詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ディアオ・イーナン監督「薄氷の殺人」(★★★★★)

2015-01-18 19:56:39 | 映画
監督 ディアオ・イーナン 出演 リャオ・ファン、グイ・ルンメイ、ワン・シュエピン


 「犯罪の影に女あり」というのはミステリー小説の定石。この映画はその「定石」を堅実に守っている。ストーリーはとてもよくできていて、できすぎていて退屈なくらいなのだが、これを「芸術」にまで高めたのがこの映画。
 どんなふうに「ミステリー」を「芸術」に高めるかというと、人間を追いかけながら、登場人物以外の「情報」をびっしりとつめこむ。ストーリー以外の「情報」が「現実」をていねいに浮かび上がらせ、ストーリーを追うというよりも、「現実」の内部を表に引き出してくるという感じ。「現実」そのものを新しい視点で描き直して見せる--それが芸術だからね。
 こんな抽象的なことを書いてもしようがないので、具体的に書くと。
 女が逮捕されたあとのラストシーン。これが、この映画の特徴をとてもよくあらわしている。「現場検証」のために、女がかつて住んでいたアパートへ行く。そこで型通りの検証が行なわれるのだが、そのときストーリーとは無関係な「日常」が映画に割り込んでくる。
 アパート(団地)では子どもたちが遊んでいる。昼間なのに花火をしている。「白日焔火」というのが映画の原題であり、また殺人に「白日焔火」というカジノバーが関係してくるので、これは締めくくりにふさわしい演出ではあるのだけれど、花火そのものとストーリーとは無関係。
 で、その無関係な「日常」(子どもは殺人事件を知らずに、ただ遊んでいる)が、一瞬ではなくて、逸脱していく。誰かがアパートの屋上から花火を打ち上げる。その花火が四方八方に飛び散り、消防まで出動してくる。そういう「騒ぎ」が、まるでそのことがテーマでもあるかのように、真剣に描かれる。殺人事件のストーリーなんか、存在しない感じである。花火のシーンの情報(アパートには空き室が多い、あるいは解体途中なのか窓がないアパートの荒廃した感じ、はしご車まで出動してきて、花火を打ち上げているひとに警告する、など)が、「いま/ここ」の問題としてきちんと描かれる。ストーリーを忘れて、「その場」にいる感じになる。
 考えてみれば、どんな殺人事件のときでも、そのまわりには殺人とは「無関係」に「日常」がつづいている。その「日常」はかってに「祝祭」的な雰囲気で動いている。「殺人事件」そのものも、他人から見れば「祝祭」のひとつかもしれない。自分では体験できなめずらしいこと。警官がやってくる。パトカーがやってくる。「何、何が起きた?」好奇心がにぎやかに騒ぎだす。だれが犯人? えっ、あの女? 美人じゃないか。野次馬だね。
 これだね、この映画が描いているのは。
 何かが起きる。その真実を追い求める人間がいる。その一方、真実を追い求めるというよりも、自分の「好奇心」で動く人間がいる。主人公の刑事も真実を追い求めるということもあるにはあるが、それよりも好奇心が強い。問題の女にも好奇心で近づいていく。好奇心で動くから、どうしても「おもしろいもの」を引き込んでしまう。自分にとっての「関心」の方が「真実」追求よりも大切になる。
 こういうことを捜査用語で何と言うか。「刑事のカン」である。昔の殺人事件の被害者の妻、その美貌が気になる。その態度が気になる。その「気になる」には「刑事」の視線というよりも「男」の視線の方が大きな割合を占めている。女は別れた女にどことなく似ている。「男の視線」で女をみつめるとき、とうしたって「事件」とは別なものがどんどん入ってくる。クリーニング店で働いている。そのときの店長と女の関係とか、ちらりと目に入るものが「男」を刺戟する。そういう「場」の「情報」が、映画全体を豊かに膨らませていく。
 いやあ、うまい。
 いろいろ好きなシーンはあるが(ラストの花火は、フェリーニの「8 1/2」のラストの「祝祭」よりも自然で楽しい)、何度も出てくる雪もすばらしい。中国の北の方の都市が舞台。中国には不案内なので、私はそれがどこか見逃したのだが、雪が、北国の冷たい色をしている。日本に降る雪のように白くはない。灰色と青をまぜて凍らせたような色をしている。寒々しい。人間の欲望の色とは対極にあるような感じ。冷たいものと熱いものが絡み合って「事件」が動くのだなあ、と感じさせる。事件が解決したあと、別れた女のところへ行った刑事が、ひとりで踊って見せるシーンもばかばかしくていい。へたくそで、ばかばかしくてリアルだ。女の気を引こうとしている。その「こころ」が見えるのがいい。
 不満は、ひとつ。最初の方のシーンだが、ばらばら遺体と同時に「被害者」の作業服が出てくる。名前が書いてあったのだったか、身分証明書があったのだったか忘れてしまったが、それを手がかりに「被害者」が特定される。その瞬間、私は、「あ、これは被害者ではなく、偽装だ」とすぐに思ってしまった。ミステリーの初歩のトリックの「定石」。これは安直すぎて、ちょっとなあ……。ほんとうに「ばらばら遺体」にして身元を隠したいなら、身元につながるものは同じところに捨てない。トリックを完成させるための「伏線」。
 でも、ほかが完璧だったので、★5個。
                      (2015年01月18日、KBCシネマ2)




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近藤久也「オープン・ザ・ドア」、最果タヒ「きみはかわいい」、近岡礼「鴇色に爆発する」

2015-01-18 12:00:35 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
近藤久也「オープン・ザ・ドア」、最果タヒ「きみはかわいい」、近岡礼「鴇色に爆発する」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 近藤久也「オープン・ザ・ドア」(初出『オープン・ザ・ドア』2014年09月)。幼かったとき、両親が家を空ける。兄弟だけで留守番をしている。見知らぬひとが尋ねてくる。「誰が来ても決してドアをあけないように」と言われている。そのときの不安な状況を描いている。居間から、奥の小さな部屋にゆく。

  奥の小さな部屋の電灯に兄は来ていたセーターをまき
つけ、ベルトでしばった。電灯の真下だけがぼおーと明る
くて、とんでもなく心細かったが我慢した。もっと奥に
もっと小さな部屋があればと思った。

 この「もっと奥にもっと小さな部屋があればと思った。」が「みつかりたくない」という気持ちをしっかりとつかまえている。「もっと」「もっと」が切実だ。



 最果タヒ「きみはかわいい」(初出『死んでしまう系のぼくらに』2014年09月)。

みんな知らないと思うけれど、なんかある程度高いビルに
は、屋上に常時ついている赤いランプがあるのね。それ
は、すべてのひとが残業を終えた時間になっても灯り続け
ていて、たくさんのビルがどこまでも立ち並ぶ東京でだけ
は、すごい深い時間、赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地
平線が見られる。

 この書き出しは、象徴的でおもしろい。このあと「きみが無駄なことをしていること。 /きみがきっと希望を見失うこと。/そんなことはわかりきっていて、きみは愛を手に入れる為に、故郷に帰るかもしれないし、それを、だれも待ち望んですらいないかもしれない。」という青春が語られる。
 「きみ」はだれだろう。この場合詩集のタイトルになっている「ぼく(ら)」に従えば、「ぼく」から見た「きみ」だが、わたしには「ぼく」を「きみ」と二人称で呼ぶことで、自分を相対化しようとしているように思える。
 で、タイトルにもどると……。
 なぜ最果は「ぼく(ら)」という呼称、一般的に男が自分を呼ぶときにつかう呼称を詩集全体のタイトルにしたのだろう。最果が自分を客観的(相対化して?)に把握したいと思っているからかもしれない。そして、その思いが、この詩でも「わたし(ぼく)」でもなく「きみ」という「二人称」を選ばせている。
 詩を書いている「ぼく」を最果と考えると、「ぼく」は仮構された存在、そしてこの仮構された存在が誰かを「きみ」と呼ぶとき、それが同じように仮構された「ぼく」自身であるなら、仮構された「きみ」は女であり、その女は「最果」ということになるかもしれない。仮構のなかでことばを動かしながら、最果は仮構されない自分(女の自分)に語りかけているのかもしれない。
 そういう仮構するこころ(精神)の動きとビルの赤い灯は、どういう関係にあるのか。これはちょっと考えただけではわからない。考えても、わからないのだけれど……。
 「深い時間」と「赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地平線」ということばが、「きみ」「ぼく」「わたし」という「主語」の「仮構」と交錯し、あ、その「赤い地平線」の「ぽつぽつ」のひとつひとつが「きみ=最果自身」のように感じられる。最果の「肉体」のなかで動いているもの、「肉体」の深い深いところまでおりていくと見える最果の本質のように感じられる。
 最果は東京で「他人」に出会い、その出会いのなかで、最果自身と同じように、「肉体」の「深い」ところで「常時ついている赤いランプ」を感じたのかもしれない。それは、ふつうの時間(日常の時間)には見えない。残業も何もかも終わって、「わたしという肉体」にもどった瞬間、それがあることに気づくというものかもしれない。そして、その「赤い灯」を「肉体の深いところ」でともしているひとは、遠く離れて、「ぽつぽつ」と生きている。「肉体のふかいところ」へ帰ったとき、その「ぽつぽつ」が「ばらばら」な存在ではなく「地平線」のように連続して見える。
 「ぼく」「きみ」「わたし(書かれていないのだけれど……)」という仮構のなかで、最果は孤独と連帯する。
 「ぼく」「きみ」「わたし」という相対化(客観化)は自分自身の深いところ(孤独)へおりてゆく方法なのかもしれない。

きみはそれでもかわいい。
とうきょうのまちでは赤色がつらなるだけの夜景がみられ
るそうです。まだ見ていないなら夜更かしをして、オフィ
スの多い港区とかに行ってみてください。赤い夜景、それ
は故郷では見られないもの。それを目に焼き付けること、
それが、きみがもしかしたら東京に、引っ越してきた理由
なのかもしれない。

 書き出しで「東京」と書かれていた街が「とうきょう」を経て、もう一度「東京」にもどる。ここにも「ぼく」「きみ」「わたし」の主語の交錯と同じものがある。「ぼく」は仮構した「わたし(最果)」であり、「きみ」は「ぼく」の仮構した「わたし」であり、仮構を繰り返すことで「ぼく」は「わたし(最果)」にもどる。
 「東京」は「赤い灯」という「現実」を中心に「仮構」の都市「とうきょう」になる。その「仮構」されることで見えるものをもう一度語り直すとき、「とうきょう」は「東京」にもどる。その運動のなかで、最果は最果自身を見つめている。自分を見つめることが他人とつながる唯一の方法だと発見している。自分をみつめると、おのずと「ぼくら」になるということを発見していると言いかえてもいい。



 近岡礼「鴇色に爆発する」(初出『階段と継母』2014年09月)。行頭ではなく、行末がそろえられた形式詩。行頭をそろえて引用すると印象が違ってしまうのだが、ネットではうまく表記スタイルを再現できないので、行頭をそろえた形で引用する。正確な詩は詩集で読み直してください。

階段は幻想し
鴇色に爆発する
わたしはわたしであってわたしでなく
あなたはあなたであってあなただ

どうせ一度は灰になるものなら
この静止は必定の予言者だ

 何のことかわからないが「断定している」ということだけはわかる。行頭の上の「空白」を飛び越して、ただ断定する。飛躍の肯定と言いかえるとき、「詩の定義」が突然よみがえる。詩とはかけ離れた存在を結びつける行為。--あまりにもまっとうすぎて、「はい、その通りです」という感想しか思いつかない。批判的に言いかえると、「古い」ということ。時代が逆戻りしたような錯覚に陥る。

死んでしまう系のぼくらに
最果 タヒ
リトル・モア
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椅子に座って

2015-01-18 01:28:53 | 詩(雑誌・同人誌)
椅子に座って

椅子に座って、
卵を見ている。その男がなぜ卵を見ているか、そのことを
ことばは書きたいと思った。

夜遅く椅子に座って、
灰皿を見ている。灰皿にはたばこの吸殻がいらだった匂いを発して重なっている、
それを書いたのではつまらない詩になってしまう。

椅子に座ったその右側の引き出しが半分開いている。
外国のはがきがある。外国とわかるのはカテドラルが写っているからだ。
それは、ことばの書きたいことではない。

バスの椅子に座って外を何とはなしに見ていると、
バスが歩いている女を追い越した。女は大きな硬い鞄を持っていた。
どこか外国の街で見た風景のようだった。

椅子に座って、
引き出しのなかから取り出した封筒、切手のはってない封筒から取り出した
手紙を机の上に拡げた。その紙の谷と山の折れた形、

椅子に座って、
集中しなければと、ことばは思った。集中するために卵を見つめているのだ。
無意味に。






*

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