詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

指と、ことば

2015-01-11 00:44:11 | 
指と、ことば

人指し指、中指、薬指……
女の三本の指は額を横にたどっていたが、
頬骨のふくらんだあたりで薬指は宙に浮き、
残った二本がゆっくり下の方へすべる。
唇のところで薬指がおりてきて、触れる。
人指し指と中指は口の横にとどまり、
支点のように薬指を動かしている。
薬指は上唇の上を往復したあと
ぬれた下唇をたどり、
「私の指をことばにして」と突然要求する。
その目が何を思い出したのか遠いところから輝く。

階段に猫。うずくまっている。濡れたままの靴下。エレベーターの開く音
--次々に思い出すが、いつのことか覚えていない。
外は雨。枯れた枝を雫が動くときに光るに違いない、
女の指のように……と
ことばは言いたことを絵にして目を閉じた。


*

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川上明日夫「草柩」、季村敏夫「小さくなって」、國峰照子「影ふみ」

2015-01-10 08:59:36 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
川上明日夫「草柩」、季村敏夫「小さくなって」、國峰照子「影ふみ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 川上明日夫「草柩」(初出『草霊譚』2014年08月)。

ここではチョット深さが足りなかった
ここではチョット高さが足りなかった
そんな
足りない高さと深さのあわいを
階が
ゆっくりと
雲の話をして流れている
空の話をして流れている

 書き出しの数行だが、ときどき、対になったような2行が繰り返される。繰り返すことでことばを「歌」にしている。その「歌」を気持ちよいと思うかどうか。私は気持ち悪く感じる。ことばに酔っている感じがするので気持ちが悪い。それぞれの行に「思い入れがある」ことはわかるが、わかるのは「思い入れがある」ということであって、肝心の「思い入れ」の手触りがない。
 「内容(意味)」というのは方便だから「思い入れ」なんてわからなくてもいいのだが、思い入れが「ある」の「ある」だけ見せつけられているようで落ち着かなくなる。
 「そんな」「階が」「ゆっくりと」という短い行の音もなじめない。
 私は「散文的」な読者なのかもしれない。ことばが前へ前へと進んでゆかないと、どうも気持ちが悪くなる。

誰かがそっと
さきの世の 傘を さしてくれたから
ただ ただ
この世の「離(か)」るをひとり聴いている

 「離」に「か」とルビを打つだけではなく、「離」の一文字をカギ括弧でくくって強調している。「文字」をわざわざ強調し、独立させ、そこに日常とは違う「意味」を押しつけて「詩」であること主張している。
 これは気持ち悪くてしようがない。詩を探して読むのは読者のよろこび。詩を押しつけられるのは苦痛である。詩は作者のものではない、と反論したくなる。
 川上のことばと私は、「相性が悪い」のだろう。



 季村敏夫「小さくなって」(初出『膝で歩く』2014年08月)。
 「小さくなって」が収録されている季村の今回の詩集の作品には、末尾に「引用」がある。「引用」というより解説と言えばいいのかもしれない。だれそれのことばと向き合い、こんなふうに季村のことばは動いた--そういう「対話」の結晶が詩になっている。対話したあと、それを季村の「独白」に結晶させていると言った方がいいのかもしれない。
 私は、こういう作品が苦手である。季村が対話した相手のことを、私はよく知らないからだ。知らなければ調べればいい、とひとは言うが、私は、そうやって調べたことがほんとうに「知る」ことなのかどうか、わからない。「知」に対して、私は懐疑的である。他人がまとめた「知」を動かすとき、そこで動くのは私のことばではなく、「他人のことば」にすぎないと私は考えている。(これは季村のことを言っているではなく、私のこと。私はこの詩に登場する「渡辺京二」を知らない。季村は調べて知っているのではなく、いままで生きてきたなかで出会っている。だから、渡辺を書いている。)

 「知らないまま」、では、どうやって作品を読むか。私は、こんな具合……。

部屋のなかのひとは
かたわらの背中をさすりつづける
さわられるひとは横たわり
微塵も動かない

これはボスポラス海峡からのたより
難民が収容される病院では
むかし読んだ一節が今もくり返されていたと*

 この「*」が末尾の注釈につながっている。末尾では、こう書かれている。

小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている、渡辺京二氏はこう刻み込んでいる。

 「ボスニア海峡」云々は渡辺のことばの言い直しなのだろう。渡辺はボスニアの難民のいる病院で背中をさする人、さすられる人を見て「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」と感じたのだろう。そう書いたのだろう。
 そのことばを(かつて読んだことばを)、季村は「繰り返している」(反芻している)。そして、その「繰り返し」には渡辺の「肉体」も参加している。
 渡辺は、かつてどこかで背中をさすり、背中をさすられる人を見た。ボスニアではじめてみたのではなく、それ以前に見た。それをおぼえている。そして、それをおぼえているからこそ「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」とことばが動いたのだ。
 あるできごとが、そうやって繰り返され、ことばになって「事実」になる。「真実」になる。--これは季村が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたことにつながる。できごとは、すぐにはことばにならない。時間を置いて、肉体がおぼえていることが繰り返されて、できごととして見えてくる。ことばといっしょに動いて、それがまぎれもない「事実」になる。
 渡辺がボスニアで見たもの、そしてことばにしたことが、季村の「肉体」のなかから阪神大震災のときの被災者の姿、さらに東日本大震災のときの被災者の姿を思い出させる。おぼえていることを、「いま/ここ」にひっぱり出す。
 季村もまた「背中をさする/さすられる」を実際に見たことがあるのだ。したことがあるのかもしれない。
 「背中をさするえさすられる」は「事実」として「繰り返される」。
 季村にとっては「繰り返す」ために、ことばはある。繰り返すことで、思い出しつづける。そのために、書く。
 それは大震災のことだけではない。
 それが何であれ、「むかし読んだ一節」、そこにあった「ことば」を繰り返し、動かして、そこから動いていくしかない。他者の記憶の継承、他者を生きる、それが自分を生きることにつながると季村は「肉体」で「おぼえている」。
 これは一種の「さとり」のようなものである。
 「さとり」というのは、何かに向き合ったとき、「自我」がぱっと消え、そこに起きていることが「こと」として突然、世界そのものとして見えてくる瞬間のことだ。「他人」があらわれて、その「他人」と「自我」が一体になって、その両方が消えてしまう。「こと」と「こと」を出現させる「動きの基本(動詞の基本)」のようなものが動く瞬間のことだ。
 この詩では「背中をさする/さすられる」という人間の「動詞」がその「さとり」の中心にあると思う。



 國峰照子「影ふみ」(初出「gui 」102 、2014年08月)。

さかりを過ぎた猫が
軒下の
恋人たちのわきを
そっぽを向いて
フん

ちょっと離れていいかしら
をんなの影がいう
ああちょっとだけなら
影は軽く猫のあとを追う

菜種梅雨に
濡れた影がかえってくる
猫の影もつれ
花びらもつれ
ララフんじゃった

 恋人たちの横を猫がとおりすぎる。「さかりを過ぎた」猫と感じるのは、恋人たちが「さかりが過ぎた」からだろうか。「さかりの最中」だからだろうか。
 答えるはむずかしい。なぜなら、その「答え」は読者が肉体でおぼえていることを語ることになるからだ。肉体のなかに「さかり」が暴れまわっていたころ、世界はどんなふうに見えたか--それを語ることになってしまうからだ。
 答えが國峰の「意図」と重なるかどうかは、問題ではない。詩はいつだって書かれてしまった瞬間から(読まれてしまった瞬間から)、作者のものではなく、読者のものである。読者の「肉体」とことばの関係になってしまう。
 「ちょっと離れていいかしら」「ああちょっとだけなら」。こういう会話が成り立つのはどういうとき? 「さかり」がついている? 「さかり」が過ぎ去ったあと? 「離れる」は場所? それとも時間?
 「をんなの影」と書いているが、「影」だけが「離れる」のだろうか。そうすると「影」は何かの象徴? 何かの「意味」?
 答えるのがどんどんむずかしくなる。
 でも、答えなくてもいい。答えなんか「知らない」と言えばいい。
 最終連で、影はもどってきて、じゃれている。「ララフんじゃった」が明るいが、その明るい終わり方が全体を明るくしている。
 「意味」なんか考えず、「ララフんじゃった」を繰り返せば、そのうちに「肉体」のなかに「答え」が自然にあらわれる。
 國峰については、マッチョ主義の文章を書く人という印象が根強く残っているので、私には今回の詩は以外だった。

膝で歩く
季村 敏夫
書肆山田

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冬の朝、

2015-01-10 00:56:02 | 
冬の朝、

冬の朝、赤いアルファロメオが眠る車庫に
ときどき灰色のメルセデスが寄り添っている

書きかけの詩は二行で中断し動かない
玄関ポーチに無造作に転がされた壺は空っぽ

つづきを書こうと思い犬と一緒に六本松の角を曲がると
どこへ行ったのか車の影はなく壺の形に水が広がる

次の日は空虚が道路との境目の草を倒し
女がのぞいていた三階の窓は閉じたまま空の光を映している

*

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秋亜綺羅「来やしない友だちを待ちながら」、井川博年「買い物」ほか

2015-01-09 10:12:30 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
秋亜綺羅「来やしない友だちを待ちながら」、井川博年「買い物」、金澤一志「けむりのトポロジー」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 秋亜綺羅「来やしない遊び友だちを待ちながら」(初出『ひよこの空想力飛行ゲーム』2014年08月)には「または伊東俊への弔詩」という副題がついている。
 この詩を読む限り、秋亜綺羅と伊東俊はとても似ている。『ゴドーを待ちながら』の二人の登場人物のように。実際に似ているかどうかは知らないが、秋亜綺羅は「同類」の人間と見ていたのではないだろうか。ロープ(運命の糸)でつながれていた、と感じていたのではないだろうか。

津波が近づいていたときふたりで
サーフボードを売っている店を探したよな
とぼくはもういわない

避難所ではさトイレの前がオレの寝床なんですよ
酒臭いやつはトイレの匂い消しに役だつんだよ
ときみはもういわない

 ふたりとも「ことば」で状況を異化して見せる。ほんとうは、そういうことばを言うべき状況ではないかもしれない。けれど、ことばには、そういうことを言うことができる。想像力は自由だ、ということだ。
 そして、その想像力というのは、

高校時代いっしょに同人誌を出さなかったら
ふたりは物書きになっていなかったね
総合文芸誌「穴があったら出てみたい」
出版社名が竪穴住居出版だったね

 「穴があったら入りたい」ではなく「出てみたい」。ふつうのひとの「概念」を否定する。流通している概念を壊すことに向けて、想像力が動いている。
 想像力は自由だというだけではなく、積極的に想像力を解放しようとしている。
 それはよくわかるのだが、こういうときの想像力の運動というのは、意外と「論理的」ではないだろうか。
 終わりの方に、

逆説で固められた迷路にわたしたちはいる

 という1行がある。象徴的だと思う。「逆説」というのは「論理」の形態である。正しい論理(?)を前提としている。前提がないと「逆説」はない。問題は、そのあとの「固められた」である。「固められた」と書く以上、秋亜綺羅は自覚しているのだろうけれど、私はときどき秋亜綺羅の想像力は「逆説」だけでできているように思える。それがほんとうに「解放」なのかどうか、わからない。「固められた」状態では解放といえないだろうと思う。
 「逆説」で「論理」を相対化するのではなく、そこにある「論理(前提の論理)」を増殖・拡大することで、その論理のもっているものの「暗部」を露骨にするという形の想像力も必要だと思う。他人の土俵に乗って、その土俵の限界を暴き出すということも必要な時代だと思う。たとえばアベノミクスの就業率が増えている(雇用者が増えている)ことの背景に、その雇用者の賃金がどう変わったか、利潤の行き先はどこかを事実と論理を組み合わせながら解析するというような姿勢が必要な時代だと思う。

「穴があったら出てみたい」
きみの人生と戯曲ではどちらが劇的でしたか

 これでは平穏すぎるように思う。「弔詩(弔辞)」にこんな不満を書くのは非礼なことかもしれないけれど……。



 井川博年「買い物」(初出「歴程」590 、2014年08月)。「つまらないから家を出た。」とはじまり、途中で寺の前で「墓地分譲中」であることを知る。

同じ宗派ではあるし
考えてみないでもない

といってみたところで
買えるものではなし

男からチラシだけ受け取り
食べ物屋の行列を見て

眼についた何でも屋で
爪切りを見つけたので購入した

これが欲しかった買い物だった。

 その日の行動を時系列にしたがって、だらだら書いただけ。これが詩? ふつうのひとなら、きっととまどうなあ。どこが詩?
 あえて言えば、「買い物」が「爪切り」というささいなもの、わざわざ詩に書くようなものでもないことを書いている。その、人をくったようなところが詩。詩って「実用」じゃないからね。
 私は少しだけ違うことをつけくわえたい。違うというより、もしかすると同じことかもしれないが。
 分譲中の墓地を「買う」。爪切りを「購入する」。ふたつの動詞が出てくる。「意味」は同じである。金を出して、それと引き換えにほしいものを自分のものにする。そのときの「金を出す」という行為。
 問題は、「爪切りを購入する」という言い方。こういう言い方をする? 金額の高い墓地なら「購入する」というような格式張った(?)熟語をつかうかもしれないが、爪切りなんて、「購入する」なんて、私は言わないなあ。「何でも屋」にある爪切りは、百円ショップの爪切りと、どれくらい違うんだろう。千円出して爪切りを買う時代じゃないねえ。
 この詩は、そういうところに「購入した」というようなことばをつかって、それから「これがほしかった買い物だった。」とすとんとオチをつける。このタイミング、読者の意識を少しだけかすめて動く「違和」のようなものをていねいに描いている。何気ないようであって、ことばが「ていねい」なのだ。この「ていねい」は「意地悪」でもある、と私は思うけれど、井川は、「いや、正直なのだ」と言うかもしれない。
 でも、私は「夢中」をふくまない動詞は「正直」とは呼びたくない。なんとなく身を引いて、身構えてしまう。



 金澤一志「けむりのトポロジー」(初出『ウプラサ、ピポー叢書の夢』2014年08月)。目で見る詩。「あめつちほしそらやまかは」(天/土/星/空/山/川)ということばが縦ではなく横一列に、扁額のように並んでいる。その途中、「ら」のところは「からつ」と言う具合に縦の行が交錯する。「かは」の2行は、

  たかはし
しょうはちろう

 という具合。たいていが「固有名詞」が縦に交錯する。
 「すとうつがると」という魅力的な表記もあるが、ふーん、それでどうしたの、と私はも思ってしまう。
 私は、ことばは「音」であると思っているので、こういう「視覚」に頼っている詩は好きになれない。
ひよこの空想力飛行ゲーム
秋亜綺羅
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アパートの二階

2015-01-09 00:54:03 | 
アパートの二階

アパートの二階の窓の高さにカーブした道が走っている。
真夜中、思い出したようにヘッドライトの明かりがカーテンをかすめていく。
そのとき、暗い部屋のなかでは男の顔の輪郭がほのかに浮かんだ。
あごの角張ったかたちと頬の突起が光った。
それは光のあとを追いかけて去っていく車の音に似ている。

自画像をそんなふうに比喩にしたあと、
男は本のなかの二階建てのアパートのつめた部屋へ帰っていく。冬。



*

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吉増剛造「蕪村心読(一)」、和田まさ子「ひとになる」ほか

2015-01-08 09:43:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
吉増剛造「蕪村心読(一)」、和田まさ子「ひとになる」、渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 吉増剛造「蕪村心読(一)」(初出「ふらんす堂通信」141 、2014年07月)。私は吉増の詩は苦手である。一篇の詩なのかで文字の大きさがかわったり、ルビが交錯したりする。どう読んでいいか、わからない。どう「音」にしていいか、わからない。吉増自身は「音」を表現しようとしているのだろうけれど……。
 吉増が「音」にこだわっているということは、

「朧(oboro )」は安藤次男氏の『流』からだ、……。”朧(oboro )はたんぽぽ(tanpopo )乃、popo”ここから這入って行こうかしら。

 というようなところから感じられる。ことばを、わざわざローマ字にして母音を確かめている。
 そして、それは日本語だけではなく、

Un Poco Loco Un Poco Loco ハ
朧ろ(Oboro )君

 という具合に、スペイン語の音との交流もある。「少し狂って」と「朧ろ」というのは「意味」としてどういう関係があるのかわからないが、「音」はたしかに響きあう。響きあうものがあれば、まあ、そこに何かの感覚の行き来があるだろう。そういうものを感じる瞬間があるだろうと、私も思うので、そういうところだけは何かわかったつもりになる。
 また、そういうことを、

なんとはなしに、蕪村さんのこころは金色だったという気がする。

 といいかげんな(?)感じ、「なんとはなしに」で押し切るところも私は好きなのだが、どうにも表記の複雑さが私には納得できない。ついつい読むのがおっくうになってしまう。
 (引用の表記は原文とは違うところがある。傍点も省略した。また文字の大きさも無視した。実際の表記は「現代詩手帖」か「ふらんす堂通信」で確認してください。)



 和田まさ子「ひとになる」(初出『なりたい わたし』2014年07月)。和田の詩のなかに出てくるひとは壷にでも金魚にでも何にでもなる。そして、その「なる」前はひとなのだが、この詩では「ひと」になる。なぜ「ひと」になるかといえば「夜のうちに/豹になっていた」からなのだが……。
 その詩の後半。

バス停で待っていると
待っているのは
バスなのか
餌食となる動物なのか
判然としない
まだ、眠りと現実のあわいにいるようだ
二月の晴れた日にアフリカではなくて
ここにいる不思議にとまどっている

あそこにもひとり
夜、なにかになっていた女性がいる
懸命にひとになろうと努力しているのがわかる

 なぜ、わかるのか。それは「わたし」が人間になろうとしているからである。自分のしていることと、相手のしていることが重なる(一致する)。そのとき、ひとは「わかる」。これは、「わかる」というよりも「重ねてみてしまう」というだけのことかもしれないが。そして「重ねてみる」というのは、他人のなかで「自分を思い出す(肉体がおぼえていることを思い出す)」ということだろうと思う。
 他人の肉体と自分の肉体が重なる。いや、他人の肉体に自分の肉体を重ねる。そうすると、いくぶんあいまいだったことが鮮明に自分の肉体の奥から誘い出される。そういうことが実際に起きていることかもしれない。
 こういうことを「意味」をつけくわえずに書くのが和田の詩のおもしろいところである。だから、最終行、

ひとになるのがいちばんむずかしい

 これはそのとおりなのだろうけれど、「語りすぎ」かもしれない。
 ここに書かれている「ひと」が壺や金魚と同じように、「ひと」と呼ばれているものであることはわかるけれど。
 私は和田の詩は大好きなので、そういう「不満」も書いておく。私の「不満」くらいではゆるがない強いものがあるので、平気で「不満」が書ける。



 渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(初出『ルオーのキリストの涙まで』2014年07月)にはふたつの「文体」がある。

あらゆる行為の無意味の意味を問いかけた
争うものの思想の吃音が
羽毛をけたたましく散らすたび
殻が割れるのではないかとおびえ続けた

わたくしはもともと鳥の卵ではなく
鳥以前の卵ではなかったかと思案する
羽を持たない他の種族の卵ではなかったかと

 「意味」「思想」「思案」ということばに象徴されるように、ここでは「思う」という動詞が「意味」と結びついている。ことばは「意味」を探って、「意味」を渡辺の肉体に引き入れようとしている。
 もうひとつの文体は、

りり
りりりりりり
りり
りり
りりりりりり
りり

 こういう「音」だけのもの。「意味」がない。「思想」がない。つまり、ここでは「思案」がされていない--とは、しかし、言えない。
 渡辺はこの行につづけて、こう書いている。

わたしくの不確かな存在証明が
大気を震わせて編まれていった
鳥語を喋れないだろう
啼けないだろう
それでも樹間戦争が終るまで
生きなくてはいけない

 「意味」以前のことばでも、そこに「音」がある。それは「喋れない/啼けない」かもしれないが、聞くことができる。
 渡辺は自分のことばで「語る(思案する/思想する)文体」と「聞く文体」を結合することで、ことばの全体を豊かにしようとしている詩人だ。
 和田は突然「他者」になってしまうが、渡辺は「他者」になるというよりも、「他者」の声を聞きながら、自分の声を豊かにする方法を探していると言えるだろう。

ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
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凸版活字の本

2015-01-08 00:59:26 | 
凸版活字の本

目が悪くなってから好んで読むのは凸版活字で印刷された本である。
文字が小さいが、紙に活字が食い込んでできた凹凸がときどき指にふれてきて、
はじめて女の肌を知ったときのようにどきどきする。
ふとした拍子に動脈のなかを動く鼓動を感じるような錯覚に襲われる。

女と出会ったころに読んだ本だと記憶しているが、ほかには何もおぼえていない。
ところどころに引かれている傍線は誰のものともわからないが、
余白に書き込んだ文字は男のものである。しかし、もう意味はわからなくなっている。
意味とは脈絡のことではなく、そのとき起きたことだ--と作者は書いている。

街を、区画の大きいビルの通りではなく、小さな軒の並んだ路地を歩き回ったみたいに
絵はがき、経験論、ドールハウスの歯磨き、合成比喩ということばが、
外付けの蛇口や植え込みのように二段組の活字の余白に散らばっている。

逃避的変化と象徴という文字が何かのカギのように奇妙な形をつくっている。
ほんとうに思い出せないことだけが真実である、と主張したのは作者だが、
過去の街のウインドーに映った半透明の自分の影のようだと本のなかの男は感じている


*

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福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」、三角みづ紀「定点観測」ほか

2015-01-07 12:04:08 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」、三角みづ紀「定点観測」、宮尾節子「明日戦争がはじまる」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」(初出『まだ言葉のない朝』2014年07月)。長い長い詩の一部が掲載されている。そのなかから、私はさらに一部を取り出して思っていることを書く。福田にとっては、こういう紹介(感想)は迷惑かもしれないが……。

行き着いた死と再びの出発を重ね合わせ解体する語はひら
がなの破片としてそこここにそれ埋めた舌が光を放つ夜を
夜ごと燃やし尽くす燠火がいつまでも灰になったその中に
灰まみれの身体としてばらばらに動きを放つ息吹きまでわ
ずかに動く表面瓦解し永続する崖崩れと土砂にその廃地を
読む視線の焼けただれた空白まで白と黒の激しい交換状態
として僕たちは絶えず流動する場所となる

 句読点がなく(読点「、」はときどき出てくるのだが)、どこで区切って読んでいいのかわからない。しかし、ことば(意識)はもともと不連続に連続していく。脇へそれたり、もどったり、先走りしたりする。それを句読点で整理しているだけだから、この福田のことばは、いわば整理される以前の「文章」ということになるかもしれない。
 「未生のことば」という言い方がある。それに対して「未生の文章」と言えるかもしれない。
 「未生」のものは「混沌」としている。そして、それはほんとうに「混沌」かと福田のことばを見つめなおせば、それほど混沌ともしていない。
 たとえば1行目には「行き着く」と「出発(する)」という逆方向のベクトルをもつ運動がある。もちろん「行き着いた」その先へさらに「出発」するというときはベクトルは同じ向きになるが、「着く」と「出発(する)」は「停止」と「始動」と言いかえることができるので、「目的地」を別にすれば運動として逆方向である。同じように「重ね合わせ(る)」と「解体する」は逆方向の運動である。
 福田は、ここでは「逆方向」の運動を同時に描いていることになる。一種の「衝突」を描いている。動詞と動詞がぶつかる。それは「合体」のときもあれば「解体」のときもある。その衝突から、何かがスパークする。火花が飛び散る。それを「破片」ということもできる。
 さて、そういう「破片」をどうするか。

ひらがなの破片としてそこここにそれ

 このことばの連なりは、手ごわい。破片はそこここに(あちこちに)逸れる(飛び散る/逸脱する)のか。あるいは、最後の「それ」のあとに「を」を補って、

ひらがなの破片としてそこここに(散らばり)それ(を)埋めた舌が光を放つ

 とつづけて読めばいいのか。私は少し悩む。書いてないことばを書き加えると作品をかってに改変していると批判を受けるが、読むというのは、そこに書いてあることばを自分のなかに取り込み動かしてみることだから、どうしても「改変」が加わるものだ。
 こういう「わからない部分」は「わからない」ままにしておく。
 衝突して、破片が飛び散る。そこには必然的に「欠落」がある。それを「舌」が埋めるというのは、ことばで補うということかもしれない。しかし、そういう「意味」を語るかわりに「舌が光を放つ」という具合にイメージにするのが福田の詩の、別の方法である。
 「別の」というのは、それにつづいて、その直後に、最初にみた反対方向の運動をすることばがつづくからである。反対の方向に動く運動が一方にあり、そういう衝突する運動とは「別の」、衝突によって生まれた欠損を補う運動がある。
 で、繰り返される「衝突する運動」とは、「光」に対して「夜(闇)」という取り合わせのことである。動詞ではなく名詞の「反対/矛盾/混沌」である。そしてそこには「埋める(補う)」と「放つ」という逆方向の「動詞」が同居している。
 福田は、「混沌」を人為的につくり出している。一般的にことばというのは「混沌」を分節し、「もの」と「運動」を明確にし、「意味」をめざすものだが、福田はそういうこととは反対のことをしようとしている。すでに分節されて存在することばに、それとは反対のことば(非ことばへと動くためのことば)を組み合わせ、「混沌」をつくりだそうとしている。
 「まだ言葉のない朝」を、人為的につくりだそうとしている。いま福田は「言葉のない朝」いるわけではなく、「言葉のある朝」にいて、そこから「言葉のない朝」へもどろうとしていると言いかえてもいいかもしれない。
 で、そういう風に読んでくると、2行目から3行目へかけての、

舌が光を放つ夜を夜ごとに燃やし尽くす

 この「夜」の繰り返しがちょっと物足りない。「夜を夜ごと」では「反対」にならない。単なる繰り返しである。「夜を朝ごと」「夜を昼ごと」という感じで衝突させないと、既成の「意味」になってしまう。「意味」にひっぱられてしまう。
 それにつづく「燃やし尽くす」→「燠火」→「灰」という運動のなかには矛盾(反対方向の運動)がない。「燠火」のなかに「燃える動き」があるというかもしれないが、そしてその「燃える動き」がそのあとの「息吹」と呼応するのだろうけれど、「燠火」→「灰」への連絡が密接すぎるので、何かいきいきとした矛盾(混沌)という感じがしない。
 「まだ言葉のない朝」が何かを生み出す「混沌」というよりも、何かが破壊されたあとの「夕方」、崩壊した廃墟のような感じがしてしまう。「解体する」前に、解体されてしまっている。その解体が、「永続する」。その永続する解体のなかを反対のもの(たとえば、白と黒)を交換させながら「流動する」。自分が「流動する」のではなく、その場そのものを流動させるということかもしれないが。
 こうした一連の動きを、福田は「中性化」(引用した部分の数行先に出てくる)と呼んでいるようだ。「混沌」ではなく「中性」。どちらかに属するのではなく、どちらでもありうる可能性。ことばを既成の意味から解放する(ことばの既成の意味をたたき壊す)ことが詩である--その実践をしているということなのだと思うが、「意味」のつらなりがときどき強くなりすぎるように、私には思える。



 三角みづ紀「定点観測」(初出「読売新聞」2014年07月14日)。

いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている

 花火を見上げながら、同時に「きみに うつりこむ/花火を見上げ」ることはできない。花火は空にあり、その花火が映る(花火が照らす)きみの顔は地上にある。--という論理は、どうでもいい。花火の光に照らしだされるきみを、花火を見るように見ている、花火を見るよりもきみとこうしていることがうれしい。このうれしさをこれからも繰り返したい、「定点観測」するのように、繰り返し繰り返し。
 そういう祈りがここにある。
 この3連目に先立つ2連目。

はげしく---ゆるやかに
瞬間に立つ---ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に---かがやいて

 生きることに慣れなくても、ひとは生きてゆける。慣れないから、ひとは輝く。そこに祈りがある。
 ことばのリズムそのもののなかに祈りがある。



 宮尾節子「明日戦争がはじまる」(初出『明日戦争がはじまる』2014年07月)。有名になりすぎていて、感想を書くのがむずかしい。

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心と
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

じゅんび

ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる

 「思わなくなった」ということばを含まない4連目がなまなましい。「論理」を超えたむきだしの欲望。他者の闖入。この3行が、宮尾のことばを詩にしている。
 この詩に「ことばをことばと/思わなくなった」をつけくわえることができると、もっとおもしろいと思うが、そうしてしまうときっと重くなりすぎるかもしれない。


まだ言葉のない朝
福田 拓也
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愛について、

2015-01-07 01:06:58 | 
愛について、

愛について訪ねられたとき、本のなかの男は
「足の爪、親指の爪に触っていた指が協力するように、乱れるように、
足の甲、足首、毛を剃ったすねと順順にのぼって、
膝の皿を岩を越えるようにのぼり、
やわらかな腿にふれ、
それから今たどってきてところをさがって、
今度は足裏、土踏まずのカーブ、踵の丸み、ふくらはぎの弾力をたどり、
膝うらにたまっている汗で指を休め、
かぐわしい草むらがはじまるところまで近づき、
またおりて、のぼって……と繰り返すことだ」
と答えている。
その声は、愛撫と同じように機械的で、
情熱というものは少しもない--というのは、作者の意見である。
だから、女はそこには登場してこない。
また、比喩も登場してこない、と書いたあと、その本のことばは突然、
男の主張も、男の姿も描写するのをやめて、
視線をテーブルの上へ動いていく。そして
何のものかわからないが小さな領収書が斜めに置かれているのを見つける。
そこからどんなふうに物語が展開するのかわからないが、
私は本のページをめくるかわりに、
その小さな紙片を奪うと、それを裏返し、今読んだことばを書き直して
愛についての詩にできないかと考えはじめる。





*

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蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」、平田好輝「シャコ」、平林敏彦「瑠璃の青」

2015-01-06 10:03:41 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」、平田好輝「シャコ」、平林敏彦「瑠璃の青」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」(初出「現代詩手帖」2014年07月号)。副題に「荻野夕奈氏の作品に」とある。「さまよう庭」という作品のなかをさまよっている作品のようだ。砂に似た色、ベージュ色が広がっていて、そのなかに形があらわれてくる。それは蝶に見えたり、満開の花、枯れようとするつぼみ、葉っぱ、小枝のように見えたりする。

すべてのはじまりの色
そんなものはなくても、
決めなければならない瞬間
そんなものはあって、
どこからやって来るのだか
ふと訪れる色という色は 息を殺して
投げ出すもの投げ出してまざりあう

 「そんなものはなくて、」「そんなものはあって、」。つまり、どちらでもない。「決めなければならない瞬間」というものがあるようにみえて、それもない。「瞬間」という「時間」さえない。「瞬間」だから「ない」のではなくて、「時間」というものに「実体」はないのだ。
 全てを投げ捨てる、自分さえも捨ててしまう--そのときに、そこが「庭」になるということだろう。
 この世界はもう一度繰り返される。ひとは大事なことは何度でも繰り返す。繰り返している間に矛盾してしまうこともある。道義反復になることもある。それでも、それを繰り返す。繰り返すことが、唯一、肯定だからである。肯定といっても、否定しなければならない肯定であるけれど。つまり、肯定に拘泥していては、肯定したものが「我」になってしまう。

かたちを求めてかたちにならないもの
なることを 拒むもの
いまにも かたちになろうとするものや
ならなくてもいっこうに構わないもの
 ほどいて 溶けてゆく 飛びたつ
  沈みこむ ふりむく
   ひそめる息、影
  ひとつひとつに影また影

 「ならなくてもいっこうに構わない」が「自在」であること、その瞬間瞬間、そこに何かがあらわれること、何かになることを可能にする。「構わない」は「固執しない」ということだろう。
 これは、めずらしく「一元論」の詩である。すべての存在は「私(あるいは真理)」であるが、それを「私(真理)」と呼んでしまうと(そのことに固執すると)、それは誤謬になってしまう。全ては、それが立ち現れる瞬間に「真理」なのだが、「真理」と呼ぶと「真理」ではなくなる。こういうとき、私は「存在するのは契機(一期一会)だけである」と言いたくなるのだが、まあ、これもそう言ってしまうと「嘘」になってしまう。
 わかる(感じる)のは、蜂飼が荻野の作品との「一期一会」を「一期一会」のまま、ことばにしようとしているということである。



 平田好輝「シャコ」(初出「青い花」78、2014年07月)。この作品は大好きだ。一回感想を書いた。それをもう一度アップしよう--と思ったが、見当たらない。どこかにまぎれてしまったのかもしれない。「検索」できないだけで、どこかにあるかもしれない。
 同じことになるかもしれないが、同じ文章をアップしようと思ったのだから、同じになってもかまわないだろう。
 これは「一期一会」の詩である。

シャコを食わせる店に
連れていってあげますと言うから
シャコぐらいどこだって
食えるのではないかと思ったが
万事任せることにした

 と、はじまり、小さな店に連れて行かれる。車で40分もかかるから、まあ、けっこう遠い店だ。

巨大な深皿に盛り上げた
シャコが出てきて
わたしは焼酎を飲みながら
何十匹ものシャコを
食べ続けた
彼は車の運転があるので
焼酎は飲まず
シャコもせいぜい
二、三匹口にしただけだった

わたしたちは
ほとんど何の会話もなく
相客の一人もいないその小さな店に四十分ほどいた

悪夢にうなされそうなほどのおびただしいシャコを
わたしは食べた
彼は二、三度会っただけの
名前もよく知らない奴だったが
やさしい目でわたしの食べっぷりを見ていた

 引用してしまうと、書くことが何もない。以前この詩を読んだときは引用したら満足してしまって、感想を書かずに終ったのかもしれない。
 何が書いてあるかというと、ただあまりよく知らない人とシャコを食べに行った、ということだけである。それがそのまま書いてある。「悪夢にうなされそうなほどのおびただしいシャコ」と書いてあるが、そのことを書きたいという感じではない。
 何も感想はないのだが、ふと、こういうことは誰にでもあるよなあ、と思い出してしまう。あまりよく知らない人と、誘い合わせていっしょにものを食べる。あるいは飲む。そして、それはそれっきりということもある。なぜいっしょに食べたのか、飲んだのか、よくわからないが、たまたまそういう話が出て、話が出てしまったので、なんとなくそうしてしまった。それなのに、そのことをおぼえている。忘れてしまえば何でもないことなのに、なぜかおぼえている。
 最終行、

やさしい目でわたしの食べっぷりを見ていた

 その「やさしい目」が「食べっぷり」を、どんなかたちにも自在にかえてしまう。見られながら食べるというのは変な気持ちだが、そのひとは食べっぷりを目で食べていたのかもしれない。--などと書いてしまうと、この詩はつまらなくなる。
 あれは確かにあったことだが、一度きり、そこにあらわれてきた瞬間、それだけの何かだったのだと思った方が楽しい。このあらわれかたは、手応えがないようでも、とても充実している。



 平林敏彦「瑠璃の青」(初出『ツィゴイネルワイゼンの水辺』2014年07月、「水●」は文字が変換できないため「辺」で代用)。冬の朝を描いている。「たまゆらに/ふりむく空が裂けたかと/おどろく冬の朝がある」と静かにはじまったことばが、だんだん張り詰めてくる。

ただよう浮雲の果て
ゆくりなくこの世にこぼれおちた日の
まぶしさもときめきもいつか薄れ
剪定をわすれた木の実のように
あらまし腐爛したものの影は
ひそかに荒れた地の底へ下りて行った

見はるかす海
もえる陽はまだ中天にあり
まぼろしの光を反射する秤の皿は
愉悦と慰撫でほどほどに釣り合っているが
かつて破船とともに姿を消した漁夫たちも
明日は風の沖で網を打っているだろうか

 平田の平易なことばと比べると、ずいぶん違う。平林はことばひとつひとつを輝かそうとしている。ことばに緊張感をもたせようとしている。そしてそのことばは、いま/ここにない何かをことばの力で出現させる。

なべて約束の場所に生きるものよ
いつ仮に磔刑の日がおとずれようと
ふりむく空が裂けたかと
おどろく冬の朝もある
 
 そこにある「現実」よりもことばがとらえる「真実」が優っている。ことばが「現実」を「真実」に作り替えようとしている。その「真実」を求める欲求が、ことばを厳しく律している。
 最初に出てきたことばが繰り返され、繰り返すことで、ふたつの同じことばにはさまれたことばを両側から圧縮し、結晶させようとしているように感じる。
 「詩の作法」を感じた。

ツィゴイネルワイゼンの水邊
平林 敏彦
思潮社
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こんなことを書いても

2015-01-06 00:18:04 | 
こんなことを書いても

赤坂の裁判所の脇を歩いていると、
堀の水を循環させる排水口の近くで
鯉の白い肌と赤い模様が灰色の水の下で固くなっている。
こんなことを書いても今は誰も詩とは思わない。

緑色に舗装された自転車道の左側には
駐輪用の台が一列に同じ間隔で明治通りまでつづいている。
この自転車をとめる台のねずみ色も、
また冬の光のなかで動かずに並んでいる。
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高橋順子「海を好きだった」、高橋睦郎「七月の旅人」ほか

2015-01-05 11:43:05 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
高橋順子「海を好きだった」、高橋睦郎「七月の旅人」、中尾太一「宇宙船のララバイ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 高橋順子「海を好きだった」(初出『海へ』2014年07月)。東日本大震災の衝撃を書いている。津波は高橋のふるさとも襲い、「中学時代の同級生など十四人が波に呑まれた」と書いている。

海が凶暴な力をもっていることは知っていたが
それは海の向こうの海のことだと思っていた
幼かった足うらをえぐる小さくない波の力と砂のつぶを
いまでもわたしの足うらはおぼえている
わたしの海は荒れるときも
防波堤に当たって夢が砕けるように自らを砕き
わたしの夢に侵入することはなかった

 これは1連目の一部だが「知っていた」「思っていた」と「おぼえている」が交錯する。「おぼえている」は「忘れることができない」ということでもある。それは、その「おぼえている」を生きるしかないということでもある。

一ヵ月後余震の中を古里に行くと
家の庭からも前の道からも
それまでは家並みにさえぎられて見えなかった海が見えた
海が見えた というよりは
海を見なければならなかった というべきだろう
海 青い他界
古里の家には昨日青畳が入った
わたしたちは凪を踏むようにして その上を歩いた

 ここには「足うら」ということばは書かれていないが、高橋の足うらは、その青畳の感触を、これからもずっーと「おぼえている」だろう。忘れることはないだろう。幼い日の波と砂粒の感触をおぼえているように。
 「海が好きだった」とタイトルは過去形で書かれているが、いまでも高橋は海が好きだろう。嫌いとは言えない。
 引用が前後するが、2連目に

これが わたしの海か
これが 海のわたしか
わたしの「海まで」の矢印は 海によってへし折られたことを
分かってゆかねばならない

 ここにでてくる「分かる」という動詞は、最初に見た「知る」「思う」「おぼえる」とも、また違う。知っていること、思っていること、おぼえていること--そういうものを全て突き破って「海がある」ということを「悟る」というのに近い。「分かってゆかなければ(分かってゆく)」と高橋は書いている。「分かる」へ向かって動いていく、進んでゆくということだろう。「海がある」とき「高橋がある(いる)」。海によって、いま高橋が「ある(いる)」というところへ。

海が見えた というよりは
海を見なかければならなかった というべきだろう

 ことばでは「見えた」「見なければならなかった」と区別されるが、どちらが「正しい」わけでもない。「認識」を捨てて、「海がある」の「海」そのものに「なる」感じだ。「海」になったとき、「足うら」に「凪」がやってくる。「海」は「凪」になる。「海がある」「高橋がある」が「海になる」高橋になる」「凪になる」。この「なる」が「分かってゆく」の「ゆく」と重なるのかもしれない。
 詩集の感想を書いたときは読み落としていた。高橋の「肉体(思想の動き)」が静かに見えてくる詩だ。



 高橋睦郎「七月の旅人」(初出「鷹」2014年07月号)。
 1連目におもしろいことばが出てくる。

旅人は永遠(とわ)に五十歳
時雨ならぬ 真夏の光ふりそそぐ
大阪南御堂(みなみみどう) 花屋の辻に立つ
天地に沸きかえる蝉声(せんせい)を浴びて
幻視 いや 幻歩するのは
ついに踏むこと叶わなかった 肥前長崎
出島に打ち寄せる 波のあなたの

 「幻歩する」。このことばを私は知らない。知らないことは調べろとひとは叱るが、私は調べない。調べる代わりに、「幻視」を「幻歩」ということばに書き直していると感じる。そのとき、私の「肉体」が「歩く」。歩いているときの感覚が肉体を動かす。
 実際に、そこに「ある」場所ではなく、そこには「ない」場所を歩く。どこかに「ある」場所を歩く。幻を見るように(錯覚するように)、肉体が(足が)動く(歩く)たびに、その足元から、そこに「ない」場所が「ある」ものとしてあらわれてくる。それは「目で見る幻/幻視すること」ではなく、「足で歩くこと」がつくりだす幻だ。幻の歩みが現実をつくりだすのだ。
 そうか、芭蕉は、「奥の細道」のあと、長崎へ、出島へ、さらにその海の向こうへ歩いていこうとしていたのか。南御堂の花屋の辻に立ったとき、すでに「肉体」は歩きはじめていたのか。

五十歳の旅人は 私たちひとりひとり
私たちのいま立つそこが 花屋の辻
一瞬ごとに死んでは甦る私たち
願わくば 五七五の音の巧力(くりき)で
夢の枯野を 現(うつつ)の緑の野に戻して

 「いま立つそこが」どこであれ、芭蕉の立った南御堂の「花屋の辻」。そこからまだ見ぬ場所へ歩いていくと決めたとき、そこが「花屋の辻」になる。「頭の認識」はそこは「花屋の辻」ではないし、「いま」は芭蕉時代ではないというかもしれないが、歩いていくと決めた「肉体」にとっては、「花屋の辻」であり、そのとき「私」は芭蕉そのものである。「私」は芭蕉に「なっている」。
 「一瞬ごとに死んでは甦る」は、そのとき「肉体」を貫く「悟り」のようなもの、「肉体」が「分かっていること」である。「私」というものが消えてしまうことが「分かる」ということなのだ。それは「一瞬ごとに死んでは甦る」世界の全体でもある。
 こういう「世界観」の中心に「幻歩する」ということば、「歩く」という「動詞」を含んだことばがある。「幻視」(幻視する)も「動詞」と言えるが「見る」よりも「歩む」の方が「肉体全体」の存在を感じさせる。動いている感じがする。「肉体」がより身近に感じられる。「肉体」が感じられるので「一瞬ごとに死んでは甦る」に、どきどきしてしまう。「実感」の強さを感じて震えてしまう。



 中尾太一「宇宙船のララバイ」(初出『a note of faith  ア・ノート・オブ・フェイス』2014年07月)。

クエストは象を巻き込んだ包(パオ)
歳をとった僕はzoneに入って
高原地帯に擦り切れたボールを遠投する
ネクストバッターズサークルでは
天使が打棒を掲げ
七本線の楽譜に散らばった罪の音符を
ひとつひとつ打っている

 これはなんだろう。「クエスト」。小倉に住んでいたとき「クエスト」という本屋があったが、違うなあ。「宇宙船」とタイトルにあるから、宇宙船に関係しているんだろうなあ。「パオ」はモンゴルの巨大なテントのような建物? 詩の舞台(場)が定まらないが、「ボールを遠投する」「ネクストバッターズサークル」ということばから野球を連想する。宇宙船はドーム球場のよう? ドーム球場はパオみたい? 宇宙船では、無重力ゾーン(zone)で野球して時間をつぶしている? 連想は身勝手に暴走する。
 で、そのあとの、

天使が打棒を掲げ
七本線の楽譜に散らばった罪の音符を
ひとつひとつ打っている

 これが、楽しい。現実の(人間の)音楽は五線譜に音符。でも人間を越える天使(神の子?)の楽譜は人間の五線譜よりも音域(?)がひろくて七線譜か。そして、「罪の音符」か。八部音符の尻尾は悪魔(罪?)の尻尾?
 こんな空想(飛躍)も「打っている」という「動詞」で「肉体」に重なる。ありえない世界なのかもしれないが「打っている」が「肉体」にはわかる。だから、引き込まれる。その前の「ボールを遠投する」も「遠投する」という「動詞」が「肉体」を引き込む。ただ「投げる」ではなく「遠投する」だと「肉体」の動きも違ってくる。そういう「肉体」の「差異」が、ことば全体を生き生きさせる。「肉体」を生き生きと刺戟してくる。
 だから(?)、
 だからでいいのかどうかわからないが。
 「バット」ではなく「打棒」という古い(?)ことばがおかしいし、「宇宙船」「クエスト」「パオ」「zone」「高原地帯」というような「ばらばら感」のあることばの飛び散り方が楽しい。
 何よりも、ことばの「歯切れ」がいい。ことばを実際に口で(舌で、喉で)動かして詩を書いている感じがする。

高橋睦郎詩集 (現代詩文庫 第 1期19)
高橋 睦郎
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坂を下りて

2015-01-05 00:22:33 | 
坂を下りて

坂を下りてしばらく行くと
家が壊されたあとの空き地があって、
その輪郭をつくる石垣がある。その輪郭の上を
ねずみいろということばが素早く走り、私を驚かせた。

ほかのどのことばへ向かって動いているのか、
不定形の石の影はグレー色、夜明け前の
蝋梅の黄色を引き立てる空は青が混じった灰色。
ねずみいろを受け止めるものがない。

楠木の影は形を消したままアスファルトと見分けがつかない。
藤田内科のビルの後ろの竹藪が風を求めて騒ぐ。
どこかでカラスが鳴いている。

ねずみいろは、やわらかな手触りで
母の着ていた服にかならず隠れていた。
雲のいちばん低いところを縁取る赤い色が見えた。
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紺野とも「貝釦」、高谷和幸「ふとんの前と後ろ」、高塚謙太郎「ハポン絹莢」

2015-01-04 10:34:49 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
紺野とも「貝釦」、高谷和幸「ふとんの前と後ろ」、高塚謙太郎「ハポン絹莢」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 紺野とも「貝釦」(初出『かわいくて』2014年07月)。
 うーん、これは外国語をgoogle翻訳にかけたような日本語。私はときどき日本語の詩をgoogleでスペイン語や英語に翻訳してみるが、こんなスペイン語や英語はないぞ、と思う。そのときに感じる「変な感じ」と似ている。一語一語は日本語だけれど、つながり方が変。

今朝のわたしは親知らずに噛みつぶされた目覚ましのアラーム音、眠る人にそのかけらを飲ませてあげたから定刻どおり身支度はじめる左前に身を滑らせる貝釦の指先、追えば心臓は握られる。

 「名詞」を追い、受け身の「動詞」を一部能動形にかえると、「状況」がぼんやりと思い浮かぶ。
 朝、目覚ましがなる。ああ、いやだと思いながら奥歯(親知らず)でその音を噛み砕くような感じで起きる。眠っている私に、目覚めた私が、起きろ起きろといっている。それから身支度をはじめる。「左前」というのは女の洋服のことだろう。あるいは、自分を殺して出社する「死に装束」という意味をこめているかもしれない。釦をとめながら、手はまるで心臓を握るような形になる。
 おもしろいのは、「動詞」。目覚まし時計のアラーム音を中心に、「噛みつぶされた」と「飲ませてあげた」が交錯する。「噛みつぶされた」のは「アラーム音」、「飲ませてあげる」は「わたし」、その「飲ませてあげる」対象は「目覚めかけているわたし」、「噛みつぶされた」を「噛みつぶした」という能動形にかえると、主語は「目覚めかけている私/眠っているわたし」になる。しかも「今朝のわたしは親知らずに噛みつぶされた目覚ましのアラーム音」だけを取り出すと、「わたし=アラーム音」になってしまう。とても奇妙。「学校作文」なら、主語と述語が合致していないよ、と言われてしまうかもしれない。
 「学校作文」なら、こういうときは「わたしは目覚まし時計のアラーム音を親知らずで噛みつぶすようにして、飲み込み、いやいや起きた」という感じになるのだと思うが、その「学校作文」と対比すると……。「飲ませてあげて」という能動は「飲み込み」と自主的な動き。紺野の書いているようにだれかに「飲ませる」という使役ではない。
 「動詞」というのはたいていの場合、主語を「ひとつ」に統一するように動くのだが、紺野の場合、主語を分裂させる形で働いていることになる。このために紺野のことばの動きがとても変に見える。
 「心臓は握られる」の受け身の形についても「噛みつぶされた」-「飲ませてあげた」につながるものがある。似ている。どう詩によって主語(わたし)が分裂するおもしろさがある。心臓を握る「わたし」がいて、他方に握られる「わたし」がいる。
 この変は変で、これがこのまま「動詞」の運動として動いていけばとてもおもしろいと思う。けれど、こういう「動詞」の動かし方は、きっと人間の「肉体」にあっていないのだと思う。このあと、紺野のことばは「動詞」をつかってではなく、「名詞」を頼りに動いてしまう。「わたし」が登場しなくなる。
 いや「わたし」はすでに最初の文章で「分裂」したから、あとはその「分裂」に合致する形で世界の「もの(名前/名詞)」が分裂していくのだ、と言えるかもしれないけれど、「分裂したわたし」をひきずりながら「名詞」と「動詞」が動かないと、「頭」で書いた詩になってしまう。
 「空き領域が減るのを防ぐため鱗引きで自分を削ごうとするけれど」「汐にまみれてゆく身体」と「自分」「身体」ということばも出てくるけれど、「自分」や「身体」を出すのなら、最後まで「わたし」を出してほしかったなあ。そうすると、奇妙さがもっと「肉体」に迫ってくる。散らばる「名詞」ではなく、ずるずるとつながってしまう「動詞」の不思議な本質が見えてくるだろうになあ、と思ってしまった。



 高谷和幸「ふとんの前と後ろ」(初出『シアンの沼地』2014年07月)。「ふとんの前と後ろ」って、なんだろう。ふとんに前、後ろがある? 敷布団の方? 掛け布団の方? ふつうは「裏/表」だろうなあ。でも「前と後ろ」。だから裏、表とは違うもの。私は、寝るときの「頭」の方、「足」の方、くらいに考えた。その場合、頭が「前」、足が「後ろ」になってしまうのは、これは私が頭を先に考えるからだねえ。ことばのあらゆるところに「肉体」というものは入り込むもんだなあ--というのは、私だけの感覚かもしれないけれど……。
 まあ、そんなことは、どうでもいい。私の「偏見」にすぎないから。高谷がそう書いてるわけではないのだから。高谷が書いているのは……。

ふとんの前と後ろに雨が降っている。

 この書き出しは魅力的だなあ。「雨が降っている」ということばとふとんが結びつくとは思わなかった。しかも、そのふとんには「前」と「後ろ」がある。

ふとんの前と後ろに雨が降っている。水滴の入射
角と屈折角が描いた反対の虹を、みんながわたっ
ているところです。湿地帯の森林でキノコが空気
の光る粒子を放散するような寝息。

 「前」と「後ろ」は次の文章で「入射角」「反射角」ということばのなかで「対」になる。こういう呼応があると、この詩は「ほんとう」へ向かって動いているという感じがする。書いてあることはわからないのだが、ことばの動きに「ほんとう(正直)」があるという感じがする。ひとは大事なことは何度でも言いなおす。その言い直しがことばを少しずつ進めていく力だ。(紺野の場合、「握られる」までは「対」の動きがみえたけれど、後は私にはわからなかった。)
 「反対の虹」とは何か。これもよくわからないけれど、ふとんに「前」と「後ろ」があるのだから、虹にも正しい(?)虹の一方に「反対の虹」があってもいい。「前」の反対が「後ろ」、「入射角」の反対が「屈折角」と言えるのかどうかわからないけれど、きっとそうなんだと思わせることばのスピードがいい。
 つづいて「雨」と「湿地帯」が呼応する。「湿地」と「キノコ」が呼応する。どんどんことばが暴走するなあと思ったら、思い出したように「ふとん」と「寝息」も呼応する。あ、おもしろいなあ、と思う。
 でも、私は目が悪くて、最後までその、ことばの「呼応」を追いきれない。詩は一気に読んで、その全体を「視野」のなかに入れて、そこで動いているものを鳥瞰図のように捉えながら、一方で地べたを這いずるようにたどらなければ立体的にならない。その作業が私にはむずかしい。
 散文詩。ことばが隙間なくつまっていると、それが特につらいなあ、と感じる。
 いま書いている「日記」は、いわば私の「体力テスト」みたいなものなので、どうしてもこんな感じの感想になってしまう。



 高塚謙太郎「ハポン絹莢」(初出『ハポン絹莢』2014年07月)。
 どんな作品でもそうだが、書き出しがおもしろいと読む気になる。書き出しがつまらないと、どうしても投げ出してしまう。この作品も書き出しがとてもおもしろい。書き出しばかりの引用、書き出しについての感想が多くなってしまうが、これは私にとっては一種の「必然」かもしれない。

おざなりはゆめのまたゆめ
ひざまくらには耳たぶのしめり
いいとおもう
ひだひだのメレンゲに浮いた花のその
すえひろがりのゆめに白々とみえてきた

 ことばの「音」が「音楽」になっている。「おざなり」「ひざまくら」のような呼応が複数の行にまたがって動いている。洒落ている。那珂太郎は一行のなかの音の響きにこだわったが、そうか、こんなふうに複数の行にまたがって「音楽」を動かすのもいいもんだねえ。
 膝枕の夢、膝枕をしたときの耳と膝とのとらえ方もいいなあ。「耳たぶ」か。「耳」の螺旋形の渦が「ひだひだ」と言いなおされ、それが「花(花びら)」と言いなおされるのもいいなあ。福耳のように「すえひろがり」の夢だ。

紙魚ついてしまった襟髪に
いっぽんゆびがためらいがちに
ためつすがめつ降りしきり
ゆるりゆるりとひらいていくくりてぃいく

 ここだけにかぎらないが、ことばがみんな「声」の「音楽」になっている。「声」の「音楽」だから、どうしてもそこに「俗な響き」が入ってくるのだけれど、そのリズムが、私はけっこう好きである。「頭」でこしらえたわざとらしい「音楽」じゃないところがいいと思う。
 引用の最後、「クリティーク」とカタカナにしてしまってはリズムが違ってくるが、このひらがなの版卓は本能かな? 技巧かな? 本能と思いたい。
かわいくて
紺野 とも
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一月の月は、

2015-01-03 21:54:22 | 
一月の月は、

一月の月は空の中心にまで上り、
きのうの雪の溶けた水たまりに白い影を反射させている。
「月ぬれず、水やぶれず」か。
読んだばかりのことばに私は濡れて、やぶれて、自分を見失ない、
ここにはいないのかもしれない。
枯葉を落とした木とまだ葉を残した木の間の、
そんな狭い場所へ迷い込んでまっすぐに降ってくる月よ、
おまえとの距離をあらわすには美しいということばしかない。
犬と散歩に連れ出した真夜中、福大セミナーハウスの門を入ってすぐ右手の
犬がボール拾いをするだけの空き地で思うのだった。


*

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