監督 スティーブン・ダルドリー 出演 リックソン・テベス、エデュアルド・ルイス、ガブリエル・ウェインスタイン

ごみ拾いをしている少年が腐敗した政治家の「証拠」へつながる財布を拾う。そのために警察に追われる。頼りになるのは、それまで身に着けてきた「生き方」だけ。何度も何度も警官から逃げてきた。その「逃げ方」が、映画の展開のなかで何度も何度も生かされる。身軽に狭い街を駆け抜け、塀を飛び越し、あるいは渡り、屋根の上をかけまわる。下水のなかも平気で進む。「肉体」でおぼえていることを最大限に生かす。警官が危険、汚いと思っていることを逆手にとって逃げる。
はらはらどきどきというよりも、わくわくする。警官なんかに負けるな、がんばれ、がんばれ、と思わず応援してしまう。一瞬一瞬が、冒険である。新しいことをする喜びがある。深刻で重いテーマの映画だが、その深刻さ、重大さ、社会的な「意味」を忘れて、ほんとうにわくわくして見てしまう。
主役の3人の少年がすばらしい。ごみ拾いをしている。汚れているのに、汚れがしみついていない。単に服や汚れているだけ。肉体は汚れていない。こういうとき、簡単に「瞳が汚れていない、目が輝いている」、あるいは「こころが汚れていない」という言い方をするが、私は「肉体が汚れていない」と言いたい。「肉体」がしていいこと、してはいけないことをしっかりつかみ取っていて、それが汚れを撥ねつけるのである。
いろいろ好きなシーンがあるが、「肉体が汚れていない」と強く感じたのが、二人が川に飛びこんで遊ぶシーン。財布をひろった直後、わりと速い段階のシーンである。その川は汚れている。ごみが浮いている。水も透明ではない。けれど少年は気にしない。汚れた水のなかで、汚れをおしのけて、「水」だけを自分の「味方」にしてしまう。汚れた水のなかにある、汚れとは無関係な「水」だけを身にまとう。まるで純粋な「肉体」と純粋な「水」が触れ合って、そのまわりだけ「純粋」にしてしまう。
このシーンが、一見、無造作で、無意味なようで、少年たちの「暮らし(生き方)」そのものを描ききっていて、とても好きだ。ごみ拾いの仕事が終わったから、遊ぶ、水で汚れを落とす--それだけのことなのだが、そこに「肉体」が、「生き方」が強烈にでている。何も主張せずに、ただ「肉体」として描かれている。
この「汚れ」を寄せつけない働きを、この映画では「正しさ」と呼んでいる。「水」はからだを清める、「水」はからだを冷やす--その「正しい水」が、少年が川へ飛びこむことで、そこから生まれてくる。
少年の「肉体」には、そういうエネルギーがある。
少年が「事件」のなかへ飛びこむと、その「事件」から「汚れ」がはじき出され、少年のまわりには「正しいこと」だけが集まってくる。「純粋」を引き寄せる力がある。教会で英語を教えている女性が、少年に頼まれて刑務所にいる弁護士(不正を追及したために逮捕された)に会いに行く、その典型である。政治家の家で働いている男が、政治家の秘密をぽろりと語ってしまうのも、そういうことのひとつの言えるだろう。
少年たちは、その「肉体」が頑丈で「正しい」力に満ちているだけではなく、「頭脳」も強靱である。健康である。学校に行っているわけではないのだが、というか、学校に行けないからなのかもしれないが、聞いたことを覚えてしまうという力を持っている。耳にしたことを手がかりに生きている。「手紙」を覚えてしまうという記憶力も活躍するが、クライマックスの聖書の暗号解読が、実におもしろい。「英語教室」でカードをつかって動物の名前を覚えるというシーンが、信じられない形で甦ってくる。英語の聖書なので、暗号解読は無理とおとななら思ってしまうかもしれないが、英語であってもわかるかもしれないと思い、読みはじめる。「暗号」の手がかりをさがす。そうして、ことばを「意味」ではなく「もの(存在)」としてつかみ取って、そこから暗号を解読してしまう。
このときも、できるかどうかわからない、けれどやってみよう、という感じで解読がはじまるのがいいなあ。ここにも、最初に書いた「わくわく」があふれている。「正しいこと」をやりたいというよりも、したいことをやりたい、という感じになっているのが、とてもいい。
(2015年01月11日、天神東宝4)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

ごみ拾いをしている少年が腐敗した政治家の「証拠」へつながる財布を拾う。そのために警察に追われる。頼りになるのは、それまで身に着けてきた「生き方」だけ。何度も何度も警官から逃げてきた。その「逃げ方」が、映画の展開のなかで何度も何度も生かされる。身軽に狭い街を駆け抜け、塀を飛び越し、あるいは渡り、屋根の上をかけまわる。下水のなかも平気で進む。「肉体」でおぼえていることを最大限に生かす。警官が危険、汚いと思っていることを逆手にとって逃げる。
はらはらどきどきというよりも、わくわくする。警官なんかに負けるな、がんばれ、がんばれ、と思わず応援してしまう。一瞬一瞬が、冒険である。新しいことをする喜びがある。深刻で重いテーマの映画だが、その深刻さ、重大さ、社会的な「意味」を忘れて、ほんとうにわくわくして見てしまう。
主役の3人の少年がすばらしい。ごみ拾いをしている。汚れているのに、汚れがしみついていない。単に服や汚れているだけ。肉体は汚れていない。こういうとき、簡単に「瞳が汚れていない、目が輝いている」、あるいは「こころが汚れていない」という言い方をするが、私は「肉体が汚れていない」と言いたい。「肉体」がしていいこと、してはいけないことをしっかりつかみ取っていて、それが汚れを撥ねつけるのである。
いろいろ好きなシーンがあるが、「肉体が汚れていない」と強く感じたのが、二人が川に飛びこんで遊ぶシーン。財布をひろった直後、わりと速い段階のシーンである。その川は汚れている。ごみが浮いている。水も透明ではない。けれど少年は気にしない。汚れた水のなかで、汚れをおしのけて、「水」だけを自分の「味方」にしてしまう。汚れた水のなかにある、汚れとは無関係な「水」だけを身にまとう。まるで純粋な「肉体」と純粋な「水」が触れ合って、そのまわりだけ「純粋」にしてしまう。
このシーンが、一見、無造作で、無意味なようで、少年たちの「暮らし(生き方)」そのものを描ききっていて、とても好きだ。ごみ拾いの仕事が終わったから、遊ぶ、水で汚れを落とす--それだけのことなのだが、そこに「肉体」が、「生き方」が強烈にでている。何も主張せずに、ただ「肉体」として描かれている。
この「汚れ」を寄せつけない働きを、この映画では「正しさ」と呼んでいる。「水」はからだを清める、「水」はからだを冷やす--その「正しい水」が、少年が川へ飛びこむことで、そこから生まれてくる。
少年の「肉体」には、そういうエネルギーがある。
少年が「事件」のなかへ飛びこむと、その「事件」から「汚れ」がはじき出され、少年のまわりには「正しいこと」だけが集まってくる。「純粋」を引き寄せる力がある。教会で英語を教えている女性が、少年に頼まれて刑務所にいる弁護士(不正を追及したために逮捕された)に会いに行く、その典型である。政治家の家で働いている男が、政治家の秘密をぽろりと語ってしまうのも、そういうことのひとつの言えるだろう。
少年たちは、その「肉体」が頑丈で「正しい」力に満ちているだけではなく、「頭脳」も強靱である。健康である。学校に行っているわけではないのだが、というか、学校に行けないからなのかもしれないが、聞いたことを覚えてしまうという力を持っている。耳にしたことを手がかりに生きている。「手紙」を覚えてしまうという記憶力も活躍するが、クライマックスの聖書の暗号解読が、実におもしろい。「英語教室」でカードをつかって動物の名前を覚えるというシーンが、信じられない形で甦ってくる。英語の聖書なので、暗号解読は無理とおとななら思ってしまうかもしれないが、英語であってもわかるかもしれないと思い、読みはじめる。「暗号」の手がかりをさがす。そうして、ことばを「意味」ではなく「もの(存在)」としてつかみ取って、そこから暗号を解読してしまう。
このときも、できるかどうかわからない、けれどやってみよう、という感じで解読がはじまるのがいいなあ。ここにも、最初に書いた「わくわく」があふれている。「正しいこと」をやりたいというよりも、したいことをやりたい、という感じになっているのが、とてもいい。
(2015年01月11日、天神東宝4)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
![]() | リトル・ダンサー BILLY ELLIOT [DVD] |
クリエーター情報なし | |
アミューズ・ビデオ |