詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ケン・ローチ監督「ジミー、野を駆ける伝説」(★★★★)

2015-01-25 12:38:04 | 映画
ケン・ローチ監督「ジミー、野を駆ける伝説」(★★★★)

監督 ケン・ローチ 出演 バリー・ウォード、シモーヌ・カービー、ジム・ノートン


 アイルランドが舞台の映画は、私はとても好きだ。映像が美しい。特に緑が美しい。たぶん、島国であること、湿気が多いことが影響しているのだと思う。(イギリスの緑も好きである。アメリカ映画の緑は、どうにも好きになれない。)北の、さむざむしい空気が、雪国生まれの私にはなつかしく感じられる。
 北のさむざむしい荒地と緑というのは、一種の矛盾かもしれない。たとえば東南アジアの豊かな緑の方が美しい、乾燥に苦しむことのない奔放な緑の方が美しい。暴力的な緑の爆発は輝かしい--という見方があると思う。それはそうなのだが、私は、アイルランドの(あるいはイギリスの)、一種の暗さを秘めた緑が好きなのである。根強く生きているという感じがする。
 この映画の舞台になっている「ホール」の姿にも、何か、その根強さと共通するものを感じた。歌ってダンスして楽しむ。その一方で、音楽を教えたり、詩を語り合ったりする。地域の人が自主的に集まってきて、自分のできることを教えあい、楽しみ、生きていく。そこから、どこかへ出て行くわけではない。そこに根を張って、そこで生きて、楽しんでいる。ほかのことは、望まない。その「ささやかであること」の強さ、貧しさ、寒さを団結することではね返すような強さ……と書いてしまうと「意味」になりすぎるのだろうけれど。そういうものを感じる。
 ここで生まれた、だからここで生きる、自分の意思で生きる、そのために工夫する。これは、どこでも必要なことだろうけれど、特に北の貧しい土地では、そういうことが必要だ。南国のように、放っておいても実りがあるわけではない。それが北の緑だ。
 この映画の主役は、地主の搾取、資本主義体制と闘い、そのために国外に通報された青年だが、その主張が「労働者(農民)の権利の拡大」というよりも、「いま/ここで生きる」ということを妨げるものと闘うという感じなのが手ごわい。外に出ていかない。ただ「ホール」を守る、「ホール」で歌い、ダンスをし、いっしょに学び、教えあう。つまり、そこに生きる人がみんな根を張ってしまう、というのが手ごわい。
 この映画で描かれているわけではないが、この「根を張る」という生き方は、資本主義にとってはいちばん困る問題かもしれない。資本主義は労働者をより合理的に組織しなければならない。人を集めなければならない。また、余分になったら、切り捨てなければならない。人が流動しないことには産業というのは合理的に組織できない。ひとと土地を切り離してしまわないと、人間は流動しない。
 主役のジミー、主役の「ホール」は、その「根を張る」拠点である。「ホール」があるかぎり、若者は「ホール」に集まる。その土地を離れて、どこかへ出て行く必要がない。もし必要なものがあればと、それを「ホール」に持ち込めばいい。そういうことの象徴が、ジャズとジャズにあわせたダンスだ。ジミーはアメリカに追放されていたとき、ジャズクラブでジャズを聴いた。ダンスもした。それを「ホール」で再現する。みんなが夢中になる。ニューヨークへ行かなくても、「ホール」がニューヨークと同じ「場」になる。「世界の中心」になる。人間の行動が、「場」を豊かにかえていく。そこに集まる一人一人が豊かになれば、そこが豊かになる。その豊かさは、「金銭」の豊かさではない。精神の豊かさだ。
 大人とこどもがいっしょになって詩を読むシーンがある。少女が朗読を終える。そのあと、詩の「意味」を問題にするのではなく、まずどう感じたか、何を感じたか、それを言ってみようと、その場のリーダーがいい、それに応じて一人が語りはじめる。語ることで、そしてそのことばを聞くことで、だんだんこころが豊かになっていく。そういう豊かさが、とても美しい。ことばを共有することで、豊かになっていく。
 ジミーは結局、再びニューヨークへ追放される。この「追放」は、また、資本主義の限界をあらわしているとも言える。ジミーがアイルランドにいるかぎり、「根を張る」という運動は生まれてしまう。「根」を遠ざけるしかない。「根」を分断するしかない。そこに資本主義の弱点がある。資本主義と闘うときの「原点」は、生まれた場所から離れない、そこで生きるという方法なのだ。人間は、どこでも豊かに暮らせる、豊かになるためには「ホール」が必要だ。
 北国の、緑の生き方を、そこに重ね合わせるように、私は映画を見た。

 アイルランドの、どの町かも私にはわからない小さな町(あるいは田舎といってしまった方がいい)を舞台に、私には聞いたこともない青年を取り上げ、きちんとその主張を、「ホール」のにぎわいのなかで具体化するケン・ローチに敬意をあらわしたい。「ありがとう」と伝えたい。
                        (2015年01月24日、中洲大洋4)






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杉本真維子「同祖神」、鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」ほか

2015-01-25 11:14:16 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
杉本真維子「同祖神」、鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」、鈴木ユリイカ「砂漠」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 杉本真維子「同祖神」(初出『据花』2014年10月)。詩集『据花』はおもしろかったが、アンソロジーに収録されている「同祖神」は、私は感心しなかった。

泥を掻き混ぜて団子をつくり
嘘のように喰らっている、
供え物を疑う
やせたこころを
犬が喰う

シャツを破かれ
歯形のついた腹で
門をたたくとやさしい祖父の銃口が光った
おまえのため、は慟哭となった
わたしも喰うよ
犬を喰うよ

嘘を吐いてもとめられぬ
薄暮にふるえ
ならばわたしが祖父を喰う

 イメージが交錯する。何度か繰り返されることばがある。「嘘」と「喰う」。「嘘」は「喰らって」と「吐く」とまったく違う「動詞」といっしょに動いている。「喰らって」は自主的な行為にも見えるし、受動的にも見える。受動ならば「喰らわされて」なのかもしれないが……。「喰う」は「犬」と「祖父」を目的語(対象)としているが、「嘘のように喰らって」の「嘘」もまた「喰う」の対象になっているようにも感じられる。
 「嘘」が奇妙な具合に動いてしまったのかもしれない。
 私はそのことばから、奇妙なイメージを持った。
 供え物の団子を「わたし」が喰ってしまった。かわりに、どろの団子を置いた。そして、「団子は犬が喰った」と嘘の報告をした。「犬にかまれた」という嘘を破れたシャツで拡大し、腹についた歯形でさらに増幅させる。(実際に腹に歯形が残った、ということではなくて、ことばの上だけでそれを増幅させているのだと思う。「嘘」なのだから。)犬が喰ったのは「わたしの嘘」。それを聞いた「祖父」が犬を叱った。犬を叩いた。(犬を実際に殺して「喰う」というよりも、想像力のなかでは、喰ってしまうに匹敵する。)それは「わたし」の「嘘」が原因である。「嘘」の結果にふるえながら、「わたし」は「犬」にかわって、想像力のなかで「祖父」に仕返しをしている。(「祖父」を喰っている。)
 子どもは「嘘」を平気でつく。その平気のあとの悲しさのようなものを、ストーリーにせず(わかりやすい嘘にせず)、ことばの脈絡をわざと外して、イメージだけがざわめくように書いている。
 そんなふうに読んだ。
 このストーリーをわかりやすくしない、脈絡をわざと外すという方法は、ことばが「混沌」から、ことば自体として結晶してくるよう印象を引き起こす。「嘘」にしろ「喰う」にしろ、明確な「根拠」、言いかえると「事実」との「対応」を示さないので、ことばの「生まれどころ」がわからないという「不安」となって「肉体」を刺戟してくる。
 こんな読み方でよかったのかな、と言いかえることもできる。
 こいうときの「不安」そのもののなかに(意味の揺れ動きが誘い出す肉体の記憶--肉体がおぼえていることの浮遊感のなかに)、たしかに詩はあるのだろうけれど、この「同祖神」はイメージがわりと単純な感じがして、他の詩集の作品に比べるとおもしろみに欠ける。
 もっとも、私が言いなおしてみた「イメージ」は「誤読」かもしれないけれど。杉本はまったく違うことを書いているのかもしれないけれど。



 鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」(初出「浜風文庫」2014年10月25日)。「わたしはいつ死ぬのだろう。」という一行で始まる。いつかは死ぬと考えている。

ところが、
わたしは
明日、
わたしの身体が息を引き取るとは思っていないのです。
来月とも思ってない。
来年は、80歳になるけれどまだ大丈夫でしょう。
と、一人でくすっと笑ってしまう。
歩く足がしっかりしていないから二年後はあやしい。
三年後はどうか。
いや、進行性の難病の麻理が亡くなるまでわたしは死ねないのだ。
お互いに老いた病気の身体で介護しなくてはならない。
支えにならなくてはならない。
麻理より先には死ねないのだ。
ズッシーン。

 深刻なことがらが、そのまま書かれている。杉本の詩とは違って、イメージは飛躍しない。ことばの出所がわからないということはない。ことばと事実を結びつけて、そのまま受け止めてしまう。つまり「嘘」などどこにも書かれていないと感じる。「来年は、80歳になるけれどまだ大丈夫でしょう。/と、一人でくすっと笑ってしまう。」に、少し安心する。
 不思議なのは、こういう「内容」を書き、そこに「ズッシーン」という変なことばがはいりこむところだ。何だか軽くない? 「ズッシーン」で、何か具体的なことが伝わってくる? 
 「ズッシーン」では、私には、鈴木の「実感」がわからない。わからないから、わからないまま、あ、これは鈴木にとっても「まだことばにならない感覚」なんだなあ、と思う。ほんとうは明確なことばにしたい。けれどできない。「ズッシーン」は「未生のことば」なのだ。「ズッシーン」といいながら、その「ズッシーン」を超えて、別なことばがあらわれるのを待っているのだ。詩のインスピレーションが突然どこかからか降ってくるのを待つように「ズッシーン」が「ズッシーン」でなくるのを待っている。

自分で死ななければ、
心肺停止はいずれにしろ突然なのだ。
ズッシーン。
遠い寂しさが、
晴れた十月の秋の空。
陽射しが室内のテーブルの上にまで差し込んでる。

 これは、最終連。最後の3行が、「ズッシーン」を超えている。「ズッシーン」の「意味」になっている。秋の陽射しが何かをするわけではない。鈴木の生死と関係があるわけではない。その非情さが美しい。「ズッシーン」は世界の非情さと向き合っている。



 鈴木ユリイカ「砂漠」(初出「妃」16、2014年10月)。マルチーヌという女性がサハラ砂漠で仲間とはぐれる。昼をさまよい、夜に倒れサボテンになって花を咲かせて生き延びる夢を見た。

マルチーヌ マルチーヌってば 起きて 起きて
起きるのよ 朝のまぶしい光のなかでみんなが来て
彼女は助けられた 彼女はまた人間になった
人間なのに歩くとなぜかぼろぼろ砂がこぼれ落ちた
わたしは小さな砂漠なのよ、と交差点を渡りつぶやいた

 最後の「交差点」ということばが、マルチーヌはほんとうに砂漠で倒れ、助け出されたのか、あるいは都会の交差点で倒れて、その一瞬にサハラ砂漠で倒れる幻を見たのか、砂漠の体験がいつもマルチーヌの肉体から離れないということなのか、都会でもサハラ砂漠の幻想に襲われるということなのか、わからなくさせる。
 このあいまいさ、わからなさが詩?
 私は、都会の交差点で気を失った瞬間、サハラ砂漠でさまよいサボテンになったという幻を見た--と読んだが。マルチーヌは鈴木の、気を失った瞬間の名前だろうと考えるのは「理詰め」すぎるかな?

裾花
杉本 真維子
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スペイン語教室

2015-01-25 00:47:29 | 
スペイン語教室

カフェのテーブルサイドの小さなランプが
女の指に小さな影をつくって、散らかした。
森のなかの蝶のように
隠れたりあらわれたりするのを見ていた。

「誰にも知られたくないこと」という作文のテーマが出たとき、
そんな文章をつくったら、ラウラ先生は不思議な顔をした。
テーブルの下で裸の膝が閉じたり開いたりするのでどきどきした、
と書きたかったが「膝」ということばがわからなかったので。

「あら、そっちの方が秘密っぽいわね」
傷ひとつない冬の午後が消えてしまった。


*

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