福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」、三角みづ紀「定点観測」、宮尾節子「明日戦争がはじまる」(「現代詩手帖」2014年12月号)
福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」(初出『まだ言葉のない朝』2014年07月)。長い長い詩の一部が掲載されている。そのなかから、私はさらに一部を取り出して思っていることを書く。福田にとっては、こういう紹介(感想)は迷惑かもしれないが……。
句読点がなく(読点「、」はときどき出てくるのだが)、どこで区切って読んでいいのかわからない。しかし、ことば(意識)はもともと不連続に連続していく。脇へそれたり、もどったり、先走りしたりする。それを句読点で整理しているだけだから、この福田のことばは、いわば整理される以前の「文章」ということになるかもしれない。
「未生のことば」という言い方がある。それに対して「未生の文章」と言えるかもしれない。
「未生」のものは「混沌」としている。そして、それはほんとうに「混沌」かと福田のことばを見つめなおせば、それほど混沌ともしていない。
たとえば1行目には「行き着く」と「出発(する)」という逆方向のベクトルをもつ運動がある。もちろん「行き着いた」その先へさらに「出発」するというときはベクトルは同じ向きになるが、「着く」と「出発(する)」は「停止」と「始動」と言いかえることができるので、「目的地」を別にすれば運動として逆方向である。同じように「重ね合わせ(る)」と「解体する」は逆方向の運動である。
福田は、ここでは「逆方向」の運動を同時に描いていることになる。一種の「衝突」を描いている。動詞と動詞がぶつかる。それは「合体」のときもあれば「解体」のときもある。その衝突から、何かがスパークする。火花が飛び散る。それを「破片」ということもできる。
さて、そういう「破片」をどうするか。
このことばの連なりは、手ごわい。破片はそこここに(あちこちに)逸れる(飛び散る/逸脱する)のか。あるいは、最後の「それ」のあとに「を」を補って、
とつづけて読めばいいのか。私は少し悩む。書いてないことばを書き加えると作品をかってに改変していると批判を受けるが、読むというのは、そこに書いてあることばを自分のなかに取り込み動かしてみることだから、どうしても「改変」が加わるものだ。
こういう「わからない部分」は「わからない」ままにしておく。
衝突して、破片が飛び散る。そこには必然的に「欠落」がある。それを「舌」が埋めるというのは、ことばで補うということかもしれない。しかし、そういう「意味」を語るかわりに「舌が光を放つ」という具合にイメージにするのが福田の詩の、別の方法である。
「別の」というのは、それにつづいて、その直後に、最初にみた反対方向の運動をすることばがつづくからである。反対の方向に動く運動が一方にあり、そういう衝突する運動とは「別の」、衝突によって生まれた欠損を補う運動がある。
で、繰り返される「衝突する運動」とは、「光」に対して「夜(闇)」という取り合わせのことである。動詞ではなく名詞の「反対/矛盾/混沌」である。そしてそこには「埋める(補う)」と「放つ」という逆方向の「動詞」が同居している。
福田は、「混沌」を人為的につくり出している。一般的にことばというのは「混沌」を分節し、「もの」と「運動」を明確にし、「意味」をめざすものだが、福田はそういうこととは反対のことをしようとしている。すでに分節されて存在することばに、それとは反対のことば(非ことばへと動くためのことば)を組み合わせ、「混沌」をつくりだそうとしている。
「まだ言葉のない朝」を、人為的につくりだそうとしている。いま福田は「言葉のない朝」いるわけではなく、「言葉のある朝」にいて、そこから「言葉のない朝」へもどろうとしていると言いかえてもいいかもしれない。
で、そういう風に読んでくると、2行目から3行目へかけての、
この「夜」の繰り返しがちょっと物足りない。「夜を夜ごと」では「反対」にならない。単なる繰り返しである。「夜を朝ごと」「夜を昼ごと」という感じで衝突させないと、既成の「意味」になってしまう。「意味」にひっぱられてしまう。
それにつづく「燃やし尽くす」→「燠火」→「灰」という運動のなかには矛盾(反対方向の運動)がない。「燠火」のなかに「燃える動き」があるというかもしれないが、そしてその「燃える動き」がそのあとの「息吹」と呼応するのだろうけれど、「燠火」→「灰」への連絡が密接すぎるので、何かいきいきとした矛盾(混沌)という感じがしない。
「まだ言葉のない朝」が何かを生み出す「混沌」というよりも、何かが破壊されたあとの「夕方」、崩壊した廃墟のような感じがしてしまう。「解体する」前に、解体されてしまっている。その解体が、「永続する」。その永続する解体のなかを反対のもの(たとえば、白と黒)を交換させながら「流動する」。自分が「流動する」のではなく、その場そのものを流動させるということかもしれないが。
こうした一連の動きを、福田は「中性化」(引用した部分の数行先に出てくる)と呼んでいるようだ。「混沌」ではなく「中性」。どちらかに属するのではなく、どちらでもありうる可能性。ことばを既成の意味から解放する(ことばの既成の意味をたたき壊す)ことが詩である--その実践をしているということなのだと思うが、「意味」のつらなりがときどき強くなりすぎるように、私には思える。
*
三角みづ紀「定点観測」(初出「読売新聞」2014年07月14日)。
花火を見上げながら、同時に「きみに うつりこむ/花火を見上げ」ることはできない。花火は空にあり、その花火が映る(花火が照らす)きみの顔は地上にある。--という論理は、どうでもいい。花火の光に照らしだされるきみを、花火を見るように見ている、花火を見るよりもきみとこうしていることがうれしい。このうれしさをこれからも繰り返したい、「定点観測」するのように、繰り返し繰り返し。
そういう祈りがここにある。
この3連目に先立つ2連目。
生きることに慣れなくても、ひとは生きてゆける。慣れないから、ひとは輝く。そこに祈りがある。
ことばのリズムそのもののなかに祈りがある。
*
宮尾節子「明日戦争がはじまる」(初出『明日戦争がはじまる』2014年07月)。有名になりすぎていて、感想を書くのがむずかしい。
「思わなくなった」ということばを含まない4連目がなまなましい。「論理」を超えたむきだしの欲望。他者の闖入。この3行が、宮尾のことばを詩にしている。
この詩に「ことばをことばと/思わなくなった」をつけくわえることができると、もっとおもしろいと思うが、そうしてしまうときっと重くなりすぎるかもしれない。
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福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」(初出『まだ言葉のない朝』2014年07月)。長い長い詩の一部が掲載されている。そのなかから、私はさらに一部を取り出して思っていることを書く。福田にとっては、こういう紹介(感想)は迷惑かもしれないが……。
行き着いた死と再びの出発を重ね合わせ解体する語はひら
がなの破片としてそこここにそれ埋めた舌が光を放つ夜を
夜ごと燃やし尽くす燠火がいつまでも灰になったその中に
灰まみれの身体としてばらばらに動きを放つ息吹きまでわ
ずかに動く表面瓦解し永続する崖崩れと土砂にその廃地を
読む視線の焼けただれた空白まで白と黒の激しい交換状態
として僕たちは絶えず流動する場所となる
句読点がなく(読点「、」はときどき出てくるのだが)、どこで区切って読んでいいのかわからない。しかし、ことば(意識)はもともと不連続に連続していく。脇へそれたり、もどったり、先走りしたりする。それを句読点で整理しているだけだから、この福田のことばは、いわば整理される以前の「文章」ということになるかもしれない。
「未生のことば」という言い方がある。それに対して「未生の文章」と言えるかもしれない。
「未生」のものは「混沌」としている。そして、それはほんとうに「混沌」かと福田のことばを見つめなおせば、それほど混沌ともしていない。
たとえば1行目には「行き着く」と「出発(する)」という逆方向のベクトルをもつ運動がある。もちろん「行き着いた」その先へさらに「出発」するというときはベクトルは同じ向きになるが、「着く」と「出発(する)」は「停止」と「始動」と言いかえることができるので、「目的地」を別にすれば運動として逆方向である。同じように「重ね合わせ(る)」と「解体する」は逆方向の運動である。
福田は、ここでは「逆方向」の運動を同時に描いていることになる。一種の「衝突」を描いている。動詞と動詞がぶつかる。それは「合体」のときもあれば「解体」のときもある。その衝突から、何かがスパークする。火花が飛び散る。それを「破片」ということもできる。
さて、そういう「破片」をどうするか。
ひらがなの破片としてそこここにそれ
このことばの連なりは、手ごわい。破片はそこここに(あちこちに)逸れる(飛び散る/逸脱する)のか。あるいは、最後の「それ」のあとに「を」を補って、
ひらがなの破片としてそこここに(散らばり)それ(を)埋めた舌が光を放つ
とつづけて読めばいいのか。私は少し悩む。書いてないことばを書き加えると作品をかってに改変していると批判を受けるが、読むというのは、そこに書いてあることばを自分のなかに取り込み動かしてみることだから、どうしても「改変」が加わるものだ。
こういう「わからない部分」は「わからない」ままにしておく。
衝突して、破片が飛び散る。そこには必然的に「欠落」がある。それを「舌」が埋めるというのは、ことばで補うということかもしれない。しかし、そういう「意味」を語るかわりに「舌が光を放つ」という具合にイメージにするのが福田の詩の、別の方法である。
「別の」というのは、それにつづいて、その直後に、最初にみた反対方向の運動をすることばがつづくからである。反対の方向に動く運動が一方にあり、そういう衝突する運動とは「別の」、衝突によって生まれた欠損を補う運動がある。
で、繰り返される「衝突する運動」とは、「光」に対して「夜(闇)」という取り合わせのことである。動詞ではなく名詞の「反対/矛盾/混沌」である。そしてそこには「埋める(補う)」と「放つ」という逆方向の「動詞」が同居している。
福田は、「混沌」を人為的につくり出している。一般的にことばというのは「混沌」を分節し、「もの」と「運動」を明確にし、「意味」をめざすものだが、福田はそういうこととは反対のことをしようとしている。すでに分節されて存在することばに、それとは反対のことば(非ことばへと動くためのことば)を組み合わせ、「混沌」をつくりだそうとしている。
「まだ言葉のない朝」を、人為的につくりだそうとしている。いま福田は「言葉のない朝」いるわけではなく、「言葉のある朝」にいて、そこから「言葉のない朝」へもどろうとしていると言いかえてもいいかもしれない。
で、そういう風に読んでくると、2行目から3行目へかけての、
舌が光を放つ夜を夜ごとに燃やし尽くす
この「夜」の繰り返しがちょっと物足りない。「夜を夜ごと」では「反対」にならない。単なる繰り返しである。「夜を朝ごと」「夜を昼ごと」という感じで衝突させないと、既成の「意味」になってしまう。「意味」にひっぱられてしまう。
それにつづく「燃やし尽くす」→「燠火」→「灰」という運動のなかには矛盾(反対方向の運動)がない。「燠火」のなかに「燃える動き」があるというかもしれないが、そしてその「燃える動き」がそのあとの「息吹」と呼応するのだろうけれど、「燠火」→「灰」への連絡が密接すぎるので、何かいきいきとした矛盾(混沌)という感じがしない。
「まだ言葉のない朝」が何かを生み出す「混沌」というよりも、何かが破壊されたあとの「夕方」、崩壊した廃墟のような感じがしてしまう。「解体する」前に、解体されてしまっている。その解体が、「永続する」。その永続する解体のなかを反対のもの(たとえば、白と黒)を交換させながら「流動する」。自分が「流動する」のではなく、その場そのものを流動させるということかもしれないが。
こうした一連の動きを、福田は「中性化」(引用した部分の数行先に出てくる)と呼んでいるようだ。「混沌」ではなく「中性」。どちらかに属するのではなく、どちらでもありうる可能性。ことばを既成の意味から解放する(ことばの既成の意味をたたき壊す)ことが詩である--その実践をしているということなのだと思うが、「意味」のつらなりがときどき強くなりすぎるように、私には思える。
*
三角みづ紀「定点観測」(初出「読売新聞」2014年07月14日)。
いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている
花火を見上げながら、同時に「きみに うつりこむ/花火を見上げ」ることはできない。花火は空にあり、その花火が映る(花火が照らす)きみの顔は地上にある。--という論理は、どうでもいい。花火の光に照らしだされるきみを、花火を見るように見ている、花火を見るよりもきみとこうしていることがうれしい。このうれしさをこれからも繰り返したい、「定点観測」するのように、繰り返し繰り返し。
そういう祈りがここにある。
この3連目に先立つ2連目。
はげしく---ゆるやかに
瞬間に立つ---ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に---かがやいて
生きることに慣れなくても、ひとは生きてゆける。慣れないから、ひとは輝く。そこに祈りがある。
ことばのリズムそのもののなかに祈りがある。
*
宮尾節子「明日戦争がはじまる」(初出『明日戦争がはじまる』2014年07月)。有名になりすぎていて、感想を書くのがむずかしい。
まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった
インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心と
思わなくなった
虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった
じゅんび
は
ばっちりだ
戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる
「思わなくなった」ということばを含まない4連目がなまなましい。「論理」を超えたむきだしの欲望。他者の闖入。この3行が、宮尾のことばを詩にしている。
この詩に「ことばをことばと/思わなくなった」をつけくわえることができると、もっとおもしろいと思うが、そうしてしまうときっと重くなりすぎるかもしれない。
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