詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本真維子「同祖神」、鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」ほか

2015-01-25 11:14:16 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
杉本真維子「同祖神」、鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」、鈴木ユリイカ「砂漠」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 杉本真維子「同祖神」(初出『据花』2014年10月)。詩集『据花』はおもしろかったが、アンソロジーに収録されている「同祖神」は、私は感心しなかった。

泥を掻き混ぜて団子をつくり
嘘のように喰らっている、
供え物を疑う
やせたこころを
犬が喰う

シャツを破かれ
歯形のついた腹で
門をたたくとやさしい祖父の銃口が光った
おまえのため、は慟哭となった
わたしも喰うよ
犬を喰うよ

嘘を吐いてもとめられぬ
薄暮にふるえ
ならばわたしが祖父を喰う

 イメージが交錯する。何度か繰り返されることばがある。「嘘」と「喰う」。「嘘」は「喰らって」と「吐く」とまったく違う「動詞」といっしょに動いている。「喰らって」は自主的な行為にも見えるし、受動的にも見える。受動ならば「喰らわされて」なのかもしれないが……。「喰う」は「犬」と「祖父」を目的語(対象)としているが、「嘘のように喰らって」の「嘘」もまた「喰う」の対象になっているようにも感じられる。
 「嘘」が奇妙な具合に動いてしまったのかもしれない。
 私はそのことばから、奇妙なイメージを持った。
 供え物の団子を「わたし」が喰ってしまった。かわりに、どろの団子を置いた。そして、「団子は犬が喰った」と嘘の報告をした。「犬にかまれた」という嘘を破れたシャツで拡大し、腹についた歯形でさらに増幅させる。(実際に腹に歯形が残った、ということではなくて、ことばの上だけでそれを増幅させているのだと思う。「嘘」なのだから。)犬が喰ったのは「わたしの嘘」。それを聞いた「祖父」が犬を叱った。犬を叩いた。(犬を実際に殺して「喰う」というよりも、想像力のなかでは、喰ってしまうに匹敵する。)それは「わたし」の「嘘」が原因である。「嘘」の結果にふるえながら、「わたし」は「犬」にかわって、想像力のなかで「祖父」に仕返しをしている。(「祖父」を喰っている。)
 子どもは「嘘」を平気でつく。その平気のあとの悲しさのようなものを、ストーリーにせず(わかりやすい嘘にせず)、ことばの脈絡をわざと外して、イメージだけがざわめくように書いている。
 そんなふうに読んだ。
 このストーリーをわかりやすくしない、脈絡をわざと外すという方法は、ことばが「混沌」から、ことば自体として結晶してくるよう印象を引き起こす。「嘘」にしろ「喰う」にしろ、明確な「根拠」、言いかえると「事実」との「対応」を示さないので、ことばの「生まれどころ」がわからないという「不安」となって「肉体」を刺戟してくる。
 こんな読み方でよかったのかな、と言いかえることもできる。
 こいうときの「不安」そのもののなかに(意味の揺れ動きが誘い出す肉体の記憶--肉体がおぼえていることの浮遊感のなかに)、たしかに詩はあるのだろうけれど、この「同祖神」はイメージがわりと単純な感じがして、他の詩集の作品に比べるとおもしろみに欠ける。
 もっとも、私が言いなおしてみた「イメージ」は「誤読」かもしれないけれど。杉本はまったく違うことを書いているのかもしれないけれど。



 鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」(初出「浜風文庫」2014年10月25日)。「わたしはいつ死ぬのだろう。」という一行で始まる。いつかは死ぬと考えている。

ところが、
わたしは
明日、
わたしの身体が息を引き取るとは思っていないのです。
来月とも思ってない。
来年は、80歳になるけれどまだ大丈夫でしょう。
と、一人でくすっと笑ってしまう。
歩く足がしっかりしていないから二年後はあやしい。
三年後はどうか。
いや、進行性の難病の麻理が亡くなるまでわたしは死ねないのだ。
お互いに老いた病気の身体で介護しなくてはならない。
支えにならなくてはならない。
麻理より先には死ねないのだ。
ズッシーン。

 深刻なことがらが、そのまま書かれている。杉本の詩とは違って、イメージは飛躍しない。ことばの出所がわからないということはない。ことばと事実を結びつけて、そのまま受け止めてしまう。つまり「嘘」などどこにも書かれていないと感じる。「来年は、80歳になるけれどまだ大丈夫でしょう。/と、一人でくすっと笑ってしまう。」に、少し安心する。
 不思議なのは、こういう「内容」を書き、そこに「ズッシーン」という変なことばがはいりこむところだ。何だか軽くない? 「ズッシーン」で、何か具体的なことが伝わってくる? 
 「ズッシーン」では、私には、鈴木の「実感」がわからない。わからないから、わからないまま、あ、これは鈴木にとっても「まだことばにならない感覚」なんだなあ、と思う。ほんとうは明確なことばにしたい。けれどできない。「ズッシーン」は「未生のことば」なのだ。「ズッシーン」といいながら、その「ズッシーン」を超えて、別なことばがあらわれるのを待っているのだ。詩のインスピレーションが突然どこかからか降ってくるのを待つように「ズッシーン」が「ズッシーン」でなくるのを待っている。

自分で死ななければ、
心肺停止はいずれにしろ突然なのだ。
ズッシーン。
遠い寂しさが、
晴れた十月の秋の空。
陽射しが室内のテーブルの上にまで差し込んでる。

 これは、最終連。最後の3行が、「ズッシーン」を超えている。「ズッシーン」の「意味」になっている。秋の陽射しが何かをするわけではない。鈴木の生死と関係があるわけではない。その非情さが美しい。「ズッシーン」は世界の非情さと向き合っている。



 鈴木ユリイカ「砂漠」(初出「妃」16、2014年10月)。マルチーヌという女性がサハラ砂漠で仲間とはぐれる。昼をさまよい、夜に倒れサボテンになって花を咲かせて生き延びる夢を見た。

マルチーヌ マルチーヌってば 起きて 起きて
起きるのよ 朝のまぶしい光のなかでみんなが来て
彼女は助けられた 彼女はまた人間になった
人間なのに歩くとなぜかぼろぼろ砂がこぼれ落ちた
わたしは小さな砂漠なのよ、と交差点を渡りつぶやいた

 最後の「交差点」ということばが、マルチーヌはほんとうに砂漠で倒れ、助け出されたのか、あるいは都会の交差点で倒れて、その一瞬にサハラ砂漠で倒れる幻を見たのか、砂漠の体験がいつもマルチーヌの肉体から離れないということなのか、都会でもサハラ砂漠の幻想に襲われるということなのか、わからなくさせる。
 このあいまいさ、わからなさが詩?
 私は、都会の交差点で気を失った瞬間、サハラ砂漠でさまよいサボテンになったという幻を見た--と読んだが。マルチーヌは鈴木の、気を失った瞬間の名前だろうと考えるのは「理詰め」すぎるかな?

裾花
杉本 真維子
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スペイン語教室

2015-01-25 00:47:29 | 
スペイン語教室

カフェのテーブルサイドの小さなランプが
女の指に小さな影をつくって、散らかした。
森のなかの蝶のように
隠れたりあらわれたりするのを見ていた。

「誰にも知られたくないこと」という作文のテーマが出たとき、
そんな文章をつくったら、ラウラ先生は不思議な顔をした。
テーブルの下で裸の膝が閉じたり開いたりするのでどきどきした、
と書きたかったが「膝」ということばがわからなかったので。

「あら、そっちの方が秘密っぽいわね」
傷ひとつない冬の午後が消えてしまった。


*

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佐々木安美「巨大な石」、貞久秀紀「すでにある機会」、白石かずこ「こえる」

2015-01-24 11:17:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
佐々木安美「巨大な石」、貞久秀紀「すでにある機会」、白石かずこ「こえる」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 佐々木安美「巨大な石」(初出「生き事」9、2014年10月)。

自宅裏の畑に隣接する湯本さん宅の擁壁は
こちらにずいぶんふくらんできて
コンクリートブロックにひびの入ったところから
水が漏れてきている

この水はおそらく
湯本さんが自作した池の水で
池には大きな錦鯉が五匹
神のように悠々と泳いでいる

 「擁壁」に排水口がないのだろう。そのために地下水が「擁壁」を押して、ひび割れ、水が漏れている。その水は湯本さん宅の鯉のための池の水だ。池は、水漏れし、その水が「擁壁」を押している。「擁壁」が水脈を切断しているのだ。
 そういうことは、読めば「わかる」。「わかる」のだが、ことばというのは不思議なものだと思う。ここに書いてある佐々木のことばに、知らないことばはない。知らないことばはないし、描かれている光景も目に見えるのだが、不思議な違和感がある。「擁壁」とわざわざカギ括弧でくくって書いたのは、その「違和感」について書きたいからだ。
 私には「擁壁」ということばは思いつかない。湯本さんの家は崖の上にあるのだろう。崖の土が崩れるのを防ぐために、その崖にコンクリートが打たれている。何と言いなおせばいいのかわからないが、「擁壁」は私の日常語ではないので、書くときに出て来ないだろうなあ。「湯本さん宅の擁壁」のことばのつながり、「隣接する」も書かないだろうなあ。2連目の「自作」も、うーん、こういう使い方をするのか……と思ってしまう。「神のように」という比喩にも驚く。
 でも、この「違和感」が、この詩の世界を、不思議な形で支えている。
 佐々木の方は、「自宅裏の畑」を耕しているのだが、どうもうまくはかどらない。きちんと畑を掘らないからだと気づき、掘っていくと大きな石にぶつかる。石というより、「岩盤」に近いのかもしれない。その「岩盤」はどうやら湯本さん宅の下まで(錦鯉の池の下まで)続いているよう。水は、その岩盤にさえぎられて地下へもぐりこめずに、岩盤の上を流れてきて、「擁壁」を押している。罅を入れさせている。土木の仕事をしている専門家に頼んでつくった池、「擁壁」ではないのだろう。「擁壁」は業者に任せたかもしれないが、池は「自作」したのだろう。だから、地下水の流れ、岩盤などを気にしていない。いや、池の底の岩盤を知っていて、これなら「水漏れ」はしないと思い込んだかもしれない。
 「自作」、素人の仕事が「現実」のなかで、想像しなかったことを引き起こしている。その「自作」の「自」、つまり「人間」と「神」が、ここでは不思議な形で向き合っている。「自作」の「擁壁」「池」と「神」がつくった自然(巨大な石の岩盤)が出会っている。その「出会い」は人間の方から、何と言えばいいのか、「神」の領域をおかしていったために、「水の氾濫」を引き起こしているという感じ。そして、その「乱暴」が「擁壁」とか「自作」というような漢語のなかに、ひそんでいるのかも。「漢語」のなかに、そういう「意味合い」をこめて佐々木は書いているのかも。--これは、ちょっと「深読み」なのかもしれないけれど、私ならつかわないことばが、妙におもしろい。

池の水も抜かれることになったようだ
男の人が網ですくい取った
錦鯉の目の端に深い穴がうつり
穴の中の巨大な石が見えた

五匹の錦鯉は順々
神のようにすくい取られ
穴の中の巨大な石を目に焼き付けたまま
どこかに運ばれていった

 錦鯉がほんとうに大きな石を目に焼き付けたかどうかはわからないが、「神話」なのだから、まあ、そんなふうに書いてしまっていいのだ。
 日常つかわないことばをつかうことで、人間のおろかさ(自作の失敗)を「神話」のなかの笑い話にした、という感じ。詩のなかの「事実」を漢語が不思議な具合に整理し、動かしている印象がある。



 貞久秀紀「すでにある機会」(初出「ぶーわー」33、2014年10月)。
 佐々木のことば(漢語)は、現実を不思議な具合に切断し、その断面に「神話」が入り込む(「断面」が「神話」を動かす)という感じがあったが、貞久の「文体」は「切断」を拒み、どこまでもつづいていく感じ。

折れてつながりあう枝が
ふたてに分かれて
ひとつは幹について根につながり
ひとつは折れたところからこの枝につき
幹へと導かれていた

 「折れてつながりあう」ということばそのものが、「折れて(切断に通じる)」「つながる(接続)」と矛盾している。「折れ」たなら、そこではもうつながっていないのに、「折れる」を「ふたてに分かれ」と言いなおすことで、「ひとつの切断」ではなく、「ふたつの切断」に変えて、そこから世界を拡げていく。そのとき、とても巧妙なのは、

ひとつは幹について根につながり
ひとつは折れたところからこの枝につき

 「ふたつ」を「ひとつは」「ひとつは」と「ひとつ」という形で繰り返すことで区別をなくしている。「ふたつ」なのに「ひとつ」「ひとつ」の具別がなく「ひとつ」になってしまっている。「切断」したはずのものが「切断」されずに「ひとつ」のなかでつながったままである。「ふたつ」に「分かれて」いくはずが「ひとつ」になってしまう。
 こういう「切断」さえも「接続」にかえてしまう文体は、別個に存在する(孤立する)ものを、「孤立」ではなく、やはり「ひとつ(接続したもの)」にかえてしまう。「孤立」を許さない。
 ふたてに分かれた折れた枝はどんどんつながって、

池のほとりの木のもとに来ていた
そこではさきの木にはなかったはずの見なれない岩が
短い草のなかに露出していた
それはみずからのなだらかな一端として
横たわり
見るところ
土に隠れる部分が地にあまねくゆきわたりながら
この丘全体の
ゆるやかなすがたを成していた

 「一端」が「全体」にかわっていく。もう、そこには「切断」の入り込む場所がない。「全体」があるだけなのだ。どういう「世界」も「全体」として見ることができる。「切断」は「わかれる」ことであり、その「わかれる」の繰り返しが「全体」の編み目のようになる、ということか。これもまた別の「神話」の形。


 
 白石かずこ「こえる」(初出「花椿」2014年10月号)。

あしたについて思う
「きみを こえたいな」
きみとはあしたのこと
さしさわりない きみと話しているぶんには

 「あした」というのは、存在していない。ことばで存在させている。「こえる」も、この詩では「動詞」というよりも概念だ。

だが ねむっておきると「ハイ」とばかり
あしたは こちらにウインクして待っている
しかたがない 「つきあってやる」といいながら
あしたにキスする 「いいやつだ」
あしたが今日になるから「こえる」というご馳走
さびしい快楽に逢えるのだ

 「ウインク」「キスする」「快楽」。ことばは「肉体」を呼び込もうとしているが、呼び込めているようには見えない。概念のままだ。

雲の行方
貞久 秀紀
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電話

2015-01-24 01:44:40 | 
電話

電話をかけにいく間、ことばは、ずっと練習した
「あれから、どうなったかな?」

鏡の前を通るたびに顔を写してみる具合に。
正面、左の横顔、右の横顔、

向き合った鏡のところでは
後ろ姿まで写して確かめるように。

「あれって何?」
磨き上げたガラス窓越しにとんまな顔があらわれるのは許せない。

窓には鏡と同じように、枠があって、枠のために鏡と勘違いするのだが、
「もう、いい」

でも、結局言わないまま、もう電話をかけにいくことができない
時代になってしまった。何年前のことだろう。



*

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安藤桃子監督「0.5 ミリ」(★★★★★)

2015-01-23 12:24:04 | 映画
監督 安藤桃子 出演 安藤サクラ、津川雅彦、柄本明

 「介護」以外の仕事を知らない女が、首になり、「押しかけ介護」で暮らしていく。それをずーっと描いている。介護する相手が変わるのだけれど、介護する方の女は変わらない。相手が違えば介護の方法(?)も違うはずなのだが、うーん、変わらない。ここが、妙に、おかしい。
 親身なのだけれど、ばかにしている。親切というのと、親身というのは違うのだと気づかされる。親身というのは、相手の「欲望」を「欲望」として納得するということである。「欲望」を生きるのが人間なのだと、相手を受け入れることである。拒まない。拒まないというのは、ばかにすることである。ばかにするというのは、自分と他人は同じであると思うことである。お金をもらっているのだけれど、雇い主/雇われ人というヒエラルキーをとっぱらって、対等の人間として接する。雇われている人が雇っている人を対等の人間とみるというのは、雇い主をばかにするということだからね。で、その「対等」のはじまりが「欲望」の肯定なのである。「欲望」を肯定して、受け入れる。子どもが何をしようが、親はまず子どもの味方をする--そういう親身。「うちの子はばかだら」という感じの親身。
 これが、ずーっと変わらない。
 津川雅彦のところへ押しかけ、介護するエピソードが象徴的だ。そこにはすでに介護ヘルパーが働いている。そのヘルパーの態度は「親切」ではあっても「親身」ではない。津川雅彦や妻の「欲望」との交渉はさけて、ただ家事をして、寝たきりの妻の身の回りの世話をする。津川雅彦や妻が何をしたがっているのか、気にしない。事務的に「介護」という仕事を「親切」にやってのける。間違いなく、決められた仕事をする。
 安藤サクラは、その「親切」の先へ、少しだけ進む。「親身」になる。
 これを象徴するのが、どのエピソードにも出てくる「食べる」シーン。食べ物をつくるシーン。そこにある材料を加工して(自分でできる最大限の加工をして)、味をととのえる。おいしくする。食欲という欲望を目覚めさせる。食べないと死ぬから食べるのではなく、食べるとおいしいから食べる。
 津川雅彦がアジのみりん干しをつくるのを手伝うシーンが美しい。これがおいしいみりん干しになるのだと思うと、そばでずっーと見ていたい。たれに漬け込み、ひっくりかえすのを、ひっくりかえせと言われるまで、ずっーとそばにいる。安藤サクラはそういう態度をばかにしながら(じっーと見ていないでほかのことをすればいいのにと思いながら)、そうしている津川雅彦をかわいいと思っている。だから、アジをひっくりかえして、とか、ザルはどこにあるのとか、問いかけて、その仕事に津川雅彦をひっぱりこむ。「いっしょ」になる。「一体」になる。津川雅彦の「欲望」を受け入れ、その「欲望」を育てているとも言える。
 これが、きっと「介護」の理想なのだ。その人のなかにある「生きる力」、それをもう一度育て動かす。欲望のなかで、人間は生き返る。それに安藤サクラは寄り添う。この姿勢が、最後まで変わらない。
 認知症が進んだ津川雅彦が戦争体験を語るシーンがすばらしい。安藤サクラは画面に登場せず、一言、二言、質問する。そうすると津川雅彦が体験を語る。同じことばを何度も何度も繰り返す。「もう聞きました」とは言わず、ただ、語りたいだけ語らせている。体験を語るとき、津川雅彦は戦争はいやだ、と叫んでいる。そう叫ばずにはいられない「欲望」を肯定している。津川雅彦は、このとき完全にぼけているのだが、そのことば(欲望)はぼけてはいない。完全に正常であり、それを育てなければ、津川雅彦は生きていけない。欲望を実現することが生きることなのだ。

 それにしても、安藤サクラはうまい。
 この映画は、とても重要なメッセージを抱えているのだが、その重要さを隠しつづける演技をしている。何でもない、というよりも、何てばかな女と感じさせる。半分認知症のお爺さんをたぶらかして「介護」をして生きるのではなく、もっときちんとした生き方をしろよ、と言いたくなる。そして、映画を見ながら、何度も何度も、大笑いをする。
 安藤サクラが介護の相手をばかにしてたぶらかして生きているように、観客の私は、安藤サクラを半分ばかにしながら、この映画を見ている。津川雅彦のことも半分ばかにして見ている。スケベ爺だなあ、なんて思い、笑いながら見ている。
 で、見終わったあと、ちょっと考えはじめると、それが「一筋縄」ではいかない。人間の肉体の奥底にあるものにコツンとぶつかる。先に書いたアジのみりん干しのシーンなんかがそうなのだけれど、「あ、あそこで人間が生きていたなあ。あの瞬間は美しいなあ」というようなことが思い当たる。これを、安藤サクラは自分では姿を見せず(津川雅彦の最後の「講義」のシーンもそうだけれど)、それなのにそこに安藤サクラがいると実感させる存在感で表現する。姿が見えないのに、安藤サクラがその場にたしかにいると感じる。それは、それまでの安藤サクラがきちんと生きているからだ。まるで、カメラに写っていないときこそほんとうの安藤サクラがいるのだと感じさせるのだ。映像として見えているのは、安藤サクラの「表面」にしか過ぎない。そう感じさせるのだ。
 それは映画の表面的ストーリー(どたばたを含む笑い)が現実の表面に過ぎなくて、この映画はその内部に重要なテーマを抱えている、それが「ほんもの」であるという形ととても似ている。
 安藤桃子+安藤サクラの次の映画は何だろう。とても楽しみだ。
                        (2015年01月20日、中洲大洋3)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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華原倫子「橋の記憶」、國井克彦「わが台湾三峡」、近藤洋太「再見考」

2015-01-23 11:04:52 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
華原倫子「橋の記憶」、國井克彦「わが台湾三峡」、近藤洋太「再見考」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 華原倫子「橋の記憶」(初出『葡萄時計』2014年10月)。

橋のはじまりはこの岸で
橋の終わりはあの遠い岸
だから、橋の上にははじまりも終わりもない
はじまりも終わりもない空間には輪郭はない

 「だから」ということばが論理的だ。なくても「意味」はかわらないけれど(かわらないと思うけれど)、「だから」と書いてしまう。そこに華原の「ことばの肉体(思想)」が出ている。そして、「ことばの肉体」というのは奇妙なもので、それ自体として動いていく。「肉体」になってしまった論理は「抽象」のままではいられない。動いていくと、どうしても独自のものになってしまう。この4行で言えば、「はじまりも終わりもない空間には輪郭はない」。ここで「空間」が出てくるのは「橋」を「場」ととらえるからだろうけれど(ここまでは、まだ一般の論理)、「輪郭はない」の「輪郭」への飛躍が独特である。華原がことばにすることによって、はじめて「論理」になった。華原がことばにする前には存在しなかった。「はじまりも終わりもない」という表現は一般的にはつかわないが、「終わりのない」ことを「空間的」には「果てがない」という。それを華原は「輪郭」というのだが、こういう「輪郭」のつかい方は華原がことばにするまでは存在しなかった。そして存在してしまうと、それが「ぴったり」という感じで迫ってくる。
 この化学変化のようなところに「詩」がある。
 「論理」はさらにつづく。

はじまりも終わりもない空間は何も留めることがない
渡りきらねばここはあの世と同じ
橋はそこで生きたと言ってはならぬ場所

 これは華原が言いたいこと(思想と思っていること、思想として主張したいこと)なのかもしれないが、私には「輪郭」ほどおもしろく聞こえてこない。「この岸」「あの岸」は「此岸」「彼岸」であり「この世」「あの世」である。そういう「論理」は「流通論理」であって、華原がいわなくても誰かが言ってしまっているという印象がある。それではおもしろくない。
 けれど、連を変えて、

橋に向かって道は上り
橋が尽きると道は下る
空を渡った欄干の記憶

 ここは、おもしろい。どこの橋とは書いてはいないのだが、華原がある特定の橋を思い描いていることがわかる。すべての橋が道を上り、道を下るわけではない。水平なままの橋(坂のない橋)もある。それなのに華原は道の上り下りと書いている。具体的なのだ。知らずに出てくる「具体的なもの(こと)」のなかに、やはり「肉体」が見える。「ことばの肉体」ではなく、華原自身の「肉体」、その橋を渡ったときに「肉体がおぼえたもの」が手触りのようにして出てくる。そういう部分は、とてもおもしろい。
 「具体的」だから「空を渡った欄干の記憶」が美しい。思わず、自分自身の記憶を探してみる。私の渡った橋のなかにそういう橋があったかなあ。探しながら、私は私の「肉体」が華原の「肉体」と重なっているのを感じる。そういう橋を具体的に思い出すことができる。おぼえていないのに、思い出すことができる。こういう瞬間が好きだなあ。詩を読む至福がある。



 國井克彦「わが台湾三峡」(初出「ゆすりか」102 、2014年10月)。終戦後、台湾の三峡から日本へ引き上げてくる。八歳のときの体験を書いている。

大人たちはトラックの前方を見ていた
去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ
なぜ愛しい三峡の街を山を河を
大人は振り返らないのか
わが人生でこのことは常に思い出された

 あ、うつくしいなあ。思わず声がでそうになった。
 私は台湾へ行ったことがない。三峡がどこにあるかも知らないし、どんな街、どんな山、どんな河なのかも知らない。知らないなら、調べろ、という人がいるが、私は調べない。ネットで調べて、写真を見ても、それは自分の体験とは無関係である。それがどんなに美しい街、風景であろうと、それ見ることで國井の気持ちが「わかる」わけではないと考えるからだ。
 では、何が美しいのか。

去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ

 この一行。そこにある「時制」がカギだ。その前の行では「見ていた」(過去形)がもう一度「見ていた」(過去形)で繰り返され、そのあと「だけだ」と「現在形」になる。「自分だけだった」と過去形になっていない。
 「自分だけだ」という断定が「現在」であるために、「いま/ここ」で國井がかつて見た風景を見ているという感じが強く伝わってくる。「見ていた」のは過去のことなのに、「いま」それを「見ている」。「過去」が「現在」として、「いま/ここ」にある。その生々しい動きが凝縮している。主観が躍動する。
 「大人は振り返らないのか」という現在形の疑問(「大人は振り返らなかったのか」という過去形ではない)にも強い主観を感じる。
 そして、この感覚は、次の行、

わが人生でこのことは常に思い出された

 この「常に」に言いなおされている。「常に思い出された」と過去形で書かれ、ここでは國井はちょっと「客観」に戻っているのだが、この「過去形」は方便だ。「常に」だから「いま」、そして「これから」もという時間がそこにはある。かわらない。時間の影響を受けない。言いかえると、この「常に」は「永遠」なのである。



 近藤洋太「再見考」(初出「スタンザ」7、2014年10月)。「再見」は中国語で「さようなら」。「再会」を意味する(再会を願う)。でも日本語の「さようなら」にはそういう気持ちが見当たらない。そういうことを、いろいろな言語のあいさつをまじえて思いめぐらしたあと、

--僕はこれから、手紙の末尾には「再見」と書こうかと思うんですよ。
すると彼女、王旭烽さんは、はっと我に帰ったような顔になり一生懸命制止したのだ
--イケマセン。ソレハイケマセン。手紙ノ末尾ハ必ズ「敬具」デス。

 ここで詩は終わる。
 私は無知なので「敬具」で終わらなければなはらない理由、「再見」がだめな理由はわからないが、この「わからなさ」が詩なのかもしれない。
 どうして?
 そう思った瞬間。
 なぜ、そのひとはそう思うのか。なぜこの詩人はこんなことを思うのか。その驚きのなかに詩はある。それは説明してしまっては詩ではなくなるということかもしれない。
 私は「わからないこと」は調べるのではなく、「考える」。
 で、考えたのは……。「再見」というのは「再び」会う。繰り返す。手紙で「再び」がまずいのは、「わからないなら、もう一回、同じことを書くぞ」(何度でも書いてやるぞ)という一種の「おどし」になるから? 「手紙」とは「あいさつ」もあるだろうけれど、だいたいが自分の「考え」をつたえるもの。「敬具」は「慎んで申し上げます(申し上げました)」くらいの意味。「再見」には「慎んで」という感じがないからなのかな?


葡萄時計
華原 倫子
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連載小説

2015-01-23 01:04:29 | 
連載小説

朝、台所でコーヒーを入れながら、ことばは新聞の連載小説を片目で読んでいた。
もう片目はポットに落ちていくコーヒーを見ていた。
頭では、ことばは何になる準備をしていたのだったか思い出そうとしていた。

小説の中ではネクタイをしめた男が出てきて、
黄色いバターの塗ったパンをかじり終えてコーヒーを待っている。
コーヒーが出てくるまで新聞を折り畳みながら、連載小説を読んでいる。

咳をして(時間がないので催促している)
足を組み換えて(時間をどうつかっていいのか考えていないので)
靴下の色とズボンの色が黒い革靴にあうか茶色の靴にあうか……。

その小説にはストーリーがなくて、小説を読む人の細部だけが何日もつづき、
しかも人物の名前が毎朝変わっている。
まるで意味不明の現代詩だという批判が読者から投書されてきたという。

そこで書き手のことばは、こんなふうに説明する。登場人物は
これからますます増える。増えすぎるて誰が誰なのか区別がつかなくなる。
つまりひとりに見えてきたら、そこで小説は終わるのだ、と。


*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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有働薫「白無地方向幕」、尾花仙朔「晩鐘」、カニエ・ハナ「草獣虫魚」

2015-01-22 08:56:20 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
有働薫「白無地方向幕」、尾花仙朔「晩鐘」、カニエ・ハナ「草獣虫魚」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 有働薫「白無地方向幕」(初出『モーツァルトになっちゃった』2014年10月)。この詩の感想は書きにくい。詩集『モーツァルトになっちゃった』については書きたいことがある。今は「現代詩手帖12月号(現代詩年鑑2015)」のアンソロジー全作品について感想を書いている途中なので、それが終わったら書きたいと思っている。その書きたいと思っていること(取り上げたい詩)とアンソロジーの作品が違う。ふーん、これが詩集の代表作か……違うと思うけれどなあ、とどうでもいいことを考えて、ことばが動かない。動こうとしない。
 「白無地方向幕」か……。この作品について、私は何が言えるだろうか。

ひとふしのメロディーが朝から頭を離れない
くちの中でくりかえし小さく歌い
どこかで聞いたと 記憶のもやの中を探し回る
たどり着けずに正午を過ぎて
ガラス戸ごしに曇りの空を眺めている

 おぼえているのに思い出せない、という「矛盾」のようなことがらは誰にでもあることだと思う。特にめずらしい体験を書いているわけではない。むしろ、「平凡」なことを書いている。こういうとき、詩は、「内容」ではなく、書き方にあらわれる。書き方にあらわれた特徴が詩である--と私は思うのだが。
 「朝から」「正午を過ぎて」。この時間の経過の書き方が律儀すぎて、私は、そこにつまずく。この詩を詩集のなかの代表作として選んだ人は、まあ、律儀な性格で、有働の律儀さに反応しているのだと思う。「記憶のもやの中を探し回る」には有働の翻訳体験から生まれた「正確さ」を求める姿勢が出ている。論理的すぎる。そういう意味では、有働らしい作品なのかもしれない。「記憶のもや」が「曇りの空(しかも、ガラス戸越し)」と呼応し、呼応することで、とてもわかりやすくなっている。--でも、私は、この部分は好きではないなあ。明晰すぎる。

愛しあったり
愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり
音もかたちもない
ふとした凪のような
自分であるのかほかの人であるのか
消え去りやすく けれど不意に戻ってくる

 3連目は、1連目とは違って、自在に動いている。1連目でていねいに状況を書いたので、安心してことばが動き回っているのかもしれない。「愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり」というような「矛盾」した動きが楽しい(そういうことってあるよなあ、と納得してしまう)。この「矛盾」は「朝から→正午を過ぎて」というようなきちんとした動きではなく、詩のなかのことばで言えば「ふと」動いてしまうものである。「無意識」に動いてしまうものである。動いてしまったあとで、思い返すとこういうことだったなあ、という動きである。「無意識」であるから「不意」ということばでも言いなおされてもいる。
 私は、こういう「言い直し」を読んでいくのが好きである。人は大事なことは何度でも言う。何度でも言い直す。言いなおしているうちに「ことばの肉体」が生まれてくる。
 この詩の「思想(肉体)」を探していくと、「ふと」「不意に」にたどり着くと思う。あるメロディーが思い浮かび、それが何かわからないまま頭を離れない。というのは「不意に」やってきたできごと。「ふと」やってきたできごとである。その「ふと」や「不意に」を見極めようとするとメロディーとは関係があるのかないのかわからないが、「愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり」とい「衝動」のようなものを思い出したりする。
 どこかに、何か「衝動(本能)」が動いている。それを探しているんだなあ、と思う。「本能」であるから、

生まれて二ヶ月の赤ん坊が
朝の小鳥のコロラチュラにじっと耳をすましている
遠い眼をして

 と「二ヶ月の赤ん坊」が「比喩」として出て来る。「比喩」ではないかもしれないけれど、本能と結びつくことばとして出て来る。ことばが「必然」の運動として、「自然」に動いている。
 1連目のていねいな「論理」を突き破って、だんだん詩の自由さが出始める。

何度でもあきらめよう
そのたびに輝くものがある

迷子よ
迷子よ
後戻りはきかない

 この2連は「意味」は論理的にはわからないが、ことばが「飛躍する」瞬間の「真実」がエネルギーそのものとして動いている感じがしておもしろい。「迷子よ/迷子よ」が「意味」としてではなく、「音楽」として先に動いていく感じ。
 「ふと」「不意に」ということばのあと、開き直った(?)感じでことばが疾走しはじめる。このスピード感が、詩、なのかな? この詩をアンソロジーに選んだ人の好みなのかな、と考えた。
 (いつか書きたいと思うが、私が『モーツァルトになっちゃった』をおもしろいと感じたのは、また違う作品、違う理由であるのだが、とまた書いておく。)



 尾花仙朔「晩鐘」(初出「午前」6、2014年10月)。私は、この作品は苦手である。私はカタカナ難読症なのか、カタカナを読むのが苦手。この詩は漢字とカタカナの組み合わせで、カタカナだけで書かれているわけではないのだが、読みづらいなあという気持ちが先に立ってしまう。そして、実際に読みはじめると

彼方ヲ望メバ内戦紛争ノ絶エマナク
民族ノ覇権アラソウ相剋ニ悪霊アマタ跳梁シ
血ヲ血デ洗ウ災イ果テシナク
飢餓ノ闇 恐怖ノ斧ニ囲マレテ
平穏ナ日々ノ生活ヲ請ウノミノ民ハ塗炭ノ地獄絵図

 どのことばも知らないわけではないが、日常的に私のつかわないことばばかりである。現実の世界の問題と重なることばがつかわれているのだが、「現実の世界」といっても、私はそこに書かれているようなことを自分の「肉体」ではまったく知らない。私の「肉体」はそういうことをおぼえていない。ニュースで知っているだけで、「肉体」に響いてこない。私の想像力が貧弱なだけなのだろうけれど、こういうことばに私は「親身」になれない。「地獄絵図」というような「流通言語」を読むと、尾花は「体験」として書いているのかなあ、と疑問を感じてしまう。「民」というようなことばもいやだなあ。「民」ということばをつかうとき、尾花は「民」のひとり? それとも「民」ではない人間?



 カニエ・ハナ「草獣虫魚」(初出『MU』2014年10月)。「無」をテーマにした作品--になるのだろうか。

苔の生すまで
結ぶまで
またたくま
私の墓に
無を結ぶ
転がる岩の一念で
月溶けて
地濡れて(土噛んで
父子樹に生った二人の私が
喪がれていって
火ほどけて

 「父子樹に生った二人の私」が何のことかわからないのだが、わからなくてもいいか、とも思う。リズムがおもしろい。1行を短くすることでリズムをつくり出している。「むすまで/むすぶまで」のなかに「む(無)」が何度も出て来る。「むすぶ」の「ぶ」も「無」の変形に感じてしまう。口で声にするとき「む」と「ぶ」は同じ感じ。
 「意味」は音から生まれ音に帰っていく。ことばは「意味」ではなく「音」という生まれては消えていく「無」そのものとして動いていく。--と書くと那珂太郎のことを書いているような気持ち。「喪がれていって」というのは「殯」と関係している? 「もぐ」という動詞の「当て字」?
 そんなことを考える(そんなふうに「誤読」する)のも楽しい。

モーツァルトになっちゃった
有働 薫
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もう一度

2015-01-22 00:15:18 | 
もう一度

もう一度思い出してみる
雨に濡れた舗道の、1ミリで揺れている明かりを踏み、引き返すように

あそこで終わらなければならなかった、
立ち上がるとき椅子が倒れた、両手をつかって椅子を起こした。

でも、その前に笑い声といっしょに始まってしまっていた。
幾つ目の角を曲がるか知らないと言ったら、

橋を渡らずに、どうして角を曲がると知っているのか、と問いかける声があって、
その後ろにコートと黒いマフラーがぶら下がっていた。

冷たい夜を歩くと、
ビルの上の星のように喉仏のあたりが研ぎすまされる。











*

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阿部嘉昭「アジサイ喰い」、天沢退二郎「二つの家」、伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」

2015-01-21 18:41:32 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
阿部嘉昭「アジサイ喰い」、天沢退二郎「二つの家」、伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 阿部嘉昭「アジサイ喰い」(初出『陰であるみどり』2014年10月)。「アジサイ喰い」とは何のことだろう。「アジサイ」は花(植物)のアジサイ? 私は食べたことがない。

たえず緯度の老齢で
紡錘の絞められる北地にも
ようやくいろづきだした
聖水たたえる球を
えらばずにほおばってゆく

 書き出しから、何のことかさっぱりわからない。「紡錘」「いろづく」「球」「ほおばる」から、色づいた鬼灯をほおばっているのかとも思ったが、「アジサイ」とは季節があわない。
 「緯度」「老齢」「北地」というのは緯度の高い北の土地を想像させるが「ようやくいろづきだした」の「ようやく」もわからない。緯度の低い南の土地なら「ようやく」色づくという表現はあると思うが、北の土地なら「はやくも」色づき出したということばを私は思い出す。
 「流通言語」を否定し、それとは違ったつかい方をする--それが詩、ということなのかな? 
 でも、そうなら……。

しずかな未遂の亡霊がうかぶ
くちをもやす花喰いびとにあり
ぼろまとうアジサイ喰いは
ふくみあやまる毒でくちを消し
かち色の身もしずめながら
ゆきかうだけをくりかえして
まぼろしなすその挙動から
不審な珠などあふれしめ
つながってゆくひかりみな
ひとしく狂れだすよう
よわさをそこへ火ともす

 亡霊が「浮かぶ」、ぼろを「まとう」、身を「しずめる」という「定型」の「動詞」は、どういうことだろう。
 まぼろし「なす」、あふれ「しめ」という口語から遠い表現も気になってしまう。口語から遠いくせに(あるいは遠いから、なのか)「定型」の文体(動詞の意味の働き方)が気になってしまう。ことばに酔って「頭」が「定型」を動いていない?
 「ようやくいろづきだした」という表現も、阿部の「頭」がおぼえている「定型」ではないのかなあ。今は北海道に住んでいるようだけれど、それ以前に住んでいた土地のことばの「定型」が無意識に出てきてしまったのではないのかなあ。
 詩なのだから「意味」があろうとなかろうといいと思うけれど、ことば酔った音の動きが気になる。ことばに酔うことは詩の大事な部分を占めるけれど、でも「酔う」のは読者であって「作者」ではないなあ。筆者は醒めていて、読者が「酔う」のが詩だと思うなあ。
 酒席で、ひとり酔いの頂点にいる人を見るような感じがする。



 天沢退二郎「二つの家」(初出『贋作・二都物語』2014年10月)。「私」は「僕」であり、「俺」でもある。「僕」と「俺」の違いは、住んでいる家の違い(家にいる小母さんの違い)。三叉路がある。Yの字をつかって天沢の詩の「僕」「俺」と「二つの家」の関係を図式化すると、Yの下の方に「僕の家」、左上に「俺の家」、右上が図書館。交わっているところに「ブルー」というカフェがある。その「ブルー」で……

そこで一服してから、わが家に入ると、
驚いたことに、玄関口に僕の家の小母さんが
大きな顔をしてがんばっているではないか!
何だ? どうしたんだ! 全く理解不能だ
あまりの驚きに 僕?/俺?は
その場で失神してしまった



気が付くと、さっきのカフェ・ブルーの、
三叉路に面した席に座っていた
この私は、いったい僕なのか、俺なのか

 ここに書かれていることは、すべて「頭」のことばである。「理解不能」ということばが出てくるが、「理解」とは「頭」ですること。「頭」が「理解不能」と言っている。
 天沢は、これを「肉体」のことばで言いなおしたりしない。「頭のことば」をそのまま動かしていって、それを「ことばの肉体」にしてしまう。「肉体」というのは、どういういときでも「ひとつ」である。「ひとつ」であることによって生きている。「僕」と「俺」は「ことば」としては「ふたつ」であり、さらにそれを認識する「私」をくわえると「みっつ」になってしまうが、それを「ひとつ」にして生きる。動く。そうすると、どうなるか。

外はもう夜で、店員が、閉めるから出てくれと
言っているが、その私は今ここでは
僕なのか、俺なのか、
それがきまらないかぎり、ここを出ても
二つの家のどっちへ行ったらいいのか
わからないではないか!?
                       (注・「!?」は原文では1文字)

 「わからない」にたどりつく。この「わからない」を「わからない」まま書くのではなく、あくまで「わかる」ことば、「わかる」論理を動かしていく--そのときに「ことばの肉体」が見えてくる。
 これが、おもしろい。
 「わからないこと」(理解不能)のことを、ことばは「わかる」ように書ける。他人が共有できるように書くことができる。「わからない」が「わかる」。「私」が困っていることが「わかる」。
 ことばの不思議は、ギリシャの時代から「矛盾」と向き合っていることだ。ギリシャ人の明晰な頭脳を困惑させたのは「ない」を考えることができるということだった。「ある」はそこに「ある」もので証明できなるが「ない」はそれ自体確認できない。でも「ない」が、「わかる」。そこから「論理」が動いている。
 私は「頭のことば」は好きではないが、「頭のことば」が「ことばの肉体」にまでなってしまった「ことばの運動」を読むのは大好きだ。「肉体」になってしまったことばは、どこまでも動いていける。そういう自在さがある。自由がある。そして、その自由さの度合いは、ことばのスピードそのものになってあらわれている。軽さ、明晰さにもなってあらわれている。



 伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(初出『undefined 』2014年10月)。「現代詩手帖」に掲載されているのは「抄」。だから全体の内容はわからないのだが、女と知り合いホテルで一夜を過ごす。朝、電話をとるが、雑音で聞こえない。女はとなりでうめいている。

 女は体中に穴を開けていた。あたしは穴という穴のすべ
てに舌を這わせ、何度も舐めあげたけれど、その穴が昨夜
はあんなにいとおしかった、レズビアンの耳の穴にある骨
の形がストレートとは違っているとどこかで読んだことが
あるけれど、それはもしかすると真実なのかもしれない、
これと同じことは二ヶ月前にもあったし、たぶん、来年も
あたしは同じことを繰り返しているだろう。耳の穴の暗闇
にぽっかり浮かんだ、白い骨。

 そんなことを思っていると、地震があってテレビをつける。地震情報を確かめようとする。
 阿部のことばの動きとも、天沢のことばの動きとも違う。
 私たちが日常つかっていることばのまま、伊藤の体験したことが、並列して書かれている。わかることばで、私の知らないことが書かれている。でも、何が「わかったか」ということは、たぶん、「わからない」。伊藤が女といっしょにホテルにいるときのことを書いている、ということだけが「わかる」。

贋作・二都物語
天沢 退二郎
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田島安江「ひとあしおさきに」

2015-01-21 10:25:51 | 現代詩講座
田島安江「ひとあしおさきに」(現代詩講座@リードカフェ、2015年01月14日)

 詩を複数のひとと読んでいると、ときどきおもしろいことに出会う。ひとりで黙読しているときには感じなかった刺戟がある。

ひとあしおさきに  田島 安江

夜半にゆるゆると起き上がり
ひそかに
音のしないようにそっとシャワーを浴び
終い湯に浸ると
家族の落としもののような垢や恥毛が
ゆらゆらと過ぎて行くのを眼の隅におさめる

じっと湯を眺めていると
甘い夢の欠片などすっと消えて
しらじらとした闇の正体を見定めたくなる
舌を刺す牛乳にむせたときのように
腐敗は白い乳の色から始まる
とっくに知っていたはずなのに
なにも慌てることなどないではないか
わたしのなかの腐敗はとっくに始まっているのだから

ベッドの裾から
冷たい気配がはいのぼってくる
冬の夜更けには肩こりがひどい

寝る前に脱いだ洋服が夜半になるとかさこそと音を立てる。たたまれたり開かれたり。洋服の中から覗いた誰かの足が伸びたり縮んだり。洋服を着たまま、その人はすっくと立ち上がり、「それではひとあしおさきに」といってほんとうに行ってしまった。

 受講生の感想は、「不思議な感じ。誰かが先に行ってしまった。主人公が、肉体、内面を観察せざるを得ない状況にいる。」「現実の中の異界を描いている。気配ということばが出てくるが、気配を描いている。」「最後の連はこわい。洋服のなかから手足が伸び縮みしたり、人間が立ち上がり出て行くというのは現実にはありえない。」「現実をしっかり観察している。甘い夢が消える感じ。自分自身の内面を描いている。」「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる、という2行から、生まれた赤ん坊は誕生のときから腐敗(死)が始まっている、という言っているよう。」
 この感想のなかで私が「あっ」と思ったのは「主人公」という指摘。
 「講座」では出席者の書いてきた詩を読み、感想を語り合うのだが、「主人公」ということばが感想の中に出てきたのは初めてのような気がする。詩にはたいてい「私」が出てきて、それは筆者を指すことが多い。暗黙のうちに、私たちは詩を「私小説」のように「私詩」と思ってるので、めったに「主人公」ということばをつかって感想を言わない。
 けれども、今回「主人公」ということばが出てきた。類似のことばで「自分自身の内面」という表現も出てきた。これも、詩は自分自身の内面(精神/感情/感覚)」を描くものという暗黙の了解があるので、なかなか「ことば」として口に出すことはない。感想をいうとき、わざわざ「自分自身の内面」とは言わないような気がする。
 なぜ「主人公」ということばが感想に紛れ込んだのか。
 たぶん、「異界」というものが見えたからだと思う。この詩を書いた田島は、「私たちとは違う世界にいる」。それは知っている「田島さん」ではなく、別の人間。詩のことばのなかを生きている「別人/詩の主人公」。あえて言えば「日常の田島さん」ではなくて「詩のなかの田島さん」。
 どうして、そういう「思い」が強くなるのか。これは「現実を観察している」という指摘があったが、たしかに「現実」を書いているからである。

終い湯に浸ると
家族の落としもののような垢や恥毛が
ゆらゆらと過ぎて行くのを眼の隅におさめる

 ここには生々しい「現実」が描かれている。そして、その「現実」は「垢」「恥毛」といった、ふだんは口にしない「肉体」をとおして描かれる。こういうことばを読んだとき、だれも田島の家族の「垢」あるいは「恥毛」を思い浮かべない。自分自身が風呂に入ってみてしまう他人(家族)の垢、恥毛を思い浮かべる。田島の詩なのに、自分自身の「肉体」と「現実」を思い出してしまう。自分の肉体で田島の「現実/肉体」を受け入れてしまう。田島になってしまう。田島になってしまうのだけれど、もちろん他人だから田島にはなれない。「ずれ」が生まれる。
 「ずれ」は「現実」であると同時に、「現実」を見せてくれる「仮構/虚構」である。自分であるかもしれないけれど、自分ではない、他人だ、と言いたい感じ--それが、ここに登場する「わたし」を「主人公」と呼ばせてしまう。それは「私ではない」。書かれていることから「私の現実/肉体」を思い出すけれど「私ではない」。切り離すことで、「安心」したいのかもしれない。突き放して見たいのかもしれない。
 「とっくに知っていたはずなのに」ということばが詩の中央あたりに出てくる。ここに書かれていることは、そうなのだ、「とっくに知っている」ことなのだ。「じっと湯を眺めていると/甘い夢の欠片などすっと消えて」いくというのは、誰もが何らかの形で感じている。「わたしのなかの腐敗はとっくに始まっている」もわかっている。「冬の夜更けには肩こりがひどい」もわかっている。同じ「肉体」を生きている。その「肉体」の感覚をおぼえている。だからこそ、「わかりたくない」。自分であるとは思いたくない。あくまで、ことばのなかの「主人公」として受け止めたい。
 そして、好都合なことに(?)、最後は、自分の感じていることとはまったく違うことが書かれている。自分の「肉体」ではおぼえていなかったことが書かれている。よかった、これは「私」ではなく詩の「主人公」の体験なのだ、と思うのだ。
 
 でも、そうなのか。私は実は最終連の光景を見たことがあると感じた。いくつかの夜を思い出した。受講生のひとりは「怖い」と言ったが、私はなつかしく感じた。湯船の垢や恥毛もなつかしく感じた。「肉体」がおぼえていることは、どんなことでもなつかしい。

 で、最後の「その人はすっくと立ち上がり」の「その人」とは誰だろう。「主人公」か「主人公以外の人(他人)」と質問してみた。
 「主人公」「主人公とは別な人の方が恐怖感が増す」「主人公の分身」。意見は分かれた。作者の田島は「わたしではない」と言った。このとき、私は、「その「わたし」というのは2連目に出てくるわたしなのか、それとも田島さん自身のことなのか」と聞きそびれてしまった。
 こんなふうに見方がそれぞれ違うというのが、とてもおもしろい。「正解」はない。田島が「私はこう思って書いた」と主張しても、それが「正解」かどうかはわからない。違っていていいと私は思っている。
 私は「その人」を「まったく別人」と読んだ。それまで書いてきた「肉体の疲労感」のようなものを手がかりに言うと、「疲労してしまう人間そのもの」あるいは「疲労するということ」。誰かというよりも「人間のあり方」そのものが「その人」と抽象的に呼ばれている。この「抽象(疲労するという動詞といっしょにある人間)」を「本質」と呼びかえることもできるかもしれない。
 「抽象」だから、もちろん「全くの別人」であっても「私自身」であってもかまわない。「誰か」にこだわってしまうと、消えてしまう存在である。ある瞬間は「別人」、ある瞬間は「私」。いろいろいな「人間」そのものとして、あらわれては立ち消える。
 私が「主人公は誰?」と問いかけ、それに受講生が答える瞬間、答えながら受講生は「正解/誤読」(正解というものがあったと仮定してだが)を揺れる。言った瞬間に自分の言った「正解」は「誤読」になり、他人の「誤読」を聞くたびに、それが「正解」になる。「答え」はなくて、「感じている」ということだけが、そこに「つかみきれない幻」のように動く。
 それが、詩だ。
 「舌を刺す牛乳にむせたときのように/腐敗は白い乳の色から始まる」は赤ん坊のことを書いたのではなく、現実の牛乳と腐敗、舌先の感覚について書いたのだと田島は言ったが、(私もそう思って読んでいたが)、赤ん坊を思い浮かべ、腐敗を思い、「それではひとあしおさきに」とつなげると、人間の生まれて死んでいくという「一生」が「その人」となって動いているとも読むことができるだろう。
 人の一生は、それぞれがきちんと「生きている」(実践している)にもかかわらず、つかみきれない。つかんでいると思ったらするりとどこかへ逃げてしまっていて、もう何も残っていないと思ったら、目の前にある。

 田島は「現実」を書いた、自分の感じていることを書いたのかもしれないが、そのことばの運動のなかに、何か田島を超える「存在」が動いている。異質な感じが動いている。それが「主人公」という感想になってあらわれ、その「主人公」という感想に刺戟されて、全員で詩を読み直したという感じがあった。

               (次回は、2月25日、水曜日、午後4時-6時。)

詩集 遠いサバンナ
田島 安江
書肆侃侃房

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森山恵「指切り」、青山みゆき「娘」、暁方ミセイ「クラッシュド・アイス陽気」

2015-01-20 10:07:34 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
森山恵「指切り」、青山みゆき「娘」、暁方ミセイ「クラッシュド・アイス陽気」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 森山恵「指切り」(初出『岬ミサ曲』2014年09月)は、何を書いているのだろう。「指切り」は「約束」を思い起こさせるが、よくわからない。よくわからないけれど、

つる草。灌木に絡むつる草。
仙人草の小さな仙女が。蜜をすくう。くすくす笑う。マルハナバチが蜜を。
吸う。

 音の交錯が楽しい。「すくう」「くすくす」「吸う(すう)」。こういう「音」そのものの交錯に隠れて、「意味」も交錯する。ことばが形を変えて反復する。「つる草」は2行目で「仙人草」と言いかえられる。あいまいだったものが具体的になる。「仙女」が「マルハナバチ」と言いかえられる。音そのものの交錯と、イメージの交錯が一体になって動いている。

そう。仙人草。小さな莟は細く裂けて囁く。
くすくす笑う。歌う。
指に絡み付いて。わたし。囁く。
笑う。人間たち 分かってないね。なんにも。なあんにも。

 「仙人草」はさらに「小さな莟は細く裂けて囁く」と言いなおされる。白い花びら、その中心に細く咲かれたような糸のようなもの。それは何事かを囁いているように見えないことはない。「くすくす笑」っているのか。あるいは「歌」っているか。
 わからないけれど、だんだん花が見えてくる。
 見えてくると同時に、その花と呼応するように「わたし」が「囁く。」いや、この「わたし」は森山ではなく、「仙人草」そのもの、そして「マルハナバチ」そのもの。そこにある「風景」そのもの。
 ここから森山は、「自然」の奥深くへ分け入っていく。

水源地の仙人水。
水のまぶたで。撫でる。つる草は死の国から伸びて。
あたたかい。虹色の土を。
黄泉の国にも花。花。花を花を咲かせる。人のからだに根を下ろして。ひそやかに。
わたし。秘密を隠しもって。

 これは、仙人草を扁桃腺の治療に使う民間療法のことを指しているのだろうか。扁桃腺が腫れたとき、腕に仙人草を貼ると扁桃腺の腫れがひく、ということを聞いたことがあるような、ないような。(違う草かもしれないが。)「水源地」「死の国」「虹色の土」のつらなり、「人のからだに根を下ろして」ということばのつらなりから、なんとなく、そういうものが浮かんでくる。
 野草の薬効などに詳しい人には、森山の描いているイメージがもっとはっきり見えるだろうが、私には、よくわからない。けれど、ことばを何度も言い直し、自分の言いたいことに近づいていく方法、そのとき音を大切にしているということが、この詩を魅力的にしている。
 (完全な「誤読」かもしれないけれど、私は「誤読」を気にしない。)



 青山みゆき「娘」(初出『赤く満ちた月』2014年10月)。この詩もよくわからない。娘が反抗期。母親(青山)に「お母さんなんか大嫌い、あんたなんかお母さんじゃない」と言ったのだろうか。

       (部屋の隅で
            からだを折りまげ
          あなたは
        小さくなってころがっている)

 そういう様子をみて、

わたしは何をなくしたのだろうか

 と思っている。反省している。しかし、そうだとすると、最終行、

あなたの心臓はまだ動いている

 これは何だろう。なぜ、「心臓」が出てくるのか。不吉な感じがしてしまう。
 森山の詩に「死の国」ということばが出てきたけれど、それは不吉ではなかった。この詩には「心臓」が出てくるのに不吉。
 ことばは不思議。
 何とつながって動いているのだろうか。



 暁方ミセイ「クラッシュド・アイス陽気」(初出『ブルーサンダー』2014年10月)。詩集の感想で「宮沢賢治を思い起こさせる」と書いたが、この詩も賢治を連想させる。

こんなに滅多な光の渦なのだから
こちらは分離作用の澱のほうで
よく澄んだ藍色のこの上空に
さらに清澄な上澄みの液があるだろう

 「こんなに……なのだから」「こちらは……のほうで」という「対」のつくり方、「分離作用」というような硬質なことば。「清澄(透明)」なもの、結晶のようなものへの意識の動き。
 賢治が暁方のなかで生きている、動いている感じが、うれしい。賢治の模倣ではなく、賢治が生きていると感じるのは、暁方が賢治を完全に自分自身のものにしてしまっているからだろう。賢治が生きているではなく、賢治を生きている、と言いなおした方がいいのかもしれない。

岬ミサ曲
森山 恵
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広瀬弓「みずめの水玉」、藤原菜穂子「山の上の病院は」、宮内憲夫「夕陽も笑顔」

2015-01-19 10:42:51 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
広瀬弓「みずめの水玉」、藤原菜穂子「山の上の病院は」、宮内憲夫「夕陽も笑顔」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 広瀬弓「みずめの水玉」(初出『みずめの水玉』2014年09月)。何が書いてあるのか、わからなかった。

手のひらと顔を天に向け
降ってくる水玉をキャッチした
ひとつぅ……
……ふたつぅ
ひとりでに嬉しくなって
笑いながら
とび跳ねていた

 「降ってくる水玉」は「みずめの水玉」。私は見たことはないが「傷ついた木肌をくろぐろと染め、吹き出す樹液の水玉を風に乗せ飛ばしていた。」と書いてあるので、ミズメの樹液が飛んでいるのだろう。しかし、その樹液(水玉)が「傷」といっしょにしか存在しえないのなら、それは単純な喜びとは違うものかもしれない。
 そのあと、「わたしたちは大切な青年を連れ去ろうとしていました。」ということばがあり、さらに、

血が流れます。流れる流れると見つめていましたが、流れぬまま画像はフリーズしています。流れ出す前に目を覚まそうと、わたしは薄明のもやの層をもがいて浮き上がりました。

 「現実」ではなく、「過去」の何か(ミズメにまつわる神話?)とことばが交錯しているようである。私は無知なので、その「神話」のようなものを知らない。だから、この詩は、わからない。



 藤原菜穂子「山の上の病院は」(初出『行きなさい 行って水を汲みなさい』2014年09月)。夫の手術後の病院。夫はまだ水を飲むことを禁じられている。水を飲ませるまでに時間がある。その時間を利用して、食事に行く。そのとき、同じ病院にいるひとたちを見る。

正面玄関から入って来るひと出て行くひと
立ち止まって話し込んでいるひと
むこうの窓際で
初老の男性が窓の外の緑を指差しながら
車椅子の老いた母に話しかけています
イロハモミジの若葉がそよぎ
石楠花がぽつぽつと火を点し
雨あがりの空に雲が流れて

 あの母と子は 風にそよぐ
 生命を見ているのです
 (死者たちが生命を見ているのです)

 はっと、胸を突かれる。母と子は、生きている。「死者」ではない。けれど、死を受け入れているということだろう。死を受け入れる覚悟をして、自然の「生命」を見ている。病院とは、そういうところかもしれない。
 そう気づいたとき、藤原は不思議な声を聞く。

行きなさい と誰かの声がうながします
行って水を汲みなさい
霧の奥に流れている水を汲んできなさい
魚の遡る谷川の水を

 それは「生命」の水。生命があふれる水。それを藤原は夫に飲ませたい。いずれ死は来るかもしれない。そうであっても、それまで「生命」の輝きを味わってもらいたい。味わわせてやりたい。そういう祈りが聞こえる詩である。



 宮内憲夫「夕陽も笑顔」(初出『地球にカットバン』2014年09月)。戦後(敗戦直後か)、「俺はどこから うまれたのだ?」と両親に聞く。父は「木の股からだ」と答える。母は「木の股からは方便」と笑う。そして、つけくわえる。

土からも木からも 人の子は産まれん
ただ自然に恵まれた生命と 心にすえりゃ
その身は丈夫で 争いはせぬ!
祖母(ばあ)が教えてくれた 大事な事実(こと)だから
安心 せよと!
こよなく 美しい笑顔であった

 戦争批判とセックスの大切さ(生命の原点)について語っているのだが、わかりにくい。直接的な表現がないからである。
 省略してきた途中に、戦争中の村の様子が書かれているが、そこに

村中(みんな)の人が辛抱に辛抱を重ねてきた
男は「身棒(しんぼう)」を使う元気が有るくらいなら
皆兵隊に来いを 恐れていたと……

 という表現がある。「身棒」はペニス。セックスする元気があるなら兵隊にとるぞ、と言われていた、ということか。
 しかしセックスは「大事な事実」。戦争と違って、怖くはない。「安心せよ」と母の母は言った。娘は母から聞かされた。そしてセックスして、その結果として宮内は生まれた。母は、そういうことを言った。そのときの顔は「こよなく 美しい笑顔であった」という「意味」はわかるが、その「意味」以上の「美しさ」がよくわからない。
 抽象的すぎる。
 抽象的すぎる原因は、宮内が聞いたことが「伝聞」だからかもしれない。母の直接のことばではなく、祖母のことば。母の体験が母のことばではなく、祖母のことばで語られるからかもしれない。またそこに宮内のセックス体験が含まれていないからかもしれない。
 祖母のことばがしめくくり(結論)のようにつかわれているのは、「生命のつながり」というのは、母-子の間だけではなく、さらに遠くまでつづいているということを象徴しているのかもしれないが、何か、どきどきしない。興奮しない。宮内の声が聞こえないからだ。

 藤原の詩に引き返してみる。
 藤原は老いた母と初老の息子の話を聞きながら、二人が話しているイロハモミジとシャクナゲを見る。そのあと、藤原のことばで

 あの母と子は 風にそよぐ
 生命を見ているのです
 (死者たちが生命を見ているのです)

 と、語り直す。何かを「語り直す」こと、自分のことばで動かすこと--それが、世界を詩にするかどうかの境目なのだ。世界はだれにも同じように開かれている。その世界をどうことばにするか。他人のことばに刺戟を受ける。他人のことばをそのまま自分のことばにするのもいいことだけれど、聞いたことばのその先へ自分のことばを動かしていくと、世界はもっと輝く。

行きなさい と誰かの声がうながします
行って水を汲みなさい

 藤原は「誰かの声」と書いているが、これは藤原の声である。藤原の「新しい声」が藤原を励ましている。「新しい声」の発見が詩なのだ。宮内の詩は「事実」を書いているのかもしれないが、そこに「新しい自分の声」が欠けている。
 藤原の詩だけを読んでいたときは、あまり感じなかったが、宮内の詩を読み、そこから引き返すと、藤原の詩はとてもすばらしい詩だと気がつく。


行きなさい 行って水を汲みなさい
藤原菜穂子
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ディアオ・イーナン監督「薄氷の殺人」(★★★★★)

2015-01-18 19:56:39 | 映画
監督 ディアオ・イーナン 出演 リャオ・ファン、グイ・ルンメイ、ワン・シュエピン


 「犯罪の影に女あり」というのはミステリー小説の定石。この映画はその「定石」を堅実に守っている。ストーリーはとてもよくできていて、できすぎていて退屈なくらいなのだが、これを「芸術」にまで高めたのがこの映画。
 どんなふうに「ミステリー」を「芸術」に高めるかというと、人間を追いかけながら、登場人物以外の「情報」をびっしりとつめこむ。ストーリー以外の「情報」が「現実」をていねいに浮かび上がらせ、ストーリーを追うというよりも、「現実」の内部を表に引き出してくるという感じ。「現実」そのものを新しい視点で描き直して見せる--それが芸術だからね。
 こんな抽象的なことを書いてもしようがないので、具体的に書くと。
 女が逮捕されたあとのラストシーン。これが、この映画の特徴をとてもよくあらわしている。「現場検証」のために、女がかつて住んでいたアパートへ行く。そこで型通りの検証が行なわれるのだが、そのときストーリーとは無関係な「日常」が映画に割り込んでくる。
 アパート(団地)では子どもたちが遊んでいる。昼間なのに花火をしている。「白日焔火」というのが映画の原題であり、また殺人に「白日焔火」というカジノバーが関係してくるので、これは締めくくりにふさわしい演出ではあるのだけれど、花火そのものとストーリーとは無関係。
 で、その無関係な「日常」(子どもは殺人事件を知らずに、ただ遊んでいる)が、一瞬ではなくて、逸脱していく。誰かがアパートの屋上から花火を打ち上げる。その花火が四方八方に飛び散り、消防まで出動してくる。そういう「騒ぎ」が、まるでそのことがテーマでもあるかのように、真剣に描かれる。殺人事件のストーリーなんか、存在しない感じである。花火のシーンの情報(アパートには空き室が多い、あるいは解体途中なのか窓がないアパートの荒廃した感じ、はしご車まで出動してきて、花火を打ち上げているひとに警告する、など)が、「いま/ここ」の問題としてきちんと描かれる。ストーリーを忘れて、「その場」にいる感じになる。
 考えてみれば、どんな殺人事件のときでも、そのまわりには殺人とは「無関係」に「日常」がつづいている。その「日常」はかってに「祝祭」的な雰囲気で動いている。「殺人事件」そのものも、他人から見れば「祝祭」のひとつかもしれない。自分では体験できなめずらしいこと。警官がやってくる。パトカーがやってくる。「何、何が起きた?」好奇心がにぎやかに騒ぎだす。だれが犯人? えっ、あの女? 美人じゃないか。野次馬だね。
 これだね、この映画が描いているのは。
 何かが起きる。その真実を追い求める人間がいる。その一方、真実を追い求めるというよりも、自分の「好奇心」で動く人間がいる。主人公の刑事も真実を追い求めるということもあるにはあるが、それよりも好奇心が強い。問題の女にも好奇心で近づいていく。好奇心で動くから、どうしても「おもしろいもの」を引き込んでしまう。自分にとっての「関心」の方が「真実」追求よりも大切になる。
 こういうことを捜査用語で何と言うか。「刑事のカン」である。昔の殺人事件の被害者の妻、その美貌が気になる。その態度が気になる。その「気になる」には「刑事」の視線というよりも「男」の視線の方が大きな割合を占めている。女は別れた女にどことなく似ている。「男の視線」で女をみつめるとき、とうしたって「事件」とは別なものがどんどん入ってくる。クリーニング店で働いている。そのときの店長と女の関係とか、ちらりと目に入るものが「男」を刺戟する。そういう「場」の「情報」が、映画全体を豊かに膨らませていく。
 いやあ、うまい。
 いろいろ好きなシーンはあるが(ラストの花火は、フェリーニの「8 1/2」のラストの「祝祭」よりも自然で楽しい)、何度も出てくる雪もすばらしい。中国の北の方の都市が舞台。中国には不案内なので、私はそれがどこか見逃したのだが、雪が、北国の冷たい色をしている。日本に降る雪のように白くはない。灰色と青をまぜて凍らせたような色をしている。寒々しい。人間の欲望の色とは対極にあるような感じ。冷たいものと熱いものが絡み合って「事件」が動くのだなあ、と感じさせる。事件が解決したあと、別れた女のところへ行った刑事が、ひとりで踊って見せるシーンもばかばかしくていい。へたくそで、ばかばかしくてリアルだ。女の気を引こうとしている。その「こころ」が見えるのがいい。
 不満は、ひとつ。最初の方のシーンだが、ばらばら遺体と同時に「被害者」の作業服が出てくる。名前が書いてあったのだったか、身分証明書があったのだったか忘れてしまったが、それを手がかりに「被害者」が特定される。その瞬間、私は、「あ、これは被害者ではなく、偽装だ」とすぐに思ってしまった。ミステリーの初歩のトリックの「定石」。これは安直すぎて、ちょっとなあ……。ほんとうに「ばらばら遺体」にして身元を隠したいなら、身元につながるものは同じところに捨てない。トリックを完成させるための「伏線」。
 でも、ほかが完璧だったので、★5個。
                      (2015年01月18日、KBCシネマ2)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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近藤久也「オープン・ザ・ドア」、最果タヒ「きみはかわいい」、近岡礼「鴇色に爆発する」

2015-01-18 12:00:35 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
近藤久也「オープン・ザ・ドア」、最果タヒ「きみはかわいい」、近岡礼「鴇色に爆発する」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 近藤久也「オープン・ザ・ドア」(初出『オープン・ザ・ドア』2014年09月)。幼かったとき、両親が家を空ける。兄弟だけで留守番をしている。見知らぬひとが尋ねてくる。「誰が来ても決してドアをあけないように」と言われている。そのときの不安な状況を描いている。居間から、奥の小さな部屋にゆく。

  奥の小さな部屋の電灯に兄は来ていたセーターをまき
つけ、ベルトでしばった。電灯の真下だけがぼおーと明る
くて、とんでもなく心細かったが我慢した。もっと奥に
もっと小さな部屋があればと思った。

 この「もっと奥にもっと小さな部屋があればと思った。」が「みつかりたくない」という気持ちをしっかりとつかまえている。「もっと」「もっと」が切実だ。



 最果タヒ「きみはかわいい」(初出『死んでしまう系のぼくらに』2014年09月)。

みんな知らないと思うけれど、なんかある程度高いビルに
は、屋上に常時ついている赤いランプがあるのね。それ
は、すべてのひとが残業を終えた時間になっても灯り続け
ていて、たくさんのビルがどこまでも立ち並ぶ東京でだけ
は、すごい深い時間、赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地
平線が見られる。

 この書き出しは、象徴的でおもしろい。このあと「きみが無駄なことをしていること。 /きみがきっと希望を見失うこと。/そんなことはわかりきっていて、きみは愛を手に入れる為に、故郷に帰るかもしれないし、それを、だれも待ち望んですらいないかもしれない。」という青春が語られる。
 「きみ」はだれだろう。この場合詩集のタイトルになっている「ぼく(ら)」に従えば、「ぼく」から見た「きみ」だが、わたしには「ぼく」を「きみ」と二人称で呼ぶことで、自分を相対化しようとしているように思える。
 で、タイトルにもどると……。
 なぜ最果は「ぼく(ら)」という呼称、一般的に男が自分を呼ぶときにつかう呼称を詩集全体のタイトルにしたのだろう。最果が自分を客観的(相対化して?)に把握したいと思っているからかもしれない。そして、その思いが、この詩でも「わたし(ぼく)」でもなく「きみ」という「二人称」を選ばせている。
 詩を書いている「ぼく」を最果と考えると、「ぼく」は仮構された存在、そしてこの仮構された存在が誰かを「きみ」と呼ぶとき、それが同じように仮構された「ぼく」自身であるなら、仮構された「きみ」は女であり、その女は「最果」ということになるかもしれない。仮構のなかでことばを動かしながら、最果は仮構されない自分(女の自分)に語りかけているのかもしれない。
 そういう仮構するこころ(精神)の動きとビルの赤い灯は、どういう関係にあるのか。これはちょっと考えただけではわからない。考えても、わからないのだけれど……。
 「深い時間」と「赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地平線」ということばが、「きみ」「ぼく」「わたし」という「主語」の「仮構」と交錯し、あ、その「赤い地平線」の「ぽつぽつ」のひとつひとつが「きみ=最果自身」のように感じられる。最果の「肉体」のなかで動いているもの、「肉体」の深い深いところまでおりていくと見える最果の本質のように感じられる。
 最果は東京で「他人」に出会い、その出会いのなかで、最果自身と同じように、「肉体」の「深い」ところで「常時ついている赤いランプ」を感じたのかもしれない。それは、ふつうの時間(日常の時間)には見えない。残業も何もかも終わって、「わたしという肉体」にもどった瞬間、それがあることに気づくというものかもしれない。そして、その「赤い灯」を「肉体の深いところ」でともしているひとは、遠く離れて、「ぽつぽつ」と生きている。「肉体のふかいところ」へ帰ったとき、その「ぽつぽつ」が「ばらばら」な存在ではなく「地平線」のように連続して見える。
 「ぼく」「きみ」「わたし(書かれていないのだけれど……)」という仮構のなかで、最果は孤独と連帯する。
 「ぼく」「きみ」「わたし」という相対化(客観化)は自分自身の深いところ(孤独)へおりてゆく方法なのかもしれない。

きみはそれでもかわいい。
とうきょうのまちでは赤色がつらなるだけの夜景がみられ
るそうです。まだ見ていないなら夜更かしをして、オフィ
スの多い港区とかに行ってみてください。赤い夜景、それ
は故郷では見られないもの。それを目に焼き付けること、
それが、きみがもしかしたら東京に、引っ越してきた理由
なのかもしれない。

 書き出しで「東京」と書かれていた街が「とうきょう」を経て、もう一度「東京」にもどる。ここにも「ぼく」「きみ」「わたし」の主語の交錯と同じものがある。「ぼく」は仮構した「わたし(最果)」であり、「きみ」は「ぼく」の仮構した「わたし」であり、仮構を繰り返すことで「ぼく」は「わたし(最果)」にもどる。
 「東京」は「赤い灯」という「現実」を中心に「仮構」の都市「とうきょう」になる。その「仮構」されることで見えるものをもう一度語り直すとき、「とうきょう」は「東京」にもどる。その運動のなかで、最果は最果自身を見つめている。自分を見つめることが他人とつながる唯一の方法だと発見している。自分をみつめると、おのずと「ぼくら」になるということを発見していると言いかえてもいい。



 近岡礼「鴇色に爆発する」(初出『階段と継母』2014年09月)。行頭ではなく、行末がそろえられた形式詩。行頭をそろえて引用すると印象が違ってしまうのだが、ネットではうまく表記スタイルを再現できないので、行頭をそろえた形で引用する。正確な詩は詩集で読み直してください。

階段は幻想し
鴇色に爆発する
わたしはわたしであってわたしでなく
あなたはあなたであってあなただ

どうせ一度は灰になるものなら
この静止は必定の予言者だ

 何のことかわからないが「断定している」ということだけはわかる。行頭の上の「空白」を飛び越して、ただ断定する。飛躍の肯定と言いかえるとき、「詩の定義」が突然よみがえる。詩とはかけ離れた存在を結びつける行為。--あまりにもまっとうすぎて、「はい、その通りです」という感想しか思いつかない。批判的に言いかえると、「古い」ということ。時代が逆戻りしたような錯覚に陥る。

死んでしまう系のぼくらに
最果 タヒ
リトル・モア
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