詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安水稔和「道の辺の」、佐々木幹郎「静止点」

2015-01-30 10:14:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
安水稔和「道の辺の」、佐々木幹郎「静止点」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 安水稔和「道の辺の」(初出『有珠』2014年10月)は菅江真澄の足跡を追いつづける。菅江は何をしたか。(引用ではルビを省略した。)

有珠を立ち
道々。
道の辺の草々を手に
その名を問えば。

 萩  シケツプ
 芒  カバル
 藜  シルナキ
 木賊 ビシビシ

 その土地で草がどう呼ばれているかを尋ねて、それを記録した。そういうことを安水はどんな批評もくわえず、ただ書き記している。確かめている。
 このとき、安水は「菅江」になっているのか、その土地の人になっているのか。「菅江」になって、土地の人に聞いている。「菅江」の耳を反芻している。単純に考えると、そうなるのだが、私はときどき、そこから逸脱してしまう。
 「菅江」になって草の名前を聞き取りながら、次第次第にその「土地の人」になっていく。「シケツプ、カバル、シルナキ、ビシビシ」と繰り返していると、見なれた草が新しく生まれ変わっていく。その「土地の人」になって、草を見つめていることに気づく。「土地の人」に「なる」というのは「土地」になること、その「土地」がへてきた時間そのものに「なる」ことだ。

風が立ち
日が傾き。
道の辺の立木を仰ぎ
重ねて問えば。

 柳   シユシユニ
 榛   ホウケルケニウチ
 黄檗  シケンべ
 山胡桃 ニシコ

 「土地」「人」と一緒に、「土地」「人」を超え、「時間」になるとき、「風」はもうその土地という限定を超えている。「日が傾く」というのはどの土地でも起きる。その傾きは土地土地によって違うけれど、「日が傾く」という動きは同じ。それと同じように「風が立つ」という動きも土地の限定を超える。そして、「名前をつける(名前で呼ぶ)」ということも、その「土地」「人」と一緒にありながら、「土地/人」を超える。「人間」という存在の普遍的な「動詞」となる。
 普遍の風と光のなかで、ことばが動く。
 普遍の「人間」になりながら、安水はまた、「菅江」になり、土地の人になり、土地そのものになっていく。その往復。そんな姿を感じる。止まることのない静かな、そして強い「動詞」が隠れている。



 佐々木幹郎「静止点」(初出「イリプス Ⅱnd」14、2014年11月)。
 「スクティ」と呼ばれる羊の干し肉を舐めながら標高五千メートルの土地を歩いている。スクティの描写が簡潔で美しい。

歯で齧らず 舐めている
枯れきった肉に溶けているもの
ターメリック コリアンダー 唐辛子

 どこの土地とは書いていないのだが、私はネパールとかヒマラヤとか、アジアの山岳地帯を想像した。
 後半は、スクティを舐めると滲み出てくるものが「肉体」のなかに入って、そこでことばになって動く感じがする。

何度も山道で
突然湧き出てきた白と黒の羊たちに取り囲まれた
「人間など やめちまえ!」
「どうせ死ぬだけだ」
角を突き立て 口々に羊たちはわめき
流星のように走り去り
残されたわたしは
スクティを舐めた
魂が破れる 辛い かすかな音がして

 私は「魂」というものが自分のなかにあると感じたことがないし、自分の外にも感じたことがない。「魂」ということばをつかって何かを書こうと思ったことはないのだが、自分というものが「破れる」と感じたことはある。「肉体」がぱっと破れて、四方に開かれる。「肉体」が消えるという感じ。
 佐々木は「魂」と書いているのだが、私は、そこに書かれている「破れる」を手がかりに、自分の感覚を重ねてみた。そういう「こと」、そういう「瞬間」はたしかにある。
 そういうこと、そういう瞬間というのは……

「人間など やめちまえ!」
「どうせ死ぬだけだ」

 この部分。自分ではないものの「声」が突然襲ってきて、私を「破る」。
 誰の声?
 佐々木は、ここでは「白と黒の羊たち」と書いているが、羊は日本語を話すわけではない。
 佐々木の、自覚できなかった声、無意識の声。そして、その声は羊と出合ったとき、突然、聞こえた。佐々木が羊になっている。羊になっているから、羊の「ことば」がわかるのだ。
 「人間」である佐々木が破れた。「人間」が破れた。その「人間」を佐々木は「魂」と呼んでいる。
 「魂」が破れるとき「辛い」かすかな音がするのは、佐々木の舐めている「スクティ」の香辛料の味が「辛い」からだろう。佐々木は、佐々木を取り囲んだ「羊」と一体になっているだけではなく、その羊がその後なるだろうスクティにもなっている。羊の「一生」になって、生きている。その「一生」は死んで食べられるというのではなく、食べられて誰かの「肉体(魂)」になる、というところまで含んでいる。
 「羊」になったあと、佐々木は、さらに変わっていく。

崖の下から熱い砂嵐が襲ってくる
目をつぶると
馬も耳を垂れ 四つ足を垂直にして
目をつぶる
地上から 浮いていることがわかる
馬とともに
崖の上の山道で わたしは風に溶けた

 砂嵐のなかで「目をつぶる」、そのとき「馬」も「目をつぶる」。馬に乗っていたのかもしれないが、砂嵐に襲われて、佐々木は馬から下りて立っているかもしれない。「四つ足を垂直にして」というのは馬の描写だが、このとき佐々木は二本の足を垂直にしている、ふんばっているのだろう。「足を垂直にして立つ」「目をつぶる」という「動詞」のなかで「肉体」が馬と同化する。一体になる。そして、馬と一体になった佐々木は、そのとき「自然」そのものとも一体になる。風になる。羊→馬→自然(風)。この自然は「宇宙」と言いかえることができる。
 「魂」が「破れ」、「風」に溶ける(風と区別のつかないもの、風そのものになる)ことで、佐々木は、「宇宙」に「なる」。
 こういう瞬間を、この村の人たちは……

村人たちはみな
祖先が猿であることを誇っている

 という具合に言っていた。(引用の順序が逆になってしまった。)
 「人間」という「枠」をとっぱらう。「人間」という「枠」にこだわらない。「いま/ここ」に「ある」。「ある」とき、人は何かになっている。何になるか、こだわらず、「なる」が自在に動くとき、そこに「宇宙」があらわれる。動物とひとつづき、連続している、動物と一体であるというのは、それだけ「宇宙」に近い。だから「誇り」である。
 いいなあ。
 詩のタイトルは「静止点」。この「静止」は、止まっているというよりも、どこへでも動けるという「静止」だ。「自在」をささえる「静止」、ある動き(ベクトル)にこだわらない感じ、こだわりを「破る」瞬間だ。「点」であるけれど「宇宙」全体でもある。遠心と求心が合体した瞬間としていの「点」だ。
 アンソロジーの最後をしめくくるのに最適な詩だ。

明日
佐々木 幹郎
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夕暮れの灰色の空を

2015-01-30 06:00:00 | 
夕暮れの灰色の空を

夕暮れの灰色の空を固まっては崩れ、また固まって飛んでいる、
あの無数の鳥の群れは何という鳥なのか。

光をどこかに隠している灰色の空はどこまでも広く、
鳥の群れは無数に見えてもその広さを埋めつくすことができない。

黒い小さな影になって呼びあうこともない鳥の群れは
どこへ飛べばいいのかわからないまま、その形を崩しては建て直す。

はじき出され飛び散ってしまいそうになる一羽になることを恐れているのか、
一羽になってしまおうとする鳥がいることを他の無数が恐れているのか。

感情が割れてしまって別なものになるのを恐れるように
夕暮れの灰色の空を、固まっては崩れ、また固まって飛んでいる。


*

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