことを書いている、ということだけが「わかる」。
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