又吉直樹「火花」(「文学界」2015年02月号)
「天才芸人の輝きと挫折/満を持して放つデビュー中篇!」という触れ込み。「文学界」増刷して4万部の発行とか。私はテレビを見ないので、又吉直樹がどういう芸人なのかまったく知らない。書店でみつけて、やっと立ち読み。
書き出しである。文章が古くさい。「道は……踏ませながら」という日本語らしくない言い回し(昔の翻訳小説みたいな言い回し)が気に食わない。読むのをやめようかな。でも、雑誌で4万部の小説を書き出しだけで、つまらないからやめた、というのもいいかげんすぎるかなあ。どうせなら、ここも嫌い、あこも嫌いと書き並べてみようかな、と思って読みはじめた。
すると、おもしろい。「僕」は芸人の「神谷さん」と知り合い、師とあおいで、ときどきいっしょに行動する。そのことが延々と語られる。ときどき「部屋を舞う埃が朝日に照らされ光っているのを眺めていた」というような「小説らしい」描写をはさみながら、漫才のオーディションの様子、漫才に対する「哲学」が語られる。その部分は「真剣」があらわれていて、とてもおもしろい。「真剣」というのは、どういときでも、そこにいる人間が「正直」に動くので、ついついひきつけられてしまう。ひきつけられるけれど、それで「わかる」のかと言われれば、まあ、わからないのだけれど、わからなくてもかまわない。作者も、読者がわかるかわからないかを気にしていない。気にしているかもしれないけれど、その読者への配慮を超えて、「真剣」が出てしまう。そこに、魅力がある。
これは「僕」自身の「神谷さん」への「感想」とも重なる。
「熱心」とは「真剣(正直)」の別の言い方だろう。自分の思っていること、考えていることに対して真剣になる。そのとき、ひとは、その真剣についていけないときがある。ただし真剣はわかる。感じる。
ここに出てくる「熱心」が、どの部分にも満ちている。「熱心」がことばを動かしている。
この「熱心」の対極にある態度は、どういうものか。「神谷さん」に語らせている。
「物差し」の構え方。自分の「熱心(正直)」から発したものではない「物差し」は個人にとって有効か。そういうことを、ふたりは考えている。
ここから「ことば」に対する「哲学」が語られる。
「僕」は「神谷さん」を通して「漫才のことばの理想」と出会っている。ことばを動かす情熱と出会っている。その出会いを、この小説は真剣に書いている。
こういう「激情」の「真剣」の美しさの一方、静かな美しさもある。私がいちばん好きなのは、「僕」が「神谷さん」と一緒に「真樹さん」のアパートへ「神谷さん」の荷物を取りにいくところ。「真樹さん」は「神谷さん」の恋人だった。けれどあたらしい恋人ができて、二人は別れることになる。新しい男のいるアパートへ行って、必要な衣服をまとめて、アパートを去る。そのときの男の様子は「いつも神谷さんが座っていた場所に、作業服を着た男が座っていた。(略)胡座をかき再放送のドラマを眺めて泰然とはしているが、静かに殺気だっていた」と短く書かれているだけなのだが、「再放送のドラマ」という具体的なことばで「時間(その男の過去)」が明確に浮かび上がってくる。一瞬しかとを登場しない人物の描写にも手抜きがない。そういう描写のあと、
私は、ここで涙が出そうになった。「この風景を大切にしようと思った。」の「この風景」は、「僕」にしかわからない。でも「大切にしようと思った」の「大切」は、それを越えて伝わってくる。他人にとってはどうでもいい風景。けれど、あるとき、ある瞬間、そこで「おきたこと」と一緒にある。それは「大切」にするしかない。
又吉は「大切」を書いている。
「激情」「熱心」が動かす「哲学」は何度も語られているが、「大切」がそれを支えている。又吉は「大切」を書いたのだ。こんなふうに「大切」を描いた小説を、私は、最近読んだことがない。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
「天才芸人の輝きと挫折/満を持して放つデビュー中篇!」という触れ込み。「文学界」増刷して4万部の発行とか。私はテレビを見ないので、又吉直樹がどういう芸人なのかまったく知らない。書店でみつけて、やっと立ち読み。
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
(10ページ、私は目が悪いので転写ミスが多い。原文で確認してください。)
書き出しである。文章が古くさい。「道は……踏ませながら」という日本語らしくない言い回し(昔の翻訳小説みたいな言い回し)が気に食わない。読むのをやめようかな。でも、雑誌で4万部の小説を書き出しだけで、つまらないからやめた、というのもいいかげんすぎるかなあ。どうせなら、ここも嫌い、あこも嫌いと書き並べてみようかな、と思って読みはじめた。
すると、おもしろい。「僕」は芸人の「神谷さん」と知り合い、師とあおいで、ときどきいっしょに行動する。そのことが延々と語られる。ときどき「部屋を舞う埃が朝日に照らされ光っているのを眺めていた」というような「小説らしい」描写をはさみながら、漫才のオーディションの様子、漫才に対する「哲学」が語られる。その部分は「真剣」があらわれていて、とてもおもしろい。「真剣」というのは、どういときでも、そこにいる人間が「正直」に動くので、ついついひきつけられてしまう。ひきつけられるけれど、それで「わかる」のかと言われれば、まあ、わからないのだけれど、わからなくてもかまわない。作者も、読者がわかるかわからないかを気にしていない。気にしているかもしれないけれど、その読者への配慮を超えて、「真剣」が出てしまう。そこに、魅力がある。
これは「僕」自身の「神谷さん」への「感想」とも重なる。
神谷さんと一緒に吉祥寺の街を歩くのは不思議な感覚だった。神谷さんは、なぜ秋は憂鬱な気配を孕んでいるかということについて己の見解を熱心に聞かせてくれた。昔は人間も動物も同様に冬を越えるのは命懸けだった。多くの生物が冬の間に死んだ。その名残で冬の入り口に対する恐怖があるということだった。その説明は理に適うかもしれないが、一年を通して慢性的に憂鬱な状態にある僕は話の導入部分から上手く入っていくことが出来なかった。(21ページ)
「熱心」とは「真剣(正直)」の別の言い方だろう。自分の思っていること、考えていることに対して真剣になる。そのとき、ひとは、その真剣についていけないときがある。ただし真剣はわかる。感じる。
ここに出てくる「熱心」が、どの部分にも満ちている。「熱心」がことばを動かしている。
この「熱心」の対極にある態度は、どういうものか。「神谷さん」に語らせている。
「聞いたことあるから、自分は知っているからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろ? これは、あくまでも否定されるのが嫌ということではなくて、自分がそういう物差しで生きていっていいのかどうかという話やねんけどな」(23ページ)
「物差し」の構え方。自分の「熱心(正直)」から発したものではない「物差し」は個人にとって有効か。そういうことを、ふたりは考えている。
ここから「ことば」に対する「哲学」が語られる。
神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。(63ページ)
神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。(63ページ)
「僕」は「神谷さん」を通して「漫才のことばの理想」と出会っている。ことばを動かす情熱と出会っている。その出会いを、この小説は真剣に書いている。
神谷さんから僕が学んだことは、「自分らしく生きる」という、居酒屋の便所にはってある様な単純な言葉の、血の通った激情の実践だった。(72ページ)
「漫才はな、(略)共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、まわりと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されるわけやろ。こう壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴らの存在って、絶対無駄じゃないねん。(略)一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。」(72ページ)
こういう「激情」の「真剣」の美しさの一方、静かな美しさもある。私がいちばん好きなのは、「僕」が「神谷さん」と一緒に「真樹さん」のアパートへ「神谷さん」の荷物を取りにいくところ。「真樹さん」は「神谷さん」の恋人だった。けれどあたらしい恋人ができて、二人は別れることになる。新しい男のいるアパートへ行って、必要な衣服をまとめて、アパートを去る。そのときの男の様子は「いつも神谷さんが座っていた場所に、作業服を着た男が座っていた。(略)胡座をかき再放送のドラマを眺めて泰然とはしているが、静かに殺気だっていた」と短く書かれているだけなのだが、「再放送のドラマ」という具体的なことばで「時間(その男の過去)」が明確に浮かび上がってくる。一瞬しかとを登場しない人物の描写にも手抜きがない。そういう描写のあと、
もう二度と、このアパートに来ることはないだろう。上石神井に来ることもないかもしれない。この風景を大切にしようと思った。(52ページ)
私は、ここで涙が出そうになった。「この風景を大切にしようと思った。」の「この風景」は、「僕」にしかわからない。でも「大切にしようと思った」の「大切」は、それを越えて伝わってくる。他人にとってはどうでもいい風景。けれど、あるとき、ある瞬間、そこで「おきたこと」と一緒にある。それは「大切」にするしかない。
又吉は「大切」を書いている。
「激情」「熱心」が動かす「哲学」は何度も語られているが、「大切」がそれを支えている。又吉は「大切」を書いたのだ。こんなふうに「大切」を描いた小説を、私は、最近読んだことがない。
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