詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

船田崇「ある午後」、陶山エリ「くるぶし考」

2016-02-15 10:57:42 | 詩(雑誌・同人誌)
船田崇「ある午後」、陶山エリ「くるぶし考」(「侃侃」25、2016年01月31日発行)

 船田崇「ある午後」は美しいが、古くさい。

雨の踏切の
向こう側に君が立っている
白い頬が水煙に包まれて
今にも消えてしまいそうな
午後だ

君のいる近くて
遠い場所に
蒼い水彩画が揺らいでいる地点に
僕は行かなきゃと思う

 「美しい」のは一連目で言えば、「雨の午後」の「雨」、「白い頬」の「白い」であり、「雨」が「水煙」と言い直されている部分だが、それは同時に「古くさい」。表現の「定型」だからである。「水煙に包まれて」を「消えてしまいそう」と言い直すのも「定型」すぎて「古くさい」。調和しすぎている。
 船田が見たのは「君」か「雨」か「踏切」か、わからない。わからないくてもいいのかもしれないが、「対象化」されすぎていて、おもしろみに欠ける。
 二連目の「近くて/遠い場所」という「矛盾」は「現代詩」だと感じるが、その「矛盾」を「蒼い水彩画が揺らいでいる」と言い直したとき、「矛盾」が消えて「古くさい」定型になってしまう。
 「肉体」が動いていないのだ。
 「僕は行かなきゃと思う」の「思う」が象徴的だが、肝心なところが「思う」であって、「肉体」の動きそのものではない。
 踏切の向こうに君が立っているのは「事実」だとしても、それ以外はみんな「思う」。思っているだけ。「思い」が「事実」を書き直し、ととのえている。ととのえられた「思い」があるだけ。「抒情」だけがある。
 「抒情」だけで何が悪い、と言われたら、かえすことばがないのだが。うーん、「古くさい」。
 詩は「思い」を書くものかもしれないが、「思い」を「思い」として受け止めるのは、私なんかは、めんどうくさいと感じる。他人の「思い」なんか気にしたくない。



 陶山エリ「くるぶし考」は、変な詩である。三つの部分から構成されている。その「考察A」。

クルーシブルという映画をくるぶしーと言い間違えたアイドルがいたはずだが踝を
かかとと読み間違えるのはいつものことで踵と書くほうがぺっくるぶしっぽくぷっ
咥える漢字と梅干しの種ぺっぷっ飛ばすやり方でしっくりこないだろうか梅干しっ
ぽくの種はポメラニアンのくるぶしくらいだろうきゃんきゃんきゃきゃきゃきゃん
頭蓋骨飛び出すうるささで怯えながら決して怯むことがないはずだろう

 「クルーシブル」という「音」からはじまり、「くるぶし」という「音」に変わる。言い間違い。そこに漢字の「踵/踝」の読み間違い、書き間違い(?)が加わる。
 この間違いを「梅干しの種」のようなものと言い直し(言い直しているのかどうか、ほんとうは定かではないのだが……)、「間違い」を「梅干しの種」のように吐き出すとき「ぺっ」とか「ぷっ」の音がまじりこみ、さらに「ぽっ」という音も誘われて……。
 あ、「ポメラニアン」。その瞬間、まったく異質な「音」が侵入してきて、全部をひっかきまわす。
 最後は「怯える/怯む」という「同じ漢字/違う音」という組み合わせも出てくる。
 何が書いてある?
 船田の詩に比べると「整理されていない」、ととのえられていない。
 でも、ととのえられていないように見えるのは、「意味」を「名詞」で追いかけるからである。
 「動詞」で詩を見ていくと、違うものが見える。
 「言い間違える」は「読み間違える」と言い直されたあと、その「間違い」の原因を「しっくりくる/こない」と推測している。
 「しっくりくる/こない」というのは「感覚的」なものであって、「意味」にするのはむずかしい。「クルーシブル」よりも「くるぶしー」の方が「しっくりくる」。なぜか。「くるぶし」の方が知っていることばだから。「覚えていることば」、肉体になじんだことばだからだ。
 梅干しの種を「ぺっ」とか「ぷっ」という音と一緒に吐き出すのも、肉体になじんでいる。そういう動きを覚えている。
 ポメラニアンは小さい。きゃんきゃん啼く。そういうことも「覚えている」。肉体が覚えている。そういう「覚えてるもの」、自分に「しっくりくるもの」を陶山はことばのなかにさがしている。その動きに「肉体」が見える。

 船田の詩に戻ると……。
 「雨」のなかで「白い頬(いっそう白く見えるようになる頬)」も、そういう「ぼんやりした強調/見えにくくなるのではなく逆に白さが引き立つ見え方」も、最初に誰かが書いたときは「肉体」が動いていた。
 その動きを船田が「肉体」で正確に反芻している、と言えば言えるのかもしれないが。
 そういう「肉体」の動かし方は、もう「肉体」ではなく「ことばのととのえ方」になってしまっている。つまり「定型」になってしまっていて、そこから再び「肉体の動き」を感じるのはなかなかむずかしい。

 わかろうが、わかるまいが、ことばといっしょに「肉体」があるということ、そしてその「肉体」が動いているということが、詩がおもしろいかどうかの分かれ目になると思う。私は「肉体」がそこにあって「動いている」という詩が好きだ。
詩集 旅するペンギン
船田 崇
書肆侃侃房
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佐藤裕子「何処かでお会いしませんでしたか」

2016-02-14 21:16:15 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤裕子「何処かでお会いしませんでしたか」(「YOCOROCO」6、2016年02月18日発行)

 佐藤裕子「何処かでお会いしませんでしたか」は、佐藤の定型連作。一行の文字数がそろっている。

古書店の軒先から雨曝し日晒し未開封パズルが殺風景を歩き出す
目指す塔は遠ざかり近付き一廻りしても同じ外観で方角を狂わせ
旅行者に親切な住人が道順を示す度嘔吐きを揮発させる診察室臭

 文字数をそろえるには、どこかで無理をしないといけない。一行目。無理してととのえた部分を自然な(?)形にすると、これは、たとえば、

古書店の軒先から雨曝し(になった)日晒し(になった)未開封(の)パズルが殺風景を歩き出す

 であり、

古書店の軒先から雨(に)曝(され)日(に)晒(された)未開封(の)パズルが殺風景を歩き出す

 であり、さらに

古書店の軒先(におかれていた)未開封(の)パズルが雨(に)曝され日(に)晒され(たあげく/たあと)殺風景を歩き出す

 かもしれない。
 で、こうやって私が自然だと感じる形に合うように、無意識のうちにことばを補っていると、「歩き出す」の「主語」が「未開封パズル」であるにもかかわらず、ちょっと逆のことも考えるのである。無意識に別なものが動くのである。
 「雨曝し日座晒し」ということばは「未開封パズル」を修飾しているが、その「未開封パズル」が雨曝し、日晒しであるということは古書店そのものが雨曝し、日晒しであるということでもあり、その全体が「殺風景」そのものにも見えてきて、もしかすると「殺風景」が「主語」? そういう感じになる。
 そして、「殺風景が未開封パズルを歩き出す」と読んでみたい感じになる。
 雨曝し、日晒しの「未開封パズル」は、そのまま雨曝し、日晒しの「古書店」に変わってしまうのは、封印された(?)古書店/客の来ない古書店というたたずまいを私は何処かで見ているからかもしれない。路地の古書店は、たいてい「殺風景」である。
 このとき「殺風景」とは「古書店を殺風景」と感じる「ひと」と読み直してみる必要もなると思う。「殺風景」それ自体は「人間」のように動かない。つまり「歩き出す」ということはない。また、「殺風景」というのは「客観的」に存在するというよりも、ある状況を「殺風景」と感じる人間が、それを「殺風景」にするのだから。
 その「殺風景」なもの(古書店を殺風景と感じるひと)が歩き出す。どこを? 「古書店」という「未開封のパズル」を歩き出す。これはもちろん「未開封のパズル」がそのものとして存在するということではない。「古書店」を「未開封のパズル」と認識するひとが、「古書店」から「未開封のパズル」へと状況を変えながら歩くということでもあだろう。
 そんなふうに佐藤は書いていないのだが、私は、そんな具合に「入れ子細工」としてことばを読んでしまう。文字数をととのえるためにかかっている奇妙な圧力が、ことばの「入れ替え」(読み替え)を誘うのである。
 二行目の、

目指す塔は遠ざかり近付き

 の「遠ざかり」と「近付き」は正反対のことばであるにもかかわらず、結局「同じこと」、入れ替え可能、読み替え可能の反復である。入れ替わることで「入れ子細工」を複雑、そして堅牢にする。そして、それがそのまま

一廻り

 ということばにつながっていく。「廻る」という動詞と同時に「一」が、たぶんキーワードなのだ。そこにあるものは、結局「ひとつ」。この「ひとつ」はすぐに「同じ」ということばで言い直されている。
 「一廻り」してしまえば、そこで見る風景は最初の風景だから「同じ」であるのは当然なのだが、そのことを奇妙に感じるのは「一廻り」の過程でも、すべてが「同じ/入れ替え可能/読み替え可能」だからだろう。
 違うはずのものが「同じ」、違いが識別できない。それが「方角を狂わせる」、つまり方角を見失わせる。あらゆる方角が「ひとつ/同じ」になる。
 あ、このとき「主語」は何? 二行目の「主語」は何? 一行目を引き継いで「殺風景」? それとも「未開封パズル」?
 「目指す塔」だね。「塔」はきっと閉ざされている。「未開封」であり、未開封であるがゆえに「内部」は「殺風景」。「塔」は「未開封のパズル」の比喩であり、同時に「古書店」が「塔」の比喩かもしれない。これも、入れ替え可能なのだ。いや、入れ替え可能というよりも、積極的に入れ替えて、「主語」を固定しないということが、大事なのだ。

 ちょっと飛躍してしまうが、「固定」されるのは一行の「文字数」である。それ以外は「固定」を拒んで、常に動いているのだ。

 三行目は、その入れ替わりが、さらに激しくなる。

旅行者に親切な住人が道順を示す度嘔吐きを揮発させる診察室臭

 ここでは「主語」は誰だろう。何だろう。
 一行目、二行目では明確にされていなかった「歩くひと」は「旅行者」という形になっているように、私には感じられる。でも、三行目の「主語」ではない。
 三行目の「主語」は「住人」であり、その「住人」は「旅行者」に「道順を示す」。「古書店の店主」が「住人」であり、「客」が「旅行者」かもしれない。
 そして、その「住人」を「主語」と仮定したとき、そのあとにつづく「嘔吐きを揮発させる」という動詞は誰の「述語」なのか。「住人」か「旅行者」か。どちらとも読むことができる。「未開封のパズル」としての「古書店」、「古書店」としての「未開封のパズル」の内部で方角を狂わせ、迷ってしまった「旅行者」と私は読みたいのだが、そのことばの直後の、

診察室臭

 このことばが、すべてをひっくりかえして「主語」になろうとしているようにも思える。「診察室臭」という名詞(?)で終わっているということは、この一行はいわゆる「倒置法」になるのかもしれない。でも「倒置法」ではない一行にすると、どうなる?

親切な住人が旅行者に道順を示す度に、診察室の臭いが旅行者に嘔吐きを揮発させる

 うまく文章になってくれない。簡単に文章になってくれない。だいたい「揮発させる」という動詞が耳慣れなくて、肉体がぞくっと震えてしまう。嘔吐の鋭い臭いが強調され、そこに起きていることを直視できなくなる。直視すること、明確に識別すること、認識することを無意識が拒絶してしまう。
 ことばが交錯し、動き回り、意味が特定されること、固定されることを拒絶する。「主語」と「修飾節」が入り乱れる。「名詞」が「動詞」になり、動き回る。たとえば「診察室臭」の「臭」は「臭い」であるだけではなく、「臭う」という「動詞」である。(「未開封パズル」は「未開封のパズル」であると同時に「パズル」を開かない/「パズル」を閉ざすであるのと同じだ。)
 あらゆることばが、他のことばを刺戟し、突き動かす。その「突き動かし」のつながりが、「固定された」一行のなかで「固定」を偽装する。

 「何処かでお会いしませんでしたか」というタイトルは、二連目の最後に、

陽と闇の斜線で醸す地熱が戻り何処かでお会いしませんでしたか

 という形で存在しているのだが、この「何処かで会ったかもしれない」という「過去」の感覚が「いま」に「戻る」という感じ。「過去」にもどるのではなく、「過去」が「いま」へよみがえるのを「戻る」と言い直す矛盾(?)した動き、「還流」のような動きが延々とつづき、何が書いてあるのかわからない。ただ一行の長さだけが「固定」されて世界を装っているというところに、不思議な「エネルギー」の不穏なものを感じるのである。それに引きつけられる。

*

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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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冬の枝

2016-02-14 00:57:53 | 
冬の枝

西脇が通りかかってまげたのか、その枝は雨のなかでねじくれている、という文章に落ち着くまでに、「暗くなった庭」と「暗くなった路地」ということばが消された。「冬の」ということばは、消され、もどされ、もう一度消されたが、まだ意識の底に残っている。

「太陽がかげると光の反射に拒絶されていた木々の姿がその窓に還って来る」という文章は長い間放置された。風が吹き、季節が動いた。緑は枯れて、裸になった。そのあとで「木々は窓ガラスをすり抜けて部屋のなかに侵入し、部屋のなかにとじこもって立ち並び、遠い空を見つめているように見える」ということばに反転した。

精神は、小さな棚に置かれた薬箱を見つける。瓶の底に胃腸薬の錠剤が数個残っていた、という日記を、「薬箱を開けると胃腸薬の匂いがした」と書き直すのは、匂いが鼻腔を通る瞬間を思い出したからだ。オブラートということばが、溶けかかった形でと顎のあいだに挟まった。
だめだ。このままでは、この部屋からことばは出ていけなくなる。

数日後。

西脇が通りかかってまげたのか、その枝は雨のなかでねじくれている、という文章は、「色をふかくした」の内部を破り、「古い剛さ」という線になった。「傷つく」かわりに、透きとおった冷気にひびをいれ、「破裂させた」という動詞と結合した。石垣ではさまれた坂のところに歩いていく男の、裾で冬の音が散らばるように。
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井戸川射子「川をすくう」

2016-02-13 09:58:34 | 詩(雑誌・同人誌)
井戸川射子「川をすくう」(「現代詩手帖」2016年02月号)

 井戸川射子「川をすくう」は投稿欄「新人作品」の入選作。文月悠光と朝吹亮二の二人とも入選にしている。その冒頭、

 学校、うん、教室にいるとぽつんと、一つの島に一人ずついる気持ちになる、それがきれいな島ならいいけれど。

 うーん。こういう感覚は持ったことがない。中学校や高校の教室だろうなあ。机と椅子。ひとりずつが離れている。あれが、「島」か……。自分ひとりが孤立しているのではなく、みんながそれぞれ孤立している。左右は、たしかに「通路」があって離れているかもしれないが、前後はたいていくっついていると思う。
 何が、井戸川を「分離」しているのだろう。「孤立」させているのだろう。
 その「島」という「比喩」のあとの「きれいな島」というときの「きれいな」が、不思議だ。「分離/孤立」よりも「きれい」かどうかを気にしている。
 「うん」という、「言い聞かせ」(自分を納得させている?)のことば、声のなかに、不思議な「他者」がいて、その「他者」が「分離/孤立」の感じを強めるのか。「分離/孤立」していながら、それでも「対話」があって、その対話を「きれい」にしたいと願っているのだろうか。
 このあと「学費」を集める「封筒」とか、未納者への手紙の渡し方とかが書かれていて、保健室の描写へとつづく。

保健室の水道、勢い、ぱっと出るお湯に手を入れて、温かさと体だけでこんなに気持ちいい。はい、と言うとカーテンが引かれる、黄緑で四角く仕切られていきなり僕の場所になる、囲まれて横たわる。ベッドでどんな顔をしてもあちらに見えない。

 保健室のベッドも「島」なのだろうか。「通路」の隔たりではなく、カーテンが仕切る。「あちらに見えない」という「隔絶/孤立」が「島」に通じるなあ。「島」は何か、井戸川がもとめている状態なのかもしれない。だから「きれいな島ならいいけれど」という表現が生まれたのだろう。願いが「きれいな」に反映されている。「きれいな」を「どんな顔をしてもあちらに見えない」と言い直しているのかもしれない。「知られない」ことの安心、美しさと言えばいいのかな? それは井戸川には「知られたくない」ということがあるからかもしれない。(これは、あとで触れる。)
 そういう「意味/ストーリー」とは別に、「保健室の水道、勢い、ぱっと出るお湯に手を入れて、温かさと体だけでこんなに気持ちいい。」が、何か、「意味」を超えて、「肉体」に迫ってくるものを持っている。勢いよく出るお湯。その温かさを気持ちいいと感じる。それも「感情」というよりも「体だけで」と書いている。この「肉体感覚」、感情排除した「肉体」のちいさな強調が、何か、せつない。「きれい」は「感情/感覚」に近いが、「温かさ」は「感情」と「肉体」を併せ持つ。その哀れ持つもののなかから「体だけ」と「肉体」を引き離しているところが、せつない。「肉体」が気がかりなのだ。(このとき、「お湯/水道」は「島」のまわりの「海/水」と呼びあうことで、教室と響きあっているかもしれない。)
 さらにことばはつづいている。

ベルトがじゃまで腰を浮かしながら外す、見えるのは学校の天井だけ、熱とふとんからは誰かのにおいがして僕は安心目を閉じる、無事起きられたらまた会える。

 「熱とふとんからは誰かの匂いがして」ということばに、「体だけ」と書いていた「体」が「主役」のように動きはじめる。「熱」はお湯と同じ「触覚/肌」で感じるものだろう。それが「におい/嗅覚/鼻」と結びついてというか、鼻にまでひろがっていく。
 「島」は「孤立/分離」している。保健室のベッドもカーテンで「孤立」している。その「孤立」のなかで、誰かが残していった「熱/におい」にふれている。つながっている。そして「安心」している。
 「孤立」しながら「孤立」していない。
 「孤立」と「接続」のあいだにいて、その関係を、どうにかして「ととのえたい」と思っているのだろう。

 このあと、場面は変わって、母の入院が語られる。

母の入院している病院は、大きいから川沿いから簡単に見えてくる。たどり着くまでの歩道橋はらせん、一回転半、深呼吸したのを覚えている。手すりは下が柵になっていて、そこに白いカスや綿毛が溜まる。軍手か何かはめて、指一本のすき間、す、と絡めとりたい。

 母が入院している病院は「島」かもしれない。入院している母から離れているから「僕」が「島」なのかもしれない。保健室に水道/お湯があったように、こでは「川」が「分離/隔離」を引き出している。「分離/隔離」されているけれど、「橋」をわたって「僕」は母に会いにゆく。
 「僕」が「知られたくない」のは、この母のことかもしれない。「母が病気」であること、というよりも、病気の母を「心配」していること、それを知られたくない。同情されたくない、という思春期の感覚がうごいしいるように感じられる。
 そういう「ストーリー」がひそんでいるように思う。
 保健室のベッドで、「僕」は「誰かの熱/におい」にふれて安心した。病院では母の熱/においにふれることで安心できるのだろう。母はまだ生きているという安心。
 歩道橋の螺旋階段で「深呼吸」するのは、「母の島」に渡る前に、自分自身の「体」を清める/新しくするという感じなのかもしれない。
 そういう「ストーリー」に差し挟まれた、

手すりは下が柵になっていて、そこに白いカスや綿毛が溜まる。軍手が何かはめて、指一本のすき間、す、と絡めとりたい。

 これが、何とも生々しい。「肉体」を激しく刺戟してくる。手摺りの下の汚れ。窓の桟を指で拭うとほこりがついてくる。それをぬぐい取るように、柵の下の汚れを絡めとる。指で直接ではなく、軍手をはめて。しかし、軍手をはめているのは手を汚さないためというよりは、よりきっぱりと汚れを取り払うためだろう。そのときの指の動き、指の腹が感じる感触。そこにはまた、家で見かけた母の仕草が重なるかもしれない。母の肉体の動きを思い出しているのかもしれない。

中指の太さがちょうど良く、軍手はきっと、あみ目に空気といろいろを取り込むだろう。

 何か、そんなふうにして母の「肉体」から「病気」をぬぐい去り、母の肉体に新しい空気(新鮮な空気)を深呼吸させてやりたい。そう感じているのかもしれない。
 「熱/におい/深呼吸」が「空気」ということばで言い直されるとき、そこに「肺」を感じる。触覚から嗅覚へ、それがさらに内部の肺へという動きを感じる。母の病気は「肺」に関係しているかも、という書かれていない「ストーリー」まで感じてしまう。
 このあと、病院の売店で遊ぶ子どもを見ながら「僕も守られるべきだったことを思い出す」とか、「お腹、肌、頭と吐く息、いつか失くすけれどなぜか今持っていて、僕のもの」ということばがつづく。そこには、母と「僕」との関係、いのちのつながりと「肉体」の関係が、絡み合うように書かれている。
 最後の部分、

今日の母と、ベッドを思い出す。ゴミ箱には一緒に食べたアイスの箱が入って、あの小さな窓から外を見て眠る。消えていくものは終わりが見える、こんなにはっきり、と思って平気な人たちを追い抜かす。

 「僕」には「平気な人たち」の見えないものが見える。たとえば「教室の島」とか。「うん」と言い聞かせる対話とか。
 ことばにはできない、ことばにする前に感じてしまう「肉体」が、少しずつ見える。その感じが、なまなましい。読点「、」のつかい方も独特で、その「呼吸」に焦点をあてて読み直すと、もう少し違った感想になるかもしれない。


現代詩手帖 2016年 02 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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滝口悠生「死んでいない者」

2016-02-12 09:04:59 | その他(音楽、小説etc)
滝口悠生「死んでいない者」(「文藝春秋」2016年03月号)

 滝口悠生「死んでいない者」も第 154回芥川賞受賞作。
 この小説は「文体」に凝っている。そして、凝っているだけではなく、ルール違反の文体である。だから、とても読みにくい。
 どこがルール違反か。 438ページ(文藝春秋)。

 たとえば故人は、あそこで重なった寿司桶の数を数えている吉美の父であり、その横で携帯電話を耳に当て、おそらくまだ実家にいる弟の保雄に数珠を持ってきてくれるように頼んでいる多恵の父でもある。もちろんその電話を受けている保雄や、彼らの兄にあたる喪主春寿の父でもある。故人には五人子がいた。

 えっ、五人? 私は読み間違えたのかと思い三度読み返した。家系図(?)までつくってみた。吉美、保雄、多恵、春寿。四人だ。吉美は何番目のこどもかわからないが、他の三人は上から春寿-多恵-保雄である。
 私は、冒頭にもどって、この文章までを二回読み直したが、春寿以外に固有名詞をもった人間は登場していない。
 どうしたって、子は四人である。
 それが 444ページ、故人に十人の孫がいると説明されたあとの文章、

 森夜と海朝は故人の末子の一日出の子だが、その名を目にし、いったいなんと読むのだったか親戚たちは何度聞いても覚えられない。
 
 突然「五人目」の子が登場する。
 ばかばかしくなった。
 「故人には五人子がいた」という文章を読んでいなければ、まだ許せる。「五人」と書いたときに四人しか紹介せずに何ページもたってから五人目を明らかにする。これは、読者をばかにしている。「故人には五人子がいた」を「伏線」と思えばいいのかもしれないが、こんな「目くらまし」みたいな手法で「文体」を飾ってみても「文学」にはならないだろう。
 最初に引用した文でも、「故人は……の父であり、……父でもある。……父でもある」と「父である」が何度も繰り返されたあと、「故人には五人子がいた」と書くのは、あまりにも「ことばの経済学」に反している。「父である」という繰り返しだけではなく、「故人」と「父」を言い直すという「無駄」もしている。
 その繰り返しのあいだに「寿司桶の数を数える」という動作と、「携帯電話をかける」「電話をうける」という動きがあり、その電話のなかに「数珠を持ってきてくれ」という依頼が侵入している。
 むやみに複雑にしている。
 映画に「群像劇」という手法がある。登場人物が大勢いて、それぞれが「過去」を抱えて「いま」を生きている。その「過去」が「いま」にさまざまな輝きを与え、特にストーリーといったものはないのだが、そこに「人生の縮図」が浮かび上がる、という作品。この小説も、そういうものを狙っているということは、わかる。「通夜」をとうして「群像劇」を描こうとしていることはわかるが、こんな「面倒くさい」文体では、「情報量が多い」というよりも「情報が整理されていない」という印象しか引き起こさない。
 人間を描かず、人間の周辺に「情報」をばらまくことで、ことばを間延びさせてるだけである。
 で、この「群像劇」をとおして、では滝口は何が書きたかったのか。ひとはたくさんいても、そのこころの動きは動きは似ている。人間は生まれて、生きて、死んでいくだけだから、こころだっていろいろ違うようでも似ていて、それを重ねることで「人生」そのものが見えるということだろう。
 そのために「親族」には入りきれない(?)ダニエルという外国人の夫、はっちゃんという故人の友達も「薬味」のようにしてつかわれ、それが「重なる人生/重なるこころの動き」を証明するのにつかわれているのだが、これが、何と言えばいいのか、あからさますぎる。
 はっちゃんが故人と敦賀に小旅行にいったときの思い出、というより、その思い出にまつわる思い出。( 490- 491ページ)

 敦賀に行ったのは、かの地に越した同級生の車田晴治が四十をすぎて所帯を持ち、子どもが生まれたその祝いに出向いたのだが、はっちゃんはまだそのことを思い出せない。車田は何年か前に死んだ。遠方ゆえ葬儀には行けず、弔電で済ませた。十は年下だったはずの美しい細君が今どうしているかは知らない。はっちゃんは今そのことを思い出さなければ、もう思い出さないかもしれない。だからといってもう誰も困りはしないだろうが。それに結局松原の浜まで歩いていって何がしたかったのかは今なお思い出せないままだ。
                             
 故人の孫にあたる知花が思い出す小学校の時の担任の思い出。( 492ページ)

いったいこのどうでもよいけれども無視はできない岩島先生のエピソードを、いつ誰に伝えればいいのか。別にそんなに誰かに伝えたいわけではないのだけれど、そのどうでもよさゆえにいつか誰かに伝えなければ、これもまた自分の記憶の彼方に忘れ去られて二度と掘り返せなくなるかもしれないと、思う端から岩島先生はどうでもよさに浸食されていく。自分もまた誰かのどうでもよい記憶としてどこかに存在していて、やがて忘れ去られるものと思われる。

 このページをあまり隔てずに繰り返される「どうでもよい思い出」「思い出さないと思い出でさえなくなるもの」「誰からも忘れ去られるもの」が「人間の一生」であることを、通夜に立ち合ったひとが、それぞれの思いで確かめるのだが、そのときのこころの動き(ことばの動き)があまりにも酷似しているので、これでは「群像劇」にならない。登場人物はけっきょく「ひとり」なのではないか、と思ってしまう。「ひとり(滝口)」の考えたことを複数の人間に分担して語らせているだけという気がしてくる。
 こんな面倒くさいことをせずに、「ひとり」だけを話者にして、もっと「語り」を充実させる方が深みが出るだろう。
 本谷有希子は「他人」をしっかりと描いた。「他人の声」を聞き取り、それを「他人の肉体」として書いたが、滝口は「他人」を描けていない。名前を入れ替えても、読者は奇妙に思わないだろう。

死んでいない者
滝口 悠生
文藝春秋
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本谷有希子「異類婚姻譚」

2016-02-11 09:53:23 | その他(音楽、小説etc)
本谷有希子「異類婚姻譚」(「文藝春秋」2016年03月号)

 本谷有希子「異類婚姻譚」は第 154回芥川賞受賞作。
 本谷有希子。どこかで読んだことのある名前だと思ったら、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の作者だった。芝居は見たことがないが、映画を見た。何の予備知識もなく見た映画だが、山が映った瞬間、その緑の色を見た瞬間、この緑は見たことがあると思ったら、舞台が石川県だった。北陸の緑である。どうりで見たことがあると感じたはずだ。私は北陸で生まれ育った。「肉体」にしみついている「色」というのは、抜けないものなのか、と思った。
 こういうことは、今回読んだ小説とは関係ないかもしれない。あるかもしれない。

 ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。
 誰に言われたのでもない。偶然、パソコンに溜まった写真を整理していて、ふと、そう思ったのである。まだ結婚していなかった五年前と、ここ最近の写真を見比べて、なんとなくそう感じただけで、どこがどういうふうにと説明できるほどでもない。が、見れば見るほど旦那が私に、私が旦那に近付いているようで、なんだか薄気味悪かった。

 これは書き出しの二段落だが、とも読みやすい。リズムが、とても読みやすい。どこかに「北陸」のリズムがあるのかもしれない。こういうことは、映画の山の緑を見て、この緑は見たことがあるぞと感じるのに似ていて、他人に説明しても、絶対に通じないことかもしれない。
 いや、読みやすいのは本谷の文体がこなれているからであって、本谷が「北陸」育ちとは関係がない、というのが正しいのだと思うけれど。むしろ、本谷が「戯曲」から出発したということの影響の方が大きいかもしれないけれど。
 「戯曲」は口語。その口語のリズムが小説にも反映していて、「頭」を刺戟する(考えさせる)というよりも、聞いた瞬間(耳に入ってきた瞬間)にイメージが浮かぶ(肉体の存在が感じられる)ということかもしれない。読み返さなくても、書かれていることが、わかる。それも「音」として「肉体」に入ってくる。
 声に出して呼んでみるとわかる。一度もつまずかずに、そのまま「朗読」できる。これ、なんて読む?とつまずく「漢字」が出て来ないし、「読点」の位置が、そのまま呼吸をととのえる。「肉体」に負担がかからない。(これは、「戯曲」であった場合、ほんとうに長所であるかどうかはわからないが……。つまり、不自然な「口語」にも独特のリズムがあって、それが芝居を活気づかせるということもあるかもしれない、という意味なのだが。)その結果(?)、この小説は、驚くほど早く読み通すことができる。私は目が悪くて、読むのに非常に時間がかかるのだが、この小説は一時間かけずに読んだ。
 この読みやすさに、私は驚いてしまった。
 しかし、この読みやすさを「北陸」育ちの共通性だけで言ってしまっては、本谷に申し訳ない。「戯曲」を書きつづけた「経験」、「戯曲」との関連でとらえた方がいいだろう。そういう部分をいくつか取り上げると……。
 旦那と顔が似てきたということを、弟のセンタに相談(?)する部分に、その特徴がとてもよくでている。二人の顔が似てきたのは「いつも二人でいるうちに、表情がお互いに似てきたとか。」と弟が指摘する。それに対して、では弟と彼女は?と主人公が問う。旦那と主人公の結婚は、弟と彼女の同棲期間よりも短い。弟と彼女の方が顔が似ていてもいいのではないか?

「同棲と結婚はやっぱり違うんじゃない?」
「違うって、何が?」
「なんやろう。密度とか?」

 このやりとりの「密度」ということばが「戯曲」作者(劇作家)ならではである。
 「芝居」というのは役者がでてきて、ことばをしゃべる。「小説」と違って、基本的に登場人物の「過去」を事前に説明することはない。登場した瞬間(いま)から「未来」へ向かって動くだけである。「過去」は、役者が自分の「肉体」で語るしかない。この「過去」を含んだ「肉体」の感じを「存在感」というのだが、語られることば(台詞)にリアリティーを与えるのは、役者の肉体である。声である。
 「密度」という抽象的なことばは、それだけでは「意味」を持たない。人間がそこにいて、その人間が見えるときに、あ、そういえばこの人はこういうことばのつかい方をするとわかっているときにのみ、「意味」がはっきりする。
 主人公(姉)と弟には、「共有」される「過去」がある。姉は弟のことをわかっている。弟も姉のことをわかっている。だから「密度」というような抽象的なことばが、そのまま二人の間で行き来する。
 「密度」ということばは、この場面では「抽象」ではなく、弟の「肉体」そのものとして浮かび上がっている。弟が、まさに、そこに動いている。その動きを姉(主人公)が実感していることをあらわしている。ここが、戯曲的。芝居的。
 そのあと、

 センタと写真の入ったフォルダを、カメラのイラストのある場所までドラッグするように指示した。
「これ、私苦手。すぐびよーんってなって、元の場所にもどっちゃうのよね。」
 案の定、二度ほどびよーんに苦戦したものの、どうにか写真をバックアップすることができた。

 この「びよーん」という表現も同じ。「びよーん」は主人公と弟のあいだで繰り返されたことばだろう。(また、パソコンをつかっているいる読者なら、この「びよーん」の意味するところは、「意味」ではなく肉体が立ち合っている現実、肉体感覚といっしょにつかみとれるだろう。役者の「肉体感覚」と観客の「肉体感覚」を重ねて動かすという芝居の特徴が、ここに反映されている。)直前の「ドラッグ」は「ずるずる」と言い直すことができるかもしれないが、会話(口語)ではないので「ドラッグ」のまま書かれる。しかし、口語(?)で「びよーん」と書かれてしまうと、次の描写では「びよーん」がそのままつかわれる。
 芝居でいう「役者の肉体/過去」が、そのまま物語に侵入し、ストーリーを「肉体」として動かしていく部分である。
 この「役者の肉体/登場人物の肉体」を活用しながら、ストーリーそのものにしていくという「手法」が、この小説を生き生きとさせている。ことばを読んでいるにもかかわらず、「抽象的な論理/思考」を追いかけているというよりも、生身の人間を「見ている」感じにさせる。
 「会話」というか、登場人物の「声」のつかい方がとてもうまいのだ。「声」をそのまま「肉体」にさせてしまうのだ。
 私がこの小説でいちばん感心したのは、主要人物ではない「おばさん」が出てくる部分。旦那が、ある家の前で痰を吐く。それを見咎めて、おばさんが、「あんたたち、どこに住んでるの?」「住所を教えなさい」「警察呼ぶから。」とか怒り出す。主人公はあわててハンカチを取り出し、旦那の吐いた痰をぬぐい取るのだが、それを見たおばさんが、

「よくやるね。」
 吐き捨てるような声だった。
 えっ。
「あんたの痰でもないのに。」

 うーん。「住所を教えなさい」「警察を呼ぶ」は「頭」で考え出せる状況かもしれないが、「よくやるね。」「あんたの痰でもないのに。」は、ほんとうに「おばさん」がそこに存在しないと出て来ないことばではないだろうか。本谷が「おばさん」になってしまわないと言えないことばではないだろうか。そして、その「なる」というのは、一瞬だけ「おばさん」になるのではなく、生まれて、結婚して、いまの「おばさん」という「過去」をもった人間である。独立した完全な個人。「他人」だ。
 ほかの登場人物はストーリーの展開にしたがって何度か出てくるが、この「おばさん」は一回きり、偶然、そこに登場する。しかし、偶然登場する人間であるけれど、そういう人間にも「過去」がある。その「過去」が「いま」、「よくやるね」ということばといっしょに噴出してきて、それがストーリーを動かしていく。ほかの登場人物を動かしていく。
 ここは、すごい。
 本谷は「他人の声」聞き、それを批判せずにそのままうけいれて「他人のことば」にすることができる。「他人の声」が本谷をつかんで放さないのかもしれない。まるでシェークスピアだ。
 この 389ページ(文藝春秋)から 392ページにかけての部分、特に 391ページの「よくやるね。」を中心とした数行を読むだけでも、この小説を読んだ価値がある。読む価値がある。本谷の力量に圧倒される。

 ラストは私はおもしろいとは思わなかった。キャンピングカーや猫、「山」が最後の部分の「伏線」になっている。でも、小説のおもしろさはストーリーの展開のスムーズさ(伏線の巧みさ)にあるのではなく、そこに出てくる「人間」のおもしろさにある。
 いちばんおもしろいのは、やっぱり「おばさん」だ。
 この「おばさん」だけは、この小説のメインストーリーの、互いの顔が似てくるということから逸脱している。誰にも似ない。完全な「個人/他人」をそのまま生きている。こういう人間を造形できるのはすばらしい才能だ。
異類婚姻譚
本谷有希子
講談社

*

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北爪満喜『MAEBASHI 36.5°Cあたり』

2016-02-10 09:47:03 | 詩集
北爪満喜『MAEBASHI 36.5°Cあたり』(私家版、2015年12月発行)

 北爪満喜『MAEBASHI 36.5°Cあたり』は写真と詩を組み合わせた詩集。詩についての感想だけを書く。
 「かすかな発光」という作品が印象的だ。

詩のなかに 育った町の方言が書かれていた

言葉は目で読まれ
どこか体内よりも深いところで発音されて
聞こえない声になってゆく

 二連目。「目で読まれ」はふつうのこと。それが少しずつ変化してゆく。「目で読まれ」「発音されて」「声になっていく」という「動詞」を中心にみていくと、あたりまえのことなのだが……。

体内よりも深いところ

 これは、どこ? 「体内」というと「内臓/器官」というものを思い浮かべる。「物体/物質」というものを思う。それよりも「深い」ところ。このことばの背景にはたぶん「肉体と精神(感情)」という「二元論」があるのだと思う。「肉体」は「外部(目に見える)」ものとしてあり、「精神」は「内部(目に見えないもの)」としてある。「体内よりも深いところ」とは、その「目に見えない精神」のようなものをさしているのだと思う。「精神」には「感情/記憶/感覚」というようなものも含まれるかもしれない。あるひとは「こころ」と呼び、別のひとは「魂」と呼ぶかもしれない。
 その「精神/こころの動き」は、「肉体の動き」のようには見えない。「物理的」ではない。だから、そこで「発音されて」も、それは「物理的」には「聞こえない」。「聞こえない声」とは「精神/こころが発音した声」、あるいは逆に「精神/こころが聞いた声」かもしれない。
 どっちか。
 北爪は後者を選んでいる。

それは私の声ではなく
聞き覚えのある声だった
それは父の声だった

 この「主語」の変化が、微妙で、とても美しい。
 「それは私の声ではなく」には「精神/こころ」を補って「それは私の精神の声ではなく」と言うのは簡単である。ひとはだれでも思っていることを声にしないことがある。自分の「体内」に声を押しとどめることがあるからである。
 ところが、「父の声」について「精神/こころ」を補うと、ちょっと奇妙になる。もちろんひとは、他人が「こころのなかで言うことば/声」を聞き取ることがある。聞こえないのだけれど、顔の変化、肉体の動きの変化から、あ、いま、このひとはこんなことを思っていると感じることがある。それはそのひとの「精神/こころの声」である。
 しかし、ここで書かれている「父の声」は、そういう「聞こえない声」ではない。

聞き覚えのある声だった

 しっかりと「耳」で聞いた声なのである。そして、それを「耳」はおぼえている。「耳」だけではなく、北爪の「肉体」の全体がおぼえている。「精神/こころ」がおぼえていると言ってもいいのかもしれないが、そう言い換えるのはきっとむりがある。おぼえているのは「抽象的」なもの、たとえば「内容/意味」というような、要約できるものではないからだ。「肉声」を「肉体」がおぼえていて、「肉体」がそのことに対して反応しているのだ。
 北爪は次のように言い直している。

忘れていた方言から
聞こえない声を発して
よみがえる父の感触

 「聞き覚えのある声/聞いたことのある声/肉声」は「聞こえない声/抽象的な声/読んだことば」という最初の現実をもう一度くぐり、その瞬間「声」は「感触」に変わっている。思い出しているのは「ことば/声」という手触りのないものではなく、もっと全体的なもの、「感触」としか言えない肉体の存在である。北爪は父に触れている。存在に触れている。「声」を聞くとき、「肉体」は離れている。触れているときもあるが、離れていても声は聞こえる。しかし「感触」は実際に触らないとつかめない。
 いま北爪が感じているのは、その「感触」。

 「目で読む」から、口(ととりあえず書いておく)で「発音される/発音する」、耳で「聞く/聞こえる」。そういうことが「いま」の体験ではなく「聞き覚え」、つまり「おぼえている」ということを通って、「感触」に変化していく。
 「肉体」全体が動く。「感触」はたぶん、目とか口とか耳という具合には「限定」できない。手で触れた感触だけではない。「肉体」全体が触れ合い、ぶつかり、さらに反発し、またひっぱられるというような幅の広い動きのなかで、「全体」としてつかみとるもの、感じるものだ。
 で、その父というのは、

死の闇に飲まれて十年がすぎても
陽差しのように あの庭で 背筋をのばして歩いている父の
ふとした話し声が 光り けぶる

 もう父はいない。いないけれど、思い出すのだ。思い出すとき、父は「よみがえる」。そのとき、父は「声」ではないし、「感触」でもない。「背筋をのばして歩いている」という、より具体的な存在である。つまり、「生きている」。
 「生きている」は、もちろん、「間違い」である。錯覚である。だから詩は、

かすかな
初背よりもかすかな 反射かもしれない


かき消されたのは 厚い時の壁だった

 という具合に閉じられるのだが、この「事実」よりも、錯覚のなかに動いている「真実」、「陽差しのように あの庭で 背筋をのばして歩いている」という父の動きが感動的だ。
 錯覚のなかで北爪は父になり、あの庭を、光のようにまっすぐに背筋をのばして歩いている。
 「読む」という動詞から少しずつ変化して、北爪が北爪ではなくなる。父になる。そして、父になることが北爪になることでもある。その変化がとてもスムーズで、明確なのに、それを「かすかな」ということばでしか表現するしかないところに、深い悲しみもある。
 何度も読み返してしまった。


飛手の空、透ける街
北爪 満喜
思潮社
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暁方ミセイ「不知覚採取」

2016-02-09 11:56:36 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「不知覚採取」(「現代詩手帖」2016年02月号)

 暁方ミセイを読むと、なんとなく宮沢賢治を思い出す。「不知覚採取」の二連目、

(炎をいくらか知っている
器官にて経験したことがらは
わたしのなかで
ひとつのものとして差し出され
わたしはこれらの感覚や感情のつくりだす映像を
愚かにぼんやり見ているだけだ)

 一方に「炎」という「対象」があり、もう一方に「器官/感覚/感情」という「自己」がある。それが出合い、「対象」そのものではなく「映像(イメージ)」を「つくりだす」。これを、「運動/動詞」として認識している。その「運動/動き」に対する認識の「仕方」が宮沢賢治みたいなのである。
 と、書いても「抽象的」すぎて何も言ったことにならないなあ。私は宮沢賢治の熱心な読者ではないから、書いていることもテキトウなのだが。で、テキトウ、いいかげんを承知で「認識の仕方」について私の「感覚の意見」を書いておくと……。

器官にて経験したことがらは

 この「ことがら」という「響き」、「対象のとらえ方」が宮沢賢治の「認識の仕方」に通い合うように思える。「ことがら」というのは「こと(事)+から(柄)」。「こと」というのと「ことがら」というのは、どう違うか。「意味」はたぶん同じだと思う。この一行が、

器官にて経験したことは

 であっても、「意味」は通じるし、「論理」としても何らかわるところはないと思う。でも、何かが違う。何が違うのか。
 「こと」だけでは抽象的。「ことがら」も抽象的なのだけれど、「から(柄)」がつくと、そこに「模様(柄)」が見え、なんとなく「視覚」を刺戟する。「こと」では何が動いているだけだが、「ことがら」では、その動いている「主語」のようなものが、あるいは補語のようなものが浮き上がってくる。「名詞性」が強くなる。「存在性」と言ってもいいかなあ。
 「こと」というのは「流動的」。でも「ことがら」となると、その「流動」に「もの」がはっきり加わり、まるで激流を大きな石がごつごつと流れていく感じがする。「ことがら」の「がら」という「音」がそれを感じさせる。
 こういうことは、あくまで「感覚の意見」であって、「論理/意味」にはならないのだが、考える出発点、ことばを動かすときの、私の出発点である。何か、ごつごつしている。ごつごつしているけれど、激しく流動している。この「ごつごつ」と「流動」という矛盾(?)したものが、激しい「透明性」を呼び覚ます。そのときの強烈な印象が宮沢賢治に似ている。そこから「感想」を書きはじめることができるかもしれない。でも、むずかしい。

 最初の印象から書き直す。

 私は「不知覚採取」を読んだとき、まず、先に引用した二連目がおもしろいと感じた。そして、もう一度詩を最初から読み直した。そのとき、あ、この二連目は一連目の言い直しなのか、と気づいた。一連目を忘れさせるくらい二連目の「ごつごつした流動」が印象的だったのだ。
 その一連目。

炎 と呼び出し
ただちに発生するもの
闇、
黒い熱、
芯でぺらぺらと動く空気の形、
それから松の大枝の
弾ける空洞、
燃え落ちる火の粉、
失望のときにあげる短い声に
まだ強烈な懇願が混じっている
一瞬は
あのように外気に散らばりながら吸収されて
経過とともに固有のものではなくなる

 「炎」ということばから「知っていること(器官/肉体/視覚/聴覚/触覚が経験した事柄)」を呼び出す。思い起こす。想起する。その「経験」は器官/肉体が複合したさまざまなものから成り立ってい。それはさまざまであるけれど「ひとつのもの」として想起される。「ひとつ」でありうるのは、それが炎という「もの」ではなく、炎という「運動」だからである。「燃える」という「運動」を、「名詞」として対象化すると「炎(火)」であり、その「名詞」をいくつかの「主語」に分節しながら「燃える」という「動詞」で統合することで、「映像」にしている。
 「一瞬は」は「炎(の運動)は」と読み直すと、わかりやすくなる。
 つまり二連目は、一連目を、そんなふうに「自己解説(自己注釈)」しているのである。

 このことをもう一度言い直してみるのもおもしろいけれど、省略。
 抽象的にならずに、つまり「考えたことを書く」のではなく、最初に「感じたこと」にもどって一連目の感想を書き直してみる。
 何に驚いたか。
 「炎」というと「燃える」「火の粉」などを思い浮かべる。輝くもの、明るいものを思い浮かべる。しかし暁方は、そういうものを思い浮かべない。

闇、
黒い熱

 「輝き」や「明るい」とは反対のものからことばを動かしはじめる。こういう、「反」からことばを動かしはじめるのは、「現代詩」のひとつの「定型」だという見方もあるかもしれないが、はっと驚かされる。
 そして、それ以上に興味深いのが、二行目、

ただちに発生するもの

 この一行。「発生する」という「動詞」がとてもおもしろい。
 「炎」ということばで「呼び出す」。そのとき「主語」は「わたし(暁方)」。だが「発生する」の「主語」は「わたし」ではない。「主語」が突然変わる。それも「ひとつ」ではなく「複数の主語」が「発生する」。この「発生する」は「自動詞」であり、「自分で動いていく」。
 「炎」の周辺の、「闇」から「黒い熱」へ、「熱」その「芯」へ、つまり周辺から中心へと動いたあと、今度は中心から周辺へと逆な動きをし、「弾け」「燃え落ちる」。そのたびに「主語」は変わり、「燃える」という「動詞」が複数の「主語」を「炎」へと昇華させる。それはすべて「自動詞」。「わたし(暁方)」の「意志」とは関係がない。「炎」を「統一」するのは、あくまで「炎」の「動詞」。
 なのだが。
 そのとき「呼び出される」のは、「わたし」とは別の「もの/対象」だけではない。その「対象」と具体的に出合った「器官/感覚/感情」というものも、「呼び出される」。そういう「ことがら」を「呼び出し」てしまう。
 何かが燃えつきて落ちる。「わたし(暁方)」の「肉体」のなかで。「失望」「声」「懇願」。そういう「体験」を「呼び出し」てしまうとき、「わたし」は「わたし」ではなく「炎」になる。
 「対象」をみつめ、「対象」を理解するとき(完全に把握するとき)、「わたし」は「対象」そのものになり、「対象」を生きている。「いのち」の統合(統一)が、ある。
 あ、これが、詩だね、と思う。
 「対象」と「自己」、別個なものが出合い、動き、その動きのなかで「いのち」として「統合/統一」してしまう瞬間。矛盾した(相反する)動きは、「対象/自己」という区別、「固有」のものを捨ててることで「統合/統一」され、別なものとして「生まれる/発生する」。
 一連目の最後の二行は、そう語っている。

あのように外気に散らばりながら吸収されて
経過とともに固有のものではなくなる

 「散ら張る」と「吸収される(統一される)」、「固有のものではなくなる」を二連目で「愚かにもぼんやり見ているだけだ」と言い直すのは、それが「わたし(暁方)」の「意志」で動かせるものではないからだ。「わたし(暁方)」の意志とは関係なく、「わたし(暁方)」の「体験」から「発生してきたもの」の「自動詞」としての動きだからである。
 詩は書き手よりも先に動いていく。詩人は、それを追認する。追認し、それことばにするひとを詩人という。

ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社
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リドリー・スコット監督「オデッセイ」(★★★★)

2016-02-08 10:25:51 | 映画
監督 リドリー・スコット 出演 マット・デイモン、ジェシカ・チャステイン

 SFというか、宇宙ものにはふたつのパターンがある。ほんとうに宇宙を舞台にしてひとが動き回るもの。たとえば「スター・ウォーズ」。もうひとつは、隔絶した密室を描くもの。「2001年宇宙の旅」「惑星ソラリス」。「オデッセイ」は後者である。ただし主な舞台は「宇宙船」のなかではなく、「宇宙基地」というのが、とてもおもしろい。
 「宇宙基地」がなぜおもしろいかというと、「大地」があるだけに、観客の日常と近い。遠い世界という感じがしない。そこでは誰もが知っていることが繰り広げられるからである。(「惑星ソラリス」は「宇宙船」のなかを日常にして描いていて、とてもおもしろい。日常の妄念、欲望を描いた傑作だ。)
 舞台は火星。地球ではないのだが、おこなわれていることは地球と同じ。食べ物に限りがあるので、食べることができるものをつくらなくてはならない。畑をつくり、じゃがいもを植え、収穫し食べる。土には「肥やし」がいる。そこで、人糞をつかう。有機野菜だ。なんでも工夫してくつりだすことができる科学者なので「化学肥料」もつくれるはずであるが、化学肥料ではなく人糞をつかうところが、とてもおもしろい。これなら科学者ではなくて、ふつうの人間でもできそう……そう思わせるところから、この映画のサバイバルが始まる。
 じゃがいもを育てるのに水も必要。その水は水素と酸素を結合させてつくることができる。これも中学生が習う科学。だれもが知っている。何気ないが、だれもが知っていることをつみかさねて、そこから少しずつ、高級な(?)科学、数学、物理へと話を展開していく。
 この手順がとてもていねい。
 地球との通信をこころみるところが、さっと描かれるが、ここにも同じ工夫がしてある。まず、「YES」「NO」を手書きで、つまり「アナログ」で送信する。初期のテレビだ。つぎにアルファベットを効率的に送信/受信する方法を「16進法」をつかって考え出す。「16進法」なんて、私にはわからないが、それが円周上に並べられたアルファベットと「暗号表」の組み合わせで次々に文字に変換されるのを見ていると、うーん、そうか、と思ってしまう。
 自分だけではできないことを、そうやって他者(NASA)から受信し、教わり、パソコン通信まで進化させていく。この過程は、かなり省略されているが、そういう専門的なことは観客(私)は見ていてもわからないから、省略されている。ただ、こうやって、通信手段を工夫し、通信を進化させていったということだけは、はっきりわかる。人糞で野菜を育てるのと同じで、誰でもがわかることだけをていねいに描いて、あとは省略してしまうという手法なのだが、最初がていねいなので、すっと納得してしまう。
 これは、すごいなあ。
 クライマックス直前の、宇宙船を地球の引力をつかって加速させ、マット・デイモンを救出に向かうという手法。これも、「新しい」ようで、そうではない。これに似たことを誰もが知っている。少なくとも「宇宙」に少し関心があるひとなら知っている。アポロ13号が故障したとき、アポロ13号は月の引力を利用して、月の裏側を回ることで地球へ帰還する軌道に乗った。あれの応用である。ほんとうは複雑な計算があるのだが、それは省略。宇宙船の軌道を画面に表示して見せた瞬間に、あ、アポロ13号とだれでも思い出す。
 さらに、ほんとうのクライマックス。
 火星から脱出した衛星と宇宙船が離れすぎている。どうやってドッキングする? 結局、マット・デイモンが宇宙服に穴をあけて、その噴出する空気の力をエンジン(?)にして宇宙船に近づいていくのだけれど。そのときの「説明」。「アイアンマンみたいに」。あ、それって「娯楽映画」じゃないか。だれものか知っている方法じゃないか。
 その最後。無事、船長にキャッチされたマット・デイモンのまわりに、オレンジのロープ(救命綱)が、たぐりよせたときにできる何重もの「輪」のまま広がっている。これはそのままマット・デイモン救出へのさまざまな協力の輪の象徴とも言えるのだけれど、そんなめんどうくさい意味を吹っ飛ばして、ただ美しい。無重力の美しさ。そうか、無重力では、ひもはからみあわないのか……。

 この映画は、もうひとつ見どころがある。マット・デイモンだ。私の感じでは、マット・デイモンはどこか「どんくさい」。華がない。逆に言うと「地味」。そして、それがこの映画ではとても効果的だ。ジョージ・クルーニーが主役だったら、じゃがいもを育てるのに人糞はつかわないだろう。化学肥料をつくりだすだろう。ブラッド・ピットだったら「笑い話」になってしまうだろう。マット・デイモンには人糞が似合う、ひとの「体温」が似合う。そういう「あたたかさ」がある。問題をひとつひとつ解決していく、という積み重ねが似合う。
 エキサイティングなストーリーなのだけれど、地味。そして、その地味を具現化している。アカデミー賞の「主演男優賞」の候補に上がっているようだ。この映画で受賞すると、おもしろいと思う。
                        (天神東宝3、2016年02月07日)





「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ブレードランナー ファイナル・カット 製作25周年記念エディション [Blu-ray]
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ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
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ピアニッシモ

2016-02-08 00:00:00 | 
ピアニッシモ

 私は遅れてその部屋に入っていったのだが、「ピアニッシモ」というのは、すぐに「比喩」だとわかった。わざと抑えた欲望という意味と、知れ渡った秘密の共有という意味に分かれて、それがそのままそこにいるひとを区別した。白い皿と、中央に置かれた果物のいくつかの色を跳び越えるように、ことばが行き交ったが、語られるのは思ってることではなく、それぞれが知っていることであった。したがって、ひとを区分けしているのはことばの内容というよりも、ことばといっしょに動く意味深な目配せや、唇の端に浮かぶゆがみであり、それを不注意に「感情」と誰かが言い換えてしまったために、突然、沈黙が広がってしまった。
 「いまのお考えについて、どう思われます?」
 決して他人と同じ意見を言わないひとが、私に問いかけてきた。私は、質問とは無関係に、私の順番がきたら言おうと思っていたことばを、何度も何度も頭の中で繰り返していたのだが、言わなければならない瞬間にのどがこわばり、声がかすれてしまった。「あのピアニッシモのタッチには、独特の感情というよりは、数年前に流行したスタイルの影響が感じられますね。何かの衝動に負けて動いてしまうというよりも、そういう雰囲気をだそうとしている。私はむしろ、それを意思と呼んでみたい気がします。」



*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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新井啓子「一分間くらい」

2016-02-07 13:56:26 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「一分間くらい」(「かねこと」9、2015年01月15日発行)

 新井啓子「一分間くらい」は、感想が書きにくい。

母は一分間くらい呼気が止まる
いよいよの時は施設で看取る
病院へ運んでも人工呼吸器でつながれるだけだから
そこまではしない
たとえば肺炎になって
回復の見込みがあれば搬送するけれど

 一行目は事実。二行目からは新井が考えていること。その考えていること、その「ことば」が奇妙に落ち着いている。いま、突然、書いたことばではなく、何度も何度もことばにしてきて、その結果(?)、無駄な動きがなくなって、「自然体」になっている、という静かな落ち着きがある。ひとりで考えたことばというよりも、家族で「こうしよう」と語り合って、そういうところに落ち着いたのだろう。
 特に、

病院へ運んでも人工呼吸器でつながれるだけだから
そこまではしない

 この二行に、「家族」のやりとり、「共有されたことば」というものを感じる。「そこまで」の「そこ」に、強く感じる。
 「そこ」って何?
 前の行との関係でいえば、「施設」へは運んでも、「病院」へは運ばない。なぜなら病院では「人工呼吸装置につながれるだけだから」ということになるけれど、そんなふうに「意味」だけを要約してしまっては、何かが違ってくる。
 そういう「意味」にたどりつくまでに、きっといろいろな話があったのだろう。
 「最後は病院へつれていかなければ」「病院で、どうなるの? 人工呼吸器でつながれるだけじゃない?」「人工呼吸器でむりやり延命するのは、生きている方もつらいかもしれない」「人工呼吸器をつけて、延命するということまではしなくてもいいんじゃない?」「でも、病院へはつれていかないと」「病院へいくのは、回復の見込みがあるときだけでいいと思う」
 そういう「やりとり」の中心は、「人工呼吸器」をつける、「延命装置」で機械の力で延命する、ということだろう。そういう「無理」はしない。そういう「共有された認識」があって、「そこまで」は言っている。
 「意味」は病院へ運ばない、だが、きっと運ぶ。そして「人工呼吸器」もきっと、つける。つけるけれど、そのとき、こういうやりとりをしたことを思い出しながら、また、あれこれ考え直す。そういうことはわかっているが、わかっているからこそ、いま、こうやって「ことば」をととのえ、「暮らし」をととのえている。「未来」をととのえている。
 その「ととのえ方」は、何度も何度も繰り返されたことなのだと思う。繰り返しながら、少しずつ修正(?)し、少しずつ納得する。納得しながらも、反論もする。「そこまではしない」と言ってすぐ、「けれど」肺炎の場合、回復の見込みがある場合は……と言い直したりする。「ゆらぎ」を含みながら、その「ゆらぎ」が次第に静かになってきた不思議さ、静かに見えるけれどやはり「ゆらぎ」を隠している緊張感がある。
 三行目の末尾の「だから」という「理由(論理)」の推しすすめと、六行目の末尾の「けれど」という「反論」が、何度も何度も繰り返されて「そこ」ということばをその度に動かしているのだと思う。そして、そのつど、それを受け入れている。
 こういう受け入れにまで、どれくらいの「時間」がかかったのかわからないが、どの連にも(どの母の描写にも)、母を見つめてきて、病気の母を受け入れると同時に、その母に対してあれこれ思う自分自身も受け入れているのだと思う。

 母のことを書いたあと、半分をすぎたところで「父」が出てくる。この部分も、とても印象的だ。

父の八十九歳の誕生日にはケーキを買う
店の名前はシャプラン
J小学校の手前
JAの倉庫の隣
JALの航路の下
ろうそくは合わせて九本
一本くらいはさして気にしない派だ
八十九歳の誕生日によりそうものは数少ない家族と
薄紙を剥がすような生

 「J」「JA」「JAL」と一文字ずつ増えていく。それはたまたまの偶然なのかもしれないが、それは繰り返し繰り返しその「場」を見つめることでととのえられた「形」である。「ととのえる」という行為の静かさがある。この「J」「JA」「JAL」の「変化(?)」に似たものが、きっと「暮らし」のなかにあるのだ。母の看病をしながら、少しずつ「増やしたきたもの」があるのだ。ただ「増やす」のではなく、一定の方向へととのえながら増やしてきたものがあるのだ。
 「J」「JA」「JAL」という「ととのえ方」をしなくても店の位置なら、もっとほかにいい方がある。「○○通り」とか、「角から○軒目」とか。少なくとも「JALの航路の下」というような場所の特定は、その場所を繰り返し繰り返し通るひとにしかわからない。一分おきに飛行機が上空を飛ぶわけではないだろうから。だいたい「航路の下」なんて「正確」ではない。「正確」ではないのだが、その「ぶれ」を受け入れて、「全体」をととのえている。そういう「美しさ」がここにある。
 それはそのまま「一本くらいはさして気にしない」という父の性格へとつながっていく。あるいは、「一本くらいはさして気にしない」は新井の性格で、それを父に押しつけているのかもしれない。父は受け入れているのかもしれないけれど。まあ、互いが、「そういうことにしておこう」と納得しているのだろう。
 でも、「一本くらいは気にしない」はどういうことかなあ。「八十八歳」「八十九歳」「九十歳」、どっちだったかなあ。「気にしない」ということか。九本のろうそくを、八十九歳の「九」からとった本数と思ったのだが、そうではなくろうそく一本が「十歳」で、九本で「九十歳」。ひとつ「さば」を読むことになるが、そんなことは「気にしない」なのかもしれないなあ。
 自分のことは「気にしない」。けれど、病気の母といっしょに暮らしているので、そのことは気にしている。気にしているけれど、誕生日だから、やっぱりお祝いをする。
 ここにも、静かな静かな「暮らし」のととのえ方がある。

 最終連。

呼吸が止まる一分間くらいは
夕日が沈むより 永遠より わずかな時間だ
一分間くらい 息を止めてみる
一分間くらい

 「一分間くらい 息を止めてみる」。それは「母になってみる」ということ。何度も何度も、繰り返して「母になった」。そして「母」から自分を、あるいは「父」を見つめたこともあっただろうと思う。
 そういう思いのなかで「一分間」と「永遠」が向き合う。

夕日が沈むより 永遠より わずかな時間だ

 しかし、ここに書かれている「永遠」は、直後に「時間」ということばが出てくるが「時間」ではないね。「長い長い時間」という「意味」ではないね。「長い長い時間」という意味なら、わざわざ「一分間」と比較しなくてもいい。わかりきっている。「数学」で比較できる「長さ」ではない。
 何だろう。
 「永遠」と書いているけれど、それは「瞬間」だ。「瞬間」とも呼べない、「計測できない短さ」。そこに「ある」としか言えない「計測不能の時間」。
 「永遠」と「瞬間」は「計測できない」ということのなかで一致する。
 そして、あらゆることは「計測できない」。
 母がこれからどうなるか、父はどうなるか、新井自身もどうなるか、--それは「計測する」ではなく「予測する」といった方がいいのかもしれないが。いずれにしろ「測る」ことができない。
 そういうとき、どうするか。
 「いま」をととのえるしかないのかもしれない。何が起きてもいいように、それがどんな長さでもいいように、「いま」をととのえる。
 そのととのえる意志と持続を、ことばの落ち着きに感じる。

水椀―新井啓子詩集
新井 啓子
詩学社

*

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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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粒来哲蔵「凍蝶」

2016-02-06 11:34:35 | 詩(雑誌・同人誌)
粒来哲蔵「凍蝶」(「二人」313 、2016年02月05日発行)

 粒来哲蔵「凍蝶(いてちょう)」の冒頭に虚子の句が掲げられている。「凍蝶が己が魂追うて飛ぶ」。魂は蝶の肉体をぬけ出してしまっている。蝶は死んでいる。しかし、その死を自覚できずに、蝶の肉体は魂を追いかけているというのだろうか。その「蝶」のはばたきを想像するとき、「魂」も形があるように「見える」。この「魂の分離」と「肉体の接続」は、「視覚」でつかみとる「幻/錯覚」といえると思う。
 この虚子の「凍蝶」と粒来の「凍蝶」はずいぶん違う。

 「ふと目覚めたら鼻先で香の匂いがした。」と「視覚」とは別の世界から始まる。何の香なのか。どこから匂ってくるのか。わからない。「香はただ老いさらぼうた男の鼻先にだけ留まっているようだった。」という第一段落のあと、

 香の源を探しあぐねて漸くその匂いが鼻先から消えかかる頃、霜柱
を踏んで歩いていると、霜を被っていて実体は定かではないがうっす
らと蝶らしい形態を透かして見せる凍蝶を見た。

 えっ、と私は驚く。「凍蝶」というのは「凍った蝶」なのか? 私は「冬の蝶」の「詩的」な言い方(詩の造語)だと思っていたので、びっくりしてしまった。
 なぜ「凍蝶」を、わざわざ「霜を被っていて実体は定かではない」「うっすらと蝶らしい形態を透かして見せる」という「視覚(見せる/見る)」を強調しているのだろうか。
 「その匂いが鼻先から消えかかる」ということが影響しているのかもしれない。「匂い/嗅覚」が消える。そのかわりに「視覚」が世界をとらえる。
 しかし「視覚」にとどまらない。「視覚」は次の瞬間、「触覚」へと動く。

                      拾ってみると私の指
の触れたところだけ解けかかり、湿った翅粉が霜の径にこぼれて吸い
込まれていくようだった。

 「触れる」ことで「凍蝶」は、「呼称(?)/イメージ」ではなく、「実体」になる。「触覚」にも「錯覚」はあるだろうが、「視覚」よりも「直接的」である。「肉体」に結びついている。「視覚」はなんといっても対象と「離れる」ことが条件である。対象に「密着」しては「見えない」。けれど「触覚」は基本的に対象に密着して感じる、「直接」触ることで動く感覚である。「触る/触覚」が「凍蝶」というイメージを「実体」に変えるのだと思う。
 この「実体」としての「凍蝶」は、「凍る蝶」であると同時に「蝶の凍った存在/蝶の氷」でもある。その「蝶の氷」に息を吹きかける。「氷」が解ける。したたる。「氷」の下から「蝶」があらわれる、という、粒来と蝶の関係が書かれたあと、第三段落、

 やがて蝶が羽ばたきを始めると、私はおそるおそる指を翅から外し
てみた。と蝶は明らかに飛ぶ気配を示し、私の掌の内側を六肢で噛む
ようにしてつかんでみせた。蝶は翅の渦巻き模様の斑紋を見せた。蝶
は飛んだ、が飛び上がり際で直ちに落ちた。それはあっけないほんの
一瞬の、花片の閃(ひらめ)きにも似たものだった。
 
 「指を外し」(触覚)、「六肢で噛む」(触覚/噛まれていると感じる感覚)「つかむ」(触覚/つかまれる感覚)から、「斑紋を見せた」(視覚/見る)へと動き、「凍蝶」を「凍った蝶/蝶の形の氷」というイメージへもどり、飛べずに落ちる蝶は「花片の閃き」という「比喩」に結晶する。
 この冬の蝶から「凍蝶」へ、「凍蝶」から「蝶の氷」、さらに「花片(の閃き)」という「比喩」の変化、ことばの「次元」の変化は、このあと、さらに大きく変わる。

                  蝶はそれでも再び飛ぶ意志
を示しはしたが、飛べなかった。私は落ちて地を掻きむしる蝶を見
た。

 粒来は蝶の「意志」を「見ている」。
 これは粒来が蝶になっている、ということである。蝶になって「意志」を感じている。肉体を動かす。そのとき、その肉体を動かす「意志」がある。
 「比喩」を最初の比喩とは違うものに変えていく過程で、その動きに粒来の「肉体」が重なるのである。「肉体」が重なるから、そこに「肉体」を動かす「意志」を実感してしまう。
 「飛ぶ意志」は「地を掻きむしる」という「飛ぶ」とは反対の動きのなかで、いっそう「強い意志」へと変わる。

  とその時、私の鼻先で香が匂った。朝の目覚めの時遂にその源を
辿り得なかったあの香りが、崩れかかった蝶の、死の到来を確実に示
すかのように、ふいに匂い立ったのだった。

 ここで、再び、私は「あっ」と声をあげてしまう。
 「香はただ老いさらぼうた男の鼻先にだけ留まっているようだった。」という第一段落の「男(私)の鼻先にだけ」の、「理由」が分かったからだ。
 「死の到来」の「香」なのだ。しかもそれは、その「到来」にあらがい、なお生きようとする「意志」が嗅ぎ取る「香」なのだ。「肉体の嗅覚」ではなく「意思の嗅覚」だけがつかみとった「事実/真実」なのだ。

                    蝶の翅に触れた私の指先
も香の匂いでまぶされた。蝶は地上でもがきつつもなおも飛翔の形を
とり続け、羽ばたいては落ち羽ばたいては落ちを繰り返した。その羽
ばたきの度毎に香の匂いは更に激しく私の鼻をうった。見ているうち
に蝶は朝霜の融けかけの径を転がるようにして遠離かり、やがて湧き
上がった靄の中に消えていった。

 「蝶は地上でもがきつつもなおも飛翔の形をとり続け、羽ばたいては落ち羽ばたいては落ちを繰り返した。」は蝶の「意志」がそのまま「肉体の行動」になったもの。そして、その「意志」を感じるからこそ、「その羽ばたきの度毎に香の匂いは更に激しく私の鼻をう」つのである。「意志」が「匂う」。「鼻先」と粒来は書いているが、その「鼻先」は「鼻の内部」である。他人には嗅ぎ取ることはできない、強い匂いである。
 死を強く意識しながら、その死に向き合う強い意志で、ことばを書いている。詩を書いている粒来の「肉体」そのものを感じた。虚子の句よりも、何か、「肉体」をぞくっとさせるものがあると感じだ。

 ここから先は、詩への感想になるのかどうか、わからないが……。

 人間の感覚のなかで「嗅覚」はもっとも「原始的」な感覚だと聞いたことがある。原始的というのは根源的ということかもしれない。だから、あらゆる感覚のなかで「嗅覚」だけが最後まで死なない。視覚/聴覚/触覚などが動かなくなっても嗅覚だけは生きている、と聞いたことがある。
 粒来のこの詩のなかには視覚、触覚、嗅覚が出てくる。(聴覚は出てこない。)そして、その嗅覚が、この詩のなかでいちばん重要な働きをしている。また、それは「意志」といっしょになって動いている。
 そこに、私は「まだまだ死なないぞ、詩を書いてやるぞ」という粒来の「強い意志」を感じる。「新しいもの」を書いてやるぞ、と「嗅覚(いのちの根源)」を生きている粒来の「肉体」を感じる。


蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社

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ルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」(★★★★)

2016-02-05 17:02:36 | 午前十時の映画祭
監督 ルイ・マル 出演 ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネ 音楽 マイルス・デイビス

 昔の映画はいいなあ。役者の顔をたっぷり見せている。
 ジャンヌ・モローは私の感覚では「美女」ではないのだが、うーん、見とれてしまう。台詞は「愛している」「ジュリアンを見なかった?」くらいしかないし、夜の街をただジュリアンを探して歩き回るだけなのだが、この男を思って夜の街を歩くが、そのまま「感情のアクション」、それも「抑えきれない/抑圧されたアクション」になっているのがとてもおもしろい。
 モーリス・ロネにいたっては、台詞はもっと少なく、電源を切られたエレベーターのなかで、どうやってそこからぬけ出そうか試みているだけなのに、うーん、おもしろい。エレベーターの壁を外して、なんとかしようとするのだが、ナイフ一本でできるのはネジをゆるめる、カバーを外すくらい。でも、それをていねいに映像化すると、それが「アクション」になる。
 肉体をはげしく動かすのが「アクション」ではなく、感情が動いていることを肉体をとおしてあらわすのが「アクション」なのだ。
 で、こういうとき何が大切かというと。
 まず、肉体が動く。顔が動く。そのあとで「ことば」が動く。これが逆だと「アクション」にならない。いちばんわかりやすいのが。
 モーリス・ロネが殺人者として新聞に顔写真が載っている。彼が、それを知らずにカフェに入る。電話を借りる。それを見ているウェイトレス、店長の顔。モーリス・ロネが電話を離れてから、ウェイトレスが店長に「警察に電話しようか」と言う。まず、目で、「あ、犯人だ」という「驚き/感情」が動き、それはことばにせずに、そのあとでさっきの動きをことばで言い直す。--これは、極端な例。
 これをもっと短い間合いで、緊密に、ジャンヌ・モローが演じている。効果的なのが、ジャンヌ・モローの「こころの声」。「肉体」が動いたあとで、「あんな小娘と……」というような「声」が追いかける。(モーリス・ロネの車を盗んだ若いカップルがジャンヌ・モローの目の前を走り去る。彼女からは花屋の若い娘しか見えない。)その「声」をききながら、観客は、もういちどジャンヌ・モローの感情を反芻する。反芻すると、その「声」がジャンヌ・モローの感情ではなく、見ている観客の「声」になる。
 「あんな小娘と……」という「表情」を見て、その「肉体」からなんとなく、その「感じ」を受け取り、それ「ことば」で念押しする。その念押しの感情が、観客の「思い」と重なる。「追認」ではなく、一種の「共感」である。
 この感じを、さらにマイルス・デイビスの音楽が追いかける。ことばにしても、なおことばにならない何か。それをことばをつかわない音楽が念押しする。これは、どうしたって「ゆっくりしたアクション」以外では、うまくいかない。
 男を探し回るといっても、走るのではない。車をつかうのでもない。あてどなく、あの店、この店と歩き、店員に聞いたあとも店内のなかを、もしかしたら何か手がかりがあるかもしれないと歩き回るという「ゆっくりアクション」、エレベーターを力任せで「壊す」のではなく、精密機械を分解するようにていねいに解体しようとする「ゆっくりアクション」が、観客の肉体をまず刺戟し、そのあとでこころになる。それからその「こころ/意味」をことばで確認し、ことばで言い尽くせなかったものを音楽で「感じなおす」。
 「情感」にたっぷり酔った感じ。
 ストーリーは「推理小説」なのだが、謎解きというよりも、そこで動いているひとの「感情」の変化を「顔」をとおして味わう映画だ。最近は、こういう「味わう」映画が少なくなったなあ。
              (「午前十時の映画祭」天神東宝6、2016年02月01日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
死刑台のエレベーター ブルーレイ [Blu-ray]
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八柳李花『Cliche』

2016-02-05 09:07:28 | 詩集
八柳李花『Cliche』(七月堂、2016年02月01日発行)

 八柳李花『Cliche』は横書きの詩集。文字も小さく、目の悪い私には、なかなか読むのがつらい詩集である。短い方の作品、その一部を引用して、感想を書いてみる。11ページの三段落で構成された作品の、最後の段落。

 ゆるぎのない躊躇いに惹きこまれたままの、かすれた印字から掬いあ
げるまなざしに、宙空に舞う西陽が光子を散らしている。しめやかな欲
動に苛まれることで騙られるテクストのメランコリア。しっとりと巻い
た舌先に集まる戸惑いのうちに、まろびやかな聖歌さえ迂回するわたし
の、あたたかな在り処にやすらんでは、もう一度ほころんで。しとしと
とさえずる石英の咎にも映りこんだ、甘く沈潜するまぶたをふるわせる
きみの線と半身。

 修飾語(修飾節)が多くて、意識がひっかきまわされる。何が書いてあるのが、よくわからない。
 いろいろな「読み方」があると思うが、私は「動詞」を中心にして読んでいく。
 「惹きこまれる」「掬いあげる」「散らす」。これは、一続きの「動詞」のように思える。何かに「惹きこまれる」。そして、その「惹きこまれる」場から、何かを「掬いあげる」。そして、それを「散らす」。
 「苛まれる」「騙られる」は、「騙られる」「苛まれる」の方が、順序として、私には納得しやすい。「肉体」で感じ取ることが簡単だ。八柳が書いている順序では、私には、時間が逆流する感じがする。「苛まれる」「騙られる」、その結果「メランコリア」になる。「憂鬱になる」「メランコリア」は「動詞」ではないのだが、動詞派生の「名詞」として読むことで、そこから「動詞」を引き出すことができるだろう。あるいは「体言止め」の文章なので、私は無意識のうちに、「主語」を先頭に、そのうしろに動詞を続ける形で読みな直しているのかもしれない。「テクストのメランコリアはしめやかな欲動に苛まれ、騙られる(騙される?)」、「テクストがメランコリアとして騙られるのは(ほんとうはメランコリアではないのだが、メランコリアという形で伝わってくるのは)、しめやかな欲動に苛まれているからである」と読み返しているのかもしれない。「誤読」しているのかもしれない。
 そうやって「誤読」するとき、私が感じているのは「意味」ではなく、「意味」になるまえの奇妙な「動き」である。何かが常に衝突し「逆方向(あるいは、別々の方向)」をめざし動いている。衝突し、反発するだけではなく、反発しながらひっぱりあっているという「矛盾」した動きである。
 「巻く/集まる(丸くなる)」「巻く/迂回する(円を描いて遠ざかる)」「やすらむ」「ほころぶ」。「集まる」と「迂回する」も逆の動きかもしれない。集まって、集まることで、やすらむ、安らぐ。丸くなって、固まって(集まって)、安心する。迂回することで、その集団がちらばる、「ほころぶ」。逆の動きが、そこにあるかもしれない。
 「映る」「沈潜する」「ふるわせる(震える)」。これは、最初に見た「動詞」の動きに重なるかもしれない。たとえば「水に惹きこまれる」「水を掬いあげる」「水を散らす」。そして「水に映る」「水に沈潜する」「水をふるわせる/水が震える」。
 そう読んで、さらに反芻してみる。
 「水に惹きこまれる」「水に苛まれる(水に溺れ、肉体が苦しめられる)」、それは「惹きこまれた(魅了された)水に「騙され、苦しむこと」。八柳は「だまされる」ではなく「騙られる」、嘘をつかれる、と書いているのだが。嘘はひとを引き込み、ひとを苦しめるものである。苦しみ、その人は「メランコリア」になる。憂鬱になる。
 その「憂鬱」のまわりに、何かが「集まる」、あるいは「憂鬱」を迂回するものがある。相反する動きのを感じながら、「やすらむ」。同時に、その安らぎは、「ほころびる」、破綻する。そのすべての「運動」を「映す(反映する/繰り返す)」。その繰り返すという運動のなかに、さらに「沈潜する」……。
 「映す/沈潜する」から導き出した「水」という「名詞」を「まぶた」という「名詞」を手がかりに「涙」と言い換えてみるなら、「メランコリア」は苦しみであると同時に、何か「甘い」ものを含むことになる。
 「沈潜する」の直前に置かれた「甘く」ということば。「甘い」という形容詞から派生した副詞。それが、もしかすると、この作品の「主題」かもしれない。
 衝突し、反発し、また引き合うという運動の奥に、「甘い」何かが、ある。

 つぎに「動詞」と「名詞」の関係を読んでみる。「ゆるぎない躊躇い/ゆるぎない+躊躇う」は、何か矛盾している。「躊躇い」というのは、揺らぎである。「ゆるぎない」ではなく「ゆらぐ」から「躊躇い」だろう。「かすれた印字」も矛盾している。というか、印字がかすれていては印字の意味がない。不鮮明な印字では困る。ここでも、本来なら反発し、離れていくものが強引に結びつけられている。
 「しめやかな欲動」も何かいかがわしい。「欲動」は「はげしい」のがふつうだろう。はげしさが抑えられ、抑えられているという印象が「しめやか」を強くする。より、あざやかにする。「しっとりと巻いた舌先」は「欲動」を抑制した肉体をあらわしているように感じられる。「まろびやか」ということばを私はつかったことがないが(つまり、そのことばから思い出せる肉体の状態というものが、私の記憶にはないが)、「しっとり(巻いた/丸くなる)」や「あたたかな(刺々しくない/丸い)」に通じるもの感じる。「丸い」という共通感覚として、私の肉体は感じてしまう。
 「しとしと」は「しっとり」に通じるし、「しめやか」にも重なり合う。そうすると、それは「甘い」につながるようにも思える。
 「甘く」は「甘い」であり、「甘い」は形容詞だが「甘くする/甘くなる」という「動詞」と行き来する。「甘くする/甘くなる」という「動詞」が動きとして成り立ちうるのは、それがほんとうは「甘くない」という状態があってのことである。「甘くない」ものが「甘くなる」。
 「メランコリア」というのは「憂鬱になる」であり、それは「苦しみ/悲しみ」に通じる。「苦しみ」は「苦い」でもある。だから、本来は「甘い」ものではない。けれど、その「甘くない」ものにさえ、人は、酔ってしまうことがある。「惹きこまれ」そのことに「溺れる」。「溺れる」は十分に味わい尽くすことでもある。
 「甘いメランコリア」という状況が、ことばとことばの間から、浮かび上がってくる。

 「ゆるぎのない躊躇い」ということばに象徴されるように、何か、相反するものが、ここに集中している。凝縮しながら、同時にその凝縮は凝縮しすぎて破裂している。ビッグバンのようなことが起きている。そして、それはまだ完全には整理されていない。たぶん、整理されてしまったら、それは「散文」になってしまう。「未分節」のものを抱え込みながら、「分節」へ動こうとするエネルギーがここにひしめいている。
 そして、その拮抗というか、闘争のようなものを、八柳は「動詞」というよりも、むしろ「修飾語/修飾節」と「名詞」によって、華やかに輝かせることでつかもうとしているように思える。
 「肉体」で世界を統一するというよりも、動詞以外のもので世界を解体させることで、解体しても解体してもそこにありつづける「肉体」という存在をつかもうとしているように思える。
 いいかげんな「感覚の意見」の感想になってしまったが……。
Beady‐fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂

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財部鳥子「航海」

2016-02-04 11:45:40 | 詩(雑誌・同人誌)
財部鳥子「航海」(「鶺鴒通信」σ、2015年12月20日発行)

 財部鳥子「航海」は船旅と満月との出合いを書いている。

真鍮のバーのある廊下ですれ違ったのは
甲板で満月を見てきた人たち
踊り場の幸福の樹の下で
--月、月がのぼったのです!
みんなが夢見心地にいう

告げられて わたしは
潮のごうごうと響く甲板へ出ていった
真っ暗闇をそろそろ歩き
甲板の手すりにすがりついた
--どこへいったのだろう 幸福なあの満月は?

船は北へ進んでいることは分かる
あちらの闇にメガロポリスがあることも
海猫が水の果てに眠っていることも
分かるのに
四囲の太古の闇はごうごうと呻きながら
動かない

船は真の闇に侵入していった
ここは月の裏の闇なのだろう
瀰漫する月の光の真裏なのだろう

それから 船は
金色の真っただなかへ侵入していった

 月のうわさを聞き、月を見に甲板に出て、月より先に闇に出合い、そのあと月を発見する。一連目と二連目で繰り返される「幸福」が最後の二連で言い直されているのだが、この幸福をくっきりと縁取るのが三連目である。特に「四囲の太古の闇はごうごうと呻きながら/動かない」が強烈で、その闇を見たからこそ「幸福の月」が金色に輝くのだと思う。
 その色彩というか、光と闇の対比というか、「視覚的」な対比とは別に、私は三連目で思わず棒線を引いたことばがある。光と闇の対比以外に、もっと強烈な対比が三連目に隠されていて、その隠されている対比によって「幸福の月」がいっそう輝くのだと思った。
 私が棒線を引いたのは、二回出てくる動詞「分かる」である。

船は北へ進んでいることは分かる

 この「分かる」は何だろう。どうして、「分かる」のだろう。真暗である。月も見えない。きっと星も見えない。それなのに、なぜ「分かる」のか。
 ほんとうは、もっと別な「動詞」なのだ。
 「分かる」ではなく「知っている」なのだ。船が北へ進んでいるということ、「目的地」を、「わたし(財部)」は知っている。そういう「旅」だと「知っている」。「頭」で「分かっている」だけである。これは「知識」である。「知識」があることを、「分かる」と勘違いしている。ほんとうに北へ向かっているかどうか、どの方向へ動いているかは、「わたし」は「知らない/分からない」。操船しているわけではないのだから。
 同じように、闇の向こう(目的地)がメガロポリスであること、そこでは海猫が眠っているということも「知識」として「知っている」のであって、ほんとうにその先にメガロポリスがあるか、海猫が眠っているかどうか、「分からない」。
 そして、この「分かる」が実は「知っている」だと気づき、読み直すとき、ほかのことにも気づく。「わたし」がめざしている「月」についても同じことがいえる。「月がのぼった」(満月らしい)ということは、「わたし」は「ことば」として聞いて知っているだけである。甲板に出れば、満月が見える、ということを「聞いて、知っている」。そう「分かっている」。しかし、これは「肉体」が「分かっている」ことではなく「頭」が「分かっている/知っている」ことである。
 これを「闇」が否定する。
 すぐに「満月」が目に飛び込んでくるわけではない。「満月」がどこにあるか、「分からない」。「--どこへいったのだろう 幸福なあの満月は?」は「幸福のあの満月はどこへいったのか、分からない/知らない」である。
 ほんとうに「分かる」のは、

四囲の太古の闇はごうごうと呻きながら
動かない

 「北へ進んでいる」かどうかも、実は「分からない」。ただ闇があるということだけは「肉体」で「分かる」。そして、その闇は「動かない」ように感じられる。「ごうごう」という潮の音が聞こえる(二連目)。その「ごうごう」がいまは「太古の闇」の音になっている。「呻き」になっている。
 「ごうごう」という音のなかで、「潮」と「太古の闇」がなくなっている。こういうことを「頭」では「混乱」と呼ぶ。しかし、「肉体」の感覚は、こういう「融合/区別のなさ」を、「分節」を越えた真実をつかむ、という。「未分節」の状態で、その「場」をつかんでいる。「潮(今)」と「闇(太古)」が「未分節」のまま、そこにあらわれてきている。
 「未分節」だから「分からない」なのだが、「分からない」けれど、それははげしく「肉体」を刺戟してくる。そこから、「ことば」が動く。
 誰もいわなかった「ことば」が「わたし(財部)」からあふれてくる。つまり、財部は、新しく世界を「分節」しはじめる。それが、

船は真の闇に侵入していった
ここは月の裏の闇なのだろう
瀰漫する月の光の真裏なのだろう

 である。「月の真裏」は「物理的」にありうる。しかし「月の光の真裏」というのは、どうか。存在しない。存在しないけれど、財部がことばにすると、つまり、世界をそういう具合に「分節」すると、その分節に従って、「月の光の真裏」が生まれてくる。「瀰漫する」という動詞を私は知らない(何と読むのかも知らない)が、「満ちあふれる」を突き破ってさらに満ちあふれる感じだろうか。
 「知っている/分かっている」と思っていたことを捨てて、「頭」を捨てて、そこにある「闇」と直に向き合う。自分の「肉体」だけで向き合い、世界を「肉体」が感じるままにつかみなおすとき、誰も知らなかった世界が生まれてくる。

それから 船は
金色の真っただなかへ侵入していった

 この二行のあとにこそ、私は「分かる」を補って読む。
 そうすると、「船は北へ進んでいることは分かる」と「金色の真っただなかへ侵入していった(ことが、分かる)」の「分かる」の違いがはっきりするし、最後に「分かる」とということばを書かなかった理由も明確になる。

金色の真っただなかへ侵入していった(ことが、分かる)

 の「分かる」は「知っている/知っていた」ではない。「知識」ではない。だから二連目でつかってきた「分かる」ということばをつかってしまうと、間違ったことを書くことになる。だから、書かない。
 最期の二行に隠されている「分かる」は「知識」ではなく「体験」である。「わたし(財部)」が初めて「体験」したこと。「肉体」が初めて向き合った世界である。財部の「肉体」が生み出した「世界」である。


氷菓とカンタータ
財部 鳥子
書肆山田
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