詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石松佳『針葉樹林』(2)

2020-12-24 11:12:35 | 詩集


石松佳『針葉樹林』(2)(思潮社、2020年11月30日発行)

 石松佳『針葉樹林』には散文形式のものと、行分けの作品がある。私には散文形式のものの方が魅力的に見える。
 きのうの二篇もそうだったが、もっ一篇。「梨を四つに、」。

梨を四つに、切る。今日、海のように背筋がうつくしい
ひとから廊下で会釈をされて、こころにも曲がり角があ
ることを知った。

 ここにある「事実」は「梨を四つに、切る」と「ひとから廊下で会釈をされ」た、ということだけである。「海のように背筋がうつくしい」は「認識」である。「こころにも曲がり角がある」というのも「認識」である。「知った」という「動詞」が、それを証明している。
 そして、ここから読み直すのだが。
 「梨を四つに、切る」というのははたして「事実」なのか。「認識」にすぎないのではないか。「梨を切る」だけなら、「もの」と「行為(動詞)」があるだけなのだが、「四つ」が加わると「行為(動詞)」に働きかけるものがある。動詞を支配し、制御するものがある。その制御によって、つまり意思によって、梨は「四つ」に切られる。「意識/意思/認識」は厳密に言えば違うものかもしれないが、それをつらぬくものは「おなじ」である。「肉体/動詞」を動かすものである。「肉体/動詞」には、「意識/意思/認識」とは別に動くものもあるが、石松が書いているのことは、「意識/意思/認識」によって動く/動かされる「肉体(動詞)」である。
 これは自分自身の「肉体」を離れたものにまで作用する。
 「海のように背筋がうつくしい」ということばには、「梨を四つに、切る」の「四つ」に煮たものが含まれている。「海のようにうつくしい」「背筋がうつくしい」はそれぞれ「日常語」として成立する。「うつくしい」は形容詞。形容詞と動詞をひっくるめて「用言」という言い方ができるが、その「用言(うつくしい)」によって「海」と「背筋」を合体させるとき、それは「接合」というよりも「海」から「背筋」を切り離す、あるいは「背筋」から「海」を切り離すのに似ている。もっと正確に言い直せば、それはほんとうは「ひと」だったのだ。「ひと」が「海」と「背筋」の二つに切り分けられ、「うつくしい」ということばで「梨」のように「統合」させられている。「四つ」に切られた梨はまるくはないが、梨の味がする。「海」と「背筋」に切り分けられたひとはもとのままのひとではないが、ひととして「会釈をする」。「会釈をする」のなかには「こころ(意識/意思/認識)」があり、それは梨の「味」のようにひとを統合し、「うつくしい」ものとしてあらわれる。「味」が梨そのものではないように(つまり、他の存在にもつながっていく「認識」であるように)、「うつくしい」も「そのひと」そのものだけではなく他の存在につながっていく。それは「海」「背筋」という「そのひと」の属性や、「そのひと」が呼び覚ました印象を超えて、「わたし」(この主語は、引用はしないがもう少し後になって出てくる)にまで及んでくる。「こころにも曲がり角がある」というときの「こころ」は、「会釈をしたひとのこころ」ではなく「わたしのこころ」である。「わたしのこころ」が「今日」目撃したものを「うつくしい」と感じたのだ。(「今日」と書いているが、これは「今日」と認識したということである。)そして、そのような新しい意識(認識)の発見を「曲がり角」という比喩にしているのだ。「曲がり角」を曲がると、それまで見ていた世界とは違ったものが見える。そして、それは「ひと」を借りた「自画像」であり、その「自画像」は「梨を四つに、切る」というありふれた「日常」に溶け込まされたものなのだ。そこに書かれていることは「異様」ではなく「日常」なのだ、と主張することで「日常」をあたらしいもの(詩)にしている。
 感覚的に書かれているようで、実は、ことばの運動を支配しているのは感覚の飛躍ではなく、意識の粘着である。粘着力があるからこそ、ことばの動きが「切断」に見えるのである。「新しい世界の断面/詩」に見えるのである。こういう運動を再現するには「散文」の方が印象的である。散文はもともと粘着性が強い。だから、いくら粘着的に書いても粘着力は意識されることが少ない。「切断された面/断面」が目立つ。私がいま書いたように、冒頭の三行から、石松のことばの粘着力を引き出し、「うつくしい」が単にひとへの修飾語であるだけでなく「自画像」までを修飾している「射程の広さ/粘着性」があるというようなことをいうひとは少ないだろう。
 ことばの読み方(誤読の仕方)はひとそれぞれなので、どう読むかは結局個人の問題だから、私は私の書いていることが「正しい」と言い張るわけではない。私には石松のことばの運動が、基本的に「散文的」であると言いたいのである。
 で、その「散文性」の強いことばが行分けの場合は、どう動くか。「リヴ」を読んでみる。

あなたは
北方の先にあるものはまた北だった、
という大人びた顔で
野を拓き
冷たい花束を置く

 「北」は「冷たい」を含む。「先にあるもの」は「拓く」(開く/広がり)を含む。この「意識の定型」を「大人びた」認識が肯定している。「北方の先にあるものはまた北だった」という「北」の繰り返しが、「意識の定型」を破りながら、さらに強固なものにする。
 これはあくまで「認識された光景」である。この「認識」と「行動(動詞)」をどう組み合わせれば「世界」が「世界」として、人間の場として生まれてくるか。

本当の景色を前にして
目を閉じるのはどうして
羨ましい、羨ましがられる

 「認識」に対して「本当の景色」が対比させられているが、どこが「本当」なのか、私にはわからない。「本当」を気づかせてくれることばがない。これもまた「認識」にすぎないからだろう。それは、つまり「目を閉じ」ても見ることができる。だから「目を閉じる」。「どうして」という疑問は、形式的である。ほんとうに疑問に思っているわけではなく、目を閉じないことには「世界(認識)」が維持できないからである。
 「羨ましい、羨ましがられる」と「感情」のことばを噴出させてみても、どこへも動いていかない。

列に並ぶとき、
誰にも気付かれずに
くしゃみをしたひとがいた
プールの底では
世界中の長女たちが目を瞑って
ただ手を繋いでいる

 「目を閉じるは」「目を瞑って」に変化している。この一つの主語「目」と「閉ざす/瞑る」という二つの動詞、その動詞の変化のなかに石松の「散文的粘着力」を見ることができるけれど、「海のように背筋がうつくしい」の「うつくしい」ように効果的には感じられない。途中にはさまれる「くしゃみをしたひと」は「会釈をしたひと」のように「わたし」にはつながらず、「世界中の長女たち」へと拡散していく。
 行分け詩では「粘着力」ではなく違う力を展開しようとしているのかもしれないけれど、どうもよくわからない。
 「森林警察署」という作品。

、いらっしゃいませ。
光が、水路のひとびとを
奥の方へと急がせるとき
翠雨色の制帽を被った
警察官が立っていました、
ひとびとの影は
頼りないほどに細くなり
最後には藻のように揺れて
消えていきましたが
わたしは
オルガン公園の
螺旋階段を降りてゆくことに
精いっぱいでした

 いきなりの読点「、」が異変を知らせる。「急がせる」「警官」ということばが、物語をつくりはじめる。この「粘着力」は「頼りない/細い」をへて「藻のように揺れて」「消えて」と動き「精いっぱい」ということばにたどりつくのだが、「翠雨色」にも「オルガン公園」にも「螺旋階段」にも「海のように背筋がうつくしい」ほどの魅力はない。たぶん、行分けが必然的に引き込んでしまう「切断」が石松のことばの「粘着力」とは相いれないのだ。
 「散文形式」の詩だけで一冊になっていたら、もっと魅力的だったと思う。









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「最近知った」が特ダネ?

2020-12-23 15:49:15 | 自民党憲法改正草案を読む
「最近知った」が特ダネ?(情報の読み方)

 2020年12月23日の読売新聞(西部版・14版)35面(社会面)。「桜」前夜祭の続報。(番号は、私がつけた。記事の順序は番号どおりではない。また、一部は括弧で私がことばを補った。)

安倍前首相「補填、最近知った」/「桜」前夜祭 任意聴取で説明

①安倍晋三前首相(66)側が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡り、東京地検特捜部が安倍氏から任意で事情を聞き、安倍氏が前夜祭費用の補填などについて「最近になって知らされた」と説明したことが関係者の話でわかった。
②特捜部は、安倍氏が首相当時、実態を知らないまま、「補填の事実はない」などと国会で答弁していた可能性が高いとみている。

 デジタル版(ネット)には「独自」(特ダネ)の印がついていた。どこが「特ダネ」なのか、私にはよくわからないが。
 見出しにとっている「補填、最近知った」と説明したということが「特ダネ」なのだろうか。
 この部分は、本記では、こう補足されている。

③安倍氏も特捜部の聴取に答弁の経緯を説明。補填の実態を知ったのは首相辞任後の11月後半だとした上で、「不正には関わっていない」などと述べたという。
 
 この「11月後半」とは具体的には、いつか。
 2020年11月23日の読売新聞は、「桜を見る会前夜祭」問題で、東京地検が安倍の秘書を聴取したというニュースを「特ダネ」で報じている。
 読売新聞が報道するまで、あるいは秘書が東京地検に聴取されままで(聴取されたと安倍に報告するまで)補填の事実を知らなかった、ということだろうか。
 「論理的」には、それで辻褄が合う。

④こうした答弁(「補填の事実はない」)をした理由について、安倍氏周辺は先月の取材に対し、安倍氏から昨年末、国会答弁に際して補填の有無を確認された際、事務所担当者が「支出していない」とウソをついたためだと話していた。

 この辻褄合わせを、読売新聞は、ごていねいに「先月の取材」をもとに「正しい」と細くしている。安倍は、長い間、補填の事実を知らなかった。補填については、担当者が「支出していない」と嘘をついていたので、安倍には知りようがなかった、と。
 この読売新聞の「論理補強」には非常に問題がある。
 もし、それが「事実」だとして、なぜ、安倍は秘書が言っていることをそのまま信じたのか。別ないい方をすると、「真実」を知るために、安倍がいったいどんな「努力」をしたのかがわからない。「知らなかった(だまされた)」ということばが有効なのは、さまざまな方法で事実確認をしてきたが、事実が巧妙に隠されていたからであるというときだけである。
 国会では、たしか「ホテル側の領収書を提示しろ」というようなことが何度も言われたはずである。ホテル側の領収書や見積書を調べれば、費用がいくらかかったかということが即座にわかり、金の動きが明確になったはずである。安倍は、自分が疑われているのに、そういう「潔癖証明」を一度もしてこなかった。「知らなかった」のではなく、「知ろうとしなかった」あり、それは事実を書くそうとすることでもある。
 隠そうとし続けてきたが、隠しきれなくなったために「知らなかった」と言っているだけである。
 それで、突然、「11月後半」になって知った、という。
 それを補足することを「11月後半」に、秘書が読売新聞に語ったのだとしたら、それは単純に考えて、安倍と秘書が口裏を合わせて読売新聞をだましているということだろう。可能性だけれどね。ことばをあつかう仕事をしているのなら、どうしたって、そういうこと疑ってかかるべきだろう。
 読売新聞は、そういう「だまされているかもしれないこと」を根拠に、逆に、安倍は正しいことを言っていると主張している。
 その部分が、繰り返しになるが、
 
④こうした答弁(「補填の事実はない」)をした理由について、安倍氏周辺は先月の取材に対し、安倍氏から昨年末、国会答弁に際して補填の有無を確認された際、事務所担当者が「支出していない」とウソをついたためだと話していた。

 である。
 ④を報道するとき、読売新聞は「裏付け」取材をしたのか。簡単に言い直せば、そのとき安倍本人にも取材したのか。秘書は「支出していないとウソをついた」と言っているが、安倍自身はそのことを知っているか。知っているとすれば、いつ知らされたのか、を安倍から確認したのか。
 もしそのとき確認していれば、あれから1か月たったいま、

「補填、最近知った」

 ということばを「特ダネ」として報道するのではなく、あのとき、その段階で、一緒に報道できただろう。その方が、「安倍は無実(安倍は何も知らなかった)」を「衝撃的事実」として報道できたはずである。その方が「安倍弁護」としても有効だったはずである。ところが、読売新聞の記者は、そこまでは頭がまわらないというか、頭をまわそうとしない。ここに、読売新聞の「正直」が強烈に出ている。
 11月下旬に、読売新聞が「取材する」ことで確認できたはずのことをいままで取材せず、いまごろになって安倍自身を取材するのではなく「関係者の話でわかった①」と書いている。リークされたことを、リークされたままに、何の手もくわえないという「正直」きわまりない方法であるが……。
 こんな「ずぼら」な取材があっていいのだろうか。
 「特ダネ」があるとしたら、読売新聞は11月の取材で安倍から「補填、最近知った」ということばを引き出せたはずなのに、それをしなかった、ということだろう。
 なぜ、11月下旬に安倍を取材し、安倍のことばを引き出さなかったのか。11月の「特ダネ」はいったいなんだったのか。

 さて。
 もう一度「特ダネ」に戻ろう。前文に書いてあった、

②特捜部は、安倍氏が首相当時、実態を知らないまま、「補填の事実はない」などと国会で答弁していた可能性が高いとみている。

 これが「特ダネ」だと読売新聞はいいたいのかもしれない。安倍は実態を知らなかったと特捜部は「みている」「可能性が高い」。言い直すと、特捜部は安倍の責任は問えないと見ている、つまり不起訴であるといいたいのだろう。
 「不起訴(見通し)」については、いろいろなことろで批判の声が出ている。そういう声に対する「反論(安倍は正しい/特捜部の判断は正しい)」と主張するための記事だといえる。
 でもねえ。
 そんなことは新聞社がすることではない。
 なぜ、安倍は「最近」まで「補填」を知らなかったのか。「補填」を知らない、ということは、事務所の金の不正な動きもぜんぜん知らなかったということになる。安倍だけではなく、周辺の人も金の動きに対して何の不信も持たなかったということになる。そんなことは、ほんとうにありうるのか。政治資金規正法が関係してくるのに、みんな無頓着だったといことがありうるのか。
 リークされたことをリークされたまま「特ダネ」として書くのではなく、「安倍周辺」を自分で取材して「特ダネ」を探すべきではないのか。



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石松佳『針葉樹林』

2020-12-23 11:18:41 | 詩集


石松佳『針葉樹林』(思潮社、2020年11月30日発行)

 石松佳『針葉樹林』は、「第57回現代詩手帖賞」受賞者の詩集。投稿欄で読んでいるときは違和感はなかったのだが、一冊の詩集になってみると気になることがある。
 「絵の中の美濃吉」。

井戸が目眩をした朝があった。美濃吉は昔から人間より
も事物とこころを通わせていたので、すぐに桔梗を一輪
摘んで、その闇に投げ落とした。闇からは美濃吉を呼ぶ
声が絶えなかった。美濃吉はほほえんで、遠くの山々に
向かって一礼をした。彼は生まれつき音が聞こえなかっ
たのである。

 「絵の中の美濃吉」とあるから、絵を見て、「物語」を感じ、それをことばにしているのかもしれない。
 そう考えた上でも、私には、疑問に思うことがある。
 石松は「井戸」を見たことがあるのか。「井戸」をのぞいたことがあるのか。「桔梗」でなくてもいいが、花でなくてもいいが、何かを「井戸の闇」に投げ込んだことがあるのか。
 どうも、私には、そう感じられない。
 「いま/ここ」が感じられないからである。
 もちろん詩が「いま/ここ」を書かなければならないというわけではないが、「いま/ここ」とはあまりに遠い世界に、私はつまずいてしまう。
 ここでは「ことば」が「存在」ではなく、遠いことばと対話しているとしか感じられない。それは何もかもが「描写されたもの」であって、「生身の肉体(存在)」ではないという感じがしてましまう。
 この作品の場合「絵の中の美濃吉」なのだから、「生身」である必要はないのかもしれないが、それでも「絵」と石松を結びつける「絶対的な肉体」というものがどこかにあってほしいなあ、と思う。

完璧な月が出たある晩、美濃吉は月明かりの中でまたあ
の馬を見た。馬の背中は喪失的にうつくしい作文だっ
た。沼に立ち尽くす馬は暗く燃え、やがて皮膚の上には
雪が結晶する。その景は明らかに厳しい冬の到来を伝え
ていたので、夜風に靡いた草は妹のように泣いた。

 ここには「妹」ということばが出てくるのだが、この「妹」さえ、私には「文学の中の妹」(ことばになってしまった妹)に感じられる。石松に「妹」はいないのではないか。実際に「妹」がいて、それでいてなおかつ、「ことばになってしまった妹」をもちこんでいるのだとすれば、それはそれで一つの「力業」なんだろうけれど。
 もうひとつの「肉体」としての「馬」。これは、登場した途端に「喪失的にうつくしい作文」という「ことば」でしか存在し得ない「形式」に閉じこめられ、「暗く燃え」(燃えているのに明るくはない!)を経て、燃えているのに「皮膚の上には雪が結晶する」という「ことば」でしか成立しない「世界」を出現させる。
 それらが「ことばでしかない」存在だから、「妹」が「ことば」になってしまうのかもしれない。
 一貫しているという意味では「技術」が完成しているということになる。それはそれでとてもおもしろいことで、現代詩は再び荒川洋治の時代に入ったのかもしれない。
 でも、何か、違和感を覚える。
 「美濃吉」が「人間よりも事物とこころを通わせていた」ということばを借りて言えば、石松は「人間よりも確立されたことば(表現)とこころを通わせていた」ということになるのかも。「事物」のかわりに「確立されたことば」。
 なんだか「古今/新古今」、あるいは「新感覚派」という「昔」のことばが現れてきそうな気がするなあ。
 「田園」には、こんなことばがある。

わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことが
なかった。胸に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。
微笑のような日々を、すやすやと送ること。遠くの橋梁
を見るときに聴こえるささやかな斉唱の。透けた布切れ。

 ここでも私は思うのだ。石松は「田園」をほんとうに見たのか。「水紋」をみたのか。「井戸」や「桔梗」や「馬」と同じように、「完成されたことば」を読んできただけなのではないのか。
 「軽やか」と「胸に広がる」は通い合う。「胸に広がる」と「ひとしく苦しい」も通い合う。しかし、「軽やか」と「ひとしく苦しい」は対立する。「軽やか」「胸に広がる」と「微笑」「すやすや」「斉唱」「透けた」も通い合う。しかし、この詩の中でいちばん魅力的な「ひとしく苦しい」は対立する。「どれも」と強調されているだけに、よけいに「対立」を感じる。
 もちろん、これは、そういうことを承知で「どれもひとしく苦しい」ということばのために用意された「舞台(書き割り)」と受け止めればいいのかもしれないけれど。
 でも、そうすると、なんだか、文学的な、あまりに文学的な、という感じ。

                「おはようございま
す。」そして大声でお礼を言われて、顔を上げたら、f
が対岸の選挙カーに向かって手を振っていた。

 というような、あまりにも「現在的」な感じのことばが浮いて見える。
 でも、これは私の感じ方がおかしくて、いま引用した選挙カーのことばなどこそが、石松の「いま/ここ」の「書き割り」なのかもしれない。








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伊藤俊也監督「日本独立」(★)

2020-12-22 23:02:41 | 映画
伊藤俊也監督「日本独立」(★)(2020年12月22日、中洲大洋スクリーン4)

監督 伊藤俊也 出演 浅野忠信、宮沢りえ、小林薫

 白洲正子を宮沢りえが演じるというので見に行ったのだが。
 無惨な映画。人間がぜんぜん浮かびあがってこない。どの役者も、ほんらいなら非常人間くさい存在感を発揮するのに、この映画では単なるストーリーの紹介のための「書き割り」。いや、というよりも、宮沢りえなどはときどきストーリーを超える演技をするので、そこだけが浮かびあがって、とても奇妙。
 そして、そのストーリーも浅野忠信(白洲次郎)、小林薫(吉田茂)が中心になるはずなのに、脇に追いやられている。二人がなぜ「意気投合」しているのか、そのことがぜんぜんわからない。
 では、この映画は何を描きたかったのか。
 時間をかけて、というか、二度もくりかえされる小林秀雄のセリフが、この映画の中心になっている。
 小林秀雄は、戦艦大和の生き残りの乗組員が書いた「小説(?)」を高く評価している。それを発表しようとするが、GHQの検閲にひっかかって、果たすことができない。白洲次郎もその作品を世に出そうとするが、なかなか実現しない。(何年か後には出版されるが。)
 その小説のどこがポイントなのか。
 小林秀雄のことばは、まず小林秀雄の口から語られる。「GHQは戦争で生き残った日本人と戦死した日本人のつながりを完全に断ち切ろうとしている」と。これは、戦死した日本人の精神を否定しては日本は成り立たない、死者の思いを思想としてきちんと引き継いで行かなければならない、という意味なのだろう。それは、一回で十分であるはずなのに、その作者が小林秀雄が自分を評価してくれたと意識しながらとぼとぼと帰るシーンで、もう一度語られる。とぼとぼと帰る男の姿に、小林秀雄のことばがもう一度かぶさるのである。
 伊藤俊也が描きたかったのはこれなのである。
 しかも「ことば(セリフ)」として、描きたかった。忘れたころに、もう一度その「ことば(セリフ)」が出てくるのではなく、念押しするように、すぐにくりかえされる。なんともあからさまな「宣伝」である。
 そして、その作品の一部も、わざわざ「セリフ」をとうして紹介する(小林秀雄が朗読する)という年の入れようだし、白洲次郎にも「文字」を読ませている。
 それならそれで、「脇役」として映画にもぐりこませるのではなく、その男を主人公にして映画を作り、その背景に憲法制定をめぐる政治の動きを描けばいいのだ。そうせずに、あくまでも憲法制定をめぐる吉田茂と白洲次郎の動きを中心にし、しかもその「接着剤」として宮沢りえをもってくるという非常に「姑息」な映画のつくり方をしている。
 こういうつくり方は、正面切った「日本国憲法批判」よりもタチが悪い。
 「憲法」にどういうことが書かれているか、ではなく、アメリカがやっつけで作り、それを日本に押しつけただけが強調される。その強調の手段として、若いアメリカの女性を登場させ、憲法学者でもなんでもない女性が「自分の作成した条文がそのままつかわれている」と自慢しているという批判として映画に出てくる。これは、日本からなかなか消えない女性蔑視の風潮を利用して、アメリカ押しつけの憲法はデタラメという主張をもり立てるためのものだろう。
 繰り返しになるが、この対極(無関係なアメリカの女性の対極)にあるのが、大和の乗組員の手記なのだ。
 吉田茂については、私はよく知らないが、この映画では憲法9条の「第2項」の立役者のように描かれている。具体的には、そういう描写は出てこないのだが、再軍備の「余地」を引き出した人間として描かれている。吉田とマッカーサーの「密談」があったことは、口外してはならないという形で、この映画では「公表」されている。この部分の、マッカーサーが「公表してはならない」と言ったことを公表することで、「これが真実なのだ」と告げる(見せかける)方法をとっているのも何とも手が込んでいて、私はいやあな気持ちになってしまった。
 前後してしまうが、「戦争」そのものも、戦艦大和の生き残りの男を通してのみ描かれているのも、非常に非常に、うさんくさい。「なぜ、戦艦大和の兵士は死んでかなければならなかったのか」「死を受け入れるために、思想(ことば)をどう整えたか」。これが、憲法のことばをどう整えたかと向き合わされる形で展開する。戦争のために死んでいった人(広島、長崎の原爆の犠牲者、各地の大空襲の被害者)は、戦争と憲法から排除された形でストーリーが描かれる。
 幣原が、電車のなかで聞いた男の声から「戦争放棄」を思いついたというようなことは、当然のことながら描かれない。「国にだまされた」という男の声は、どこにも出てこない。
 GHQという勝者が押しつけることばと、大和の死んでいくしか生きる方法がない男たちのことば。それを対比することで、日本国憲法が日本人のことばではない、と主張するのである。
 日本国憲法に対して、無惨、無念の思いを抱いた男たちだけの声で、この映画は作られているのだ。
 この映画ではなく、松井久子監督の「不思議なクニの憲法」をぜひ見てください。「2018年バージョン」からは、私も出演しています。宮沢りえも浅野忠信も小林薫も出演していないけれど。








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高橋睦郎『深きより』(23)

2020-12-22 10:54:55 | 高橋睦郎『深きより』
高橋睦郎『深きより』(23)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二十三 立ちぞ浮かるる」は「宗祇」。

連歌こそがわたくしを産み わたくしを育てた
連歌がわたくしに命じるので わたくしは旅に出た
旅に次ぐ旅の中で わたくしはわたくしになつていつた

 この「論理」はあまりにも論理的で、味気がない。芭蕉は、この宗祇にならったということだろうし、ほかの詩人たちも「旅」を生きたどうかは別にして、「ことばがわたくしを産み、わたくしを育てた」「ことばのなかでわたくしはわたくしになつていつた」と言えるだろう。
 宗祇の、宗祇性は、どこにあるのか。

武将たちは束の間のたのしみに 連歌の座を設けたがつた
そこに現はれて一座を捌くわたくしは 漂白の乞食神

 「捌く」という動詞に、高橋は、宗祇を見ている。「座」を捌く。しかも「一座」を捌く。このときの「一座」とは「一期一会」の「一」を含んでいる。その瞬間にだけ「現はれる」ものである。そして、それは「捌く」ことによって「一」を超えて「永遠」になる。「捌く」は姿を整え、完成させるということである。
 高橋が試みているこの詩集そのものが、高橋の「捌き」によって初めて成立する「一回かぎり」の「永遠」なのである。
 「捌く」ことによって、その「座」に存在する「座」そのものを、「定着」ではなく「漂白」させる。「ことば」そのものを「漂白」させる。新しい旅、誰も体験したことのない、しかし、誰もが知っている旅へと誘い出す。
 そこで、ことばは「古今」に、「源氏」に、「伊勢」に会う。それもやはり「一期一会」なのだ。

 稗田阿礼から出発して、何人ものことば(人生)を「捌き」ながら、高橋は、「わたくしはわたくしになつていつた」という過程を、この詩集のなかで、新しく実践して見せている。






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どこが「特ダネ」?(情報の読み方)

2020-12-22 09:31:10 | 自民党憲法改正草案を読む
どこが「特ダネ」?(情報の読み方)

 2020年12月22日の読売新聞(西部版・14版)1面。「桜」前夜祭の続報。(番号は、私がつけた。記事は必ずしも番号の順番で構成されているわけではない。)

安倍前首相 任意聴取/東京地検 不起訴の公算/支所は略式起訴 週内にも

①安倍晋三前首相(66)側が主催した「桜を見る会」の前夜祭を巡り、東京地検特捜部が安倍氏から任意で事情を聞いたことが関係者の話でわかった。
②特捜部は、安倍氏が前夜祭費用の補填などの実態を知らなかったとの見方を強めており、不起訴とする公算が大きい。
③一方、政治団体「安倍晋三後援会」の代表を務める安倍氏の公設第1秘書については、週内にも政治資金規正法違反(不記載)で略式起訴する方針。

 デジタル版(ネット)では「独自」のマークがついている。「特ダネ」である。でも、どこが「特ダネ」なのか。すでに、あちこちで推測が書かれていたこととどこが違うのか。やっぱりという既視感が強い。「推測」ではなく「確認した」ということが「特ダネ」なのか。
 ①「関係者の話でわかった」とあるが、「リーク元」は匿名のままである。「いつ」かも明確にされていない。
 ②「見方を強めており」は誰の推測(判断)なのか。「不起訴とする公算が大きい」もだれが、そう推測(判断)しているのか。取材した記者(読売新聞)だろう。だから見出しにも「公算」と書いているのだが、このジャーナリズムが多用する「公算」は、非常に無責任である。「公」という文字が大手をふるっている。恣意的である。誰の判断か明記せず「公算」ということで、世論をリードしようとしている。
 ③の「略式起訴」(見出しの最後にとっている部分)が「特ダネ」なのかもしれない。「起訴」ではなぐ「略式起訴」。
 この部分については、記事の「末尾」で、ていねいに、ていねいに、ていねいに、こう解説している。

④不記載罪の法定刑は、5年以下の禁錮または100万円以下の罰金など。略式起訴を受けた簡裁は通常、公開の法廷を開かず、書面審理だけで刑を言い渡す「略式命令」を出す。
⑤ただし刑事訴訟法は、事案が複雑で慎重な審理が必要だと簡裁裁判官が判断した場合などには、正式裁判を開く必要があるとしている。

 ④からわかるように、略式起訴だと「公開の法廷を開かず」、処分が決定する。起訴の罪さえ「公開の公判を開かない」なら、安倍の関与についてはもちろん公判を開かない。つまり、これは「安倍不起訴」を補強するための材料として書かれている。
 ⑤は一見、まだ秘書の起訴がありうるかもしれないと言う意味を含んでいると読むことができるが、逆だろう。「事案が複雑」と「簡裁裁判官が判断」するわけがない、と念押ししている。
 秘書は、

⑥公設第1秘書は特捜部の聴取に対し、「前夜祭の収入と支出は後援会の収支報告書に記載すべきだった」などと供述しているという。

 と「罪」を認めている。「否認」していない。何ら「事実関係」を調べる必要がない。

 ここからが問題だ。
 「桜を見る会」で問われているのは(世間が注目しているのは)、「政治資金規正法違反(不記載)」ではない。
 ②の「安倍氏が前夜祭費用の補填などの実態を知らなかった」かどうか、という問題である。この問題は、安倍が「東京地検特捜部」に「実態知らなかった」(デジタル版には見出しにとっていたが、記事中には、そういう文言は明記されていなかった)と言えば解決することなのか。知っていても「知らなかった」と言うことはできる。「知らなかった」は「忘れていた/覚えていない」とも言い直せる。
 このことについては、読売新聞は、こう書いている。

⑦安倍氏は首相当時の国会答弁で「後援会としての収入、支出は一切なく、収支報告書への記載は必要ない。補填したという事実は全くない」と述べていた。
⑧ただ、安倍氏は後援会の役職には就いておらず、安倍氏周辺によると、不足分を補填していないか安倍氏が確認した際、事務所担当者は「支出していない」と虚偽の説明をしていたという。
⑨特捜部は、捜査を尽くすためには安倍氏の認識を問う必要があると判断し、聴取を実施。安倍氏は不記載などへの関与を否定したとみられる。

 ⑦は国会答弁として記録に残っているので、「事実」である。
 ⑧は安倍が嘘をついたのではなく、秘書が嘘をついた(安倍はだまされた)ということを語っている。
 ⑨は、安倍が「関与を否定したとみられる」という憶測。
 このとき、問題になるのは、なぜ⑧の秘書が安倍に「虚偽の説明」をしたのか、その「理由」のようなものがわからないことである。⑥でわかるように、秘書は「記載の必要性」を認識している。知っていて、嘘をついたのはなぜか。
 ありふれた例でいえば、秘書が事務所の経費を「私的流用」した場合、「金を使っていない」と嘘を言うことはある。自分のためにつかったのだから。ところが、今回の場合は、自分のふところには入れていない。もちろん、ホテルに補填した金額からいくらかのキックバックを受けている(私的流用をしている)という可能性はあるが、そういうことをしているという「供述」は表面化していない。
 なぜ秘書が嘘をつく必要があったのかが解明されないかぎり、安倍と秘書は「口裏を合わせている」ということになる。
 すでに書いたが、この問題がニュースになったとき、秘書はたしか「安倍にうその答弁をしてもらった」というようなことを語っている。
https://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/6cda4fed1cb8e654a15cd5014f262468
 「してもらう」というかぎり、そこには「打ち合わせ」がある。
 11月25日の読売新聞には書かれていたことが、きょうの新聞では「省略」されている。つまり、ここでは「情報操作」がおこなわれている。
 そして、いま多くの国民が注目しているのは、この「情報操作」なのである。安倍と秘書がどんな「情報操作」をしたのか。その「情報操作」に対して東京地検はどこまで踏み込むのか。国会は、その「情報操作」をどこまで追及できるのか。

 もし、きょうの読売新聞に「特ダネ」があるとすれば、11月25日に報道したことを「隠蔽」しようとしている、「情報操作」に加担しているということを明確にした点か。すでにわかっていることだが、「読売新聞は安倍の味方」であることをアピールしているのが「特ダネ」。
 それは、きょうの読売新聞の記事のどこを読んでみても、「安倍が不起訴でいいのか」という疑問が書かれていないことからもわかる。東京地検の動きを「不起訴の公算」と伝え「不起訴」へ向けて、世論を説得する(安倍は知らなかったのだから、罪は問えないと宣伝する)ことがジャーナリズムの仕事なのかどうか。ジャーナリズムがしなければならないのは、東京地検の不徹底な態度、国会の安倍の虚偽答弁を許す姿勢への追及だろう。安倍を擁護することではなく、安倍の問題点を厳しく追及することだろう。









#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



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高橋睦郎『深きより』(22)

2020-12-21 10:00:38 | 高橋睦郎『深きより』


高橋睦郎『深きより』(22)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二十二 魔界へ 虚無へ」は「一休宗純」。

 世阿弥で語られていた「自然」が言い直されている。

大悟とは何の大悟 悟りを求めぬこそ真の悟りならずや

 「真の悟り」とは「悟りを求めぬ」こと。この「真」が「自然」である。「自然の悟り」。「自然」の定義はむずかしいが、「ほんらい」、もとのかたちとつかんでみよう。
 たとえば、それは

やむなく許されて 腰萎えの老師の屎尿の濯ぎ役
昼は都に出ての香袋づくり・雛人形の顔描き稼ぎ

ということと、

印可状など破り去り 昼も夜も入り浸る魚肆・淫房
老い耄けては盲の女芸人を仏と崇め 啜淫・雲雨の契り

は同じことと。「違い」を持ち込まない。この「違い」は「境」と言い直されて、最終行にあらわれる。

入り難い魔界を得たとは 即ち詩禅一如の虚か無の境?

 「境」などない。「境」に人間の「理性」が持ち込んだものであって、「迷い」にすぎない。「理性」をとっぱらえば、世界は「一つ」になる。それが「自然」の状態であり、「悟り」ということになる。
 そう「頭」で理解して(あるいは、誤読して)、その上で思うのだが……。

記憶の如きはないではない 仄かな乳汁の匂ひと
白い胸乳の暖かさ あれが世に母というものか

 この「母」の描写には、乗り越えられない「境」がある。「母」は「私」ではない、「母」は「私」から切り離された存在である、という「認識(理性)」がある。
 高橋が「悟り」に到達できないとしたら、それは「母」の記憶があるためだ。また高橋が「悟り」を求めずにはいられないのは「母」の記憶があるからだ。高橋を個人的に知っているわけではないが、「母」は高橋にとって非常に重大なテーマなのだということが、この詩から感じられる。
 「母」は「自然」であると同時に「自然」を否定する。「母」を「ことば」と言い換えるなら、「ことば」は「自然」を求めて「詩」になろうとする。「ことば」が「詩」になったとき、そこに「自然」が姿を現わす。高橋は、その「出現」を待っている。






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ニュースの価値判断(情報の読み方)

2020-12-21 08:39:14 | 自民党憲法改正草案を読む


 2020年12月21日の読売新聞(西部版・14版)1面にに驚くべき記事が載っている。コロナ感染拡大に関連する記事である。

「静かな年末年始を」/全国知事会、緊急メッセージ
 全国知事会は20日、新型コロナウイルス対策でオンライン会議を開き、国民に対して「静かな年末年始」を過ごすよう求める緊急のメッセージを出した。感染拡大地域とそれ以外の地域を往来する帰省や旅行を控えることを含め、慎重な行動を呼びかけた。

 会議には40道府県の知事が参加。メッセージでは、「家族や友人とふるさとで穏やかに過ごす期間だが、今が肝心な時。力を合わせて感染拡大を防ぎ、自分、大切な人、ふるさとを守ろう」と訴えた。帰省や旅行は、行き来する都道府県の感染状況を確認した上で家族らと相談して判断するよう求めた。初詣を含めて「3密」を避け、移動する際は時期を分散するよう呼びかけている。

 なぜ驚いたか。
 緊急メッセージを出したのが「国」ではなく、「全国知事会」だからだ。知事会は、お盆の帰省のときもメッセージを出してた(8月8日)。メッセージは二度目であり、驚くべきことではないと思うひとがいるかもしれないが、私は二度目だからこそ、驚いた。
 菅は内閣支持率の急下落に驚き、急いで「GoToキャンペーン」を中止したが、中止したことについては二階の忘年会にかけつけ、二階に謝罪しただけで、国民に対して記者会見などをつうじて直接呼び掛けるということをしていない。知らん顔をしている。
 そういう事態に耐えられなくなって、知事会が声を上げたということだろう。一度目のメッセージ(批判)よりも、二度目のメッセージの方が重いのだ。二度もおなじメッセージを知事会が出したということを、菅は認識すべきだが、菅にはそれができていない。ここには菅への強い批判がこめられていると受け止めるべきだろう。
 それを読売新聞は、1面で伝えている。このことに驚いた。
 だが。
 同時に、菅批判をするなら、もっとそれを強調すべきだろうとも思った。読売新聞はトップに「不動産 対面取引見直し」、二番手に「再エネ目標 自治体に義務」というニュースを掲載している。いずれも「特ダネ」なのかもしれないが、「案」や「方針」である。それよりも3週間で5万人もが感染したコロナとどう向き合うべきなのか、それを伝えるべきだろう。「忘年会」は終わったところが多いだろうが、その影響はこれからあらわれる。それが年末年始を直撃する。


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高橋睦郎『深きより』(21)

2020-12-20 18:18:32 | 高橋睦郎『深きより』


 「二十一 面の果ては」は「世阿弥」。

 世阿弥を高橋は見たわけではない。顔を見たわけでも、姿を見たわけでも、さらには肝心の「動き」を見たわけでもない。他人の書いた(残した)「評判」を読んだだけだ。たとえば、「振り風情ほけほけとしかもけなわ気に候」と。それなのに高橋は、世阿弥を「詩人」としてとりあげ、こう書いている。

女体 修羅 物狂 法師 唐事と 面を替へ番数を重ね
ときに面無しの直面といふも 面の一つとなつたは自然

 この「自然(じねん)」が高橋が世阿弥から引き継ごうとしている「詩」ということになる。高橋は、世阿弥を直接見ることなく、「評判」を読むことで「自然」をつかみとっている。それが正当な批評かどうか、私は判断できない。私は世阿弥を見ていないからである。
 しかし、だからこそ、こういうことができる。
 「自然」は高橋が理想としている「詩」なのである。「自然」としての「詩」を世阿弥からつかみとり、高橋は「自然」の「詩人」になろうとしている。
 稗田阿礼、額田王、柿本人麻呂……とさまざまな「ことば」のひとになる。それは「面」をつけて演じることに通じる。その数を重ね、では、この詩集のなかで「面無し/直面」は、いつ、出てくるか。
 この世阿弥を書いた詩が、高橋にとっての「直面」になるのではないか。そして、私には、この「直面」と「自然」は、つぎの一行のなかに、別のことばで書かれているように思える。

佐渡に着いては名所を巡り 罪なくして見る配所の月

 「名所を巡り」はさまざまな人間を演じるに通じる。「直面」は「罪なく」である。「面」は、ある意味では「罪」なのだ。人間(他人)を演じるとは、他人の「罪」を演じることなのだ。「他人=罪」を脱ぎ捨て、それなのに、流刑され、「配所」に身を置き、月を見る。世阿弥にとっては、「他人=罪」を演じる(生きる)という「不自然」が生涯だったのである。それを脱ぎ捨て「自然」に、「世阿弥自身」になる。それは、世阿弥にしかわからない「演技」である。「花」である。
 伝統を引き継ぎ、さまざまな詩人になる詩(演技)をくりかえしながら、どこかで高橋は世阿弥の「自然」の瞬間を生きようとしている。その欲望が、この詩に噴出してきていると思う。「自然」ということばと「罪なくして見る配所の月」ということばに。
 でも、このとき「月」とは何なのか。
 これは、この詩だけではわからない。けれど、徒然草に出てくることばを借りて、忍び込ませたかった何かがここに書かれている、ということだけは、まがまがしい何かのように目に見える。
 この詩は、詩集中の最高傑作である、と思う。




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なぜ菅か(情報の読み方)

2020-12-20 15:28:38 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
なぜ菅か(情報の読み方)

 安倍が「病気辞任」し、菅が後継の総裁(首相)になった。なぜ、菅なのか。私にはよくわからなかった。二階が裏で工作した、というのが「定説」のようだが。まあ、そうなんだろうけれど。
 けさ2020年12月20日の読売新聞(西部版・14版)を読んで、「あっ」と叫んでしまった。とてもおもしろい記事がある。「わくわく、どきどき」が止まらなくなる。
 アーミテージ元米国副務長官の気候「日米同盟新章」という文章である。アメリカは安倍を捨てて、菅に乗り換えたのだ。その方針がどこかに伝えられ、それにしたがって二階が動いた。それがアメリカの「指示」だったので、みんながそれになびいた。
 私が、アメリカが安倍を捨てた(誰に乗り換えたかは、そのときはまだわからなかった)と気づいたのは、山本太郎が東京都知事選に立候補したときだ。正確に言うと、その立候補にあわせて河野が陸上イージス配備停止を打ち出したときだ。こんな大問題を、河野が担当大臣だからといって、河野の発表だけでおわらせることが私にはよくわからなかった。きっと、安倍はもうアメリカからは用がなくなった。「日米関係」は別の次元に進んだと感じたのである。
 「防衛」から「攻撃」へ。
 これは、陸上イージスの「代替案」が長距離巡航ミサイルの艦船、戦闘機搭載方針にかわったことからもわかる。敵からの「攻撃圏外」というのが「売り」だが、地上の基地とは違って攻撃されにくい、したがっていつでも「攻撃」できる。「防衛」ではなく、「攻撃」である。陸上イージスは、あくまで日本を攻撃してくるミサイルを撃墜する「防御」。それに対して長距離巡航ミサイルは、敵基地を「攻撃」するためのものである。
 でも、なぜ、アメリカはアメリカにあんなに従順な(いいなりの)安倍を捨てたのか。それはよくわからない。いろいろな森友学園、加計学園、桜を見る会などの「不祥事」(国民の不人気)が影響したのか。
 それではなぜ、菅を選んだのか。また、安倍を用なし(使用済み)と判断したのはなぜか。
 その「答え」がアーミテージの文章のなかに隠れている。そして、今後の、菅に何が要求されているかも、そこに書かれている。書いてある順番に、思いついたままを書いていく。(番号は私が付けた。)

①日本を変貌させた功績の多くは、前政権の安倍首相と菅官房長官に帰せられるべきだろう。2人は、長年の懸案だった日本国憲法9条の解釈変更を実現した。環太平洋経済連携協定(TPP11)の締結も先導し、インド太平洋の自由を妨げる中国の野望に対抗する戦略的枠組みを構築した。

 安倍だけではなく菅の名前が出てくるのは「御祝儀」なのかもしれないが、ここからは安倍がなぜ「使用済み」になったかが書かれている。「日本国憲法9条の解釈変更を実現した」からである。言い直すと「戦争法」を成立させ、「集団的自衛権」を確立したからである。アメリカは「憲法9条の改正」など求めていない。単に、自衛隊がアメリカ軍に協力して、海外でも「攻撃」に参加できる態勢を求めている。それさえ可能ならば、ほかのことはどうでもいいのである。「憲法9条の改正」にこだわり、その影響で、せっかく確立したはずの「戦争法(集団的自衛権)」の見直しなどということが、たとえ「運動」の形であり沸き起こっては困るのだ。
 自衛隊の海外派兵(ベトナム派兵)と田中角栄が反対し、そのためにスキャンダルを掘り起こされ、政界から追放されたことを思い出せば、アメリカがいかに自衛隊の海外派兵にこだわっているかがわかる。「戦争法(集団的自衛権)」が確立されたのだから、それを確立させた安倍を「追放」した方が、「戦争法が憲法違反」であるという批判を弱めることにもつながるだろう。「安倍辞めろ」が消え、「法律」という抽象的なものだけが存在することになるからである。

②勢いを維持し、成功を更に積み重ねることが、バイデン次期政権の課題である。(略)米国は指導的な立場を取り戻すだろう。だが、米国単独ではできない。同盟内だけでなく地球規模で日本が積極的な役割を演じ続けることが必要なのだ。

 「地球規模で日本が積極的な役割を演じ続ける」とは、日本の自衛隊が「日本防衛」のためだけではなく、アメリカの方針にしたがって「アメリカ軍の防衛(アメリカ軍と共同で敵に対し攻撃する)」ということである。「集団的自衛権」を「積極的」に行使するということである。「地球規模」と明確に書いていることからわかるように、「日本の防衛(日本周辺)」のことを問題にしているのではないのだ。「地球の裏側」までも「射程」にいれてアーミテージは発言している。
 安倍が「辞任会見」で、首相を辞めていくにもかかわらず、次の「防衛戦略(敵基地攻撃)」を提示したのは、「アメリカの言うことならなんでもするから、また、首相に返り咲かせて」というアピールだったのだろう。(だからこそ、辞任会見の翌日、読売新聞が、安倍の意向を汲んで、「敵基地攻撃能力」を「特ダネ」として報道した。なぜ、「辞任会見」のとき、この問題を読売新聞を含めどの記者も質問しなかったかというと、みんな、自分の用意してきた質問をすることしか考えていなかったからだ。安倍が何を言うか聞いていなかったからだ。そのため、安倍側が、わざわざ「リーク」しなおす形で、読売新聞に「特ダネ」を書かせている。このことは、すでにブログで書いた。)

③我々が言いたいのは、「責任分担」という狭い概念に焦点を当てるのではなく、より広い「力の分担」という概念に切り替える必要があるということだ。なぜなら、同盟とは神聖な絆であり、単なる負担ではないからである。

 これは、②を言い直したものである。「責任分担」というなのら、日本はアメリカに基地を提供している。「予算」もつけている。そういう「抽象的/精神的」なものだけではなく、アメリカは具体的な「力」を求めている。自衛隊の海外派兵を求めているということである。
 アーミテージは「軍事」だけに焦点があたらないようにするために、たくみに経済問題を組み込んで文章を書いているが、主点は「軍事」にある。

④日本が地域で創造的かつ活発なリーダーシップを発揮することは、米国とアジアの利益につながるからである。

 ここには「日本の利益」はことばとして出てこない。「日本」は「アジア」の一部に含まれる形で存在している。つまり、米国と、米国の支配するアジアの利益、言い直すと「米国の利益」にすぎない。

⑤米国と日本はいま、両国の関係史上、最も互いを必要としている。中国の台頭を制御するには、地政学、経済、技術、ガバナンス(統治)という四つの戦略的分野に取り組み、そこに前向きな未来像を構築する必要がある。

 これもアメリカの戦略にすぎないだろう。日本は、なぜ、アメリカを捨てて中国との同盟関係を築いてはいけないのか。アメリカに対抗する形で、中国と共同で「地政学、経済、技術、ガバナンス(統治)という四つの戦略的分野」に取り組んではいけないのか。一つの「アジア」になってはいけないのか。
 ガバナンス(統治)ということばでアーミテージが表現しているものが何かわかりにくいが、もし「民主主義」という問題ならば、「内政不干渉」という立場をとって、「地政学、経済、技術」で日中が共同できることは多いはずだ。インドをも含め「アジア」がひとつになれば、人口でいえば世界の半分を「アジア」が占めるのである。そこで日本がリーダーシップを発揮できれば、すばらしいことではないだろう。
 アーミテージは日本のことを考えて提言しているようであって、実は、アメリカのことしか考えていない。それは、次の文章に端的にあらわれている。

⑥ 日本は既に幾つかの分野で先頭に立ち、共通の価値と高い基準と自由の規範を促進している。実際に、多くの分野において、日本の取り組みと緊密に連携していく方が、米国にとって得策だろう。

 「日本にとって得策」ではなく「米国にとって得策」とはっきり書いている。すべて、「アメリカの得策」が優先している。「アメリカ・ファースト」の視点で、日本を動かそうとしている。アーミテージの提言が「日本の得策」がどうかは、ひとことも書いていないのである。

 で。
 アメリカの「姿勢」はうかがえたとして、なぜ、菅なのか。
 これは、やっぱりわからない。わからないけれど、「憲法改正」に安倍ほどは積極的ではないということが、やはり重要なのではないか。「軍備」のことを意識させず、戦争のことを意識させずに、「軍事力(攻撃力)」は着実に増強していく。「憲法9条」を隠れ蓑にして、「防衛」を前面に打ち出しながら、現実としては「軍事力」を高めていくという方法が、日本国民をだましやすい、ということなのだろう。そういう「二枚舌作戦」には菅が向いていると判断したのだろう。少なくとも、安倍の「改憲」を旗印にしている人間が首相であるよりも、都合がいいと判断したのだろう。
 長距離巡航ミサイルの問題も、本来ならジャーナリズムで「激論」が繰り広げられべき問題なのに、新聞では扱いが小さい。安倍の桜を見る会やコロナ問題があるからかもしれないが、どうも「隠されている」と思うのである。
 最初に引用した「日本を変貌させた功績の多くは、前政権の安倍首相と菅官房長官に帰せられるべきだろう」という文章の「菅」は、「御祝儀ことば」だけとはとれないのである。







#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

「情報の読み方」は10月1日から、notoに移行します。
https://note.com/yachi_shuso1953
でお読みください。
 

#菅を許さない #憲法改正 #読売新聞



*

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新井啓子「蕃茄」

2020-12-20 09:47:10 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「蕃茄」(「かねこと」18、朝日カルチャーセンター福岡「現代詩講座」、2020年10月31日発行)

 新井啓子「蕃茄」は激しい夏の日の驟雨を描いている。

風が強まる
ブランコが揺れる
ブランコが揺れて
激しい雨が来た
子どもたちが消えて
ベランダのポールから滴が落ちる

 「ブランコが揺れて」の一行の「緩」が、妙に印象に残る。激しい雨のことを書いているのだが、その雨にのみこまれていない。
 それは、

トマトは雨に弱いというから
濡れないように 軒下へ寄せるけれど
あっという間に プランターの土はびしょ濡れで
果実もびしょ濡れで

 という書き方にも何か通じるものがある。
 「土はびしょ濡れで」「果実もびしょ濡れで」と、「視線」がおなじ何かを探しているような感じ。ことばが妙な「重なり」と「ずれ」の間で動いている。
 これはいったいなんなのだろう、と私はしばらく考える。
 特に変わったことが書いてあるわけではないし、特に奇妙というわけでもない。書かれていることが、そのまま「事実」としてつたわってくる。疑問をもつ必要はない。こんなところでつまずかなくてもいいのかもしれない。
 このことばが、雨が上がった後、こんなふうに変わっていく。

雨はトマトに傷を作った
柔らかい果肉が切れて
そこから微笑んだ口の形になっている
きつい言葉は似合わない形
傷口が開いて
雨の歌がこぼれているから
果実ごと切り取り 籠に入れる
しゅん と
傷を落とす
部屋にあおい香りがひろがる

 傷ついたトマトをすぐに調理する。それがごく自然に挿入されている。その組み込み方が、とても美しい。それは自分を失わない「余裕」のようなものだ。
 おなじことばをくりかえすとき、どこかで新井は深呼吸のようなものをしている。突然の変化に正確向き合うために、立ち止まって、深呼吸し、それからその世界へ入っていく。そういう「リズム」がある。
 この「リズム」は、私は、自分の「肉体」では実行できない。せっかちだから、立ち止まり、深呼吸できない。だから、すぐそばにそういう「生き方(思想)」を実感すると、瞬間的「奇妙」と思ってしまうのかもしれない。
 で、その「奇妙」が、この新井の詩の「トマトの調理」のように静かに展開し、具体的な「もの」になっていくのを見ると、あ、美しいという感動に変わる。
 新井にとってはあたりまえのことを書いただけなのかもしれないけれど、その「あたりまえ」というのは新井の「正直」がそのまま出ているところだ。
 そして、「正直」を通って、詩は最初に戻っていく。

輪切りにして白い皿に乗せる
窓の外でブランコが揺れ出す
ブランコが揺れ出す
掃除機タービンのうねりが響く
細く風が起こって
水に濡れた歌が始まる

 最初に引用するとき省略したのだが、詩は、こんなふうに始まっていたのだ。

昼下がり
ブランコが揺れる
ご近所の掃除機タービンのうねりが響く

 トマトの部分が、新井の「正直」であることが、このことばのくりかえしによって、とてもしっかりしたものになる。




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池田清子「そうか」、青柳俊哉「暁」

2020-12-19 14:47:11 | 現代詩講座
池田清子「そうか」、青柳俊哉「暁」(朝日カルチャーセンター福岡「現代詩講座」、2020年12月07日)

そうか    池田清子

一人でいることは
嫌いではないけれど
失った悲しみは
静かにたまっていく

「はらへたまっていく悲しみ」と
八木重吉の詩にある

そうか
これからは
腸活をどうするかっていうことか

 「わかりやすいけれど、説明だけではない」という感想を語ったひとがいる。
 刺激的な感想だと思う。
 「わかりやすい」はむずかしいことばがつかわれていない。「説明」というのは、むずかしいことを「わかりやすく」言い直したもの。そうすると「わかやすいけれど、説明だけではない」というのは、「一見わかりやすいけれど、ちょっとわかりにくいところがある。説明不足のところがある」という意味になるだろうか。
 では「説明不足」は、どう言い直せるだろうか。
 「ことばに飛躍がある」という感想もあったが、この「飛躍」が「説明不足」を言い直したものと考えることができる。
 私「飛躍というの、言い直すと?」
 「連の変わり目に、飛躍がある。軽く反転する感じがある。前を引きずらない感じ」
 「前を引きずらない」を言い直すと「反転する」。必ずしも「反対」の方向へ行く、引き返すというのではなく、違う方向へ行くという意味だと思う。
 このときの「飛躍」の距離感が「一定」だと、そのリズムに乗りやすい。一歩ごとの飛躍が違いすぎると、ついていく(自分の肉体で受け止めて再現する)ということがむずかしいが、「一定」だと乗りやすい。
 「一人でいる」は「悲しい」につながる。「失った悲しみ」はそのまま「一人でいる」あらわしている。ここには飛躍はない。「悲しみ」を「嫌い」ということろにも飛躍はない。しかし「悲しみ」を「嫌いではない」というと、少し飛躍がある。なんとなく「なぜ」と聞きたい気持ちになる。疑問を誘うものが飛躍だね。説明を聞きたくなる。これに対して、池田は「静にたまっていく」とことばをつないでいる。「静か」は「一人」にも「悲しみ」にも通じるが、「たまっていく」は少し奇妙な感じもする。ふつうは、そうは言わないけれど、言われればなんとなくそう感じる。
 この「たまっていく」を池田は、八木重吉の詩で説明している。言い直している。八木重吉は、やはり「たまっていく」ということばを「悲しみ」といっしょにつかっている。ただし、それが「どこに」たまっていくかというと、たとえば「こころ」ではない。
 もっと、即物的(?)。
 「はらへまたっていく」そのことばに触れて、池田は「腸活」ということばを思い出す。池田の造語だから、思い出すではなく、思いつくか。「はら」は「腸」。(「胃」ではないのは、「腸」の方が音の響きが「カツ」とあうからだろう。また、「胃」よりも落ち着いた感じがするからだろう。)
 ここには「こころ(精神)=悲しみ」か「肉体」への転換、飛躍がある。
 「悲しみ」が「腸」にたまるのはいいけれど、たまったままでいい? いや、それなりの消化、排泄なども必要だろう。「肉体」にとっては。そして、それは「こころ=精神」にとってもということかもしれない。
 「たまった悲しみ」をそのままためておくのではなく、どうすればいいのかな、と考える。しかし、重大問題にならないように、軽く処理している。
 そこがいい。
 この静かな悲しみは、寂しいにも似ているが、そしてそれはそれで大事なものだが、それを引きずらずに「そうか」と違うことを考える。
 ことばに「ひととなり」というか「ひとがら」がだんだん滲むようになってきた。池田の詩には。これは、いいことだと思う。
 詩を読みながら、そこにそのひとがいる感じがするのはとてもいい。そして、そのひとがそこにいることが苦にならない、というのは「ひとがら」がそう感じさせるのである。



暁(あかつき)  青柳俊哉

内面に 果てしなくすきとおる
暁の野原 かけめぐる黄色い雛(ひな)たちの
ぬれそぼる羽 初めての土は青く苦く
息が芒(すすき)の穂のように灯(とも)る

ふるびた木箱の中に
立ち尽くしている鶏(にわとり) この町の
通りも家々も 硬く小さくふるびて
意識の深みへ降りていく

暁の雲をあつめて
鳳凰(ほうおう)に似た鳥たちが 月の中空(なかぞら)うまれる
通りも家々も 内面を深くひとつにかさねて
雛たちの羽にぬれる

 「内面」ということばが二回出てくる。最初は「果てしなくすきとおる」、二回目は「深くひとつにかさね」る。「内面」は透きとおることで、広がっていく。広がって行った両端をたたむようにして重ねる。そうすると、その重なりの中にまた「新しい内面」が誕生することになる。不思議な往復運動がある。この「新しい内面」とは「意識の深み」のことかもしれない。
 私は、この詩では「初めての土は青く苦く」ということばが非常に印象に残った。すこし朔太郎を思い起こさせる感じがあるが、内面の透明さ、水の透明さのようなものが、ぬれるということばと重なり、土を青く黒くする。
 「雛」と「鶏」は通じるが、「鶏」と「鳳凰」はどうか。少し飛躍がありすぎるかもしれない。「鳳凰」ということばで「雛/鶏」の対極にあるものを表現しているのかもしれないが、「鳳凰」が架空の鳥なので、ちぐはぐな感じがする。
 また、この詩は連を入れ換えると印象が変わると思う。青柳自身、「二連目は、最初は一連目として考えていた」という。そうすると、こうなる。

ふるびた木箱の中に
立ち尽くしている鶏(にわとり) この町の
通りも家々も 硬く小さくふるびて
意識の深みへ降りていく

内面に 果てしなくすきとおる
暁の野原 かけめぐる黄色い雛(ひな)たちの
ぬれそぼる羽 初めての土は青く苦く
息が芒(すすき)の穂のように灯(とも)る

暁の雲をあつめて
鳳凰(ほうおう)に似た鳥たちが 月の中空(なかぞら)うまれる
通りも家々も 内面を深くひとつにかさねて
雛たちの羽にぬれる

 現実の描写からはじまり、「意識の深み」へ降りていく。つまり「内面」へ入っていくと、「内面」はすきおとり、そこには現実を透明にした別の世界が見える。その「内面」内面のまま存在するのではなく、さらに「深く」なり、「深く」なるものを「かさね」ながら、また新しい次元へと動いていくという感じでもいいかもしれない。
 青柳のオリジナルの形では、「内面」を見ていたら、そこに「現実」の世界が見えた。(内面は、現実を反映したせいかである。)その内面(意識)をさらに掘り進める(深みへ降りていく)、ある瞬間に、突然、鳳凰が飛びだし、それが「宇宙」をつくる。「内面」が「宇宙」に転換するということになるのだろうけれど。
 こういうことは、何よりも作者の「描きたいもの」が優先するので、作者が決めるしかないことなのだが、こんなときこそ、他人と意見交換ができると、いろいろ新しいことも思いつくと思う。





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高橋睦郎『深きより』(20)

2020-12-19 09:44:28 | アルメ時代


高橋睦郎『深きより』(20)(思潮社、2020年10月31日発行)

 「二十 流されつづけて」は「京極為兼」。

歌の師たる者の為ごとの第一は 歌の場を整へること
生まれる歌に新しい息吹を吹き込みつづけること

 そのためには何が必要か。常に歌が生まれるとき、そこにいないといけない。ところが京極為兼は追放される。それも一度ではない。
 しかし、

わたくしにとつて二度の遠島は むしろ二つの誉れ

 為兼は、これを「誉れ」と言い直している。
 為兼が追放されたのは、為兼の「歌の場を整へる」力、「生まれる歌に新しい息吹を吹き込」む力を、ひとが恐れたからだ。
 日本が、

歌の国 主上以下の歌の力により 政事たれる国

 であるならば、結局、「歌の師」が「政事」を先導・指導してしまうからである。しかも為兼には、それを「つづける」力がある。だれが「主」になろうが、その「主」のために「場」をととのえ、その歌に「新しい息吹」を吹き込む。
 その「連続性」をこそが恐れられたのだ。
 主が交代しても為兼がおなじ仕事をつづけるのならば、それは為兼こそが「影の主」でとして生きつづけることになる。
 だからこそ、都から遠い場所、「遠島」へ追放された。それは都とは「つづいていない」ところである。
 だが、そういうことをしても、歌はつづいていく、歌はつながっていく。人間と違って、歌は(ことばは)、「場」には拘束されない「息吹」だからである。つまり、「場」はいつでも生まれ、「息吹」はいつまでも途絶えることがない。「場」はいつでも整えることができるし、どんな歌にも「新しい息吹」を吹き込むことはできる。為兼は、そう知っているからこそ、運命を静かに受け入れる。
 「流されつづける」ことこそ、間接的に、為兼の「歌(思想)」の正しさを証明するからである。






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エフゲニー・ルーマン監督「声優夫婦の甘くない生活」(★★+★)

2020-12-18 22:01:13 | 映画
エフゲニー・ルーマン監督「声優夫婦の甘くない生活」(★★+★)(2020年12月18日、KBCシネマ2)

監督 エフゲニー・ルーマン 出演 ウラジミール・フリードマン、マリア・ベルキン、アレキサンダー・センドロビッチ

 ソ連からイスラエルへ「移民」してきた(?)声優夫婦を描いている。知らない俳優ばかりなので、ちょっと知らない世界を覗き見している感じになる。
 映画のなかで「声」をテーマにするのはむずかしいし、初めて見る役者なので「声」に聞き覚えがないから、その「つかいわけ」にもついていくのがむずかしい。★2個は、映画の「でき」というよりも、見ている私の「限界」をあらわしたもの。イスラエルに住んでいる人なら、もっと★がつくだろうと思う。
 声優だから「声」を演じる。「声」を演じながら、実は「人間(人生)」そのものを演じる瞬間があり、また演じた人生によって役者が虚構から仕返しを食う、ということもあるだろう。つまり、自分が求めているものを発見する、ということが。★を1個追加しているのは、その部分が、静かに描かれていて、味わい深いからである。
 妻の方は、「声優体験」を生かしてテレフォンセックスの若い女性を演じる。そこに吃音の男から電話がかかってくる。興奮すると、どうしても吃音になってしまう。それをセックスというよりも日常会話で癒していく。それが男の好奇心を誘う。妻の方も、嘘(演技)のはずなのに、そこに日常が入り込んでしまう。「すきま風」の吹いている夫との関係とは違う「温かさ」を感じてしまう。男も女も、求めているのは「セックス」よりも「日常のこころの通い合い」なのである。そして、それこそが「セックス」なのだ。肉体がふれあわなくてもこころが触れる。そして、この「こころ」を「声」が代弁する。しかも、それは「代弁」のはず、「日常からはなれた虚構」のはずなのに、それこそ「虚構」からのしっぺ返しのようにして、ふたりを揺さぶってしまう。
 アメリカ映画なら(あるいはフランス映画なら)、ここから「新しい人生」がはじまるのだが、すでにソ連を捨ててイスラエルへ来た、「新しい人生」を踏み出している人間には、そこからもういちど「新しい人生」へ突き進んでいくというのは、なかなかむずかしい。アメリカ映画のようにも、フランス映画のようにもならない。
 この踏みとどまり方は、なかなかおもしろい。「列島改造」という角栄のやった「それまでの在庫総ざらえ決算」が一度しかできないのとおなじである。それを、イスラエルに「移民」としてやってきた人間が、肉体として受け入れていく。この問題を追及していけば、それはそれでまた第一級の映画になるが、あまり踏み込まず、さらりと描いているのは、それを「哲学」にしてしまうのは、とてもむずかしいということなのだろう。
 これは、夫が妻の仕事を秘密を知るシーンに、間接的に、とても巧みに描かれている。夫は、「魔がさした」かのようにテレホンセックスのダイヤルをまわす。そこに妻が出てくる。それは「演じられた娼婦」なのだが、その「声」を夫は覚えている。夫が妻の声を初めて聞いた、そしてその声に恋をしたのが「娼婦役」の「声」だったのだ。役者(声優)として成功するとき、すでに妻は(たぶん夫も)自分を「大改造」している。そのときの「痕跡」を夫はしっかりと見てしまうのである。
 もう、そこからは「大改造」はできない。「大改造」が引き起こしたものを、しっかりと踏みしめて生きていくしかない。残りの資産はないのだ。つまり、ふたりで、いままでの「声」をぜんぶたたきこわして、「新しい声」を生きていくというようなことは、よほどのことがないかぎりできないのだ。この問題を「さらり」と描いて、「哲学」をおしつけていないところが、この映画の見どころかもしれない。
 しかし、再び書くが、これは「耳になじんでいない役者」の「声」で聞いても、私の「肉体」にはしっかりとは響いてこない。私の耳は、どちらかといえば鈍感の部類なので、「これはまいったぞ」と思いながら見るしかなかった。
 随所に、隠し味として「映画」が出てくるが、さりげなく「声」についての「哲学」を語っているのも泣かせる。夫は、かつてダスティン・ホフマンの声を吹き替えたことがある。「クレイマー・クレイマー」の声である。夫はダスティン・ホフマンは小さいが(夫は、大男である)、声には芯があり、強い。その声を「自分の声」を獲得するのに苦労したというようなことを言うのである。なかなか、おもしろい。






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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(108)

2020-12-18 18:16:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (十月の高い空の下にのびている私の道)

落下が私を永遠にのみこんでしまう道
でも
私はそこにひかれる

 「でも/私はそこにひかれる」と言い直しているところは散文的だが、散文的だからこそ直前の「落下が私を永遠にのみこんでしまう道」が強烈に復活してくる。
 「落下」ならば「穴」なのに、「道」。その奇妙さのなかで、「のみこむ/のみこまれる」と「ひかれる」がひとつの動詞のように動く。
 「落下(する)」は自動詞だが、「のみこまれる/ひかれる」は自動詞ではなく「受け身」。自動詞/他動詞だけではなく「態」が変わっている。
 いや、これは「落下が」と「私は」という「主語」の交代というところから見ていくべきなのか。
 「文法」で説明しようとするとめんどうなものが、ことばを制御している。このことばを統合している「めんどうなもの」が詩である。




*

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