詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤裕子「花かと思えば」

2016-11-21 10:49:30 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤裕子「花かと思えば」(「YOCOROCO」8、2016年10月15日発行)

 佐藤裕子「花かと思えば」には何が書かれているか。「意味」を要約するのはむずかしい。

水もなく生きるもの
死蝋化した低空飛行羅列次第で風体を変え産毛を更新する
折り畳まれた目の中には崩れそうな覗き窓がひとつフッと
虫食い穴が動く素早い蛇行に振れる軌跡は波打つ尾を引き
裂かれる闇を見る泳ぐ点を見ていた勢いに囚われ静止画像
漆黒は薄れ擦れ灰の微粒子を抜け振幅を開き跳躍する出口

 「主語」と「動詞」がわからない。わかるのは、佐藤がこのことばを書いたこと。そこから、私は「主語」は佐藤であり、「動詞(述語)」は「書く」であると考えてみる。ことばのなかに「主語」と「述語」があるのではなく、ことばの外にある。何事かを目撃し、ことばにする。「書かれたことば」ではなく「書く行為」に詩がある。
 こんな「定義」は何の役にも立たないのだが、ある詩に引かれるというのは、結局こういうことだろうなあ。

 「意味」は、でっちあげようとすればでっちあげられる。
 たとえばこんなふうに。
 「死蝋」「虫食い穴」「(裂かれる)闇」「漆黒」、あるいは「静止(画像)」ということば。その周辺に「崩れる」「囚われる」「薄れる」という動詞がある。それは「死」によって統一される。一方、それとは反対に「更新する」「素早い」「勢い」「跳躍する」ということばもある。「死/静止」に向かって統一されるイメージと、それを破っていくエネルギーがぶつかっている。そうした「場」のありようを「生きる」ととらえている。「死」を見つめながら、「死」を突き破っていこうとする何かが「出口」ということばに「象徴/昇華」されている。
 何か「意味」ありそうに見えてくるでしょ?
 でも、私の書いた「意味」は私が「捏造」、あるいは「誤読」したものであって、佐藤が書いている「意味」とは関係がない。
 ことばというのは、どうしても「論理/意味」になってしまう。私たちが「意味/論理」に頼っているのだ。
 「意味/論理」が「成立」したなら、それはどこか「間違っている」と私は考える。
 と、書いてしまうと、では何のためにこの作品は書かれている? 佐藤は何がいいたくて、この作品を書いた? という疑問が出てくるかな。
 ここから、私は最初にもどる。

 「意味」ではなく、「書きたい」から書いている。佐藤という人間がいて、「書く」という「述語(動詞)」があるだけなのだと思う。「書く」という「述語/動詞」がもっている「熱」のようなものを、「いいなあ」と思う。「いいなあ」と感じたといえばそれですむところを、かなりごまかして、「意味」を「捏造」して、それを「批評」と言ったりしている。
 「意味」ではなく「書く」という「述語」への「共感」がある。読むと、「書く」ということへの「共感」が揺さぶられる。そういう作品を、ひとは「いいなあ」と言う。「あ、こんなふうに書いてみたかった」というのが「正直」な「感想」になるのだと思う。

 ごちゃごちゃとうるさいことを書いたが……。
 この一連で私が傍線を引いたのは、二行目。

折り畳まれた目の中には崩れそうな覗き窓がひとつフッと

 目のなかにある「覗き窓」。目のなかに目がある。それは隠れている。目で何かを見ながら、奥から違うものを見ている。この目の「動き」に、ふいに「肉体」を感じた。人間は、たしかに、そういう「見る」という「動き」をする。
 笑顔を見せながら、冷酷に別なことを判断している。憎しみを隠して、次に何をするかを考えている。矛盾したことを同時にしてしまう人間の「肉体」。
 佐藤は、そういう「肉体」を書こうとした(意味にしようとした)ということではない。私がかってにそう感じた。「誤読」したということ。私のなかで動いていなかった「肉体」が佐藤のことばによって何かを思い出し、我を忘れて動いた。私の肉体の奥に隠れていたものを動かす力がある、だから、おもしろい、あ、いいなあと思った。

古い反物を走らせる
湧き上がった金粉両眼を滑らせると時時左右は入れ替わり
装着したレンズは何処の物とも知れず飛翔の球体360度
色彩の飛来が始まり目蓋に翳し訝しげ口許で息を思い出す

 二連目の「時時左右は入れ替わり」「口許で息を思い出す」にも「肉体」を刺戟された。「左右は入れ替わり」というのは「対象」が入れ替わるととらえるのが一般的なのだろうけれど、見た瞬間、自分の「肉体」の内部こそ左右が入れ替わる。「口許で息を思い出す」という時の「口」は相手の口であると同時に自分の口。対象と自己との区別がなくなる。融合する。「肉体」が「内部」から動かされる。私が佐藤になってしまったと「誤読」する。こういう瞬間が、私は好き。
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千人のオフィーリア(メモ19)

2016-11-21 00:30:12 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ19)

知ってる? ここはポドマック通りよ。
明かりのかわりにピアノの音が水たまりを走ったからって
初物はいないわよ。あさっての通りを歩いてみるんだね。
いいえ、ここはトポマック通りじゃないわ。
おめあては口に出せないことば? ぶたれること?
入れたいの? 入れられたいの? なめたいの? なめられたいの?
そうよ、ドポマック通りよ、間違えないで。
「おれはなあ、細い紐を蝶結びにする発明をあの女に譲ってやった。
何言ってやがらあ、それで大儲けしたくせに」
だからホトマック通りだって。嘘ついたってしようがないでしょ。
そんな小さいものは引っぱりだしたって小便するしか能がないくせに。
マックポート通りは三つ先よ。あそこはね、
嘔吐の花ばかり。強烈な刺激に目をやられてあばたもえくぼに見えるって話さ。
ああ、ポートマックから来たのかい?
背中が凝ってるねえ。ももの裏側も。真ん中の足はどうだい?
そうだねえ、マクポッド通りへ行ってみるんだね。
鳥の羽であそこをなでてくれるさ。指をつばでしめらせるのは
本のページをめくるためだってさ。
知ってるよ、マグトッポ通りというのは嘘の名よ。
ストッキングを足の付け根まであげるとこを見せてくれる。
トグマッポ通り? 酔っぱらったら舌かみそうな通りなんか知らないよ。
湿った唇でも乾いた唇でも、みんなオフィーリア。
昔の名前も明日の名前もあるもんか。





*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
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テイト・テイラー監督「ガール・オン・ザ・トレイン」(★)

2016-11-20 20:20:52 | 映画
監督 テイト・テイラー 出演 エミリー・ブラント、レベッカ・ファーガソン、ヘイリー・ベネット、ジャスティン・セロー 

 私は「衝撃の結末」という映画が嫌い。「衝撃の結末」にはふたつのパターンがある。最初からわかるのと、途中でわかるのと。そして、途中でわかるものの方が、はるかに始末が悪い。「どんでん返し」ではないからだ。安っぽい「推理」だからである。
 この作品は、途中でわかる。
 昔、テレビで「刑事者」が流行った。ほとんどが途中で「犯人」がわかる。始まって五分でわかるものもある。学生時代、いっしょにテレビを見ていた友人が「どうしてわかる?」と聞いた。「いちばん怪しくない人間が犯人。怪しくないから最後まで登場する」。
 この作品にあてはまる。
 三人女が出てくる。主人公(エミリー・ブラント)は子供に恵まれていない。もうひとり(レベッカ・ファーガソン)は子供がいる。彼女はエミリー・ブラントと別れた夫と結婚している。もうひとり(ジャスティン・セロー)はベビーシッター。彼女が殺人の被害者。(容疑者は何人か出てくる。)
 この場合、キーワードは「子供」、赤ちゃん、である。
 で、被害者のジャスティン・セローが、途中で妊娠していたことがわかる。もう、それだけでだれが「犯人」かわかるのだが、これを「ストーリー」だけではなく、「演技」でも見せてしまう。
 ジャスティン・セローが妊娠していたと知って、周囲のひとは驚く。だが、会話がやりとりされている「場」で、ひとりだけ驚かない人間がいる。「犯人」である。。なぜ、驚かないか。知っているからである。
 問題は、「嘘」をどう処理するかだなあ。知っているから驚かない、というのは確かにそうなのだが、これがあからさまだと「犯人」がばれてしまう。(映画は「あからさま」に「驚かない」人間を映し出している。)かといって、ここでその人物まで驚いてしまうと、妊娠がわかっているのになぜ驚く? 嘘にならないか、という問題が生じる。鉛毒は観客には嘘をつかないという方法を選んでいるのだが……。
 この観客に嘘をつかず、観客が気づかないことに期待して映画を組み立てるという方法は、うーん、どういうものかなあ。私は感心しない。
 冒頭、通勤電車のなかから、住宅街を見つめ、ひとびとの暮らしを妄想するというおもしろいシーンから始まるのだが、その妄想が暴走して、そこにない住宅街、そこに存在しない夫婦という具合に広がって行った方がおもしろいのでは、と思った。犯人探しよりも、犯人が妄想の中でわからなくなるという方が(未解決のまま終わる方が)、映画としておもしろいものができるのでは、と思った。

 エミリー・ブラントの顔も嫌いだなあ。心理的に追いつめられていく女というのは「美人」でないとおもしろくない。「事実」を見失いかわいそう、はらはらどきどきする、というのはイングリット・バーグマンのような美女じゃないとおもしろくない。かわいそう、でも、もっと苦しむ顔をみたい。だから、もっともっといじめてみたいという欲望をそそる女優が演じると、「ストーリー」を追うことを忘れる。「推理する」ことを忘れ、「生身」の人間にふれる感じがする。「結末(結論)」よりも、いま、そこにある「肉体(美人)」に夢中になるとき、「推理映画」は完璧になる。この映画は、その基本のキを踏み外している。
                   (天神東宝スクリーン2、2016年11月20日)



 *

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エドワード・ズウィック監督「ジャック・リーチャー」(★)

2016-11-20 10:00:01 | 映画
監督 エドワード・ズウィック 出演 トム・クルーズ、コビー・スマルダース

 トム・クルーズは、この映画では「ミッション・インポッシブル」のような超人的なアクロバットはしない。そのかわりに、「娘」を気づかうという「ふつうの人」の感情を動かす。
 でもねえ。
 無知な(?)娘に行動をひっかきまわされる。つまり、そのために予想外のトラブルが起きる、といっても「想定内」。それに機転(?)をきかせて、スリをしたり、置き引きをしたり、あげくにはドラッグ中毒者がたむろする場所をさぐりにゆくなんてことをしてしまう娘が、腹が減ったからといって盗んだカードでピザの出前を取るかね。カードをつかえば、場所が特定されてしまうくらい想像できそうなのに。それにカーニバルの人込みに逃げ込むなら、カーニバルの格好をして群衆に溶け込むのが一番いい方法だろう。人込みに逆らって走れば目立つだけ。まあ、矛盾しているのが無知な「若者」らしいのかもしれないけれど。
 であるなら。
 「盗んだカードをつかうな、追跡される」くらいのことは前もって注意すべきだろうなあ。一回つかったら、捨ててしまうのが、そういう世界の常識ではないだろうか。あのシーンは気配りがなさ過ぎてばかばかしい。ストーリーのためのストーリーの典型。
 というようなことが気になり、どうもね。
 また。
 組織が権力を持つと腐敗する。トップほど腐敗し、腐敗しないのはアウトロー(トム・クルーズ)か、アフリカ系か、女性か、(つまり、マイナーか)、というのも、いまとなっては「ありきたり」。フェミニストに叱られるかもしれないが、「女性は純粋で正しい」という発想そのものが、私には古くさく感じられる。
 アメリカではヒラリー・クリントンの「蓄財」がうさんくさいと批判を浴びているし、日本だって稲田なん安倍そっくり。「戦争は精神を浄化する」というようなことを平気で言う。兵器産業の株が上がるように、自衛隊を海外に派遣し、武器をどんどんつかわせる。自分さえ金儲けができればいい、としか考えていない。きっと「若者の精神を戦場で浄化させるよう指揮する私(稲田)の精神は、精神の浄化を推進しているのだから、とても崇高な精神である」と自分勝手に陶酔しているんだろうなあ。
 若い女性が「神話」になれたのは、ジョディー・フォスターの「羊たちの沈黙」までだね。
 未開拓の分野は、女性が組織の「悪玉」だった、というストーリーかなあ。母の情も捨てて(母性本能も捨てて)、子供を利用して、不正な蓄財をするという組織の女性権力者を描かないと、ほんとうの「男女平等」とは言えない、ときょうは書いておこう。
 だって、つまんないよ、この映画。新しいところが全然ない。過去へ回帰しただけ。
                   (天神東宝スクリーン3、2016年11月13日)

 *

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千人のオフィーリア(メモ18)

2016-11-20 00:46:38 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ18)

狭い通りでわざと肩をぶつけ合う男同士が
けんか相手を確かめるみたいに明かりの下に引っぱりだして。
キスして。ツラトゥストラみたいに荒々しく、
汚いことばをわめいた舌で私の裏側をひっかき回して。

毛むくじゃらの手が私の尻をつかむのを
街灯がスポットライトのように照らすでしょう。
私には見えるわ。

そのまま引き寄せて。
ズボン越しでも子宮に届くくらいに
あなたの愛を勃起させて。
その曲がり角で。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
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近藤久也「情事」、中上哲夫「名前抄」

2016-11-19 09:57:43 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「情事」、中上哲夫「名前抄」(「ぶーわー」37、2016年09月30日発行)

 「ぶーわー」は近藤久也の個人誌ということになるのだろうか。表紙を含めて四ページ。A4判を二つ折りにしたもの。簡潔でいいなあ。
 「情事」は、こう始まる。

マッ暗ナ
小部屋
大キナベッド
セカイノ最重要事ノヨウニ
睦ミ合ッタアト
一人ハ出テイキ
一人ガ残ッタ

 私はカタカナが読めない。書けない。だから正確に引用しているかどうかわからない。わからないまま感想を書く。
 この一連目では、私は「残ッタ」だけが「わかった」。「のこった(残った)」であると「わかった」。そして、そこから前に引き返して読み直すのだが、やっぱりわからない。カタカナが読めない。「マッ暗ナ」がどんな暗さなのか見当がつかない。「ノウヨウニ」は固いものがうねっている感じ。「睦ミ合ッタ」は「ニクミアッタ」と読んでしまいそうだ。その結果、何かわけのわからないものが「残る」。「残ッタ」。「一人」と近藤は書いているが、この「一人」が「人間」とは感じられない。言い換えると「近藤」とは感じられない。
 そういうもの(こと?)が「残ッタ」。

ソノ些事ヲ受ケトメテイルノハ
体ヲ包ム冷タイシーツ?
ソノ汗ト体液ノ
染ミ?
匂イ?

 詩は、こう続いていく。一連目で印象的だった「残ッタ」を私は知らず知らずに補って読む。つまり、

ソノ些コトヲ受ケトメテイル(ノハ)
体ヲ包ム冷タイシーツ「ガ残ッタ」
ソノ汗ト体液ノ
染ミ「ガ残ッタ」
匂イ「ガ残ッタ」

 「?」を「ガ残ッタ」にかえて読んでしまう。そうすると、そこに書かれていることが「わかる」。「シーツ」「染ミ」「匂イ」は「一人(人間/近藤)」ではないが、「人間」以上というか、「人間」をつくりあげる「未生」の何かのように思えてくる。
 「一人」が「シーツ」「染ミ」「匂イ」になって「残ッタ」のか、「シーツ」「染ミ」「匂イ」が「一人」になって「残ッタ」のか。同じことに感じられる。「残ッタ」だけが「残ッタ」と「わかる」。

サツキマデ弾ンデイタベッドノ底ノ
錆ノ浮イタ古イスプリング?
出テイク時ニ右ニ回シタ金色ノノブ?
床ニ舞イ降リル
ミエナイ埃タチ?
知ラナカッタ二人ノ
シジマノザワメキ?
ソバダテル耳?
乾イタ肌ニ触レニ来ル毛布ノ温モリ?

 ひとつひとつの「もの」「こと」が「残っている」。それもただ残っているのではない。「?」と問いかけるとき、その問いの奥から「生まれてくる」という形で残っている。問いが「生み出している」と言い換えてもいい。
 「残ッタ」ではなく「生まれている」。
 「残った」と書かなかったのは、それが「残る」ではなく「生まれる/生み出す」という違った「動詞」を含んでいるからなのだ。「流通言語」ではない、ということをはっきりさせるためなのだ。

ソンナコトモ解ラナイ
セカイヲ 小部屋ヲ
ベッドヲ
遠クカラ見テイル生キモノノ
非情ナ目?

 「非情ナ目」こそが、「流通言語」ではあらわせない「詩」を「生み出している」と言いなおすことができる。「解ラナイ」という「詩の状態/詩がことばになる前の状態/詩が生まれてくる運動」を「生キモノ」の姿としてとらえなおしている。
 読み終わると、その「生キモノ」が、「残っている/ことばのなかから生まれて生きている」と、「わかる」。



 近藤の詩は、また同じ号に発表されている中上哲夫「名前抄」の「解説/注釈」としても読むことができる。

大きな木の下で掌の堅い実を見つめている人よ
きみはいま世界にふれているのだ
手で
目で
鼻で
耳で
舌で

      *

サルトル少年はずっと苦しんでいたんだと
物と名前とが一致しないので

      *

ぼくらはいっせいに懐かしむのだ
かつて無名者として泳ぎまわっていた海を

 「名前」をつける。自分だけの「名前」で世界をとらえなおす。それを「詩」と呼ぶ。その「新しい名前」として「残された」もの/ことが「詩」なのだ。
オープン・ザ・ドア
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思潮社
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水の周辺13

2016-11-19 00:31:23 | 
水の周辺13



空に
残る
雨は
輝く
星に



地に
散る
雨は
暗い
鏡に



犬の
耳の
縁を
飾る
雫よ



肩に
滲む
その
時の
重さ



*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
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郷原宏「テームズの月」、田村ちさ子「地峡の国」

2016-11-18 09:25:27 | 詩(雑誌・同人誌)
郷原宏「テームズの月」、田村ちさ子「地峡の国」(「長帽子」77、2016年11月07日発行)

 郷原宏「テームズの月」は、土井晩翆と滝廉太郎の出会いと別れを書いている。「荒城の月」を作詩・作曲した二人はロンドンで会っている。姉崎嘲風と三人で会話している。滝廉太郎が病気のために日本に帰るのを見送りに来た。次は「テームズの月」をつくろうと約束したが果たせなかった。「評伝」のような作品か。

 その夜は月が明るかった。三人は甲板に出て、涼しい川風に吹かれながら歓談した。川面に映る月光が波に砕けて万華鏡のようにきらめいた。チルベリーはロンドンの中心部から三十マイルほど離れているうえに、あたりには倉庫が建ち並んでいるので、街の灯もここまでは届かない。そのために月光の明るさがいっそう強く感じられた。

 「月が明るかった」「月光が波に砕けて万華鏡のようにきらめいた」「月光の明るさがいっそう強く感じられた」と三回も月の光の描写が出てくる。しかもだんだん長くなる。二度目は「万華鏡のように」という比喩が出てくる。それでも言い足りなくて、まだつづけるのだが。
 私は、しつこいと感じながらも、三回目の描写がおもしろいと思った。
 二回目に書かれている「比喩」が解体され、「現実」にもどっていく。「比喩」は「詩的」なものだが、「詩」が解体されて「現実=散文」にもどっていく。「比喩」を否定/解体することばの運動が楽しい。
 「詩」が「飛躍/切断(比喩)」であるのに対して、「散文」は「接続(論理)」である。離れている「うえに」、建ち並んでいる「ので」という「理由」であることを説明することばがつづき、「街の灯もここまでは届かない」という「仮の結論」が書かれる。これは「暗い」という「結論」でもある。強調である。そのあとに、その「結論」を「理由」として、それとは反対の「結論」(明るい)が書かれる。「そのために」という「理由」を示すことば、「いっそう」という強調のことばが連携しながら「月光の明るさ」を証明する。
 この動きは、「散文」である。しかし、詩でもある。「詩」の基本である「起承転結」を踏まえている。

(起)その夜は月が明るかった。三人は甲板に出て、涼しい川風に吹かれながら歓談した。
(承)川面に映る月光が波に砕けて万華鏡のようにきらめいた。
(転)チルベリーはロンドンの中心部から三十マイルほど離れているうえに、あたりには倉庫が建ち並んでいるので、街の灯もここまでは届かない。
(結)そのために月光の明るさがいっそう強く感じられた。

 詩の基本を踏まえながら「散文化」してしまうのは、「論理」を証明することばが「しつこく」つかわれるからである。「論理」のことばを書いてしまうのが郷原なのだといえるかもしれない。



 田村ちさ子「地峡の国」はわからないところがある。「わからない」は「論理」がたどれないということでもある。

青春の森の中で
背に「さよなら」を隠したまま
やさしい神々に唾を吐き
恥辱の泥の中に沈まなければならなかった命

彼らのひそかな足取りは
どこに残されているのか
根っこからその怒りを持ち上げている長い草
忘れ去られた道に
彼らの人さし指が炎を上げてないか

 「さよなら」は「比喩」。流通している「意味」を「隠す」ことによって強調される。「やさしい神々に唾を吐く」という「反抗」が「恥辱」ということばで言いなおされる。衝突して、輝く。それが「命」になる。「青春」になる。「青春」なのに死ななければならなかった人の「叫び」が聞こえてくる。
 次の連で、「抵抗(叫び)」は「怒り」ということばで言いなおされる。流通している「意味」がやっと出てくる。いったん「忘れ去られ」と否定され、「人さし指が炎を上げ」るという「比喩」を通って蘇る。鮮烈になる。
 イメージが炸裂しながら、中心点を明らかにする。
 この「矛盾」のようなものを、

根っこからその怒りを持ち上げている長い草

 の、「その」という指示詞がつなぎ止める。「散文(論理)」が、全体を「ぐい」とつかみ、放さない。
 「その」はこのあと、

かすかなぬか雨に濡れている
曲がり角の石
その衰弱した心の肌に

夢から逃げ出した鳥たちが
巣籠もりしている木々
その梢で一羽の鳥が

 と繰り返されるが、最初の「その」のように、それが具体的に何を指示するのかわからない感じではない。強引さがない。だから散文。
 そうしてみると、最初の「その」としか言いようのない形でつかみとる強引さが「詩」というのものになる。最初の「その」が何を指しているか具体的には言えない。(二番目は「石」、三番目は「木々」。)「身振り」で「その」としか言えない何か。そこに「詩」がある。
郷原宏詩集 (新・日本現代詩文庫109)
郷原宏
土曜美術社出版販売
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千人のオフィーリア(メモ17)

2016-11-18 00:57:57 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ17)

うずまく川の上に組まれた橋をおぼえているか
水といっしょにくるくるまわるオフィーリアの目は
青いスミレのように何も見なかった
自分の悲しみのほかは。

書きかけの詩のなかに、そんなふうには書かないで。

履いていた白い靴。片方が脱げて流れて行った。
追いかけるようにオフィーリアは流れた。
早い夏。胡桃の天使の睾丸はまだ緑の皮につつまれている。
だれもそれを見てひとはいない。
詩に書かれのは西洋と東洋がいれかわる大きな戦争の後、

そんなふうに剽窃しないで。

うっそうとしげる木からしたたる樹液の、蜘蛛の糸のようなねばり。
隠れて読んだ本のページを破ったオフィーリア。
ここに書いてあるように書いてほしい。
でも読まれたくない。だから、
もうそのことばをだれも読むことができないように破って隠した。
六百四十三人目のオフィーリア。

そんなふうに書かないで。詩がどんなに行き詰まっても。

みな同じように女から生まれ、
ひとりひとりが違った死に方をする。
同じオフィーリアの名で呼ばれても。
そんなふうに、流通している哲学を書かないで。

街角のポスター。真新しい殺人、古くさいバイオリンの旋律。
ありきたりの感染症。
どんなことばもオフィーリアを輝かせる。

そんなふうに、詩には書かないで。




*

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東陽一監督「だれかの木琴」(★★)

2016-11-17 11:35:21 | 映画
監督 東陽一 出演 常盤貴子、池松壮亮、佐津川愛美

 東陽一と言えば「サード」。その後、「もう頬づえはつかない」「四季・奈津子」とつづけて見たが、映像の奇妙な女っぽさが気になり、何を撮ろうとしているか、私にはよくわからなかった。
 今回の映画も、わからない部分が多すぎるのだが。
 三つのシーンが印象に残る。まず、常盤貴子と池松壮亮の出会い。髪を切る。切るというより、はさみが髪に触れていく。触れられることで、髪が自然に肉体を離れていく。宙に舞っていく。そのアップ。これは池松壮亮には見えるが、常盤貴子には見えない。けれど見ている。目ではなく、「肉体」そのもので。
 次に、常盤貴子が新しいベッドで横になるシーン。夫の手が乳房をセーターの上から愛撫する。池松壮亮の手が髪を愛撫する。常盤貴子は、二人の手の違いを感じている自分自身の「肉体」におぼれていく。
 ここで私は、髪をカットするシーンは常盤貴子が彼女自身の「肉体」に酔っていたのだと気づく。髪とはさみの触れ合いが官能的に見えるとしたら、常盤貴子があってこそなのだ。常盤貴子の髪(肉体)が、すべてを生み出している。そのことに酔っている。酔っているから、はさみに触れられて宙に舞っていく髪が見えてしまう。見るではなく、見える。
 ラストシーン。常盤貴子がソファの上でうたた寝をする。空中に毛布が舞い、ソファの背後に降りてくる。眠っている常盤貴子を背後からするすると覆っていく。常盤貴子は、その動きを肌で感じる。全身がつつまれる感じに、安心して眠り始める。
 この瞬間、常盤貴子は池松壮亮から解放されたのだとわかる。池松壮亮に髪を切られることから始まった欲望(官能/陶酔)を求める「焦り/苦悩」が終わったのだと感じた。常盤貴子に触っていたものが遠く去り、違うものが「全身」をつつむ。
 触覚から始まり、触覚で終わる映像の間にストーリーがあるのだけれど。これが、私にはよくわからない。触られることで目覚めた自信、自惚れ(?)が常盤貴子の異常な行動に駆り立てる。頭ではわかるが、「肉体」で実感(共感)できない。(私が男だからか。)そして、頭だけで「わかる」から、どうしても笑ってしまうことになる。
 変な映画だ。変な女を描いた映画だ、と思ってしまう。
 美容院にやってきた不気味な青年が連続放火犯で、彼は異性(女性)に触れられたいという欲望をもっていた、というのは映画の触覚のテーマと重なるのだけれど、放火は「女性的」な欲望だと決めつけているようで後味が悪い。
 映画のテーマの象徴となっている「木琴」も、ことばで書かれた「小説」なら違和感がないかもしれないが、映画ではちぐはぐ。木琴(音楽)は音。それも「叩く」音。触覚とは別なもの。さらに「木琴」に、だれもいない家、二階の開いた窓という映像が加わると、「理屈」として響いてくる。
 「こころの音楽」を探している、というテーマが、わざとらしく聞こえる。
 空家の映像はない方がいいだろう。乱れた木琴の音(少女がでたらめに叩く木琴の音)を常盤貴子の心理描写としだけ使えばいい。たとえば常盤貴子が白いフリルのドレスを捨てに行くシーン。そのドレスを池松壮亮が見つけたときの驚き。そこに和音にならない「木琴」の音が響く。あるいは常盤貴子が夫と隣り合わせにすわってメールで会話する。「木琴」がぽつり、ぽつりと一音ずつ鳴る。和音を探して鳴る、という感じにすれば、それが「こころの音(こころの音楽を求める音)」として「説明(ことば)」を越えて聞こえてくる。木琴がバックミュージックに徹すれば、音が心理描写になる。音楽(音)のなかには映像がある。でたらめな音からはいらだちが聞こえる。いらだつ肉体が見える。いらだった記憶を、観客は自分の肉体として思い出す。そのとき見た風景も。
 バックミュージックだけでは観客に「こころの音」かどうかわからないと東陽一は心配するのかもしれない。しかし、つたわらなければつたわらないでかまわないのが映画ではないだろうか。

 触覚と官能の欲望を女性の肉体をとおして描くといえば、私はジェーン・カンピオン監督の「ピアノレッスン」を思い出す。ホリー・ハンターがピアノを弾いている。ハーベイ・カイテルがピアノの下にもぐりこみ、ホリー・ハンターのストッキングの穴をみつけ、指で触れる。そのときホリー・ハンターの「肉体」のなかで官能の音楽が走り出す。あの美しいシーン。触覚と音楽の融合。
 ジェーン・カンピオンは「ある貴婦人の肖像」の肖像でも、触覚から始まる女性の官能、陶酔をベッドの房飾りをつかって描いていた。
 私はジェーン・カンピオンの女性の描き方に衝撃を受けたので、どうしてもその視点で映画を見てしまうのかもしれないが。

 東陽一といえば「サード」と最初に書いた。その印象が強すぎて、それ以後の「女性映画」が私にはピンと来なかった。女性を描きたかったのか、と、今回の映画でやっとわかった。いま「もう頬づえはつかない」「四季・奈津子」を見れば違ったものに見えるかもしれない。
 東陽一のテーマが女性とは思わなかったが「サード」には忘れられないシーンがある。森下愛子がヤクザとセックスをする。仕方なしにしたセックスだけれど、官能が動く。おわって放心する森下愛子の肌を汗がすっと流れる。光る一筋の汗が森下愛子のなかで動いた官能の強さを語っている。このシーンを美しいと感じるのは、男が女の官能を目覚めさせ、女を虜にしたいという男の願望ゆえかもしれないが。
 その後の「四季・奈津子」や「マノン」はソフトな映像に終始している感じがして、私には不満がある。それで東陽一の映画を見なくなった。今回の映画でも、髪を切った後の常盤貴子がひとりでワインを飲むシーンは無意味に「ロマンチック」でぎょっとしてしまう。
 あ、でも、こんなに批判ばかり書いてしまうのは、どこかに気に入った部分があるからでもあるんだろうなあ。
                     (KBCシネマ1、2016年11月16日)

 *

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天皇と「祈り」(その2)

2016-11-16 22:58:50 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇と「祈り」(その2)
               自民党憲法改正草案を読む/番外42(情報の読み方)

 天皇の「生前退位」をめぐる有識者会議のヒアリング。平川祐弘(東大名誉教授)、渡部昇一(序地代名誉教授)、桜井よしこ(ジャーナリスト)の発言に「祈り」ということばが出てくることについてはすでに書いた。
 「祈り」とは何か。
 天皇の災害被災地まで出向いての国民との触れ合いは、国民といっしょにいることが「安全」への「祈り」へとつながっていると私は思う。このとき「祈り」は「願い」と言い換えても通じるだろう。今の天皇の「祈り」は「宗教」とは無関係である。
 渡部の「天皇の身体は宮中にあっても、国民のために祈ることが最も大切なことである」(2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「国民といっしょ」という形を否定した「祈り」である。この「国民と直接接しない祈り」について再び考えてみたい。平川の発言を参考にして考えてみる。
 平川の「民族の象徴であることは、祈ることにより祖先へと続くからだ」(2016年11月08日の読売新聞、西部版・14版、13面)は、「どこで」祈るのか、ということがわかりにく勝った。
 2016年11月15日の読売新聞、西部版・14版、13面に第三回の有識者会議議事録(07日、要旨)が掲載されている。政府が首相官邸のホームページで公表したものである。(私の検索の仕方が悪いのかもしれないが、どこに「公表」されているか、今回もみつけられなかった。読売新聞から転載する。)それによると、平川の発言は、こうなっている。

 (天皇陛下のお言葉に)世間は感動したが、同情に乗じて特例法で対応することは憲法違反に近い。天皇家は、続くことと、祈るという聖なる役割に意味がある。それ以上の世俗のことを天皇の義務とお考えになるのはいかがなものか。世俗に偏った象徴天皇の役割にこだわれば、能力主義的価値観を持ち込むことになりかねず、皇室制度の維持は困難になる。

 2016年11月08日の読売新聞の記者が聞き取り要約したものと、ずいぶん違う。
 「祖先」という表現のかわりに「天皇家は、続くこと」ということばがある。天皇家が続くこと、つまり先祖から子孫へつづく。この文脈で「聖(なるもの)」ということばが出てきていることに、私は驚いた。「聖」の主張こそ、平川の根幹なのだと思った。
 平川が言う「祈り」は、あくまで「天皇家」の「いのちがつづくこと」への「祈り」である。国民一般のいのちがつづくこと、国民の安全を祈ることではない。国民の安全を「祈る」ことを平川は「俗」と呼んでいる。
 「天皇家」は「聖なるもの」である。「天皇家の継続」を祈る「祈り」は「聖なる祈り」。「聖なるもの」と「祈り」が結びつけられると、私は「宗教」を感じてしまう。そして、「聖なる天皇という宗教」に国民(俗)は従え、という主張につながりそうな感じがする。「俗」を支配する「聖なるもの」。「聖なるもの」を「象徴」する「天皇」。宗教だから「天皇=神」ということにつながるような気がする。
 で、このとき。
 天皇が「私は神である」と言うのではない。実際、今の天皇は「私は神である」とは言っていない。「象徴である」といい、「象徴としてのつとめは国民と触れ合い、国民と一体になること」と言っている。
 ここからが、一番の問題。
 天皇が「神である」というのなら、そんなことを言う権利は天皇にはない、と国民は反発することができる。「天皇が神である」というのは「国民の総意ではない」と主張することができる。つまり、国民は天皇に対して反抗することができる。
 ところが、「天皇は神である(聖なる存在である)」と主張するのが、天皇ではなく、平川という「国民(俗)」である。「俗」が「聖なるもの」をかかげて、これが「聖なるもの」であると断定するとき、いったい何が生まれるか。どういうことが起きるか。
 天皇を「聖なるもの」と断定した「俗」が、天皇は「聖なるものではない」と思う「俗」を支配し、秩序をつくろうとする。簡単に言うと、

天皇-平川-国民

 という「聖-俗」のヒエラルキーが生まれる。「天皇は聖なるものではない」と主張する人間は「天皇は聖なるものである」と主張する「権力」と戦わなくてはならない。「権力」はそのとき「おれに反抗するのか」とは言わずに「聖なるものを否定するのか」という論理で自己保身しながら、俗を弾圧する。
 ヒエラルキーを「聖」ということば(概念/論理)でごまかしながら、平川が「権力」を握ることになる。
 しかも、そこに「天皇」を「宮中」に閉じ込めるということがくわわる(これは渡部の主張だが)。国民とは触れさせないということが生まれる。「触れさせない(触れることができない)」ということ「聖」が補強される。天皇の「真意」は隠され続ける。平川の「意図」だけが、「聖-俗」を決定する。とても便利(?)な支配構造である。
 平川のかわりに、「摂政」を、あるいは安倍を入れて図式化してもいい。

天皇-摂政(内閣が進言する)-国民
天皇-安倍(内閣の長)-国民

 これを「権力構造(支配構造)」と呼ばずに、「聖」と呼んでいるところに注意しないといけない。

 今の天皇は「天皇=神」という考え方からははるかに遠い考えを持っているように見える。天皇を神格化しない今の天皇は、権力が国民を支配するという構造を強化するには、きっと邪魔である。国民を支配することは「国民とともにある天皇」を支配することになる。国民を自由に支配するためには、天皇国民から切り離し、神格化し、国民と無縁の存在にすることが必要なのだ。
 その動き(野望)のために、高齢の天皇が利用されている、と私には感じられる。

 この天皇の神聖化については、有識者(だれか不明)が「政教分離」の視点から質問している。

 有識者 (天皇の)公務の題意は祈ることだという解釈か。(略)政府見解では祭祀は指摘行為に分類されている。
 平川氏 (祈ることは)公務というより役割だ。憲法上の解釈ではなく、歴史上そうだった。

 平川は、憲法を無視している。「憲法上の解釈」を認めない。そのくせ「特例法」を「憲法違反」と言うように、都合に合わせて憲法を利用している。矛盾している。
 付け加えて「歴史上そうだった」と簡単に言っている。「歴史上そうだった」というとき、具体的に「歴史的事実」をあげたのかどうか、読売新聞の記事ではわからない。いつ、どの天皇が「天皇家がつづくこと」を「祈った」のか。それを平川がどう証明したのか(どのような文献を例としてあげたのか)わからない。
 もしかすると「歴史上そうだった」という専門家の意見で、天皇は天皇家の存続のために祈るということを「歴史的事実」にしてしまおうとしているのかもしれない。



 いったい有識者会議のなかで、どんな議論が起きているのか。ヒアリングに応じた「専門家」がどう発言したのか、「要旨(要約)」だけでは、さっぱりわからない。
 そのことに加えて、もうひとつ、変なことが起きている。
 衆院の解散が噂されている。もし、衆院が解散され、総選挙が行われれば、国民の関心は選挙に向かう。「有識者会議」の議論の中身は話題にならなくなるだろう。関心を拡散させ、国民が何も理解しない内に、どたばたと既成事実がつくられていく。


*

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金井雄二「縁側」、金井裕美子「きのうの十五夜」

2016-11-16 20:34:16 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「縁側」、金井裕美子「きのうの十五夜」(「独合点」127 、2016年10月10日発行)

 金井雄二が出している詩誌も小さなもの。「目移り」がしない。今度の号の「縁側」は、こういう作品。

明け方
雨の降る激しい音で
目が覚めた
庭先の縁側から
雨に濡れて
父親が入ってきた
土気色の顔をして
精気がない
冷たい手で
握手をした
僕は父親に
なんとなく詫びた
べつに詫びる必要もなかったけれど

 「父親」は幽霊。死んでいるのだろう。「雨に濡れて」は。陰湿な感じ。「土気色の顔」「精気がない」「冷たい手」も同じ。死人の姿。紋切り型の表現である。こういう表現はおもしろくないし、私は幽霊というものを見たことがないし、感じたこともないから、リアルかどうか判断できない。ありきたりだなあと思って読む。
 でも「ぼくは父親に/なんとなく詫びた/べつに詫びる必要もなかったけれど」は金井の人柄をあらわしている。人柄がわかって、おもいろい。
 三行ほど省略するが、この詩はこうつづく。

父親はなにも言わないので
母親のことや姉のことや妹のことを
かまわずにしゃべりまくった
黙って聞きながら
ときどき薄笑いなど
うかべて
いつのまにか
庭先の縁側だけになってしまった

 「庭先の縁側だけになってしまった」で、私は傍線を引いた。うまい。「消えていなくなった」ではなく、残された「事実」だけを書いている。このとき「縁側」そのものが「父親」に見える。父親はきっと、いつも縁側にいたのだ。部屋の中や便所にもいただろうけれど、金井が思い出す父親は縁側と一体になっている。縁側を見ると父親を思い出すのだろう。

また来るだろうと思ったし
怖くなかった
外では水滴たちが
鳴り響いていて
その音楽で
ぼくはふたたび
目が覚めた

 この終わりは、縁側にあらわれた父親が「夢」だったと説明している。「論理」にしてしまっている。
 ここは残念。
 「庭先の縁側だけになってしまった」で終わるとすっきりすると思う。書き加えるにしても「また来るだろうと思ったし/怖くなかった」まででいいのでは。
 最後は「土気色の顔」云々と同じように紋切り型。「論理」の紋切り型。「縁側」という「事実」が「論理」のなかに飲み込まれ、消えてしまう。「形式」になってしまう。



 金井裕美子「きのうの十五夜」は金井の詩と共通した匂いがする。十五夜を見ようとすると、「おばあちゃん」ついてくる。その中ほど。おばあちゃんの話。

ゆうべ 初恋のひとがきて
真正面から
じいっと見るもんだから
ああ見ないで 恥ずかしい
こんなにあたしばかり
歳をとっちゃった と
両手で顔を隠していたら
いなくなっちゃった

 「初恋のひと」は死んだひとかもしれない。おばあちゃんは生きているのか死んでいるのか、わからない。私は、死んだおばあちゃんと金井が会話し、その会話の中に「おばあちゃんの初恋のひと」が出てきたのだと思って読んだ。死んだひとが現われるということが二回繰り返されることで、それがまた繰り返されるだろうと想像される。つまり、この詩を読んだひとは、金井もそういうおばあちゃんになって、だれかに思い出の中に現われ、「ああ見ないで 恥ずかしい/こんなにあたしばかり/歳をとっちゃった」と言うんだろうなあと思うと楽しくなる。死んでいるのに、生きている感じ。
 「論理」が繰り返されることによって「現実/事実」になり、どう詩に「現実」を超える「永遠」になる。そこがおもしろい。
朝起きてぼくは
金井雄二
思潮社
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天皇と「祈り」

2016-11-16 01:20:47 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇と「祈り」
               自民党憲法改正草案を読む/番外41(情報の読み方)

 2016年11月15日の読売新聞(西部版・14版)13面に、天皇の「生前退位」(読売新聞は15日付朝刊から「退位」と表現している)有識者会議の「ヒアリング」の概要が掲載されている。
 6人の発言者のなかで、私が注目したのは渡部昇一(上智大名誉教授)と桜井よしこ(ジャーナリスト)の発言である。
 渡部の発言には「退位せずに摂政で対応」という見出しがついている。

 天皇陛下が(8月に発表したビデオメッセージで)摂政は好ましくないとおっしゃったのは、最後まで国民の目に見えるところで象徴天皇の仕事をしたいということだろう。ありがたいが、宮中で国と国民のためにお祈りくだされば、天皇の仕事は本質的に十分なさったことになる。
 天皇の身体は宮中にあっても、国民のために祈ることが最も大切なことである。(略) 天皇と摂政が併存しても天皇はそのままお祈りをつづけており、元号も変わらない。どちらが「象徴」なのかという問題は生じない。(退位ではなく摂政の設置で対応することは)混乱の多い世界で日本の安定性を示すことにつながり、国威の宣揚にもなる。

 桜井の発言には「譲位は皇室の安定を崩す恐れ」という見出しがついている。

 天皇の役割は、国家、国民のために祭祀を執り行って、祈ってくださることだ。いてくださるだけでありがたい。その余のことを天皇であるための要件とする必要も理由もない。(略)譲位でなく摂政を置かれるべきだ。

 私が注目したのは「祈り」ということばである。
 「宮中で国と国民のためにお祈りくだされば、天皇の仕事は本質的に十分なさったことになる。」(渡部)「天皇の役割は、国家、国民のために祭祀を執り行って、祈ってくださることだ。」(桜井)と、ほとんど同一のことを言っている。
 前回の平川祐弘(東大名誉教授)の発言に似たところがある。

 「天皇陛下ご苦労さま」という国民の大衆感情が天皇の退位に直結してよいのか。民族の象徴であることは、祈ることにより祖先と続くからだ。
 今の天皇陛下が各地で国民や国民の思いに触れる努力はありがたいが、ご自身が拡大された役割だ。次の皇位継承者にも引き継がせたい意向に見受けられ、個人的解釈による天皇の役割を次の天皇に課すことになる。

 「祈り」だけが「象徴」のつとめである。「祈り」は「先祖へとつづく」というのが、平川の主張。国民とのふれあいは「象徴」のつとめではない。
 天皇が大切にしている「国民とのふれあい」を、平川は「拡大解釈」ととらえ批判していた。「国民とのふれあい」の「禁止」(廃止)を訴えているとも言える。
 これを渡部は「宮中で」ということばで言いなおしている。天皇を「宮中」に閉じ込めようとしている。桜井はそこまでは言わないが「いてくださるだけでありがたい」という形で、国民との接触を遠ざけている。
 ここに私は注目した。この部分を私は「誤読」し「妄想」する。。
 天皇は大災害が起きると被災者のもとにかけつける。ふれあう。それは天皇にとっては、たぶん「国民とともに、国民の安全を祈る」ということなのだと思う。「祈り」は「祈り」を必要とする人の隣にいて、いっしょに「祈る」ときに、「祈り」がつたわる。
 戦没者追悼式なども同じだろう。国民のいるところで、国民といっしょに「祈る」。天皇の基本姿勢である。思想である。別な場所、国民から離れた場所での「祈り」ではだめであるというのが天皇の「思想/人柄」である。
 平川、渡部、桜井は、「国民といっしょ」という天皇の「あり方(人柄)」を否定している。国民と切り離し、「宮中」に閉じ込める。「人柄」の否定は「神格化」とも言えるが、一種の「隔離」でもある。「隔離」した場所で「祈り」に専念させる。その「祈り」は国民には見えない。「神格化された存在/神」であるから見える必要はないということかもしれない。
 この三人に共通するのは、もうひとつ。「摂政の設置」。これは、天皇の「負担を軽くする」という「名目」で提言されているが、私は別な見方をする。三人は「摂政」の設置で、国民と天皇の分断を狙っている。
 図式化すると。

天皇-摂政-国民

 ここに「連続」と「分断」がある。図式は、次のように言い換えることができる。

天皇-宮中-国民

 このことは、今回の渡部の発言ではっきりした。天皇と国民を触れさせないというのが、安倍の狙いなのだ。
 天皇が「生前退位」の思いを国民に直接語りかける前に、官邸(安倍側)と宮内庁(天皇側)で水面下の折衝がおこなわれていたことはすでに報道されている。官邸が「摂政の設置」を持ちかけ、天皇が拒んだ。天皇は、摂政によって天皇と国民との直接的ふれあいがなくなると感じたから拒んだのだろう。

 「摂政」は、どのように行動するのだろうか。
 現行憲法には、天皇の「行為」について、こう規定している。

第三条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

 自民党の憲法改正草案では、こうである。

第六条の十項の4
天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。

 たぶん、これに準じることになる。現行憲法では「内閣の助言と承認」であったものが、改正草案では「内閣の進言」にかわっている。
 「進言」は「助言」よりも、「こうしなさい」という指示が強いと私には感じられる。「指示」を含んでいるからこそ「承認」は必要としない。承認していないことは「指示」できない。
 私はここから、安倍は「摂政」を置くことで、「摂政」への「指示(進言)」強める。つまり「支配」することを狙っていると「妄想」する。
 天皇を国民と分断し、「摂政」を通じて、実質的に国民を支配する。
 このとき「象徴」は、どうなるのか。「象徴」のつとめはどうなるのか。ないがしろにされる。二の次になる。
 これは現行憲法と自民党の改正草案を比較するとわかる。

(現行憲法)
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
(改正草案)
天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 改正草案では、天皇は「象徴」である前に「元首」である。その「元首」の代理(?)として「摂政」がある。その「摂政」に内閣は「進言する(指示する)」。このとき天皇は名目上は「元首」であるが、実行力はない。お飾りである。
 「元首」である天皇を「祈り」に専念させ、「象徴」としてもちあげ(お飾りにし)、「内閣」が「摂政」を通じて「国事」をおこなう。「内閣」が「国事」を指示する。
 私の「妄想」では、日本はそういうふうに変わっていく。「有識者会議」は、そういう道筋を「安倍の独断」ではないと否定するための「アリバイ」づくりに見える。




*

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田口三舩「ことば躍らせて」

2016-11-15 10:20:29 | 詩(雑誌・同人誌)
田口三舩「ことば躍らせて」(「SUKANPO」22、2016年11月11日発効)

 「獣/けもの/ケモノ」。きのう読んだ谷元益男の作品に「獣/けもの」が出てきた。何を指しているか、よくわからなかった。田口三舩「ことば躍らせて」には「ケモノ」が出てくる。これは、どうか。

ガリ ガリ
荒れ野に逃げ込んだ
ちっちゃなケモノたちを
追いかけている音だ
ガリ ガリ
姿かたらの見えない
イノチをかき集めては
凍りついたこころを
蘇らせようとしている響きだ

ガリ ガリ
鉄筆を振るい
一瞬を永遠に
永遠を一瞬に凝縮して
ちっちゃなケモノたちの
その姿かたちを
岩肌のこころに
刻み込もうとしている叫びだ
ガリ ガリ
ことば躍らせて

 「ちっちゃなケモノたち」はウサギでもキツネでもない。ネズミでもない。しかし、ウサギ、キツネ、ネズミであってもいい。いや、すべてが「ひとつ」になったもの。「姿かたち」の特定できないもの。名前のないものである。「荒れ野」も同じ。「荒れ野」と呼ばれているだけで、特定の場所ではない。「ケノモたち」のいる「場」であり、また「ケモノ」たちそのもののことでもある。「荒れ野」と「ケモノたち」は同じもの。「イノチをかき集め」た何か。同時に、「ケモノたち」を「追いかけている私(田口)」そのもの。区別はない。「凍りついたこころ」であり、「(こころを)蘇らせようとしている私(田口)」でもある。すべてが融合していて、瞬間瞬間に「生まれてくる」存在である。
 比喩/象徴と言い換えてもいい。具体的な存在ではない。「ここにある」。しかし、「ここにあることば」では言い表わすことのできない何か。「存在」というよりも、「運動」が次々に生み出す「道」のようなものかもしれない。「追いかける」ときだけ、あらわれてくる。「追いかける」ものにしか見えない「ケモノ」「荒れ野」「イノチ」。
 「姿かたちの見えない」の「見えない」が比喩/象徴のあり方なのである。「見えない」けれど、いま、田口には「聞こえている」。「響き」が。別の詩人なら逆に「聞こえない」、けれど「見える」と言うかもしれない。「肉体」のある器官は存在をはっきりと認識できる。けれど別の器官は認識できない。その「矛盾」のようなものが比喩/象徴といえるかもしれない。
 これを田口は追いかけ、捕まえようとしている。ことばで。このとき、捕まえるのは「ケモノたち」であり、田口自身だ。

ガリ ガリ
鉄筆を振るい

 ことばは「抽象」ではない。ガリを切る手の動きである。鉄筆が文字を刻み込むときの抵抗感である。ガリガリという音を聞く耳である。増えていく文字を見つめる目である。「肉体」を総動員して追いかけている。その「肉体」の動きこそが「ことば」だ。
 ことばが何を捕まえたのか、よくわからない。わからないけれど、逃がしたくない。だから「刻む」のだ。「岩肌のこころに」という一行は、洞窟に描かれた狩りをする人間の姿と獣たちを連想させる。とらえられているのは「一瞬」だが「永遠」でもある。区別はつかない。
 書かれている「内容」は抽象的なのに、書かれている「肉体」は具体的である。だから身に迫ってくる。

 区別できない何か。それを追いかけ、ことばにし、ことばを消えないように刻む。
 昔、ガリ版で同人誌をつくっていたことを思い出す。みんなガリ版を切っていた。池井昌樹も、私も。印刷も自分でしていた。製本も自分でした。あのときの熱に浮かされたような感じが蘇ってくる。
 池井昌樹は手書きのコピーを閉じた「森羅」を創刊したばかりだが、手作りの本はいい。田口の詩誌はガリ版、手書きのコピーではないが、表紙を含めて8ページの薄いもの。自分自身のことばを書き残すための最小限の形といえるかもしれない。
 こういう「ちいさな」本が、なぜか、とてもうれしい。そこには「イノチ」がぎっしりとつまっている。一行一行から「イノチ」が飛び出してくる。



詩集 能泉寺ヶ原
田口 三舩
榛名まほろば出版
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千人のオフィーリア(メモ16)

2016-11-15 01:00:34 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ16)

眠りがまだ幼い少女だったころ、
木の舟に乗って月の川を流れるオフィーリア。
櫂もなく、流れのママにただひとり。
一本の木の下をくぐるとき、
水の向こうへ行ってしまった母の夢が乗り込み、
ゆっくり戻ってくる。
この岸辺。

さあ、左手を出してごらん。
重ねてごらん。
太陽の丘から見下ろす感情の川。
木星が水源の知能の川。
金星の丘にそってカーブする命の川。
知っているかい?
感情と知能の川を横断していく運命の川があることを。




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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