平岡敏夫「月の海」、藤井貞和「アカバナー 2 化(まぼろし)」、やまうちかずじ「逢坂」(「現代詩手帖」2014年12月号)
平岡敏夫「月の海」(初出『月の海』2014年08月)。
「童謡」なのだろうか。「桃の花」は女の子の節句。「柏の葉」は男の子の節句。でも、こどもの成長を静かに祈っているという感じとは少し違う。音が暗い。短調の響きがある。
幼いまま亡くなった子どもを追悼しているのかもしれない。
「童謡」には楽しいと同時に不思議な悲しさがある。「赤い靴はいてた女の子……」の歌も、妙に不気味でこわい。
月は明るい。けれど、その月夜の海は白く輝く光の柱以外は黒く輝いている。強烈な対比が、幼い子の死の幻を引き起こすのか。
*
藤井貞和「アカバナー 2 化(まぼろし)」(初出「水牛のように」2014年08月号)。藤井のこの詩も、また「歌」なのかもしれない。平岡の詩は「童謡」なので、そこに書かれていることばはイメージになりやすい。「絵」を想像できる。しかし、藤井の詩は簡単にイメージを結ばせてくれない。イメージを完結させてくれない。
これは書き出しの5行。「主語」と「述語」がわからない。つまり、散文になっていない。「意味」がわからない。ところどころ、イメージが、ただイメージとして浮かんでくる。
月が出ている。光が白い。草むらが光っている。草が揺れると影が乱れる。乱れるということばが「不乱」ということばによって逆に印象的に見えてくる。舞茸を食って、毒に当たり(?)、狂ったように舞う。舞いは楽しいはずなのに、狂気はかなしい。かなしいけれど、そこには何か「真実」がある。正確な「論理」にできないことばの飛躍のなかに、何かが見えたように感じる。
錯覚かもしれない。
月の兎。月には兎が住んでいる。それは幻、錯覚だけれど、月の影に「兎」の姿を見てしまうという想像力は「ほんもの」である。見たものは「にせもの」であっても、それを見る力は「ほんもの」。
その「ほんもの」は見たものが「幻」であるだけに、「ほんもの」であることを証明するのはむずかしい。いつでも「ほんもの」は「事実」によって検証される。そして「にせもの」(まちがい)と断定されるのだけれど、そういう「科学の経済学/論理の経済学」を超えて「夢見る力の経済学」は動いてしまう。
月の光、満月の日の「うしろの正面だあれ」。輪になってまわるとき、その輪は「夏越し祭」の「茅の輪」に似ているか。輪の中の鬼。それは、何をくぐり、何を手に入れるのか。
藤井は、書かない。
私の書いてきたことは、単に私の「空想」であって、藤井の考えていることかどうかはわからない。わからないが、ことば、その飛躍は、ある種の「音楽(歌)」になって人間を動かす。
「かごめ、かごめ」をしながら、子どものとき、「肉体」のなかに何をおぼえてきたのだろう。それは「科学の経済学/論理の経済学」からすると何の役にも立たない。「資本主義の経済学」にも縁がない。(何かの役に立っているかもしれないが、よくわからない。)
何の役にも立たないかもしれないが、人間は、ことばの、「役に立たない音楽(歌)」のようなものに反応してしまう。その反応、ことばを書きながらの反応そのものを藤井は書いている。「歌」として書いている。「意味」ではなく、「歌」う瞬間に「肉体」のなかで起きる「意味」を超えた何かを響かせようとしている。
この詩は、最初
と、具体的な何かを書いて、そのあとに丸括弧をひらいて、それに向き合う反対というか、真奥というか別なことを書く。最初に書いた「月しろの光、光のくさむらに」の「光」に対して「かげ」をぶつける。(影は光という意味もあるので、必ずしも反対のものとは言えないけれど……。)
そして、の丸括弧は閉じられず、つまり、半分意識をずらす形、イメージ論理が完結しない形のまま次に「音楽」としてつながっていく。「意味」ではなく、聞き覚えのある「音」をたよりにことばが響きあう形でつながるのだが、
うーん、どこからだろう、ことばの前半と後半が入れ代わる。括弧の形がかわる。括弧が閉じられるようになる。(括弧を開きはじめた場所が、あいまいなまま、閉じられることだけが強調されるような感じ。)
ものを見てことばを最初に発したときは、まだ「もの」が優勢だった。「もの」を語ろうとしていた。けれど語っているうちに(歌っているうちに、「対象」よりも「歌う」とう「動詞」が自立して、勝手に動いていく感じだ。
「歌」は意味を必要としない--と書くと、書きすぎなのかもしれないが、「意味」はだんだん暴走し、「意味」をなくしてしまい、声を発する(ことばを発する/歌を歌う)という「欲望」が「意味」を乗っ取ってしまう。
悲しいはずの「童謡」も、子どもは大声で歌ってしまうような、何か原始的(野性的?)な「歌」の衝動がある。
*
やまうちかずじ「逢坂」(初出『わ音の風景』2014年08月)。
表記の仕方がかわっている。ところどころ漢字をつかわずに、ひらがなをつかている。そのひらがなを読むと、そこで私の意識は急にゆっくりする。このリズムの変化が、妙にあやしい。
詩は、文学仲間(詩の同人のたぐい?)が集まって話をして、また別れるということを書いているのだが、その「内容」よりも、そのときの会合の、書き方が、書き出しと同じリズムである。(2連目は「場所」の説明なので、そこだけ通常の漢字のつかい方をしている。)
その、仲間が会ったときの4連目。
藤井の作品と違って、「意味」はわかる。情景が思い浮かぶ。--けれど、「ほんとう」かな? 私が思い浮かべた情景は、やまうちが見たもの(体験したもの)なのかな? これが微妙である。
私は「喫茶」「女性」「空」「女」「齢」と、やまうちの書いたことばを次々に漢字の「意味」で追いながら、同時にひらがなの「音」にとどまる。ひらがなを一字一字目で追うことに時間をかける。やまうちは、こんなふうにゆっくりと対象をみつめているのかな、「意味」にならないように「なま」の感じでつかみとっているのかな、そんなこと、そんな思いを無意識に繰り返しているが、それでいいのかな?
たぶん、間違っているだろう。
間違っているのだろうけれど、私は、実は気にしない。そうか、同じ時間、同じことをしていたとしても、私とやまうちでは、「肉体」のなかで動いていることばが違っている。似ているようでも違っている。「音」にしてしまうと、そっくりだけれど、違うんだぞという感じが、私のなかに残る。
詩は(文学は)、いままで人が気づかなかったこと、わかっているけれどことばにできなかったことをことばにするものだけれど、やまうちは、同じことばでしか言えないけれど、ちょっと違うと言いたい--ということを書いているのかもしれない。
平岡敏夫「月の海」(初出『月の海』2014年08月)。
月の海
黒く輝く広い海
桃の花に乗った女の子が
両手で小枝の両側をしっかり握り、
唇を小さく噛んで、静かな海を流れて行きました。
月の海
黒く輝く広い海
柏の葉に乗った男の子が
両手で葉の両側をしっかり掴み、
唇を固く閉じて、静かな海を流れて行きました。
「童謡」なのだろうか。「桃の花」は女の子の節句。「柏の葉」は男の子の節句。でも、こどもの成長を静かに祈っているという感じとは少し違う。音が暗い。短調の響きがある。
子供らの魂を乗せた桃の舟、柏の舟は、次々と、
黒く煌きながら、遥かな月の海を流れて行きました。
幼いまま亡くなった子どもを追悼しているのかもしれない。
「童謡」には楽しいと同時に不思議な悲しさがある。「赤い靴はいてた女の子……」の歌も、妙に不気味でこわい。
月は明るい。けれど、その月夜の海は白く輝く光の柱以外は黒く輝いている。強烈な対比が、幼い子の死の幻を引き起こすのか。
*
藤井貞和「アカバナー 2 化(まぼろし)」(初出「水牛のように」2014年08月号)。藤井のこの詩も、また「歌」なのかもしれない。平岡の詩は「童謡」なので、そこに書かれていることばはイメージになりやすい。「絵」を想像できる。しかし、藤井の詩は簡単にイメージを結ばせてくれない。イメージを完結させてくれない。
月しろの光、光のくさむらに、(のたうつかげのわれらの- 不乱
舞茸を舞々つぶり、食えば舞う。 (かなしむ- 月光下の、 撒(さん)である
月の兎、 (腐肉の犠牲。 いま明かり行く真性の菌(たけ)に 食われて
夏越しの茅の輪、 (燃える地上にかげもまたスリラー、潜るスクリーン
うしろの正面の磔。 (怪かしの来てむさぼる、 ぼろぼろの鬼ごっこ
これは書き出しの5行。「主語」と「述語」がわからない。つまり、散文になっていない。「意味」がわからない。ところどころ、イメージが、ただイメージとして浮かんでくる。
月が出ている。光が白い。草むらが光っている。草が揺れると影が乱れる。乱れるということばが「不乱」ということばによって逆に印象的に見えてくる。舞茸を食って、毒に当たり(?)、狂ったように舞う。舞いは楽しいはずなのに、狂気はかなしい。かなしいけれど、そこには何か「真実」がある。正確な「論理」にできないことばの飛躍のなかに、何かが見えたように感じる。
錯覚かもしれない。
月の兎。月には兎が住んでいる。それは幻、錯覚だけれど、月の影に「兎」の姿を見てしまうという想像力は「ほんもの」である。見たものは「にせもの」であっても、それを見る力は「ほんもの」。
その「ほんもの」は見たものが「幻」であるだけに、「ほんもの」であることを証明するのはむずかしい。いつでも「ほんもの」は「事実」によって検証される。そして「にせもの」(まちがい)と断定されるのだけれど、そういう「科学の経済学/論理の経済学」を超えて「夢見る力の経済学」は動いてしまう。
月の光、満月の日の「うしろの正面だあれ」。輪になってまわるとき、その輪は「夏越し祭」の「茅の輪」に似ているか。輪の中の鬼。それは、何をくぐり、何を手に入れるのか。
藤井は、書かない。
私の書いてきたことは、単に私の「空想」であって、藤井の考えていることかどうかはわからない。わからないが、ことば、その飛躍は、ある種の「音楽(歌)」になって人間を動かす。
「かごめ、かごめ」をしながら、子どものとき、「肉体」のなかに何をおぼえてきたのだろう。それは「科学の経済学/論理の経済学」からすると何の役にも立たない。「資本主義の経済学」にも縁がない。(何かの役に立っているかもしれないが、よくわからない。)
何の役にも立たないかもしれないが、人間は、ことばの、「役に立たない音楽(歌)」のようなものに反応してしまう。その反応、ことばを書きながらの反応そのものを藤井は書いている。「歌」として書いている。「意味」ではなく、「歌」う瞬間に「肉体」のなかで起きる「意味」を超えた何かを響かせようとしている。
この詩は、最初
月しろの光、光のくさむらに、(のたうつかげのわれらの- 不乱
と、具体的な何かを書いて、そのあとに丸括弧をひらいて、それに向き合う反対というか、真奥というか別なことを書く。最初に書いた「月しろの光、光のくさむらに」の「光」に対して「かげ」をぶつける。(影は光という意味もあるので、必ずしも反対のものとは言えないけれど……。)
そして、の丸括弧は閉じられず、つまり、半分意識をずらす形、イメージ論理が完結しない形のまま次に「音楽」としてつながっていく。「意味」ではなく、聞き覚えのある「音」をたよりにことばが響きあう形でつながるのだが、
うーん、どこからだろう、ことばの前半と後半が入れ代わる。括弧の形がかわる。括弧が閉じられるようになる。(括弧を開きはじめた場所が、あいまいなまま、閉じられることだけが強調されるような感じ。)
あらしのゆくえ、 いつしか)みとせの(あなたに遠のいて)、化(まぼろし)が来る
嘆きの水よ)、 くれないの死者に)寄り添う(小動物を追う)、 あぶくま- 遥か
吹き落ちて)、 心火のあまい)乳汁を、あかごなす、魂か- 泣きつつ渡る)
つぶたつ) 粟のそじしに、惨として別れた)。 そじしが)切り立っていた)
ものを見てことばを最初に発したときは、まだ「もの」が優勢だった。「もの」を語ろうとしていた。けれど語っているうちに(歌っているうちに、「対象」よりも「歌う」とう「動詞」が自立して、勝手に動いていく感じだ。
「歌」は意味を必要としない--と書くと、書きすぎなのかもしれないが、「意味」はだんだん暴走し、「意味」をなくしてしまい、声を発する(ことばを発する/歌を歌う)という「欲望」が「意味」を乗っ取ってしまう。
悲しいはずの「童謡」も、子どもは大声で歌ってしまうような、何か原始的(野性的?)な「歌」の衝動がある。
*
やまうちかずじ「逢坂」(初出『わ音の風景』2014年08月)。
でんしゃが河をわたり、高層ビルがちかくになったとき、
ケータイがなった。シートを立って、デッキにむかう。で
んわは、まえに逢ったことのあるおとこからのはずだが、
走行音でなまえはきこえない。えきで待つといって切れ
た。着信履歴にばんごうがひかる。
表記の仕方がかわっている。ところどころ漢字をつかわずに、ひらがなをつかている。そのひらがなを読むと、そこで私の意識は急にゆっくりする。このリズムの変化が、妙にあやしい。
詩は、文学仲間(詩の同人のたぐい?)が集まって話をして、また別れるということを書いているのだが、その「内容」よりも、そのときの会合の、書き方が、書き出しと同じリズムである。(2連目は「場所」の説明なので、そこだけ通常の漢字のつかい方をしている。)
その、仲間が会ったときの4連目。
新装まもないギャラリーきっさ。モネの絵の詩をかいた神
戸のじょせい。マンションから見あげるそらに廓のおんな
のおもいを重ねる八十よわいの元院長夫人。富士登山のつ
えを擬人化してかいた後期高齢よびぐんのだんせい。おも
いついた感想ですがとまえおきして話す白いパンツのじょ
せい。おとこの咆哮を詩集にあんだかんれきの求職者。交
わす批評。コーヒーカップのすれあうおと。
藤井の作品と違って、「意味」はわかる。情景が思い浮かぶ。--けれど、「ほんとう」かな? 私が思い浮かべた情景は、やまうちが見たもの(体験したもの)なのかな? これが微妙である。
私は「喫茶」「女性」「空」「女」「齢」と、やまうちの書いたことばを次々に漢字の「意味」で追いながら、同時にひらがなの「音」にとどまる。ひらがなを一字一字目で追うことに時間をかける。やまうちは、こんなふうにゆっくりと対象をみつめているのかな、「意味」にならないように「なま」の感じでつかみとっているのかな、そんなこと、そんな思いを無意識に繰り返しているが、それでいいのかな?
たぶん、間違っているだろう。
間違っているのだろうけれど、私は、実は気にしない。そうか、同じ時間、同じことをしていたとしても、私とやまうちでは、「肉体」のなかで動いていることばが違っている。似ているようでも違っている。「音」にしてしまうと、そっくりだけれど、違うんだぞという感じが、私のなかに残る。
詩は(文学は)、いままで人が気づかなかったこと、わかっているけれどことばにできなかったことをことばにするものだけれど、やまうちは、同じことばでしか言えないけれど、ちょっと違うと言いたい--ということを書いているのかもしれない。
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