詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

又吉直樹「火花」

2015-01-27 12:10:45 | その他(音楽、小説etc)
又吉直樹「火花」(「文学界」2015年02月号)

 「天才芸人の輝きと挫折/満を持して放つデビュー中篇!」という触れ込み。「文学界」増刷して4万部の発行とか。私はテレビを見ないので、又吉直樹がどういう芸人なのかまったく知らない。書店でみつけて、やっと立ち読み。

 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
    (10ページ、私は目が悪いので転写ミスが多い。原文で確認してください。)

 書き出しである。文章が古くさい。「道は……踏ませながら」という日本語らしくない言い回し(昔の翻訳小説みたいな言い回し)が気に食わない。読むのをやめようかな。でも、雑誌で4万部の小説を書き出しだけで、つまらないからやめた、というのもいいかげんすぎるかなあ。どうせなら、ここも嫌い、あこも嫌いと書き並べてみようかな、と思って読みはじめた。
 すると、おもしろい。「僕」は芸人の「神谷さん」と知り合い、師とあおいで、ときどきいっしょに行動する。そのことが延々と語られる。ときどき「部屋を舞う埃が朝日に照らされ光っているのを眺めていた」というような「小説らしい」描写をはさみながら、漫才のオーディションの様子、漫才に対する「哲学」が語られる。その部分は「真剣」があらわれていて、とてもおもしろい。「真剣」というのは、どういときでも、そこにいる人間が「正直」に動くので、ついついひきつけられてしまう。ひきつけられるけれど、それで「わかる」のかと言われれば、まあ、わからないのだけれど、わからなくてもかまわない。作者も、読者がわかるかわからないかを気にしていない。気にしているかもしれないけれど、その読者への配慮を超えて、「真剣」が出てしまう。そこに、魅力がある。
 これは「僕」自身の「神谷さん」への「感想」とも重なる。

 神谷さんと一緒に吉祥寺の街を歩くのは不思議な感覚だった。神谷さんは、なぜ秋は憂鬱な気配を孕んでいるかということについて己の見解を熱心に聞かせてくれた。昔は人間も動物も同様に冬を越えるのは命懸けだった。多くの生物が冬の間に死んだ。その名残で冬の入り口に対する恐怖があるということだった。その説明は理に適うかもしれないが、一年を通して慢性的に憂鬱な状態にある僕は話の導入部分から上手く入っていくことが出来なかった。(21ページ)

 「熱心」とは「真剣(正直)」の別の言い方だろう。自分の思っていること、考えていることに対して真剣になる。そのとき、ひとは、その真剣についていけないときがある。ただし真剣はわかる。感じる。
 ここに出てくる「熱心」が、どの部分にも満ちている。「熱心」がことばを動かしている。
 この「熱心」の対極にある態度は、どういうものか。「神谷さん」に語らせている。

「聞いたことあるから、自分は知っているからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろ? これは、あくまでも否定されるのが嫌ということではなくて、自分がそういう物差しで生きていっていいのかどうかという話やねんけどな」(23ページ)

 「物差し」の構え方。自分の「熱心(正直)」から発したものではない「物差し」は個人にとって有効か。そういうことを、ふたりは考えている。
 ここから「ことば」に対する「哲学」が語られる。

神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。(63ページ)

神谷さんが相手にしているのは世間ではない。いつか世間を振り向かせるかもしれない何かだ。その世界は孤独かもしれないけれど、その寂寥は自分を鼓舞もしてくれるだろう。(63ページ)

 「僕」は「神谷さん」を通して「漫才のことばの理想」と出会っている。ことばを動かす情熱と出会っている。その出会いを、この小説は真剣に書いている。

神谷さんから僕が学んだことは、「自分らしく生きる」という、居酒屋の便所にはってある様な単純な言葉の、血の通った激情の実践だった。(72ページ)

「漫才はな、(略)共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、まわりと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されるわけやろ。こう壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴らの存在って、絶対無駄じゃないねん。(略)一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。」(72ページ)

 こういう「激情」の「真剣」の美しさの一方、静かな美しさもある。私がいちばん好きなのは、「僕」が「神谷さん」と一緒に「真樹さん」のアパートへ「神谷さん」の荷物を取りにいくところ。「真樹さん」は「神谷さん」の恋人だった。けれどあたらしい恋人ができて、二人は別れることになる。新しい男のいるアパートへ行って、必要な衣服をまとめて、アパートを去る。そのときの男の様子は「いつも神谷さんが座っていた場所に、作業服を着た男が座っていた。(略)胡座をかき再放送のドラマを眺めて泰然とはしているが、静かに殺気だっていた」と短く書かれているだけなのだが、「再放送のドラマ」という具体的なことばで「時間(その男の過去)」が明確に浮かび上がってくる。一瞬しかとを登場しない人物の描写にも手抜きがない。そういう描写のあと、

もう二度と、このアパートに来ることはないだろう。上石神井に来ることもないかもしれない。この風景を大切にしようと思った。(52ページ)

 私は、ここで涙が出そうになった。「この風景を大切にしようと思った。」の「この風景」は、「僕」にしかわからない。でも「大切にしようと思った」の「大切」は、それを越えて伝わってくる。他人にとってはどうでもいい風景。けれど、あるとき、ある瞬間、そこで「おきたこと」と一緒にある。それは「大切」にするしかない。
 又吉は「大切」を書いている。
 「激情」「熱心」が動かす「哲学」は何度も語られているが、「大切」がそれを支えている。又吉は「大切」を書いたのだ。こんなふうに「大切」を描いた小説を、私は、最近読んだことがない。

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時里二郎「伯母」、中島悦子「声をめぐる」、中野完二「色即是空」

2015-01-27 10:42:07 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
時里二郎「伯母」、中島悦子「声をめぐる」、中野完二「色即是空」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 時里二郎「伯母」(初出「東京新聞」2014年10月25日)。

 山羊のいる蠣殻の白い坂道を岬にまでのぼり 中世の烽
火台跡のあるその突端に 伯母と二人して 私のリハビリ
は続いた
 アンドロイドである私に母がいるはずがないのに いる
はずのない母が 私の言葉に不具合をもたらしていると 
伯母は言う

 これは書き出しだが、ここに時里のことばの特徴が集まっている。「山羊」「蠣殻」「烽火台」と言った具体的だけれど、日常(身の回り)ではあまり見ないものが登場する。「もの」が「過去の時間」を抱え込んでいる。その一方で「アンドロイド」という日常には存在しないものが登場する。ただし、現実には存在しない「アンドロイド」(未来の存在)は、ことばとしては「山羊」「蠣殻」「烽火台」と同じように古い。誰もが知っていることばである。歴史的に見ると、「山羊」「蠣殻」「烽火台」と「アンドロイド」は同じ時代に生まれたことばないが、時里という「個人の時間」のなかでは「同じ時間」に存在する。時里がそれらのことばを自分のものにしたのは、せいぜいが半世紀の間のことである。時里の「半世紀」という「時間」のなかに「山羊」「蠣殻」「烽火台」も「アンドロイド」も「同時に」存在する。歴史的時間と個人的時間は違うのである。そして個人的時間のなかで歴史的時間は凝縮されて反復される。ふたつの時間の交錯、衝突、融合のようなものが時里の「ことばの肉体」をつくっていく。
 このとき、時里の「ことばの肉体」を動かす力の源、エネルギーのようなものは何か。それは「論理」である。そして、その「論理」は、少しおもしろい特徴を持っている。
 「アンドロイドである私に母がいるはずがないのに いるはずのない母が」という部分に「いるはずのない」が二回繰り返されているが、この「ない」を考える「論理」が時里の特徴である。「ない」ものは「ない」のだが、その「ない」を考えることができる。「ある」ものを考えるときは「実物」を動かして実証(実験)できるが、「ない」ものを考えるときは、それは「考え」のなかだけ。「ことば」のなかだけ。時里は「ない」を利用して、「ことば」のなかだけへと動いていく。どんなことも「ことば」にして、それを動かしていく。ことばを優先させて、「現実」をことばにあわせようとする。こういうことばと現実のありかたは、一般的には「非現実的」だが、「ない」ものを出発点にしているのだから、「非現実的」という批判はあたらない。そこではどんなことでも起きうる。現実に不可能なことも起きうる。いや、「現実になる」--時里が現実にしてしまう。ただし、ことばの動く範囲でのこと、ことばのなか、「虚構」のなかでのことではあるが。
 「ない」を起点にして動くことば、その矛盾といえばいいのか、嘘は、たとえばここでは「伯母」という形で具体化される。「母」がいるはずがない(いない)ということは、わかった(時里が書いている)。では、「母」がいないのに「伯母」がいるというとこがありうるのか。ありえない。ありえないけれど、それを無視して「伯母」の存在は絶対にゆるがないものとしている。「実在」も「非在」も、嘘なのだ。「論理」を装いながら時里のことばは動くが、そこには「実在」も「非在」もない。「こと」はただ「ことば」のなかにだけある。「ことば」という音のなかに「こと」が含まれるように。「ことば」だけが、時里にとっての「実在」であり、「論理」はその「実在」を「非在」へ向けて動かしていく。
 この詩では、時里のことばは、

 たひ やふ をす けさ おも わひ とふ

 標準日本語では何を指しているのかわからない二音節のことばと出会いつづける。「アンドロイド」はその「二音節」のなかに、「ことば」の発生を見ている。ある「実在」のものがあり、その「実在」を他者にとどけるために「声」で「音」を出し、「意味」にするという「ことば」の発生現場を生き直す。「ことば」の「論理」に頼る前のエネルギーを手に入れるという方向へ動いていく。
 それはしかし、「論理以前のエネルギー」にもどりたいからというよりは、そこにあるエネルギーをつかみとることができれば、「論理」をさらに強靱にできると夢見ているからだろう--と私は思う。
 時里のこの嗜好(指向?)は強烈で、その論理はあまりにも破綻がなさすぎて、ときどき、こんなにていねいに書かない方が詩らしくなるかもという印象を引き起こす。



 中島悦子「声をめぐる」(初出『藁の服』2014年10月)。

「悪い子はおらんかあ」。「泣く子はおらんかあ」。市民は低温火傷が痛いとようやく気付いているが、なすすべはない。「悪い子はおらおらおららんかあ」「泣く子はおらおらおららんかあああ」。涙を隠して、体育館で布団を敷き続けた。その布団にはまだ声が残っている。低温火傷は、見た目よりずっと深く、骨まで達している。
 
 こんなふうに詩の一部(引用したのは3連目)だけを取り出すと、何のことかわからない。いや、全体を引用しても、わかりにくさは変わらないと思うが、一部だけをとりだすとよけいにわからない。
 「悪い子はいないか、泣く子はいないか」と鬼が家々をまわる民俗行事。空中ブランコ乗りの話。小さな島国全部に毒が広がり、こどもが鼻血を出すという話が組み合わさる。体育館での避難も加わる。
 なんとなく、東京電力福島原子力発電所の事故を思い出す。放射能の影響は「低温火傷」のようにじわじわと肉体を蝕む。原子力発電に頼った生活は空中ブランコ乗りのように、「観念の中で幻のように存在する」ということか。
 中島のことばは「論理」的ではない。「こと」がばらばらに噴出してくる。中島の「肉体」のなかでは、「こと」はつながっているのだろうけれど、きちんとした「論理」でつなげることは私にはできない。できないのだけれど、あるいはできないからこそ、その「こと」を私はかってに結びつけて「論理」にしてしまう。「誤読」してしまう。
 つまり。
 私は中島のことばを借りて、中島がこんなふうにして東京電力福島原子力発電所、その事故の被災者のことを考えていると、かってに考える。あ、私も、この問題について考えてみなければいけないなあと、ぼんやりと思い返す。
 詩だけにかぎらず、文学(あるいは芸術の全てがそうかもしれないけれど)とは、そこに何が表現されているかということよりも、その表現に触れて、自分が何を考えるか、ということなんだろうなあ。
 中島の詩とは関係ないことを書いたかな?
 (『藁の服』はとてもおもしろい詩集。別の作品をとりあげて感想をすでに書いているので、検索して、そちらもお読み下さい。)



 中野完二「色即是空」(初出『へびの耳』2014年10月)は郵便物を投函にポストへ行く。その途中、へびを見かけるのだが……。

郵便物を投函して同じ道を戻った
へびはもういなかった
けれども
へびがいたあたりに
浅葱の色だけが横に長く浮いていた
ヒトのくるぶしぐらいの高さに
色だけが漂っていた
へびはもういないのに
実体はないのに
色だけがある
色は形だろうか
記憶だろうか
色のへびが
色だけで生きているように
ぷくぷく動く
色も変化する
浅葱から青空色になった
本日は晴天なりである
青空色のへびは
明日があると言うように
青渭神社に向かって
歩行者用押しボタンも押さずに
車道の上を飛んでいったが
とうとう見えなくなった

 あれっ、「色即是空」って、そんな意味? 何か違う感じがするのだけれど、そういうことかも。生命あるものが、死んで行く。あるときはへびの形をしている。しかし、へびという形にこだわってはいけない。こだわると、へびしか見えなくなる。
 「実体」のないところに「真実」がある。「実体」にとらわれていては「真実」はつかめない。
 というようなことを、ことばにしていくと、ややこしい。
 なんだか、とてもおかしいが、そのおかしさが、詩なんだなあ。
 へびは、もしかすると車にひかれてぺしゃんこの「色」になっていて、それが風に飛ばされ(車が走るときに起きる風に飛ばされ)、飛んで行った、ということかもしれない。いや、無事に車道を渡って逃げていったということかもしれない。
 書いてある通りに、へびをそこで見た記憶がよみがえり、その記憶の中では「色」の印象がいちばん強かったということかもしれない。
 どっちでもいいが(と書くと中野に申し訳ない気もするが……)、その「色」から「色即是空」を思い、「色即是空」に近づく(?)ようにことばが動いていく--その動き方がおもしろいなあ。
 いいかげん(?)でいいなあ。
 あ、このときの「いいかげん」というのは、「こだわりがない」という意味なんだけれど。
 時里のことばのように「論理」でがんじがらめではない。

あのへびは
亡くなられた
太極拳の師家・楊名時先生が
毎朝のようにくださった電話の代わりに
顔を見せてやろうと
この世にお出ましになったのではないか
志を色で見せてくださったのかもしれない

 そうだといいね。そうだと、うれしいね。
 とてもおもしろい詩だなあ。アンソロジーのなかでは、いちばん好きな詩と言えるかもしれない。

へびの耳
中野 完二
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前を歩いている男に

2015-01-27 01:36:10 | 
前を歩いている男に

前を歩いている男に追いつき、追い抜いた。
古本屋の前で。何度も通るが、行こうとするとたどりつけない
饅頭屋「駒や」の近くの、古本屋。

その瞬間、どこへ行こうとしていたのか忘れてしまった。
茶色の箱に入った古い活字の本がガラスのむこうに並んでいる、
背表紙の文字が読めそうで読めない男はガラスの半透明の影になり

本で埋めつくされた書架の路地に消えていく。
入れ代わり、闇の中から縁が変色した
別の男が出てきて、ことばのからだをすりぬけていく。

古いセーターの固くなった匂いと、積みかさなった本の匂いが似てくる。
そんなことばが、狭い犬小屋に閉じこもっている「駒や」の
柴のカタクナのように感じられる昼。

*

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