詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷元益男『滑車』

2016-11-14 10:41:38 | 詩集
谷元益男『滑車』(思潮社、2016年10月30日)

 谷元益男『滑車』は『水源地』につづく詩集。読みながら、私はとまどってしまう。「あとがき」に、こう書いてある。

 この狭い村で、生まれて死んで逝く、多くのいきものの「日常」を視たい。生まれることの喜びよりも、死のなげきの方が多い、小さな「村」の人々。

 私は北陸の貧しい集落で育ったので、谷元が書いている「日常」はある程度理解できる。しかし、その「日常」は私の知っているいまの北陸の集落とはぜんぜん違う。「記憶の集落」にしか見えない。
 「記憶の集落」とは、いまのことばでつかみとった集落ではなく、過去のことばでつかみとった集落。「過去のことば」が動いている。見知ったことば、言い換えると「流通言語」が動いている。
 だから、とまどう。
 詩集に書かれていることがらは『水源地』と同様に、読者にすばやく届くだろう。読者の記憶を揺さぶり、生と死を考えさせてくれるだろう。しかし、いま多くの「村」で起きていることと、どれだけ「正直」にむすびついているだろうか。

沢の声

人里はなれた山奥に
分け入った女は 斜面で死んだ
被いかぶさる枝をかきわけ
水源地に向かう途中
首に鈴をつけた足の長い犬が
女の前を通りぬけた
犬が女にけしかけるように動いた瞬間
銃声が深い沢をぬい
波打った

穂を拾うように
腰の曲がった女は
猛犬に追われる獣にまちがわれ 撃たれたのだ
切り立つ沢は
わずかに流れる水と 老女の血で
褐色に変わり
女の最後の悲鳴を 二匹の犬がくわえて
地を這うように駆けていく

近寄ってきた男は とっさに
銃を放り投げた
吐き出した地声が斜面を
岩となってころがっていく
男が 抱き抱えた女は
妻だったのだ

すでに息は絶え
曲がった腰骨が
牙のように とがっていた
男が 水源にむかって
けもののように叫んだとき
山も
ひざまずき 崩れはてた

 山奥の村では老人だけが取り残されて暮らしている。これは、いま現実に起きている事実である。しかし、山奥で、妻を獣と間違えて撃ってしまう男を、私は「現実」として想像できない。
 腰が曲がっても、老女は山奥へ「仕事」をしにゆく。山菜取りか、キノコ取りか、たきぎ拾いか。私の田舎ではもうそんなことはしない。山菜取りも山の奥までは入らず、畑、田んぼ仕事の帰りに道端で取るくらいだ。腰が曲がっていては山の斜面は危なすぎる。
 銃をつかう男は50年前にはひとりいたが、いまはいないだろう。物騒すぎる。妻が腰が曲がっているなら、夫も腰が曲がっている。猟にはいかないだろう。銃で仕留められる確率はとても低い。猟に行けるような体力が老人には残っていない。
 年取った二人にできることは、庭先の畑で、手入れをあまりしなくても育つ野菜をつくり、食べることくらい。先日、すとうやすお「さやえんどうをつむ」を読んだが、それが老人にできることである。すとうは「肉体」をきちんと描いていたが、谷元は「肉体のいま」を描いていない。
 もっと具体的に見てみる。
 老人が銃を撃つ。狙った「獲物」はどれくらいの距離にいるのだろうか。百メートル? まさか。私は三十メートル以内だと思う。「獣/けもの」ということばが出てくるが、イノシシ、鹿の類ではなく、狙いはうさぎ、きつねの類だろう。イノシシを狙うときは、ひとりでは行かない。重くて持ち帰れない。三十メートル以内、小さな動物を目で確認して銃を撃つ。そうであるなら、妻も見える。谷元が書いている「誤射」を私は想像することができない。
 女が最後の悲鳴をあげる。連が変わって(時差があって)、「近寄ってきた男は とっさに/銃を放り投げた」。殺したのが妻だとわかったからだが、えっ、と思う。女が悲鳴を上げたのなら、悲鳴を聞いたときに「獣/けもの」ではないことがわかる。ひとは驚き、銃を放り投げ、女の方へ駆け寄るの。銃をもったまま近づいていくとは、とても思えない。犬にも倒れたのが飼い主であるとわかる。立ち去りはしないだろう。「女の最後の悲鳴を 二匹の犬がくわえて/地を這うように駆けていく」ことはないだろう。
 男が狙った「獣」が百メートル先で、悲鳴が小さな声で、男には聞こえないということがあるかもしれない。しかし、先にも書いたが、そんな具合に老人が猟をするとは思えない。老女がそんな場所で仕事をするとも思えない。

 谷元は「事実」ではなく、「ストーリー」を書いているのかもしれない。それならそれでかまわないが、なぜ、いま、こういう「ストーリー」が必要なのか。疑問だ。
 この作品は「ストーリー」が極端に展開された作品なのかもしれない。他の作品にも、私は「ストーリー」を感じてしまう。「死のなげき」が強調されていると感じてしまう。
 すとうの「さやえんどうをつむ」には、小さな仕事の「喜び」が書かれていた。「死」は書かれていないが、静かな「死」を感じさせるものがあった。「いま」を受け入れて生きている。「受け入れる」という生き方に「死」が含まれていると、私は感じた。
 谷元の作品は、「いま」を受け入れるというよりも、「いま」をわざとらしくつくりだしている。「わざと」書くのは「現代詩」ではあるけれど、私はとても違和感をおぼえる。
 谷元の書いている悲劇はいまの「山村」では起きない。目に見えない、言い換えると「流通言語」ではとらえきれない悲劇がしずかに「山村」をむしばんでいる。
滑車
谷元 益男
思潮社
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ギオルギ・オバシュビリ監督「とうもろこしの島」(★★★★)

2016-11-13 20:54:33 | 映画
監督 ギオルギ・オバシュビリ 出演 イリアス・サルマン、マリアム・ブトゥリシュビリ

 川を挟んでで戦争がある。川には、春になると中州ができる。雪解け水が肥沃な土を運んでくる。だれのものでもない土地。最初に上陸したものの土地になる。土地をもたない老人がそこでトウモロコシをつくる。
 この過程を、ほとんど台詞なしで描く。
 まず家(小屋)を立てる。古い材木を持ってきて、四角く囲む。内側に穴を掘る。柱を立てる。立方体の骨組みをつくる。古い木材は、以前小屋だったらしい。収穫が終われば小屋を解体し、必要になればまた組み立てる。繰り返しの「過去」が感じられる。小屋を造る無駄のない動き、老人の肉体がそう感じさせる。これが、とてもおもしろい。まるで季節の変化のように、自然で、確実なのである。美しい。
 この作業に少女が加わる。老人の孫らしい。少女が加わっても、映画の描き方はかわらない。会話はない。働いて、休んで(いっしょに、四角く囲った大地に寝ころんで)、起きてまた働く。川魚を取って、焼いて食べる。保存食の干物をつくる。
 小屋が完成すると、大地を耕す。スコップで、老人が黙々と畑をつくる。種をまく。水をやる。芽が出てくる。大きくなって、実を結ぶのを待つ。老人と少女の暮らしは、それだけで終わるはずだった。
 しかし、まわりで戦争が起きているので、淡々とした繰り返しだけではすまない。ある日、島へ敵の兵士が逃げ込んでくる。傷ついている。老人は兵士を匿う。傷を治してやる。味方の兵士がやってきて問う。「傷ついた敵の兵士をみなかったか」。「見なかった」。老人は嘘をつく。老人にとって、戦争はどうでもいい。生きて、食べて、生き続けることだけが大事なのだ。少女に両親はいない。戦争で死んだのかもしれない。そういうこともあって、敵、味方のどちらに与するかということよりも、生きている人を助けるということだけを考えるのだろう。
 傷ついた兵士に少女が恋をする。ことばは互いにわからない。しかし、青年と思春期の少女。若い男女に、ことばはいらない。見つめ合えばわかる。トウモロコシ畑のなかで追いかけっこをし、川(水)のなかで追いかけっこをする。老人が叱る。やがて、兵士は島を出て行く。
 この伏線として、敵の兵士が川岸から少女に、「遊ぼうよ」と声をかけるというシーン、さらに味方の兵士がボートで巡回していくとき少女をじっと見つめる。見つめる視線に少女が気づくというシーンがある。ひとり夜更けに川に入り、体を洗うシーンもある。少女は少女の「肉体」のなかで動き始めている力を抑えきれない。トウモロコシが日の光を浴びて実るのと同じように、少女の肉体も実り始めている。
 小さな曲折はあるが、トウモロコシは順調に育つ。あとは収穫をするだけ。そう思っていると、突然、嵐が襲ってくる。大雨である。堤防をつくる。間に合わない。できるだけ刈り取ってポートに積む。やはり間に合わない。老人は少女をボートに乗せ、自分も乗ろうとする。けれど乗れない。激流がボートを攫っていく。老人は小屋にすがりつく。小屋は水に押しつぶされ、流される。老人は、小屋といっしょに流されてしまう。
 嵐の後、味方の兵士がやってくる。老人が最初に上陸したときのように、中州は更地である。トウモロコシも小屋もない。兵士がやわらかな土に触れ、指で掘ってみる。少女が持っていた人形が出てくる。
 ここで終わる。
 何を描いていたのか。自然の残酷さか。あわれな老人と少女か。戦争の悲劇か。しかし、戦争がなくても、老人と少女は洪水に飲み込まれたかもしれない。だから、戦争を告発していると、簡単に言ってしまうこともできない。
 逆のことは言える。老人と少女は死んでしまう。けれど、二人が死んでも、二人が暮らしていた時間を私は忘れることができない。ここに住むのだ、家を建て、畑を耕し生きていくのだと決意し、淡々と動く肉体。老人なのに鍛えられた動き。繰り返しがつくりあげた肉体のリズム。魚を獲って、捌いて、焼いて、ひものもつくる。太陽の光がふりそそぐ大地に寝そべって、眠って、また働く。そうしていたときの、ふたりの輝きを忘れることができない。少女が若い兵士に声をかけられ、少女の肉体のなかでなにかが動く。それが傷ついた兵士と接したとき、恋になって暴れ出す。その瞬間の、弾ける輝き。それが忘れられない。
 生きている人は輝く。生きて、人は輝く。それが主題だと私は思う。
 その輝きが強いためだろうか。不思議なことに、この映画は私の記憶のなかでモノクロになっている。カラーだったはずだが、どのシーンもまぶしい光を放っていて、色は光の背後に消えてしまっている。
 「みかんの丘」も同時上映されていたのだが、見逃してしまった。
                        (中州大洋3、2016年11月09日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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千人のオフィーリア(メモ15)

2016-11-13 08:49:41 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ15)

オフィーリアをのぞきこむオフィーリア、
オフィーリアをのぞきこむオフィーリアを見上げるオフィーリア、
橋の上、橋の下、鏡の前、鏡の中、
見られるオフィーリアは見るオフィリーの何でできている?
見るオフィーリアは見られるオフィーリアの何でできている?

九番目の爪。ベッドで聞いた雨音。瓶。のち、西の風。
角を曲がるまで。男がおんなにしたことのすべて。嘘。
日食。五月の木漏れ日は三日月の形。ラフランスの味。
何か言った? 取り上げられなかった赤子。の膝の裏。
砕かれて。な忘れそ。作り話。ぺちゃくちゃ。青い水。
すれ違った女は私より美しい。敷石。枯れ葉の穴から。
知らないわ。つぼみ。ペルシャのズボンを履いたゆめ。
おのまとぺ。まるで、あれみたい。もう一度。な匂い。
悪い道。蝋。消えない香水。去勢されたくすくす笑い。

はるかな高み、銀河を流れていく五百九十二人目のオフィーリアよ、
私だけに教えて。オフィーリアの何でできている?




*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、残部僅少。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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トランプ革命

2016-11-12 20:53:41 | 自民党憲法改正草案を読む
トランプ革命
               自民党憲法改正草案を読む/番外39(情報の読み方)

 トランプのアメリカ大統領選勝利後、いろいろなことが報道されている。読売新聞は「トランプ革命」という連載を始めた。その2回目(中)が2016年11月12日日読売新聞朝刊(西部版・14版)に制裁されている。「保護主義 世界経済に影」という見出しがついている。
 そのなかで、気になる部分がある。

 米国の「内向き志向」は日本企業に試練となる。
 NAFTAにより米国に関税ゼロで商品を輸出でき、賃金が安いメキシコには、トヨタ自動車やマツダ自動車など日系4社が生産拠点を構える。みずほ銀行産業調査部によると、2015年にメキシコで生産した 132万台のうち56万台が米国向けだ。関税がかかるなら、生産拠点の見直しも避けられない。

 ここに書かれている(省略されている)情報は、TPPに先行したNAFTAの問題点を隠している。それを私なりに読み解くと……。
 NAFTA以後、大企業(グローバル産業)は生産拠点をアメリカからメキシコに移した。アメリカの人件費が高いからである。人件費の安いメキシコで生産すれば、それだけ商品を安くできる。つまり、売りやすくなる。売れる。商品の値下げは消費者にとっても歓迎できるものである。企業も消費者にもいいシステムに見える。
 しかし、このシステムを労働者の側から見つめなおすとどうなるか。メキシコの労働者にとっては「歓迎」できるものである。新しい雇用が生まれる。自動車工場で働くことで、いままで以上の賃金を稼ぐことができる。
 一方、アメリカの労働者にとってはどうか。アメリカにあったトヨタ、マツダの工場がメキシコに移ってしまうということは、職場がなくなるということである。失業である。五大湖近くの州でトランプが軒並み勝利したのは、それらの州の労働者(有権者)がNAFTA以後失業し、不満を抱えていた証拠である。大企業はもうかるかもしれないが、労働者(市民)は苦しくなるだけのシステムがNAFTAだったのである。
 TPPが発効すれば、同じ問題が拡大する。工業製品だけではなく、農業製品も「安い」ものが売れる。「高い」ものは売れなくなる。「失業」が増える。「もの」を売りさばく企業だけが、「もの」を流通させるシステムを利用してもうけることができる。「生産者(労働者)」ではなく「経営者」だけがもうかるのが、いま、世界を覆っているシステムである。
 視点をかえてみよう。もし、メキシコに移転した工場が、アメリカで操業していたときと同じ賃金を労働者に支払った場合は、どうなるか。企業(経営者)の「もうけ」はかわらない。それは逆に見れば、企業は工場をメキシコに移すことで「搾取」の対象をアメリカ人からメキシコ人に変更したのである。
 簡略化して、算数にしてみる。アメリカ人に 100ドル払ってつくった商品を125 ドルで売る。25ドルが経営者の利益。同じ商品をつくるのに、メキシコ人なら賃金は50ドルですむ。(50ドルでもメキシコ人が働くのは、それまでのメキシコ人の賃金が25ドルだったからである。)そして、この商品を 100ドルで売る。消費者は 125ドルから 100ドルに下がったので、ずいぶんもうかった気持ちになる。
 このとき経営者の方に目を向けてみる。アメリカでは125 -100 =25。メキシコでは100 -50=50。なんと利益が倍増している。安くなった分だけ消費が拡大するだろうから、その利益はさらに膨らむ。だからグローバル産業は、このシステムに賛成である。
 問題は、「利益」を企業がどうしているか、である。社会に還元しているのか。労働者に還元しているのか。「利益」をもとに、アメリカで新しい商品のための工場建設し、アメリカ人を雇用するということがあれば、工場のメキシコ移転は問題にならないだろう。企業は利益を還元せず、ただもうけているだけなのである。
 また、労働者から問題を再点検しよう。メキシコの労働者が、メキシコ移転で企業が利益を拡大するのはおかしい。25ドルの利益が必要なら、賃金を75ドルまであげてもいいはずである、と要求したらどうなるか。企業は、きっと50ドルで満足する労働者を探し始める。いや、メキシコを捨てて40ドルで満足する労働者のいる国を探す。これは、労働者から見ると、賃金の果てしない「切り下げ」である。
 こういうことは、グローバル企業だけではなく、日本国内のそんなに大きくない会社でも頻繁に起きている。子会社を設立し、そこに業務を委託する。同じ仕事なのに、それまでの社員の賃金とは比較にならない賃金で新規雇用をし、利潤を増やす。これが、いま日本の多くの会社で起きていること。さらに、これに「非正規雇用」が加わる。日本では、企業経営者だけがもうかるシステムが動いている。
 トランプがやろうとしていることは、この連鎖を断ち切ること。ある意味では「経済革命」。「保護主義」と否定するだけでは、アメリカ人(貧困に苦しむ労働者/失業者)が示した「選択」の方向性を見誤る。「保護主義」という批判は、あまりにもグローバル産業よりの視点ということになる。

 もうひとつ、違う観点から考えたい。
 読売新聞の記事は「生産拠点の見直しも避けられない」と企業の心配をしている。企業の心配だけではなく、日本国民の心配をしてもらいたい、と私は思う。
 生産拠点を移転するのは企業にとって膨大な出費だろう。それは、わかるが、その結果、企業が納める税金はどうかわるのか。
 この問題だけにかぎらない。円高になると、輸出企業の利潤が下がる。大打撃になる。それはそうだろうが、それでは企業の大打撃が、私たちの「国の財政」にどれだけ影響するのか。具体的に説明すべきである。トヨタ、マツダが税金(法人税)をどれだけ国に納め、円高が進んだり、生産拠点の変更が必要になったとき、その税金はどれだけ減るのか。つまり、国の予算規模がどれだけ縮小するのか。そういう点検をこそ、報道機関はしてほしい。そういう「情報」を国民に知らせてほしい。
 大企業がどれだけ利潤を隠し、労働者を搾取しているか。それを明確にする視点、方法論が必要なのである。
 安倍はアベノミクスは成功している(道半ばである)と平然と言う。それは安倍の周辺、つまり大企業がもうかっている、利潤を増やしているという情報だけが安倍に届いているからである。つまり、アベノミクスというのは大企業の経営者向けの政策であって、国民向けの政策ではないということ。安倍が強引に推し進めるTPPも大企業向けの政策だからである。国民を無視して、大企業さえもうかればいいというシステムである。だからこそ、安倍は、それを推し進める。

 トランプ主義のもうひとつに「人種差別」がある。そして、それが「経済」が生み出したものであるのは事実だが、そうであるなら、いま進みつつあるグローバル経済主義というものが、どんな格差を生み出しているかという問題をみつめないことには、何も見つめたことにならない。
 大企業が損をする、どうしよう、という視点ではだめなのである。
 私はトランプの「人種差別」(平等の否定)には賛成できないが、大企業向けの政策ではなく、労働者向けの政策に転換するきっかけになるNAFTAからの離脱、TPP反対がどうなるかには注目している。「トランプ革命」が日本にどう影響するかに

 

*

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このブログで連載した「自民党憲法改正草案を読む」をまとめたものです。
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すとうやすお「さやえんどうをつむ」

2016-11-12 09:07:56 | 詩(雑誌・同人誌)
すとうやすお「さやえんどうをつむ」(「光年」150 、2016年09月15日)
 
 すとうやすお「さやえんどうをつむ」は「詩三篇」のうちの一篇。ある詩集を読んでいたとき、ふと思い出した。

うまれたての
やわらかいのをつむ
しおれたはなを
まだつけたのもつむ
つみとりきずのしるで
ひとさしゆびのさきを
ぬらしてつむ
うねをひとめぐりして
こんどははんたいにまわって
かくれていたのをつむ
まめをいれたふくろが
だんだんおもくなる

 文字どおり、さやえんどうを摘むということが書かれている。不思議にいとおしくなる。ことばのなかに、ことばでとらえられているものが、一瞬一瞬、生まれてくる感じがする。
 書き出しの「うまれたての」。えんどうなのだから「うまれる」という表現は「正しい」とは言えないかもしれない。だいたい「うまれたて」(結実してすぐ)ならば、小さすぎて食べるのには不適切ということになる。すとうは「事実」を書いていないことになる。でも、こういう「理屈」は「屁理屈」。結実して、何日かたっていても、それをつもうとしたとき、それは「うまれたて」としてそこにあらわれてくる。この「ことば」と「事実」がいっしょになって、「いま/ここ」に、自然にあらわれてくる。それこそ「うまれてくる」のである。
 「やわらかい」も、そのとき生まれてきた「事実」なのである。「うまれたて」の「事実」なのである。「やわらかい」ということばをつかわなくてもえんどうはやわらかいかもしれない。でも、「やわらかい」ということばで、そのときに「やわらかい」そのものが生まれてくる。何だが、うまれたての赤ちゃんを見るような、どきどきした気持ちになる。
 「しおれたはなを/まだつけたのもつむ」は最初の二行を言いなおしたもの。花の名残がある。「しおれた」は花の死を意味するかもしれないが、それが逆に「うまれたて」を輝かせている。「うまれたて」をあらためて発見、確認している。
 その次の、

つみとりきずのしるで
ひとさしゆびのさきを
ぬらしてつむ

 この三行が特にいいなあ。「つむ」という動詞は「肉体」を含んでいるけれど、最初の四行のなかの「うまれたて」「やわらかい」「しおれた」ということばは、摘んでいる人(すとう)の「肉体」というよりもえんどうの「肉体」を感じさせる。えんどうのみずみずしさが最初の四行で書かれている、と感じる。「つむ」という動詞は、最初の四行ではまだ「脇役」だ。
 それが、この三行で「主役」にかわる。
 「つむ」。そうすると「つまれるえんどう」の方から「反動」のようなものがかえってくる。えんどうが傷つき、しるを飛ばす。それが指先につく。そのしる(滴/飛沫)のようなものを指に残したまま、えんどうを摘みつづける。あたりまえのことなのだけれど、ここに、あ、働いている、肉体が動いていると感じる。えんどうを摘んだときのことを思い出すのである。あ、おぼえている。たしかにそうだった、と思う。このとき、えんどうが「うまれたて」の状態で生まれてきたように、「肉体」が「生まれてくる」。ここに書かれているのは、すとうの「肉体」なのに、まるで私(谷内)の「肉体」として生まれてきて、動いている感じがする。
 えんどうのしるでぬれる。それは「ぬれる」ということばではなかなか言わないものである。「流通言語」の奥でしずかに生きていたことばが、いまたしかに、「うまれて」いるのである。「生まれて」、そして「生き直している」。だから、感動する。「えんどうをつむ」というのは、ありふれたことなのに、それがことばといっしょに「生まれて、生き直している」。
 そのあとも「肉体」がていねいに描かれる。「うねをひとめぐり」と「はんたいにまわって」は同じこと。同じことだけれど、言いなおすことによって「反対」が新しく「生まれてくる」。そして、それは「かくれていた」を発見する。つまり、「生み出す」。発見とは、そこになかったものを見つけることではない。見落としていたものを、「そこにあった」と気づくこと。気づくだけではなく、それを「事実」として「生み出す」ことなのだ。
 「出産」ということばを、あえてつかいたいくらいである。それは「肉体」の「分離/分節」なのだ。そこから、まったく新しい「肉体」が動き始めるのである。

まめをいれたふくろが
だんだんおもくなる

 これは、摘み取ったえんどうをいれる「袋」、すとうが脇に抱えている「袋」が重くなるということを書いているのだが、私には、同時に摘み取られたえんどうの袋(さや)そのものが「充実して」、言い換えると「いっそう実り」、えんどう自体が重くなるようにも感じられる。摘まれることによって、えんどうの生長が始まる。そういうことは「現実」にはないのだが、摘んでいる「肉体」にはそう感じられる。
 すとうは、いままで存在しなかった「えんどう」を生み出している。そして、そのえんどうは、そのときすとうの「肉体」そのものでもある。「いのち」でもある。
 
みずたまり
すとうやすお
書肆山田
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千人のオフィーリア(メモ14)

2016-11-12 00:00:00 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ14)

私の前にだれがこのことばを読んだのだろう。
存在しないオフィーリアよ、
私はカップに近づけていた唇をとじる。

--ことばにすると、どんな姿態も淫らではなくなる。
  だから唾でよごれる声は飲み込みなさい。

意識の喉がしろくふくらむ。
夜の鏡のなかで。カーテンを開けた夜のガラス窓のなかで。

そのころ、存在しない百三十七人目のオフィーリアは、
ウィンドーの内部のマネキンの長くのけぞる、のど。











*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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浜江順子『密室の惑星へ』

2016-11-11 10:29:45 | 詩集
浜江順子『密室の惑星へ』(思潮社、2016年09月30日発行)

 浜江順子『密室の惑星へ』には、天沢退二郎の「帯」がついている。それに、こう書いてある。

浜江順子の、最も際立った特質は、一言にして言えば、「批評」ということになるだろう。

 天沢の言う「批評」とは何だろうか。「黒い波」を読みながら、考えてみた。

波という異形が
闇の奥を蹴破る
光の渦に溜めた
水が青く白く
逆上して発光する

 一行目の「異形」が「批評」である。「波が/闇の奥を蹴破る」でもいいのだが、その「波」を「異形」と言いなおす。そして「波」ではなく「異形」そのものを「主語」にかえてしまう。「同化」ではなく「異化」。対象を突き放して、別の角度からとらえ直す。そこに起きていることを、ととのえ直す。その表現の全体を「批評」と呼ぶことができる。
 二行目の「蹴破る」は五行目の「逆上して発光する」という形で言いなおされている。だから、これも「批評」と呼ぶことができる。ただ押し寄せて「蹴破る」のではなく、その「蹴破る」のなかには「逆上する」という「逆向き」の運動がある。それは三行目の「溜める」という動詞とも響きあう。力を「溜める」だけではなく、それを「逆上する」というところまで持続する。そのあと、溜めた全エネルギーを放出する形で「蹴破る」。その「蹴破る」は「発光する」という動詞で言いなおされる。
 このとき「波」は「押し寄せる」ものではなく「発光する」という運動として「異形」完成させる。
 とてもかっこいい。かっこいい詩だなと思う。
 同じ運動が、それにつづく。

波の残像が
遠くうごめく
胸の内で
うっすら泡ごと
薄く流れる

 これは、最初の五行の言い直しである。つまり「批評」である。「波」の「現実」を描いた後、その「残像(記憶)」を描いている。「胸の内」とあるのは、それが「記憶(残像)」だからである。
 で、ここからが問題。
 何によって、そこにあるもの、そこに起きていることを「異化」するか。つまり、批評するか。浜江は「概念」によって「異化」している。この詩の場合で言えば「異形」の「異」、「残像」の「残」である。それは、それぞれ「異なる」「残る」という動詞として読み直すことができるが、この「動詞」はそれぞれ「頭」で動いている動詞であって、「肉体」が動いているわけではない。
 「蹴破る」という動詞は「肉体」で追認することができる。何かを蹴破った「肉体」の記憶をとおして、読者は「波」になり、それから闇の奥を蹴破るのである。そのとき「溜める」「逆上する」は、感情の「逆流」となって「肉体」をさらに活気づかせる。そのとき感情は「発光する」。何かしら、光を放っている。
 だが「異なる」というのは「識別」である。「残る」というのも、そこに何かが「残っている」という「識別」であり、それは「理性」であり、「頭」が判断したことがらである。
 この「頭」の存在を「批評」に結びつけてもいいかもしれないが、私は、こういう「批評」は理解はしても、信頼はしない。もっと簡単に言うと、ついていきたくない。騙されそう、と警戒してしまう。私は頭が悪いので、騙される前に、遠ざかろうとしてしまう。
 かっこいいとは思うが、そのかっこよさに「ついて行ってはだめ」と、私の中の何かが引き止めるのである。
 言いなおすと……。
 「沈黙のなかでベーコンの絵の歪みのように」(ふたつの顔)というのは、浜江は「ベーコンの絵を知っている」ということを語っている。「歪み」ということばで定義している(批評している)ことを語っている。だが、こんなふうに簡略化してしまうと、その「歪み」が「肉体」ではなく「頭」で処理されたものと比較しての「歪み」になってしまう感じがする。ベーコンは「歪み」ではなく、肉体(人間)の「真実」を描いたということが、奇妙な形で「嘘」になってしまう。つまり、私は「騙された」と感じるのである。私は、だから、こういうことばから「遠ざかる」。ほうとうに「見紙」なのか、という疑問がわいてくる。「歪み」ではないのじゃないか、と私の直感は言う。ベーコンを見たときの「肉体」のざわめきが「歪み」ということばに拒絶反応を起こす。

 私が好きなのは、たとえば「無関係な谷間」の次の部分。

                         何を
するかが問題なのではなく、何に隠れるかだけが問題なのだ。

 44ページまで読んできて、ここだけ「文体」が違うと感じ、思わず傍線を引いて立ち止まったのだが、私は、この部分が好きである。「問題」ということばがあるために、これこそ「頭」で動かしていることばのように思えるかもしれないが。
 私は「何」ということばから、こんなことを考えるのである。
 この「何」は「何」としか言えないものである。「それ」「これ」と同じ。日常のなかで、うまくことばにできないけれど、「あ、それ」という形で指さす身振り。その身振りの言語である。身振りで、言い換えると「肉体」で、不定形のままつかみとった何かである。
 だからこそ、その「何」をめぐって、「する」「隠れる」という動詞が動く。「する」はやはり身振りのことばであって、何をするかは明示されない。「隠れる」と対比して考えると「する」は「隠れる」の反対。「あらわれる」「あらわす」である。「肉体(自分の存在)」をどう「あらわす」か。どうやって「世界」に「あらわれる」か。つまり「生まれる」か。これが「隠れる」という動詞と対になって動いている。この対になるなり方が、とても強靱で、おっと驚く。
 これは、45ページで

                     同じこと
は、同じでなく、同じでないということが、同じなのだ。

 と反復されている。この部分も、私は「文体」が美しいと思う。ちょっと浜江の「文体」ではないような印象を持ってしまうのだが。
 で、この「同じことは、同じではなく、同じでないということが、同じなのだ。」は、私の直感の意見では「ベーコンの絵の歪み」である。ベーコンは、他の画家と同じように人間の肉体を描いた。人間の肉体を描くということは同じである。しかし、同じことをしているのに、その絵は他の画家と同じではなくなる。そしてその他の画家と同じではないということをとおして、他の画家と同じように人間を描いた、自分に見える人間を正直に描いたということで同じになる。それは「歪み」ではなく「同じ」と言いなおさないと、ベーコンにならない。「歪み」と言ってしまうと、「頭が整理した識別」になってしまう。
 「歪み」という「概念」でことばを動かしていた浜江が、ここでは「肉体」でことばを動かしている。「身振り」でことばを動かしていると、私には感じられる。だから、ここは好き。だから、信じてしまう。
 「何をするかが問題なのではなく、何に隠れるかだけが問題なのだ。」を「同じことは、同じでなく、同じでないということが、同じなのだ。」という「文体」そのものが「批評」であるべきだと、私は思っている。
 だから、そのふたつの文章に挟まれた次の部分。

関係したくないという意識が関係を生み、関係を結んで
いたいという意識が無関係を生むというパラドックスを
蹴ってしまいたいが、やはりズブズブと沼底に沈み、砂
を食う。

 これが、嫌いだなあ。「騙されたくないなあ」と思ってしまう。「関係/無関係」「意識/無意識」が「概念的」というのではない。「パラドックス」が「概念」なのである。「異形」や「残像」のように、便利すぎることばなのである。「肉体」の動きを省略して「頭」が現実を簡略化する。「同じことは、同じではなく、同じでないということが、同じなのだ。」を「歪み」という「名詞」で代弁するのと同じ。だから簡単に「砂を食う」と「砂を噛む」に通じる比喩になってしまう。

 天沢が「批評」ということばで何を言いたいのか、よくわからないが、私は「批評」ということばから、そんなことを考えた。
密室の惑星へ
浜江順子
思潮社
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山崎修平『ロックンロールは死んだらしいよ』

2016-11-10 09:45:14 | 詩集
山崎修平『ロックンロールは死んだらしいよ』(思潮社、2016年10月31日発行)

 山崎修平『ロックンロールは死んだらしいよ』は、ことばのリズムがとても読みやすい。読みながら、何か、のど(声帯/肉体)が反応してしまう響きがある。これは「現代詩」には珍しいことである。楽しいなあ、嬉しいなあ、と感じながら読み進んで、14ページ。

ペットボトルの水はもったいなくて捨てられなくて飲み干すんだ四弦が切れた日

 という一行がある。ここで、私は思わず傍線を引いて、ことばを読み直す。うーん、何かに似ている。「文学」なのだけれど「詩」ではない、何か。ことばの切断と接続の仕方、うねるような感じ。あ、短歌だ。

ペットボトルの水はもったいなくて捨てられなくて飲み干すんだ
                              (「美しい日々」)

 ここまででも「短歌」だと思う。「もったいなくて」と「捨てられたくなくて」は接続が強い。「意味」としては同義。このときの「意味」は、どちらかというと「気持ち」。それを「飲み干すんだ」とつなぐとき、「意味」が「気持ち」から「肉体(の動き)」に変わる。ことばの内部で「ねじれ」が起きる。そして、その「ねじれ」が「強さ」を感じさせる。この感じが、いいなあ、と思う短歌に似ている。
 この「接続と切断」に、強引に(?)「四弦が切れた日」が結びつけられ(接続させられ)、その強引さが一行を結晶化させる。完結させる。
 と思っていたら、

ペットボトルの水はもったいなくて捨てられなくて飲み干すんだ四弦が切れた日
の午後に飲むアイスカフェラテとミニマルミュージック。

 先の一行は一行ではなく、二行のことばだった。
 そして、その後半部分、これを一行にすると、こうなる。(句点「。」は省略)

四弦が切れた日の午後に飲むアイスカフェラテとミニマルミュージック

 こうして読むと、これもまた短歌である。「四弦」と「ミニマルミュージック」の接続が「アイスカフェラテ」を「飲む」という切断によって強調される。感情の断面のようなものが、そのときに光る。「切れた(切る)」という「動詞」、「飲む」という「動詞」が「終止形」ではなく、「連体形」として「名詞」につながっていく。「名詞化」されている、この「ねじれ」のようなものも、たぶん短歌のリズムである。少なくとも「散文(小説)」のリズムではない。
 このあたりが、山崎の「文体」(思想)の特徴だな、と思って、前に戻って読み直す。巻頭の「乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学」という長いタイトルの詩。その四行目。

初対面の抽象的な絵画あるいは人の列、解釈不能なすべて

 これも短歌になるなあ。「絵画」と「人の列」というのは展覧会の会場の様子ととらえれば「接続」だが、「絵画」から「人」へは存在(名詞)の切断がある。それを「抽象的」と「解釈不能」という「長い接続」が飲み込み、完結するとき、やはりことばの内部で「ねじれ」が生まれる。
 この「ねじれ」を「ねじれ」のまま持続すること。そこに思想がある。持続するとき、そこに思想が生まれる。独特の「肉体」が屹立する。

乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学となって

 この一行は、短歌になりそこねた(?)感じ。長すぎる。でも、それに続く、

最低な日々のことを苦々しく笑うバスの後部に座る夕方の

 この一行の最後の「の」を捨てると短歌になると思う。「最低」と「笑う」の苦々しい切断/接続の混合。それを「バスの後部座席」で大きく転換し、「座る」という「動詞(肉体)」で抑えるとき、それ以前に書かれている「感情」が「ねじれ」のまま屹立し、「夕方(たぶん夕日)」と向き合う。
 それから、たとえば、

愚かで冗長だと思うだろうありふれた真夏の慰めなどはいらない
しきたりと建前のあいだに手作りのポップなチョコレートがあって
君に貰えて嬉しかった。ひとつの秘密を共有することから始まるなら

 この三行は、そのまま短歌をつないだもののように感じる。特に、最後の部分を捨てて一行一行独立させると、短歌の匂いが強くなる。

愚かで冗長だと思うだろうありふれた真夏の慰め

しきたりと建前のあいだに手作りのポップなチョコレート

君に貰えて嬉しかった。ひとつの秘密を共有することから始まる

 「慰め」が「いる/いらない」は山崎としては書きたい部分なのだろうけれど、それを読者にまかせてしまうのが短歌かもしれない。
 「始まる」は動詞だが「始まり」ととらえ直すこともできる。そうすると、この三行は「体言止め」の短歌になる。
 「体言止め」というのは、一種の「倒置法」。「動詞(肉体)」がその一行の中にあるのに、「動詞」を隠している。つまり「肉体」を隠している。「肉体」のかわりに「感情」を表面に浮かび上がらせているということになるだろうか。
 「乾季のみ客を受け入れる街の隅に置かれた毛布はひとつの哲学」というタイトルも、本文では「なって(なる)」という「動詞」があるのに、あえて「体言止め」にしている。そこにも、何かしら短歌の手法を感じる。

 というようなことを考えていたら……。帯の「略歴」に「未来短歌会所属」とある。あ、歌人だったのだ。短歌と詩のどちらを先に書き始めたのか、同時に書き始めたのか。どちらかわからないが、山崎のことばの動きには短歌のリズム(手法)が動いている。
 短歌(和歌)は、現代詩とは違って、まず「声」から出発した文学だと思う。声に出して伝える。声の持続の中に、意味(感情)のうねりを増幅させる。それを他者にぶつける。「気持ち」として。(現代詩にもそういう書き方をするひとはいるだろうけれど、私の印象では「文字」で、視覚経由の「理解」を要求するものが多い。)
 このスタイルが、たぶん、山崎にはしみついている。

 目をつぶって、開いた66ページ。その二行目、

二回目の号令とともに鬨の声をあげる彼らのお気に入りのパン屋、ジャズ

 ね、短歌でしょ? 何かわくわくするでしょ?
 山崎の作品には行わけスタイルと散文スタイルのものがある。行わけスタイルには一行が長いものと短いものがある。長い一行の方が、とてもおもしろい。短歌に近くなっているからだと思う。山崎の「肉体」は短歌でできているのである。
 この「あまりに音楽的な」という作品の、引用した部分よりその少し先。

さて、歩きだすことにしよう
私がここで伝えることは
大通りから二本目の路地に入ったところにある
料理店のメニュー表が黄ばんでいて
オーナーは明後日誕生日であり
彼の夢は生きて死ぬこと

 何か退屈。「ねじれ」が全体を突き破って表に出てくるという感じがしない短歌になっていない否からだと思う。 
 短歌の「長さ」をもたない部分は退屈。けれど、短歌の長さをもつもの、あるいはそれを超える長さになると、ことばがとても生き生きしてくる。とてもおもしろく感じられる。このスタイルをもっと過激に展開してもらいたいと願ってしまう。
 短歌をつないでいって、短歌の連作とは違う「長歌」としての詩を読みたいなあ、と思う。

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「生前退位」有識者会議の行方

2016-11-09 19:50:59 | 自民党憲法改正草案を読む
「生前退位」有識者会議の行方
               自民党憲法改正草案を読む/番外38(情報の読み方)

 2016年11月08日読売新聞朝刊(西部版・14版)の、天皇の生前退位を有識者会議の報道に私はとてもびっくりした。「非公開」、「静かな環境」でということがこれまでに報じられていたので、内容が公開されるとは思っていなかった。
 公開されるのは、とてもいいことである。

 しかし、すぐに疑問も浮かんだ。なぜ、急に公開されることになったのか。有識者が会議で発言したことを公表する気になったのか、ということである。公表することで、国民の理解を深めようとしているのか、それとも国民の意見をある方向にリードしようとしているのか。
 公表すれば、さまざまな意見が国民の間から出てくる。(出てこないかもしれないが。)これは「静かな環境」とは違う。「騒がしい環境」である。「理解を深める」というよりも、「騒がしくならない内に」ある方向へリードしようとしているのかもしれない。
 私は何でも疑うのである。

 で、ちょっと経緯を振り返りながら……。
 2016年10月15日読売新聞(西部版・14版)の報道によると、有識者会議のテーマ(検討項目)は、次の8つ。

①憲法における天皇の役割
②天皇の国事行為や公的行為のあり方
③高齢となった天皇の負担軽減策
④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方

 私は検討項目ごとに、最低8回は有識者会議を開き、そのうえで「結論」をまとめるものだとばかり思っていた。ところが、どうも、そうではない。今回、ヒアリングに応じた5人は、8項目についてそれぞれ語ったようだ。意見陳述の時間は20分以内。そのあと10分の質疑応答があったというのだが、これはあまりにも乱暴ではないだろうか。そんな簡単に8項目について語れる? 質問できる? 意見の根拠(法律の条文、あるいは歴史的な文献の紹介)もなく、単に意見をいい、それに対する質問ということにならないか。
 さらに、このヒアリングと質問なのだが、その「おこなわれ方」にも疑問がある。
 4面に「座長代理 記者会見要旨」というのが載っている。御厨貴座長代理が記者の質問に答えている。

 --質問が相次ぎ、時間が足りない人もいたか。
 御厨氏 進行は割とうまくいったと思う。ほとんどの方が(意見陳述としてお願いした)20分以内に収まった。(質疑応答の)10分はあまりに短い。もっう少しうかがった方がよかったかなという方もいた。

 「ヒアリング」だから、そうならざるを得ないのかもしれないが、この形式だと、たとえば「平川祐弘の意見について、古川隆久はどう思うのか」というようなやりとりは不可能。つまり、「ヒアリングの対象者」は孤立していて、互いの意見の点検がない。修正や補足がない。これは、「議論」のあり方としておかしくないか。問題点を詳しく知るという方法として弱すぎないか。
 たとえば裁判では、ある人の証言について別な証言者が違うことを言えば、その違いをもとにして、もう一度最初の証言者に質問するということがあるだろう。その相互の違いをみきわめ、どこに「真理(本質/大事なこと)」があるか探していくのが「議論」というものだと思うのだが。
 ヒアリングの対象者は単に自分の意見を語るだけ。他のヒアリング対象者の発言に対して質問もしない。あるいは、自分の意見の補足もしない。ヒアリングをした「有識者」だけが、さまざまな人の「意見」を「調整する」。
 これでは、「有識者」の都合に合わせて、ヒアリング対象者の「意見」をつまみ食いし、つなぎ合わせるということにならないか。「結論」は最初からあって、それに合うような「意見」をつまみ食いするためにヒアリングをしているということにならないか。
 この懸念は、最初から、感じていたのだけれど。

 5人のヒアリング対象者のなかでは、最初に読んだせいかもしれないが、東大名誉教授・平川祐弘の発言がとても印象に残った。項目別に書かれているとは言えないのだが、私は、次のように分類しながら読んだ。(平川が①から⑧へ項目を立てながら有識者会議のメンバーに意見を述べたのかどうか、読売新聞の記事ではわからない。)

①憲法における天皇の役割
 「天皇陛下ご苦労さま」という国民の大衆感情が天皇の退位に直結してよいのか。民族の象徴であることは、祈ることにより祖先と続くからだ。
 今の天皇陛下が各地で国民や国民の思いに触れる努力はありがたいが、ご自身が拡大された役割だ。次の皇位継承者にも引き継がせたい意向に見受けられ、個人的解釈によりる天皇の役割を次の天皇に課すことになる。

 これは8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」を完全否定する内容である。天皇は「国民や国民の思いに触れる」ことを「象徴の務め」と語っている。全国をまわったときの感想を丁寧に語っていた。これに対して、平川は「ご自身が拡大された役割」と切って捨てている。「拡大解釈」と批判している。それは「天皇の役割」ではない、と主張している。さらに「次の皇位継承者にも引き継がせたい意向に見受けられ、個人的解釈により天皇の役割を次の天皇に課すことになる」と言い切っている。つぎの天皇には、そういうことをさせるべきではない、と言っている。「国民とのふれあい」を禁じたい。
 平川の「拡大解釈ではない」意見によれば、天皇の象徴としての務めは「祈ることにより祖先と続く」ことになる。「祈り」による「先祖の尊重」が天皇の務め。それ以外は天皇の務めではない、と主張している。「祈り/祈る」、あるいは「祖先」ということばは憲法の天皇の章には書かれていない。だから、これは平川の「拡大解釈」であると私は思うが、平川は「拡大解釈ではない」と言うだろう。天皇の発言を「拡大解釈」と批判しているのだから。
 この姿勢/意見は、私の直感では、安倍の意見の代弁である。安倍は天皇が国民と触れ合い、国民から信頼されことを許さない。天皇は今の日本では保守というよりもリベラルである。憲法について言えば、護憲派である。憲法を尊重している。憲法を尊重し、擁護する天皇が国民から信頼されていては改憲がしにくい。だから、天皇を取り除きたい。国民との接触を禁じたい。そのために、天皇が間違っている(憲法に違反している)と批判することから議論を始めようとするのだ。
 天皇の務めを「祈り/祖先の尊重」に限定するとき、天皇は「現在」を生きることはできない。少なくとも「未来」を語ることはできなくなる。「過去」に封印される。「封印」して、「天皇」という「名前」だけを与える。

②天皇の国事行為や公的行為のあり方
 特に問題なのは、拡大解釈した責務を果たせなくなるといけないから、皇位を次に引き継ぎたいという個人的なお望みをテレビで発表されたことで、異例の発言だ。もし世間の同情に乗り、特例法で対応するならば、憲法違反に近い。天皇の「お言葉」だから、スピード感をもって超法規的に近い措置をするようなことがあっては、皇室の将来のためにいかがかと思う。
 
 「国民とのふれあい」を「象徴の務め」ととらえるのは「拡大解釈」。その「象徴とのしての務め」を引き継がせたいと思うのは「個人的お望み」。そのあとの発言は、厳密には「特例法」が「憲法違反」ということになるが、印象としては天皇の「拡大解釈」「個人的なお望みをテレビで発表」することが憲法違反と言っているように思える。
 いまの天皇は「憲法違反をしている」といいたいのだと思う。こういう「憲法違反」を許すことは将来的によくない。「憲法違反」が皇室に引き継がれていく、と平川は考えている。
 断言はできないが、平川は、天皇が「拡大解釈」した「象徴の務め」をやめれるべきである、と言っているようである。「国民とのふれあい」は憲法には明記していない。天皇が「拡大解釈」したもの、天皇が「憲法違反」をしている。それをやめさせればいいだけ、と主張している。
 国民にふれることは、国民に「人柄」を直接伝えること。「人柄」というのは、「ことば」にならない人間の主張、意見である。「身振り/肉体」で伝える「思想」である。安倍は(そして代弁者の平川は)、天皇の「思想/人柄」が国民につたわること、広まることを恐れているのである。
 そして、そのために、「憲法違反」が引き継がれていかないようにすべきであると言っている。

③高齢となった天皇の負担軽減策
 健康に問題がある方が皇位につかれることもあろう。偏った役割解釈にこだわれば、世襲制の天皇に能力主義的価値観を持ち込むことになりかねず、皇室制度は将来、困難になる。
 退位せずとも高齢化の問題への対処は可能で、高齢を天皇の責務免除の条件として認めればすむ。

 ここでも天皇が「象徴としての務め」と語ったことを前面否定している。いまの天皇は「偏った役割解釈にこだわ」っている。天皇の「憲法理解」は間違っている。天皇は「憲法」をおかしている。
 さらに全国をまわり、国民に直接ふれあうことを「能力主義的価値観」と呼んでいる点が、とてもおもしろい。「能力主義」の反対はなんだろう。「形式主義」か。
 「祈り/祖先の尊重(祖先へのつながりを維持すること)」は、どうなんだろう。「形式主義」でこなせることなのか。「祈り」は「能力主義」とは関係ないのか。「祈り」のような「形式」を表現することで、日本そのものを「形式化」したいのかもしれない。
 国民の「能力」を認めず、国民を「形式主義」に封印したい。その「形式」の象徴として天皇を利用したい。活用したい。国民を、国ののぞの「形式」のなかに閉じ込めたい、ということが間接的に語られていないだろうか。

④摂政の設置
⑤国事行為の委任(臨時代行)
⑥天皇の生前退位
⑦生前退位の制度化
⑧生前退位後の天皇の地位や活動のあり方
 摂政設置要件に「高齢により国事行為ができない場合」を加えるか、解釈を拡大、緩和して摂政を設けるのがよくはないか。天皇が退位した後の上皇と新天皇の関係が天皇と摂政の関係より、良くなる保証はない。上皇と摂政は結果として同じになる。

 「摂政設置要件に「高齢により国事行為ができない場合」を加える」というのは、何に加えるのか。憲法第5条か。皇室典範第16条か。

(憲法第5条)
摂政は、皇室典範の定めるところにより置く。
(皇室典範第16条)
天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。また、天皇が、精神・身体の重患か重大な事故により、国事行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。

 読売新聞の記事では、平川がどちらを指しているのかわからない。憲法なら、憲法改正につながる。皇室典範なら皇室典範の改正につながる。明確にしていないのは、平川の論の力点が「摂政の設置」にあるからだろう。どちらでも、かまわない。ともかく摂政を設置してしまえ、「憲法違反」の天皇を封じ込めろ、ということだろう。
 天皇の「象徴としての務め」を「拡大解釈」と批判していたのに、ここでは「解釈を拡大、緩和して」と「拡大解釈」を推奨している。ここに「摂政」を設置し、天皇を「上皇」に封じ込めたいという「欲望」が隠されている。
 これは、私の見るところでは、安倍の「欲望」の代弁である。

 ちょっと論点がずれるが。私は以前、別の記事についてふれたことを思い出した。。
 2016年10月08日読売新聞夕刊(西部版・4版)の「KODOMOサタデー」。子ども向けのニュースの紹介欄に「生前退位」のことが書かれている。その最後の一段落。

 生前退位をめぐっては、「天皇の考えで自由に退位できると、混乱が起きるのでは」といった意見もあります。国民の意見を聴きながら、しっかりと議論をつくすことが大切です。

 ここで紹介されている「意見」はだれのものか、明記されていなかった。子ども向けのニュースではなく、一般向けのニュースの場合、必ず「政府関係者」「自民党幹部」「官邸関係者」などのことわりがある。
 それがだれの「意見」かわからないが、ここに書かれていた天皇批判は平川の意見とそっくりである。
 有識者会議の前から「天皇批判」を前面に出し、「生前退位」の問題を解決しようとする姿勢は見えている。
 官邸(安倍)側が、何度も天皇に摂政を持ちかけている。それに対して天皇は摂政ではだめだと言い続けた。その交渉の「結果」が8月8日の天皇のことばであることを、もう一度思い起こそう。

 「有識者会議」の結論は、平川の意見につけられていた読売新聞の見出し「摂政設置要件 緩和で対応」というところへまとまっていくのだろう。設置要件を緩和する(あるいは拡大解釈する)「特別法」が設置される。「摂政の設置」で天皇の実質的「退位」を実現する(認める)。それを、どう「文言」をかえて具体化するか、それを検討する(都合のいい表現をヒアリング対象者から聞き出す)ということだろうなあ。


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ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★)

2016-11-09 15:52:07 | 午前十時の映画祭
ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★)

監督 ジャック・ベッケル 出演 ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラ

 モジリアニの生涯を描いた映画、なのだけれど。
 なぜ、モジリアニが、あの焦点のない目(瞳のない目)を描いたのか、首の長い肖像を描いたのか、というようなことは描かれていない。
 では、何が描かれているのか。
 モジリアニは女にもてた、ということが描かれる。このもてる男をジェラール・フィリップが演じるのだから、「美形だからもてる」ということになる。ふーん、美形でなければもてないのか。まあ、そうなんだけれど。なんといえば、それでは映画にならないだろう。いや、映画というのは、美男美女を見に行くもの(美男美女を見て自分が美男美女であると錯覚するもの)なのだから、これぞ映画というべきかもしれないけれど。
 で、おもしろいのは。なるほど、フランスだなあ、と感じるのは。
 ジェラール・フィリップはもてるから女とセックスする。そして次の女にまた手を出す。このことに対して、「罪の意識」というものを持っていないこと。好きな女とセックスをする、というのが当然と思っている。他の女に乗り換えても、「うん、新しい女ができたんだ」と当然のように主張する。「美形の男」というよりも「色男」だな。
 そして、これを捨てられた女が、なんというのか、これまた「当然」という感じで受け止めている。「そうなの、新しい女ができたの。私は捨てられたのね。でもいいわ。ちゃんとセックスしたんだから」という感じ。「色」を共有した、というのか、「色」を育てたというのか。未練がない、というと違うのだろうけれど、ジェラール・フィリップが他の女に引かれていく(色好み)のは「本能」のようなもので、それを引き止めてもしようがない、という感じ。そこで引き止めようとすると感情がめんどうくさいことになる。引き止めずに、それを見守る。女から、保護者(母親/色教育のパトロン)になる、という感じなのかなあ。
 出演者はジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラくらいしか名前がわからないのだが、金持ちの女がジェラール・フィリップをつかまえて、「あんたは女好きのする男なのだ」というシーンがあるが、好きになる(愛する)というのは、相手の色をすべて受け入れて、その色になってもかまわないと身を任せること。そう決意すること。そういう「恋愛観」が、この金持ちの女、居酒屋の女主人、アヌーク・エーメが、とても平然と体現している。金持ちの女と居酒屋の女主人が、互いを見つめ、「あ、この女、ジェラール・フィリップの色に染まっている」とわかり、それを受け入れるシーン(ジェラール・フィリップ)が倒れ、居酒屋の二階に担ぎ込まれ、そこで闘病するシーンに、そういう感じが出ている。
 これは、もしかするとモジリアニ(ジェラール・フィリップ)の生涯を描いたというよりも、モジニアニを愛した女の愛の形を描いた映画なのかもしれない。男を愛するとき、女はどんなふうに強くなるか、それを描いている。自分の中にある「色」を引き出してもらい、それによって「強くなる」、そのことを忘れないのが女なのだ。この男は、私の「色」を知っている。男の「色」に染めるのではなく、男の「色」が女の「色」を強調する。「色」のハーモニー。この女の愛に比べると、男の生き方なんて、とても「浅薄」なものである。
 ジェラール・フィリップは、この「浅薄」を生来の美形で気楽に演じている。モジリアニの絵は特徴的だが(自画像を描いてもらう男が怒りだすくらいだが)、モジリアニは絵を描くとき、その絵が自分の「色/スタイル」であるということを、そんなに強く意識していない。相手を「変形」させているとは思っていない。自分の「色/スタイル」を正直に出しているだけ、という「軽い」自覚しかない。
 リノ・バンチュラは、この他人から見れば「浅薄/軽薄(あるいは他人への配慮のなさ)」を「気迫(野性の本能)」にかえて演じている。モジリアニの絵の魅力をいち早く発見するのだが、買わない。死ぬのを待って、アヌーク・エーメの待つアパートに押しかけ、そこにある絵を買い占める。芸術(人間)を愛するのではなく、「金」で手に入れ、「金」で手放す。つまり、そうやってもうける。保護者(パトロン)にはならない。「浅薄」を「冷酷」に昇華させて(?)生き抜く。アヌーク・エーメが「モジがどんなによろこぶだろう」とそこにいないモジリアニと「一体(ひとつ)」になって涙を流して喜ぶのを、「この女、まだ何にも知らないぞ、気づいていないぞ」と、ほくそえむ目つきが、なんともすごい。
 うーん。
 女は、こういう目つきにはほれないかもしれないけれど、男はほれる。私は、ぞくっとした。これは、すごい、と一瞬、「我を忘れた」。言い換えると、金もうけだけを企んでいる画商なんて人間としてつまらない(浅薄である)と批判することを忘れた。「流通している倫理観」で画商を判断することができなくなった。
 こんなふうに世界をぐいっとつかみとってしまう「権力の野性/野性の暴力」に、「本能の力」を感じる。「産む性」ではない男は、「生み出されたものを奪う性」なのである。
 と、考えると、モジリアニを初めとする芸術家というのは、男のなかにあっては例外的に「産む性」であり、「産む性」という共通項が女を安心させ、女を引きつけるのかもしれない。少なくとも、フランスの女にもてようとするなら、男はすべて芸術家にならないといけない、と主張する映画である、と思ってしまう映画である。
         (「午前10時の映画祭」天神東宝スクリーン2、2016年11月07日)

 *

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千人のオフィーリア(メモ13)

2016-11-09 00:20:45 | オフィーリア2016
千人のオフィーリア(メモ13)

水の抱擁。やわらかな、
--ねえ、オフィーリア。水に入るときは下着をつけたまま?
  ねえ、オフィーリア、下着を脱いだ方がいいの?
  ねえ、どっちがきれい?
水を覗いて思ったのはいつのことだろう。

水の抱擁。いじわるな、
手。ブラウスの下にすべりこみ、
               冷たい。
乳房をなでる。
       冷たい、
春を追いかける雪解けの匂い。
息を吐くとき、
洩れそうになる声を追い抜いて
のどへ。のどまで。犯すように。
絞め。
   殺されたい。
頼んだら。
するりとブラウスの外へ逃げる。
いくじなし。
童貞の少年みたい。
じれったい。

未練のように。
布越しに、なでる。
手のひらの形で
色になる。
透けて。

袖口のさくらんぼの絵に縫いつけられた、
蝶結びのリボン。
スミレやバラではなく、
誰も名前を知らない花だけを束ねて、
透けていく胸を隠したい。

見られていると考えると、体中が罪の色に染まる
見られていないと考えると、体中が憎しみの色に染まる。
--ねえ、オフィーリア。水に入るときは下着をつけたまま?
  ねえ、オフィーリア、下着を脱いだ方がいいの?
  ねえ、どっちが醜い?

こうなったら、目をそむけさせたいの。











*

詩集「改行」(2016年09月25日発行)、予約受け付け中。
1000円(送料込み/料金後払い)。
yachisyuso@gmail.com
までご連絡ください。
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東京新聞11月5日夕刊

2016-11-08 10:33:50 | 自民党憲法改正草案を読む


東京新聞(中日新聞)11月5日夕刊に、小池昌代さんが「詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント」の批評を書いてくれています。
jpg形式でアップします。

「憲法」をどう読むか。「自民党の憲法改正草案」をどう読むか。
ことばにこだわって、比較しながら読んだものです。
「正解」を探すというよりも、「疑問」をことばにする、という形のもの。

憲法は、国家のものではなく、国民ひとりひとりのもの。
国民には、国家が気に食わないときは、その国家を変える権利がある。
そのときに、よりどころにするのが憲法だと思う。
どう読むかは、ひとりひとりが違っていていい。
いろいろな読み方があふれ、さわがしいというのが民主主義の基本だと思う。
多様な少数意見が、自由にゆきかうのが民主主義だと思う。
そう思いながら書いたブログの記事が一冊になったものです。

アマゾンで販売しているけれど、なぜか「入荷待ち」の状態がつづいている。
(ただし、アマゾン内の「ポエムピース」では販売中)
版元のポエムピースからも送料無料で購入できます。
http://poempiece.shop-pro.jp/

書店でも、取り寄せになると思いますが、(時間がかかると思いますが)、購入できます。
福岡市では、ジュンク堂(3階「憲法コーナー」)、国体道路沿いの「キューブリック」で販売しています。


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板垣憲司『落日の駅、水際で呼ぶ人』

2016-11-08 08:31:21 | 詩集
板垣憲司『落日の駅、水際で呼ぶ人』(思潮社、2016年10月25日発行)

 板垣憲司は第53回現代詩手帖賞(2015年)受賞者。選者は中本道代、中尾太一。
 ことばが「詩」になりすぎているかなあ、と思う。

胡桃を叩く翡翠の旅情
やみくもに片鱗を遺す
冬至(葉あかりに至ると
内訌の砂の運びまで
     仄かになる

 巻頭の「旅情」の書き出し。「胡桃」ということばから始まるためか、あるいは「旅(情)」ということばのせいか、私はふと平出隆を思い出す。ことばの切り詰め方、「あいまい」をそぎ落としていくリズムが似ているかなあ、とも思う。ことばの切り詰め方というのは、逆に言うと、ことばからことばへの飛躍ということでもあるのだが。つまり、切断と接続の仕方。「内訌の砂の運びまで」という一行をまねて言えば、「ことばの運び」(ことばの内部の運び)というか、「ことばの内部」と「ことばの内部」の通い合わせ方(和音の作り方)が、私の記憶の中にある平出と似ている。読みながら、「新しい詩人」を読んでいるというよりも、何か70年代の「新しさ」を読んでいる感じ……。
 で、略歴を見たら(私はあまり「略歴」を読んだりしないのだが、気になって読んでしまった)、1947年生まれ。わっ、平出よりも年上だ(たぶん)。詩作に「学生時代に情熱をそそいだ」と書いているから、70年代に詩を書いていたということだろう。平出よりも先に詩を書いていたかもしれない。平出と詩を書きはじめた時期が重なるかもしれない。
 ちょっと余分なことを書きすぎたかな。

 ことばの接続と切断。大雑把に書きすぎたと思うので、言いなおそう。
 
胡桃を叩く翡翠の旅情
やみくもに片鱗を遺す

 この二行を読むとき、「遺す」という動詞が妙に気になる。動詞なのに動詞という感じがしない。「名詞」と言いなおした方がいいくらい。「遺す」の「主語」がわからないためである。「主語」がないまま「遺っている」という「状態」が書かれているように感じるのだ。
 「主語」が切断されて、消えている。
 これは、こう言いなおすことができる。「遺す」が「遺っている」のだとしたら「何」が「遺っている」のか。つまり、そのとき「主語/主題」は何なのか。これも、実はよくわからない。
 「片鱗」とは何の片鱗か。胡桃か。翡翠か。たぶん「旅情」の片鱗だろう。そうすると「旅情」というものが「遺っている」のか。
 ここから、私は一行目に帰る。そして「旅情」というのは「名詞」だけれど、この詩では辞書で調べたままの「品詞」が通じるのか。ほんとうに「名詞」なのか、少し疑問に思う。「遺す」が「動詞」ではなかったように、「旅情」は「名詞」ではないのかもしれない。「旅情」の方が「動詞」なのかもしれない。言い換えると「旅情」のなかには、何かが動いている。動くことで「(旅)情」になっている。「情」とは「動く」ものである。「動く」ことで「情」になる。ここには「動き」が書かれているのではないか。
 「胡桃を叩く翡翠」とは「翡翠が胡桃を叩く」の倒置法だが、倒置法によって「動詞」が隠され「名詞」が前面に出てくる。そういう動きが、そのまま「旅情」の「情」の動きなのだ。「倒置法」がいたるところに潜んでいて(隠されていて)、「名詞」と「動詞」を入れ換える。「名詞」は「動詞」として読まなければならない。「動詞」は「名詞」として読み直さなければならない。そういう意識の操作のなかに「切断/接続」があり、それが「詩」をつくっているという感じなのである。

冬至(葉あかりに至ると
内訌の砂の運びまで
     仄かになる

 ここには「至る」と「運ぶ」という「動詞」の逆転がある。ふつうは、「運ぶ」、そして「至る」という具合に動く。ここでは「至る」ことによって「運ぶ」という「過去」が見える。意識される。そういう変化が「仄かになる」という形で示される。「明らかになる」ではなく「仄かになる」。半分隠される。「冬至(葉あかり」という、丸カッコの受けのない奇妙な表現も、そういう「半分隠す」感じを強くする。
 この「知的操作」が平出を思い出させるのかもしれない。「ことばの操作」を「知的」であると感じさせる方法が平出を思い起こさせるのかもしれない。
 でも、この「動詞」と「名詞」の入れ換えを平出がやっていたとは思わない。だから、板垣は、たしかに平出とは違うのだと思う。(これは、私の「記憶の印象/今の印象」であって、実際に平出との比較は、ここではしない。)

 私が板垣のことばに魅力を感じるのは、「離島の合図」次のような部分。

眼は青く 海の、象られた渦

         横顔のように
やがて 崩れ 壊れ、視野をひらく

かすかな、  ( 望郷 の静脈を
 鎮める潮目で、玻璃の林を、抜ける)

 何を書いてあるのか「意味」をつかみとることはできない。「切断」と「接続」が「論理」をつくっているとは思えない。
 私が感じるのは、先に書いたことの繰り返しになるが「名詞」と「動詞」が「学校文法」どおりではないということ。そこに板垣の「詩」がある。
 「渦」は「名詞」だが、そこに「静止して存在」するのではない。「渦を巻く」というのでもない。「象られた渦」とは「渦」が何かを「象る」という形で再読されるべきなのである。「渦」が海の中にあるのではなく、「渦」そのものが「海」をつくっていく。生み出していく。「象っていく」。そういう動きがある。
 それが「視野をひらく」。「渦」は「崩れる」。「渦」は「壊れる」。そういう「動き」そのものが「視野をひらく」と呼ばれるのだが、このとき「視野」とは「海」そのものである。「海がひらかれる」のだ。「ひらかれたもの」として「海」がある。「ひらく」という「動詞」でおわっているが、これは「ひらかれたもの」という「名詞」である。「海」のことである。
 「名詞」と「動詞」が、世界の「未分化」の領域で交錯し、入れ代わり、「詩」として生み出されてくる。入れ換えながら再読するとき、ことばが強く激しく動き出す。

 「渦/海」はさらに言いなおされる。書き直される。
 「望郷」は「望郷」という「名詞」ではない。故郷を「思う」という「情」の「動き」そのものである。「渦」が「崩れ 壊れ」るは、「渦」が「鎮まる」ということである。「鎮める」と「鎮まる」は違うが、どちられ「海」という「名詞/状態」へと統一されていく。
 さらに(ほんとうは逆の順序で書いた方がよかったのかもしれないが)、この「鎮める/鎮まる」という「動詞」のなかには「静脈」という「名詞」がある。「静脈」のなかの「静」が「鎮める/鎮まる」を呼び出している。「静脈」によって荒々しいものが切断され「鎮める/鎮まる」へと接続される。この変化を、板垣は「抜ける」という「動詞」で引き継ぐが、「抜ける」は「抜けつつある」という持続する運動ではなく、「ぬけて/至る(到達する)」、つまり「到達点」という「名詞」を含んでいる。

 この「名詞/動詞」、「動詞/名詞」の交錯と融合を、どこまで再読し続けるか、そのことを板垣に問われている気がする。
 どう読んだか。ほんとうは、もっともっと丁寧に書かなければいけないのだが、この板垣の詩集の文字は、私には小さすぎる。読むのがとてもつらい。
 中途半端になってしまうが、「名詞/動詞」、「動詞/名詞」の「切断/接続」の綿密な動きの中に、板垣の強い力を感じたとだけ書いておくことにする。目の状態がいいときをみはからって、また読み直したい。

落日の駅、水際で呼ぶ人
板垣憲司
思潮社
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田中郁子「ぎぶねぎく」

2016-11-07 09:04:50 | 詩(雑誌・同人誌)
田中郁子「ぎぶねぎく」(「緑」36、2016年11月01日発行)

 田中郁子「ぎぶねぎく」に、少し不思議な表記がある。

八月の満月を過ぎると
葉裏をかしげて「今」の時を知る

 なぜ「今」とカギ括弧の中に入っているのだろうか。
 「今」の時を知る。「今」という「時」の存在を知る、か。「今」が「いつ」なのか(「いつの時間」なの)かを知る、のか。それとも「時」が「今」であると知ることか。あらゆる「時間」のなかで「今」を強調したいのか。
 よくわからない。よくわからないときは、それがどんな形で繰り返されているか(反復されているか)を、私は読む。

初まるものと終るものとのあいだで
茎をのばし思いきり直立していく
まるいつぼみをふくらませ
「今」だけの地上で水平に花ひらく

 菊の花が開く瞬間を描写していることがわかる。「葉裏」を「かしげて」いたものが、「茎」を「のばし」「直立していく」。「傾ぐ」から「直立する」へと「動詞」が動いている。「動き」のなかには「時間」がある。その「時間」の一点(一瞬)を「今」と読んでいることがわかる。「その瞬間」を知る。「その瞬間」だけ「花ひらく」。この「ひらく」は「開いた状態」ではなく、「開く」という「動詞」そのもの。「開く」という「一瞬」のこと。「開いている状態」は持続。「水平に」ということばが「直立する(垂直になる)」ということばと呼応して、「ひらく」を「一瞬」に限定する。
 その過程に、蕾を「ふくらませる」という「動詞」がある。これが「ひらく」へ変化していく。持続する運動が、逆に「ひらく」という一瞬を強調する。この「持続」は「初まるものと終るものとのあいだ」という形で、それより先に書かれている。そして、そこでは「一瞬(今)」ではなく、「持続」そのものが「あいだ」という幅のあることばで書かれている。「一瞬」は「点」、「あいだ」は「線」である。
 そういうことを考えると、「今」は「一瞬」を言いなおしたものという気がしてくるのだけれど、何かがひっかかる。なぜ「今」とカギ括弧といっしょに書かれているのか。「今」は「今」ではないのではないだろうか。強調するためではなく、否定するためにカギ括弧がつけられているのではないだろうか。

太陽は花芯に黄金のゆびわをはめ
中央をみどりのピンでとめる
死になじんだ純白

 うーん、おおげさな描写。「現代的」ではない。ちょっと「神話」っぽい。そして、そう思ったとき、また、ふっと思うのである。「今」は「一瞬」ではなく、「神話」のような「永遠」のことか、と。

人はふと近づいては一瞬をうばわれる
過去にも未来にも固執せず
ただ 「今」という恩寵を咲く
夕になれば闇の気配に花びらをとじる

 「一瞬」ということばが出てきて、「今=一瞬」を否定する。「今」という時をあらわすことばのほかに、ここでは「過去」「未来」も出てくる。「過去」は「未来」の「あいだ」にあるのが「今」。「過去」と「未来」を「持続/血族」させるのが「今」。
 この「過去」と「未来」の「あいだ」をまだろっこしく「持続」させるのではなく、一気に貫いて「ひとつ」にしてしまうのが「永遠」。「永遠」は「今」ではないが、「今」は「永遠」かもしれない。
 「持続」ではなく「充実」と考えるといいのかもしれない。

太陽は花芯に黄金のゆびわをはめ
中央をみどりのピンでとめる
死になじんだ純白

 この「強いことば(神話を想像させることば)」は、「いま」という「現実」を突き破って「永遠」が噴出してきたために動いたことばなのだ。「永遠」を、田中は「恩寵」と読んでいると思う。
 「恩寵」とともにあるとき「今」は「永遠」なのだ。

いくどめかの朝夕ののち
いくどめかの昼のひかりに
はらりと身をほどいてよこたわる
しかし「今」の時がからっぽになったりはしない

 この部分は「今=永遠」が強い感じでは迫ってこない。「からっぽにならない」から「永遠」であると「理屈」を言っているようにも見える。これは、この部分が、詩の「起承転結」の「転」にあたるからである。視線というか、世界のとらえ方が違っている。次の「結」を強調するために、転調しているのである。

次の年もその次の年も
同じ地上をあたらしい地上として
「今」という恩寵を花ひらく

 この三行は「転」のつづき。繰り返し。年が「いくど」変わっても繰り返される季節。その繰り返し(同じこと)のなかで、「あたらしい」こととしてつづく「永遠」。生まれ変わる(あたらしくなる)「永遠」。
 このあと、「今/永遠」が別の「意味」を持つ。

けわしい尾根から一瞬たりとも踏みはずしたりはしない
いま わたしの「今」はどうしようもなく過ぎ
老いてしまったけれど
あなたのみ手のうちにある「今」を
この目で確かめたくて
無心に白い花に近づくと
はがすことのできない自分の影といっしょに
秋のむこうへするりと消えてしまった
わたしは わたしにであうことがない

 「永遠」を「充実」ととらえるなら、「永遠」は「盛り」でもある。老いて「盛り」は過ぎてしまった。けれど花の「盛り」を見ながら、「永遠」を思い出す。あるいは「想起する」。「であうことがない」からこそ、想起するという形で「永遠」をつかむ、といえる。
 田中の詩には、いつも、何か「思念の強さ」がある。かかれていることばの表面的な意味を否定する強さがある。日常語を拒絶する強さがある。その強さがことばを統一している。強靱にしている。単に花を描写し、そこでセンチメンタルになるということがない。抒情におぼれない清潔さがある。
 「今」というカギ括弧付きの表記。そこに、何か「冷静さ」というか「精神」の操作がある。


田中郁子詩集 (現代詩文庫)
田中郁子
思潮社
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水の周辺12

2016-11-07 01:08:14 | 
水の周辺12



水を飲む
水に
飲まれる。

泳ぐ
泳がされる
流れを。



水に
飛び込びこめば、

水は吐き出す。
ふいの異物を。
吐き出されて
水を吐く少年。



泳ぎのこころえがあると
むずかしい。
どうしても
浮いてしまう。

だからポケットに
石。



苦しみに弱い
ものでできている。

否定できない
反動を
おさえるために。



どこまで潜れば
水は重たくなるか。

重たくなる水と
増してくる浮力。

沈めろ。
論理を。
つぶせ。
論理を。



おぼれる。
おぼれたい。
おぼれる
くるしさに、
おぼれる
ゆえつ。



そろえられたもの、
そなえられたもの、
を、
濡らす。
濡れる。


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