詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中正敏「雨ですか 日照りですか」、長嶋南子「ホームドラマ」、野村龍「光」

2015-01-12 12:26:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中正敏「雨ですか 日照りですか」、長嶋南子「ホームドラマ」、野村龍「光」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中正敏「雨ですか 日照りですか」(初出「詩人会議」2014年08月号)を読みながら「文体」について考えた。

その日 雨ですか 日照りですか
たれが ボクの死を見つけるのだろ
ボクは 自身の終りを知りません
それ故 どなたにも知らせません

 これは1連目。終わりの2行が「なるほど」と思わせる。そうか、死は自分では知ることができないのか。死んだら何もできないから、ではなくて知ることのできないことは知らせることができない。達観した笑い(発見の驚きが引き起こす愉快な感じ)があって、おもしろいなあ、と感じる。

沈黙が 告げるでしょう
世界は 喧ましく死は置きざりにされ
死骸は 空と握手するしかございません
しかし 空は空(から)っぽです風が抜けてゆきます

 「死」から「沈黙」への移行。こここには「ボクは 自身の終りを知りません」のような「笑い(発見の驚き)」がない。誰もが「死は沈黙である」という。せっかく「連」が変わったのに、ことばが逆戻りしている感じがする。「常識」、あるいは「常套句」へ。「沈黙が告げる」というのも「常套句」だね。「世界は」はおおげさだなあ。「死骸」は露骨だなあ。「空」は「そら」とも「くう」とも読むことができて、それが「からっぽ」と言いかえられても、驚かない。
 行頭に3文字のことば。1字あけて、つぎのことばというスタイルだけは1連目から2連目へつながっている。
 これは、しかし、3連目へいくと、違うスタイルになる。

ヒ孫の愛里(アイリ)ちゃんがモミジの手で
ボクの住んでいた月日を数えていて
数えきれずに瞳を隠します

 3連目が「起承転結」の「転」で、だからスタイルを変えた、のかもしれないが。
 でも、「論理的」にことばを動かすという中の基本的なスタイルは持続している。「それ故」「しかし」という「論理」をつかってことばを動かしていく方法は貫かれている。 「数えきれずに瞳を隠します」は、

数えきれずに「それ故」瞳を隠します

 数えきれないからといって、瞳を隠す(涙を隠して泣く)とは限らないが、「それ故」という論理性の強いことばで「事実」を「真実」にかえる。論理で事実が真実にかわるとき、そこに詩があらわれる--というのが中の「文体(ことばの肉体/思想)」なのだろうと思う。
 4連目。

鯉のぼりの吹き流しが風と遊んでいます
矢車が大世界のように廻りますか
五月雨でしょう蛇口で公園の人が洗顔しています

 最初の2行は2連目と呼応しているのだろう。飛躍があるようでも、その飛躍を暴走させないというのが中の論理のスタイルだろう。
 では、最終行には、どんな「論理」のことばが隠れているのだろう。「それ故」か「しかし」か。私は、次のように読む。

五月雨でしょう「それでも」蛇口で公園の人が洗顔しています

 「五月雨」と「公園の人が洗顔する」ということの間には関係がない。「無関係」。その無関係を承知で、「それでも」結びつけてしまう。そういう論理の「強引さ」。
 きっと、強引なんだろうなあ、中は。

ボクは 自身の終りを知りません
それ故 どなたにも知らせません

 これも考えてみれば「強引」だ。「ボクは 自分の死を知りません」というのなら、誰かボクのかわりに知らせてください。ボクは死んでしまったら何もできません、だから、誰かボクのかわりに知らせてください、というのが「ふつう」の論理。でも、中は論理を他人に任せてしまうことができない。自分のことを言ってしまう。強引な自己主張。
 この「強引さ」が、2連目を少し変にしているのかなあ、とも思う。2連目の「沈黙」「世界」「空(空っぽ)」が、どうも抽象的すぎて(あるいは、常識的論理で動きすぎていて)なんだか落ち着かない。自己主張にこだわっている。せっかく死ぬのに自己を捨てきれていない。--そのために、ことばは「哲学」に昇華しきれずにいる、という感じがする。詩になりきれていない、何かが残っているという感じがしてしまう。



 長嶋南子「ホームドラマ」(初出『はじめに闇があった』2014年08月)も「論理的」であるといえば「論理的」である。ただし、その「論理」は中が書いているように「理詰め」ではない。「それ故」とか「しかし」は存在しない。もし何かことばを補うなら「そして」だけである。あらゆることが「そして」でつながっていく。

ムスコの閉じこもっている部屋の前に
唐揚げにネコイラズをまぶして置いておく
夜中 ドアから手がのびてムスコは唐揚げを食べる
とうとうやってしまった
ずっとムスコを殺したかった

うんだのはまちがいです
うまれたのはまちがいです
まちがってうまれました
まちがってうんでしまいました
まちがわずにうまれるひとはいません

 引きこもりのムスコの世話がめんどうになり、「死んでしまえ」と思う。さらに「うんだ/うまれた」について自分勝手なののしりあいをする。こういう乱暴は、どれだけ乱暴であっても「肉親(母とムスコ)」なので「平気」である。「論理」を超えた「強いつながり」がある。それは「そして」という具合に、順番につながっているだけである。それは「超論理」と言いかえた方がいいのかもしれない。いちいち「論理」なんて言っていられない。「倫理」なんていうことも面倒くさい。「いのち」というのは切っても切れないつながりなのであって、つないで行くしかない。「それ故」なんて気取って「頭」のなかを整理する必要はない。肉体は産む/うまれることによって、「ひとつ」から「ふたつ」に分離している。そして「分離」が実は「いのちをつなぐ」こと。そのときから「矛盾」(分離/つながり)は同時に存在してしまっている。共存している。これをいちいち整理する必要はない。世界(?)がかってに「共存」を受け入れている。

主婦はなにごとがあっても子はうみます
ご飯をつくります

 「なにごとがあっても」。これが長嶋の「肉体/思想」である。
 この「なにごとがあっても」は、中が最終行で省略(?)していた「それでも」にいくぶん似ている。中も「それ故」「しかし」というようないかにも「論理」ということばを捨てて「それでも」で押し通せばおもしろいのかもしれない。
 「なにごとがあっても」が「おばさんの哲学」なら、「それでも」を押し通せば「おじさんの哲学」が詩になるかも知れない。「それでも地球はまわっている」が世界を変えた「哲学」になったように、と突然思いついた。「信念」というのは他人の「頭(論理)」をぶち抜いて動くものなのだろう。
 長嶋のことばには、他人をぶち抜く強さがある。

きのう子どもを食べているゴヤの絵を見ました
きのう天丼を食べました
カロリーが高いのでめったに食べません
どんぶりのなかにムスコがのっています
母親に食べられるのは
たったひとつできる親孝行だといっています

 これは「殺してやる」「ああ、殺せ、殺されるのは本望だ」というようなその場の口げんかを言いかえたようなもの。「おれには唐揚げで、おまえは(母さんは)天丼か」「たまには天丼くらい食べたってバチはあたらないよ、できそこない」というような、元気な「肉体(の声)」が聞こえてきそう。
 切っても切ってもからみついてくる「いのち」のつながり。「愛情」なんていうものより、もっと面倒くさい。「論理的」に説明できない。それと向き合い、大声を張り上げながら、だんだん「張り上げ方」を「肉体」がおぼえてくる。大声を出しても、もう声はかすれたりはしない。「腹式呼吸」「腹から押し出す声」になっている。
 元気でいいなあ。こういう詩を読むと、元気になるなあ。
 私は長嶋を知らないので、ずいぶん「誤解」しているかもしれないが、ほんとうは長嶋は苦労しているのかもしれないが、元気なおばさんと「勘違い」させておいてください。いっしょに暮らすと困るかもしれないけれど、傍から見ているのは楽しい。(ごめんね。)



 野村龍「光」(初出『Stock Book』2014年08月)。

濡れた翼を折り畳んだばかりの羅針盤から
今 暖かな輝きが溢れ出す

羽根ペンは 薔薇のしなやかな茂みに身を寄せて
波間に海燕の仄暗い歌を綴る

 こんな感じの2行1連のことばがつづいていく。「こんな感じ」と書いてしまったが、「こんな」を別なことばで言いなおすと……。
 一読すると「主語」がよくわからない。乱れる。
 最初の連は「暖かな輝き」が「主語」で「溢れ出す」が「述語」ということになるのかもしれないが、1行目との関係がよくわからない。「輝き」が「濡れた翼を折り畳む」? 「折り畳む」の「主語」は何? これが、あいまい。「濡れた翼を折り畳む」は、たとえば海鳥を主語にするとなりたつが、それと「羅針盤」の関係がよくわからない。
 動詞(述語)がことばを統一しているというよりも、そこにある「もの」が世界を統一しようとしている。「濡れた翼(海鳥)」「(船の)羅針盤」「暖かな(海/波の)輝き」。海は荒れているが正確に動く羅針盤が心強い--といったような世界。
 2連目は「主語」が「羽根ペン」で「述語」が「歌を綴る」だろう。おもしろいのは、しかし、そういう「主語/述語」の「枠」を内部から破壊するように挿入された「薔薇のしなやかな茂みに身を寄せて」という表現。文法的にはここでも「主語」は「羽根ペン」、「述語」は「身を寄せた」なのだろうけれども、読んでいる瞬間は「比喩的修飾節」の「内部」を意識が動いてしまう。「薔薇」が「主語」になって「身を寄せる」を思い浮かべてしまう。「羽根ペン」と「薔薇」のイメージの距離が遠すぎて、すぐには「比喩」としてつながらない。「比喩」が独立して全体を破っていく。
 この瞬間に、たぶん、野村の詩はある。
 ことば全体の「構図(絵)」を破って、部分が独立して自己主張する。その部分の「独立性」の輝きのようなものが、野村の詩のように思える。そして、その独立して自己主張する「もの」の存在の共存が「動詞(述語)」のつくりだす世界を超えていく。
 「もの(存在)」の乱反射が野村の詩。「濡れた翼」「羅針盤」「輝き」「羽根ペン」「薔薇」「海燕」「仄暗い歌」こういう「もの(名詞)」が「主語」というよりも「動詞」として働いている。それらの名詞につながる「動詞」は、実は、動かない。「名詞」が勝手に動き回るのをかろうじて制御するという感じ。
 文法が逆転したことばの暴力。それが野村の、この詩の特徴だ。
 「もの(存在)」を順々に追っていくのではなく、その全てを一気に「一枚の絵」のように把握する。把握するために、読者が自分自身で「動詞」とならなければならないのかもしれない。「名詞」のなかに飛びこんで、「主役」になって「名詞」を動かせると、野村の詩はきらきらと輝く「光」になる。


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何の間違いだろう

2015-01-12 00:55:35 | 
何の間違いだろう

何の間違いだろう、
ことばは左肩をガラスの窓に押しつけて体を休めようとしたとき、
何を間違えたがったのか、
冷たいガラスのなかから右肩があらわれて
ことばの左肩で休もうとしている。

何の間違いだろう、
ぬれた靴下のなかで指を動かしてどうにもならない欲望をなだめた日。
何を間違えたがったのか、
ガラスから古いセーターの硬い匂いがして、
ことばの形は手紙に書いた絵の構図に似てくる。



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