岩佐なを「Mパン」、海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」、榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(「現代詩手帖」2014年12月号)
岩佐なを「Mパン」(初出「交野が原」77、2014年09月)。棚の上に紙がある。前半は、その紙の行く末を、紙になって思い描いている。それもおもしろいのだが、後半、詩の世界ががらりとかわる。
紙を皿がわりにして、メロンパンをおく。それを食べる。そういうことを、「メロンパン」ということばをつかわずに書いている。最後に「メロンパン」ということばは出てくるが、これは「オチ」だね。
メロンパンを「亀」と言いかえるのは「比喩」だが、名詞の置き換えだけではなく、置き換えた後それを「亀」として動かしていく。「甘いにおい」「グラニュー糖」「表面サクサク中フカフカ」という食べる方の感触と、食べられる「亀」の「表面サクサク中フカフカ」「変形(残存)体」「大きな歯形」という描写が共存し、そのあと
この漫才のかけあいのような呼吸がおかしい。
「いきもたえだえかい」と聞いたのは誰だろう。メロンパンを食べている人だろうか。食べられるメロンパンを見ている人だろうか。「ああ、亀鳴くや」と言ったのはだれ? そして、その直後の「(それは季語)」と言ったのはだれ? 別の人? それとも同一人物? 「ああ、亀鳴くや(それは季語)」はきっと同一人物だね。「亀鳴くや」と言ってしまった後、すぐに「季語があったなあ」と自分で気づいている。
ひとはあることを思い、一瞬にして、それとは違うことも思う。何かを思い、それをことばにするとき、それだけを思っているわけではない。いろいろなことを思っている。
そう考えると、それはこの詩の世界そのものを言いなおしたことになる。
メロンパンを食べる。その触感の甘さ、やわらかさ、硬さ(表面)を味わいながら、形が亀に似ているなあ、食われる亀は痛いかなあ(食われれば痛いに決まっているかもしれないけれど)。どうでもいいこと(?)なのだけれど、そういうどうでもいいことを私たちは考えることができるし、それをことばにすることもできる。
あ、ことばにできる、と書いたけれど、ふつう、ひとは、思ったからといってそのすべてをことばにするわけではない。思っていてもことばにしなかったことをことばにしてしまえば、それは詩なのだ。
引用しなかったが、前半の紙の行く末(何か印刷され、張り紙にされ、はがされることなくビルといっしょに壊される)というのも、ありうるけれど、そんな「不経済」なことはひとはことばにしない。ことばの経済学に反している。つまり「無意味」。--ということは、「無意味」を書けば詩になるということでもあるね。
あ、脱線したかな?
かけあい漫才の後の、
この一行もいいなあ。中也の「汚れちまった悲しみ」を思い出させる。ついつい口をついて出てくる。
岩佐の詩には、そういう「口をついて出てくることば」が知らん顔して紛れ込んでいる。「亀鳴く」(季語)というのも、そうだ。思いつくままでたらめを書いているようであって、それは「肉体」に充分になじんでいる「ことば」だ。「ことば」が「肉体」となって、自然に動いている。
だから不思議なおかしさがある。そこに書かれていることは「知らないこと」ではなく充分に「知っていること」「肉体がおぼえていること」。「肉体がおぼえている」けれど、それをこんなふうに「動かしてみる」ということ、「つかってみる」ということがなかった。こんなふうに「肉体がおぼえていること」を「ことばにして動かす(ことばをつかってみる)」と、忘れかけていたあれこれがひとつひとつ生々しく動く。それがおもしろい。おかしい。
書く順序が逆になったが、「ティッシュペーパーの代役で机に出され」という「日常」もおかしい。皿がないとき、ティッシュを代役にする。紙は皿の代役なのに、皿の代役ティッシュの代役、つまり代役の代役という具合に世界がずれていくのも、「紙の行く末」から「メロンパン」へと「ずれ」ていくのを誘い出すようで、とても楽しい。
あとは余談だが……。
私はこのメロンパンというものが大嫌い。岩佐は以前、三角形の、なかにチョコレート(?)が入っているパンのことも詩に書いていたと思う。名前があったが、忘れた。この菓子パンも私は嫌い。嫌いだから名前もおぼえない。岩佐は、私が嫌いなもの(苦手なもの)ばかりを題材にして書いている(ように思える。)
で、私は、昔から岩佐の詩は気持ち悪い、気持ち悪いと書きつづけているのだが、最近は、その気持ち悪さが岩佐なのだとわかってきたのか、慣れてきたのか、変におもしろくて困っている。
でも、メロンパンは食べない。あの表面のべたべたつきが大嫌い。砂糖の粒が歯にあたったときの、甘さが弾ける刺戟を思うと、脳が萎えそう。
*
海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」(初出『かわほりさん』2014年09月)。タイトルをのぞくと、ひらがなだけで書かれている。「骨灰」をどう読むか。「ほねはい」(ほねのはい)、「こっかい」。きめかねて、ことばが交錯する。
漢字まじりにすれば「骨灰、そこから叫びが、埋もれるのだろうか」になるのだろうか。私は「埋もれるだろうか」ではなく、最初「生まれるだろうか」と読んでしまった。あ、「生まれる」ではなくて、「叫び」が「埋もれる」か。「叫び」はたしかにとどかないことがある。
何かを読み違えながら、そこから海埜の世界へ引き戻されるようにして詩を読むことになる。
「汚濁を展開する」ということばも「汚濁点を介する」と、私は読み違えていた。そのことばの前後に、さけ「び」、かた「ど」った、やけ「ば」、たとえ「ば」という具合に「濁音」があるからだ。「濁音」の「ちょんちょん」が目について「汚濁点」と間違えてしまう。
「あめとうみ、のよう、はんてんし」からは「羊水のなかの反転」という「漢字まじりの文」が誘い出される。「海」が「羊水」につながる。「羊水」のなかでは胎児は頭を下にしている、さかさま、反転している。その胎児は「(母親とは)別の皮膚を帯びる(身にまとう)」。胎児には「養分」が届く。
「骨灰(死)」の一方で、そういう「誕生」の世界がある。
私の「誤読」は海埜の書いていることとは無関係かもしれない。私が「誤読」しているだけなのだが、その「誤読」に対して、海埜の「ひらがな」が違う、違うと訴えかけてくる。違う、違うが聞こえるのに、私はそれでも「誤読」がしたい。
そういう感じで、私は海埜の詩を読んだ。主語/述語の関係がたどれない部分では、さらに「誤読」が拡大するのだが、詩なのだから「誤読」でいいと私は思っている。他人のことばに触れながら、自分自身のことばの動かし方を見つめなおすのが詩なのだと思っている。
*
榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(初出『空腹時にアスピリンを飲んではいけない』2014年09月)。
以前、榎本の詩について感想を書いたところ、「本を買って読むのは自由だが、感想を書かれるのは迷惑だ。やめろ」と言われたことがある。私は人が怒るのをみるのは大好きなので、「やめろ」と言われたけれど、感想を書く。なぜ、人が怒るのをみるのが好きかというと、怒った瞬間「地」が出てくる。その輝きが、なかなか楽しい。なかなか怒らないひとは、少しずつつっつく。そうするとだんだんいらいらしてくるのがわかる。これも、妙に楽しいものである。
これは書き出し。ことばがたくさん出てくるが、海鮮がトッピングされたピザを注文し、それをウエーターが運んでくるということを書いているのだと思う。私が要約したように書いてしまうと詩にならないので(ほんとうに詩にならないかどうかは、わからないが……)、榎本は「いまある状況」を「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばのなかへ拡散していく。あるいは「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばを「いまある状況」に持ち込む。その「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」を榎本のことばのなかで融合させ、「世界」をつくる。
岩佐が「Mパン」で書いていたように、ある状況に直面したとき、その状況のなかにある何かが別なものを連想させ(メロンパンの形が亀の甲羅を想像させ)るということがある。そして、それを状況説明につかうと、そこに独特の「味」(個性)がでてきて、それが楽しいということがある。詩は、たしかにそういうものだと思う。
で、そういうとき、どういう「ことば」を持ってくるか。
榎本はことばの数はとても多いが、そのことばは意外と常識的である。ピザを運んでくる青年が「きれいな黒髪」というのは常識的な好みのようであまりおもしなくない。「タブリエ」「ペリエ」「テラス」というカタカナ語の通い合いも常識的すぎる。「妄想」というには、女性の嗜好が単純すぎる。
「ピザ」を「チーズの海」と言いかえ、「海」から「海棲哺乳類」へのつながりもうるさいだけ。「哺乳類」が「産卵」するかどうか、私は生物の知識がないのでわからないが、「産卵」「祝祭」、「産卵」「腥み」、「祝祭」「衛星中継」というイメージを交錯させながら響きあわせる方法も、連想が近すぎるように思う。
「衛星中継」(世界規模)の視野が「エボラ出血熱」という「現在」を呼び込むのも、私には、連想が近すぎると思う。
連想が近いときは、岩佐がやったように、ことばを「肉体」に引きつけると「肉体」が見えてきておもしろいのだが、榎本は「肉体」を出さずに、「頭」で「連想」を加速させるのが好みのようである。しかし、「頭」で加速させることばの乱反射は、先に指摘したように意外と「常識」の範囲を超えない。「頭」は「読んだことば」を整理するのは得意だが、「読んだことば」というのは「書かれてしまったことば」だから、どんなに「逸脱」しても「流通文化」になってしまっている。
後半に出てくる「マロ楽団」「セイレーン」「異教徒」「金髪の乙女」「半獣神」「宮殿」「混血の作家」なども、イメージの統一には役だつが、イメージの暴走にはならないと私は感じる。
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
岩佐なを「Mパン」(初出「交野が原」77、2014年09月)。棚の上に紙がある。前半は、その紙の行く末を、紙になって思い描いている。それもおもしろいのだが、後半、詩の世界ががらりとかわる。
いちまいのまっさらな紙は
ティッシュペーパーの代役で机に出され
上に黄色く甘いにおいの満月を載せられた
満月、ちがう、亀だよ
汗のようにキラキラとグラニュー糖が散り
表面サクサク中フカフカの
亀は声もたてずに食われていく
身体を失っていく途中の
変形(残存)体が紙の上に横たわる
大きな歯形が痛々しく
いきもたえだえかい
ああ、亀鳴くや(それは季語)
いちまいのもはや少し汚れちまった紙との
最期の接触を惜しみ
消えた
さようなら
亀の綽名は
メロンパン
紙を皿がわりにして、メロンパンをおく。それを食べる。そういうことを、「メロンパン」ということばをつかわずに書いている。最後に「メロンパン」ということばは出てくるが、これは「オチ」だね。
メロンパンを「亀」と言いかえるのは「比喩」だが、名詞の置き換えだけではなく、置き換えた後それを「亀」として動かしていく。「甘いにおい」「グラニュー糖」「表面サクサク中フカフカ」という食べる方の感触と、食べられる「亀」の「表面サクサク中フカフカ」「変形(残存)体」「大きな歯形」という描写が共存し、そのあと
いきもたえだえかい
ああ、亀鳴くや(それは季語)
この漫才のかけあいのような呼吸がおかしい。
「いきもたえだえかい」と聞いたのは誰だろう。メロンパンを食べている人だろうか。食べられるメロンパンを見ている人だろうか。「ああ、亀鳴くや」と言ったのはだれ? そして、その直後の「(それは季語)」と言ったのはだれ? 別の人? それとも同一人物? 「ああ、亀鳴くや(それは季語)」はきっと同一人物だね。「亀鳴くや」と言ってしまった後、すぐに「季語があったなあ」と自分で気づいている。
ひとはあることを思い、一瞬にして、それとは違うことも思う。何かを思い、それをことばにするとき、それだけを思っているわけではない。いろいろなことを思っている。
そう考えると、それはこの詩の世界そのものを言いなおしたことになる。
メロンパンを食べる。その触感の甘さ、やわらかさ、硬さ(表面)を味わいながら、形が亀に似ているなあ、食われる亀は痛いかなあ(食われれば痛いに決まっているかもしれないけれど)。どうでもいいこと(?)なのだけれど、そういうどうでもいいことを私たちは考えることができるし、それをことばにすることもできる。
あ、ことばにできる、と書いたけれど、ふつう、ひとは、思ったからといってそのすべてをことばにするわけではない。思っていてもことばにしなかったことをことばにしてしまえば、それは詩なのだ。
引用しなかったが、前半の紙の行く末(何か印刷され、張り紙にされ、はがされることなくビルといっしょに壊される)というのも、ありうるけれど、そんな「不経済」なことはひとはことばにしない。ことばの経済学に反している。つまり「無意味」。--ということは、「無意味」を書けば詩になるということでもあるね。
あ、脱線したかな?
かけあい漫才の後の、
いちまいのもはや少し汚れちまった紙との
この一行もいいなあ。中也の「汚れちまった悲しみ」を思い出させる。ついつい口をついて出てくる。
岩佐の詩には、そういう「口をついて出てくることば」が知らん顔して紛れ込んでいる。「亀鳴く」(季語)というのも、そうだ。思いつくままでたらめを書いているようであって、それは「肉体」に充分になじんでいる「ことば」だ。「ことば」が「肉体」となって、自然に動いている。
だから不思議なおかしさがある。そこに書かれていることは「知らないこと」ではなく充分に「知っていること」「肉体がおぼえていること」。「肉体がおぼえている」けれど、それをこんなふうに「動かしてみる」ということ、「つかってみる」ということがなかった。こんなふうに「肉体がおぼえていること」を「ことばにして動かす(ことばをつかってみる)」と、忘れかけていたあれこれがひとつひとつ生々しく動く。それがおもしろい。おかしい。
書く順序が逆になったが、「ティッシュペーパーの代役で机に出され」という「日常」もおかしい。皿がないとき、ティッシュを代役にする。紙は皿の代役なのに、皿の代役ティッシュの代役、つまり代役の代役という具合に世界がずれていくのも、「紙の行く末」から「メロンパン」へと「ずれ」ていくのを誘い出すようで、とても楽しい。
あとは余談だが……。
私はこのメロンパンというものが大嫌い。岩佐は以前、三角形の、なかにチョコレート(?)が入っているパンのことも詩に書いていたと思う。名前があったが、忘れた。この菓子パンも私は嫌い。嫌いだから名前もおぼえない。岩佐は、私が嫌いなもの(苦手なもの)ばかりを題材にして書いている(ように思える。)
で、私は、昔から岩佐の詩は気持ち悪い、気持ち悪いと書きつづけているのだが、最近は、その気持ち悪さが岩佐なのだとわかってきたのか、慣れてきたのか、変におもしろくて困っている。
でも、メロンパンは食べない。あの表面のべたべたつきが大嫌い。砂糖の粒が歯にあたったときの、甘さが弾ける刺戟を思うと、脳が萎えそう。
*
海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」(初出『かわほりさん』2014年09月)。タイトルをのぞくと、ひらがなだけで書かれている。「骨灰」をどう読むか。「ほねはい」(ほねのはい)、「こっかい」。きめかねて、ことばが交錯する。
こっかい、そこからさけびが、うもれるのだろうか。いつ
かみちて、きっとおだくをてんかいする。かたどったな
ら、やけばいい。たとえば、あめとうみ、のよう、はんて
んし、べつのひふをおびてゆく、くぐもるきせつの、なま
えにおいて。しめりけが、においをつめこみ、ひびいたは
だだ。とつぜんならば、だれをもいわない。いわく、あた
らしい、ようぶん、とどいて。
漢字まじりにすれば「骨灰、そこから叫びが、埋もれるのだろうか」になるのだろうか。私は「埋もれるだろうか」ではなく、最初「生まれるだろうか」と読んでしまった。あ、「生まれる」ではなくて、「叫び」が「埋もれる」か。「叫び」はたしかにとどかないことがある。
何かを読み違えながら、そこから海埜の世界へ引き戻されるようにして詩を読むことになる。
「汚濁を展開する」ということばも「汚濁点を介する」と、私は読み違えていた。そのことばの前後に、さけ「び」、かた「ど」った、やけ「ば」、たとえ「ば」という具合に「濁音」があるからだ。「濁音」の「ちょんちょん」が目について「汚濁点」と間違えてしまう。
「あめとうみ、のよう、はんてんし」からは「羊水のなかの反転」という「漢字まじりの文」が誘い出される。「海」が「羊水」につながる。「羊水」のなかでは胎児は頭を下にしている、さかさま、反転している。その胎児は「(母親とは)別の皮膚を帯びる(身にまとう)」。胎児には「養分」が届く。
「骨灰(死)」の一方で、そういう「誕生」の世界がある。
私の「誤読」は海埜の書いていることとは無関係かもしれない。私が「誤読」しているだけなのだが、その「誤読」に対して、海埜の「ひらがな」が違う、違うと訴えかけてくる。違う、違うが聞こえるのに、私はそれでも「誤読」がしたい。
そういう感じで、私は海埜の詩を読んだ。主語/述語の関係がたどれない部分では、さらに「誤読」が拡大するのだが、詩なのだから「誤読」でいいと私は思っている。他人のことばに触れながら、自分自身のことばの動かし方を見つめなおすのが詩なのだと思っている。
*
榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(初出『空腹時にアスピリンを飲んではいけない』2014年09月)。
以前、榎本の詩について感想を書いたところ、「本を買って読むのは自由だが、感想を書かれるのは迷惑だ。やめろ」と言われたことがある。私は人が怒るのをみるのは大好きなので、「やめろ」と言われたけれど、感想を書く。なぜ、人が怒るのをみるのが好きかというと、怒った瞬間「地」が出てくる。その輝きが、なかなか楽しい。なかなか怒らないひとは、少しずつつっつく。そうするとだんだんいらいらしてくるのがわかる。これも、妙に楽しいものである。
ピザが運ばれてくる--腰にタブリエを巻いたきれいな黒
髪の青年が、注文したペリエをもってテラスへとやってく
る妄想--、チーズの海にはオタリアなどの海棲哺乳類が
産卵のためにあつまってきていて、にぎやかな祝祭が衛星
中継によってその腥みとともにテーブルのうえへと--飴
いろのニスが剥げかけて、エボラ出血熱の流行をくいとめ
ることもできない歯痒さがオリーブの樹につぎつぎ実って
いくのを、睥睨する--、とどけられたのだったが、半島
の端を摘もうとする指がまがるにつれ、
これは書き出し。ことばがたくさん出てくるが、海鮮がトッピングされたピザを注文し、それをウエーターが運んでくるということを書いているのだと思う。私が要約したように書いてしまうと詩にならないので(ほんとうに詩にならないかどうかは、わからないが……)、榎本は「いまある状況」を「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばのなかへ拡散していく。あるいは「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばを「いまある状況」に持ち込む。その「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」を榎本のことばのなかで融合させ、「世界」をつくる。
岩佐が「Mパン」で書いていたように、ある状況に直面したとき、その状況のなかにある何かが別なものを連想させ(メロンパンの形が亀の甲羅を想像させ)るということがある。そして、それを状況説明につかうと、そこに独特の「味」(個性)がでてきて、それが楽しいということがある。詩は、たしかにそういうものだと思う。
で、そういうとき、どういう「ことば」を持ってくるか。
榎本はことばの数はとても多いが、そのことばは意外と常識的である。ピザを運んでくる青年が「きれいな黒髪」というのは常識的な好みのようであまりおもしなくない。「タブリエ」「ペリエ」「テラス」というカタカナ語の通い合いも常識的すぎる。「妄想」というには、女性の嗜好が単純すぎる。
「ピザ」を「チーズの海」と言いかえ、「海」から「海棲哺乳類」へのつながりもうるさいだけ。「哺乳類」が「産卵」するかどうか、私は生物の知識がないのでわからないが、「産卵」「祝祭」、「産卵」「腥み」、「祝祭」「衛星中継」というイメージを交錯させながら響きあわせる方法も、連想が近すぎるように思う。
「衛星中継」(世界規模)の視野が「エボラ出血熱」という「現在」を呼び込むのも、私には、連想が近すぎると思う。
連想が近いときは、岩佐がやったように、ことばを「肉体」に引きつけると「肉体」が見えてきておもしろいのだが、榎本は「肉体」を出さずに、「頭」で「連想」を加速させるのが好みのようである。しかし、「頭」で加速させることばの乱反射は、先に指摘したように意外と「常識」の範囲を超えない。「頭」は「読んだことば」を整理するのは得意だが、「読んだことば」というのは「書かれてしまったことば」だから、どんなに「逸脱」しても「流通文化」になってしまっている。
後半に出てくる「マロ楽団」「セイレーン」「異教徒」「金髪の乙女」「半獣神」「宮殿」「混血の作家」なども、イメージの統一には役だつが、イメージの暴走にはならないと私は感じる。
空腹時にアスピリンを飲んではいけない―榎本櫻湖詩集 | |
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。