川上未映子「こんなにも、わたしたちのすべて」(「読売新聞」2015年01月14日朝刊)
川上未映子「こんなにも、わたしたちのすべて」はランコムの1ページ半の広告に書かれていた詩。「美しい肌は、幸せのはじまり。」というコピーがついている。美容液の宣伝のために書かれた詩である。
女のナルシズムがあふれている。こんなに自己陶酔していいのか、とちょっとこわいぞ、これは。
「はじめて鏡のなかでみる肌が、きれいなとき」というような行を読むと、そうか、「きれい」を自分で確認するのか、と私は驚く。「きれい」というのは「自分の外」にあるものに対して感じる感覚であって、自分のことを言うためのことばではないと思うのだが……。「目の奥が明るくなって」もそうだし、「胸がやさしくひらいていくような」の「やさしく」も同じ印象。他人の目がある瞬間「明るくなる」というのは見ていて気がつくけれど、だいたい「自分の目をみる」ということ自体、ふつうはできない。だいたい、目に何かが入ったときくらいしか目を鏡でみるということがないと思うのだが、女は違うのか、と一行一行に驚かされる。そして、その一行一行を、「きれい」「あかるく」「やさしく」「やわらか」「うっとり」「しなやか」という「詩的」なことばで装飾しているのをみると、「まあ、宣伝だからね」という気もする。美しいことば、耳に心地よいことばで飾って、それで気を引く。売れればいいだけ。流行作家は、いい商売ができてうらやましい。原稿料も高いんだろうなあ。やっかみを含めて、そんなことを思う。
1連省略して、4連目。
ここもナルシズムと言えば言えるのだけれど、自分への酔い方が「外面」で終っていない。
そうか、美しさを育てているのか。美しいというのは、そんなに「自信」になるものなのか。「恋愛」のことを書いた詩、セックスのことを書いた詩よりも、なんだか生々しい感じがする。女の「本音」をのぞいたような感じ。
でも。
「自由」と「凛としたちから」は同じものなのだ。そしてそれは「内側から満ちてくる」のか。これは、なかなかいいなあ。
その「内側」と「肌」が同じなのか--というのは、まあ、男の側からの「ちゃちゃ」みたいな批判だが、じっくり考えてみるとおもしろいかもしれないなあ。
で、「内側」ということばが出てきたあとの、5連目。
ここで、私は、「宣伝」であることを忘れて引きずり込まれた。うーん、いい詩だ。「目にみえて」から、またちょっと「宣伝」にもどるのだけれど、「しあわせ」をひとつにせず「いくつかの種類」にひろげる「寛容」がおもしろい。「寛容(広がり)」とは「哲学」なのだ、と思ってしまう。「与える」「与えられる」は反対の動き。「生まれる」は「与える/与えられる」とは違った運動(動詞)なのだが、「しわあせ」を「主語(主役)」にして考えると、そこに結びついてしまう。その不思議な広さ。
人がいろいろな動詞(運動)をひとりで引き受けて動くように、「しあわせ」もいろいろいな動詞をひとりで引き受ける。「しあわせ」は生きている。「しあわせ」は文法上は「名詞」だが、自分で動くことのできる「自動詞」なのだと気づく。
ランコムの美容液を買った人の何人がこの詩を読んだだろうか。どう感じただろうか。川上の紹介メモに「作家/芥川賞作家/谷崎潤一郎賞受賞」と書いてある。川上は中原中也賞、高見順賞も受賞している詩人でもある。ぜひ、多くの人に、詩も読んでもらいたいなあ、と思った。詩のことばは、「陶酔」のためだけにあるのではなく、ほかのことも書いてある。そのことに触れる「入り口」のようなものに、この詩はなっている。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
川上未映子「こんなにも、わたしたちのすべて」はランコムの1ページ半の広告に書かれていた詩。「美しい肌は、幸せのはじまり。」というコピーがついている。美容液の宣伝のために書かれた詩である。
朝、はじめて鏡のなかでみる肌が、きれいなとき。
目の奥が明るくなって、
胸がやさしくひらいていくような、
そんな気持ちになる。
夜、眠るまえに手のひらでつつみこむ肌が、
やわらかなとき。
くちびるからうっとりした息がもれて、
眠りはしなやかな熱をおびる。
女のナルシズムがあふれている。こんなに自己陶酔していいのか、とちょっとこわいぞ、これは。
「はじめて鏡のなかでみる肌が、きれいなとき」というような行を読むと、そうか、「きれい」を自分で確認するのか、と私は驚く。「きれい」というのは「自分の外」にあるものに対して感じる感覚であって、自分のことを言うためのことばではないと思うのだが……。「目の奥が明るくなって」もそうだし、「胸がやさしくひらいていくような」の「やさしく」も同じ印象。他人の目がある瞬間「明るくなる」というのは見ていて気がつくけれど、だいたい「自分の目をみる」ということ自体、ふつうはできない。だいたい、目に何かが入ったときくらいしか目を鏡でみるということがないと思うのだが、女は違うのか、と一行一行に驚かされる。そして、その一行一行を、「きれい」「あかるく」「やさしく」「やわらか」「うっとり」「しなやか」という「詩的」なことばで装飾しているのをみると、「まあ、宣伝だからね」という気もする。美しいことば、耳に心地よいことばで飾って、それで気を引く。売れればいいだけ。流行作家は、いい商売ができてうらやましい。原稿料も高いんだろうなあ。やっかみを含めて、そんなことを思う。
1連省略して、4連目。
想いをこめて、
愛情をかけた肌に美しさが育つのを感じるたびに、
うつくしくて、つよくなる。
肌の輝きが増すたびに、
自由になってゆく。
どこにだってゆけて、
何にだってなれるような、
凛としたちからが、
内側から満ちてくるのだ。
ここもナルシズムと言えば言えるのだけれど、自分への酔い方が「外面」で終っていない。
そうか、美しさを育てているのか。美しいというのは、そんなに「自信」になるものなのか。「恋愛」のことを書いた詩、セックスのことを書いた詩よりも、なんだか生々しい感じがする。女の「本音」をのぞいたような感じ。
でも。
「自由」と「凛としたちから」は同じものなのだ。そしてそれは「内側から満ちてくる」のか。これは、なかなかいいなあ。
その「内側」と「肌」が同じなのか--というのは、まあ、男の側からの「ちゃちゃ」みたいな批判だが、じっくり考えてみるとおもしろいかもしれないなあ。
で、「内側」ということばが出てきたあとの、5連目。
しあわせには、いくつかの種類がある。
記憶のなかに息づくもの。
何かによって、
誰かによって、
与えたり、
与えられたりするもの。
自然に生まれてくるもの。
想像のなかにきらめくもの。
きっと、
そのほとんどがかたちのないものだけれど、
目にみえて、
手のひらで確かめることのできるしあわせが、
あなたのなかにある。
ここで、私は、「宣伝」であることを忘れて引きずり込まれた。うーん、いい詩だ。「目にみえて」から、またちょっと「宣伝」にもどるのだけれど、「しあわせ」をひとつにせず「いくつかの種類」にひろげる「寛容」がおもしろい。「寛容(広がり)」とは「哲学」なのだ、と思ってしまう。「与える」「与えられる」は反対の動き。「生まれる」は「与える/与えられる」とは違った運動(動詞)なのだが、「しわあせ」を「主語(主役)」にして考えると、そこに結びついてしまう。その不思議な広さ。
人がいろいろな動詞(運動)をひとりで引き受けて動くように、「しあわせ」もいろいろいな動詞をひとりで引き受ける。「しあわせ」は生きている。「しあわせ」は文法上は「名詞」だが、自分で動くことのできる「自動詞」なのだと気づく。
ランコムの美容液を買った人の何人がこの詩を読んだだろうか。どう感じただろうか。川上の紹介メモに「作家/芥川賞作家/谷崎潤一郎賞受賞」と書いてある。川上は中原中也賞、高見順賞も受賞している詩人でもある。ぜひ、多くの人に、詩も読んでもらいたいなあ、と思った。詩のことばは、「陶酔」のためだけにあるのではなく、ほかのことも書いてある。そのことに触れる「入り口」のようなものに、この詩はなっている。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。