吉増剛造「蕪村心読(一)」、和田まさ子「ひとになる」、渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(「現代詩手帖」2014年12月号)
吉増剛造「蕪村心読(一)」(初出「ふらんす堂通信」141 、2014年07月)。私は吉増の詩は苦手である。一篇の詩なのかで文字の大きさがかわったり、ルビが交錯したりする。どう読んでいいか、わからない。どう「音」にしていいか、わからない。吉増自身は「音」を表現しようとしているのだろうけれど……。
吉増が「音」にこだわっているということは、
というようなところから感じられる。ことばを、わざわざローマ字にして母音を確かめている。
そして、それは日本語だけではなく、
という具合に、スペイン語の音との交流もある。「少し狂って」と「朧ろ」というのは「意味」としてどういう関係があるのかわからないが、「音」はたしかに響きあう。響きあうものがあれば、まあ、そこに何かの感覚の行き来があるだろう。そういうものを感じる瞬間があるだろうと、私も思うので、そういうところだけは何かわかったつもりになる。
また、そういうことを、
といいかげんな(?)感じ、「なんとはなしに」で押し切るところも私は好きなのだが、どうにも表記の複雑さが私には納得できない。ついつい読むのがおっくうになってしまう。
(引用の表記は原文とは違うところがある。傍点も省略した。また文字の大きさも無視した。実際の表記は「現代詩手帖」か「ふらんす堂通信」で確認してください。)
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和田まさ子「ひとになる」(初出『なりたい わたし』2014年07月)。和田の詩のなかに出てくるひとは壷にでも金魚にでも何にでもなる。そして、その「なる」前はひとなのだが、この詩では「ひと」になる。なぜ「ひと」になるかといえば「夜のうちに/豹になっていた」からなのだが……。
その詩の後半。
なぜ、わかるのか。それは「わたし」が人間になろうとしているからである。自分のしていることと、相手のしていることが重なる(一致する)。そのとき、ひとは「わかる」。これは、「わかる」というよりも「重ねてみてしまう」というだけのことかもしれないが。そして「重ねてみる」というのは、他人のなかで「自分を思い出す(肉体がおぼえていることを思い出す)」ということだろうと思う。
他人の肉体と自分の肉体が重なる。いや、他人の肉体に自分の肉体を重ねる。そうすると、いくぶんあいまいだったことが鮮明に自分の肉体の奥から誘い出される。そういうことが実際に起きていることかもしれない。
こういうことを「意味」をつけくわえずに書くのが和田の詩のおもしろいところである。だから、最終行、
これはそのとおりなのだろうけれど、「語りすぎ」かもしれない。
ここに書かれている「ひと」が壺や金魚と同じように、「ひと」と呼ばれているものであることはわかるけれど。
私は和田の詩は大好きなので、そういう「不満」も書いておく。私の「不満」くらいではゆるがない強いものがあるので、平気で「不満」が書ける。
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渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(初出『ルオーのキリストの涙まで』2014年07月)にはふたつの「文体」がある。
「意味」「思想」「思案」ということばに象徴されるように、ここでは「思う」という動詞が「意味」と結びついている。ことばは「意味」を探って、「意味」を渡辺の肉体に引き入れようとしている。
もうひとつの文体は、
こういう「音」だけのもの。「意味」がない。「思想」がない。つまり、ここでは「思案」がされていない--とは、しかし、言えない。
渡辺はこの行につづけて、こう書いている。
「意味」以前のことばでも、そこに「音」がある。それは「喋れない/啼けない」かもしれないが、聞くことができる。
渡辺は自分のことばで「語る(思案する/思想する)文体」と「聞く文体」を結合することで、ことばの全体を豊かにしようとしている詩人だ。
和田は突然「他者」になってしまうが、渡辺は「他者」になるというよりも、「他者」の声を聞きながら、自分の声を豊かにする方法を探していると言えるだろう。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
吉増剛造「蕪村心読(一)」(初出「ふらんす堂通信」141 、2014年07月)。私は吉増の詩は苦手である。一篇の詩なのかで文字の大きさがかわったり、ルビが交錯したりする。どう読んでいいか、わからない。どう「音」にしていいか、わからない。吉増自身は「音」を表現しようとしているのだろうけれど……。
吉増が「音」にこだわっているということは、
「朧(oboro )」は安藤次男氏の『流』からだ、……。”朧(oboro )はたんぽぽ(tanpopo )乃、popo”ここから這入って行こうかしら。
というようなところから感じられる。ことばを、わざわざローマ字にして母音を確かめている。
そして、それは日本語だけではなく、
Un Poco Loco Un Poco Loco ハ
朧ろ(Oboro )君
という具合に、スペイン語の音との交流もある。「少し狂って」と「朧ろ」というのは「意味」としてどういう関係があるのかわからないが、「音」はたしかに響きあう。響きあうものがあれば、まあ、そこに何かの感覚の行き来があるだろう。そういうものを感じる瞬間があるだろうと、私も思うので、そういうところだけは何かわかったつもりになる。
また、そういうことを、
なんとはなしに、蕪村さんのこころは金色だったという気がする。
といいかげんな(?)感じ、「なんとはなしに」で押し切るところも私は好きなのだが、どうにも表記の複雑さが私には納得できない。ついつい読むのがおっくうになってしまう。
(引用の表記は原文とは違うところがある。傍点も省略した。また文字の大きさも無視した。実際の表記は「現代詩手帖」か「ふらんす堂通信」で確認してください。)
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和田まさ子「ひとになる」(初出『なりたい わたし』2014年07月)。和田の詩のなかに出てくるひとは壷にでも金魚にでも何にでもなる。そして、その「なる」前はひとなのだが、この詩では「ひと」になる。なぜ「ひと」になるかといえば「夜のうちに/豹になっていた」からなのだが……。
その詩の後半。
バス停で待っていると
待っているのは
バスなのか
餌食となる動物なのか
判然としない
まだ、眠りと現実のあわいにいるようだ
二月の晴れた日にアフリカではなくて
ここにいる不思議にとまどっている
あそこにもひとり
夜、なにかになっていた女性がいる
懸命にひとになろうと努力しているのがわかる
なぜ、わかるのか。それは「わたし」が人間になろうとしているからである。自分のしていることと、相手のしていることが重なる(一致する)。そのとき、ひとは「わかる」。これは、「わかる」というよりも「重ねてみてしまう」というだけのことかもしれないが。そして「重ねてみる」というのは、他人のなかで「自分を思い出す(肉体がおぼえていることを思い出す)」ということだろうと思う。
他人の肉体と自分の肉体が重なる。いや、他人の肉体に自分の肉体を重ねる。そうすると、いくぶんあいまいだったことが鮮明に自分の肉体の奥から誘い出される。そういうことが実際に起きていることかもしれない。
こういうことを「意味」をつけくわえずに書くのが和田の詩のおもしろいところである。だから、最終行、
ひとになるのがいちばんむずかしい
これはそのとおりなのだろうけれど、「語りすぎ」かもしれない。
ここに書かれている「ひと」が壺や金魚と同じように、「ひと」と呼ばれているものであることはわかるけれど。
私は和田の詩は大好きなので、そういう「不満」も書いておく。私の「不満」くらいではゆるがない強いものがあるので、平気で「不満」が書ける。
*
渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(初出『ルオーのキリストの涙まで』2014年07月)にはふたつの「文体」がある。
あらゆる行為の無意味の意味を問いかけた
争うものの思想の吃音が
羽毛をけたたましく散らすたび
殻が割れるのではないかとおびえ続けた
わたくしはもともと鳥の卵ではなく
鳥以前の卵ではなかったかと思案する
羽を持たない他の種族の卵ではなかったかと
「意味」「思想」「思案」ということばに象徴されるように、ここでは「思う」という動詞が「意味」と結びついている。ことばは「意味」を探って、「意味」を渡辺の肉体に引き入れようとしている。
もうひとつの文体は、
りり
りりりりりり
りり
りり
りりりりりり
りり
こういう「音」だけのもの。「意味」がない。「思想」がない。つまり、ここでは「思案」がされていない--とは、しかし、言えない。
渡辺はこの行につづけて、こう書いている。
わたしくの不確かな存在証明が
大気を震わせて編まれていった
鳥語を喋れないだろう
啼けないだろう
それでも樹間戦争が終るまで
生きなくてはいけない
「意味」以前のことばでも、そこに「音」がある。それは「喋れない/啼けない」かもしれないが、聞くことができる。
渡辺は自分のことばで「語る(思案する/思想する)文体」と「聞く文体」を結合することで、ことばの全体を豊かにしようとしている詩人だ。
和田は突然「他者」になってしまうが、渡辺は「他者」になるというよりも、「他者」の声を聞きながら、自分の声を豊かにする方法を探していると言えるだろう。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。