秋亜綺羅「来やしない友だちを待ちながら」、井川博年「買い物」、金澤一志「けむりのトポロジー」(「現代詩手帖」2014年12月号)
秋亜綺羅「来やしない遊び友だちを待ちながら」(初出『ひよこの空想力飛行ゲーム』2014年08月)には「または伊東俊への弔詩」という副題がついている。
この詩を読む限り、秋亜綺羅と伊東俊はとても似ている。『ゴドーを待ちながら』の二人の登場人物のように。実際に似ているかどうかは知らないが、秋亜綺羅は「同類」の人間と見ていたのではないだろうか。ロープ(運命の糸)でつながれていた、と感じていたのではないだろうか。
ふたりとも「ことば」で状況を異化して見せる。ほんとうは、そういうことばを言うべき状況ではないかもしれない。けれど、ことばには、そういうことを言うことができる。想像力は自由だ、ということだ。
そして、その想像力というのは、
「穴があったら入りたい」ではなく「出てみたい」。ふつうのひとの「概念」を否定する。流通している概念を壊すことに向けて、想像力が動いている。
想像力は自由だというだけではなく、積極的に想像力を解放しようとしている。
それはよくわかるのだが、こういうときの想像力の運動というのは、意外と「論理的」ではないだろうか。
終わりの方に、
という1行がある。象徴的だと思う。「逆説」というのは「論理」の形態である。正しい論理(?)を前提としている。前提がないと「逆説」はない。問題は、そのあとの「固められた」である。「固められた」と書く以上、秋亜綺羅は自覚しているのだろうけれど、私はときどき秋亜綺羅の想像力は「逆説」だけでできているように思える。それがほんとうに「解放」なのかどうか、わからない。「固められた」状態では解放といえないだろうと思う。
「逆説」で「論理」を相対化するのではなく、そこにある「論理(前提の論理)」を増殖・拡大することで、その論理のもっているものの「暗部」を露骨にするという形の想像力も必要だと思う。他人の土俵に乗って、その土俵の限界を暴き出すということも必要な時代だと思う。たとえばアベノミクスの就業率が増えている(雇用者が増えている)ことの背景に、その雇用者の賃金がどう変わったか、利潤の行き先はどこかを事実と論理を組み合わせながら解析するというような姿勢が必要な時代だと思う。
これでは平穏すぎるように思う。「弔詩(弔辞)」にこんな不満を書くのは非礼なことかもしれないけれど……。
*
井川博年「買い物」(初出「歴程」590 、2014年08月)。「つまらないから家を出た。」とはじまり、途中で寺の前で「墓地分譲中」であることを知る。
その日の行動を時系列にしたがって、だらだら書いただけ。これが詩? ふつうのひとなら、きっととまどうなあ。どこが詩?
あえて言えば、「買い物」が「爪切り」というささいなもの、わざわざ詩に書くようなものでもないことを書いている。その、人をくったようなところが詩。詩って「実用」じゃないからね。
私は少しだけ違うことをつけくわえたい。違うというより、もしかすると同じことかもしれないが。
分譲中の墓地を「買う」。爪切りを「購入する」。ふたつの動詞が出てくる。「意味」は同じである。金を出して、それと引き換えにほしいものを自分のものにする。そのときの「金を出す」という行為。
問題は、「爪切りを購入する」という言い方。こういう言い方をする? 金額の高い墓地なら「購入する」というような格式張った(?)熟語をつかうかもしれないが、爪切りなんて、「購入する」なんて、私は言わないなあ。「何でも屋」にある爪切りは、百円ショップの爪切りと、どれくらい違うんだろう。千円出して爪切りを買う時代じゃないねえ。
この詩は、そういうところに「購入した」というようなことばをつかって、それから「これがほしかった買い物だった。」とすとんとオチをつける。このタイミング、読者の意識を少しだけかすめて動く「違和」のようなものをていねいに描いている。何気ないようであって、ことばが「ていねい」なのだ。この「ていねい」は「意地悪」でもある、と私は思うけれど、井川は、「いや、正直なのだ」と言うかもしれない。
でも、私は「夢中」をふくまない動詞は「正直」とは呼びたくない。なんとなく身を引いて、身構えてしまう。
*
金澤一志「けむりのトポロジー」(初出『ウプラサ、ピポー叢書の夢』2014年08月)。目で見る詩。「あめつちほしそらやまかは」(天/土/星/空/山/川)ということばが縦ではなく横一列に、扁額のように並んでいる。その途中、「ら」のところは「からつ」と言う具合に縦の行が交錯する。「かは」の2行は、
という具合。たいていが「固有名詞」が縦に交錯する。
「すとうつがると」という魅力的な表記もあるが、ふーん、それでどうしたの、と私はも思ってしまう。
私は、ことばは「音」であると思っているので、こういう「視覚」に頼っている詩は好きになれない。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
秋亜綺羅「来やしない遊び友だちを待ちながら」(初出『ひよこの空想力飛行ゲーム』2014年08月)には「または伊東俊への弔詩」という副題がついている。
この詩を読む限り、秋亜綺羅と伊東俊はとても似ている。『ゴドーを待ちながら』の二人の登場人物のように。実際に似ているかどうかは知らないが、秋亜綺羅は「同類」の人間と見ていたのではないだろうか。ロープ(運命の糸)でつながれていた、と感じていたのではないだろうか。
津波が近づいていたときふたりで
サーフボードを売っている店を探したよな
とぼくはもういわない
避難所ではさトイレの前がオレの寝床なんですよ
酒臭いやつはトイレの匂い消しに役だつんだよ
ときみはもういわない
ふたりとも「ことば」で状況を異化して見せる。ほんとうは、そういうことばを言うべき状況ではないかもしれない。けれど、ことばには、そういうことを言うことができる。想像力は自由だ、ということだ。
そして、その想像力というのは、
高校時代いっしょに同人誌を出さなかったら
ふたりは物書きになっていなかったね
総合文芸誌「穴があったら出てみたい」
出版社名が竪穴住居出版だったね
「穴があったら入りたい」ではなく「出てみたい」。ふつうのひとの「概念」を否定する。流通している概念を壊すことに向けて、想像力が動いている。
想像力は自由だというだけではなく、積極的に想像力を解放しようとしている。
それはよくわかるのだが、こういうときの想像力の運動というのは、意外と「論理的」ではないだろうか。
終わりの方に、
逆説で固められた迷路にわたしたちはいる
という1行がある。象徴的だと思う。「逆説」というのは「論理」の形態である。正しい論理(?)を前提としている。前提がないと「逆説」はない。問題は、そのあとの「固められた」である。「固められた」と書く以上、秋亜綺羅は自覚しているのだろうけれど、私はときどき秋亜綺羅の想像力は「逆説」だけでできているように思える。それがほんとうに「解放」なのかどうか、わからない。「固められた」状態では解放といえないだろうと思う。
「逆説」で「論理」を相対化するのではなく、そこにある「論理(前提の論理)」を増殖・拡大することで、その論理のもっているものの「暗部」を露骨にするという形の想像力も必要だと思う。他人の土俵に乗って、その土俵の限界を暴き出すということも必要な時代だと思う。たとえばアベノミクスの就業率が増えている(雇用者が増えている)ことの背景に、その雇用者の賃金がどう変わったか、利潤の行き先はどこかを事実と論理を組み合わせながら解析するというような姿勢が必要な時代だと思う。
「穴があったら出てみたい」
きみの人生と戯曲ではどちらが劇的でしたか
これでは平穏すぎるように思う。「弔詩(弔辞)」にこんな不満を書くのは非礼なことかもしれないけれど……。
*
井川博年「買い物」(初出「歴程」590 、2014年08月)。「つまらないから家を出た。」とはじまり、途中で寺の前で「墓地分譲中」であることを知る。
同じ宗派ではあるし
考えてみないでもない
といってみたところで
買えるものではなし
男からチラシだけ受け取り
食べ物屋の行列を見て
眼についた何でも屋で
爪切りを見つけたので購入した
これが欲しかった買い物だった。
その日の行動を時系列にしたがって、だらだら書いただけ。これが詩? ふつうのひとなら、きっととまどうなあ。どこが詩?
あえて言えば、「買い物」が「爪切り」というささいなもの、わざわざ詩に書くようなものでもないことを書いている。その、人をくったようなところが詩。詩って「実用」じゃないからね。
私は少しだけ違うことをつけくわえたい。違うというより、もしかすると同じことかもしれないが。
分譲中の墓地を「買う」。爪切りを「購入する」。ふたつの動詞が出てくる。「意味」は同じである。金を出して、それと引き換えにほしいものを自分のものにする。そのときの「金を出す」という行為。
問題は、「爪切りを購入する」という言い方。こういう言い方をする? 金額の高い墓地なら「購入する」というような格式張った(?)熟語をつかうかもしれないが、爪切りなんて、「購入する」なんて、私は言わないなあ。「何でも屋」にある爪切りは、百円ショップの爪切りと、どれくらい違うんだろう。千円出して爪切りを買う時代じゃないねえ。
この詩は、そういうところに「購入した」というようなことばをつかって、それから「これがほしかった買い物だった。」とすとんとオチをつける。このタイミング、読者の意識を少しだけかすめて動く「違和」のようなものをていねいに描いている。何気ないようであって、ことばが「ていねい」なのだ。この「ていねい」は「意地悪」でもある、と私は思うけれど、井川は、「いや、正直なのだ」と言うかもしれない。
でも、私は「夢中」をふくまない動詞は「正直」とは呼びたくない。なんとなく身を引いて、身構えてしまう。
*
金澤一志「けむりのトポロジー」(初出『ウプラサ、ピポー叢書の夢』2014年08月)。目で見る詩。「あめつちほしそらやまかは」(天/土/星/空/山/川)ということばが縦ではなく横一列に、扁額のように並んでいる。その途中、「ら」のところは「からつ」と言う具合に縦の行が交錯する。「かは」の2行は、
たかはし
しょうはちろう
という具合。たいていが「固有名詞」が縦に交錯する。
「すとうつがると」という魅力的な表記もあるが、ふーん、それでどうしたの、と私はも思ってしまう。
私は、ことばは「音」であると思っているので、こういう「視覚」に頼っている詩は好きになれない。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。