詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(6)

2019-05-26 08:21:32 | 嵯峨信之/動詞
* (ここやあそこの町や村々に)

ああ その時
ぼくの傍らを通りすぎる者がある
そのしずかな無名の通行人
はて知れぬ遠くへ去つていくその者こそ
たえずぼくを呼んでいた者である

 「しずかな」と「呼ぶ」という動詞が呼応しているのを感じる。
 「しずか」は無言である。「呼ぶ」は声を出す。だから、それは「矛盾」だが、矛盾だからこそ、そこに詩がある。
 「しずか」が肉体が抱えている無言の声、発せられなかった「声」を聞き取る。それは聞き取った人にだけ「呼び声」として聞こえる。
 強いつながりが生まれ、そのつながりのなかで主客は交代する。
 嵯峨は、町や村々を静かに通りすぎる人になることで、詩人になる。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメールでも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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「天皇の悲鳴」

2019-05-25 10:30:13 | 自民党憲法改正草案を読む
伊藤智永の『「平成の天皇」論』)(講談社現代新書)が評判になっている。

そのなかの、

「平成の天皇は思想家だった。天皇は、ただ『ある』のではない、象徴に『なる』のであるという思想を創造した」
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
これに類似したことは、私は「天皇の悲鳴」の11ページから17ページについて書きました。

また

「退位の希望は2年前の秋には宮内庁から官邸にはっきり伝えられていたが、官邸は現行法通り摂政でかわすよう言い含めて頬かむりしていた。消費税引き上げ再延期や衆参同日選を狙うといった政局にかまけて『天皇どころじゃなかった』(政府高官)というのだ」。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
このことは、2016年の12月24日の毎日新聞に報道されています。
「天皇の悲鳴」23ページで書きました。

誰もが同じことを書くようです。

ぜひ、「天皇の悲鳴」もご一読ください。
オンデマンド出版です。
注文は、以下のページから。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

「平成の天皇」論 (講談社現代新書)
伊藤 智永
講談社


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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(5)

2019-05-25 10:02:47 | 嵯峨信之/動詞
* (一日一日が)

水槽に水がいつぱい溜つていて
時の羽根が二、三枚
水底に沈んで光つている

 「沈む」と「光る」は反対の動きをあらわしているわけではないが、どこかに相反する動きを持っている。「沈む」は静かな印象がある。重い、ということばも連想させる。「光」は逆に軽くて、華やか、派手である。水が「光」を鎮めているのかもしれない。相反するふたつの動きが拮抗し、それが「溜まる」という動詞になって、そこに存在している。
 「時の羽根」は何の象徴かわからないが、「溜まる」を静かに揺らしている。「時」のなかにも「羽根」のなかにも、「いま」と「ここ」から離れていく何かがある。





*

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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(4)

2019-05-24 10:05:24 | 嵯峨信之/動詞
* (もうやめよう)

もうやめよう
暗い言葉のなかで向いあつているのは
去る者があれば
心もそこで終わる

 この一連目は、二連目で「比喩」となって繰り返される。いや、「比喩」を通して、未来として予想される。

いつか深い井戸を思いだすことがある
何かが落ちて
底知れぬところから水の音がかえつてくるのを

 「暗い言葉」は「深い井戸」、「去る者」は井戸に落ちた「何か」、それで「終わる」わけではない。「いつか」「かえつてくる」。それを「いつか」「思いだす」。
 正確には「思いだすことがあるだろう」なのかもしれないが、確信しているのから「思いだす」と断言する。あるいは予言する。ないものを存在させる。ここから詩はさらに飛躍する。

そのときの水の音をおもうと
その日からだつたのだ
地上に長い夏の日がつづいたのは

 三連目で「おもう」という動詞が繰り返される。「思いだす」という動詞とつかいわけているのだが、未来を思うのも、過去を思い出すのも、こころの動きは同じだ。遠くにあるものを自分に引き寄せる。自分に結びつける。
 この結びつける動きを、別の動詞で言いなおせば「つなげる」であり、「つなげる」は「つづく」でもある。
 「心」には「終わる」ということはない。





*

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藤井晴美『不明の家』

2019-05-23 11:40:46 | 詩集
藤井晴美『不明の家』(裏白、2019年04月05日発行)

 藤井晴美『不明の家』の「死の失効」。

 これが他人の人生だとしたら。眠りにおちる直前そう思った。思ったらだんだん目が覚めてきた。自分は、自分というものではなく他人の一人なのか。

 直感として、こういうことを考えたことがある、体験したことがある、と感じる。そして、こういうときにいちばん困るのは、ここにある「論理」を「論理的」に説明することがむずかしいということだ。
 詩は、たぶん、この困難さの中にある。逆に言うと、こういう困難さが噴出してくることばの動きが詩なのだ。詩を書きたいなら、この困難さをことばにしなければならない。それを省略して、「文体」だけ「困難」を装っても仕方がない。
 二連目は、こうつづいていく。

 1キロほど歩いたところで男は、自分一人しかいないことに気づいた。いつもなら老人が何人も散歩しているのに出会うのだが、きょうはだれも歩いていない。こんなことは初めてだった。すると急に不安になった。しばらく行くと、猫がさっき降った雨で濡れた道路の真ん中で平たくうつ伏せになっていた。いったい何をしているのかわからなかった。これも初めての光景だった。耳が片方動いたので、死んでいないと思ったが、もしかすると死にかけていたのかもしれない。

 「つづいていく」と書いたが、あるいは、一連目は、こう書かれる二連目によって切断されると言い換えてもいい。
 これは「目覚めた」つもりだが、実は眠りにおちてしまった夢なのか。それとも別な時間の現実なのか。
 どうとでも読むことができる。
 「そういう読み方をしてもらっては困る」と藤井が言おうがどうしようが、それは関係がない。書かれてしまったら、そしてそれが読まれてしまったら、そこから始まるのは読んだ人間と、そこにあることばの関係である。
 この二連目では「初めて」が二回繰り返される。
 「初めて」なのに、どうしてそこに起きていることが「わかる」のか。「わかる」かぎりは、すでに知っていなければならない。知っていること以外、私たちは何も「わからない」と私は考える。
 だからこそ、これは「夢」なのだ、と思う。「夢」は体験したことの、無意識に見逃してきたことを「初めて」のように体験することだ。「初めて」という印象が強いほど「夢」になる。
 実際には、どこかで「知っている」のに「初めて」と感じるから、「わからない」という意識も動く。そして「わからない」ものを私たちはもちつづけることができないから、「かもしれない」ということばで「知っている/わかっている」ことに結びつける。
 こういうことを一連目のことばを使って言いなおせば、

いま起きていることは、いま起きていることではなくすでに起きたことの一部なのか。

 この感覚は三連目にもつながる。いや、また同じことをくりかえして言おうか。この感覚を裏切って、切断して、三連目は動く。

 傾いたアパートの前で、タバコを吸いながらこっちを見ている男がいた。家から出たところで私が気づくと、男はすぐに身をひるがえしドアを閉めてアパートの中に入ってしまった。部屋に入ると男は、テーブルの上に置いてあったノートに書き始めた。「いったいどんな悪いことをしたらあんな新築に住めるのか。いま、そこから背の低い貧相な老人が出てきた」。
 人を殺して慶事から金をもらうなんて、この男は今までどんな悪いことをしてきたのだろう。この手品、その境界線上をすべるように、すり抜けていく男。

 一連目には「自分」、二連目には「男」が出てきて、三連目では「男」と「私」が出てくる。「男」と「私」は客観的に分離独立した存在であるはずなのに、「気づく」という動詞を中心に、するりと入れ代わる。「私が気づくと」と書いてあるが、実は「気づいた男はすぐに」と「主役」が入れ代わる。どちらが主人公というか、ことばを動かしていく主体なのか、わからない。たぶん「ことば」が主人公になって、人間をわりふってしまう。
 その結果、ことば全体が、

このことばは、自分の体験していることを書くために動いているのではなく、すでに書かれてしまったことの一部を体験にするために動いているか。

 という具合に読み直すことができる。
 「夢」が無意識を生み出すように、「ことば」は現実を生み出す。その瞬間を、現実としてではなく、ことばとして提出する。噴出させる。

この手品、その境界線上をすべるように、すり抜けていく男。

 この奇妙な一文は、「学校文法」から見れば文法が破壊された文体ということになるが、破壊されたまま、ばらばらの断片ではなく、あくまでも「ひとつ」になって動いていく力そのもの、運動そのものとして、ここにある。






*

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おもちゃの映画
藤井晴美
七月堂
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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(3)

2019-05-23 08:21:36 | 嵯峨信之/動詞
* (未来とは)

未来とは
だれの空でもなくだれの陸地でもない

 と始まるこの詩の三連目。

ぼくらは人々と手をつないでみごとな輪をつくる
その輪のなかになにかを囲んでいるのかだれも知らない

 一連目の「だれの空でもなくだれの陸地でもない」は「知っている」。そう考えている。けれども三連目で、

知らない

 が出てくる。
 「人々と手をつないでみごとな輪をつくる」ことは知っている。けれど、その輪なのかに何があるのか「知らない」。
 これはほんとうに「知らない」なのか。
 だいたい「未来とは/だれの空でもなくだれの陸地でもない」とはほんとうに知っていることなのか。
 そうではなく、ここには書かれない「動詞」があるのだ。
 「考える」「考えたい」がある。「想像する」でもいい。そのとき、ひとはことばを動かす。考えは、ことばといっしょに動く。嵯峨は、ことばといっしょになって考える。
 それが嵯峨にとっての詩である。




*

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言論の自由を「憲法」と「法律」から考える。

2019-05-22 08:14:26 | 自民党憲法改正草案を読む
言論の自由を「憲法」と「法律」から考える。
             自民党憲法改正草案を読む/番外269(情報の読み方)

 丸山の「戦争発言」をめぐって、鎌田慧が書いた文章がフェイスブックに載っている。「好戦と反軍」というタイトル。「本音のコラム」という、ある新聞のコーナー。どの新聞か、私は知らないが、「2019・5・21」と日付がある。
 丸山の発言をめぐっては「辞職勧告決議案」が出された。それに対して鎌田は、丸山の発言には与しないが、

刑事事件ならいざしらず、憲法違反の暴論だとしても(現内閣が率先実行している)、言論によって身分を剥奪していいかどうか。

 と書いた上で、斎藤隆夫が1940年3月、日中戦争に反対する演説をしたために衆議院で議席除名処分を受けた例を引き、こう結んでいる。

 キミの暴論は絶対に許さない。しかしキミが発言する場は保障しよう。でなければ、斎藤隆夫の演説を弾圧したファッショと同じ轍を踏むことになる。

 私は、単純に「言論の自由」という概念から出発して丸山の発言、その処分を語るのはおかしいと思う。
 憲法、法律とは何かから考えたい。
 憲法も法律も「いざこざ」が起きたときに、それを解決する「指針」である。そして、その「基本理念」は「弱者の利益を守る」ということにあると思う。
 身近なことから考えよう。「法律」から考えよう。
 交差点がある。青信号だ。人も車も交差点へ進入できる。人も車も進み始める。一台の車が直進ではなく、右折した。その結果、ひととぶつかり、人がけがをした。「いざこざ」(問題)が起きた。このとき、道交法でどういう規定文書になっているか知らないが、右折してぶつかった車に責任がある。信号を守って進入し、右折しているが、人が横断歩道を渡っていないか安全を確認しなかったからだ。人間と車がぶつかれば、人間がけがをする。そのけがをした方を助けるのが法律だ。けがをした方を助けるために「青信号で交差点に進入しても、右折(左折)のとき、横断歩道に人がいれば、人の歩行の方が優先する」というような規定が生まれる。法律は弱者に味方する。弱者が生き延びるために、強者の行動に制限を与えるというのが法律の狙いだと思う。
 鎌田の本をコピーして、多くの人に配る。「鎌田の本には、私と同じ意見が書いてある。ぜひ読んでほしい」。鎌田が、コピーを配るのではなく、本を買って読んで欲しいと訴える。「いざこざ」が起きる。この場合、コピーを配った人は著作権法に違反する。コピーを配ることで、鎌田が本を売って稼げるはずの金を奪ったことになるからだ。コピーは簡単にできる。一冊の本を書くことは簡単にはできない。コピーした方が「強者(簡単に行為ができる)」、本を書いた方が「弱者(簡単にはできない)」。苦労している方(弱者)に利益があるように配慮しているのが著作権法である。
 法律は、実際の「いざこざ」の現場を確認し、どう適用すれば「弱者」を救い出せるかを決めた「指針」になる。
 憲法も同じである。憲法は、ふつうの法律とは違って、人と人の「いざこざ」には介入しない。人(国民)と国(権力)との間に「いざこざ」が起きたときにどうするかを書いている。国(権力)と国民の関係である。
 鎌田が例に引いている斎藤隆夫。これがもし現行憲法で起きたら、現在の国会で起きたら、どうなるか。
 鎌田は国の方針に反対した。そのことを理由に除名処分を受けた。
 鎌田は「弱者」であり、国は「強者」である。「強者」は「弱者」の「言論の自由」を侵してはならない。「言論の自由」を保障しなければならない。国を批判する意見を、国を批判しているからという理由で弾圧してはいけない、というのが憲法の言っていることである。
 斎藤が演説が国会ではなく、街頭でおこなわれたとしても同じである。国は、斎藤を逮捕、拘束する「力」をもっている。「治安維持法」をよりどころに、斎藤を弾圧できる。「いざこざ」がおきる。こういうことをしてはいけないというのが現行憲法の言う「言論の自由の保障」である。憲法の「言論の自由」は国と国民のあいだの「いざこざ」を前提にして、憲法は「国」ではなく「国民」を守ると言っているのだ。
 問題の丸山の発言が、どういう形、どういう「場」でおこなわれたか。「いざこざ」はどういうものであったか。それを「除外」して「言論の自由」という「概念」を一人歩きさせてはいけない。
 丸山は衆議院を代表する国会議員のひとりとして北方四島の「ビザなし訪問」に参加した。島の出身者も参加していた。その参加者に対して、丸山が「ロシアと戦争して島を取り返すしか方法がないのではないか」というような質問をした。提案をした。これに対して質問された参加者が「戦争はよくない」と答えた。意見が対立した。つまり「いざこざ」が起きた。
 このとき考えなければならないことはふたつある。
 ひとつは「いざこざ」が起きたときのふたりの「関係」である。「国会議員」は「一般市民」と比べると強者である。一般市民が持たない「権力」を持っている。「権力」を保障されている。たとえば、国会内でどんな発言をしても、それによって逮捕されないというような。一般市民は国会で発言するという権利を持っていない。「発言力」において、丸山が「強者」、参加者は「弱者」である。こんな提案をされたら、国民は困ってしまう。参加者は毅然として「戦争はよくない」と答えているが、もしかすると、そう答えることで丸山の心象を害し、次の北方四島訪問の機会には参加者から除外されるかもしれない。国会議員なのだから、訪問団の参加者を何人にするか、人選をどうするかを最終決定する「権利」を持っているかもしれない。どうしても墓参したいと思っているひとは、自分の意見を押し殺し、丸山に同調しないといけないかもしれないと考えるかもしれない。そのとき、参加者の意識の中に「強者/弱者」の関係がくっきりと浮かび上がる。参加者か「自分は弱者の立場、国から守ってもらえないと島を訪問できない人間なのに、国会議員からこんな難題をふっかけられた」と訴えなかったからといって、そこに「強者/弱者」の関係が存在しないとは言えない。
 もうひとつは国会議員が守るべきこと。国会議員には憲法遵守の義務がある。憲法では戦争を放棄している。その禁止している行為を、丸山が参加者に持ちかけ、拒否され、「いざこざ」が起きた。
 丸山の「違憲行為」が出発点なのに、その行為を擁護するために「言論の自由」という概念、「憲法」の理念をもちだしてきても、何の意味もない。憲法の概念を適用し、憲法が守るべきものは、憲法を守っている人間であり、憲法に違反した人間ではない。
 もし、この「いざこざ」が「国会」という場で、国、あるいは他の党の議員との間で起きたのだとしたら、問題は大きく違ってくる。国会で「議論」が起きたのだとしたら、これは鎌田の取り上げている斎藤隆夫の例と「合致」する。丸山の「言論の自由」は守られるべきである。
 ここから見えてくる問題は、ひとつ。
 なぜ丸山は、「北方四島を取り戻すためには戦争をするべきだ」という理念を国会の場で展開しないか、ということだ。なぜ、島を追われた国民を相手に、そういう議論をふっかけ「いざこざ」を起こしたか。その「狙い」である。
 丸山の発言を「言論の自由」と結びつけて考えているひとは、ぜひ、この問題を考えてもらいたい。そして、国会議員の中に丸山の「言論の自由」を支持する人がいるなら、丸山の意志を受け継いで、国会でぜひ議論を展開してもらいたい。
 安倍は、どう答えるか。
 そのとき、丸山の発言の底に隠れているものがはっきりわかる。
 「不法に占拠されている北方四島」を取り戻すことは「侵略ではなく、防衛である」という論理が成り立つだろう。丸山は「戦争」ということばをつかったが、巧妙な人間なら「自衛」である、と言い張るだろう。自国の領土を守るのであって「奪還」ではない、と言い張るだろう。
 「ことば」でなら、どういうことも言えるのだ。言いなおせるのだ。
 しかし、実際に「いざこざ」が始まってしまえば、それは「概念」の問題ではなくなる。「現実」の行動になる。「自衛」である、「防衛」であると言ってみても、そこにおこなわれるのは戦争(武力衝突)である。そしてそのとき実際にそこで戦うのは、「戦争」を決定した「強者(国会議員)」ではなく、招集された国民である。いや、一般国民は戦わない。自衛隊が戦うと「強者」は言うだろう。自衛隊は、その上部権力に比べたら「弱者」である。

 どんなことばも「現実」にひきもどして、それがどう動いているかを見ないといけない。
 鎌田慧の「肩書」は「ルポライター」である。ルポライターとは「現実」をていねいに追いかけて、現実の中から、それまで人が見落としていたものに「ことば」を与える(表現に高める)という仕事だと私は思っているが、そういう仕事をしている人が、「弱者」である北方四島を追われた人のこころに寄り添う前に、「言論の自由という美名」からことばを動かしていることに、私はとても疑問を感じた。
 鎌田がまず「保障」すべきなのは、「戦争で島を取り返そう」と呼びかけられた参加者の「言論の自由」である。私の考えでは、この人の「権利」を守るためには鎌田の議員としての資格を剥奪する以外にない。そしそうしないと、それこそこういうことが「前例」になる。国会議員は、いつ、どこで、誰に対して、どのようなことを言ってもいい。国会議員の「言論の自由」は「完全保障」されることになる。そして、いま、その「特権的国会議員」の構成を見ると、自民党が圧倒的に多い。もし自民党議員が全員、憲法を順守することをやめて「北方四島を戦争で取り戻そう」と言ったら、どうなるのか。「戦争はだめだ」という国民の「少数意見」は簡単に踏みにじられるだろう。いま、安倍がやろうとしているのは、そういう「多数意見」による「少数意見」の弾圧であることを踏まえて、ことばがどう動いているか、それを見つめなおさないといけないと思う。



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日朝会談の行方

2019-05-21 19:49:08 | 自民党憲法改正草案を読む
日朝会談の行方
             自民党憲法改正草案を読む/番外268(情報の読み方)

 一日遅れの新聞だが、2019年05月20日の読売新聞(西部版・14版)の30面(いわゆる「第二社会面)。

拉致解決 署名1341万筆/国民大集会 首相、日朝会談に意欲

 という記事。見出しだけ読んで、「どうせ何も書いてない」と思っていたのだが、びっくり仰天のことが書いてあった。
 前文。

首相はあいさつで、「条件を付けずに金正恩(朝鮮労働党)委員長と会い、虚心坦懐に話したい」と野辺、あらためて日朝首脳会談に意欲を示した。

 これは、既報のニュースと何も変わらない。
 ところが、本文を読むと、安倍は、

集会では、「残念ながら日朝首脳会談が行われるめどが立っていないのは事実だ」とも語ったが、粘り強く(拉致問題の)実現を目指す考えを強調した。

 えっ、えっ、えっ、これどういう意味?
 日朝会談のめどが立っていて、(日付が先に決まっていて)、「議題」はこれからつめていく、というときは「条件をつけずに会談する」(会うことが大事だから)というのは、「論理」としてわからないでもない。
 でも「条件をつけずに」が最初にあって、日にちのめども立っていないのなら、これは「拉致問題」は安倍からは言わないと「条件をつけた」ということではないだろうか。言い換えると、「会談のテーマは安倍の方からは何も言わないから、ともかく会ってほしい」と申し入れたということではないか。
 水面下でどういう交渉が行われているのか知らないが(外交だから、国民やマスコミには知らせないまま、交渉が続いているのかもしれないが)、これは「大失態」ではないか。北朝鮮は、絶対に拉致問題を議題にしない。「解決済み」としか言わないだろう。
 北朝鮮とどういう水面下の交渉をしているのか知らないが、こんな「裏話」を拉致被害者の会の前で語る(読売新聞もそれを書く)というのだから、びっくりしてしまう。
 日朝会談がもしおこなわれるとしても、そのとき「条件をつけずに会談したいと行ってきたのは安倍であり、北朝鮮の方から申し込んだわけではない。解決済みの拉致問題など議題にできない」と言われておしまい。
 拉致問題を安倍は、捨ててしまったのだ。

 思い出すのは2016年の「日露首脳会談」である。
 あのときは、「日程」は決まっていた。しかし、水面下の交渉で岸田が大失態をしている。それをラブロフが暴露している。「経済協力は日本が申し入れてきたこと。ロシアが二島(あるいは四島)返還するから経済協力してくれ、と言ったわけではない」と受け取れることを語っている。岸田が「金を出すんだから、最低二島を返せよ」と言ったのだと思う。新聞の記事から私が推測したことだから、「事実」は違うかもしれないが。
 このことは
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/292e823a4dc83b1427e2bfbf40607266
に書いたので、読んで見てください。その続きは、
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/5adc5e67a6314a6248f2737c32dbef6f
に書いた。

 こんな「失態」つづきで、それでもなお「外交の安倍」を信じる人がいるのが、どうにもわからない。

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池澤夏樹のカヴァフィス(153) 

2019-05-21 10:56:21 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
153 一九〇八年の日々

 若い男の、だらしのない生活が描かれる。

夜を徹しての疲れるゲームが
一週間かそれ以上も続くと、
朝、水浴に行って身体を冷やした。

 その最終連。

あなたは別の彼を見るべきだ。
みっともない上着を脱いで、
継ぎの当たった下着も脱ぎ捨てた、
一点の瑕疵もない全裸の姿、その奇蹟、
櫛を入れてない髪を後ろに流し、
少しだけ日に焼けた手足で、
浴場や砂浜に立つ朝の裸体を。

 「櫛を入れてない髪を後ろに流し、/少しだけ日に焼けた手足」が非常に印象的だ。「一点の瑕疵もない全裸の姿、その奇蹟、」という抽象的な表現を内側から突き破ってあらわれてくる。まるで、服を脱ぎ捨てたばかりの「裸体」のように。
 声を失って、ただ、見つめてしまう。

 池澤の訳、特に最後の一行の、最後の「を」は「一点の瑕疵」を通り越した致命的な傷だ。「あなたは別の彼を見るべきだ。」と呼応しているのだが、この論理的すぎる翻訳がカヴァフィスの音楽を壊している。詩なのだから、論理のことばを隠した方が、ことばが輝くと思うのは私だけだろうか。

 池澤の註釈。

 まるで短篇映画のような作品。生活に困る姿、職を断り、流行遅れの上着を着て夜のカフェで稼ぐ。そして最後の場面で本来の姿を見せる。

 この註釈の「本来の」ということばも、論理のことばだろうなあ。




 



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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読売新聞の価値(うそとほんとうの書き分け)

2019-05-21 08:35:11 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞の価値(うそとほんとうの書き分け)
             自民党憲法改正草案を読む/番外267(情報の読み方)

 読売新聞は「安倍寄り」ということで、ネットなどではしきりに叩かれているが、「安倍寄り」だからこそ、貴重な情報が載っていることもある。

 2019年05月21日の読売新聞(西部版・14版)の一面。

GDP2期連続プラス 年2・1%増

 という記事。賃金が減り、「不景気」といわれているのに、なぜ? 自分の身の回りの金の動きしかわからない私には、「大局」の経済がさっぱりわからない。「統計」もゆっくりと見つめたことがない。だから、「なぜ」がほんとうにわからない。
 1面の記事には

個人消費や設備投資がふるわなかったが、公共投資が景気を下支えした。輸入が大幅に減少したことも、計算上、GDPを押し上げた。

 と書いてある。注目したのは「計算上」ということば。これはつまり、「GDP2期連続プラス」になったのは、単に「計算上」のことにすぎなくて、景気がよくなっていることではない、という意味なのだ。
 景気がよくなったと、読売新聞は「嘘」を書いた、と非難されるのを恐れて、こっそり「ほんとう」を書いている。「私はちゃんとほんとうのことを書きました。ていねいに読んでください」と「言い訳」を隠している。こういう書き方が多い。
 で、一面の記事だけでは、何のことかよくわからないが、3面に解説がある。
 「輸入」との関係については、こう書いてある。

 輸入は海外で生み出されたモノを買うことにあたり、国内で生み出された価値とはみなされない。このため、GDPの総額から差し引かれている。輸入が増加すればGDPを押し下げ、減少すれば押し上げる関係にある。

 日本人が金持ちになってどんどん外国製品を買えばGDPは下がる。貧乏になって、不景気で買えなくなればGDPは上がる。日本人が貧乏になった証拠だ。
 「個人消費」の説明を読むと、「不景気」が、さらにぞっとするくらい身に迫ってくる。こう書いてある。

 速報値では、企業の在庫の積み上がりを示す民間在庫が0・1%分、GDPを押し上げる方向に働いた。生産活動の結果、在庫が増えたとみなすためだ。しかし、実際にはモノが売れずに在庫が積み上がった可能性もあり、今後の景気にマイナスに働く恐れもある。

 慎重に書いているが、「実際には」に注目。
 ものが売れずに在庫が増えただけというのは「可能性」ではなく、「現実」なのだ。
 先日のコンビニの「食品ロス」対策とあわせて読むと、「実際(現実)」が「可能性」ではなく「リアル」に迫ってくる。
 「食品ロス」は簡単に言えば「食品が売れなくなった」ということに過ぎない。売れれば「ロス」は少なくなる。「環境対策」と言えば聞こえがいい。「不景気」という印象が薄れるから、そういうだけなのだ。
 コンビニの「食品ロス」対策は「弁当」などの「食品」限定のことだが、売れないのは「弁当」だけではない。ほかのものも売れない。企業に在庫が増えるばかりだ。つまり、企業の在庫は、消費を見込んで製品をたくさんつくったからではなく、見込みよりも消費が少なくて売れ残ったということ。
 こっそり書かれている「みなす」にも注目したい。「みなす」は1面の表現にしたがえば「計算上」ということになる。「みなす」ことができるだけであって、実際は、違う。

 ようするに、GDPがアップした。景気はよくなっている、というのは嘘。
 でも、「政府」が発表しているから、発表は発表として書くしかない。ほんとうはどうなのかは、「事実上」とか「実際には」ということばのあとに、そっと書く。
 読売新聞(だけではないと思うが)、ニュースは、「事実上」とか「実際には」ということばのあとに書かれているところに、読むべきものがある。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(152)

2019-05-20 08:45:44 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
152 紀元前二〇〇年に

我らは、まずアレクサンドリア人であり、
またアンティオキア人であり、その他
エジプトやシリア、メディアやペルシャ、その他、
数えきれないほど諸地域の民だが、しかしギリシャ人なのだ。
我らの圧倒的な優越性、
柔軟な政策と、叡知による統一感、
遠くパクトリアやインドまでも通用する
普遍語としてのギリシャ語。

 でも、それはもう誰も気に留めない。それはかつて「但しラケダイモンの民を除く」と碑文に書かれたラケダイモンのことを気に留めないのと同じ。言い換えると、現代ではギリシャ人はかつてのラケダイモンの民になった、という構造になっている詩の、終わりから二連目。
 池澤は、「柔軟な政策と、叡知による統一感、」という一行に、

空疎な讃辞の羅列である。

 という註釈をつけている。
 たしかにギリシャは敗北したのだから、そういうしかないのかもしれないが。
 でも、カヴァフィスは「空疎な讃辞」と思って書いたのか。
 ちょっとむずかしい。
 「ギリシャ人」が「ギリシャ語」と言いなおされる。そのときカヴァフィスが思い描いているのは「人」というよりも「人」を動かしている「叡知による統一感」ではないのだろうか。そしてこの「叡知による統一感」こそ、その国のたどりついた「頂点」であり、その国の「頂点」はいつでも「国語」によってあらわされる。
 ギリシャ人もギリシャ語も、もう過去の存在かもしれない。しかし、その過去は生きている。ギリシャ語を話す人がいるかぎり、それは生き続ける。
 最終連の一行、

今、ラケダイモンの民のことなど誰が口にしよう!

 は「今、ギリシャの民のことなど誰が口にしよう!」なのだが、誰も口にしなくても、カヴァフィスは「ギリシャ語」を口にする。その思いが隠されていると読んだ。






 



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水下暢也「あかり」

2019-05-19 23:34:30 | 詩(雑誌・同人誌)
水下暢也「あかり」 (「現代詩」2019、2019年04月30日発行)

 水下暢也「あかり」はH氏賞を受賞した『忘失について』のなかの一篇。全行を引用する。

弓張りの霊光は
明かり取りに絡めとられた形で
きざはしにかけた左足と
手摺をたのんだ左手の力を緩めてゆく内に
雲に遮られたのか
かいなをひいてゆき
半ば影絵となった
物腰の硬い立ち姿が
踊り場の手前で往生し
夜陰にうっすらと
影だけが見えると話にきかされた
顔鳥の一頻り啼くのを縁にして
きざはしを上がり
ふたたびの光が肩にかかって
間近の一声のあと
暗闇は翡翠の尾を垂れ
逃げていった

 さて、これをどう読むべきか。
 「叙述」にこそ詩があるという書き方が、最近は、とても多いと思う。そして、とても「評価」が高い。
 重要なのは「意味(内容)」よりも「叙述」というのは、たしかにその通りだと思うのだが、その「叙述」で水下は何に抵抗しようとしているのか。ほかの多くの詩人でもそうなのだが、私は疑問に思っている。
 なぜ疑問かといえば、その「叙述」が「動詞」に重点があるのではなく、むしろ「現代語」ではないことばのつらなりにあるからだ。これでは「叙述」ではなく「意味」である、と私には感じられる。「意味」をわかりにくくしているだけであって、「意味=対称(主語)」をそのまま踏襲している。一種の「先祖返り」に思える。
 こういう抽象的な批判はよくないのだが。
 そしてこれから書く「比喩」は水下にとっては「暴言」に聞こえるかもしれないが。
 私には、この奇妙な「先祖返り」は、安倍の進めている「改憲」の本質にとても似ているように感じられる。「動詞」を「名詞」に置き換え、「名詞」によって「世界」を統一するという「先祖返り」。「名詞」の「頂点」に「天皇(家長)」があり、「存在の意味」によって「世界」を統一する。そういう方法に似ていると感じる。
 一行目。「弓張りの霊光」ということば。「弓張り」は「弓張り月」のことだろうか。私は、こんなことばをつかわない。私の周りのひとがつかっているのも聞いたことがない。「霊光」になると、これは、聞いたことも読んだこともない。
 知らない人間、無知な方が悪いのだといわれればその通りだが、知らないことばをつかう人は、たいてい「知らないものは黙っていろ(命令に従え)」ということを私は経験として知っている。ある種の人は、他人を支配するために、ひとのつかわないことばをつかう、ということを知っている。だから私は、そういうことばをつかう人間を疑う。
 脱線した。
 「霊光」は「漢字」をたよりに推測すれば「幽霊の光」(まさか!)「霊魂の光」「霊の光」、つまり「現実」に存在するというよりも意識によって存在させられる光なのだと思うが、そのときの「存在させる意識」(精神)というものの動きが、私に言わせれば、さらにうさんくさい。
 たとえば「iPS細胞」というものがある。これは、つい最近までは存在しなかった。存在していたけれど、わからなかった。でも「科学の力」で存在させることができるようになった。発見、発明。そういうものが現代にはたくさんあるが、そういう「存在のさせ方」とは「方法」が完全に違う。「いま」ある何かをつかって「存在させる」(発見する、発明する)という「動詞(生き方)」が動いていない。
 かつてあった「ものの見方」を再利用している。言い方を変えれば、復活させている。あるいは「ルネッサンス」を行っているとも言えるのだが、それはほんとうに「古典」の「再評価」なのかなあ、と疑問に思う。
 忘れていたものが再び登場してくるので、「感性」としては瞬間的に「新鮮」に見えるけれど、それは「発見/再発見」なのか。「先祖返り」なのか。
 「古語」を「叙述」として復活させることで、現代をどういう方向に動かしていこうとしているのか。
 どうも、「自己保存」の「鎧」として利用しているのではないのか、という気がする。加速する「先祖返り」の風潮にあわせ、「鎧」をまとい、そのなかに「一体化」する。そうすることで生きていく、という若者の姿を見る感じがする。それが安倍と、安倍を支持することで「出世」しようとする若者の姿と重なって見える。

 いま起きているさまざまな社会現象と重ね合わせると、まさに「現代」そのものになるのかもしれない。でも、私は「現代」を、そういう形では受け入れたくない。「現代」とそういう形では向き合いたくない。





*

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忘失について
水下 暢也
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池澤夏樹のカヴァフィス(151)

2019-05-19 11:19:17 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
151 古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方を使って

美を愛するさる人物が言う--「何か方法はないか、
霊験ある薬草の成分などを蒸留して、
それも古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方などを使って
たった一日でも(薬効は長くは続くまいから)、
あるいはせめて数時間でも、
わたしが二十三歳だった時の、
あの二十二歳の友人の、
美と愛を呼び戻せないものか。

 主眼は後半の「二十二歳の友人の、/美と愛を呼び戻せないものか」にあるのか。いや、「古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方などを使って」の方だろうなあ。
二連目は一連目の要約と言いなおしだが、そこにまったく同じことばが出てくる。この不思議なリフレインマジック。意味よりも音楽が聞こえる。

古代ギリシャ=シリアの魔術師の処方を使って
蒸留した霊薬で過去へと遡り、
私たちが一緒に暮した
あの部屋へ戻れないものか」

そしてその音楽は、エキゾチックで、遠くへと思いを運ぶ。空間の遠さが、時間の遠さ。それを呼び寄せる音楽の近さが、官能そのものに揺らぎに感じられる。この酔いの中で、蒸留されるのは「霊薬」ではなく、「過去」そのものだ。

池澤の註釈。

ギリシャ文化圏にも魔法はあったが、それにシリアを加えることで神秘感は強まる。秘儀は東から来る。






 



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estoy loco por espana (番外32)Joaquín Llorens Santa "Oasis"

2019-05-19 08:44:18 | estoy loco por espana
"Oasis" la obra de Joaquín Llorens Santa



"Oasis" la obra de Joaquín Llorens Santa


Tres árboles están muy juntos.
Recordé "El príncipito".

"El desierto es hermoso", dijo el príncipito. "Porque hay un pozo en algun sitio".

La obra de Joaquín también esconde "el tesoro".
Solo lo que está tratando de encontrar puede ser capaz de encontrarlo.
Los tres árboles protegen el agua.
El agua refleja la apariencia humana. Refleja la mente humana.
El agua también refleja el día cielo azul, el sol, la luna de la noche y las estrellas.


Sumergiré mis manos en agua y beberé agua.
Como beber el cielo estrellado. Bajo los tres árboles de joaquín.

 三本の木が寄り添っている。
 私は「星の王子様」を思い出した。
 
 「砂漠は美しい」と星の王子様は言った。「どこかに井戸が隠されているから」

 ホアキンの作品は「宝物」を隠している。
 見つけ出そうとするものだけが見つけ出せるのかもしれない。
 三本の木は水を守っている。
 水は、人間の姿を映す。人間のこころを映す。
 水はまた、昼の青空をと太陽、夜の月と星を映す。


 私は両手を水に浸し、水を飲む。
 満天の星空を飲むように。
 ホアキンの三本の木の下で。

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アルメ時代 19 小倉金栄堂

2019-05-18 16:49:51 | アルメ時代
19 小倉金栄堂



 平積みの新刊書の横を通った。つややかな色であった。踊り場で出版案内を呼んだ。細かい活字が目の奥で微熱になった。二階でミンコフスキーについてたずねた。眼鏡の店員がノートをめくって二、三教えてくれた。タイトルや内容は忘れてしまった。機敏さだけがもちうる温かさが印象に残っている。人間が人間に伝えられるものは、ととのったことばの形では明らかにできないものである。これは本屋で考えるのにふさわしい内容とは言えない。書棚の陰をまわって文庫本の目録をめくった……。
 三階でペーパーバックをめくり思い出せない単語に出会ったとき、私は私の行為を反芻した。記憶の流れを阻んでいるものを取り除くために。
 状態ではなく、存在そのもののような手応えを持った心理をさすことば--私が思い出したいのはそれだ。しかし私は知っている。平積みの新刊書から順を追って反復しても、決して見出せないことを。記憶をつまずかせるものがほかにあることを。
 順を追って本屋の中での行為をたどり、わけありげな註釈を加えてみたのは、わだかまりから遠ざかるための方法に過ぎなかったのかもしれない。しかし、遠ざかろうとするものはいつだって、引き寄せられてしまうしかない。より深い力で引き寄せられるためだけに、私たちは遠ざかるという方法をとるのだろうか。
 記憶を折り曲げ、もつれさせているのは自動扉のわきにたっていた女である。女は男を待っている。本屋の中で待たないのは、男が本屋に入るような人間ではないからだ。しかし確実に前は通る。たぶん、いつも同じ道順を生きる男なのだろう--想像にはいつも自分の行為が逆さになったりねじれたりしながら統一を与えてしまう。などと考えながら、私は電車どおりの向こう側から女を見ていたのだった。信号が変わった。動き始めた人にうながされるように舗道をわたり、女のたっぷりとしたコートの色を見つめ、本屋に入った。
 「本屋に入り込み、あれこれ活字を眺めまわすのは、何もすることがない人間のすることである。」どこかに沈んでいたことばが、自動扉の開く音をぬって、鼓膜の表面に浮きでてきて波紋のように広がる。少し揺れながら、そんな人間の一人であると自覚するしかなかった。というのも、私が最初にしたのは、新刊のなかに男の肖像を探すことだったからである。ついで、心理学書に待つという行為に耐えるこころの力を探そうとした。カポーティのなかに、男女のいざこざのきっかけを探そうともした。そして突然、ありふれた、しかしそのために日本語ではあまり口にしない単語にぶつかったのだった。
 何とルビを振るべきか。私は人を待つようには答えがあらわれてくるのを待つことができない。待つということは気持ちが悪い。金栄堂の前の女が気にかかるのも、その気持ち悪さをさらけだされたように感じるからだ。
 私は何かがあらわれるのを待てない。見つかるあてがなくても探しに歩きださずにはいられない。そうして強い抵抗にぶつかって神経がぽきりと折れることを願っている。動き回ること、探し回ること、それは私にとって謎を問いにととのえることと同じ意味なのかもしれない。

 「女のこころに謎などありません。それが謎なのかもしれません。」さっきからそこにいたというかのように、書棚の細い通路を通って、すばやくあらわれた女は、私の指さした単語を訳すかわりにそういった。相槌を打つでもなく、再び同じ単語を指さすと、女は本を閉じてしまった。「けさ、私は、ヒゲを剃るとき男は両足をひろげて立つと気づいて笑いだしそうになりました。本を読むと、そうしたポーズというか、型がいくつもあらわれ、私を驚かします。男はいつまでたっても変声期の少年のようです。女という概念に発情し、目の前のものに目もくれず、その奥にあるもの、ほんとうはそんなものなどないのですが、男たちが勝手に概念と名づけたものを追いかけていきます。そうして遠ざかっていく男に女が耐えられる理由はひとつしかありません。男のこわばった感性の運動を見るとほほえましい気がするからです。たしかに感性といいました。私は精神とか知性というものを信じません。つつみこむ感性と入り込もうとする感性があるだけです。つつみこむためにみずから形をかえる感性と、分け入るために自分以外のものを変形させて平気でいる感性、そのふたつがあるだけです。」

 本と女には似たところがある。気ままに開き、気ままに加筆する。すると私がねじれ始める。不定形の鏡の世界へ連れて行かれる。ぼんやりと浮かびあがってくる像は確かに私なのだろうが、納得できない。自分の思うままの像に対するこだわりがあるからだと女はいうだろうか。
 つったたったままの私に、女は新しい本を開いてみせる。「現代物理学は物体から手応えをとりはらった。そのとたん宇宙の似姿ができた。極大を考えることと極小を考えることに夢中で、自分にあった大きさ、手応えの世界を置き去りにした。」

 ことばにふれるたびに、私がずらされていく。あるいはひきのばされていく。しかし不快ではない。むしろ、そのあいまいな感覚がひとつの手応えになってくる。私のもとめていたのは、ひきのばされ空虚になっていく構造をみたす力だったのか。あまい分裂をかかえながら一階から三階までを往復すれば、女はやがて帰ってしまう。
 天井の灯がふたつみっつ増えて、私の影が一瞬まばたき、再びひとつになる時間になっていた。




(アルメ240 、1986年03月25日)
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