須永紀子「森」、竹内新「歌」、谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」(「現代詩手帖」2014年12月号)
須永紀子「森」(初出『森の明るみ』2014年10月)。
「森」のなかに具象と抽象が融合している。「どこから」は「いつでも」かもしれない。場所と時間も融合している。具象を書きながら抽象にしてしまうのか、それとも抽象から出発してそれを具象にしているのか。いずれにしろ、須永の「森」は「個別/具体的」の森というよりも「観念」の森である。あるいは「精神」の森といえばいいのか。
精神の詩は私は苦手だ。つかみどころに迷う。2行目の「いきなり」と「深い」が「肉体(思想)」の手がかりになるかもしれない。
「いきなり」というのは「時間」としては存在していない。--という言い方は抽象的すぎるが……。「いきなり」はそれまでの持続している時間とは別個のものである。持続していた「時間」が「いきなり」切断される。別の「時間」と接続される。その変化を「深い」ということばで須永はつかまえている。
「森が深い」というとき、それは「広い」という意味、あるいは「道」が存在しないという意味になる。「道」とは「接続」の象徴である。「持続」の象徴である。どこに「接続」しているか、わからない森。それを「深い」という。
一方、「深い」は東西南北の「広がり」、水平方向の「広がり」とは別に、垂直方向の「広がり」をもつ。「森が深い」ではなく「深い」だけを取り出すとき、人は一般的に「垂直方向」の「広がり」を思い出す。須永は、この詩では、ふつうの「深い」とは少し違う感覚でことばを動かしていることになる。
何かが「切断」される。その瞬間に「深い」があらわれる。それは密着して存在している。もう、このとき、須永は「森」を比喩として生きていない。「森」は比喩ではなく、「比喩を語ること」が「森」なのだ。「いきなり/深い」としか言えないものに触れて、「語ること/ことば」があるだけなのだ。
「急激」は「いきなり」、「落下する」は「深い」。闇が落下するのではなく、須永が落下する。「いきなり/深い」を実感する。「持続」から切断され、そこに存在させられてしまう。「持続」からの「切断」は「閉ざされる」である。「解放」にならないがゆえに、1連目では抜け道は「ふさがれ」と書かれている。
ことばの呼応(繰り返し、言い直し)の正確さは完璧で、完璧すぎるために、須永の感じている「いきなり/深い」は、それが「思想」であることを告げるだけで、それ以外のことを感じさせてはくれないように、私には思える。
美しすぎる詩だ。
*
竹内新「歌」(初出『果実集』2014年10月)。詩集で読んだとき、漢語が気になってしまった。どの詩にも漢語が出てきて、それがイメージをかってに結晶にしてしまいすぎて、「肉体」が見えない。そういう印象があった。
「幸せ」は「内面」と言いかえられている。この「内面」という漢語が、私には抽象的すぎるように思える。「精神」と重なり、おもしろくない。「官能(肉体)」がどこかに置き去りにされている、と瞬間的に思ってしまう。
しかし、
「内面」は2連目で「器官」と言いなおされていた。詩集で読んだとき、私は、このことばを読み落としていた。「存在するものの内面」をいきなり「精神」と抽象化せずに、いったん「器官」という具体的なものをくぐらせて把握している。その「器官」という具体物のつながり(関係)が「形式」とさらに言いなおされている。私は「器官」を読み落とし「形式」を「内面」の言い換えと読んでいた。先を急ぎすぎていた、と、いま、思う。
「内面」→「器官」→「形式」というのは、抽象→具体→抽象という「弁証法」的展開と言いかえることができる。「弁証法」であるかぎり、まあ、それは抽象的(精神優位の二元論)ということになるのだが(私は、こういう世界観がなじめずに、どうしても否定的に反応してしまうのだが)、この弁証法という方法は持続がしつこいとき、ちょっと魅力的である。「持続」のなかに「精神の肉体」のようなものが見えるからである。「持続」することで「精神」が「肉体」のように立体的になる。動きが生々しくなる。
「私」は「丘」になり、「蜜柑」になり、「斉唱」になり、「鳥」になり、「歌」になる。「蜜柑の斉唱」→「鳥の歌」。「斉唱」と「歌」の違いはむずかしい。「斉唱」を「歌」と言いなおしているのではなく、これは「斉唱」が「光溢れる虚空」と出会い、それが「鳥」をへて「歌」に昇華(止揚)されているのである。そんなふうに「止揚」することで、「内面」は「声」になる。
「蜜柑の声」?
いや、それは竹内の「声」なのだ。
へええ、っと思って読んだ。
一篇一篇、時間をかけて読む必要があったのだ、と反省した。
で、この詩が、さらにおもしろいのは。
「ときには声を弾ませたりするのだ」で詩は終わっていいはずなのに(そこでいったん止揚/昇華は結実しているのだから)、これがまだまだつづいていく。
「声」という、肉体から外へ出たものを、もう一度「内面」に呼び込もうとする。しつこいのだ。精神そのもののしつこさが、ことばを離さない。全体を引用しないが、そのことばはもう一度「光溢れる虚空」を通って、「沈黙の深み」まで進み、
と、最初の行にまで戻ってしまう。出発して、止揚(昇華/結実)し、再びもとにもどる。もちろん、そのときの帰還は最初の「場(行)」とは同じに見えても同じではない。その「場(行)」の「内部」には矛盾→止揚という運動が隠されているというわけである。
変なものを読んでしまったなあ、という印象が残る。「変なもの」というのは、個性的、めんどうくさいけれどおもしろい、という意味でもある。
*
谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」(初出「午前」6、2014年10月)。
「私より先にそっちへ行ってしまった人」というのは亡くなった人のことだろう。その人たちのことを思ったとき、「ココロの森」に「泉」があると気づいた。その泉の水は、地面に滲んでいるのに気づいた。「知らない所」から「泉が湧いてきていた」。その水は「流れずに湛えている」。
というようなことが書いてあるのだけれど。
平凡じゃない? もう亡くなった人を思うとき、ココロの森の泉が湧き出す、というのは。悲しみを、もってまわったような感じ。
と、思っていると。
えっ、これは何?
谷川さん、突然、呼びかけないでください。
それに誰だって「涙の比喩」と思うでしょう。亡くなった人を思い出すとき、泣くのはふつうでしょう。
泣いてもいない、泣きたいとも思っていない。それなのに「ココロの森の泉」から水が湧き出し、水があちこちに滲んでいる。この水は、それでは何? 何を「比喩」しているのですか?
説明してください。
私が詰問(?)したせい? この2行も奇妙だなあ。「透き通っています」は「泉」だから、当然だと思うけれど。「濁っていて当然なのに」というのはどうしてだろう。「ココロ」の知らない場所、あまり行かない場所、そういうところは「濁っている(汚れている/隠しておきたい)」所だから?
よくわからない。
谷川のことばは、つづく。想像しなかったことばがつづく。「涙の比喩」という具合に、簡単に想像できないことばが動いていく。
「揺れながら水に映っているのは/若かりし日のあなたがたの姿」は「私より先にそっちへ行ってしまった人たち」の「姿」。タイトルが、ここでは言いなおされている。言いなおすことで、ここから詩をはじめ直している。
「水に映っている」と書きながら「見ているのではない」と言いなおしている。見ていないのに、どうして映っているとわかる?
それは、
目で見る必要がない。「体内」の器官(組織/細胞)全てで、直接触れるのだ。それは対象(見るもの)ではない。
泉の水が「濁っていて当然」と書かれていたのは、谷川はすでに老いていて、老いてくれば「体内の水」も老化して濁っていてもあたりまえという「常識」によるものかもしれない。老いて澄んでくるものもあるかもしれないが、老化というのは、悪化と道義のところがある。そういう気持ちがあるから、ココロの泉も濁っていても当然かもしれないのに、そうではなくて透明だった、と書く。
そして、それが透明なのは、逆に言えば、谷川は老化にあわせ谷川の体内の水は老化して濁っているかもしれないが、「あなたがたの姿」は若くて濁っていない。その若くて濁っていないものが谷川の「体内の老化した水」と「混じり合い」、浄化しているからである。「あなたがた」は「思い出」でも「イメージ」でもない。谷川をいつまでも「透明なまま」に生かしてくれる「浄化装置」なのだ。「細胞組織」なのだ。谷川は「あなたがた」に生かされ、「あなたがた」といっしょに生きている。
だから、もちろん、「涙」などとは無関係。
谷川の詩(ことば)は、いつでも論理的だ。ときに論理的すぎると思う。論理を否定するときでさえ、論理的だからね。
この詩も論理的だけれど、たとえばきょう読んだ竹内の弁証法の論理とは違う。形式のない論理。未生の論理と言えばいいのだろうか。谷川が書くことで、はじめてことばになった論理という感じがする。「ココロの森」の知らないところから、水が滲むように、滲み出てきた論理と言えば、詩に戻っていくことになるのかもしれない。
この詩は「午前」で読んだ。読んだけれど、そのときは感想を書こうとは思わなかった。ほかの谷川の詩の感想を書きつづけていたからだが、こうやって感想を書いてみると、ただ漠然と読んでいるときと、それについて何か書こうと思い、書き出してみると、感想が変わってくる。私自身のことばの動きが変わってくる。
竹内の詩の感想を書いたときも思ったが、読んで頭のなかだけで感想を走らせるときと、実際に感想をことばにするときでは、感想が違ってきてしまう。
感想はことばにしなければいけない。感想は語り合わなければならない、と思った。私の感想が「正しい」かどうかではなく、詩なのだから「正しい/間違っている」はどうでもよくて、感想が動くとき、いっしょに詩が動くということを確かめるために、書かなければならないのだとあらためて思った。
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須永紀子「森」(初出『森の明るみ』2014年10月)。
どこから入っても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠され
踏み迷う
「森」のなかに具象と抽象が融合している。「どこから」は「いつでも」かもしれない。場所と時間も融合している。具象を書きながら抽象にしてしまうのか、それとも抽象から出発してそれを具象にしているのか。いずれにしろ、須永の「森」は「個別/具体的」の森というよりも「観念」の森である。あるいは「精神」の森といえばいいのか。
精神の詩は私は苦手だ。つかみどころに迷う。2行目の「いきなり」と「深い」が「肉体(思想)」の手がかりになるかもしれない。
「いきなり」というのは「時間」としては存在していない。--という言い方は抽象的すぎるが……。「いきなり」はそれまでの持続している時間とは別個のものである。持続していた「時間」が「いきなり」切断される。別の「時間」と接続される。その変化を「深い」ということばで須永はつかまえている。
「森が深い」というとき、それは「広い」という意味、あるいは「道」が存在しないという意味になる。「道」とは「接続」の象徴である。「持続」の象徴である。どこに「接続」しているか、わからない森。それを「深い」という。
一方、「深い」は東西南北の「広がり」、水平方向の「広がり」とは別に、垂直方向の「広がり」をもつ。「森が深い」ではなく「深い」だけを取り出すとき、人は一般的に「垂直方向」の「広がり」を思い出す。須永は、この詩では、ふつうの「深い」とは少し違う感覚でことばを動かしていることになる。
何かが「切断」される。その瞬間に「深い」があらわれる。それは密着して存在している。もう、このとき、須永は「森」を比喩として生きていない。「森」は比喩ではなく、「比喩を語ること」が「森」なのだ。「いきなり/深い」としか言えないものに触れて、「語ること/ことば」があるだけなのだ。
愚かさに見合った
わたしの小さな森で
行き暮れる
出口は地上ではなく他にある
そこまではわかったが
急激に落下する闇に
閉ざされてしまう
「急激」は「いきなり」、「落下する」は「深い」。闇が落下するのではなく、須永が落下する。「いきなり/深い」を実感する。「持続」から切断され、そこに存在させられてしまう。「持続」からの「切断」は「閉ざされる」である。「解放」にならないがゆえに、1連目では抜け道は「ふさがれ」と書かれている。
ことばの呼応(繰り返し、言い直し)の正確さは完璧で、完璧すぎるために、須永の感じている「いきなり/深い」は、それが「思想」であることを告げるだけで、それ以外のことを感じさせてはくれないように、私には思える。
美しすぎる詩だ。
*
竹内新「歌」(初出『果実集』2014年10月)。詩集で読んだとき、漢語が気になってしまった。どの詩にも漢語が出てきて、それがイメージをかってに結晶にしてしまいすぎて、「肉体」が見えない。そういう印象があった。
歌のときこそ幸せのとき
歌のときこそ内面のとき
「幸せ」は「内面」と言いかえられている。この「内面」という漢語が、私には抽象的すぎるように思える。「精神」と重なり、おもしろくない。「官能(肉体)」がどこかに置き去りにされている、と瞬間的に思ってしまう。
しかし、
それがどんな器官によるのか
どんな形式なのか分からないが
まぶしい朝の光のなかで
たしかに蜜柑は歌っているように思う
「内面」は2連目で「器官」と言いなおされていた。詩集で読んだとき、私は、このことばを読み落としていた。「存在するものの内面」をいきなり「精神」と抽象化せずに、いったん「器官」という具体的なものをくぐらせて把握している。その「器官」という具体物のつながり(関係)が「形式」とさらに言いなおされている。私は「器官」を読み落とし「形式」を「内面」の言い換えと読んでいた。先を急ぎすぎていた、と、いま、思う。
「内面」→「器官」→「形式」というのは、抽象→具体→抽象という「弁証法」的展開と言いかえることができる。「弁証法」であるかぎり、まあ、それは抽象的(精神優位の二元論)ということになるのだが(私は、こういう世界観がなじめずに、どうしても否定的に反応してしまうのだが)、この弁証法という方法は持続がしつこいとき、ちょっと魅力的である。「持続」のなかに「精神の肉体」のようなものが見えるからである。「持続」することで「精神」が「肉体」のように立体的になる。動きが生々しくなる。
私の足取りは軽くなり
それに合わせて躍りさえするのだ
私が丘を登り下りするとき
空に接した蜜柑たちの斉唱は
光溢れる虚空へ
静かに広がってゆく
鳥がそこを飛ぶとき
鳥は広大な歌を渡っている
ときには声を弾ませたりするのだ
「私」は「丘」になり、「蜜柑」になり、「斉唱」になり、「鳥」になり、「歌」になる。「蜜柑の斉唱」→「鳥の歌」。「斉唱」と「歌」の違いはむずかしい。「斉唱」を「歌」と言いなおしているのではなく、これは「斉唱」が「光溢れる虚空」と出会い、それが「鳥」をへて「歌」に昇華(止揚)されているのである。そんなふうに「止揚」することで、「内面」は「声」になる。
「蜜柑の声」?
いや、それは竹内の「声」なのだ。
へええ、っと思って読んだ。
一篇一篇、時間をかけて読む必要があったのだ、と反省した。
で、この詩が、さらにおもしろいのは。
「ときには声を弾ませたりするのだ」で詩は終わっていいはずなのに(そこでいったん止揚/昇華は結実しているのだから)、これがまだまだつづいていく。
「声」という、肉体から外へ出たものを、もう一度「内面」に呼び込もうとする。しつこいのだ。精神そのもののしつこさが、ことばを離さない。全体を引用しないが、そのことばはもう一度「光溢れる虚空」を通って、「沈黙の深み」まで進み、
歌のときこそ内面のとき
歌のときこそ幸せのとき
と、最初の行にまで戻ってしまう。出発して、止揚(昇華/結実)し、再びもとにもどる。もちろん、そのときの帰還は最初の「場(行)」とは同じに見えても同じではない。その「場(行)」の「内部」には矛盾→止揚という運動が隠されているというわけである。
変なものを読んでしまったなあ、という印象が残る。「変なもの」というのは、個性的、めんどうくさいけれどおもしろい、という意味でもある。
*
谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」(初出「午前」6、2014年10月)。
水が滲んできているのに気づきました
空は青くどこまでも澄んで
微風が木々の枝を揺らしています
でも落葉が散り敷いた地面に
水が滲み出しているのです
ココロの森は行きつけの場所です
でもまだまだ知らない所がありました
泉が湧いてきていたのです
ココロの森の奥深く
音もなく泉が湧いてきて
流れずに湛えているのです
「私より先にそっちへ行ってしまった人」というのは亡くなった人のことだろう。その人たちのことを思ったとき、「ココロの森」に「泉」があると気づいた。その泉の水は、地面に滲んでいるのに気づいた。「知らない所」から「泉が湧いてきていた」。その水は「流れずに湛えている」。
というようなことが書いてあるのだけれど。
平凡じゃない? もう亡くなった人を思うとき、ココロの森の泉が湧き出す、というのは。悲しみを、もってまわったような感じ。
と、思っていると。
涙の比喩ではないかとお思いですか
でも私は泣いていません
泣きたいとも思っていません
えっ、これは何?
谷川さん、突然、呼びかけないでください。
それに誰だって「涙の比喩」と思うでしょう。亡くなった人を思い出すとき、泣くのはふつうでしょう。
泣いてもいない、泣きたいとも思っていない。それなのに「ココロの森の泉」から水が湧き出し、水があちこちに滲んでいる。この水は、それでは何? 何を「比喩」しているのですか?
説明してください。
泉の水は透き通っています
濁っていて当然なのに
私が詰問(?)したせい? この2行も奇妙だなあ。「透き通っています」は「泉」だから、当然だと思うけれど。「濁っていて当然なのに」というのはどうしてだろう。「ココロ」の知らない場所、あまり行かない場所、そういうところは「濁っている(汚れている/隠しておきたい)」所だから?
よくわからない。
谷川のことばは、つづく。想像しなかったことばがつづく。「涙の比喩」という具合に、簡単に想像できないことばが動いていく。
揺れながら水に映っているのは
若かりし日のあなたがたの姿
でも私はそれを見ているのではない
泉の水は生まれながらの体内の水と
すっかり混じりあっているから
あなたがたはもう思い出の中にいない
コトバでもイメージでもない水になって
私のからだを巡っています
「揺れながら水に映っているのは/若かりし日のあなたがたの姿」は「私より先にそっちへ行ってしまった人たち」の「姿」。タイトルが、ここでは言いなおされている。言いなおすことで、ここから詩をはじめ直している。
「水に映っている」と書きながら「見ているのではない」と言いなおしている。見ていないのに、どうして映っているとわかる?
それは、
泉の水は生まれながらの体内の水と
すっかり混じりあっているから
目で見る必要がない。「体内」の器官(組織/細胞)全てで、直接触れるのだ。それは対象(見るもの)ではない。
泉の水が「濁っていて当然」と書かれていたのは、谷川はすでに老いていて、老いてくれば「体内の水」も老化して濁っていてもあたりまえという「常識」によるものかもしれない。老いて澄んでくるものもあるかもしれないが、老化というのは、悪化と道義のところがある。そういう気持ちがあるから、ココロの泉も濁っていても当然かもしれないのに、そうではなくて透明だった、と書く。
そして、それが透明なのは、逆に言えば、谷川は老化にあわせ谷川の体内の水は老化して濁っているかもしれないが、「あなたがたの姿」は若くて濁っていない。その若くて濁っていないものが谷川の「体内の老化した水」と「混じり合い」、浄化しているからである。「あなたがた」は「思い出」でも「イメージ」でもない。谷川をいつまでも「透明なまま」に生かしてくれる「浄化装置」なのだ。「細胞組織」なのだ。谷川は「あなたがた」に生かされ、「あなたがた」といっしょに生きている。
だから、もちろん、「涙」などとは無関係。
谷川の詩(ことば)は、いつでも論理的だ。ときに論理的すぎると思う。論理を否定するときでさえ、論理的だからね。
この詩も論理的だけれど、たとえばきょう読んだ竹内の弁証法の論理とは違う。形式のない論理。未生の論理と言えばいいのだろうか。谷川が書くことで、はじめてことばになった論理という感じがする。「ココロの森」の知らないところから、水が滲むように、滲み出てきた論理と言えば、詩に戻っていくことになるのかもしれない。
この詩は「午前」で読んだ。読んだけれど、そのときは感想を書こうとは思わなかった。ほかの谷川の詩の感想を書きつづけていたからだが、こうやって感想を書いてみると、ただ漠然と読んでいるときと、それについて何か書こうと思い、書き出してみると、感想が変わってくる。私自身のことばの動きが変わってくる。
竹内の詩の感想を書いたときも思ったが、読んで頭のなかだけで感想を走らせるときと、実際に感想をことばにするときでは、感想が違ってきてしまう。
感想はことばにしなければいけない。感想は語り合わなければならない、と思った。私の感想が「正しい」かどうかではなく、詩なのだから「正しい/間違っている」はどうでもよくて、感想が動くとき、いっしょに詩が動くということを確かめるために、書かなければならないのだとあらためて思った。
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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
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