監督 デビッド・フィンチャー 出演 ベン・アフレック、ロザムンド・パイク
笑えないなあ。夫婦の「いらいら」、欲求不満を拡大して描いたブラック・コメディーなのだが、笑えない。特に、ロザムンド・パイクは殺人を犯しているのに、それを警察も、ベン・アフレックも受け入れてしまうというのが、「どうせ映画」を通り越して理不尽すぎる。平気で男を殺してきた女と、いっしょに暮らせる?
あ、私は平気で人殺しをする犯罪映画って好きなんだけれどね。血が飛び散るホラー映画で、みんなが「キャーッ」と叫ぶところで「わっはっはっはっ」と大笑いする人間なんだけれどね。でも、それって、「どうせ映画、偽物」だからね。つまり、それは「現実」ではなく、監督が「見せたい」と思ってつくったものだからね。「ゴッドファザー」のように「事実」らしいことも、あくまで監督が「見せたい」と思って暴力を描いている。
この映画、では、デビッド・フィンチャーは何を「見せたい」のか。
ひとつはアメリカの「夫婦」の「裏側」。倦怠と憎悪。「ほんとうの姿」はだれも知らないということ? うーん、でも、それって別に「知りたくない」。日常だから。「ゴッドファザー」なら、そうか、首を絞められて死ぬときこんな感じに舌がでるのか、とか乱射とはこういう具合のことなのか、美しい映像だなあ、もう一度みたいなあ(死にたくはないけれど)と思う。
この映画では、見たいものはないなあ。見て引き込まれるものが、ないなあ。
いや、あったぞ。
ベン・アフレックのにやけた顔は、やっぱりにやけているなあと確認した。そして、ロザムンド・パイク。偽の日記を書いているシーン、クライマックス(?)の殺しのシーンの冷徹な感じ……ではなく、逃亡途中の駄菓子を食いながらぶくぶく太るシーン。
現実の日数からゆくと、おなじスタイル(顔つき)のままでも不自然ではないのだが、夫を陥れるために身を隠しているシーン、安ホテル(アパート?)で女と知り合って、テレビを見るシーン。顔がたるんで、全体に太っている。きちんとした食事ではなく、駄菓子を食いつないで空腹をまぎらわれている。そのだらしない感じが、すごいなあ、と思う。
ロザムンド・パイクは「完璧なナントカカントカ(女の子の名前)」シリーズの小説を書いた流行作家。「完璧」が好きなのだ。完璧な「夫婦(家庭)」を求めているのだが、「完璧」が実現されないので、夫を殺人犯に仕立て(被害者は自分)、別な土地、別な男を求めて逃走する。「完璧」を求める裏には「完璧」にほど遠い自堕落がある。自堕落を制御できないので「完璧」にすがるということかもしれない。
一種、複雑な心理を描いているのだが、これをロザムンド・パイクはだらしない部分を「肉体」の変化そのものとして具体的に表現していて、「おおっ、これは見物」と思ってしまった。
私はだいたい「肉体を改造して役に迫る」という演技は好きではない。太ったり、痩せたり、実在の人物そっくりの風貌になって演じる演技を演技とは思っていないのだが、今回の自堕落ぶりはすごいなあと思った。役者なんて、ほんとうはこうなんじゃないか、映画にでていないときはみんなぶくぶくなんじゃないか、と思わされる。
そこだけは「演技賞」ものだ。「演技」というのは「演じる」のではなく、きっと「演じる」ことをやめて「地」を出すことなのだ。映画に限らず、日常でも、みんな「地」を隠しているからねえ。「地」が出てくると、どきどきしてしまう。えっ、このひと、こんなひとだったのか……と。
でも、不思議。
こんなに自堕落なら、どうして彼女を助けてくれた金持ちの男を殺してしまうんだろう。何もせず、ただ家でぶらぶらしていることを許してくれる男なのに。金持ちでも、見栄えがしないから「理想の男」ではない? 金持ちでも、そこにいる限り「自由」はないから、嫌い?
わがままだねえ。男を支配し、世界を支配しないかぎり、満足できない。
でも、それじゃあ、「誘拐被害者」を装って、男を殺してきて、もう一度ベン・アフレックといっしょに暮らして、それで満足できる? きっとできないね。それなのに、そこで映画は終わる。ベン・アフレックも、一度「理想の夫」を演じてしまったために、それを捨てきれず、世間の目を気にして「愛している」の嘘をつきつづける。二人で「演技」を重ねることになる。ブラックな結末だなあ。
でも。
ほんとうのブラックは、この映画のあとの方、描かれない時間の方じゃないのかな?それを描いたときに、ほんとうの映画になる。ほんとうに見たいのは、そこだね。それを描いていない。「日常」そのものの「地」を描かないと、ね。
(2015年01月14日、天神東宝2)
*
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笑えないなあ。夫婦の「いらいら」、欲求不満を拡大して描いたブラック・コメディーなのだが、笑えない。特に、ロザムンド・パイクは殺人を犯しているのに、それを警察も、ベン・アフレックも受け入れてしまうというのが、「どうせ映画」を通り越して理不尽すぎる。平気で男を殺してきた女と、いっしょに暮らせる?
あ、私は平気で人殺しをする犯罪映画って好きなんだけれどね。血が飛び散るホラー映画で、みんなが「キャーッ」と叫ぶところで「わっはっはっはっ」と大笑いする人間なんだけれどね。でも、それって、「どうせ映画、偽物」だからね。つまり、それは「現実」ではなく、監督が「見せたい」と思ってつくったものだからね。「ゴッドファザー」のように「事実」らしいことも、あくまで監督が「見せたい」と思って暴力を描いている。
この映画、では、デビッド・フィンチャーは何を「見せたい」のか。
ひとつはアメリカの「夫婦」の「裏側」。倦怠と憎悪。「ほんとうの姿」はだれも知らないということ? うーん、でも、それって別に「知りたくない」。日常だから。「ゴッドファザー」なら、そうか、首を絞められて死ぬときこんな感じに舌がでるのか、とか乱射とはこういう具合のことなのか、美しい映像だなあ、もう一度みたいなあ(死にたくはないけれど)と思う。
この映画では、見たいものはないなあ。見て引き込まれるものが、ないなあ。
いや、あったぞ。
ベン・アフレックのにやけた顔は、やっぱりにやけているなあと確認した。そして、ロザムンド・パイク。偽の日記を書いているシーン、クライマックス(?)の殺しのシーンの冷徹な感じ……ではなく、逃亡途中の駄菓子を食いながらぶくぶく太るシーン。
現実の日数からゆくと、おなじスタイル(顔つき)のままでも不自然ではないのだが、夫を陥れるために身を隠しているシーン、安ホテル(アパート?)で女と知り合って、テレビを見るシーン。顔がたるんで、全体に太っている。きちんとした食事ではなく、駄菓子を食いつないで空腹をまぎらわれている。そのだらしない感じが、すごいなあ、と思う。
ロザムンド・パイクは「完璧なナントカカントカ(女の子の名前)」シリーズの小説を書いた流行作家。「完璧」が好きなのだ。完璧な「夫婦(家庭)」を求めているのだが、「完璧」が実現されないので、夫を殺人犯に仕立て(被害者は自分)、別な土地、別な男を求めて逃走する。「完璧」を求める裏には「完璧」にほど遠い自堕落がある。自堕落を制御できないので「完璧」にすがるということかもしれない。
一種、複雑な心理を描いているのだが、これをロザムンド・パイクはだらしない部分を「肉体」の変化そのものとして具体的に表現していて、「おおっ、これは見物」と思ってしまった。
私はだいたい「肉体を改造して役に迫る」という演技は好きではない。太ったり、痩せたり、実在の人物そっくりの風貌になって演じる演技を演技とは思っていないのだが、今回の自堕落ぶりはすごいなあと思った。役者なんて、ほんとうはこうなんじゃないか、映画にでていないときはみんなぶくぶくなんじゃないか、と思わされる。
そこだけは「演技賞」ものだ。「演技」というのは「演じる」のではなく、きっと「演じる」ことをやめて「地」を出すことなのだ。映画に限らず、日常でも、みんな「地」を隠しているからねえ。「地」が出てくると、どきどきしてしまう。えっ、このひと、こんなひとだったのか……と。
でも、不思議。
こんなに自堕落なら、どうして彼女を助けてくれた金持ちの男を殺してしまうんだろう。何もせず、ただ家でぶらぶらしていることを許してくれる男なのに。金持ちでも、見栄えがしないから「理想の男」ではない? 金持ちでも、そこにいる限り「自由」はないから、嫌い?
わがままだねえ。男を支配し、世界を支配しないかぎり、満足できない。
でも、それじゃあ、「誘拐被害者」を装って、男を殺してきて、もう一度ベン・アフレックといっしょに暮らして、それで満足できる? きっとできないね。それなのに、そこで映画は終わる。ベン・アフレックも、一度「理想の夫」を演じてしまったために、それを捨てきれず、世間の目を気にして「愛している」の嘘をつきつづける。二人で「演技」を重ねることになる。ブラックな結末だなあ。
でも。
ほんとうのブラックは、この映画のあとの方、描かれない時間の方じゃないのかな?それを描いたときに、ほんとうの映画になる。ほんとうに見たいのは、そこだね。それを描いていない。「日常」そのものの「地」を描かないと、ね。
(2015年01月14日、天神東宝2)
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