詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉増剛造「蕪村心読(一)」、和田まさ子「ひとになる」ほか

2015-01-08 09:43:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
吉増剛造「蕪村心読(一)」、和田まさ子「ひとになる」、渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 吉増剛造「蕪村心読(一)」(初出「ふらんす堂通信」141 、2014年07月)。私は吉増の詩は苦手である。一篇の詩なのかで文字の大きさがかわったり、ルビが交錯したりする。どう読んでいいか、わからない。どう「音」にしていいか、わからない。吉増自身は「音」を表現しようとしているのだろうけれど……。
 吉増が「音」にこだわっているということは、

「朧(oboro )」は安藤次男氏の『流』からだ、……。”朧(oboro )はたんぽぽ(tanpopo )乃、popo”ここから這入って行こうかしら。

 というようなところから感じられる。ことばを、わざわざローマ字にして母音を確かめている。
 そして、それは日本語だけではなく、

Un Poco Loco Un Poco Loco ハ
朧ろ(Oboro )君

 という具合に、スペイン語の音との交流もある。「少し狂って」と「朧ろ」というのは「意味」としてどういう関係があるのかわからないが、「音」はたしかに響きあう。響きあうものがあれば、まあ、そこに何かの感覚の行き来があるだろう。そういうものを感じる瞬間があるだろうと、私も思うので、そういうところだけは何かわかったつもりになる。
 また、そういうことを、

なんとはなしに、蕪村さんのこころは金色だったという気がする。

 といいかげんな(?)感じ、「なんとはなしに」で押し切るところも私は好きなのだが、どうにも表記の複雑さが私には納得できない。ついつい読むのがおっくうになってしまう。
 (引用の表記は原文とは違うところがある。傍点も省略した。また文字の大きさも無視した。実際の表記は「現代詩手帖」か「ふらんす堂通信」で確認してください。)



 和田まさ子「ひとになる」(初出『なりたい わたし』2014年07月)。和田の詩のなかに出てくるひとは壷にでも金魚にでも何にでもなる。そして、その「なる」前はひとなのだが、この詩では「ひと」になる。なぜ「ひと」になるかといえば「夜のうちに/豹になっていた」からなのだが……。
 その詩の後半。

バス停で待っていると
待っているのは
バスなのか
餌食となる動物なのか
判然としない
まだ、眠りと現実のあわいにいるようだ
二月の晴れた日にアフリカではなくて
ここにいる不思議にとまどっている

あそこにもひとり
夜、なにかになっていた女性がいる
懸命にひとになろうと努力しているのがわかる

 なぜ、わかるのか。それは「わたし」が人間になろうとしているからである。自分のしていることと、相手のしていることが重なる(一致する)。そのとき、ひとは「わかる」。これは、「わかる」というよりも「重ねてみてしまう」というだけのことかもしれないが。そして「重ねてみる」というのは、他人のなかで「自分を思い出す(肉体がおぼえていることを思い出す)」ということだろうと思う。
 他人の肉体と自分の肉体が重なる。いや、他人の肉体に自分の肉体を重ねる。そうすると、いくぶんあいまいだったことが鮮明に自分の肉体の奥から誘い出される。そういうことが実際に起きていることかもしれない。
 こういうことを「意味」をつけくわえずに書くのが和田の詩のおもしろいところである。だから、最終行、

ひとになるのがいちばんむずかしい

 これはそのとおりなのだろうけれど、「語りすぎ」かもしれない。
 ここに書かれている「ひと」が壺や金魚と同じように、「ひと」と呼ばれているものであることはわかるけれど。
 私は和田の詩は大好きなので、そういう「不満」も書いておく。私の「不満」くらいではゆるがない強いものがあるので、平気で「不満」が書ける。



 渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(初出『ルオーのキリストの涙まで』2014年07月)にはふたつの「文体」がある。

あらゆる行為の無意味の意味を問いかけた
争うものの思想の吃音が
羽毛をけたたましく散らすたび
殻が割れるのではないかとおびえ続けた

わたくしはもともと鳥の卵ではなく
鳥以前の卵ではなかったかと思案する
羽を持たない他の種族の卵ではなかったかと

 「意味」「思想」「思案」ということばに象徴されるように、ここでは「思う」という動詞が「意味」と結びついている。ことばは「意味」を探って、「意味」を渡辺の肉体に引き入れようとしている。
 もうひとつの文体は、

りり
りりりりりり
りり
りり
りりりりりり
りり

 こういう「音」だけのもの。「意味」がない。「思想」がない。つまり、ここでは「思案」がされていない--とは、しかし、言えない。
 渡辺はこの行につづけて、こう書いている。

わたしくの不確かな存在証明が
大気を震わせて編まれていった
鳥語を喋れないだろう
啼けないだろう
それでも樹間戦争が終るまで
生きなくてはいけない

 「意味」以前のことばでも、そこに「音」がある。それは「喋れない/啼けない」かもしれないが、聞くことができる。
 渡辺は自分のことばで「語る(思案する/思想する)文体」と「聞く文体」を結合することで、ことばの全体を豊かにしようとしている詩人だ。
 和田は突然「他者」になってしまうが、渡辺は「他者」になるというよりも、「他者」の声を聞きながら、自分の声を豊かにする方法を探していると言えるだろう。

ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
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凸版活字の本

2015-01-08 00:59:26 | 
凸版活字の本

目が悪くなってから好んで読むのは凸版活字で印刷された本である。
文字が小さいが、紙に活字が食い込んでできた凹凸がときどき指にふれてきて、
はじめて女の肌を知ったときのようにどきどきする。
ふとした拍子に動脈のなかを動く鼓動を感じるような錯覚に襲われる。

女と出会ったころに読んだ本だと記憶しているが、ほかには何もおぼえていない。
ところどころに引かれている傍線は誰のものともわからないが、
余白に書き込んだ文字は男のものである。しかし、もう意味はわからなくなっている。
意味とは脈絡のことではなく、そのとき起きたことだ--と作者は書いている。

街を、区画の大きいビルの通りではなく、小さな軒の並んだ路地を歩き回ったみたいに
絵はがき、経験論、ドールハウスの歯磨き、合成比喩ということばが、
外付けの蛇口や植え込みのように二段組の活字の余白に散らばっている。

逃避的変化と象徴という文字が何かのカギのように奇妙な形をつくっている。
ほんとうに思い出せないことだけが真実である、と主張したのは作者だが、
過去の街のウインドーに映った半透明の自分の影のようだと本のなかの男は感じている


*

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