石松佳『針葉樹林』(2)(思潮社、2020年11月30日発行)
石松佳『針葉樹林』には散文形式のものと、行分けの作品がある。私には散文形式のものの方が魅力的に見える。
きのうの二篇もそうだったが、もっ一篇。「梨を四つに、」。
梨を四つに、切る。今日、海のように背筋がうつくしい
ひとから廊下で会釈をされて、こころにも曲がり角があ
ることを知った。
ここにある「事実」は「梨を四つに、切る」と「ひとから廊下で会釈をされ」た、ということだけである。「海のように背筋がうつくしい」は「認識」である。「こころにも曲がり角がある」というのも「認識」である。「知った」という「動詞」が、それを証明している。
そして、ここから読み直すのだが。
「梨を四つに、切る」というのははたして「事実」なのか。「認識」にすぎないのではないか。「梨を切る」だけなら、「もの」と「行為(動詞)」があるだけなのだが、「四つ」が加わると「行為(動詞)」に働きかけるものがある。動詞を支配し、制御するものがある。その制御によって、つまり意思によって、梨は「四つ」に切られる。「意識/意思/認識」は厳密に言えば違うものかもしれないが、それをつらぬくものは「おなじ」である。「肉体/動詞」を動かすものである。「肉体/動詞」には、「意識/意思/認識」とは別に動くものもあるが、石松が書いているのことは、「意識/意思/認識」によって動く/動かされる「肉体(動詞)」である。
これは自分自身の「肉体」を離れたものにまで作用する。
「海のように背筋がうつくしい」ということばには、「梨を四つに、切る」の「四つ」に煮たものが含まれている。「海のようにうつくしい」「背筋がうつくしい」はそれぞれ「日常語」として成立する。「うつくしい」は形容詞。形容詞と動詞をひっくるめて「用言」という言い方ができるが、その「用言(うつくしい)」によって「海」と「背筋」を合体させるとき、それは「接合」というよりも「海」から「背筋」を切り離す、あるいは「背筋」から「海」を切り離すのに似ている。もっと正確に言い直せば、それはほんとうは「ひと」だったのだ。「ひと」が「海」と「背筋」の二つに切り分けられ、「うつくしい」ということばで「梨」のように「統合」させられている。「四つ」に切られた梨はまるくはないが、梨の味がする。「海」と「背筋」に切り分けられたひとはもとのままのひとではないが、ひととして「会釈をする」。「会釈をする」のなかには「こころ(意識/意思/認識)」があり、それは梨の「味」のようにひとを統合し、「うつくしい」ものとしてあらわれる。「味」が梨そのものではないように(つまり、他の存在にもつながっていく「認識」であるように)、「うつくしい」も「そのひと」そのものだけではなく他の存在につながっていく。それは「海」「背筋」という「そのひと」の属性や、「そのひと」が呼び覚ました印象を超えて、「わたし」(この主語は、引用はしないがもう少し後になって出てくる)にまで及んでくる。「こころにも曲がり角がある」というときの「こころ」は、「会釈をしたひとのこころ」ではなく「わたしのこころ」である。「わたしのこころ」が「今日」目撃したものを「うつくしい」と感じたのだ。(「今日」と書いているが、これは「今日」と認識したということである。)そして、そのような新しい意識(認識)の発見を「曲がり角」という比喩にしているのだ。「曲がり角」を曲がると、それまで見ていた世界とは違ったものが見える。そして、それは「ひと」を借りた「自画像」であり、その「自画像」は「梨を四つに、切る」というありふれた「日常」に溶け込まされたものなのだ。そこに書かれていることは「異様」ではなく「日常」なのだ、と主張することで「日常」をあたらしいもの(詩)にしている。
感覚的に書かれているようで、実は、ことばの運動を支配しているのは感覚の飛躍ではなく、意識の粘着である。粘着力があるからこそ、ことばの動きが「切断」に見えるのである。「新しい世界の断面/詩」に見えるのである。こういう運動を再現するには「散文」の方が印象的である。散文はもともと粘着性が強い。だから、いくら粘着的に書いても粘着力は意識されることが少ない。「切断された面/断面」が目立つ。私がいま書いたように、冒頭の三行から、石松のことばの粘着力を引き出し、「うつくしい」が単にひとへの修飾語であるだけでなく「自画像」までを修飾している「射程の広さ/粘着性」があるというようなことをいうひとは少ないだろう。
ことばの読み方(誤読の仕方)はひとそれぞれなので、どう読むかは結局個人の問題だから、私は私の書いていることが「正しい」と言い張るわけではない。私には石松のことばの運動が、基本的に「散文的」であると言いたいのである。
で、その「散文性」の強いことばが行分けの場合は、どう動くか。「リヴ」を読んでみる。
あなたは
北方の先にあるものはまた北だった、
という大人びた顔で
野を拓き
冷たい花束を置く
「北」は「冷たい」を含む。「先にあるもの」は「拓く」(開く/広がり)を含む。この「意識の定型」を「大人びた」認識が肯定している。「北方の先にあるものはまた北だった」という「北」の繰り返しが、「意識の定型」を破りながら、さらに強固なものにする。
これはあくまで「認識された光景」である。この「認識」と「行動(動詞)」をどう組み合わせれば「世界」が「世界」として、人間の場として生まれてくるか。
本当の景色を前にして
目を閉じるのはどうして
羨ましい、羨ましがられる
「認識」に対して「本当の景色」が対比させられているが、どこが「本当」なのか、私にはわからない。「本当」を気づかせてくれることばがない。これもまた「認識」にすぎないからだろう。それは、つまり「目を閉じ」ても見ることができる。だから「目を閉じる」。「どうして」という疑問は、形式的である。ほんとうに疑問に思っているわけではなく、目を閉じないことには「世界(認識)」が維持できないからである。
「羨ましい、羨ましがられる」と「感情」のことばを噴出させてみても、どこへも動いていかない。
列に並ぶとき、
誰にも気付かれずに
くしゃみをしたひとがいた
プールの底では
世界中の長女たちが目を瞑って
ただ手を繋いでいる
「目を閉じるは」「目を瞑って」に変化している。この一つの主語「目」と「閉ざす/瞑る」という二つの動詞、その動詞の変化のなかに石松の「散文的粘着力」を見ることができるけれど、「海のように背筋がうつくしい」の「うつくしい」ように効果的には感じられない。途中にはさまれる「くしゃみをしたひと」は「会釈をしたひと」のように「わたし」にはつながらず、「世界中の長女たち」へと拡散していく。
行分け詩では「粘着力」ではなく違う力を展開しようとしているのかもしれないけれど、どうもよくわからない。
「森林警察署」という作品。
、いらっしゃいませ。
光が、水路のひとびとを
奥の方へと急がせるとき
翠雨色の制帽を被った
警察官が立っていました、
ひとびとの影は
頼りないほどに細くなり
最後には藻のように揺れて
消えていきましたが
わたしは
オルガン公園の
螺旋階段を降りてゆくことに
精いっぱいでした
いきなりの読点「、」が異変を知らせる。「急がせる」「警官」ということばが、物語をつくりはじめる。この「粘着力」は「頼りない/細い」をへて「藻のように揺れて」「消えて」と動き「精いっぱい」ということばにたどりつくのだが、「翠雨色」にも「オルガン公園」にも「螺旋階段」にも「海のように背筋がうつくしい」ほどの魅力はない。たぶん、行分けが必然的に引き込んでしまう「切断」が石松のことばの「粘着力」とは相いれないのだ。
「散文形式」の詩だけで一冊になっていたら、もっと魅力的だったと思う。
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