嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)
謎を考えてみよう
カンガルウのおかしな影について
遠い遠い 気も遠くなるように遠い
カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を その影を
カンガルウは妙な木々に何を習つたのか (カンガルウ 459ページ)
「故郷」について考えるとき、宮崎県を題材にした詩を選んだ方がいいのかもしれないけれど、あえて「抽象的」に考えてみたいと思う。嵯峨は宮崎県の出身だけれど、宮崎にいた期間は短い。
嵯峨はここでは「故郷」を「不思議に曲がりくねつた木々」と結びつけている。土地の形、山の形、川の形ではなく、あるいは名前ではなく、木々。そこにあるもの。それは、ほかの土地にあるものとどんなふうに違っているのだろうか。その違いを「故郷」と読んでいる。
ふるさとというのは
そこだけに時が消えている川岸の町だ
そこの水面に顔をうつしてみたまえ
背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから (*462ページ)
この詩も抽象的だ。「時が消えている」しかも「そこだけ」。時間がない。しかし「川岸」がある。そして、水面に顔を写すとき背後から大きな瞳がみつめる。「背後」というのは自分の背中というよりも、消えたときの背後かもしれない。遠い過去。時間の向こうから、自分をみつめるものの存在としての「ふるさと」。
「ここは何処なのか」という詩には、こんなことばがある。
遠いことはいいことだ
愛が 憎しみが 心だつて
なにもかも遠くなる (468ページ)
「故郷」は「遠い」からいい。「なにもかも遠くなる」と、「遠い」という感じだけがのこる。
カンガルウの詩にも「遠い」があった。
カンガルウのおかしな影について
遠い遠い 気も遠くなるように遠い
カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を
木は「遠い」を教えてくれる目印のようなもの。木々よりも「遠い」の方が重要なことばかもしれない。
「ここは何処なのか」という詩は「在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか」と自問する詩だけれど、その詩の途中に、こういう行がある。
別れるのはいいことだ
なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる
「別れる」を「ふるさと」と「別れる」と読んでみる。そのとき「なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる」。この「ひとすじ」ということばに出会ったとき、私は嵯峨の「魂しい」の「しい」というものを思い浮かべた。それは魂から自分の方に帰ってくる「ひとすじ」の何か。魂を「背後から見つめている大きな瞳」と考えれば、そこから自分に向けられた視線が「魂しい」の「しい」なのではないか。
「ふるさと」という詩がある。
思い出の町はすつかり消えて
ここはもはや見知らぬ遠い町のようだ
ぼくは大きな白いキヤンパスを抱えて
むかしの中央通りを通つていつた
そして心のなかを一台の空車が
空の方へのぼつていつた (486ページ)
これは、とても象徴的な詩だと思う。「思い出の町」は「ふるさと」。しかし、面影は消えて「見知らぬ町」になっている。それを「遠い」と呼んでいる。「遠い」は距離。魂と私をつなぐ遠さ(距離)が「しい」という文字なのかもしれない、と私は感じる。
失われたふるさとと私。失われたのなら、それをつなぐものはないはずなのに、「しい」がつなぐ。そう考えると、漢字の「魂」という一文字は「ふるさと」かもしれない。「ふるさと=魂」と「私」をつなぐ「しい」。
でも、「しい」って何なのか。
もう一度「対話」という詩を読んでみる。
ぼくから言葉が生まれないのは
去つていく遠い地が失われているからだ
遠い地って何処よ
近いところの果ての果て
--たとえばあなたの傍らよ
ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから (487ページ)
ことば通りには読むことができないのだけれど、「遠い地」は「ふるさと」。「ふるさと」が失われてしまっているのが嵯峨なのではないのか。宮崎は嵯峨の生まれ育った場所だけれど、それは「遠い」。「ふるさと」とは本来「去っていくもの」。形を変え、面影をなくしてしまうもの。それが「失われている」。この言い方は、とても奇妙だ。面影をなくして消えていくはずなのに、その消えてなくなるということが「失われている」。矛盾だ。昔の面影のまま、ふるさとは存在する、ということか。
そして、この「矛盾する」ということだけが、何か、詩を詩にする力なのだろうと思う。
矛盾は
遠い地って何処よ
近いところの果ての果て
--たとえばあなたの傍らよ
という行にもあらわれている。遠いと近い、近いと果て。それが「あなたの傍ら」ということばのなかで絡み合っている。
この奇妙な絡み合いは、
ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから
とい二行にもある。「愛する」ということは「さびしさ」があってはじめて生まれる。さびしいという心がなくなると愛するという心が起きない。さびしいからひとを愛する、というのはわかる。しかし、さびしさを失ったから愛さない、というのはどうなんだろう。わかったようで、わからない。だいたい人を愛したら、さびしいが消えて「うれしい」になるかもしれない。かといって「うれしい」がいっぱいになれば人を愛さないかというと、そうでもないだろうと思う。愛する、うれしい、うれしい、愛するは交錯する「充実」のようなものだ。
こういうことは、考えるとわからなくなる。
私がこの詩で注目するのは「さびしさ」ということば。「さびしさ」は「さびしい」。そして「さびしい」といったときに「さびしい」の「しい」が、嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」に似ているなあと、ふと思う。
「しい」ってなんだろうなあ。「かなしい」「さびしい」「いとしい」「うつくしい」。それは「存在」というよりも「状態」。「状態」というのは、漠然とした「ひろがり」のようなものを持っている。そうすると、先に書いたこととつながるけれど、何かと何かをつないでいる、そのつなぎ方が「しい」なのではないか。「距離」が「しい」なのではないか。
嵯峨は「魂」を「存在」というよりも、「ある状態」と考えていたのではないか、それが「魂しい」という表記になったのではないか、と私は思う。
「しい」こそが、嵯峨が求めている「ふるさと」なのではないか、と思ったりする。
「広がり」「距離」には「空間」と「時間」がある。空間の方は「ふるさと(自分が生まれたところ)」と「いまいるところ」という「間」があり、時間の方には「過去(自分が生まれた時)」と「いま生きている時」という「間」がある。時間はそれだけではなく「過去の過去」と「いま」という隔たり(間)というものがある。
嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」は、その「間」の「状態」につながっている、と私は感じている。これをつきつめて考えるには、「時間」について見つめなおす必要がある。詩の中で「時間」を嵯峨はどんなふうに書いているか。それを見る必要がある。
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