船田崇「ある午後」、陶山エリ「くるぶし考」(「侃侃」25、2016年01月31日発行)
船田崇「ある午後」は美しいが、古くさい。
「美しい」のは一連目で言えば、「雨の午後」の「雨」、「白い頬」の「白い」であり、「雨」が「水煙」と言い直されている部分だが、それは同時に「古くさい」。表現の「定型」だからである。「水煙に包まれて」を「消えてしまいそう」と言い直すのも「定型」すぎて「古くさい」。調和しすぎている。
船田が見たのは「君」か「雨」か「踏切」か、わからない。わからないくてもいいのかもしれないが、「対象化」されすぎていて、おもしろみに欠ける。
二連目の「近くて/遠い場所」という「矛盾」は「現代詩」だと感じるが、その「矛盾」を「蒼い水彩画が揺らいでいる」と言い直したとき、「矛盾」が消えて「古くさい」定型になってしまう。
「肉体」が動いていないのだ。
「僕は行かなきゃと思う」の「思う」が象徴的だが、肝心なところが「思う」であって、「肉体」の動きそのものではない。
踏切の向こうに君が立っているのは「事実」だとしても、それ以外はみんな「思う」。思っているだけ。「思い」が「事実」を書き直し、ととのえている。ととのえられた「思い」があるだけ。「抒情」だけがある。
「抒情」だけで何が悪い、と言われたら、かえすことばがないのだが。うーん、「古くさい」。
詩は「思い」を書くものかもしれないが、「思い」を「思い」として受け止めるのは、私なんかは、めんどうくさいと感じる。他人の「思い」なんか気にしたくない。
*
陶山エリ「くるぶし考」は、変な詩である。三つの部分から構成されている。その「考察A」。
「クルーシブル」という「音」からはじまり、「くるぶし」という「音」に変わる。言い間違い。そこに漢字の「踵/踝」の読み間違い、書き間違い(?)が加わる。
この間違いを「梅干しの種」のようなものと言い直し(言い直しているのかどうか、ほんとうは定かではないのだが……)、「間違い」を「梅干しの種」のように吐き出すとき「ぺっ」とか「ぷっ」の音がまじりこみ、さらに「ぽっ」という音も誘われて……。
あ、「ポメラニアン」。その瞬間、まったく異質な「音」が侵入してきて、全部をひっかきまわす。
最後は「怯える/怯む」という「同じ漢字/違う音」という組み合わせも出てくる。
何が書いてある?
船田の詩に比べると「整理されていない」、ととのえられていない。
でも、ととのえられていないように見えるのは、「意味」を「名詞」で追いかけるからである。
「動詞」で詩を見ていくと、違うものが見える。
「言い間違える」は「読み間違える」と言い直されたあと、その「間違い」の原因を「しっくりくる/こない」と推測している。
「しっくりくる/こない」というのは「感覚的」なものであって、「意味」にするのはむずかしい。「クルーシブル」よりも「くるぶしー」の方が「しっくりくる」。なぜか。「くるぶし」の方が知っていることばだから。「覚えていることば」、肉体になじんだことばだからだ。
梅干しの種を「ぺっ」とか「ぷっ」という音と一緒に吐き出すのも、肉体になじんでいる。そういう動きを覚えている。
ポメラニアンは小さい。きゃんきゃん啼く。そういうことも「覚えている」。肉体が覚えている。そういう「覚えてるもの」、自分に「しっくりくるもの」を陶山はことばのなかにさがしている。その動きに「肉体」が見える。
船田の詩に戻ると……。
「雨」のなかで「白い頬(いっそう白く見えるようになる頬)」も、そういう「ぼんやりした強調/見えにくくなるのではなく逆に白さが引き立つ見え方」も、最初に誰かが書いたときは「肉体」が動いていた。
その動きを船田が「肉体」で正確に反芻している、と言えば言えるのかもしれないが。
そういう「肉体」の動かし方は、もう「肉体」ではなく「ことばのととのえ方」になってしまっている。つまり「定型」になってしまっていて、そこから再び「肉体の動き」を感じるのはなかなかむずかしい。
わかろうが、わかるまいが、ことばといっしょに「肉体」があるということ、そしてその「肉体」が動いているということが、詩がおもしろいかどうかの分かれ目になると思う。私は「肉体」がそこにあって「動いている」という詩が好きだ。
船田崇「ある午後」は美しいが、古くさい。
雨の踏切の
向こう側に君が立っている
白い頬が水煙に包まれて
今にも消えてしまいそうな
午後だ
君のいる近くて
遠い場所に
蒼い水彩画が揺らいでいる地点に
僕は行かなきゃと思う
「美しい」のは一連目で言えば、「雨の午後」の「雨」、「白い頬」の「白い」であり、「雨」が「水煙」と言い直されている部分だが、それは同時に「古くさい」。表現の「定型」だからである。「水煙に包まれて」を「消えてしまいそう」と言い直すのも「定型」すぎて「古くさい」。調和しすぎている。
船田が見たのは「君」か「雨」か「踏切」か、わからない。わからないくてもいいのかもしれないが、「対象化」されすぎていて、おもしろみに欠ける。
二連目の「近くて/遠い場所」という「矛盾」は「現代詩」だと感じるが、その「矛盾」を「蒼い水彩画が揺らいでいる」と言い直したとき、「矛盾」が消えて「古くさい」定型になってしまう。
「肉体」が動いていないのだ。
「僕は行かなきゃと思う」の「思う」が象徴的だが、肝心なところが「思う」であって、「肉体」の動きそのものではない。
踏切の向こうに君が立っているのは「事実」だとしても、それ以外はみんな「思う」。思っているだけ。「思い」が「事実」を書き直し、ととのえている。ととのえられた「思い」があるだけ。「抒情」だけがある。
「抒情」だけで何が悪い、と言われたら、かえすことばがないのだが。うーん、「古くさい」。
詩は「思い」を書くものかもしれないが、「思い」を「思い」として受け止めるのは、私なんかは、めんどうくさいと感じる。他人の「思い」なんか気にしたくない。
*
陶山エリ「くるぶし考」は、変な詩である。三つの部分から構成されている。その「考察A」。
クルーシブルという映画をくるぶしーと言い間違えたアイドルがいたはずだが踝を
かかとと読み間違えるのはいつものことで踵と書くほうがぺっくるぶしっぽくぷっ
咥える漢字と梅干しの種ぺっぷっ飛ばすやり方でしっくりこないだろうか梅干しっ
ぽくの種はポメラニアンのくるぶしくらいだろうきゃんきゃんきゃきゃきゃきゃん
頭蓋骨飛び出すうるささで怯えながら決して怯むことがないはずだろう
「クルーシブル」という「音」からはじまり、「くるぶし」という「音」に変わる。言い間違い。そこに漢字の「踵/踝」の読み間違い、書き間違い(?)が加わる。
この間違いを「梅干しの種」のようなものと言い直し(言い直しているのかどうか、ほんとうは定かではないのだが……)、「間違い」を「梅干しの種」のように吐き出すとき「ぺっ」とか「ぷっ」の音がまじりこみ、さらに「ぽっ」という音も誘われて……。
あ、「ポメラニアン」。その瞬間、まったく異質な「音」が侵入してきて、全部をひっかきまわす。
最後は「怯える/怯む」という「同じ漢字/違う音」という組み合わせも出てくる。
何が書いてある?
船田の詩に比べると「整理されていない」、ととのえられていない。
でも、ととのえられていないように見えるのは、「意味」を「名詞」で追いかけるからである。
「動詞」で詩を見ていくと、違うものが見える。
「言い間違える」は「読み間違える」と言い直されたあと、その「間違い」の原因を「しっくりくる/こない」と推測している。
「しっくりくる/こない」というのは「感覚的」なものであって、「意味」にするのはむずかしい。「クルーシブル」よりも「くるぶしー」の方が「しっくりくる」。なぜか。「くるぶし」の方が知っていることばだから。「覚えていることば」、肉体になじんだことばだからだ。
梅干しの種を「ぺっ」とか「ぷっ」という音と一緒に吐き出すのも、肉体になじんでいる。そういう動きを覚えている。
ポメラニアンは小さい。きゃんきゃん啼く。そういうことも「覚えている」。肉体が覚えている。そういう「覚えてるもの」、自分に「しっくりくるもの」を陶山はことばのなかにさがしている。その動きに「肉体」が見える。
船田の詩に戻ると……。
「雨」のなかで「白い頬(いっそう白く見えるようになる頬)」も、そういう「ぼんやりした強調/見えにくくなるのではなく逆に白さが引き立つ見え方」も、最初に誰かが書いたときは「肉体」が動いていた。
その動きを船田が「肉体」で正確に反芻している、と言えば言えるのかもしれないが。
そういう「肉体」の動かし方は、もう「肉体」ではなく「ことばのととのえ方」になってしまっている。つまり「定型」になってしまっていて、そこから再び「肉体の動き」を感じるのはなかなかむずかしい。
わかろうが、わかるまいが、ことばといっしょに「肉体」があるということ、そしてその「肉体」が動いているということが、詩がおもしろいかどうかの分かれ目になると思う。私は「肉体」がそこにあって「動いている」という詩が好きだ。
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