有働薫『モーツァルトになっちゃった』(思潮社、2014年10月25日)
「モーツァルトになっちゃった!」はいくつかの断章で構成されている。そのひとつ「池袋の通りを歩いていると」はヤマハ楽器店で「クラリネット五重奏曲」の楽譜を買ったときのことを書いている。
ここには不思議なエクスタシーがある。モーツァルトに「なる」。楽譜を書くには、たしかにモーツァルトにならなければ書けないかもしれない。けれど、モーツァルトの曲を聴くにはモーツァルトにならなくても聴ける。ベートーベンだって、モーツァルトを聴いている。聴いても、ベートーベンはベートーベンのまま、
というのは、しかし、ちょっと違うぞ。
むしろモーツァルトにならないとモーツァルトの曲は聴けない、聴こえないということかもしれない。
どこか自分とは離れた場所で鳴っている音楽を聴くのではなく、自分のなかから聴こえてくる音楽を聴く。自分のなかにある音楽がモーツァルトの曲になって駆け出して行く。人の音楽を聴くのではない。
だからこそ、その前に「自分自身でいま曲を書いている錯覚におち」ということばがある。人は自分の「書いた」曲しか聴けない。自分の「知っていること(肉体でおぼえていること)」しか繰り返せない。
だから、「他人(モーツァルト)」に「なる」ことは、自分の枠から出て行く(エクスタシー)であると同時に、自分の「肉体の奥」に引き返すことでもある。自分に「戻る」ことでもある。
「他人」に「なる」のか、「(ほんとうの)自分」に「なる」のか。「自分」から「出て行く」のか、「自分」に「戻る(引き返す)」のか。--これは「論理」にこだわると、「矛盾」になってしまう。だから、こだわってはいけないのだ。「論理」を超えてというよりも、「論理」を破って(破壊して)、そのことばが動く瞬間にだけ感じられる「真理(真実/永遠)」というものがある。それは「論理」にこだわると消えてしまう。
この不思議な「なる」を有働は別のことばで言いかえている。人は大事なことを何度も言いなおすものである。
「音階にアルページョを」という断章。
「なる」は「変化」をあらわす動詞。この詩では、たとえば「わたし(有働)」は「モーツアルト」に「変化する」と言いかえることができるのだが、「なる」を「変化」ととらえるのは「一面的」である。「変化」ではない。
「なる」は「実在」(ある)なのだ。
それは自分(わたし)を捨ててモーツァルトに「変化する」ではなくて、自分の「肉体」のなかに「ある」モーツァルトを、奥からひっぱり出してきて、「見える」ようにするということだ。それはモーツァルトがモーツァルトの「肉体」の内部に「ある」(内部にあるから、モーツァルトにしか聴こえない)音楽をひっぱり出してきて、楽譜に書き、見えるようにする、演奏して聞こえるようにする。
それまで隠れていたもの、「ある」のだけれど外からは見えない、聴こえない何かを見えるように、聞こえるようにすることが「なる」。自分の「肉体」のなかに「ない」ものは「なる」にはなれない。「なる」とは自分の発見なのだ。
有働は詩人であり、翻訳家でもある。翻訳を含んだ詩「サヴィニオ--まぼろしのオペラ」の、次の部分。
原文(グルック「デモフォンテ」と有働は注釈をつけている)と翻訳を対比させているが、このとき有働はイタリア語(だと思う)を日本語に置き換えているのではない。グルックになっている。それは有働の「肉体」のなかに「ある」岸辺や風をひっぱり出し、願う、おさまる、信じるという動詞をひっぱり出すことでもある。(岸辺に近いと願って 風がおさまると信じて……)ということを有働が「肉体」で「おぼえて」いないかぎり、それはことばにならない。
何かを願ったこと、何かを信じたこと、--そのときの「肉体」に戻って、ことばを動かす。そのとき有働はグルックになるというよりも、有働の「肉体」のなかに「ある」グルックを自分自身として「生きる」のである。
「なる」「ある」は「生きる」という動詞のなかで切り離せない「ひとつ」なのだ。この詩集には、そうやって「生きる」人間がたくさん登場する。たくさんであるけれど、その複数の人は、みな「生きる」という「ひとつの動詞」で動いている。「いきる」という「ひとつの動詞」で「有働」として「生まれる」(生まれ変わる)。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「モーツァルトになっちゃった!」はいくつかの断章で構成されている。そのひとつ「池袋の通りを歩いていると」はヤマハ楽器店で「クラリネット五重奏曲」の楽譜を買ったときのことを書いている。
You Tubeにアクセスして曲を聴きながら楽譜を追っかけてみた。これがすご
く楽しい。自分自身でいま曲を書いている錯覚におち、もともと楽譜も読め
ないのに、モーツァルトになっちゃった!
冬のぶり返しで冷え込む夜、本棚に死んだ猫の写真
モーツァルトを聴く人はみんなモーツァルトになって聴く
モーツァルトは聴く人をみんなモーツァルトにしてしまう
ここには不思議なエクスタシーがある。モーツァルトに「なる」。楽譜を書くには、たしかにモーツァルトにならなければ書けないかもしれない。けれど、モーツァルトの曲を聴くにはモーツァルトにならなくても聴ける。ベートーベンだって、モーツァルトを聴いている。聴いても、ベートーベンはベートーベンのまま、
というのは、しかし、ちょっと違うぞ。
むしろモーツァルトにならないとモーツァルトの曲は聴けない、聴こえないということかもしれない。
どこか自分とは離れた場所で鳴っている音楽を聴くのではなく、自分のなかから聴こえてくる音楽を聴く。自分のなかにある音楽がモーツァルトの曲になって駆け出して行く。人の音楽を聴くのではない。
だからこそ、その前に「自分自身でいま曲を書いている錯覚におち」ということばがある。人は自分の「書いた」曲しか聴けない。自分の「知っていること(肉体でおぼえていること)」しか繰り返せない。
だから、「他人(モーツァルト)」に「なる」ことは、自分の枠から出て行く(エクスタシー)であると同時に、自分の「肉体の奥」に引き返すことでもある。自分に「戻る」ことでもある。
「他人」に「なる」のか、「(ほんとうの)自分」に「なる」のか。「自分」から「出て行く」のか、「自分」に「戻る(引き返す)」のか。--これは「論理」にこだわると、「矛盾」になってしまう。だから、こだわってはいけないのだ。「論理」を超えてというよりも、「論理」を破って(破壊して)、そのことばが動く瞬間にだけ感じられる「真理(真実/永遠)」というものがある。それは「論理」にこだわると消えてしまう。
この不思議な「なる」を有働は別のことばで言いかえている。人は大事なことを何度も言いなおすものである。
「音階にアルページョを」という断章。
つけただけじゃないかと、後世の譜読み自慢たちはしたり顔でけなすが、ぼく
は自分に聞こえている音楽の実在証明のために楽譜を用いているにすぎない。
「なる」は「変化」をあらわす動詞。この詩では、たとえば「わたし(有働)」は「モーツアルト」に「変化する」と言いかえることができるのだが、「なる」を「変化」ととらえるのは「一面的」である。「変化」ではない。
「なる」は「実在」(ある)なのだ。
それは自分(わたし)を捨ててモーツァルトに「変化する」ではなくて、自分の「肉体」のなかに「ある」モーツァルトを、奥からひっぱり出してきて、「見える」ようにするということだ。それはモーツァルトがモーツァルトの「肉体」の内部に「ある」(内部にあるから、モーツァルトにしか聴こえない)音楽をひっぱり出してきて、楽譜に書き、見えるようにする、演奏して聞こえるようにする。
それまで隠れていたもの、「ある」のだけれど外からは見えない、聴こえない何かを見えるように、聞こえるようにすることが「なる」。自分の「肉体」のなかに「ない」ものは「なる」にはなれない。「なる」とは自分の発見なのだ。
有働は詩人であり、翻訳家でもある。翻訳を含んだ詩「サヴィニオ--まぼろしのオペラ」の、次の部分。
《Sperai vicino il lido Credei calmato il vento.....》
(岸辺に近いと願って 風がおさまると信じて……)
原文(グルック「デモフォンテ」と有働は注釈をつけている)と翻訳を対比させているが、このとき有働はイタリア語(だと思う)を日本語に置き換えているのではない。グルックになっている。それは有働の「肉体」のなかに「ある」岸辺や風をひっぱり出し、願う、おさまる、信じるという動詞をひっぱり出すことでもある。(岸辺に近いと願って 風がおさまると信じて……)ということを有働が「肉体」で「おぼえて」いないかぎり、それはことばにならない。
何かを願ったこと、何かを信じたこと、--そのときの「肉体」に戻って、ことばを動かす。そのとき有働はグルックになるというよりも、有働の「肉体」のなかに「ある」グルックを自分自身として「生きる」のである。
「なる」「ある」は「生きる」という動詞のなかで切り離せない「ひとつ」なのだ。この詩集には、そうやって「生きる」人間がたくさん登場する。たくさんであるけれど、その複数の人は、みな「生きる」という「ひとつの動詞」で動いている。「いきる」という「ひとつの動詞」で「有働」として「生まれる」(生まれ変わる)。
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。