詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

紺野とも「貝釦」、高谷和幸「ふとんの前と後ろ」、高塚謙太郎「ハポン絹莢」

2015-01-04 10:34:49 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
紺野とも「貝釦」、高谷和幸「ふとんの前と後ろ」、高塚謙太郎「ハポン絹莢」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 紺野とも「貝釦」(初出『かわいくて』2014年07月)。
 うーん、これは外国語をgoogle翻訳にかけたような日本語。私はときどき日本語の詩をgoogleでスペイン語や英語に翻訳してみるが、こんなスペイン語や英語はないぞ、と思う。そのときに感じる「変な感じ」と似ている。一語一語は日本語だけれど、つながり方が変。

今朝のわたしは親知らずに噛みつぶされた目覚ましのアラーム音、眠る人にそのかけらを飲ませてあげたから定刻どおり身支度はじめる左前に身を滑らせる貝釦の指先、追えば心臓は握られる。

 「名詞」を追い、受け身の「動詞」を一部能動形にかえると、「状況」がぼんやりと思い浮かぶ。
 朝、目覚ましがなる。ああ、いやだと思いながら奥歯(親知らず)でその音を噛み砕くような感じで起きる。眠っている私に、目覚めた私が、起きろ起きろといっている。それから身支度をはじめる。「左前」というのは女の洋服のことだろう。あるいは、自分を殺して出社する「死に装束」という意味をこめているかもしれない。釦をとめながら、手はまるで心臓を握るような形になる。
 おもしろいのは、「動詞」。目覚まし時計のアラーム音を中心に、「噛みつぶされた」と「飲ませてあげた」が交錯する。「噛みつぶされた」のは「アラーム音」、「飲ませてあげる」は「わたし」、その「飲ませてあげる」対象は「目覚めかけているわたし」、「噛みつぶされた」を「噛みつぶした」という能動形にかえると、主語は「目覚めかけている私/眠っているわたし」になる。しかも「今朝のわたしは親知らずに噛みつぶされた目覚ましのアラーム音」だけを取り出すと、「わたし=アラーム音」になってしまう。とても奇妙。「学校作文」なら、主語と述語が合致していないよ、と言われてしまうかもしれない。
 「学校作文」なら、こういうときは「わたしは目覚まし時計のアラーム音を親知らずで噛みつぶすようにして、飲み込み、いやいや起きた」という感じになるのだと思うが、その「学校作文」と対比すると……。「飲ませてあげて」という能動は「飲み込み」と自主的な動き。紺野の書いているようにだれかに「飲ませる」という使役ではない。
 「動詞」というのはたいていの場合、主語を「ひとつ」に統一するように動くのだが、紺野の場合、主語を分裂させる形で働いていることになる。このために紺野のことばの動きがとても変に見える。
 「心臓は握られる」の受け身の形についても「噛みつぶされた」-「飲ませてあげた」につながるものがある。似ている。どう詩によって主語(わたし)が分裂するおもしろさがある。心臓を握る「わたし」がいて、他方に握られる「わたし」がいる。
 この変は変で、これがこのまま「動詞」の運動として動いていけばとてもおもしろいと思う。けれど、こういう「動詞」の動かし方は、きっと人間の「肉体」にあっていないのだと思う。このあと、紺野のことばは「動詞」をつかってではなく、「名詞」を頼りに動いてしまう。「わたし」が登場しなくなる。
 いや「わたし」はすでに最初の文章で「分裂」したから、あとはその「分裂」に合致する形で世界の「もの(名前/名詞)」が分裂していくのだ、と言えるかもしれないけれど、「分裂したわたし」をひきずりながら「名詞」と「動詞」が動かないと、「頭」で書いた詩になってしまう。
 「空き領域が減るのを防ぐため鱗引きで自分を削ごうとするけれど」「汐にまみれてゆく身体」と「自分」「身体」ということばも出てくるけれど、「自分」や「身体」を出すのなら、最後まで「わたし」を出してほしかったなあ。そうすると、奇妙さがもっと「肉体」に迫ってくる。散らばる「名詞」ではなく、ずるずるとつながってしまう「動詞」の不思議な本質が見えてくるだろうになあ、と思ってしまった。



 高谷和幸「ふとんの前と後ろ」(初出『シアンの沼地』2014年07月)。「ふとんの前と後ろ」って、なんだろう。ふとんに前、後ろがある? 敷布団の方? 掛け布団の方? ふつうは「裏/表」だろうなあ。でも「前と後ろ」。だから裏、表とは違うもの。私は、寝るときの「頭」の方、「足」の方、くらいに考えた。その場合、頭が「前」、足が「後ろ」になってしまうのは、これは私が頭を先に考えるからだねえ。ことばのあらゆるところに「肉体」というものは入り込むもんだなあ--というのは、私だけの感覚かもしれないけれど……。
 まあ、そんなことは、どうでもいい。私の「偏見」にすぎないから。高谷がそう書いてるわけではないのだから。高谷が書いているのは……。

ふとんの前と後ろに雨が降っている。

 この書き出しは魅力的だなあ。「雨が降っている」ということばとふとんが結びつくとは思わなかった。しかも、そのふとんには「前」と「後ろ」がある。

ふとんの前と後ろに雨が降っている。水滴の入射
角と屈折角が描いた反対の虹を、みんながわたっ
ているところです。湿地帯の森林でキノコが空気
の光る粒子を放散するような寝息。

 「前」と「後ろ」は次の文章で「入射角」「反射角」ということばのなかで「対」になる。こういう呼応があると、この詩は「ほんとう」へ向かって動いているという感じがする。書いてあることはわからないのだが、ことばの動きに「ほんとう(正直)」があるという感じがする。ひとは大事なことは何度でも言いなおす。その言い直しがことばを少しずつ進めていく力だ。(紺野の場合、「握られる」までは「対」の動きがみえたけれど、後は私にはわからなかった。)
 「反対の虹」とは何か。これもよくわからないけれど、ふとんに「前」と「後ろ」があるのだから、虹にも正しい(?)虹の一方に「反対の虹」があってもいい。「前」の反対が「後ろ」、「入射角」の反対が「屈折角」と言えるのかどうかわからないけれど、きっとそうなんだと思わせることばのスピードがいい。
 つづいて「雨」と「湿地帯」が呼応する。「湿地」と「キノコ」が呼応する。どんどんことばが暴走するなあと思ったら、思い出したように「ふとん」と「寝息」も呼応する。あ、おもしろいなあ、と思う。
 でも、私は目が悪くて、最後までその、ことばの「呼応」を追いきれない。詩は一気に読んで、その全体を「視野」のなかに入れて、そこで動いているものを鳥瞰図のように捉えながら、一方で地べたを這いずるようにたどらなければ立体的にならない。その作業が私にはむずかしい。
 散文詩。ことばが隙間なくつまっていると、それが特につらいなあ、と感じる。
 いま書いている「日記」は、いわば私の「体力テスト」みたいなものなので、どうしてもこんな感じの感想になってしまう。



 高塚謙太郎「ハポン絹莢」(初出『ハポン絹莢』2014年07月)。
 どんな作品でもそうだが、書き出しがおもしろいと読む気になる。書き出しがつまらないと、どうしても投げ出してしまう。この作品も書き出しがとてもおもしろい。書き出しばかりの引用、書き出しについての感想が多くなってしまうが、これは私にとっては一種の「必然」かもしれない。

おざなりはゆめのまたゆめ
ひざまくらには耳たぶのしめり
いいとおもう
ひだひだのメレンゲに浮いた花のその
すえひろがりのゆめに白々とみえてきた

 ことばの「音」が「音楽」になっている。「おざなり」「ひざまくら」のような呼応が複数の行にまたがって動いている。洒落ている。那珂太郎は一行のなかの音の響きにこだわったが、そうか、こんなふうに複数の行にまたがって「音楽」を動かすのもいいもんだねえ。
 膝枕の夢、膝枕をしたときの耳と膝とのとらえ方もいいなあ。「耳たぶ」か。「耳」の螺旋形の渦が「ひだひだ」と言いなおされ、それが「花(花びら)」と言いなおされるのもいいなあ。福耳のように「すえひろがり」の夢だ。

紙魚ついてしまった襟髪に
いっぽんゆびがためらいがちに
ためつすがめつ降りしきり
ゆるりゆるりとひらいていくくりてぃいく

 ここだけにかぎらないが、ことばがみんな「声」の「音楽」になっている。「声」の「音楽」だから、どうしてもそこに「俗な響き」が入ってくるのだけれど、そのリズムが、私はけっこう好きである。「頭」でこしらえたわざとらしい「音楽」じゃないところがいいと思う。
 引用の最後、「クリティーク」とカタカナにしてしまってはリズムが違ってくるが、このひらがなの版卓は本能かな? 技巧かな? 本能と思いたい。
かわいくて
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