蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」、平田好輝「シャコ」、平林敏彦「瑠璃の青」(「現代詩手帖」2014年12月号)
蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」(初出「現代詩手帖」2014年07月号)。副題に「荻野夕奈氏の作品に」とある。「さまよう庭」という作品のなかをさまよっている作品のようだ。砂に似た色、ベージュ色が広がっていて、そのなかに形があらわれてくる。それは蝶に見えたり、満開の花、枯れようとするつぼみ、葉っぱ、小枝のように見えたりする。
「そんなものはなくて、」「そんなものはあって、」。つまり、どちらでもない。「決めなければならない瞬間」というものがあるようにみえて、それもない。「瞬間」という「時間」さえない。「瞬間」だから「ない」のではなくて、「時間」というものに「実体」はないのだ。
全てを投げ捨てる、自分さえも捨ててしまう--そのときに、そこが「庭」になるということだろう。
この世界はもう一度繰り返される。ひとは大事なことは何度でも繰り返す。繰り返している間に矛盾してしまうこともある。道義反復になることもある。それでも、それを繰り返す。繰り返すことが、唯一、肯定だからである。肯定といっても、否定しなければならない肯定であるけれど。つまり、肯定に拘泥していては、肯定したものが「我」になってしまう。
「ならなくてもいっこうに構わない」が「自在」であること、その瞬間瞬間、そこに何かがあらわれること、何かになることを可能にする。「構わない」は「固執しない」ということだろう。
これは、めずらしく「一元論」の詩である。すべての存在は「私(あるいは真理)」であるが、それを「私(真理)」と呼んでしまうと(そのことに固執すると)、それは誤謬になってしまう。全ては、それが立ち現れる瞬間に「真理」なのだが、「真理」と呼ぶと「真理」ではなくなる。こういうとき、私は「存在するのは契機(一期一会)だけである」と言いたくなるのだが、まあ、これもそう言ってしまうと「嘘」になってしまう。
わかる(感じる)のは、蜂飼が荻野の作品との「一期一会」を「一期一会」のまま、ことばにしようとしているということである。
*
平田好輝「シャコ」(初出「青い花」78、2014年07月)。この作品は大好きだ。一回感想を書いた。それをもう一度アップしよう--と思ったが、見当たらない。どこかにまぎれてしまったのかもしれない。「検索」できないだけで、どこかにあるかもしれない。
同じことになるかもしれないが、同じ文章をアップしようと思ったのだから、同じになってもかまわないだろう。
これは「一期一会」の詩である。
と、はじまり、小さな店に連れて行かれる。車で40分もかかるから、まあ、けっこう遠い店だ。
引用してしまうと、書くことが何もない。以前この詩を読んだときは引用したら満足してしまって、感想を書かずに終ったのかもしれない。
何が書いてあるかというと、ただあまりよく知らない人とシャコを食べに行った、ということだけである。それがそのまま書いてある。「悪夢にうなされそうなほどのおびただしいシャコ」と書いてあるが、そのことを書きたいという感じではない。
何も感想はないのだが、ふと、こういうことは誰にでもあるよなあ、と思い出してしまう。あまりよく知らない人と、誘い合わせていっしょにものを食べる。あるいは飲む。そして、それはそれっきりということもある。なぜいっしょに食べたのか、飲んだのか、よくわからないが、たまたまそういう話が出て、話が出てしまったので、なんとなくそうしてしまった。それなのに、そのことをおぼえている。忘れてしまえば何でもないことなのに、なぜかおぼえている。
最終行、
その「やさしい目」が「食べっぷり」を、どんなかたちにも自在にかえてしまう。見られながら食べるというのは変な気持ちだが、そのひとは食べっぷりを目で食べていたのかもしれない。--などと書いてしまうと、この詩はつまらなくなる。
あれは確かにあったことだが、一度きり、そこにあらわれてきた瞬間、それだけの何かだったのだと思った方が楽しい。このあらわれかたは、手応えがないようでも、とても充実している。
*
平林敏彦「瑠璃の青」(初出『ツィゴイネルワイゼンの水辺』2014年07月、「水●」は文字が変換できないため「辺」で代用)。冬の朝を描いている。「たまゆらに/ふりむく空が裂けたかと/おどろく冬の朝がある」と静かにはじまったことばが、だんだん張り詰めてくる。
平田の平易なことばと比べると、ずいぶん違う。平林はことばひとつひとつを輝かそうとしている。ことばに緊張感をもたせようとしている。そしてそのことばは、いま/ここにない何かをことばの力で出現させる。
そこにある「現実」よりもことばがとらえる「真実」が優っている。ことばが「現実」を「真実」に作り替えようとしている。その「真実」を求める欲求が、ことばを厳しく律している。
最初に出てきたことばが繰り返され、繰り返すことで、ふたつの同じことばにはさまれたことばを両側から圧縮し、結晶させようとしているように感じる。
「詩の作法」を感じた。
蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」(初出「現代詩手帖」2014年07月号)。副題に「荻野夕奈氏の作品に」とある。「さまよう庭」という作品のなかをさまよっている作品のようだ。砂に似た色、ベージュ色が広がっていて、そのなかに形があらわれてくる。それは蝶に見えたり、満開の花、枯れようとするつぼみ、葉っぱ、小枝のように見えたりする。
すべてのはじまりの色
そんなものはなくても、
決めなければならない瞬間
そんなものはあって、
どこからやって来るのだか
ふと訪れる色という色は 息を殺して
投げ出すもの投げ出してまざりあう
「そんなものはなくて、」「そんなものはあって、」。つまり、どちらでもない。「決めなければならない瞬間」というものがあるようにみえて、それもない。「瞬間」という「時間」さえない。「瞬間」だから「ない」のではなくて、「時間」というものに「実体」はないのだ。
全てを投げ捨てる、自分さえも捨ててしまう--そのときに、そこが「庭」になるということだろう。
この世界はもう一度繰り返される。ひとは大事なことは何度でも繰り返す。繰り返している間に矛盾してしまうこともある。道義反復になることもある。それでも、それを繰り返す。繰り返すことが、唯一、肯定だからである。肯定といっても、否定しなければならない肯定であるけれど。つまり、肯定に拘泥していては、肯定したものが「我」になってしまう。
かたちを求めてかたちにならないもの
なることを 拒むもの
いまにも かたちになろうとするものや
ならなくてもいっこうに構わないもの
ほどいて 溶けてゆく 飛びたつ
沈みこむ ふりむく
ひそめる息、影
ひとつひとつに影また影
「ならなくてもいっこうに構わない」が「自在」であること、その瞬間瞬間、そこに何かがあらわれること、何かになることを可能にする。「構わない」は「固執しない」ということだろう。
これは、めずらしく「一元論」の詩である。すべての存在は「私(あるいは真理)」であるが、それを「私(真理)」と呼んでしまうと(そのことに固執すると)、それは誤謬になってしまう。全ては、それが立ち現れる瞬間に「真理」なのだが、「真理」と呼ぶと「真理」ではなくなる。こういうとき、私は「存在するのは契機(一期一会)だけである」と言いたくなるのだが、まあ、これもそう言ってしまうと「嘘」になってしまう。
わかる(感じる)のは、蜂飼が荻野の作品との「一期一会」を「一期一会」のまま、ことばにしようとしているということである。
*
平田好輝「シャコ」(初出「青い花」78、2014年07月)。この作品は大好きだ。一回感想を書いた。それをもう一度アップしよう--と思ったが、見当たらない。どこかにまぎれてしまったのかもしれない。「検索」できないだけで、どこかにあるかもしれない。
同じことになるかもしれないが、同じ文章をアップしようと思ったのだから、同じになってもかまわないだろう。
これは「一期一会」の詩である。
シャコを食わせる店に
連れていってあげますと言うから
シャコぐらいどこだって
食えるのではないかと思ったが
万事任せることにした
と、はじまり、小さな店に連れて行かれる。車で40分もかかるから、まあ、けっこう遠い店だ。
巨大な深皿に盛り上げた
シャコが出てきて
わたしは焼酎を飲みながら
何十匹ものシャコを
食べ続けた
彼は車の運転があるので
焼酎は飲まず
シャコもせいぜい
二、三匹口にしただけだった
わたしたちは
ほとんど何の会話もなく
相客の一人もいないその小さな店に四十分ほどいた
悪夢にうなされそうなほどのおびただしいシャコを
わたしは食べた
彼は二、三度会っただけの
名前もよく知らない奴だったが
やさしい目でわたしの食べっぷりを見ていた
引用してしまうと、書くことが何もない。以前この詩を読んだときは引用したら満足してしまって、感想を書かずに終ったのかもしれない。
何が書いてあるかというと、ただあまりよく知らない人とシャコを食べに行った、ということだけである。それがそのまま書いてある。「悪夢にうなされそうなほどのおびただしいシャコ」と書いてあるが、そのことを書きたいという感じではない。
何も感想はないのだが、ふと、こういうことは誰にでもあるよなあ、と思い出してしまう。あまりよく知らない人と、誘い合わせていっしょにものを食べる。あるいは飲む。そして、それはそれっきりということもある。なぜいっしょに食べたのか、飲んだのか、よくわからないが、たまたまそういう話が出て、話が出てしまったので、なんとなくそうしてしまった。それなのに、そのことをおぼえている。忘れてしまえば何でもないことなのに、なぜかおぼえている。
最終行、
やさしい目でわたしの食べっぷりを見ていた
その「やさしい目」が「食べっぷり」を、どんなかたちにも自在にかえてしまう。見られながら食べるというのは変な気持ちだが、そのひとは食べっぷりを目で食べていたのかもしれない。--などと書いてしまうと、この詩はつまらなくなる。
あれは確かにあったことだが、一度きり、そこにあらわれてきた瞬間、それだけの何かだったのだと思った方が楽しい。このあらわれかたは、手応えがないようでも、とても充実している。
*
平林敏彦「瑠璃の青」(初出『ツィゴイネルワイゼンの水辺』2014年07月、「水●」は文字が変換できないため「辺」で代用)。冬の朝を描いている。「たまゆらに/ふりむく空が裂けたかと/おどろく冬の朝がある」と静かにはじまったことばが、だんだん張り詰めてくる。
ただよう浮雲の果て
ゆくりなくこの世にこぼれおちた日の
まぶしさもときめきもいつか薄れ
剪定をわすれた木の実のように
あらまし腐爛したものの影は
ひそかに荒れた地の底へ下りて行った
見はるかす海
もえる陽はまだ中天にあり
まぼろしの光を反射する秤の皿は
愉悦と慰撫でほどほどに釣り合っているが
かつて破船とともに姿を消した漁夫たちも
明日は風の沖で網を打っているだろうか
平田の平易なことばと比べると、ずいぶん違う。平林はことばひとつひとつを輝かそうとしている。ことばに緊張感をもたせようとしている。そしてそのことばは、いま/ここにない何かをことばの力で出現させる。
なべて約束の場所に生きるものよ
いつ仮に磔刑の日がおとずれようと
ふりむく空が裂けたかと
おどろく冬の朝もある
そこにある「現実」よりもことばがとらえる「真実」が優っている。ことばが「現実」を「真実」に作り替えようとしている。その「真実」を求める欲求が、ことばを厳しく律している。
最初に出てきたことばが繰り返され、繰り返すことで、ふたつの同じことばにはさまれたことばを両側から圧縮し、結晶させようとしているように感じる。
「詩の作法」を感じた。
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