詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」

2015-01-29 10:07:18 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤原安紀子「ヲカタ カタン」(初出「びーぐる」25、2014年10月)は何が書いてあるのかわからない。タイトルが何語なのかもわからない。

みちのくわ地にまき来る よほう師の群れをみると ぼくはたってねむる
均等に 丘ごもり するためだ

 書き出しの2行だが、読んで情景が浮かぶのは「ぼくはたってねむる」。主語、述語のつながりが納得できるからである。
 ただし、「意味」は「わかった」とは言えない。直前の「よほう師の群れをみると」の「みると」は「見る」だと思うのだが、「見ると」「ねむる(眠る)」が対立(?)する動詞なので、私は悩んでしまう。
 「見る」のをやめて「眠る」のか。
 「みる」と「ねむる」の関係、切断/接続がわからない。「ねむる」と次の「丘ごもり」の「こもる」は「接続」がわかる(かってに「誤読」できる)。「ねむって/こもる」。冬眠のような「こと」を想像する。そう「誤読」する。
 私は、詩は「ことばの切断/接続」の関係のなかにあると思っている。あることばが別のことばと結びつくとき、それまでの関係を断ち切り(切断)、新しい関係を結ぶ(接続)。その「新しさ」が詩だと感じている。「誤読」の可能性が詩だと感じている。
 切断/接続がわからないと、お手上げ。
 また、どんな国のことばでも「動詞」が基本だと思っているので、その動詞の関係(何を切断し/何を接続するか)がわからないと、そこに書かれていることばについていけなくなる。
 藤原に言わせれば、切断/接続がわかってしまうと、それは詩ではなく「論理」になってしまうのかもしれない。「論理」にならない状態の発語、観念を経ない発語こそが詩であるということかもしれない。
 「論理」というのは、どうしたって「観念」。
 「観念」の世界では、「論理」なしでは何事も起きない。叙述できない。--これを逆手にとって、「論理」なしで何かを叙述すれば、それは「観念」ではなく、「観念」以前のことば、詩になる、ということかもしれない。
 そういうことは、考え方としてありうるかもしれないけれど、私はどうも納得できない。

こうして旋回時間のきやくが わからない川縁を歩き ふんぬして投球する
いくたびも胸打たれ ふりしぼって掴み 夏の木の葉にぶら下がる

 「きやく」「ふんぬ」は「規約」「憤怒」だろうか。「客」ということばも不意に浮かんでくる。「投球する」も「ぶら下がる」もほかの「歩く」「ふんぬする」「打たれる」「ふりしぼる」「掴む」も動詞としてわかるのだけれど、それを私の肉体でつないでいくとき(その動きを想像してみるとき)、それが一続きにならない。どういう「感情」がそれだけの動詞を接続させているのか、わからない。「誤読」できない。
 藤原にとっては、「動詞」さえ、ばらばらにばらまくことができる「名詞」なのかもしれないなあ。名詞をあらゆる「こと」から切断し、「ここ」に集めてみせるとき、その多様性が詩であるということかな?



 文月悠光「無名であったころ」(初出「ユリイカ」2014年10月号)にもわからないところはあるが、藤原の詩を読んだあとだと、全部「わかる」と言いたくなる。「接続」が多い。

音を拾いはじめたマイク、
きみは忠実に話す。
これはテストではない。
落とされた影、
光はもう降りそそいでしまった。

 どこかで「きみ」が話している。マイクに声が拾われているのだから、広い会場だろう。「落とされた影」は「影」をつくるライト(光)を浴びているということだろう。「テスト」ではなく「本番」だ。
 そのあと(散文形式の3連目)に、

吸って吸われて空気、歪みはじめている。

 という魅力的なことばがある。魅力的と感じるのは、1連目のライトを浴びて何事かを話しはじめた「きみ」が、(あるいは「きみのことば」が)、変化しはじめるということに通じるものがここに書かれていると「誤読」できるからである。「誤読したい」という欲望をそそるからである。ことばは接続/切断を繰り返すから、それはどうしたって「客観的な世界」とは別の「きみの世界」(固有の世界)になる。その「固有」というのは「歪み」である。
 この「固有の世界」の誕生は、そのまま「神話」でもある。

まぶたをおしあげる力が
この星をかたちづくった。
空が、月が、海が、できていくのを
わたしたちは尾を振りながら見ていました。
土と契約し、
雨と契約し、
風と契約し、
記述できないまなざしを交わし合った。
世界が無名であったころ、
わたしたちの血は
見えない宇宙にも流れていた。

 その「契約」が、文月にとっては詩ということになる。世界との固有の契約(文月語によって書かれた契約)--それが、詩。



 安田雅博「製材所の跡地」(初出『跡地の家族たち』2014年10月)は文体(思想)がおもしろい。独特である。製材所には当然のことだが材木があった。そして、そこでは人が働いていた。跡地に立って、その消えた人と材木を思っている。

何十万本何百万本の脚の踏み固めた地面を呑み込んでいる跡の更地に
層をなして積もる踏んだ一歩一歩の時間の残滓の上に 用済みになり
いなくなった人たちの 材木に取り付く何本もの手 押して進む何本もの脚
吐く息 前方を見つめる目
人も物も 下方から支えていた空無の底へ あるともないとも知れないところへ
落下している
「人」は<ノ>と<逆ノ>に
「木」は<十>と<ノ>と<逆ノ>に
「材」は<十>と<ノ>と<、>と<才>に 砕かれ
名前のないあらゆるものとともに

 「存在」(ひと/もの)が「存在」そのものとしてではなく、いったん「漢字」でとらえれらて、そこからことばが動いていく。「存在」が「観念」になって、その「観念」を「漢字」の構造(部分?)から見つめなおしている。「ノ」というカタカナや読点「、」まで登場するのだが、うーん「ノ」「、」かと私はうなってしまう。私は「木」の三画目を「ノ」と思ったことはなかったし、「材」の四画目を「、」と思ったことはない。「、」ではなく、安田の表現にしたがえば「逆ノ」だろう。「材」の「部首」は「木」だろう、と思ってしまう。
 私は、見える形と、その形が内包している「意味」は違うと考えている。「形」そのものがすでに「意味」によって変形させられている。合理的に処理されている。だから「形」から「意味」を探るときは慎重さが必要だと考えている。ところが、安田は「形」が内包している「意味」(「材」の部首は、「木」というようなこと)をとっぱらって見ている。「意味」なんかなかったという具合に見ている。「時間の残滓」ということばが出てくるが、「意味」をとっぱらってしまうと、それは「意味」をつくるときに捨ててきた「残滓」のように見えてくる。
 「残滓」を見つめながら、「残滓」ではなかった「時」へもどって「存在」をもう一度組み立て直しているような、奇妙な、粘着力のあることばの動きだ。「無意味」なことばの構築、それを可能にする粘着力というものを感じた。そして、それが「無意味」だからこそ、そこに詩を感じた。安田の「肉体」だけがかかわっている何か、そういうものを感じた。

 安田の詩を読むのは、私は、たぶん初めてだ。先日読んだ「色即是空」の中野完二も初めて読んだ。初めて読む人のことばは、とてもおもしろい。「初めて」のなかに、詩がある。

跡地の家族たち
安田 雅博
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詩のことば

2015-01-29 00:22:31 | 
詩のことば

女が歩いてくる。服が揺れる。
しなやかに光る布が、女の体の動きを少し遅れて反復する。
女の欲望がめざめて
表にあらわれてくるようだ。

詩のことばも、そんなふうだったらいい。

読んだ人のまわりで
ことばが揺れる。
意味をほどかれたことばが
人のおぼえていることを
少し遅れて反復する。
言いたかったことが
目覚めて動く。

少し遊びのあることば、
少し間違えたことば、
の方が
詩のことば



*

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