詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金堀則夫「悪水」、北川透「難破船バリエーションズ」、北爪満喜「鏡面」

2015-01-16 11:29:12 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
金堀則夫「悪水」、北川透「難破船バリエーションズ」、北爪満喜「鏡面」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 金堀則夫「悪水」(初出「東京新聞」2014年09月27日)。田は巨大なダムである。田が日本の治水にはたしている役割は大きい。

沼に淀んだ排水を
先代たちは土をもり水路と畦で
井路川と水田にした
水田は稲をそだて米となって生きていく
山辺のため池から水をひいて田をみたし
排水は水と稲によみがえって
空に昇り 海に流れ浄化していく

 自然の循環。それを描きながら、2行目に静かに書き込まれている「先代たち」ということば。これが美しい。金堀は自然をみつめると同時に人間をみている。「先代たち(祖先/その土地に生きるひと)」は自然の循環を生かすために、土地をととのえた。暮らしをととのえた。それが、そのまま暮らしに反映している。そこには「先代たち」の工夫がある。
 「ととのえる」を超えて、何かを「つくる」。そうすると、どうなるか。

人力よりも巨大なものが爆発した
飛び散った危険な物質を洗い落とす
汚染水は海に排することもできない
浄化装置も役立たず
外気から遮断し貯蔵する
海水にもどせない排水をわたしたちはもち続ける
農耕の排水は 水田とともに
水を生かして流れていく
水田から追放されたわたしの
排水はどこへゆく

 「ととのえる」は「生かす」ということでもある。
 土地と、そこに生きる人の暮らし、その暮らしのととのえ方に視線を注ぎつづける金堀の肉体(思想)が静かに語られている。東京電力福島原子力発電所の事故、発電所をつくった人間を静かに批判している。



 北川透「難破船バリエーションズ」(初出「KYO 峡」5、2014年09月)。

難破するは花で言えば開花前の朝顔の蕾
難破するは年齢で言えば十三歳の少年または十六歳の少女
難破するは芸術のジャンルで言えば詩またはジャズ
難破するは男女で言えば精子あるいは♂
難破するは小説で言えば「花ざかりの森」

 「難破するは○○で言えば○○」という行が、終らないんじゃないかなあ、と思う感じでつづいていく。「比喩」の羅列。
 比喩というのは、簡単に言うと「あること(もの)」を「あること(もの)以外のこと(もの)」で言いかえること。「おなじではないもの(こと)」を「おなじもの(こと)」と言いかえること。
 北川のこの詩、「難破するもの」が次々に言いかえられていく。

難破するもの=A
難破するもの=B
難破するもの=C

 そうであるなら、A=B=C?
 そうなのかなあ。「論理的」にはそうならないといけないのかもしれないけれど、詩を読んでいると、そういう感じがしない。

開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」

 一部省略して図式化してみたが、この羅列は、とても「イコール」では結べない。
 比喩はA=Bという簡便な図式では定義できない。それなのに詩を読んでいるときは「おなじ比喩」と勘違いして読んでいる。
 ある存在と比喩、そのふたつのものは完全に重なり合うわけではないが、見方によっては重なり合う部分がある。その「重なり合った部分」が、比喩でつたえたいことの「本質(真実)」ということか。そうだとしても、「開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」」に重なり合う部分をみつけだすことは難しい。
 何を書いているのかなあ。北川は「でたらめ(思いつき)」を書いているのかなあ。詩なのだから「思いつき」の意外性だけを書くというのも、それはそれでいいのだけれど。他に読み方はできないかなあ。

 北川のこの詩を読んだ最初、「開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」」というのは変だぞ、などとは思わない。すらすら読んでしまう。読んでしまって、感想を書こうとすると、つまずく。
 私の「(詩を)読む」から「(感想を)書く」への「移行」の間に、何か、変なものが紛れ込んでいるのである。
 ここから、反省をこめて、引き返す。
 詩を読んだとき、私の「肉体」のなかに最初に起きたことは何か。
 「難破するは○○で言えば」を何度も何度も通る。繰り返す。そうすると、「肉体」のなかに「難破するは○○で言えば」という言い方が定着する。「難破するは○○で言えば○○」の、あとの方の「○○(である)」は次々に変わるから「おぼえる」ことはできないが「難破するは○○で言えば」はすぐにおぼえてしまって、北川の詩を読まなくても「難破するは○○で言えば」と言えてしまう。そのことばを「つかう」ことができるようになっている。そして、それが「つかえる」ということは、北川にかわって後半の「○○(である)」を言えるということでもある。
 ことばのつかい方の「定着」。
 「A=B」という比喩、そのときこの詩では、イコールで結ばれるのは言いかえられたAとかBとかではなくて、その前の「難破するは○○で言えば」という「言い方」をとおして北川と読者(私)が「ひとつ」になる。そこに書かれている「比喩」、「比喩」が明るみに出す何か(真実?)よりも、言い方のなかで、北川と私(読者)がひとつになって動き、「比喩」の「ずれ(?)」を超えていく。
 「難破するは○○で言えば」という「言い方」が共通なので、そのあとに何が来たって平気。ただその変化のあり方を楽しめばいい。
 これは、そういう詩なのだ。

 しかし、こんなふうに簡単に思ってはいけない。「ことばのつかい方(言い方)」になじみ、それが自分でも言えると思った瞬間、詩の最終行。

難破するはシェイクスピアの戯曲『あらし』のセリフで言
えば「おめぇ、どうやって助かったんだよう? どんなや
り方でここまで来たんか? えっ! この徳利にかけて誓
え! おれはなぁ、水夫が海に放り込んだ、でっかい酒樽
に掴まって漂流している内に、助かったんよ。このおれ様
の徳利はなぁ。渚に打ち上げられてから、樹木の皮をひん
剥いて、おれ様が作り上げたもんだ。これで焼酎飲むと見
える世界が変わるんよ。」

 わっ、突然、突き放されてしまう。北川の肉体(ことばの言い方)はわかった、と思った瞬間、それがまったくの「誤読」だったことがわかる。ここに出て来る口調をまねて言えば、北川は「おれ様は、こういうことが言える。おまえは何が言える?」と問われた形。
 どんなことばも、どこかから来て、どこかへ帰っていく。その往復のなかにいて、北川は、自在に動いている。「難破するは○○で言えば」の繰り返しに誘い込まれて、ことばの肉体を身に着けたと思ったら大間違い。
 でも、これは北川の、読者への「拒絶」ではなく、読者への「誘い」なのだ。
 ことばのつかい方(言い方)を「肉体」にしてしまって、その「肉体」を動かして動かして動かして、動かしぬいて、完璧に動かし方を「肉体」にできたなら、そこから飛躍してみよう。その瞬間、どこへ飛び出すか。それを楽しんでみよう。
 そう言っているように、私には感じられる。その誘いの声が聞こえてくるので、この詩は楽しい。



 北爪満喜「鏡面」(初出『奇妙な祝福』2014年09月)。生家にもどったときのことを書いているのだろうか。父母はもう死んでいない。人の住まない家の荒れた感じがていねいに描写される。そして、

永く開けない窓に
蛾が 干からびている
鼻から口の感じがずれて
鏡の私は 別の顔になっている

陽に焼かれた闇に冷え
時間をためていた鏡面に
吸い込まれ崩れ
幽かな記憶から出てきたような
みたこともない顔を
もらう
可笑しくて哀しい
鏡面には
剥げかけた金色で前橋信用金庫
の文字

 荒れた家の様子に、それをみつめる北爪の表情もかわってしまう。その顔が鏡に映っている。そのあとの「剥げかけた金色で前橋信用金庫/の文字」。この終わりの2行がいいなあ。昔、銀行から鏡をもらうことがあった。そこにはたしかに銀行の名前が書いてあった。どこの家にも、そういう鏡があった時代がある。「前橋信用金庫」というのは他者なのだが、その他者の存在によって、「自己」である「家/顔」がくっきりと浮かび上がる。鏡に知らない私が映っているだけでは、その顔がどんなに違っていても「自己同一」に終わってしまって、ことばが生きてこない。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨が上がると、

2015-01-16 01:15:42 | 
雨が上がると、

雨が上がると、遠くから川の匂いがやってくる。
少し膨らんで、けだるくなっている。

錆びた自転車が川を上ってくる潮に押されて浮き上がるように、
--という比喩を受け止める動詞がわからない。

「知っていることがおなじすぎて、会話がだんだんなくなる」
と言ったのは、私だったか、その人だったか。

雨が上がると、
遠くから川の匂いがやってくる。


*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする