岩崎迪子「夕暮れ時」、岩成達也「ル・トロネ聖堂の微光」、大崎清夏「アルプ」(「現代詩手帖」2014年12月号)
岩崎迪子「夕暮れ時」(初出『丘の上の非常口』2014年07月)。1連目と2連目の落差(飛躍?)がおもしろい。
時々
夕暮れになると
わたしの肩にそっと
手を置きに来る人がいる
それは
もういない母でもなく
ましてや昔の恋人でもない
読みかけの書物のなかの
主人公なのだろうか
それとも遠くから訪ねてくれた
忘れかけの
古い友人なのだろうか
肩にやさしく冷たい気配が近づくと
川の向こうに
闇のかたりまが姿をあらわす
そんなことを書きながら
今晩は鶏のから揚げにしようと思った
ニンニクと生姜をうんときかせて
醤油味にしてみよう
明日逢うかもしれない誰彼の迷惑なんて
考えないことにしよう
揚げたての鶏肉の
ニンニクの感情
「気配」のようなものを書いていて、それからこれから食べる鶏のから揚げを思う。そこに生身の人間が入ってくる。「明日逢うかもしれない誰彼」。その「誰彼」は「肉体」をもっていて、その「肉体」はニンニクのにおいを嗅ぐ。迷惑そうな顔をする。うーん、具体的だなあ。
1連目の「気配」も、私にはわからないが具体的なのかもしれない。そっと肩に手をおく。そのときの母の記憶。恋人の記憶。「気配」を通り越している。「読みかけの書物なかの/主人公」というのは抽象的だが、岩崎はそのタイトルを書いていないだけで、ほんとうは強く実感している。岩崎には分かっているので書いていないだけなのだろう。「忘れかけの/古い友人」も忘れたわけではない。忘れかけているということを意識しないではいられないほどはっきり覚えているということなのかもしれない。
2連目の「誰彼」も抽象的ではなく、きっと岩崎にはわかっている。明日逢う人がわかっている。約束している。けれど、そのひとの「迷惑」を振り切って、ニンニクをきかしたから揚げを食べる。そこには、ある種の「決意」さえある。この決意を、
揚げたての鶏肉の
ニンニクの感情
「感情」と言いなおしている。ニンニクに感情があるわけではない。ニンニクを食べる岩崎の感情があり、その感情がニンニクの匂いとなって、明日、岩崎の口から息と一緒に吐き出される。
私は、その前の行を「揚げたての鶏肉の肉体」と読みかえたい衝動に襲われているのだが。「鶏肉」だけではおとなしすぎて「感情」に拮抗できない--というのは、あくまで、私の「感覚の意見」だけれど、書いておきたい。
*
岩成達也「ル・トロネ聖堂の微光」(初出「花椿」2014年07月号)。
深い夜、闇の中であなたは目を覚まします。何も見えないので、
慌てて、また、あなたは目を堅く閉ざします。すると、やがて、
目の内側の闇の中に、微かな光にも似たものが点々と現れてくる、
あなたはそれを感じます。
「あなた」の動きが「自動詞」で描かれる。まるで「私」の体験していることのように描かれる。実際、岩成は体験している。自分の「肉体」で「あなた」の「肉体」の「内部」を体験している。「内部を」と書いてしまうのは、「目の内側の」という表現があるからだ。「あなた」が目を開いたり閉じたりするのは、外から、つまり第三者が観察して判断できることであるが、その「目の内側」の世界は「あなた」にしかわからないはずである。その「あなた」にしかわからないことを、岩成は「わかって」書いている。「目の内側」から「あなた」になって、それを見ている。
あなたはそれを感じます。勿論、微光は光ではありません、光源が
どこにもないのですから。でも、かつて私もそれに似た経験をした
ことが何度もあります。例えば、遂に行けなかった、ル・トロネの
修道院。
なぜ、そんなことができるのか。「かつて私もそれに似た経験をした」と岩崎は書く。「肉体」がそれを覚えている。
ただし、その「肉体が覚えている」ことが、少し、微妙である。岩成は実際にル・トロネ聖堂へ行ったことがあるわけではない。でも行きたいと思い、何度もその文献や図面を見た。(これは、詩の後半に書いてあるのだが、引用は省略。)そして、その「行けなかった」は「遂に行けなかった」と書いてあるから、これは「あなた」と一緒には遂に行けなかったの意味になるだろう。岩成はいまから行くことができる。けれど岩成が覚えている(岩成が自分の肉体で追体験している)「あなた」は遂に行けない。「遂に」のなかには、深い絶望のようなものが潜んでいる。その「絶望」が「あなた」と岩成を「ひとつ」にする。
岩成は、そんなふうにして「あなた」になってしまう。だから、この詩の後半で書かれているル・トロネ聖堂の微光は、実は岩成が見ているものではなく、「あなた」が見ているものに「なる」。「あなた」に見てもらいたい、感じてもらいたいものに「なる」。書いているうちに、そういう変化が起きている。
例えば、ル・トロネの堂内に漂う微かな光の粒
は聖ベルナールの信の深さであり、深夜、私の閉じた目の内側に浮
かぶそれは、やがて到来する私の終末の彼方の深さだというように。
そして、岩成が完全に「あなた」になった瞬間に、その世界は一転して、岩成そのものに変化する。今度は「あなた」が岩成を「深さ」のなかで待っている。
こういう世界を、岩成は「すると」「勿論」「でも」「例えば」という具合に、「論理的」に描き出す。岩成が書いているのは一種の直感的な世界、直接「肉体」が感じ取る世界なのだが、それを「論理」の力で引きよせ、育てようとしているように見える。
*
大崎清夏「アルプ」(初出「東京新聞」2014年07月26日)。
むしあついあかるいはらっぱを
ずーっとくさむしりするゆめだったの
むこうではうしがそのくさをはんでいて
うしにまかせとけばいいのにとまらないの
むしるてが むしるのが とまらないの
あきれるくらいだだっぴろいはらっぱなんだよ、
それでなにかなまえをつけなくちゃとおもうんだ
けどすぐにあきらめてしまうの
むしってるんだからいいじゃないって
「むしるてが むしるのが とまらないの」という行、「むしるて」という「主語(名詞)」が「むしるの(むしること)」にかわるとき、「手」という「名詞」の意識が消え、「むしる」という「動詞」がよりつよく浮かんでくる。というのは、あまり正確な把握ではないね。「むしるのが」(むしることが)自律して動く。「こと」といわず「の」と書いているが、「こと」よりも「の」の方が音が短く、より「肉体」に結びついて動いている感じがする。「こと」と書いてしまうと、その「こと」を「動詞+名詞」に分けてしまいたくなるが「の」という一音で書かれると、そういう分類(分節?)をしている暇もない感じ。
そのあとの変化もとてもおもしろい。
野原で草をむしる、という「こと」をしている。それは大崎にとっては特別なことだ。だから「野原」(あるいは「草」)に特別な名前をつけて、大崎自身がそれにかかわっていることを明確にしたい。でも、それをすぐにあきらめる。「むしってるんだからいいじゃない」。「むしる」という「動詞」そのものを、大崎はしたいのである。
この変化の「徴候」のようなものが、
むしるてが むしるのが とまらないの
という「言い直し」にある。大事なことは、ひとは何度も書き直す。言いなおす。その書き直し、言い直しの変化を追っていくと、そのひとの「肉体」が見えてくる。それが読む楽しさだ。
「肉体」が動いていって、その「動き(動詞)」が対象を生み出していく。草をむしりたい、という欲望が、だだっぴろい野原(草原)をつくりだすのだ。「名詞(存在)」が「動詞」を誘い出すのではなく、「動詞」が「存在」を次々に生み出して世界が広がっていく。
わたしはなまえをつけてあげるのそのうしに
わたしのなまえをつけてあげるの
「動詞」が「(一般)名詞」を「固有名詞」にかえたとき、世界は完結する。「固有名詞」が「わたし」の領土を区切る境界線になる。
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