川上明日夫「草柩」、季村敏夫「小さくなって」、國峰照子「影ふみ」(「現代詩手帖」2014年12月号)
川上明日夫「草柩」(初出『草霊譚』2014年08月)。
書き出しの数行だが、ときどき、対になったような2行が繰り返される。繰り返すことでことばを「歌」にしている。その「歌」を気持ちよいと思うかどうか。私は気持ち悪く感じる。ことばに酔っている感じがするので気持ちが悪い。それぞれの行に「思い入れがある」ことはわかるが、わかるのは「思い入れがある」ということであって、肝心の「思い入れ」の手触りがない。
「内容(意味)」というのは方便だから「思い入れ」なんてわからなくてもいいのだが、思い入れが「ある」の「ある」だけ見せつけられているようで落ち着かなくなる。
「そんな」「階が」「ゆっくりと」という短い行の音もなじめない。
私は「散文的」な読者なのかもしれない。ことばが前へ前へと進んでゆかないと、どうも気持ちが悪くなる。
「離」に「か」とルビを打つだけではなく、「離」の一文字をカギ括弧でくくって強調している。「文字」をわざわざ強調し、独立させ、そこに日常とは違う「意味」を押しつけて「詩」であること主張している。
これは気持ち悪くてしようがない。詩を探して読むのは読者のよろこび。詩を押しつけられるのは苦痛である。詩は作者のものではない、と反論したくなる。
川上のことばと私は、「相性が悪い」のだろう。
*
季村敏夫「小さくなって」(初出『膝で歩く』2014年08月)。
「小さくなって」が収録されている季村の今回の詩集の作品には、末尾に「引用」がある。「引用」というより解説と言えばいいのかもしれない。だれそれのことばと向き合い、こんなふうに季村のことばは動いた--そういう「対話」の結晶が詩になっている。対話したあと、それを季村の「独白」に結晶させていると言った方がいいのかもしれない。
私は、こういう作品が苦手である。季村が対話した相手のことを、私はよく知らないからだ。知らなければ調べればいい、とひとは言うが、私は、そうやって調べたことがほんとうに「知る」ことなのかどうか、わからない。「知」に対して、私は懐疑的である。他人がまとめた「知」を動かすとき、そこで動くのは私のことばではなく、「他人のことば」にすぎないと私は考えている。(これは季村のことを言っているではなく、私のこと。私はこの詩に登場する「渡辺京二」を知らない。季村は調べて知っているのではなく、いままで生きてきたなかで出会っている。だから、渡辺を書いている。)
「知らないまま」、では、どうやって作品を読むか。私は、こんな具合……。
この「*」が末尾の注釈につながっている。末尾では、こう書かれている。
「ボスニア海峡」云々は渡辺のことばの言い直しなのだろう。渡辺はボスニアの難民のいる病院で背中をさする人、さすられる人を見て「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」と感じたのだろう。そう書いたのだろう。
そのことばを(かつて読んだことばを)、季村は「繰り返している」(反芻している)。そして、その「繰り返し」には渡辺の「肉体」も参加している。
渡辺は、かつてどこかで背中をさすり、背中をさすられる人を見た。ボスニアではじめてみたのではなく、それ以前に見た。それをおぼえている。そして、それをおぼえているからこそ「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」とことばが動いたのだ。
あるできごとが、そうやって繰り返され、ことばになって「事実」になる。「真実」になる。--これは季村が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたことにつながる。できごとは、すぐにはことばにならない。時間を置いて、肉体がおぼえていることが繰り返されて、できごととして見えてくる。ことばといっしょに動いて、それがまぎれもない「事実」になる。
渡辺がボスニアで見たもの、そしてことばにしたことが、季村の「肉体」のなかから阪神大震災のときの被災者の姿、さらに東日本大震災のときの被災者の姿を思い出させる。おぼえていることを、「いま/ここ」にひっぱり出す。
季村もまた「背中をさする/さすられる」を実際に見たことがあるのだ。したことがあるのかもしれない。
「背中をさするえさすられる」は「事実」として「繰り返される」。
季村にとっては「繰り返す」ために、ことばはある。繰り返すことで、思い出しつづける。そのために、書く。
それは大震災のことだけではない。
それが何であれ、「むかし読んだ一節」、そこにあった「ことば」を繰り返し、動かして、そこから動いていくしかない。他者の記憶の継承、他者を生きる、それが自分を生きることにつながると季村は「肉体」で「おぼえている」。
これは一種の「さとり」のようなものである。
「さとり」というのは、何かに向き合ったとき、「自我」がぱっと消え、そこに起きていることが「こと」として突然、世界そのものとして見えてくる瞬間のことだ。「他人」があらわれて、その「他人」と「自我」が一体になって、その両方が消えてしまう。「こと」と「こと」を出現させる「動きの基本(動詞の基本)」のようなものが動く瞬間のことだ。
この詩では「背中をさする/さすられる」という人間の「動詞」がその「さとり」の中心にあると思う。
*
國峰照子「影ふみ」(初出「gui 」102 、2014年08月)。
恋人たちの横を猫がとおりすぎる。「さかりを過ぎた」猫と感じるのは、恋人たちが「さかりが過ぎた」からだろうか。「さかりの最中」だからだろうか。
答えるはむずかしい。なぜなら、その「答え」は読者が肉体でおぼえていることを語ることになるからだ。肉体のなかに「さかり」が暴れまわっていたころ、世界はどんなふうに見えたか--それを語ることになってしまうからだ。
答えが國峰の「意図」と重なるかどうかは、問題ではない。詩はいつだって書かれてしまった瞬間から(読まれてしまった瞬間から)、作者のものではなく、読者のものである。読者の「肉体」とことばの関係になってしまう。
「ちょっと離れていいかしら」「ああちょっとだけなら」。こういう会話が成り立つのはどういうとき? 「さかり」がついている? 「さかり」が過ぎ去ったあと? 「離れる」は場所? それとも時間?
「をんなの影」と書いているが、「影」だけが「離れる」のだろうか。そうすると「影」は何かの象徴? 何かの「意味」?
答えるのがどんどんむずかしくなる。
でも、答えなくてもいい。答えなんか「知らない」と言えばいい。
最終連で、影はもどってきて、じゃれている。「ララフんじゃった」が明るいが、その明るい終わり方が全体を明るくしている。
「意味」なんか考えず、「ララフんじゃった」を繰り返せば、そのうちに「肉体」のなかに「答え」が自然にあらわれる。
國峰については、マッチョ主義の文章を書く人という印象が根強く残っているので、私には今回の詩は以外だった。
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川上明日夫「草柩」(初出『草霊譚』2014年08月)。
ここではチョット深さが足りなかった
ここではチョット高さが足りなかった
そんな
足りない高さと深さのあわいを
階が
ゆっくりと
雲の話をして流れている
空の話をして流れている
書き出しの数行だが、ときどき、対になったような2行が繰り返される。繰り返すことでことばを「歌」にしている。その「歌」を気持ちよいと思うかどうか。私は気持ち悪く感じる。ことばに酔っている感じがするので気持ちが悪い。それぞれの行に「思い入れがある」ことはわかるが、わかるのは「思い入れがある」ということであって、肝心の「思い入れ」の手触りがない。
「内容(意味)」というのは方便だから「思い入れ」なんてわからなくてもいいのだが、思い入れが「ある」の「ある」だけ見せつけられているようで落ち着かなくなる。
「そんな」「階が」「ゆっくりと」という短い行の音もなじめない。
私は「散文的」な読者なのかもしれない。ことばが前へ前へと進んでゆかないと、どうも気持ちが悪くなる。
誰かがそっと
さきの世の 傘を さしてくれたから
ただ ただ
この世の「離(か)」るをひとり聴いている
「離」に「か」とルビを打つだけではなく、「離」の一文字をカギ括弧でくくって強調している。「文字」をわざわざ強調し、独立させ、そこに日常とは違う「意味」を押しつけて「詩」であること主張している。
これは気持ち悪くてしようがない。詩を探して読むのは読者のよろこび。詩を押しつけられるのは苦痛である。詩は作者のものではない、と反論したくなる。
川上のことばと私は、「相性が悪い」のだろう。
*
季村敏夫「小さくなって」(初出『膝で歩く』2014年08月)。
「小さくなって」が収録されている季村の今回の詩集の作品には、末尾に「引用」がある。「引用」というより解説と言えばいいのかもしれない。だれそれのことばと向き合い、こんなふうに季村のことばは動いた--そういう「対話」の結晶が詩になっている。対話したあと、それを季村の「独白」に結晶させていると言った方がいいのかもしれない。
私は、こういう作品が苦手である。季村が対話した相手のことを、私はよく知らないからだ。知らなければ調べればいい、とひとは言うが、私は、そうやって調べたことがほんとうに「知る」ことなのかどうか、わからない。「知」に対して、私は懐疑的である。他人がまとめた「知」を動かすとき、そこで動くのは私のことばではなく、「他人のことば」にすぎないと私は考えている。(これは季村のことを言っているではなく、私のこと。私はこの詩に登場する「渡辺京二」を知らない。季村は調べて知っているのではなく、いままで生きてきたなかで出会っている。だから、渡辺を書いている。)
「知らないまま」、では、どうやって作品を読むか。私は、こんな具合……。
部屋のなかのひとは
かたわらの背中をさすりつづける
さわられるひとは横たわり
微塵も動かない
これはボスポラス海峡からのたより
難民が収容される病院では
むかし読んだ一節が今もくり返されていたと*
この「*」が末尾の注釈につながっている。末尾では、こう書かれている。
小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている、渡辺京二氏はこう刻み込んでいる。
「ボスニア海峡」云々は渡辺のことばの言い直しなのだろう。渡辺はボスニアの難民のいる病院で背中をさする人、さすられる人を見て「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」と感じたのだろう。そう書いたのだろう。
そのことばを(かつて読んだことばを)、季村は「繰り返している」(反芻している)。そして、その「繰り返し」には渡辺の「肉体」も参加している。
渡辺は、かつてどこかで背中をさすり、背中をさすられる人を見た。ボスニアではじめてみたのではなく、それ以前に見た。それをおぼえている。そして、それをおぼえているからこそ「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」とことばが動いたのだ。
あるできごとが、そうやって繰り返され、ことばになって「事実」になる。「真実」になる。--これは季村が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたことにつながる。できごとは、すぐにはことばにならない。時間を置いて、肉体がおぼえていることが繰り返されて、できごととして見えてくる。ことばといっしょに動いて、それがまぎれもない「事実」になる。
渡辺がボスニアで見たもの、そしてことばにしたことが、季村の「肉体」のなかから阪神大震災のときの被災者の姿、さらに東日本大震災のときの被災者の姿を思い出させる。おぼえていることを、「いま/ここ」にひっぱり出す。
季村もまた「背中をさする/さすられる」を実際に見たことがあるのだ。したことがあるのかもしれない。
「背中をさするえさすられる」は「事実」として「繰り返される」。
季村にとっては「繰り返す」ために、ことばはある。繰り返すことで、思い出しつづける。そのために、書く。
それは大震災のことだけではない。
それが何であれ、「むかし読んだ一節」、そこにあった「ことば」を繰り返し、動かして、そこから動いていくしかない。他者の記憶の継承、他者を生きる、それが自分を生きることにつながると季村は「肉体」で「おぼえている」。
これは一種の「さとり」のようなものである。
「さとり」というのは、何かに向き合ったとき、「自我」がぱっと消え、そこに起きていることが「こと」として突然、世界そのものとして見えてくる瞬間のことだ。「他人」があらわれて、その「他人」と「自我」が一体になって、その両方が消えてしまう。「こと」と「こと」を出現させる「動きの基本(動詞の基本)」のようなものが動く瞬間のことだ。
この詩では「背中をさする/さすられる」という人間の「動詞」がその「さとり」の中心にあると思う。
*
國峰照子「影ふみ」(初出「gui 」102 、2014年08月)。
さかりを過ぎた猫が
軒下の
恋人たちのわきを
そっぽを向いて
フん
ちょっと離れていいかしら
をんなの影がいう
ああちょっとだけなら
影は軽く猫のあとを追う
菜種梅雨に
濡れた影がかえってくる
猫の影もつれ
花びらもつれ
ララフんじゃった
恋人たちの横を猫がとおりすぎる。「さかりを過ぎた」猫と感じるのは、恋人たちが「さかりが過ぎた」からだろうか。「さかりの最中」だからだろうか。
答えるはむずかしい。なぜなら、その「答え」は読者が肉体でおぼえていることを語ることになるからだ。肉体のなかに「さかり」が暴れまわっていたころ、世界はどんなふうに見えたか--それを語ることになってしまうからだ。
答えが國峰の「意図」と重なるかどうかは、問題ではない。詩はいつだって書かれてしまった瞬間から(読まれてしまった瞬間から)、作者のものではなく、読者のものである。読者の「肉体」とことばの関係になってしまう。
「ちょっと離れていいかしら」「ああちょっとだけなら」。こういう会話が成り立つのはどういうとき? 「さかり」がついている? 「さかり」が過ぎ去ったあと? 「離れる」は場所? それとも時間?
「をんなの影」と書いているが、「影」だけが「離れる」のだろうか。そうすると「影」は何かの象徴? 何かの「意味」?
答えるのがどんどんむずかしくなる。
でも、答えなくてもいい。答えなんか「知らない」と言えばいい。
最終連で、影はもどってきて、じゃれている。「ララフんじゃった」が明るいが、その明るい終わり方が全体を明るくしている。
「意味」なんか考えず、「ララフんじゃった」を繰り返せば、そのうちに「肉体」のなかに「答え」が自然にあらわれる。
國峰については、マッチョ主義の文章を書く人という印象が根強く残っているので、私には今回の詩は以外だった。
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