詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実『三度のめしより』

2015-08-17 10:27:08 | 詩集
北川朱実『三度のめしより』(思潮社、2015年08月08日発行)

 北川朱実『三度のめしより』は詩誌「石の詩」に連載されていたエッセイ。評論なのかもしれない。散文である。毎回楽しみに読んでいた。一冊になるとおもしろいだろうなあ、と思っていた。待望の一冊。なのだが、不思議なことに気がついた。「石の詩」で読んでいたときの方がおもしろいのである。一冊にまとまって、おもしろくなくなったというわけではないのだが、詩誌で読んでいたときの方が活気があるように感じられた。なぜなのだろうか。
 読み進んでいる内に、ふと、気づいた。「石の詩」で読んでいたときには、その周辺に他人のことば(詩)があった。それが北川の文章を活気づかせていた。北川の文章だけになると、他人のことばの雑音が消えて、ちょっとおもしろさが消える。北川の散文の特徴は他人の声と響きあって動くのだ。
 それは書かれている文章そのものにも感じるものである。たとえば「四十になったら自分の顔に」というのは平田好輝の「教室」を引用して書きはじめている。学生に講義している「わたし(平田)」を書いた詩である。その感想を、少し書いたと思うと、北川は突然違うことを書きはじめる。

 昔、河津川に鮎釣りに来ていた井伏鱒二が、同じ旅館で、同じく釣りに来ていた亀井勝一郎、新婚旅行の太宰治夫妻と一緒になった時のこと。

 豪雨になり、井伏は二階の亀井の部屋に避難し、太宰も逃げてきた。井伏は泳いで逃げようと言ったが亀井と太宰は動かなかった。亀井、太宰は泳げなかったという、というようなことが書かれている。
 そのエピソードはエピソードとして興味深いが、平田の詩と何の関係がある?
 あ、こんな感想を持ってしまったら、北川のやっていることが、まったくわからなくなる。
 北川はここで、何をしているのか。

 詩を読むことは、私にとっては詩人(詩を書いたひと)の「肉体」の中へ入っていくことである。つまり、セックスである。
 ところが北川は、他人(詩人)の「肉体」の中へは入っていかない。書いたひととは別の人の「肉体」を渡って行く。常に複数の「肉体」のなかで「ひとり」をとらえる。あるいは「ひとり(書いたひと)」を複数の「肉体」のなかへ分散させるといえばいいのか。
 このひとの、ここを押せば(刺戟すれば)、こんな声が出るのか、ということがおもしろくて私は詩を読むが(あるいは文章を読むが)、北川は、このひとのこの声は、あのひとのあのときの声と似ているかもしれない。似たところがある。通い合うところがある、という具合にして、「ひとり」を拡散する。北川のセックス経験(読書経験?)の「図」のなかに位置づけてみせる。いろんなひとがいて、いろんな声がある。その声だけを取り出して、その声の特徴を味わうというよりも、他人の声と比較して、わっ、おもしろいと感じている。「好きな男の腕の中でも、違う男の夢を見る」というような感じかも。
 へえええ。
 だから。(というのは、強引か。)
 だから、たとえば平田の詩を読みながら、平田のことを北川がどれくらい知っているのか(平田と、ことばのうえでどんなセックスをしたのか)ということよりも、わっ、北川は井伏鱒二や亀井勝一郎、太宰治とセックスしてきたのだ(ことばを読んできたのだ)、それも「小説」とかではなく、ゴシップ(?)とセックスしてきたのだ、ということがわかってくる。
 そうか、とりすました作品(自分をかっこよく見せるためのセックス?)ではなく、うまくいかなかったどたばたのセックスの方に、その人間の「本質」のようなものがある、というわけか。そうだねえ。あのときのセックスは最高という思い出よりも、あのとき、あんな失敗をして落ち込んだなあという方が親近感がもてる。

 平田の詩の紹介は、もう一篇ある。ほかの人の前にはマンジュウが二個あるのに、平田の前には一個しかない。どうして? 気になって質問しないではいられない、という「内容」の詩である。
 この詩を読んで、北川は、そこには「四十をすぎて、責任ある顔を忘れた瞬間」の平田が書かれている。そのことが「おかしくて実にせつない」と書く。ここにさりげなく北川の、平田への肉体のよせ方(セックスの仕方)が書かれている。

マンジュウを、もう一つもらっても、質問者にはおさまりがつかないのだろう。一と一を足しても二にならないことがあるのだ。

 「論理」を超えるものがある。「論理」にならないものがある。
 セックス(ひととひとの出会い、交わり方)は、もちろん「論理」にならない。どこへ行くかわからない。だいたいセックスのだいごみはエクスタシー。自分から出てしまうこと。自分ではなくなること。つまり「論理」の「枠」を突き破ってしまうこと。
 「論理」の「枠」を突き破ったものが、詩。
 で、北川は、どんどん「論理」を無視する。それはセックスにおいて「倫理」を無視するのに似ている。こっちの方が好き、こっちの方が気持ちがいいと思えば、瞬時に、いま読んでいたものを捨てて、「浮気」する。
 平田の詩のあとに、相沢正一郎の詩を紹介したかと思うと、次には渥美清のゴシップ(ひとに知られていない秘密)をつなげ、さらに梅田智江の詩を紹介していく。
 そのひとつづきの文章(セックスの渡り歩き)に何が書かれているのか。要約すると、その「意味/主張(訴えたいこと)」は何なのか。
 あ、私にはわからない。いや、何か「結論」を要約を書けといえば書けないこともないが、そんな必要はない。この人間から人間への渡り歩きを見れば、北川は人間が好きなのだということがわかる。それも「結論」としての「人間」ではなく、「結論(意味)」からはみだしてしまう「非論理」の「肉体」が好きだということがわかる。
 こういうのは、またセックスの話に戻っていうと、自慢できるセックスではなくて、「どうしても隠さなければならないこと」、つまりセックスの恥じのようなものである。セックスの醍醐味はエクスタシーだが、それはあくまで「個人的」なのもの。「恥じ」はやはり「個人的」だが、なぜか「共有」できる。だれもが同じような「恥じ」(失敗)をしている。「恥じ」(失敗)で人間はつながっている。「失敗/恥じ」のなかには、「エクスタシー(超人)」に到達できない、「ふつうの人間/肉体」がいるということだろう。
 人間は不思議なもので、「どうしても隠さなければならないこと」は必ず知られてしまう。秘密にしておいてくれ、と言われれば言われるほど、それを言わずにはいられなくなる。
 こういうことばは「個室」でひとりで読むものではなく、ひととまぎれて、「雑談」として読む方が活気がある。「石の詩」で読んだときに感じた楽しさは、同人誌のなかに「雑談」のような声が響いていたからだろう。他人の声が充満していたからだろう。喫茶店で、前の女が見たばかりの映画について話すのを聞いているふりをしながら、全身を耳にして遠くの隅でねちねちと男をいじめている女の愚痴を、お、おもしろい、と感じるようなものである。

三度のめしより
北川 朱実
思潮社
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鈴木芳子『嘘のように』

2015-08-16 10:27:19 | 詩集
鈴木芳子『嘘のように』(花神社、2015年06月05日発行)

 鈴木芳子『嘘のように』に母を介護したときのことが書かれている。湯の抜かれた浴槽にムカデがいる。それを水で押し流す。その翌朝、

翌朝 階下の居間に降りていくと ムカデが一匹タタミ
の上にじっとしている 今度は火挟みで外へつまみだそ
うとしたが そいつは素早くコタツ敷きの下に入ってし
まった 火挟みを握り追いかける私……振り切って逃げ
ていくムカデ…… 糞尿を垂れながら蒲団に潜り込もう
とする母……着替えを掴んで追いすがる私……の格闘の
場面が 霧のように湧きあがった

 事実をそのまま書いているのだと思う。思うのだけれど、私は同時に、そこに「詩」を書こうとする「姿勢」を感じる。それが、いやらしい。
 鈴木の書こうとしている「詩」というのは「比喩」といえばいいのか、何と言えばいいのか……「現実」ではないからである。
 「事実」なのに「現実」ではない。
 というのは、とんでもない矛盾だけれど……。
 ムカデを追いながら、介護してきた母の姿を思い出す。母と自分の姿を思い出す、というのは「事実」である。思い出すというのも「事実」だろう。でもその思い出を「格闘の場面」と言い直すとき、そこには「現実」はない。「格闘の場面」という「現実」から切り離された「意味」があるだけだ。具体的な肉体のぶつかりあいがなく、辞書の定義があるだけだ。
 この「格闘の場面」を「格闘の場面」ということばではなく、格闘した「肉体」そのものとして書かないとほんとうの詩(文学)にはならない。「格闘の場面」という「定型の表現」を「比喩(意味)」としてひいてきてしまうと、そこから「現実」が抜け落ちてきてしまう。単なる「ことば(意味)」だけが残る。
 「格闘の場面」のような、簡潔な表現、「定型」化した表現で「事実」を共有することが「詩」である。そういう表現を盛り込むことが「文学」であるは鈴木は考えているのかもしれないが、そうではない。「定型(意味)」を書いたとき、自分が「定型(意味)」に到達したと思うのかもしれないが、そうではなくて、それは「現実」(事実)からすべり落ちた瞬間なのだ。鈴木はきづいていなかもしれないが、そのとき「意味」さえも消えている。
 「いやらしさ」が残っている。
 この「格闘の場面」と、次の「霧のように」という「比喩」がこの詩を壊している。鈴木は、そのふたつの表現を書くことで「詩を書いた」と思っているのかもしれないが、まったく逆である。
 こんな批判をするだけなら、この詩を取り上げない方がいいのかもしれないが、このあと一か所、私は、気に入ったのだ。

いま家の中は清々しく片付いている 私は声をたてるこ 
ともない コタツをあげてみたがムカデはいなかった 
自分の意のおもむく場所にたどりついているのだろう

 最終行「自分の意のおもむく場所にたとりついているのだろう」はムカデのことである。母のことではない。母ということばは、そこには書かれていない。しかし、書かれていないことによって、そこに母が見える。
 いろいろあった。母にしてみれば、娘から怒鳴られっぱなし、追いかけられっぱなしの日々だったかもしれない。けれどいまは、自分の意のおもむくままに動いているだろう。だれも怒鳴らない。だれも追いかけてこない。だれも、こうしろ、ああしろとはいわない。
 書かないことで逆につたわることがある。
 「母も……」とか、「お母さん、元気?」とか、「意味」を書かないから、詩になる。

 「きゅうり考」の次の行。

朝のとりたてを味噌をつけて食べる
塩でもんで一夜漬けにする
ぬか漬けにする
酢と砂糖できゅうりもみにする
きざんですりごまとあえて食べる

 「事実」を書いているだけ、のつもりかもしれないが、こういうことばの動きにこそ、詩がある。きゅうり一本に具体的な調味料の組み合わせ。それを結びつける「肉体」の動き、暮らしのととのえ方、それをしっかりとことばとして定着させている。そこに鈴木の「肉体」が見えるし、その「肉体」を共有する「家族」も見える。そういう「肉体」を育ててきた「文化」も見える。
 こういうことばだけを残し、「格闘の場面」というような「定型」を捨てると、詩が動き出す。

*

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鈴木東海子『桜まいり』

2015-08-15 10:24:56 | 詩集
鈴木東海子『桜まいり』(書肆山田、2015年08月06日発行)

 鈴木東海子『桜まいり』の文体は「しつこい」。よく「粘着力のある文体」というような言い方をするが、それとは違う。
 詩集のタイトルになっている「桜まつり」の書き出し。

薄い胸に吹雪く桜がたまり胸をうずめ胸を押しつぶす。
薄い花びらが雪にまで冷えて喉もとから胸を押しつぶす
のであった。

 桜吹雪。豪快な(豪華な?)桜吹雪に出会ったときのことを書いているのだろう。桜吹雪に圧倒されて、息ができない。まるでほんとうの吹雪にあったときのように、桜が胸のなかまで入り込んで、胸を押しつぶす。そう書いた最初の文章を次の文章で言い直す。「桜吹雪」から「雪」を独立させて、「雪にまで冷えて喉もとから胸を押しつぶす」と「雪」そのものの描写にかえていく。「比喩」が独立して暴走する。
 この描写を「しつこく」させているのは、末尾の「であった」ということばである。この「……であった」がなければ、単なる(?)というか、「現代詩」が得意とすることばの暴走のひとつなのだが、「……であった」が暴走に独特の「形式」を与えている。
 言い直してみる。
 「押しつぶす」の「主語」は何か。「吹雪く桜(桜/吹雪)」である。
 それでは、「……であった」の「主語」は?
 すぐには答えられないかもしれない。考え込んでしまうねえ。「……である」という「動詞」は、ちょっとややこしい。英語に「形式主語」というのがあるが、これは「形式主語」ならぬ「形式動詞」である。「この花はバラである」というときの「である」と同じ。英語ならば「この花」を「主語」として、「バラ」を「補語」とする。日本語の場合も「この花」を「主語」と考えてもいいのかもしれないけれど、そんなことを考えると面倒なので、私は「形式動詞」と呼んでごまかしておく。
 ふつうは、そうごまかしておくのだが、この鈴木の詩の場合、ごまかしておくと、ちょっと「本質」に触れないことになってしまうので、そこにとどまり、こんなふうに考える。
 この「……であった」というのは、実は「私は……であった、と考える(判断する/断定する)」という「文章構造」を縮めたものである。
 桜吹雪が胸を圧迫する。(圧倒する。)この「桜吹雪」を「主語」とする文章を「私は」を「主語」にして言い直すと、「花びらが雪になって胸を押しつぶす」ということである、は私は考える。
 「しつこい」と私が感じるのは、「事実(桜吹雪が胸を圧迫する)」ということはすでに語られているにもかかわらず、それをもう一度「私」を「主語」にして言い直しているからである。しかも、「私」を「主語」にしているということを隠して、「……である」という「形式動詞」をつかっている。手が込んでいる。
 ある「事実/事件(こと)」がある。そこには「主語」がある。「主語」があるのだけれど、その「主語」に「動詞」をまかせてしまうのではなく、あくまで「私」を「主語」として「こと(事実/事件)」をとらえなおす。それは「こと(事実/事件)」を「私」の「こと」にしてしまうということである。「私」はそれによって、どうかわったか。鈴木の書きたいのは、あくまで「私」なのである。しかも、「私」を省略し、「……である」という「形式動詞」をつかうことで、それがあたかも「客観的事実」であるかのように偽装する。この手の込みようが「しつこい」という印象をさらに強くする。

      吹雪くなかに立っているのはわたしであっ
て私であると叫ぶ息が白くもれる。


 「わたし」と「私」が書き分けここに姿をあらわす。あらわすけれど、それをすぐに「形式動詞」のなかに封印し、「息」を「主語」にして「もれる」という「動詞」で文章を完結させる。
 このごちゃごちゃした、未整理の「私」と「形式動詞」の関係は、次の文章ではさらに妙な形になる。

                花びらは積りわたし
の輪郭であるが線状にではなく立体的にまつわり白いわ
たしは花びらになっているように内がわの雪が冷たくす
るわたしであるから叫んでいるのは白い息だけで雪の声
でとける花びらになってしまう。

 「私」を隠し通すことに失敗したからこうなったのか、あるいは「私」をどうしても出したくてこうなったのか、まあ、わからない。わかるのは、こうした「ごちごちゃ」したことをどうしても書きたいという欲望がここにあるということだ。執念というか。それを私は「しつこい」というのだが。

               ここにいるわたしはど
こまでも在るわたしといいたいのだが白いわたしでもよ
かったのである。溶け合うことのできるわたしである希
みをもつことで花びらができると知るのである。

 このふたつの文章の末尾「……(の)である」はなくても「意味」はかわらない。けれど、鈴木は書かずにはいられない。「……(の)である」という「形式動詞」によって、「私は……のである、と考える/断定する。その考える/断定するのが私」といいたいからである。
 単なる「……である」ではなく「のである」ということにも意味がある。
 「この花はバラである」を「のである」という「述語」で言い直すとどうなるか。「此花はバラと呼ばれる花なのである」。「の」のなかには「主語(主題)」の反復がある。「……である」そのものが「私」を「主語」としたテーマの反復なのだが、その反復を強調しているのが「の」ということば。
 反復の、この「しつこさ」。

 「しつこい」「しつこい」と私はしつこく書いてるのだが、しかし、これは鈴木の文体を批判するためではない。
 こんなにしつこく、よく書いたなあ。こんなしつこい文体をよく作り上げる気になったなあ、と、あきれ、感心しているのである。独自の「文体」は、それ自体で「詩」である。個性である。
 私は目が悪くて、こういう「しつこい」文体の細部を追いつづけるのは苦痛なのだが、あ、この詩集はおもしろいと感じた。詩集の量(?)としては、半分くらいでもいいのかもしれないと思ったが(読みやすいと思ったが)、それは私が目が悪いせいかもしれない。「しつこい」感じをもっと濃厚に出すためには、この倍の厚さがあった方がいいという読者もいるだろう。
桜まいり
鈴木東海子
書肆山田
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秋亜綺羅(詩)柏木美奈子(絵)『ひらめきと、ときめきと。』

2015-08-14 11:12:44 | 詩集
秋亜綺羅(詩)柏木美奈子(絵)『ひらめきと、ときめきと。』(あきは書館、2015年08月20日発行)

 秋亜綺羅『ひらめきと、ときめきと。』には「詩の絵本」という「肩書(?)」がついている。詩は秋亜綺羅、絵は柏木美奈子。私は絵には興味がないので、詩についてだけ感想を書く。
 「しみ抜き屋のうそ」の書き出しの三連。

汚れちまった悲しみに
という詩があったけれど
悲しみというしみは
いつから付いているのでしょう

あなたの憎しみ、しみ抜きいたします
あなたの苦しみ、しみ抜きいたします
あなたの悲しみ、しみ抜きいたします

しみ抜き剤はこころをこめた
わたしのやさしいうそです

 秋亜綺羅の特徴がよくあらわれた詩だと思う。「悲しみ」から「しみ」ということばを抜き出す。「悲しみ」は「悲」と「しみ」から成り立っているわけではないが、その「みかけ」を利用する。「ことば」を「語源」から切り離して、そこにある「もの」のようにしてみつめる。そして分解する。そうすると、同じ構造をしている「ことば」がみつかる。「憎しみ」「苦しみ」。
 「ひとつ」なら「偶然」だが、複数あれば、そこに「必然」が生まれる。わけではないが、「必然」のように見えてしまう。「論理」があるように見えてしまう。「偶然」を、そんな具合に「論理」にしてしまう。
 「ことば」と向きあうとき、その「ことば」がつかわれてきた「過去」を気にしない。いや、「ことばの過去」を積極的に捨てる。「過去」を捨てることで身軽になる。そのなかで「論理」をつくってみせる。
 秋亜綺羅の詩はうんざりするくらい「論理的」である。
 でもこの「偶然」を「必然(論理)」にかえるということをしながら、同時に秋亜綺羅は、それを「嘘」と呼ぶ。「嘘」と呼ぶことで「必然」を再び「偶然」に返す。「偶然」が秋亜綺羅にとっての詩なのだ。
 「嘘」の「論理」をつくり、それを「嘘」と呼ぶことで、「真実」を語る。
 どこかに謎々があったなあ。「○○島の住民はみんな嘘つきである、と○○島の住民が言う」。これは嘘かほんとうか。そういう「一瞬」の「論理の罠」。「論理」なんて、いいかげん極まりないものである。その「いいかげんさ」をさっと駆け抜ける。それが秋亜綺羅の詩である。ことばである。
 だから、秋亜綺羅の詩には必ず「繰り返し」がある。「繰り返し」によってことばが加速する。考えることをやめる(論理的になることをやめる)。ただ「繰り返し」が可能であるということは、そこには何らかの「真実」と呼ぶに足るものがある。頼りにできるものがある、と思い込ませるのである。(秋亜綺羅自身が思い込んでいるとは、私には思えない。ほんとうに「真実」と思い込んだのなら、「うそ」とは呼ばない。)

水平線では
泳ぐものと飛ぶものが
半分ずつ溶けあっています

鏡と現実の境界にも水平線があって
ふたりのあなたが
半分ずつ溶けあっています

だから鏡を見ているあなたは
半分だけあなたなのです                (「残り半分のあなた」)

 「半分ずつ溶けあっています」の「繰り返し」。そのあとで「半分」という「論理」を利用して「半分だけあなたなのです」と平気で「嘘」をつく。

 これはしかし逆にとらえたほうがいいのかもしれない。「リズム」にのって、その勢いで「嘘」をつくのではなく、「嘘」をつくために「リズム」を利用している。あるいは「リズム」を探している。
 「嘘」というのは、ある意味では「真実」から「自由」になること。「ことばの自由」。秋亜綺羅は、その「自由」のために「リズム(詩)」を利用している。「リズム」を利用して読者をたぶらかしている。
 読者というのは、いつでも「たぶらかされたい」ものである。たぶらかされて、一瞬、「いま/ここ」から切り離されて、自由になる。そういう瞬間が好きなのである。「嘘」の「ひらめき」に「ときめき」を感じるのである。
 こういう「詐欺」の「手口」の基本は、ことばが「簡単」であること。ことばが「常套句」であること。「ことば」の前で読者が立ち止まってしまっては、「詐欺」は成り立たない。「ひらめき」に「ときめく」前に考えてしまう。
 で。
 ここからがほんとうの「感想」になるのかなあ。
 私はこの詩集を一気に読んだ。つまり「リズム」に乗って、一気に騙された。と、いいたいのだけれど、一か所つまずいてしまった。
 「一+一は!」の書き出し。

空気が踊ると風を感じるよね
空気が眠ると気配を感じる
気配はもうひとりのぼくだとおもう
一緒に歌って笑ってきた、きみのこと

 「空気が踊ると風を感じる」。これは「常套句」だと思う。空気が楽しく踊る。爽やかな風、気持ちいい風を、「空気のダンス」と「比喩」にできると思う。すでに、そういう「比喩」がどこかにあるに違いないと思う。(空気が走ると突風、暴走すると台風とかハリケーンとかの比喩になるかな?)
 でも、そのあとの「空気が眠る」と「気配」の結びつきは? この「比喩」は「常套句」とは言えないと思う。私は「気配」につまずいて、この一行を何回も何回も読み返してしまった。そして何回読み返してみても、書いてあることがわからなかった。
 そして、そうか、ここに秋亜綺羅がいるのか、と思った。
 「眠る」は「動かない」ということかもしれない。この「動かない」は「リズム」とは反対のもの。「リズム」は動くことで生まれる。「リズム」で動かしながら、一方でけっして「動かない」何かを秋亜綺羅は抱えている。
 私はノーテンキで「リズム」にのれば、疲れ果てるまでそのリズムに乗ってどこかへ行ってしまう。どこへ行ってしまうか、まったく気にしない。ことばを書くとき(たとえば、この文章を書くとき)、私は「どこへたどりつくか」ということを考えていない。想定していない。ただ、動けるところまで動いてみよう。ことばを動かしてみようと思うだけである。動いている瞬間が「私」であり、動かなくなったら「私」がいなくなる。つまり、そこで書くのをやめる。
 けれど、秋亜綺羅は「動かないぼく」を秋亜綺羅のなかに抱え込んでいる。そして、その「動かないぼく」を「きみ」と呼んでいる。「一緒に歌って笑ってた」という修飾語がついているが、重要なのは「一緒に」ということばだろう。「ぼく」と「きみ」は「一緒に」いる。
 ふーん、「ぼく」と「きみ」を秋亜綺羅は往復しているのか。その往復が「詩」ということばなのか。
 私は秋亜綺羅の詩を高校時代から読んでいる。(途中何十年間は読んでいないが。)そして、読む度に、これは高校時代に書いていた詩とまったく変わっていないじゃないか、という印象を持つ。「高3コース」の投稿欄(寺山修司選)の作品と同じじゃないかと思う。秋亜綺羅は変わらないのではなく、変われないのだ。「ぼく」と「きみ」という組み合わせから逃げ出せないのだ。

 しかし。
 「気配」か。「気配」って何だろう。私は「空気が読めない」、つまり「気配」を感じ取ることができない。「気配」というのは「気配り」ができるひとだけが感じ取ることのできるものなのだろう。私は「気配り」というような面倒くさく、ややこしいことができない。
 そういえば、秋亜綺羅は「気配り」のひとだなあ、と思う。数回会っただけだけれど、あ、このひといろんなことに気がついて、状況をととのえることができるのだなあと思ったことが何度かある。すべてが終わったあとに。

 「気配」「気配り」に注意しながら詩を読むと、違ったものが見えてくるかもしれないなあ。でも、それは次の機会に。今回は「気配」ということばにつまずいた、ということだけでおしまい。書くことはほかにない。

詩の絵本 ひらめきと、ときめきと。
秋 亜綺羅
あきは書館
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若尾儀武『流れもせんで、在るだけのかわ』再読

2015-08-13 09:48:54 | 詩集
若尾儀武『流れもせんで、在るだけのかわ』再読(ふらんす堂、2014年06月25日発行)

 若尾儀武『流れもせんで、在るだけのかわ』は2014年に発行されている。そのとき感想を書いたが、もう一度感想を書きたいと思った。ここに書かれていることは、若尾が少年期に体験したことである。在日韓国人(あるいは北朝鮮人)が描かれている。
 「車窓のきみに」は日本で先生をしている人を描いているのだろうか。そのなかほど。

先生 先生の読み方ちょっと変
どこがと聞かなくても分かっていた
祖父母 父母
そしてきみへと
海峡を隔って
半島は谺する

車窓のきみよ
変であろうがなかろうが
直さなくてもいいものは
直さなくていいのだ
きみは半島を美しく谺して
きみが立つところ
そこをこそ読め

 日本人とは違った読み方(発音、アクセント)になるところがあるのだろう。それを気にかけて「きみ(先生)」は何度も教科書を読む練習をしている。それに対して若尾は、その違いを「直さなくていい」と言っている。
 読み方の変なところには、祖父母、祖母とつながっている。そして、それは「半島」とつながっている。それは「きみ」の「私」の部分だ。
 教科書を読むとき、そこに「私」は入ってこない。教科書には「私」は書かれていない。だれにでも共通すること(もの)が、だれにでも共有できることばで書かれている。そこには「共有」が書かれている。「共有」だからこそ、そこに「私」が紛れ込むと、違和感が生まれる、ということかもしれない。
 しかし私たちは、何かをいきなり「共有」できるものではないだろうし、「共有」することで「安心」してもいけないのだと思う。「共有」からはじめてはいけないのだと思う。
 「共有」しているもの捨てて、「私」に帰って、そこからもう一度「共」の方へどんなふうに歩いて行けるかを考えないといけない。
 抽象的になってしまった。
 いま、安倍政権が「戦争法案」を成立させようとしている。戦争のできる国にし、戦争をしようと準備している。なぜか。若尾が書いている在日韓国人からすこしずれてしまうが、中国の覇権主義、北朝鮮の独裁政権が危険だ、その危険から日本を守る必要がある、というのが安倍の主張である。ほんとうに、そうなのか。
 日本には在日韓国人(北朝鮮人)がたくさんいる。中国の旅行者も非常に多い。同胞が日常に暮らしている国(日本)を中国や北朝鮮が攻撃してくるということはありうるのか。何のメリットがあるのだろう。攻撃する前に、どうやって同胞を自分たちの国へ引き返させるのか。そのひとたちが中国や北朝鮮へ帰るとき、何を利用するのだろう。
 戦争に巻き込まれた日本人をアメリカの空母で避難させるとき、日本は何もしなくていいのか、と安倍は言ったが、逆に考えるとどうなるだろう。戦争に巻き込まれた中国人、北朝鮮人(同胞の韓国人)を、まさかロシアやよその国の空母が避難させるということはないだろう。そんなばかなことをする前に、自分の国の国民を避難させるので手いっぱいだろう。だいたい空母に民間人を乗せたりしないだろう。
 また、脱線してしまった。
 「戦争」というような大きな「共」からはじめるのではなく、実際に、人と人が向き合い、殺すことで生き残るという「個」から考えるべきなのだ。私は人を殺すことができるか。殺されたくはないが、人を殺すというのは簡単にはできそうにない。だいたい中国人なり北朝鮮人なりの「個人」を殺したからといって、戦争が終わるわけではないだろう。ほんとうに向き合わなければならないのは「国」という制度、「国」が何をしようとしているか、ということだろう。「国(権力)」の暴力から自分自身を切り離すこと、どこにも属さない「個」、「私」になって何ができるかを考える必要がある。
 「国」から「私」を引き離す--とはいっても、これは難しいね。「個人」は「国」に組み込まれてしまっている。
 たとえば、この詩集に書かれている「在日韓国人」。彼らが「私」に帰ったとき、そこで見出すのは「日本人」ではなく「韓国人」であり、また「韓国(朝鮮半島)」という土地だろう。「私」は「私」を超えて、何か大きなものとつながってしまう。そのつながりを「自覚」しながら、なおかつ「私」になろうとするとき、たぶん人間と人間の「連携」が生まれる。そして、それこそが「戦争」を防ぐ唯一のものであると思う。
 また抽象的になってしまったが、この詩集には、「私」という小さなものを出発点として人間関係を生きようとする力がある。それは必ずしも実を結んでいるとは言えない。(若尾は少年期の交友関係をそのまま持続、発展させているわけではなく、思い出としてもっているにすぎない--ように、見える。誤読かもしれないが。)
 「私」という「個」にもどればもどるだけ、その「私」にたとえば「半島」が結びついていることがわかる。学校で遊んでいるときは、友人が(あるいは先生が)、「半島」の出身であることは「共」のなかに隠れてしまうが、家に戻る(その地区に戻る)と、「私」の集団が、集団として「半島」を浮かび上がらせてしまう。
 でも、その「共」のなかの、実際の暮らしに密着すると、また「私」というものはどこにあっても同じ「暮らし(いのち)」なのだということもわかる。
 以前書いたことがあるが「在るだけの川」には板敷きの橋の隙間から落ちてしまった十円玉のことが書かれている。百円のけたで考える人間がいる一方、十円のけたで暮らしを考える人間がいる。それは、この詩では「在日韓国人」と「日本人」の暮らしの違いのように書かれているが、そういう「違い」は日本人と日本人のあいだでも起きている。「私」の必死の暮らしは、世界中で共通である。十円のけたで考えることが「私」に帰ることなのだ。

 また、脱線してしまった。ずれてしまった。
 書こうとしていることが、ことばにならない。

 若尾の詩を読むと、「私(少年)」が別の「私」と出合い、そこで静かな関係をつくろうとしている願い(祈り)のようなものが感じられる。他人のなかにある「私(個)」と出合い、その「個」が「私(若尾)」の知らない大きなものとつながっているのを感じながらも、なんとか「私」と「私」であることはできないものか、「より小さいものと」として生きることはできないものか、と考えていることがわかる。
 若尾の書いていることばの、どこかに、きっと「私」を生かせる方法がある。変であってもいい。直さなくてもいい。「きみが立つところ/そこをこそ読め」。たぶん、そのことばの奥に。


詩集 流れもせんで、在るだけの川
若尾 儀武
ふらんす堂
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コリン・トレボロウ監督「ジュラシック・ワールド」(★★)

2015-08-12 19:36:14 | 映画
監督 コリン・トレボロウ出演 クリス・プラット、ブライス・ダラス・ハワード

 何が新しくなったのだろう。恐竜に詳しくない私にはわからない。
 海中の恐竜(?)のイルカショーみたいなことかなあ。ヒチコックの「鳥」みたいにとぶ恐竜が人間を襲うところかなあ。それとも、手なづけられた恐竜が人間のために戦うところかなあ。あるいは、最後の恐竜同士の戦いかなあ。
 登場人物、じゃなかった、登場恐竜は「個性的」(人間的)になったのかもしれないけれど、映像としておもしろい部分はなかったなあ。群衆シーンなんか、目がちかちかしてみていられなかった。CGの細部が粗いんだろうなあ。建物やヘリコプターも、おもちゃのCGだねえ。
 スピルバーグの「ジュラシック・パーク」では、なんといっても恐竜が走ってくるシーンに度肝を抜かれた。大地が波うっている。ていねいだねえ、映像のつくりが。そうか、巨体が走ってくれば、大地は震動するのか。あたりまえのことなのかもしれないが、はっと驚き、夢中になった。
 今回は、そういうシーンはあったかな? 私は目が悪いので見落としたのかな?
 しいてあげれば、手なづけた恐竜四頭をつかって、恐竜狩りに行くジャングルのシーンかなあ。しかし、これだって「スターウォーズ」の森の中のシーンの応用にすぎないなあ。
 最後の恐竜二頭の戦いなんて、私にはどっちがどっちか区別がつかなかった。「八甲田山」の高倉健と北大路欣也の区別がつかないようなものだ。これでは恐竜に感情移入できない。
 それにね。
 こういう映画の大切な要素は子どもが活躍すること。子どもの視点(知恵)が発揮されて恐竜から逃げる。そのとき観客は子どもに帰る。童心に帰る。それがないと、わくわくしない。大人のまま、こんな空想を楽しめない。「あの恐竜には、歯が何本」なんて、「オタク」の知識じゃ、大人は童心になれない。
 ほら、「ジュラシックパーク」では、子どもが逃げている途中、ステンレスを利用して自分の姿を映し、恐竜に襲わせるシーンがあったでしょ? 鏡のなかの少年を実物と思って襲ったら、ステンレスにぶつかる、というシーン。ああいう子どもの知恵が、映画のなかに大人を引き込む。
 くだらない大人の恋愛、離婚するかもしれない夫婦関係なんかではなくて。
 あ、これはこの映画だけのことではないのだけれど、私はアメリカ映画の緑の色が嫌いだ。私は緑色がだんだん見えにくくなってきているので、もしかしたら間違っているかもしれないが、南米のジャングルの緑が、どうも汚い。みずみずしくない。ほんもののジャングルを見たことがないので、勘違いしているのかもしれないが、緑に濃厚さがない。
 これもつまらない原因のひとつ。「ジュラシック・ワールド」にいる感じがしない。どこかそのへんの(?)アメリカの森。臨場感がないなあ。


 
 夏休みの三大作品(?)では「ターミネーター」がいちばんおもしろかった。なんといっても、CGの処理が古典的なスピード。速さでごまかしていない。ゆっくりみせることで、臨場感を誘っている。昔の感じがして、それがなつかしくもある。老人になったシュワちゃんの肉体のスピードにあわせているのかもしれないが、スピードが売り物の映画の逆を行っているのが新鮮だった。
                        (天神東宝1、2015年08月12日)
 
 



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小縞山いう「絵画」

2015-08-12 10:51:25 | 詩(雑誌・同人誌)
小縞山いう「絵画」(「現代詩手帖」2015年08月号)

 小縞山いう「絵画」は「新人作品」欄の入選作。朝吹亮二が選んでいる。

「うすむらさきに濡れた
 花なびらのなかに
 広大な草さむらがあり
 草さむらのあちらがわ
 佇む少女の指びが風ぜに揺れている

 書き出しの五行。奇妙な「送り仮名」がある。「花」「草」「指」「風」という基本的なというか、子どもでも知っている名詞のあとに、名詞の最後の音がひらがなで書かれている。
 どう読むのだろう。
 私は「花な」を「はな」と読んだ。「はなな」とは読まなかった。そして、「花な」を「はな」と読んだときに、私のことばのなかに何か知らないものが入ってくるのを感じた。知らないものとは、何か。そう考えたとき、目に止まったのが、

あちらがわ

 小縞山は目の前にある存在「花」だけを見ているのではない。「花」の「あちらがわ」にあるものを見ている。その「あちらがわ」が「な」になって「花」の背後から「こちらがわ」へはみだしてきている。
 タイトルに「絵画」とある。そして、詩の全体が(書き出ししか引用していないので、それだけではわからないが)カギカッコ「 」でくくられている。対象がそこにあり、それをたとえば色と形でとらえ直したものが「絵画」、それをことばで再現したものが「詩(文学)」だとすれば、「絵画」の「あちらがわ」には存在があり、「詩」の「あちらがわ」にもまた存在がある。「絵画」も「詩」も存在のすべてをとらえきれない。とらえきれないものが、「絵画」や「詩」を突き破ってあふれてくる。
 これは、しかし私の言い方が悪い。逆なのかもしれない。
 優れた「絵画」や「詩」を読むと、そこに描かれている「色/形」を超えるものを感じる。「詩」もそこに書かれている「ことば」以上のことをかってに感じてしまう。「絵画」や「詩」を突き破って、「絵画」「詩」以外のものを感じる。描かれている対象の「いのち」のようなものを感じることがある。「あちらがわ」から何かが「こちらがわ」へはみだしてくるのを感じる。
 こういう瞬間のことを小縞山は「花な」というような表記で表わそうとしているのかもしれない。
 これは「絵画」に限って言えば、たとえば「輪郭」をはみだす「色彩」のようなものかもしれない。私の好きな画家、ピカソに「女の顔」という絵がある。白を主体とした女の顔が描かれている。背景はブルー。女の顔には黒い線の輪郭があり、頬の白はその輪郭をはみだしている輪郭が頬の内側に入り込んでいるといえばいいのか。この、一種の「乱れ」が、女の「いのち/肉体」の強さを感じさせる。「輪郭」をはみだしていく「色」として、「輪郭」ではとらえきれない存在の力を感じさせる。
 そんなことも思った。
 その不思議な「はみだし」とどう向き合うか。

嫋やかに喩の花なびら
毟られて色彩(ペールトーン) 滲みはじめる
虚ろさの透明の縫跡へ
少女は爪めをたて
降るはずのない雨めを望み
届かない空らを裂こうとした

 小縞山は「はみだし」とは言わずに「滲みはじめる」と「滲む」という動詞をつかっている。「あちらがわ」から「ことらがわ」へ「滲む」。その「越境」。
 その「越境」とどう向き合うか。
 「喩」とか「色彩(ペールトーン)」とか、あるいは「虚ろ」とか「透明」という具体的ではないことばと対比させることで、小縞山は向きあおうとしているように見える。
 これは、私には、残念な感じがする。後半は引用しないが、「はみだし/滲み」がもっている力が、徐々に、「存在」そのものの力ではなく、「観念」あるいは「概念」に変質していくような感じがする。言い換えると、小縞山が「肉体」で感じたものではなく、「頭」でとらえたもの、さらに言い換えるなら「頭」でおぼえたことばによって全体をととのえようとしているように感じられる。「越境」が取り締まられている感じがする。
 「境」を超えてやってくるものは、「こちら」を犯すのか、あるいは「こちら」を豊かにするのか。「取り締まる」ときは「犯す」ものを許さないという規制が働いているのだが、何か、そういう「頭の権力」のようなものが感じられる。
 「色彩(ペールトーン)」というのは、私の印象では、とても「いやらしい」ことばだ。ふつうのひとは、そんな具合には言わないだろう。「色ろ」となぜ書かなかったのだろうと思ってしまう。
 「透明」ということばが、また「いやらしい」。「滲む」というのは「透明」とは違う動き(動詞)だろう。「不透明」あるいは「あいまい」が「滲む」という「動詞」には似合うと思う。
 「花な」「草さ」というような表記は表記であるかぎりにおいて「透明」(明晰)である。「漢字+ひらがな」として識別されてしまう。その「輪郭(境界)」を越境する力、それを「滲む」という力で乗り越え、「境界(輪郭)」をなくすところまでゆけたらとてもおもしろいのになあ、と思った。そうしたことをやってもらいたいなあ、と期待している。

現代詩手帖 2015年 08 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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岩堀純子『水の旋律』(2)

2015-08-11 10:16:58 | 詩集
岩堀純子『水の旋律』(編集工房ノア、2015年07月07日発行)

 岩堀純子『水の旋律』は三部に分かれている。三冊の詩集が一冊にまとめられているという感じだ。そのうちの第一部、表題作の「水の旋律」。

白い貝のなめらかな内面で
存在を増す


 「なめらかな」が「くせもの」というか、おもしろい。修飾語(?)を取り去って、「貝の内面で存在を増す水」と考えると、貝が水(海)を思い出し、恋しがっていることがわかる。海を恋しがる貝に岩堀は自分を託している。つまり、このとき貝は岩堀であり、岩堀が貝である。海を恋しく思う気持ちが、内部で高まってくる。それを「存在を増す水」と言っているのだが……。
 なぜ「白い」と「なめらかな」ということばをつかったのか。貝の内側は、外側に比べると「白い(銀色?)」。また「なめらか」である。それは眼に見える姿であり、そのさらに内面にある「気持ち」とは無関係である。海を恋しがる気持ちが高まってくるというだけなら「白い」も「なめらかな」もいらないはずである。貝の内側はたしかに白くてなめらかだろうが、岩堀の内側(内面)は貝の内側の「形(姿)」と一体になっているのではなく、「貝の気持ち」と一体になっている。その一体感を強調するなら、「白い」と「なめらか」はむしろ邪魔かもしれない。思考を余分なところへ引っ張るから--というのは「散文の論理」だね。
 遠い海が恋しい、その気持ちが募ってくる(増してくる)。そのとき「気持ち」は「海」にある「姿」を与えている。どんな海でもいいのではない。海が恋しいと思うとき、そこには「海の形」がある。その「海の形」を先取りしているのが「なめらか」なのである。「なめらかな/海」を一行目は呼び寄せるのである。

遠い海からの微風に
澄みきった
水滴が揺れる
それらは
あちらこちらの
曲面から
辷り寄っては
ひとつになり

 この数行には一行目の「なめらかな/なめらかに」が見えない形で含まれている。書き直してみよう。

遠い「なめらかな」海からの「なめらかな」微風に
「なめらかに」澄みきった
水滴が「なめらかに」揺れる
それらは
あちらこちらの
「なめらかな」曲面から
「なめらかな」辷り寄っては
「なめらかに」ひとつになり

 こんなふうに書いてしまうとうるさくなるが、「なめらかな/なめらかに」という形容動詞がことばを、奥深くでつないでいることがわかる。「なめらかな」という形容動詞を中心に詩が動いていることがわかる。
 さらに後半を読んでみる。括弧内の「なめらかな/なめらかに」は原文にはない。

「なめらかに」ひとつになり
大きく「なめらかに」像(かた)どられ
やがて
泉へ
「なめらかに」ひびきあう
無音の「なめらかな」旋律へ
「なめらかに」浸されてゆく
ときに
淡い光が射しこむと
水滴は
ひとりでに「なめらかに」動き
「なめらかに」融合し
そして 「なめらかに」離れる
「なめらかな」音 「なめらかな」音 「なめらかな」音
深い「なめらかな」静寂のなかで
水は
貝を「なめらかに」奏でる

 あまりにうるさくなるので「白い」(あるいは銀色の)ということばは補わなかったが、それもさまざまなところに補うことができる。たとえば「水滴は」という一行は「白く(銀色に)輝く水滴は」ということになる。

 で、何が言いたいかというと……。
 岩堀のことばは何気なく書かれているようで、その奥にはことばの無意識の連携があるということ。ことばを無意識に制御している力がある。それが岩堀の、一見平凡なことば、よくみかける「抒情的」なことばを厳しく統一し、その力で「甘さ」を排除している。そのために、とても清潔に見える。「乱れがない」を通り越して、美しさを直接感じさせる。
 この詩は、貝が遠い海の水を恋しく思うから始まり、思い起こされた水が貝の気持ちとなって深い静寂の音楽を奏でるという形で完結するのだが、その変化も、むりやりというのではなく「なめらかな」主客の入れ代わりである。

 表面的には激しいことばが動いていないので、「現代詩」っぽくないのだが、そのことばを貫いている知性は強い。この強さを、「現代詩」は学ばないといけない。

詩集 水の旋律
岩堀 純子
編集工房ノア
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岡井隆『暮れてゆくバッハ』

2015-08-10 10:53:39 | 詩集
岡井隆『暮れてゆくバッハ』(書肆侃侃房、2015年07月31日発行)

 岡井隆『暮れてゆくバッハ』は歌集。私はいいかげんな人間なので、最初から最後まで順を追って歌集を読むわけではない。テキトウにぱっと開いて、そのとき目に飛び込んできたのが、

ケータイの在りかをぼくので呼びあてる、弁証法の正と反だね

 あ、おもしろい。
 おもしろいと思ったのは「ケータイ(電話)」が歌に詠み込まれていること。もう「ケータイ」は古くて、いまは「スマホ」なのかもしれないが、そういう「新しいもの」を岡井の年代の人が歌に詠み込むことがうれしい。
 というのも、この春、「西日本詩人セミナー(だったかな?)」で若手(中堅?)の歌人と話す機会があったのだが、そのとき彼らは「イメージの共有」ということを言った。「葡萄の種」と「梅干しの種」を例にひいて、「葡萄の種」は歌になるが「梅干しの種」はだめだ、と。「葡萄(の種)」には歌として詠まれてきたひとつのイメージがあり、それを共有することが歌の「核心」である、ということらしい。このときの「共有」を「継承」と言い直すと、それは「伝統」につながる。また「結社」というものにもつながる。「結社」とは、ある「イメージ」の共有(継承)の仕方を学び、育てる仕組みである。
 まあ、それはそれでわかるけれど、何とも古くさいというか……。
 で、そのとき若手の歌が何首か紹介されたのだが、この岡井の歌に比べると、とても古くさい印象がある。「葡萄の種」にひきずられている。どんなに新しいことを詠んでみても、詠み方のなかに「定型」がある。「抒情の定型」がある。
 岡井のこの一首には「抒情の定型」がない。「定型」を突き破っている。「抒情の定型」がないとしたら、では何があるのか。
 行動(アクション)がある。「動詞」がある。「行動/動詞」というのは「人間」を貫き、「人間」を「ひとつ」にしてしまう。誰の「行動/動詞」であれ、それを他人が「反復(反芻)」するとき、その「行動/動詞」はやすやすと「共有/継承」されてしまう。
 具体的に言い直そう。
 ケータイをどこに置いたかわからない。ケータイが見当たらない。さて、どうする? 電話を鳴らしてみる。岡井はここでは、誰かが見失った電話を「それじゃあ、ぼくので呼んでみる(鳴らしてみる)」と言って電話をかけている。それに応答してどこかから着信音が聞こえる。見つかった。こういう一連の動き(行動/動詞)を「呼びあてる」ということばで結晶させている。
 こういうことは、だれもが一度はしたことがあると思う。これは、さらに言い直せば、岡井のしていること(行動/動詞)を読者の「肉体」がおぼえているということである。岡井のことばによって、読者の「肉体」がおぼえていることが、読者の「肉体」のなかに甦ってきて、あ、「わかる」という感じが生まれる。岡井が「わかる」のではなく、読者が「わかる」。読者はその瞬間、岡井を忘れて、自分の経験を思い出している。
 「行動/運動」が、岡井と読者(複数)によって共有される。共有されるけれど、それを実際に味わうのはあくまで「ひとり」。「動詞」は、そんなふうにして、離れて存在している人間の「肉体」をつなぐ力を持っている。
 このあと、岡井は、どきっとさせる。

弁証法の正と反だね

 うーん、弁証法か。弁証法については、私は個人的にいろいろ思うことがある。弁証法では世界は把握できないと思っているのだが、そういうことはわきにおいておいて。
 岡井はここでは弁証法を正と反の対立を止揚ととらえている。岡井のケータイが正なのか、探しているケータイが反なのか、どっちでもいいが、呼び出すことで失われたものの在りかを探し当てる(止揚、結論に達する)ときのふたつのケータイの関係が弁証法の正と反のような形で運動している。
 ここにも書かれてはいないけれど、「止揚する」という「動詞」が存在する。「弁証法」ということばのなかに「運動/動詞」がある。
 これがおもしろい。

 岡井は、すでに継承されている存在のイメージを利用して歌を書いているのではない。ひとりの個人に帰って(つまり、伝統に属している自分を深く掘り下げて「私」という肉体に帰って)、そこから動きはじめる。その動きは誰にでも共有できる「動詞」である。「動詞」を生き直しているともいえる。
 ここに、岡井のことばの力がある。
 失われたケータイを手元にあるケータイで探し当てる。そういうことを「弁証法」のなかにある正と反の対立、さらに対立を止揚するという「動詞の比喩」で言い直す。それがおもしろい。
 「比喩」はもっぱら「名詞」と「名詞」の言い換えが多い。「君はバラのように美しい」では「君」と「バラ」が言い換えられている。これは歌人たちがいう「イメージ」の共有(継承)につながるのだけれど、岡井は「比喩」は「動詞」においても成り立つということを実践している。
 「呼びあてる」は「さがす」という「動詞」の「比喩」なのだ。「言い直し」なのだ。「言い直す」ことで、見えなかったことを明らかにする。「さがす」は「あてる」(どこにあるか、あてる)でもある。

 その直前の歌。

幾つかの袋のどれかに横たはつてゐる筈なのだ可愛い耳して

 これは前後するが探しているケータイのことを詠んでいる。そこにあるどれかの袋(バッグ)のなかにケータイはあるはずである。そのケータイを「可愛い耳」と呼んでいる。比喩である。この比喩が、文字通り可愛い。
 いや、そのケータイの持ち主が誰であるか私は知らないが(もしかすると、妻のケータイなのかもしれないが)、何となく、岡井の若い愛人というものを想像してみる。いいなあ、若い愛人がいて、「今夜、どう?」なんて電話を待っている。その耳のかわいらしさ。誘いをひたすら待っている無言の耳。自分からは催促しない無言の耳。ね、可愛いでしょ?
 というのは、私の欲望なのだが……。
 歌なんて、というか、文学なんて、作者の「主張/感情」なんか、どうでもいい。自分の「主張/感情」にかってにすりかえて読めばいい。つまり、自分の「欲望(本能)」を発見するためにある。自分の欲望(本能)なのに、あ、岡井もそうなんだと勝手に解釈して、「同士」になったつもり。
 「同士」と書こうとしたら「動詞」という変換が先にあらわれて、その瞬間に思ったのだけれど、そうか「同士」というのは「動詞」を共有する人間のことか、と思いなおした。いっしょに行動してこそ「同士」。
 「欲望(本能)」というのも、「動詞」だね。動いてはじめて、何かが実現する。
 あ、脱線したかな?
 でも、脱線したおかげで、「可愛い耳」という比喩にも、どこかで「動詞(欲望/本能)」が潜んでいるということが、偶然発見できた。

 若者の歌よりも、さらに先を行っている若々しさ。それは次の歌にも。

真面目に弾くピアニスト。でも真面目には聞いていないぼくがわかる、悲しい

 ここでも「わかる」という「動詞」が歌の中心である。「わかる」は、このとき「理解する」ではなく、「発見する」である。「新しい」がそこに隠れている。真面目に聞かないというのは別に新しいことではないけれど、ピアニストの真面目がわかった瞬間に、「ぼく」の真面目ではないがわかる。「わかる」というひとつの「動詞」が「真面目」を中心にして大きく動いている。
 「動詞」のなかにこそ、「歌」の本質がある。
 この大きな変化を、岡井は「悲しい」ということばでしめくくっている。「悲しい」は「抒情的」なニュアンスが強いが、この「悲しい」のつかい方も、私は新鮮に感じた。
 「悲しい」は形容詞。形容詞は「用言」、つまり「動詞」のように「動く」。「悲しい」はひとつの状態にとどまっているのではなく、動くのだ。ピアニストの真面目が「わかり」、自分がまじめでないのが「わかる」。その「わかる」のなかの変化が「悲しい」というものを生み出す。生まれてきた「悲しい」。そのときだけの、一回性の感情の「動き」なのである。どんどん動いている「悲しい」。
 「わかる」は単に「頭」で「わかる」のではない。「わかる」瞬間、「頭」以外のものも動いている。「感情」とひとは言うかもしれないが、私は「肉体」が動いているのだと思う。ことばで、どこそこと指定(指摘)はできないけれど、「肉体」が全体としてもやもやとして動き、そのことばにならないもやもやから「悲しい」が動きはじめる。

 こういう短歌の「革新」を、若い歌人の歌ではなく、岡井の歌で知るというのは、少し残念な感じもする。短歌は岡井の力を必要としているんだなあ、と改めて感じる一冊だ。
 途中にスケッチと手書きの歌(手書きの文字)が何ページかあり、岡井は絵も描くのかと思った。どの絵も「線(輪郭)」が明瞭で、姿が歌に似ているとも思った。
暮れてゆくバッハ (現代歌人シリーズ)
岡井 隆
書肆侃侃房
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クリストファー・マッカリー監督「ミッション・インポッシブル ローグ・ネイション」(★★)

2015-08-09 22:40:10 | 映画
監督 クリストファー・マッカリー 出演 トム・クルーズ、ジェレミー・レナー、サイモン・ペッグ、レベッカ・ファーガソン、アレック・ボールドウィン

 見せ場は冒頭の飛行機のシーンと、水中の金庫のシーン。
 冒頭のシーンは「付録」。こんなすごいシーンが冒頭にあるのだから、あとはもっとすばらしいはず、と期待を抱かせる。予告編につかわれていたシーンだが、本編でも「予告編」をやっているという感じ。「インディー・ジョーンズ」でスピルバーグがつかった手だね。命懸けでたいへんだとは思うけれど、どうせ映画だからねえ、とも思う。何度も見ているので、もう興奮はしないなあ。だいたい、こういうシーンが現実にはありえないという感覚の方が先に立つ。そういうことをしたことがないからね。
 これにくらべると水中金庫のシーンはおもしろい。水中で息を止めて何かをするということは「体験」がある。1-2分しか息を止めていられない。つまり「肉体」がおぼえている感覚がある。それが見ていて、肉体を刺戟してくる。あ、苦しい。息がつづかない。水中で流れる物をつかむなんて難しい。流れに逆らって泳ぐのは難しい。ひとつひとつが、肉体に響いてくる。知らず知らずに息を止めて見ていたりして……。
 これが映画や芝居の快感だねえ。自分の肉体でできそうで、できない。自分はできないことを役者が肉体をつかってやっている。その肉体の動きをまねしてみたい。「マトリックス」の背中をそらして弾丸をよけるシーンとかね。肉体が無意識の内に役者の動きをまねしている。そうして、そのまねが、そのまま役者への共感になる。トム・クルーズになった気持ちになる。水なの中なので、肉体の動きがゆっくりしているのも、なんだかまねしやすいというか、肉体の感じがよくわかっていいなあ。
 あとの派手なアクションはスピードが速すぎて、肉体が反応しないなあ。カーチェイスはもちろんのこと、生身の肉体をさらして動くバイク・チェイス(?)のシーンも、トム・クルーズとは「一体」になれない。快感にならない。転んだときの「痛み」なんかもぜんぜん伝わってこない。これではアクションをしている意味がない。
 トム・クルーズは自分で危険なシーンを演じるのに夢中になって、演技の基本を忘れてしまったのかもしれない。あ、これは監督の方針なのかな? どうせ複雑な役どころはこなせない。アクションでびっくりさせればいい、ということかな?
 アクションとは別に気がついたことは……。
 トム・クルーズ、ジェレミー・レナー、サイモン・ペッグ、アレック・ボールドウィン。顔が短い。丸っこい。背も低い。昔の男優とは趣が違う。人懐っこい感じ。(悪役はあいかわらず昔の男の顔。四角くて長い。背が高い。)スパイとか、あるかないかわからないシンジケートとか、あるいは超人的なアクションに昔ながらの男が出てきたのでは、人間っぽい感じがなくなってしまうから、童顔系で観客との距離を縮めているのかもしれない。語弊があることを承知で言えば、子ども、女性向けの映画だね。
                         (天神東宝5、2015年08月09日)

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル [DVD]
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パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
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秋山基夫「河童池の昼と夜」

2015-08-09 09:27:39 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「河童池の昼と夜」(「文藝春秋」2015年09月号)

秋山基夫「河童池の昼と夜」は短い作品。

日が昇ると睡蓮の花は目を覚ます
日が西に傾くとまた眠りにはいる
かすかな風が池の面を吹いて行き
浮かんだ葉っぱもいくぶん揺れる

月が昇ると暗い池の水が光りだす
睡蓮の花は闇を内部に抱きしめる
葉っぱに乗っかり蛙らは眠りこみ
白い皿のような月が水中で揺れる

 最終行「皿」ということばだけで「河童」を呼び覚ますところが、とてもおもしろい。「河童の皿」といわず、あくまで月の描写のふりをしている。ことばの潜んでいる「共通認識」のようなものを刺戟しながら、読者の勝手な連想にまかせている。
 何気ないことばだが、その最終行の「水中」もおもしろい。「水面」に浮かんでいるのではなく、「水の中」(水の内部)に隠れている。それが「河童」の生態を感じさせる。また、その水に「広がり」があれば「水中」は「水の真ん中」くらいの感じで響いてくる。「ほら、あの池の真ん中に」という具合だ。広い池のあやしげな感じが、また「河童」伝説とよく似合う。
 「論理」になる前に、ことばが揺れて動いていく。

 一連目の最終行の「いくぶん」もおもしろい。その前の行の「かすかな」と呼応しているのだが、ちょっと不思議。「かすかな」と書いたらつられて形容動詞「静かに」くらいのことばが動いていくのだが、そういう日常化したことばの連動を少しだけ断ち切っている。
 そうか、「いくぶん」ということばはこんなふうにしてつかうと音そのものもくっきりと響いてくるのか、と感心してしまった。
 前後するが、一連目二行目の「また」という短いことばも非常に効果的だ。「また」があるために、この光景が繰り返されていることがわかる。秋山が繰り返しこの光景を見ていることがわかる。秋山は、蓮の花が開いたり閉じたりという繰り返しを描いているだけなのだが、その繰り返しの時間の中に「河童」という存在しないものがあらわれてくるという「構図」が興味深い。
 繰り返していると、そこには単純化されるもの(あるいは無意識に排除されるものといえばいいのか)と、逆に余分なものが紛れ込むことがある。「河童」は、たぶん、余分なもの。「妄想」である。
 まあ、余分なもの(妄想)と言えば、光景を詩にすること自体が一種の余剰(妄想)みたいなものである。そんなことをことばにしなくても世界はいつもの同じように存在しているのだから、などと考えながら、不思議に楽しくなる。きっと余分なことが詩なのだろう。

 で、余分なことをひとつ。
 二連目の一行目。「暗い」は「黒い」ではどうだろう。「暗い」は次の行の「闇」と近すぎて、認識のなかで開く花が抱える「闇」をどこかで見たことがあるなあという気にさせてしまう。「かすかな」→「いくぶん」のような移行がない。「暗い=闇」という感じが「既視感」につながるのだと思う。
 もっとも「黒い」にすると最終行の「白い」がわざとらしくなるのかなあ。
 他人の書いた詩のことばをあれこれ入れ換えて考えるということを、詩人はあまりしないようだが、私は読むというのは自分のことばと作者のことばを比較してみることだと思っているので、こんなふうに動かしてみてしまう。




秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
思潮社
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羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」

2015-08-08 09:45:14 | その他(音楽、小説etc)
羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」(「文藝春秋」2015年09月号)

 羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」は第百五十三回芥川賞受賞作)。その書き出しの一行。

 カーテンと窓枠の間から漏れ入る明かりは白い。( 402ページ、「文藝春秋」)

 「漏れ入る」は「もれいる」か「もれはいる」か。よくわからないが和歌的、新古今的な描写が最近の芥川賞作品ではめずらしく、引き込まれた。
 しかし、

 掛け布団を頭までずり上げた健斗は、暗闇の中で大きなくしゃみをした。今年から、花粉症を発症した。六畳間のドアや通風口も閉めていたのに杉花粉は侵入し、身体に過剰な免疫反応を起こさせている。( 402ページ)

 ここで、私は違和感を感じた。「ずり上げる」という「動詞」が私の肉体としっくりしない。他人(健斗)の肉体の運動なのだから私の肉体としっくりこないのはあたりまえかもしれないが……。そのあとの「侵入し(する)」という動詞や、「身体に過剰な免疫反応を起こさせている。」という文のなかの漢字熟語、「起こさせている」という言い回しにもひっかかった。なぜ健斗を「主語」にしたまま書けないのかな?
 しばらく読み進むと「ロードノイズ」ということばが出てくる( 403ページ)。意味はわかるが、ここでも私はつまずいた。書き出しの新古今のような感覚とロードノイズという表現は異質の次元のものである。さらに「電源をオフにした」が出てくる( 404ページ)。「孝行孫たるポジション」( 408ページ)「フリータイムで入室後」( 409ページ)などの「カタカナ」にも、私は、つまずいた。私の世代と羽田、あるいは主人公の健斗の世代で「言語感覚」が違うだけなのかもしれないが、どうにもなじめない。
 なぜこんな文体なのかなあ、こういう文体でしか書けないことなのかなあと思いながら読み進み、 426ページ、

まっすぐにビルドできていることの快感だ。

 ここにタイトルの「スクラップ・アンド・ビルド」の「ビルド」が出てきて、羽田のやっていることが、やっとわかった。わざと「日本語的(古典的)」な文体とカタカナ語を衝突させているのである。なじまない「文体」を衝突させて、その亀裂から始まる世界を描いている。
 異質なものの衝突は、そのまま「ストーリー」にもなっていく。介護を必要とする肉体(老人)と介護をする肉体(健斗)の対立。精神(感情)関係というよりも「肉体」そのものの出合いと衝突がある。
 異質な肉体(異質な人)の出合いを描くというのが羽田のテーマなのかもしれない。そして、それを明確にするためにわざと異質なことばをつかうのである。奇妙な「文体」をつくるのである。
 「文体」とは「肉体」のことである。「肉体」とは「文体」と同じものなのである。
 とても明瞭な主張である。受賞のことばで、

“世間から求められる言葉を言わなくてもいい自由さ”があることをここで提示したい。

 と羽田は書いている。
 ここに書いている「言葉」を「文体」と言い直せば、羽田がこの小説でやっていることがわかる。いや、これでは、「わかりすぎる」ということになる。「わかりすぎる」は「つまらない」ということでもある。
 別なことばでいいなおすと……。
 「文体」における言語の選択は、筆者の自意識の問題である。羽田がこの小説で書いているのは、健斗の「自意識」であって、他者の意識は描かれていない。「ロードノイズ」というのは「描写」のように見えるが、単なる描写なら「路面の音(路面から聞こえてくる騒音)」でもいいのだが、そういう「日本語」として共有されることばでは「自意識」になりにくい。「自意識」であるまえに、冒頭の「白い」のように「古今的感覚」として日本語に吸収されてしまう。そこから健斗だけの「自意識の風景」を確立するためには「ロードノイズ」という面倒くさいカタカナ語が必要だったのだ。
 この方法論は、とても「わかりやすい」。「わかりやすい」だけに、とても安易でもある。異質なことば(カタカナ語)で「自意識」を浮き彫りにするという方法は、しかし、安易すぎないか。
 主人公は、また自分の肉体を改造(?)しているが、その変化を説明するのに、冒頭の「免疫反応」に類似する「学術用語(専門用語)」をつかっている。特別なことばで、自分だけの「世界」を強調する。安易だなあ。
 この方法が安易であるという証拠(?)として、逆の例をあげれば、それは老人のつかう「九州弁(?)」である。九州弁が老人の「自意識(個性)」である。老人の存在(肉体)そのものである。
 登場人物の書きわけを「ことばの音」だけで表現している。
 いちばん大切な主人公と脇役が、「肉体」ではなく、「ことばの音」で区別される。
 せっかく強靱な若者の肉体と、死んでゆくしかない老人の肉体が出合い、衝突しているのに、肉体のリアルさが描かれず、かわりにそれぞれがどういう「ことば」をつかって自分を語るかということしか表現されていない。
 人間が出会い、出合いをとおして変化していくというのが「小説」だと思うが、そういうものが描かれていない「自意識ごっこ」のように見える。


スクラップ・アンド・ビルド
羽田 圭介
文藝春秋
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しばらく休みます。

2015-08-04 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)



しばらく休みます。
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リューベン・オストルンド監督「フレンチアルプスで起きたこと」(★★★+★)

2015-08-03 09:25:52 | 映画
リューベン・オストルンド監督「フレンチアルプスで起きたこと」(★★★+★)

監督 リューベン・オストルンド 出演 ヨハネス・バー・クンケ、リサ・ロブン・コングスリ

 この映画はこんなふうに紹介されることが多い。「スウェーデンの一家がフレンチアルプスにスキー旅行にやってくる。昼食をとっていたとき、目の前で雪崩が発生する。大丈夫と言い張っていた父親が、子どもと妻を置いてひとりで逃げ出してしまう。そのことが原因で家族がばらばらになってゆく」。
 そう説明するのがいちばん簡単なのかもしれないが。
 私は子どもの描き方がとてもおもしろいと思った。子どもは父親が自分たちを守ってくれなかった、ということに対してだけ怒っているのではない。そこが妻の態度とは大きく異なる。妻は家族を守るべき父親が自分たちをほうり出して逃げた、ということに対して怒っている。
 子どもたちは、少し違う。
 雪崩のあと、ホテルへ帰ってきてからの態度がまず微妙。母親にも反発している。母親といっしょになって父親を批判するわけではない。母親が子どもたちへの気遣いをみせたとき、子どもたちは「ほっといて」とすねる。子どもは子ども同士で団結する。
 次の日、スキー場へ行く途中、息子が父親に「ママと別れないで」と言う。子どもは父親がとった態度に怒っているのではなく、両親が、子どものことを忘れて、自分たちの関係だけに夢中になっていることに対して不安なのだ。
 雪崩がおさまって、家族が全員無事だったことが確認できた。でも、そのことを両親は喜ばず、いきなりけんかをはじめてしまう。ホテルに帰ってきてもけんかをすることが先に立って、子どものことをかまってくれない。部屋に子どもを閉じ込め、廊下でけんかする。「部屋に知らない男がいる」と訴えても聞いてもらえない。(清掃係が部屋を掃除している。)パパとママが両親ではなく、男と女(夫と妻)になってしまっている。自分たちの問題で忙しくて、ぜんぜんかまってくれない。両親から捨てられた気持ちなのだ。
 両親がどんな人間であれ、いっしょにいること、自分のことを思ってくれることが、子どもにとっては大切なこと。家族が互いを大切に思うことが大事。だから、父親が泣き崩れたとき、妻は「ばかな男」という感じで冷淡に見つめているのに対し、子どもは「パパ、大丈夫だよ」と必死になってなぐさめる。いま、自分が父親を支えることができると本能的に理解して父親を抱きしめる。「ママも来て」と呼びかける。
 子どもは夫婦のかすがいというが、それ以上のものである。「パパ、ママ」と呼ぶ以外の台詞はほとんどないのだが、この呼び声の切実さが映画にリアリティーをあたえている。
 映画の大半は、男女の関係を中心に「夫婦とは」「家族とは」というようなことが、もっぱら妻がリードする形で、ホテルで出会ったカップルとのあいだで、「ことば」で語られる。主人公一家の男と女の関係が、父と母、男と女(恋人)という関係に解体(?)されながら語られるのだが、そのときの「ことば」が問題なくすごしてきた恋人のあいだにも影響をあたえる。かなり冷徹で、ブラックな笑いを誘う。そこがおもしろいのだが、ああ、スウェーデン人というのはこんなふうに何でもことばにしてしまうのかと思うと、笑うより先に奇妙に感心してしまう。「気持ち」というのは「ことば」にしてしまわないと整理がつかないものだけれど、「ことば」にするということと「声」にするということは違うだろうなあ。
 「パパ、ママ」としか言わない子どもの方が「気持ち」を確実に伝えているなあ。

 いろいろなことがあって、最後のバスで帰るシーンがおもしろかった。運転手がへたくそである。いつがけ下に転落するかわからない。不安になる。妻の方がパニックを起こし、「おろしてくれ」と叫ぶ。それにつられて乗客はひとりを残しておりてしまう。おりて歩きはじめる。歩いている途中で映画は終わる。
 映画はこのことについて何も言っていないのだが(登場人物のだれもこの行為について語ろうとはしないのだが)、これは冒頭の雪崩のシーンの逆である。妻の方が自分の本能が知らせる驚怖を抑えきれなかった。今度は妻が家族をおいて逃げたのである。バスのなかだったので、たまたま「逃げ方」が違ったが、彼女が真先に驚怖におそわれ、行動した。ひとは何に驚怖を感じるか、そのときの感じ方の違いは「定型化」できない。
 このとき、あの道を歩いている人たちは、何を思ったのか。とぼとぼと歩いている。そのとぼとぼ感、疲労感のなかにある「和解」のようなものが、とても不思議である。妻が全員を事故から救ったのか。それとも、全員がパニックを起こした女を救っているのか、よくわからない。わからないまま「一家」になって歩いている。このわからなさに★一個を追加した。わからないけれど、人間はそういうわからないことをするのもだということを、ほうり出すように描いている。そこが傑作。
                        (2015年08月02日、中洲大洋1)

 



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みちる『10秒の詩』(絵・上村奈央)

2015-08-03 06:00:00 | 詩集
みちる『10秒の詩』(絵・上村奈央)(ポエムピース株式会社、2015年06月14日発行)

 みちる『10秒の詩』を読みながら、詩が「意味」として読まれていると気づく。たとえば、

思いは涙では滲まない
きれいになるだけ

 現実には「思い」は涙で汚れるということがあると思う。何かが汚れる。それが悲しくて泣く。でも、そのことを順序を入れ換えて考えてみる。「思い」が何かで汚れる。それが悲しくて泣く。そうすると涙は「思い」を汚した何かを流し去りはしない。涙は「思い」をもとのきれいな姿にもどす。
 そして、そのとき「意味」とは何か矛盾したもののぶつかりあいである。矛盾したもののなかから「美しい」につながる「意味」を選り分け、ことばにできたとき、それは詩になる。
 「美しい意味」が読まれている。それは、読んだ人の「こころの中」にだけある。それは見えない。見えないから「ことば」を手がかりに、それを「見る」。
 それがこの詩集では「詩」と呼ばれているのもだと思う。

私は「忘れないで」とは言いませんでした
あなたが忘れてしまうこと知っていたから
あなたも「忘れない」とは言いませんでした
忘れるはずがないと思っていたから

 ここにも「忘れる」「忘れない」という矛盾がある。「知っている」「思っている」という違いもある。この違い(矛盾)が、読者に何かを発見させる。人が二人いれば、その二人の思うことは「同じ」ではない。どこかで違っている。その違いが大きくなって、ひとは別れてしまう。
 知っていること、わかっていることを、それが動いているままの形でことばにするとき、そこに「時間」が「意味」として、姿をみせる。

 でも、「意味」は何かを押しつけられるようで(美しく生きることを押しつけられるようで)、いやだなあ、と感じたら。
 少しことばを変えて遊んでみよう。

カラダは洗えばきれいになる
心だって同じ
熱い湯に長めに浸かり
泡いっぱいにしてゴシゴシこすれば
前よりも きれいになる

 これは「思いは涙では滲まない/きれいになるだけ」という詩に似ている。泣くことで、起きたことを流し去り、前に戻る。ほんとうの自分、美しい自分に戻る、ということが「意味」の、「ほんとうの意味」である。
 で、この作品、「カラダ」を「ラクダ」と言い直してみるとどうだろう。「心だって同じ」というのは、この作品を「抒情詩(こころの詩)」にするのだけれど、「こころ(自分)」を自分と無関係なものに置き換えると、どうだろう。

ラクダは洗えばきれいになる
熱い湯に長めに浸かり
泡いっぱいにしてゴシゴシこすれば
前よりも きれいになる

 なんとなく、おかしいね。さっぱりするね。「ラクダ」は、このとききっと「こころ」の象徴なのだ。比喩なのだ。
 「こころ」「思い出」というようなことばを別な存在に言い換えてみると、別のことばの楽しみ方が広がると思う。



10秒の詩 ─ 心の傷を治す本 ─
みちる
ポエムピース
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