詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安藤桃子監督「0.5 ミリ」(★★★★★)

2015-01-23 12:24:04 | 映画
監督 安藤桃子 出演 安藤サクラ、津川雅彦、柄本明

 「介護」以外の仕事を知らない女が、首になり、「押しかけ介護」で暮らしていく。それをずーっと描いている。介護する相手が変わるのだけれど、介護する方の女は変わらない。相手が違えば介護の方法(?)も違うはずなのだが、うーん、変わらない。ここが、妙に、おかしい。
 親身なのだけれど、ばかにしている。親切というのと、親身というのは違うのだと気づかされる。親身というのは、相手の「欲望」を「欲望」として納得するということである。「欲望」を生きるのが人間なのだと、相手を受け入れることである。拒まない。拒まないというのは、ばかにすることである。ばかにするというのは、自分と他人は同じであると思うことである。お金をもらっているのだけれど、雇い主/雇われ人というヒエラルキーをとっぱらって、対等の人間として接する。雇われている人が雇っている人を対等の人間とみるというのは、雇い主をばかにするということだからね。で、その「対等」のはじまりが「欲望」の肯定なのである。「欲望」を肯定して、受け入れる。子どもが何をしようが、親はまず子どもの味方をする--そういう親身。「うちの子はばかだら」という感じの親身。
 これが、ずーっと変わらない。
 津川雅彦のところへ押しかけ、介護するエピソードが象徴的だ。そこにはすでに介護ヘルパーが働いている。そのヘルパーの態度は「親切」ではあっても「親身」ではない。津川雅彦や妻の「欲望」との交渉はさけて、ただ家事をして、寝たきりの妻の身の回りの世話をする。津川雅彦や妻が何をしたがっているのか、気にしない。事務的に「介護」という仕事を「親切」にやってのける。間違いなく、決められた仕事をする。
 安藤サクラは、その「親切」の先へ、少しだけ進む。「親身」になる。
 これを象徴するのが、どのエピソードにも出てくる「食べる」シーン。食べ物をつくるシーン。そこにある材料を加工して(自分でできる最大限の加工をして)、味をととのえる。おいしくする。食欲という欲望を目覚めさせる。食べないと死ぬから食べるのではなく、食べるとおいしいから食べる。
 津川雅彦がアジのみりん干しをつくるのを手伝うシーンが美しい。これがおいしいみりん干しになるのだと思うと、そばでずっーと見ていたい。たれに漬け込み、ひっくりかえすのを、ひっくりかえせと言われるまで、ずっーとそばにいる。安藤サクラはそういう態度をばかにしながら(じっーと見ていないでほかのことをすればいいのにと思いながら)、そうしている津川雅彦をかわいいと思っている。だから、アジをひっくりかえして、とか、ザルはどこにあるのとか、問いかけて、その仕事に津川雅彦をひっぱりこむ。「いっしょ」になる。「一体」になる。津川雅彦の「欲望」を受け入れ、その「欲望」を育てているとも言える。
 これが、きっと「介護」の理想なのだ。その人のなかにある「生きる力」、それをもう一度育て動かす。欲望のなかで、人間は生き返る。それに安藤サクラは寄り添う。この姿勢が、最後まで変わらない。
 認知症が進んだ津川雅彦が戦争体験を語るシーンがすばらしい。安藤サクラは画面に登場せず、一言、二言、質問する。そうすると津川雅彦が体験を語る。同じことばを何度も何度も繰り返す。「もう聞きました」とは言わず、ただ、語りたいだけ語らせている。体験を語るとき、津川雅彦は戦争はいやだ、と叫んでいる。そう叫ばずにはいられない「欲望」を肯定している。津川雅彦は、このとき完全にぼけているのだが、そのことば(欲望)はぼけてはいない。完全に正常であり、それを育てなければ、津川雅彦は生きていけない。欲望を実現することが生きることなのだ。

 それにしても、安藤サクラはうまい。
 この映画は、とても重要なメッセージを抱えているのだが、その重要さを隠しつづける演技をしている。何でもない、というよりも、何てばかな女と感じさせる。半分認知症のお爺さんをたぶらかして「介護」をして生きるのではなく、もっときちんとした生き方をしろよ、と言いたくなる。そして、映画を見ながら、何度も何度も、大笑いをする。
 安藤サクラが介護の相手をばかにしてたぶらかして生きているように、観客の私は、安藤サクラを半分ばかにしながら、この映画を見ている。津川雅彦のことも半分ばかにして見ている。スケベ爺だなあ、なんて思い、笑いながら見ている。
 で、見終わったあと、ちょっと考えはじめると、それが「一筋縄」ではいかない。人間の肉体の奥底にあるものにコツンとぶつかる。先に書いたアジのみりん干しのシーンなんかがそうなのだけれど、「あ、あそこで人間が生きていたなあ。あの瞬間は美しいなあ」というようなことが思い当たる。これを、安藤サクラは自分では姿を見せず(津川雅彦の最後の「講義」のシーンもそうだけれど)、それなのにそこに安藤サクラがいると実感させる存在感で表現する。姿が見えないのに、安藤サクラがその場にたしかにいると感じる。それは、それまでの安藤サクラがきちんと生きているからだ。まるで、カメラに写っていないときこそほんとうの安藤サクラがいるのだと感じさせるのだ。映像として見えているのは、安藤サクラの「表面」にしか過ぎない。そう感じさせるのだ。
 それは映画の表面的ストーリー(どたばたを含む笑い)が現実の表面に過ぎなくて、この映画はその内部に重要なテーマを抱えている、それが「ほんもの」であるという形ととても似ている。
 安藤桃子+安藤サクラの次の映画は何だろう。とても楽しみだ。
                        (2015年01月20日、中洲大洋3)



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華原倫子「橋の記憶」、國井克彦「わが台湾三峡」、近藤洋太「再見考」

2015-01-23 11:04:52 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
華原倫子「橋の記憶」、國井克彦「わが台湾三峡」、近藤洋太「再見考」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 華原倫子「橋の記憶」(初出『葡萄時計』2014年10月)。

橋のはじまりはこの岸で
橋の終わりはあの遠い岸
だから、橋の上にははじまりも終わりもない
はじまりも終わりもない空間には輪郭はない

 「だから」ということばが論理的だ。なくても「意味」はかわらないけれど(かわらないと思うけれど)、「だから」と書いてしまう。そこに華原の「ことばの肉体(思想)」が出ている。そして、「ことばの肉体」というのは奇妙なもので、それ自体として動いていく。「肉体」になってしまった論理は「抽象」のままではいられない。動いていくと、どうしても独自のものになってしまう。この4行で言えば、「はじまりも終わりもない空間には輪郭はない」。ここで「空間」が出てくるのは「橋」を「場」ととらえるからだろうけれど(ここまでは、まだ一般の論理)、「輪郭はない」の「輪郭」への飛躍が独特である。華原がことばにすることによって、はじめて「論理」になった。華原がことばにする前には存在しなかった。「はじまりも終わりもない」という表現は一般的にはつかわないが、「終わりのない」ことを「空間的」には「果てがない」という。それを華原は「輪郭」というのだが、こういう「輪郭」のつかい方は華原がことばにするまでは存在しなかった。そして存在してしまうと、それが「ぴったり」という感じで迫ってくる。
 この化学変化のようなところに「詩」がある。
 「論理」はさらにつづく。

はじまりも終わりもない空間は何も留めることがない
渡りきらねばここはあの世と同じ
橋はそこで生きたと言ってはならぬ場所

 これは華原が言いたいこと(思想と思っていること、思想として主張したいこと)なのかもしれないが、私には「輪郭」ほどおもしろく聞こえてこない。「この岸」「あの岸」は「此岸」「彼岸」であり「この世」「あの世」である。そういう「論理」は「流通論理」であって、華原がいわなくても誰かが言ってしまっているという印象がある。それではおもしろくない。
 けれど、連を変えて、

橋に向かって道は上り
橋が尽きると道は下る
空を渡った欄干の記憶

 ここは、おもしろい。どこの橋とは書いてはいないのだが、華原がある特定の橋を思い描いていることがわかる。すべての橋が道を上り、道を下るわけではない。水平なままの橋(坂のない橋)もある。それなのに華原は道の上り下りと書いている。具体的なのだ。知らずに出てくる「具体的なもの(こと)」のなかに、やはり「肉体」が見える。「ことばの肉体」ではなく、華原自身の「肉体」、その橋を渡ったときに「肉体がおぼえたもの」が手触りのようにして出てくる。そういう部分は、とてもおもしろい。
 「具体的」だから「空を渡った欄干の記憶」が美しい。思わず、自分自身の記憶を探してみる。私の渡った橋のなかにそういう橋があったかなあ。探しながら、私は私の「肉体」が華原の「肉体」と重なっているのを感じる。そういう橋を具体的に思い出すことができる。おぼえていないのに、思い出すことができる。こういう瞬間が好きだなあ。詩を読む至福がある。



 國井克彦「わが台湾三峡」(初出「ゆすりか」102 、2014年10月)。終戦後、台湾の三峡から日本へ引き上げてくる。八歳のときの体験を書いている。

大人たちはトラックの前方を見ていた
去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ
なぜ愛しい三峡の街を山を河を
大人は振り返らないのか
わが人生でこのことは常に思い出された

 あ、うつくしいなあ。思わず声がでそうになった。
 私は台湾へ行ったことがない。三峡がどこにあるかも知らないし、どんな街、どんな山、どんな河なのかも知らない。知らないなら、調べろ、という人がいるが、私は調べない。ネットで調べて、写真を見ても、それは自分の体験とは無関係である。それがどんなに美しい街、風景であろうと、それ見ることで國井の気持ちが「わかる」わけではないと考えるからだ。
 では、何が美しいのか。

去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ

 この一行。そこにある「時制」がカギだ。その前の行では「見ていた」(過去形)がもう一度「見ていた」(過去形)で繰り返され、そのあと「だけだ」と「現在形」になる。「自分だけだった」と過去形になっていない。
 「自分だけだ」という断定が「現在」であるために、「いま/ここ」で國井がかつて見た風景を見ているという感じが強く伝わってくる。「見ていた」のは過去のことなのに、「いま」それを「見ている」。「過去」が「現在」として、「いま/ここ」にある。その生々しい動きが凝縮している。主観が躍動する。
 「大人は振り返らないのか」という現在形の疑問(「大人は振り返らなかったのか」という過去形ではない)にも強い主観を感じる。
 そして、この感覚は、次の行、

わが人生でこのことは常に思い出された

 この「常に」に言いなおされている。「常に思い出された」と過去形で書かれ、ここでは國井はちょっと「客観」に戻っているのだが、この「過去形」は方便だ。「常に」だから「いま」、そして「これから」もという時間がそこにはある。かわらない。時間の影響を受けない。言いかえると、この「常に」は「永遠」なのである。



 近藤洋太「再見考」(初出「スタンザ」7、2014年10月)。「再見」は中国語で「さようなら」。「再会」を意味する(再会を願う)。でも日本語の「さようなら」にはそういう気持ちが見当たらない。そういうことを、いろいろな言語のあいさつをまじえて思いめぐらしたあと、

--僕はこれから、手紙の末尾には「再見」と書こうかと思うんですよ。
すると彼女、王旭烽さんは、はっと我に帰ったような顔になり一生懸命制止したのだ
--イケマセン。ソレハイケマセン。手紙ノ末尾ハ必ズ「敬具」デス。

 ここで詩は終わる。
 私は無知なので「敬具」で終わらなければなはらない理由、「再見」がだめな理由はわからないが、この「わからなさ」が詩なのかもしれない。
 どうして?
 そう思った瞬間。
 なぜ、そのひとはそう思うのか。なぜこの詩人はこんなことを思うのか。その驚きのなかに詩はある。それは説明してしまっては詩ではなくなるということかもしれない。
 私は「わからないこと」は調べるのではなく、「考える」。
 で、考えたのは……。「再見」というのは「再び」会う。繰り返す。手紙で「再び」がまずいのは、「わからないなら、もう一回、同じことを書くぞ」(何度でも書いてやるぞ)という一種の「おどし」になるから? 「手紙」とは「あいさつ」もあるだろうけれど、だいたいが自分の「考え」をつたえるもの。「敬具」は「慎んで申し上げます(申し上げました)」くらいの意味。「再見」には「慎んで」という感じがないからなのかな?


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連載小説

2015-01-23 01:04:29 | 
連載小説

朝、台所でコーヒーを入れながら、ことばは新聞の連載小説を片目で読んでいた。
もう片目はポットに落ちていくコーヒーを見ていた。
頭では、ことばは何になる準備をしていたのだったか思い出そうとしていた。

小説の中ではネクタイをしめた男が出てきて、
黄色いバターの塗ったパンをかじり終えてコーヒーを待っている。
コーヒーが出てくるまで新聞を折り畳みながら、連載小説を読んでいる。

咳をして(時間がないので催促している)
足を組み換えて(時間をどうつかっていいのか考えていないので)
靴下の色とズボンの色が黒い革靴にあうか茶色の靴にあうか……。

その小説にはストーリーがなくて、小説を読む人の細部だけが何日もつづき、
しかも人物の名前が毎朝変わっている。
まるで意味不明の現代詩だという批判が読者から投書されてきたという。

そこで書き手のことばは、こんなふうに説明する。登場人物は
これからますます増える。増えすぎるて誰が誰なのか区別がつかなくなる。
つまりひとりに見えてきたら、そこで小説は終わるのだ、と。


*

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