詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

2021-07-26 09:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

嵯峨信之『小詩無辺』再読(3)

  謎を考えてみよう
  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を その影を
  カンガルウは妙な木々に何を習つたのか  (カンガルウ 459ページ)

 「故郷」について考えるとき、宮崎県を題材にした詩を選んだ方がいいのかもしれないけれど、あえて「抽象的」に考えてみたいと思う。嵯峨は宮崎県の出身だけれど、宮崎にいた期間は短い。
 嵯峨はここでは「故郷」を「不思議に曲がりくねつた木々」と結びつけている。土地の形、山の形、川の形ではなく、あるいは名前ではなく、木々。そこにあるもの。それは、ほかの土地にあるものとどんなふうに違っているのだろうか。その違いを「故郷」と読んでいる。

  ふるさとというのは
  そこだけに時が消えている川岸の町だ
  そこの水面に顔をうつしてみたまえ
  背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから  (*462ページ)

 この詩も抽象的だ。「時が消えている」しかも「そこだけ」。時間がない。しかし「川岸」がある。そして、水面に顔を写すとき背後から大きな瞳がみつめる。「背後」というのは自分の背中というよりも、消えたときの背後かもしれない。遠い過去。時間の向こうから、自分をみつめるものの存在としての「ふるさと」。
 「ここは何処なのか」という詩には、こんなことばがある。

  遠いことはいいことだ
  愛が 憎しみが 心だつて
  なにもかも遠くなる  (468ページ)

 「故郷」は「遠い」からいい。「なにもかも遠くなる」と、「遠い」という感じだけがのこる。
 カンガルウの詩にも「遠い」があった。

  カンガルウのおかしな影について
  遠い遠い 気も遠くなるように遠い
  カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を

 木は「遠い」を教えてくれる目印のようなもの。木々よりも「遠い」の方が重要なことばかもしれない。
 「ここは何処なのか」という詩は「在りし日にぼくは何処を彷徨つていたのか」と自問する詩だけれど、その詩の途中に、こういう行がある。

  別れるのはいいことだ
  なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる

 「別れる」を「ふるさと」と「別れる」と読んでみる。そのとき「なにもかもひとすじになつて自分に帰つてくる」。この「ひとすじ」ということばに出会ったとき、私は嵯峨の「魂しい」の「しい」というものを思い浮かべた。それは魂から自分の方に帰ってくる「ひとすじ」の何か。魂を「背後から見つめている大きな瞳」と考えれば、そこから自分に向けられた視線が「魂しい」の「しい」なのではないか。

 「ふるさと」という詩がある。

  思い出の町はすつかり消えて
  ここはもはや見知らぬ遠い町のようだ

  ぼくは大きな白いキヤンパスを抱えて
  むかしの中央通りを通つていつた

  そして心のなかを一台の空車が
  空の方へのぼつていつた  (486ページ)

 これは、とても象徴的な詩だと思う。「思い出の町」は「ふるさと」。しかし、面影は消えて「見知らぬ町」になっている。それを「遠い」と呼んでいる。「遠い」は距離。魂と私をつなぐ遠さ(距離)が「しい」という文字なのかもしれない、と私は感じる。
 失われたふるさとと私。失われたのなら、それをつなぐものはないはずなのに、「しい」がつなぐ。そう考えると、漢字の「魂」という一文字は「ふるさと」かもしれない。「ふるさと=魂」と「私」をつなぐ「しい」。
 でも、「しい」って何なのか。
 もう一度「対話」という詩を読んでみる。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つていく遠い地が失われているからだ
  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 ことば通りには読むことができないのだけれど、「遠い地」は「ふるさと」。「ふるさと」が失われてしまっているのが嵯峨なのではないのか。宮崎は嵯峨の生まれ育った場所だけれど、それは「遠い」。「ふるさと」とは本来「去っていくもの」。形を変え、面影をなくしてしまうもの。それが「失われている」。この言い方は、とても奇妙だ。面影をなくして消えていくはずなのに、その消えてなくなるということが「失われている」。矛盾だ。昔の面影のまま、ふるさとは存在する、ということか。
 そして、この「矛盾する」ということだけが、何か、詩を詩にする力なのだろうと思う。
 矛盾は

  遠い地って何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ

 という行にもあらわれている。遠いと近い、近いと果て。それが「あなたの傍ら」ということばのなかで絡み合っている。
 この奇妙な絡み合いは、

  ぼくは人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから

 とい二行にもある。「愛する」ということは「さびしさ」があってはじめて生まれる。さびしいという心がなくなると愛するという心が起きない。さびしいからひとを愛する、というのはわかる。しかし、さびしさを失ったから愛さない、というのはどうなんだろう。わかったようで、わからない。だいたい人を愛したら、さびしいが消えて「うれしい」になるかもしれない。かといって「うれしい」がいっぱいになれば人を愛さないかというと、そうでもないだろうと思う。愛する、うれしい、うれしい、愛するは交錯する「充実」のようなものだ。
 こういうことは、考えるとわからなくなる。
 私がこの詩で注目するのは「さびしさ」ということば。「さびしさ」は「さびしい」。そして「さびしい」といったときに「さびしい」の「しい」が、嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」に似ているなあと、ふと思う。
 「しい」ってなんだろうなあ。「かなしい」「さびしい」「いとしい」「うつくしい」。それは「存在」というよりも「状態」。「状態」というのは、漠然とした「ひろがり」のようなものを持っている。そうすると、先に書いたこととつながるけれど、何かと何かをつないでいる、そのつなぎ方が「しい」なのではないか。「距離」が「しい」なのではないか。
 嵯峨は「魂」を「存在」というよりも、「ある状態」と考えていたのではないか、それが「魂しい」という表記になったのではないか、と私は思う。
 「しい」こそが、嵯峨が求めている「ふるさと」なのではないか、と思ったりする。

 「広がり」「距離」には「空間」と「時間」がある。空間の方は「ふるさと(自分が生まれたところ)」と「いまいるところ」という「間」があり、時間の方には「過去(自分が生まれた時)」と「いま生きている時」という「間」がある。時間はそれだけではなく「過去の過去」と「いま」という隔たり(間)というものがある。
 嵯峨の書いている「魂しい」の「しい」は、その「間」の「状態」につながっている、と私は感じている。これをつきつめて考えるには、「時間」について見つめなおす必要がある。詩の中で「時間」を嵯峨はどんなふうに書いているか。それを見る必要がある。

 

 

 

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オリンピックは中止すべきだ(3)

2021-07-26 07:58:27 | 考える日記

 7月26日の読売新聞によれば、

①東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は25日、ボートのオランダ選手と自転車のドイツ選手の2人を含め、新たに10人が新型コロナウイルス検査で陽性と判定されたと発表した。

②国内の新型コロナウイルス感染者は25日、46都道府県と空港検疫で新たに5020人確認された。重症者は前日から12人増えて448人、死者は4人だった。
 東京都では、1763人の新規感染者が確認された。日曜日では1月17日の1595人を上回って過去最多。1週間前から755人増え、6日連続で1000人を上回った。(略)連休後半は検査数の減少に伴い、新規感染者も減る傾向にあるが、この日は前日(1128人)から635人増えた。

 コロナ感染者の拡大が止まらない。
 ①の記事で問題なのは、最初の頃は選手、大会関係者の陽性が発表されたとき、同時に「濃厚接触者」の数も公表されていた。選手、関係者は、選手と接触する。濃厚接触者でも「6時間前検査」で陰性なら試合にできる。しかも、対戦相手は対戦を拒否できない(新聞あかはた報道)。これでは「公平」と言えないだろう。自分の健康を大切にし、対戦を放棄すれば不戦敗になる。こんな状況では、金メダリストが「不戦勝」で誕生する可能性も考えられる。それでもスポーツなのか。最初の頃のように、「濃厚接触者」は何人なのか、濃厚接触者はどういう「待遇(処置)」にあるのか。それも記事にすべきだろう。 ②は東京の感染が検査数が減少しているにもかかわらず、感染者が前日から635人増えたと伝えている。月曜日(きょう)からさらに拡大するだろう。引用しなかったが、神奈川351人、埼玉449人、千葉279人と増加している。さらに全国的にも大阪471人、沖縄209人と拡大している。
 オリンピックは即座に中止し、感染者対策を強化すべきだろう。

 さらに、大会関係の記事では、酷暑対策にテニスは「10分休憩」の特別ルールを設けたとも書いている。熱中症にならなくても、疲労が大きくなれば免疫力も落ちるだろう。感染の危険性がさらに高まると思う。
 何度でも書くが、感染が拡大し続けている、「バブル対策」が効果を上げていないのだから「安心安全」は単なることばにすぎなかったことになる。間違いがわかったら、即座にいまやっていることを中断し、対策を立て直すべきだろう。

 

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スタンリー・キューブリック監督「シャイニング北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」

2021-07-25 18:19:01 | 午前十時の映画祭

スタンリー・キューブリック監督「シャイニング北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」(★★★★★)(2021年07月25日、中洲大洋、スクリーン1=午前10時の映画祭)

監督 スタンリー・キューブリック 出演 ジャック・ニコルソン、シェリー・デュバル

 この映画は、冒頭のシーンの「気持ち悪さ」に圧倒される。いまでは空からの撮影でも画面がそんなに揺れないが、この映画つくられた当時はそうではなかった。まるでカメラ自体が飛んでいるような、そして自分が目になって飛んでいるような気分になる。しかも、それは私が望んでそれを見ているのではなく、何か強制的に見せられている感じがするのである。不安定に揺れる映像なら、これはだれかが撮ってきた映像という感じがするのだが、そういう感じがしない。強制的に見せられていると書いたが、その見せられているは、なんというか、私自身の網膜を操作されて、目の奥から別の世界を覗かされているという感じだ。この、揺れない空中からの映像は知っていたし、いまはそういうシーンも珍しくないから「気持ち悪い」感じはしないかと思っていたが、30年ぶり(?)に見たいまの方が「気持ち悪い」。ぞっとする。異界へするすると滑り込んでいく感じがする。美しすぎて、どうにもなじめないのである。視神経が目を飛び出して世界へ入っていく。しかもその世界は目で見る世界よりもはるかに美しい。映像酔いしそうである。
 少年が自転車と車がいっしょになったようなもので走り回るシーンの映像の方が、この冒頭の映像よりも有名だけれど、私は、「気持ち悪さ」ではやはり冒頭のシーンがすごいと思う。このシーンの後では、ホテルの廊下の映像は、私はそんなには驚かない。
 それに比べるとクライマックスの迷路の逃走シーンは、いまひとつ恐怖心を刺戟しない。逃げる少年。追いかけるジャック・ニコルソン。ふたりの体が揺れる。それはあまりにも肉体的である。ジャック・ニコルソンは足を怪我していて、体が揺れる。その揺れがさらに肉体を刺戟して、「映像」に目ではなく、肉体の方が反応してしまう。冒頭のシーン、廊下のシーンでは、私の肉体ではなく、ただ目(視神経)だけが刺戟される。だから、不気味で、怖いのだ。目が、先に現実(事実)を見てしまい、それが肉体に働きかけてくる何か。肉体を動かさないのに、目が何かを追いかけている。しかも、絶対的な確かさ(揺れない)で追いかけている。
 ということから、この映画を見直してみると……。
 少年のなかには、もうひとりの少年がいる。その少年は、少年の肉体を通して、少年に見えるはずのないものを見せる。その「見た」ものが「ことば」を通して語られるけれど、「レッドラム」だけは「文字」が鏡文字になってあらわれ、それが鏡に映って「マーダー」にかわり、母親に意味がはっきりつたわる。「視力の感知能力」によって、少年が動かされているのがわかる。大人たち(ジャック・ニコルソンやシェリー・デュバル)が「ことば」によって「現実」を理解している(「過去」を把握している)のに対して、少年はなによりも「視力」で「現実」の向こう側まで見ている。認識している。ふつうの人間を超える「絶対的視力」のようなもので、現実を見ている。
 少年が出会う少女が二人(双子?)というのも、「視力認識の二重性」と関係があるのかも。あの少女がひとりだったら、たぶん、この映画の恐怖は半分に減る。少年が自分の「二重性」を生きているように、少女たちは「ふたり」で「ひとり」を生きている。少年と少女たちのあいだには、「視力の親和性」のようなものが動いている。少年はあの二人と一体になる、つまり殺され「遺体」という同じ、一つの「意味」になるという予感が生まれ、その予感が恐怖をあおる。

 今回見た「北米公開版〈デジタル・リマスター版〉」で、ひとつ疑問。「レッドラム」ということばを少年が最初に発するシーンは、私の記憶では「食卓」だった。食卓でないにしても、食べ物が関係するシーンだった。だから、私は「レッドラム」を「赤いラム」と思い込んでいた。ほかの人たちも、そう思っていたと思う。それが「鏡文字」が鏡に映ることで「マーダー」に変わったとき、衝撃が大きくなる。「北米公開版」では、少年が最初に「レッドラム」と呟くのは食卓ではない。少年がひとりでつぶやき、そばに聞き手がいない。だから「レッドラム」が「マーダー」にかわる衝撃が、日本公開版にくらべて小さい。これは、私の記憶違いかな? 「鏡文字」の瞬間を心待ちにしていたが、そんなに驚かなかったのは、私がストーリーを知っているから? しかし、私はストーリーを知っていても、クライマックスには、いつでもどきどきする。
 たとえば、「暗くなるまで待って」では、冷蔵庫の扉を開けると明りが広がるシーン。「ターミネーター」では腕だけになったターミネーターが追いかけてくるシーン。私は、そういうシーンで興奮して笑ってしまうので、周囲のひとから迷惑がられるのだけれど、今回は笑いの衝動が起きなかった。
 日本公開版の方が好きだな。

 

 

 

 

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オリンピックは中止すべきだ(2)

2021-07-25 07:54:47 | 考える日記

オリンピックは中止すべきだ(2)

 7月25日の読売新聞によれば、

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は24日、海外から来日した選手1人を含め、新たに17人が新型コロナウイルス検査で陽性と判定されたと発表した。

東京都では、1128人の感染を確認した。連休による医療機関の休診などの影響で、1週間前から282人減ったが、1日当たりの感染者は5日連続で1000人超となった。

 コロナ感染が止まらない。東京都の感染者数には、わざわざ「連休による医療機関の休診などの影響で、1週間前から282人減ったが」と注釈がついている。これは連休明け後、感染者数が一気に増えたときの「弁明」のためである。つまり、「連休中に検査できなかった分の陽性者が含まれているため急増したように見えるだけで、急増はしていない」と言い逃れるためである。連休明けに急増することは目に見えているのだ。

 海外に目を転じてみても。
 きのうフランスの累計感染者数が600万人を超えそうと書いたばかりだが、きょうの新聞では601万人を突破、ロシアの600万人を超えて、ブラジルにつぐ感染国になっている。
 スペインとドイツの感染者数の差も52万人に拡大している。スペインは、もうすぐイタリアの感染者数を超えてしまうだろう。スペインの友人と「イタリアは危険だ」と話していたのが、まるで嘘みたいだ。スペインではワクチン接種3回目の検討に入っていると聞く。アルゼンチンの友人はすでに3回目の接種をしたとフェイスブックに書いていた。
 私は関心のある国の状況をちらりちらりと見ているだけだが、世界ではもっと感染拡大が進んでいるはずである。スペインの友人によれば、若者の感染拡大が激しいらしい。日本でも似ているが。
 多くの国、地域から選手や関係者が入国してくる。ウィルスも入ってくるに違いない。実際に陽性者が出ている。ウィルスのことはわからないが、変異種が出会えば、そこからまた変異種が生まれるのではないのか。「東京株」が生まれる前に(すでに生まれてしまっているかもしれないが)、人の交流が増える東京オリンピックは中止すべきだ。
 それでなくても、日本は夏休み、お盆の帰省と人の行き来が頻繁になる季節である。わざわざ危険を拡大する必要はない。「安心安全」というのなら、「安心安全」のために東京五輪は中止すべきだ。何度でも書いておく。始まってしまったからこそ、何度でも書く。

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松崎義行、田原『詩人と母』

2021-07-24 16:43:45 | 詩集

 

松崎義行、田原『詩人と母』(みらいパブリッシング、2021年07月21日発行)

 松崎義行、田原『詩人と母』はそれぞれの母を追悼する二人の、一冊の詩集。二人の母は別人なのだが、そして詩を読むとたしかにふたりは違っているということがわかるのだが、なぜか共通のものがある。「母」だからだろうか。
 松崎義行の「果てしない路」という作品。

  この果てしのない道にも果てはあるのだ
  この道と呼ぶものは道ではなかったのだ
  吹き荒ぶ冷たい風が生まれる場所はもう温んでいるのだ
  どこかに疲れと痛みを感じるがそれは自分ではないのだ

  自分がしてきたことは静かに浮かぶ花の船になったのだ
  争いはなかったことになり悲しみが溢れているのだ
  見てきたものが風景になり季節が巡り始めるのだ
  始まりのような終わりが風にキラキラと舞い立ち
  皆それを見上げるのだ

 「皆」ということばが出てくる。「母」とはいきているそれぞれの人間を、それぞれでありながら「皆」という「ひとくくり」にする力をもっている存在かもしれない。その「ひとくくり」にする力は、この詩では「道」ということばで書かれていると思う。「母」と「子ども」のあいだをつなぐ「道」。母が死んだとき、はじめてそこに「道」があったと気づく。「道」を気づかせないのが「母」なのかもしれない。つまり、いつも「道」からそれぬように守っている存在が「母」。
 それは「地上」にだけあるのではない。「母」を思うとき、どこにでも出現する。この詩では風花を見上げながら、「道」を見ている。

 田原「母の実家」には「母の母」が出てくる。そして、柿の木も。

  いつの日のことだったか、柿の木は伐採されてしまった
  それは今になっても、シンボルのように
  母の実家に生きていて
  私の記憶の奥に聳えている

 田原はそれを見上げる。記憶の中で。そのとき柿の木は「母」であり、さらに「母の母」でもある。「母」もまた、その柿の木を見上げただろう。そのとき「母」は、「彼女の母」だけではなく、「母の母の母」も見上げたかもしれない。「果て」はあって、「果て」はない。
 「時の読めない母」は、こう書き出されている。

  一人海外で長く暮らすと
  最も恋しくなるのはやはり母だった
  毎年はるばる海を越えて家に帰ったのは
  母の前でお母さんと呼ぶためだった

 「最も」が切実に響いてくる。「母」はいつでも特別な存在なのだ。「母」には「母の母」がいて、さらに「母の母の母」もいる。けれど、それはいつでも「お母さん」という声で「ひとり」になってあらわれる。それは「ただ一人」しかいない。
 この不思議さ。
 「ごめんなさい」の最終連。

  私たちを隔てている海は私の涙では溢れないが
  その涙で目がかすんだなか
  地球上でただ一人のあなたが私を産んでくれたことを
  誇りに思っている
  お母さん、謝謝!
  そして、請原諒!

  そして、ここには書かれてはいないのかもしれないが、私はこんなことも思う。「母」は「ただ一人」の田原という人間(あるいは松崎義行)という人間を産んでくれた存在である。「ただ一人」ということばを「道」にして「母」と「子ども」はつながる。
 そのつながりに「果て」はあって、「果て」はない。

 

 

 

 

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オリンピックは中止すべきだ

2021-07-24 09:19:54 | 考える日記

 コロナ感染が話題になり始めたころ(いわゆる第一波のとき)、私はこんなことを書いた記憶がある。
 コロナが終息し、コロナ対策の検証が世界で始まったとき、日本はきっと責任を追及される。安倍政権は、クルーズ船検疫で非常に「甘い」対策を取った。甘い対策にもかかわらず、日本のコロナ感染はそれほど広がらなかった。これは世界に誤解を与えた。厳しい対策をとらなくても大問題にはならない、と油断を産むきっかけとなった。乗船客を徹底検査し、陽性者は病院に隔離するという形で封じ込んでいたなら、それはコロナ対策の手本となったと思う。そういう手本を示せなかっただけではなく、逆に「甘い対策でも問題がない」という印象を与えてしまった。
 きのう7月23日に東京オリンピックが始まったが、このこともきっと事後検証のとき、絶対に問題になる。コロナは変種株がつぎつぎに生まれている。東京の感染者が急増している。そのときに「安心安全」という菅のことばを「証明する」ために、強引にオリンピックが開催された。不安、危険がいっぱいなのに、菅の嘘によって大会が強行された。
 きっと感染者が急増する。だいたい「バブル対策を取るから安全」といっていた選手村からも感染者が出ている。選手の入村からまだ間もないのに、である。世界から選手がやってくることで、新たな変種株が生まれるかもしれない。それが世界に拡大したとき、菅は、どう責任をとるつもりなのだろう。コロナを封じる対策をとらずに、逆に、拡大させる危険性のある対策を「安心安全」という名のもとで強行した。このことは、絶対に問題になるはずである。
 日本だけではなく世界でもコロナ感染は拡大し続けている。読売新聞の一覧表によると、フランスの感染者累計はもうすぐ600万人に達しそうである。以前、600万人目前というときに、突然累計が560万人に減らされた。それなのに再びまた600万人に近づいている。もうすぐロシアの累計感染者数を上回りそうである。ヨーロッパでは、一時期ドイツの累計感染者がスペインの累計感染者を上回ったことがある。ちょうどフランスの数字が600万人目前から560万人に「操作」されたころである。そのスペインとドイツの累計感染者だが、いまはスペインがドイツを50万人近く上回っている。(スペイン424万人、ドイツ375万人)。これは、どんなに少なく見積もっても、私が以前にこの問題を指摘して以来、フランスでは40万人近く、スペインでは50万人以上が新たに感染しているということである。感染拡大は、止まりそうにない。
 スペインでは3回目のワクチン接種を検討しているという。ただし、ワクチン接種が進んでいない国、地域でのワクチン接種を優先させる、という注釈付きの政策らしい。アルゼンチンでは、実際に3回目の接種をした、という人もいる。(フェイスブックに本人の写真入りで載っていた。)私のような、通りすがりのネットサーフィンでもつたわってくる情報だから、コロナ対策に取り組んでいる人や、その報道をしている人は当然知っていることだと思う。もっと「先」の情報も知っているはずである。
 「安心安全」を標榜するなら、そういう情報を国民に周知させる方策を取った上で、具体的な対策をとらないといけない。口で「安心安全」というだけで巨大イベントを実施するときではない。
 読売新聞にはほとんど書かれていなかったが、開会式会場周辺には大勢の人が集まったということもインターネットには書かれている。反対のデモもあったとも載っている。菅の「無観客=安心安全」は、会場内限定のことであって、会場外のことは知らない。会場外は、あくまで「自己責任」であって、菅の責任ではない、と言うつもりなのだろう。
 一方で、選手を集めて「安心安全」「感動を与える」と言っておいて、感動を求める人をほうりだしてしまう。すべて「自己責任」にしてしまう。人が集まらないようにするためにはどうすればいいのか、何をするべきなのかをまったく考えない無責任な政治が、きっととんでもない結果を引き起こす。
 いま中止すれば、まだ感染拡大が、さらに拡大することは防げるだろう。始まってしまったのだから、最後までやる、というのではなく、始まって危険性がわかったからこそ、すぐに中止する、という決断が必要なのだ。会場が広い、北海道のマラソンコースは開会式周辺よりも混雑することになるかもしれない。開会式周辺に集まってきた人よりも多くの人が沿道に繰り出すかもしれない。

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高柳誠『フランチェスカのスカート』(17)

2021-07-23 10:40:53 | 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む

 

高柳誠『フランチェスカのスカート』(17)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「手紙(二)」。

 砂漠を旅するひとから手紙が届く。そこにはそのひとが見た「目新しいこと」が書かれている。ほかに、こういうことも書かれている。

  砂漠を抜けた南の密林地帯には、人間に似た恐ろしく獰猛な動物が
  すんでいるし、一年中素っ裸で密林を歩き回る小さな人たちもいる
  という話だ。できることなら、そういう人たちにも会ってみたい。

 実際には見ていない。聞いただけである。ことばである。
 語りのなかに、もう一つの語りがある。それは最初の語りと同等の「意味/価値」を持っている。つまり、ことばである限り、それは直接的な報告であろうと間接的な報告であろうと(伝聞であろうと)、同じ重さを持つ。
 なぜか。
 読む人にとっては、どちらも自分の知らない「ことば」だからである。それは「事実」ではなく「ことば」であり、「ことば」にされた瞬間に「事実」になる。
 この考え方が、高柳のことばの運動を支えている。

 

 

 

 


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自民党憲法改正草案再読(17)

2021-07-23 10:12:42 |  自民党改憲草案再読

 第25条は、「生存権」ということばで呼ばれることがある条項である。

(現行憲法)
第25条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
(改正草案)
第25条(生存権等)
1 全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、国民生活のあらゆる側面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第25条の2(環境保全の責務)
 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。
第25条の3(在外国民の保護)
 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない。
第25条の4(犯罪被害者等への配慮)
 国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない。

 現行憲法も改憲草案も「国民の権利」を書いた後に、国の「責務」について言及する。「公衆衛生」ということばが出てくるのは、「公衆衛生」が前項の「健康」と深く関与するからだろう。
 現行憲法が「すべての生活部面について」と書いている部分を、改憲草案は「国民生活のあらゆる側面において」と書き直している。なぜ「国民」ということばを挿入したのか、なぜ「部面」を「側面」と言いなおしたのか。たぶん「国民生活に限定した側面」という意図なのだろう。「国民生活」という限定外であると判断した場合は、国は努力しなくてもいいという余地を残していると思う。「すべて」の対極にあることばは「個」である。それをもとに、「すべての生活」ではなく「国民生活」というのは、きっと「個人の生活」ということになるだろう。そう思って読むと、次の新設条項の意図がわかる。繰り返しになるが、引用する。

(改正草案)
第25条の2(環境保全の責務)
 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。
 
 「国民と協力して」とは、「国民に協力させて」である。個人(一部の国民)の反対を許さない。一部の国民(個人)の権利を奪ってでも、多くの国民が良好な環境を享受することができるなら、その政策を遂行する、ということだろう。
 第24条が婚姻という個人の権利と自由の問題であるのに、それを「家」の問題にすりかえたように、「環境」という大きな問題で個人の権利を侵害することを許容する(要求する、押しつける)余地がある。国への禁止事項が見当たらないのが、憲法として不自然であり、不気味だ。
 「国民と協力して」というのは「協力」ということばが「美しい」(批判しにくい)だけに、とても危険なことばである。このことばはきっと「国民は協力しなければならない」という意味に解釈されるはずである。協力しない国民は「公益及び公の秩序に反する」と言われるだろう。俗に言う「反日」というレッテルが張られることになる。そういう危険を抱え込んでいることばである。

(改憲草案)
第25条の3(在外国民の保護)
 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない。

 もっともなことである。しかし、どうやって「保護」するのか、ここには明言されていない。拡大解釈ができる余地がある。たとえば救出のためにチャーター機を用意する、というのと、救出のために(あるいは保護するために)武力をつかって侵攻するというのでは、やることが違ってくる。ここにも国に対する禁止事項が書かれていない。

(改憲草案)
第25条の4(犯罪被害者等への配慮)
 国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない。

 とても大事なことだが、同時に「加害者及びその家族の人権」にも配慮しなければいけない。加害者の人権(権利)については、第31条以下に書いてあるが、その条項と比較すればわかるが、この新設条項にも国への「禁止事項」ではない。
 現行憲法は、まず国民の権利を明確にし、その権利保護のために国は「務めなければならない」と規定している。
 改憲草案は、そのスタイルを踏襲した上で国の責務を書いているように見えるが、保障される国民の権利が何かがよくわからない。つまり推測するしかない。たとえば、改憲草案第25条の2の場合なら、それに先立ち「国民が良好な環境を享受する権利を有する」という条項がないといけないはずである。第25条の1の2の「国民生活のあらゆる側面」のひとつが「環境権」であるというのかもしれないが、こういうあいまいな表現は、嘘っぽく私には感じられる。
 第25条4に戻って言えば、「犯罪被害者への配慮」が「加害者への配慮をやめる」ということになっては、条項新設の意味がない。人間は必ず更生する(更生し得る)という人間観とどう折り合いをつけるかが、とてもむずかしい。犯罪加害者を厳しく糾弾することで「被害者へ配慮する」ということになりかねない。
 憲法は何よりも国への「禁止事項」でなければならない。
 この問題は、こう考えてみればわかる。
 「犯罪被害者」で、いまいちばん注目を集めているのは「赤木ファイル」事件である。財務省の職員が文書の改竄を命じられ、それが引き金になり、苦悩の末に自殺した。自殺に追い込まれた。これは、私の目から見ればその職員は犯罪被害者である。そして、その職員には家族がいる。この被害者、遺族に対して、国はどんな「配慮」をしているか。
 どんな「加害」があったのか、それを防ごうとした人はいたのか、被害者を守ろうとした動きはあったのか。国は(菅は、安倍は、麻生は)口をつぐんでいる。情報公開を阻んでいる。そうすることで、新たな「加害」を働いている。しかし、そのことは問題にしない。
 「詩織さん事件」というものある。加害者は安倍の「お友だち」である。国は(安倍は)、犯罪被害者である詩織さんに配慮をしたか。何もしていない。「加害者」を守っているだけである。
 ここから見れば、改正草案第25条の4は、被害者が権力とは反対の側にある場合は、けっして実現されないと推測できる。
 自民党のやっていることは、自分にとって都合のいいことは改憲草案を先取り実施し、不都合なことは無視するという形をとっている。しかも、その無視するときに「美しいことば」を羅列している。「犯罪被害者等への配慮」と言われて、それに反対する人は誰もいない。だが、政権にとって不都合な被害者はいなかったことにする。こういうことができるは、条項に、国は「〇〇をしてはいけない」という「禁止」の文言がないからである。
 たとえば、「犯罪被害者から情報開示を求められたら、国はそれを拒止してはいけない」という条項があれば、赤木ファイル事件は、国の違憲行為に発展する。

 美しことば、見かけのいいことばにこそ、注意しないといけない。憲法は、国(権力)に対する「禁止事項」で成り立っているのだから、そのことばが「わかりにくい」とか、「自然な日本語ではない」としても何ら問題はない。国の「逃げ道」を封じるのが憲法なのだから、ふつうの日本語とは「文体」が違ってくるのは仕方のないことなのである。逆に言えば、ふつうの日本語(ふつうの感覚)に見えることばにこそ、「罠」が仕掛けられている、国民を縛る何かが隠れていると見るべきなのだ。
 「赤木ファイル」に戻って言えば、佐川はもっと出世できる人間だったのに、安倍を守って辞職した。「被害者」だ。佐川を守らなければ、さらに安倍が逮捕される、ということが起きる。安倍を「赤木ファイル」の被害者にするな。安倍を守るためなら、自殺した職員、遺族がどうなろうと関係ない、というのが今の政権の姿勢なのだ。国民を守るふりをして、権力と権力の「お友だち」を守ろうとしているにすぎないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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東京オリンピック

2021-07-23 10:01:31 | 考える日記

 東京オリンピック2020がきょう7月23日開幕する。前回の東京大会のとき、私は小学生だった。6年生か、5年生かは忘れてしまった。覚えているのは「アジアで初めてのオリンピック」ということばだ。日本はアジアだった。いま、この日本はアジアである、という感覚がとても稀薄になっていると思う。あのころ、私は富山の田舎に住んでいた。中国人も韓国人も知らない。周囲にいる人も、たぶん、知らない。話題になったことはない。だから、その当時、日本人が中国人や韓国人を嫌っていたかどうか、肌で感じることはなかった。子どもだから、そういう情報に触れなかっただけなのかもしれない。情報があっても気がつかなかっただけなのかもしれない。でも「アジアで初めて」ということばをつかうくらいだから、日本はアジアであると意識が強く、アジアであると意識する以上、同じアジア人を嫌うということも、そんなに露骨ではなかったのではないかと思う。
 いま、やたらと目につくのが「反韓」「反中」ということばであり、また「反日」ということばである。日本政府を批判すると、韓国より、中国よりである。つまり「反日」である、という。そこには「同じアジア」という意識はない。日本はアジアではない、と意識しているかどうかはわからないが、なんとも、うさんくさい意識である。個から出発すれば、日本人である、アジア人である、世界人(?)である、という具合につながっていくはずなのに、途中の「アジア人」の意識が欠けていると思う。
 特にこれを強く感じるのは、最近の台湾をめぐる日本の政策である。日本の政策というよりも、日米の政策、さらに言えばアメリカの政策なのだが、「アジア人」という視点から見ると、その政策は奇妙に見えないか。
 中国が台湾へ侵攻するかもしれない。それは日本にとっての「有事」である。だからアメリカといっしょになって台湾を防衛しなければならない。麻生は、最近、そう言った。しかし、台湾は中国の一地域である、というのが日本の公式見解だと私は理解している。それに反して、実際にやろうとしていることは台湾を中国から切り離し、アジアから切り離す政策に見える。台湾をアメリカ化する。日本を、特に沖縄をアメリカ化したように。このときのアメリカ化とはアメリカの基地化という意味になる。日本、台湾はアジアではなく、アメリカ(西欧)である、という意識がどこかに潜んでいないか。韓国も、そういう意味ではアメリカである。同じアメリカなのに、日本のある人々は、なぜか、韓国人を嫌っている。彼らのなかには、とんでもない「矛盾」がある。「脱アジア」政策をとるいまの政権が、そして、そういう「反韓」勢力(意識)を利用しているというのも、なんとも奇妙なのだが……。
 日本が立つべき位置は、アメリカと一体になることではなく、アジアと一体になることだろう。日本はアジアであるという意識を忘れないことが大切だと思う。
 台湾と中国とのあいだで紛争が起きれば、もちろんそれは大変なことである。だが、その問題を解決するとき、台湾を中国から切り離す、アメリカにしてしまうというのではなく、アジアのままで解決しないといけないのではないのか。「有事」というものが、何と何を指すのか、定義はむずかしいが、何かあったとき、助け合わなければならないのは「隣国」である。中国は隣国である。しかも、日本は中国から多くのことを学んでいる大切な国である。交通網、通信網が発達し、アメリカは遠い国ではないかもしれないが、それでも中国よりは遠い。アメリカはアジアではない。アメリカが台湾をアメリカ化することに対して、異議を唱えるべきである。それができない限り、沖縄の基地はなくならない。逆に言えば、アメリカが台湾のアメリカ化をすすめるとき、日本が「集団的自衛権」を主張していっしょに行動するならば、日本全体がアメリカの基地となってしまう。日本は完全にアメリカになってしまう。アジアではなくなる。
 アメリカは、アジアの東では日本、韓国をアメリカ(基地)化し、西ではイスラエルをアメリカ(基地)化しようとしている。アジアを東西の両方から押さえつけ、アジアが「世界化」することを阻止しようとしている。「世界化」していいのはアメリカだけであるという考え方だ。アメリカが「世界」を支配するとき、そこに「秩序」「安定」が生まれるという思想である。
 中華思想に与するわけではない。必要なのは「共存」の思想なのだ。そして、その「共存」というのは、絶対的に「個」であることが必要だ。「個」の平等。それは「アジア」と「日本」のあいだで確立し、それから「日本」と「世界」とのあいだで確立していくものである。そのとき「アジア」と「アジア以外の世界」は平等である、という意識が重要である。「アメリカの世界観が正しい」ではなく、「平等」が必要である。
 スポーツは、実際はどうか知らないが、ルールのもとで「平等」である。その「祭典」であるオリンピックが開かれる日、私は、ふとそういうことを思った。「アジアで初めてのオリンピック」といったとき、そこには、世界に向かって開かれている希望のようなものがあった。でも、アジアを忘れたいま、オリンピックにはどこにも希望はないように思える。オリンピックではアメリカではなく、IOCがIOCの利益のために動いているのだが。ただ、構造としては、同じに見える。つまり、日本は(菅は)、アメリカの言う通りにさえしていれば日本は「世界の一員(しかもトップクラスの一員)」でいられる。IOCの言うがままに動いていれば、日本は「世界の一員」でいられる。「アジアの一国」ではなく「世界の一国」でいられると勘違いしているように見える。
 「スポーツを通じて世界をひとつにする」という「美しいことば」。でも、世界はひとつにならなくていい。ばらばらのまま、平等でいるのがいちばんいい。ばらばらのままでも、楽しく生きることができる、というのがいちばんいい。完全にばらばらになるのはむずかしい。だから、まず「世界」ではなく「アジア」であること意識する、まわりには隣人がいる(隣国がある)くらいのことろまでは引き返してみるべきだろう。
 

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自民党憲法改正草案再読(16)

2021-07-22 11:54:19 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(16)

 第24条は大きく改変される。

(現行憲法)
第24条
1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
(改憲草案)
第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)
1 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 現行憲法は、「婚姻」に関する規定である。「婚姻の自由」(婚姻の権利)について書いている。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とは、国が個人の婚姻の自由(権利)を侵してはならない、という意味である。「合意のみ」の「のみ」には、国の関与は排除する、国は権利を侵害してはならないという意味である。憲法は、あくまでも国(権力)を拘束するためのものである。
 改憲草案では、この「のみ」を削除した上で、さらに現行条項に先立つ条項を新設している。
 「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と「家族」を「婚姻(個人の問題)」よりも先に書いている。「家族があって、個人がある」、つまり「家族優先」が改憲草案の理念である。第三章は国民の権利の条項(国が国民の権利を保障するための禁止事項の条項)であるはずなのに、ここでは国民の権利を明示されず、「家族」ということばが登場している。
 この「家族優先」の規定には、どこにも国(権力)に関する「禁止規定」が書かれていない。「家族」が大切だとして、その大切な家族に国(権力)は何をするのか。「家族は、互いに助け合わなければならない」と国の責任を放棄し、家族に「助け合い」を丸投げしている。国民の権利も、国の責務も書いていないこんな条項が憲法にあっていいはずがない。道徳の副読本ではないのだから。
 ここに改憲草案は「助け合い」ということばをつかっているが、私の感覚では、この「助け合い」が「公共の福祉」(みんなの助け合い)である。そして、「公共の福祉」であるかぎり、それを邪魔してはいけないが、邪魔をせず参加しないということは許されるはずである。しかし、改憲草案は、これを「互いに助け合わなければならない」と国民の義務にしている。
 現実問題とつきつめてみれば、これがいかに不自然であるかがわかる。世の中には「離婚」があたりまえのこととして存在している。離婚は、家族が「互いに助け合う」ということをやめてしまうことである。自分を助けるために、自分を「配偶者」から切り離し、自由になることである。「みんなの助け合い」に参加する必要はない。自分を自分で助けるためなら、配偶者とわかれてもいいというのが離婚の考え方であり、それはこの世の中では当然のこととして認められている。
 改憲草案は「互いに助け合わなければならない」と書いているが、これは私が「みんなの助け合い」と読んできた「公共の福祉」ではなく、「公益及び公の秩序」のことである。「公の秩序」とは、改憲草案では「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位」という定義にあらわれている。個人ではなく「家族」という集団。その中にある「秩序」。それを守らなければならない。「家族の秩序」を守ることが「家族の利益」である。「家族の利益」を守るために「家族の秩序」を守る必要がある。それを「家族は、互いに助け合わなければならない」と言い直し、ごまかしている。
 これは「離婚を認めない」ということにつながる。離婚すると、個人の経済的基盤は弱くなる。どうしても「公共の福祉(助け合い)」が必要になる。国は、経済的弱者を助けるために、所得の再配分(税金の活用)をしなくてはならない。その国の義務を放棄し、「家族」に責任を押しつけている。個人の困難を、家族の問題に押しつけ、個人の自由を奪おうとしている。個人の自由を拘束しようとしている。「家族は、互いに助け合わなければならない」は美しいことばだが、「美しいことば」のかげには、邪悪なごまかしがある。
 改憲草案に書かれている「家族」とは、「家族」というよりも「家制度」である。「家制度」であると考えると、ここにはつかわれていないが「公益及び公の秩序」こそが自民党改憲草案の狙いであることがよくわかる。「家の利益」「家制度という秩序」を守る。「家長制」の復活、父が全権を握り、他の家族を支配する。そうすることで成り立つ秩序と、そこから生まれてくる利益。これは「家督制」と言いなおせばもっとわかりやすくなる。財産問題(利益の問題)をからめると、「公益(家の利益)及び公(いえ)の秩序」がわかりやすくなる。
 改憲素案は「家族」をさらに「親族」へと広げていくのは、「家」には「財産」が関係してくるからである。だからこそ、「婚姻及び離婚」「相続」などに「親族」までが関与してくる(関与できる)ように憲法で言及するのである。「婚姻」とは簡単に言いなおすと「配偶者の選択」であり、あくまでも個人の問題だが、改憲草案はそこに「家族」「親族」を関与させている。「両性(ふたり)」の問題ではなく「両家」の問題にしようとしている。「両家」は「親類」になり、そこにまたあらたな「公益及び公の秩序」が生まれる。
 ところで、この条文では、ことばのつかい方が現行憲法と改憲草案では違うところがある。
 現行憲法では「離婚並びに婚姻及び家族」という言い方をしている。改憲草案では「婚姻及び離婚」、「相続並びに親族に関する云々」。「及び」と「並び」のつかい方が違う。「及び」はイコールである。現行憲法では、婚姻=家族。婚姻すれば家族が成立するからである。離婚でも家族が生まれるときもあるが、家族が生まれないときもある。「両性」がそれぞれの「個人」に戻るだけの場合がある。そういうことを想定して「離婚並びに婚姻及び家族」という表現をとっていると思う。「並びに」は並列、簡単なことばでいえば「と」、and になるだろう。
 改憲草案では「婚姻及び離婚」と書いている。「及び」は「及ぶ」という動詞と関係している。婚姻で生じた問題がやがて離婚に及ぶことがある。でも、「婚姻=離婚」というのは乱暴である。その乱暴をあえてここでおかしているのは、「婚姻」にしろ「離婚」にしろ、それが成立したとき、そこに「財産」が絡んできて、それは「両性」の問題ではなく「両家」の問題になるからだろう。だから「相続並びに親族」ということばがつかう。「婚姻→家族(両家の統合、統合される財産、あらたな秩序)→離婚→家族(両家の分断、新たな財産問題)」ということになるのか。
 「個人の尊厳」と改憲草案も、現行憲法と同じことばをつかっているが、改憲草案が「個人の尊厳」に配慮しているとは思えない。改憲草案は、あくまでも「家」のことを中心に考えている。「家」を支配する「家長」を中心に考えている。
 これは最近起きていることと結びつけると、「夫婦別姓問題」が思い浮かぶ。夫婦別姓のどこかいけないのか。「家長」があいまいになるからだろう。あるいは「家長」を重視していないという印象が生まれるからだろう。なんとしても「家長」が「家」を支配する。そういう「秩序」を維持したいということだろう。
 同性婚を認めないというのも同じだろう。いくつかの自治体で「パートナー制度」と呼ばれるものが誕生している。パートナーは、対等である。この「対等」という感覚が、たぶん自民党のいちばん嫌っている感覚なのだ。だれかが「長」になり、秩序をつくる。「秩序」とはピラミッド型の支配構造のことであり、それから逸脱するものは許さないというのが自民党の考え方である。
 国民を支配するための憲法をめざしていることが、ここからもわかる。「家族」ということばは美しい。「助け合う」ということばも美しい。しかし、夫婦が別姓だったら、家族がどうして「助け合う」ことにならないのか、夫婦が同姓だったらどうして「助け合う」ことにならないのか。その疑問から出発すれば、改憲草案のめざしているものが、「国民の権利」とは無関係なものであることがわかる。

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高柳誠『フランチェスカのスカート』(15)

2021-07-21 16:44:24 | 高柳誠「フランチェスカのスカート」を読む

高柳誠『フランチェスカのスカート』(15)(書肆山田、2021年06月05日発行)

 「夢の種」は「一年に数回、空から夢の種が降ってくる」と始まる。雪に似ているが、雪と違ってさまざまな色を持っている。それは壊れやすい。壊れると匂いを発する。そして、

     その夢が美しいかどうかは、匂いが決定しているらしい。つ
  まり、いい匂いの種はいい夢をみせてくれるというのだ。だからと
  いって、つぶさない限りその種の匂いをかぐことはむずかしいのだ
  が…。

 この困難さのなかに詩がある。困難を超えて願っていたものが実現するときの喜びが詩である。
 それはしかし、「だからといって」ということばが象徴するように、「論理」でもある。ことばを書いてきて、そのことばが自立して、論理を展開する瞬間の、ことばのよろこび。ことば自身のよろこびをこそ、高柳が詩と定義しているものかもしれない。
 だから、この詩は不思議な形でおわる。美しい色彩をまきちらし、また匂いと夢をむすびつけて読者を酔わせた後、逆のことを「論理的」に語る。

     翌朝、目覚めてみると、つぶれた夢の種の残骸が、泥にまみ
  れてあちこちに固まっている。夢として開かなかった種は、あっと
  いう間に腐って耐えがたい悪臭を放つ。どぶ臭い匂いに耐えながら、
  人々は迷惑そうに夢の滓を片づけ始める。

 美しいもの、詩的なもの、あるいは絶対的なものがあるとすれば、それは「現実」ではなく、「論理」である。ことばの自立した運動、その自律性こそが高柳の信じる「絶対」である。

 

 

 

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自民党憲法改正草案再読(15)

2021-07-21 11:17:30 |  自民党改憲草案再読

自民党憲法改正草案再読(15)

 第22条は、住居、移転、職業選択について書いている。

(現行憲法)
第22条
1 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
(改憲草案)
第22条(居住、移転及び職業選択等の自由等)
1 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 全て国民は、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を有する。

 すでに書いたことだが、憲法の条文は大切なものを先に書き、それを後の条文で補足説明する。つまり補強する。
 「住居、移転、職業選択」は、第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と関係すると同時に、第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と結びつけて読み直す必要がある。
 どこに住むか(生まれ育った土地を離れて移転するか)、何を職業とするかが「自由」なのは、どこに住んでいるか、何を職業としているかによって「差別されない」ということである。どこに住んでいるか、どういう職業についているかによって「差別されない」ということが、「平等」ということであり、それを選ぶ「権利」を国民は持っている。
 「どこに住むか」は単に「国内」だけを意味しない。外国をも意味する。そして、そのときは「国籍」の問題が絡んでくるが、それを選択するのは国民であって、国ではない。現行憲法では、そのことが明確に「自由を侵されない」と書いているが、改正草案では国への「禁止事項」とは明言していない。「国民は(略)自由を有する」と書いてあるだけで、保障まではしていない。「侵されない」「侵してはならない」と「(権利を)有する」では「主語」が違う。
 改憲草案では「公共の福祉に反しない限り」を削除している。これまで読んできた条文では、改憲草案は現行憲法の「公共の福祉に反しない限り」を「公益及び公の秩序に反しない限り」という具合に言いなおしてきた。ここでは、それをしていない。なぜなんだろうか。なぜ「公益及び公の秩序に反しない限り」と言いなおさなかったのか。
 深読みすれば、「住居(移転を含む)」をいつでも制限する権利を、国は保留したいのではないのか。国民の、どこに住むかという権利(自由)を制限したいのではないか。もし、そこに「公益及び公の秩序に反しない限り」という文言があれば、制限するに際して、国には説明責任が伴う。ある人があるところに住んでいる。それが、なぜ「公益及び公の秩序」を維持することになるのか、あるいはに反するか。その説明は、むずかしい。特に、その人がその人だけではなく、先祖代々そこに住んでいたとするとき、そこから「立ち退かせる」ための説明はとてもむずかしくなる。いままで「公益及び公の秩序」に反するとは言えなかったのに、なぜ、突然そうなったのか。その説明をする「責任」を回避したい。その意図が隠されていると思う。説明が不十分なとき、国は、国民の「住居の自由」を侵したことになる。
 こんなことも考えてみなければならない。東京電力福島原発事故。被災者がどこに住むのか、かつて住んでいた街に帰るのか、別の場所に移転して暮らすのか。そのための環境整備はどうするのか。住む自由は、住まない自由(そこには住みたくない、と主張する自由)でもある。一人一人の「思想(考え方)」を尊重していくとき、いろいろな問題が出てくる。「公益及び公の秩序」という紋がんがあったとき、問題はさらに複雑になる。「公益」「公の秩序」とは何なのかが厳しく問われる。ある地区の住民をそろったまま帰還、あるいは移転させる方が「予算が少なくて住む」「コミュニティーが守られる」というような論理は、国、あるいは東電が出す金が少なくてすむという「利益」にすぎない。それが「公益」であるとは言えない。
 「職業の選択」も同じである。「職業選択の自由」には、ある職業を「選ばない自由」も含まれる。「国籍の選択」についても同じことが言える。国が押しつけてくる職業を選ばない。拒否する。日本という「国籍を選ばない自由」(離脱する自由)。「公益及び公の秩序に反しない限り」という文言があれば、国には、その説明責任が生じる。文言がなくても責任があると言えるかもしれないが、文言がなければ「文言がない」を根拠として説明責任を逃れることができる。
 「自由を侵されない」を「自由を有する」と書き換えたことと、この条項だけ「公益及び公の秩序に反しない限り」を用いなかったことについては、慎重に考えてみる必要があると思う。(ここから逆に、改憲草案が「公益及び公の秩序に反しない限り」を持ちだすとき、何をしたいか、国にどんな特権を与えたいのかを考えることもできると思う。)

(現行憲法)
第23条
 学問の自由は、これを保障する。
(改憲草案)
第23条(学問の自由)
 学問の自由は、保障する。

 何回か指摘してきた「これを」というテーマの提示が、ここでも削除されている。
 「学問」は宗教、表現、職業などの「基礎」である。それは実際に働いてみたりすると、学校で勉強してきたことが実際の労働にはあまり役立たないなあという思いで跳ね返ってくることがある。学問は職業(労働)の基礎なのに、こんなに役立たないのなら(勉強したことと関係がないのなら)、勉強なんかしなくてもいいのじゃないのかな、という想いにつながったりする。でも、それは「学問の自由」が大切であるということとは別問題である。
 学問とは、まず、「批判」である。「学校で勉強してきたことは、実社会ではあまり役立たない」というのも「批判」かもしれないが、それは「批判」というよりも「反省」に組み入れるべきことである。自分は、実社会での労働のことを気にかけずに勉強してきたなあ、という反省として、自分の内に抱え込んで、自分をどうするかの問題である。「学問」の「批判」とは、違うものである。
 ある論理(理論)がある。それが正しいかどうか、それを発展させるとどういうことが考えられるか。つまりある対象にに対する「思考」が「学問」であり、それは常に、前に確立された「学問」の「批判」から始まる。「天動説」への批判が「地動説」である。「ニュートン物理学」への批判のひとつがアインシュタインの「相対性原理」である。
 そういうむずかしいことだけではなく、たとえば、政府の政策のここがおかしい、という「批判」もやはり「学問」なのである。「批判」するとき、その批判を論理づける「根拠」が必要である。「根拠(基礎)」から始まって、すでにあるものを「批判」していくのは「学問」なのである。あらゆる「思想」のことば、「表現」のことばも、「学問」がなければ発展していかない。十分な基礎が必要である。
 「学問の自由」は「批判の自由」である、と読み替えるとき、菅の学術会議委員候補6人の任命拒否の意味がはっきりする。「学術会議」は「学者の団体」「学問をする人たちの団体」、言いなおせば「批判する人たちの団体」なのである。批判するのがあたりまえというか、批判しなければ成立しないのが「学問」なのに、菅は「批判を許さない」を前面に出して6人の任命を拒否した。「批判を許さない」と言っていない(前面に出していない)と菅は言うかもしれないが、それ以外に「学問(学者)」を拒否する理由はない。もし、「学問(学説)」が間違っているというのなら、それを「批判」の形で「学問」にしないといけない。菅は、そういうことをしていない。「学問」そのもの、つまり学問が批判であるということを拒否している。
 「学問」を批判できるのは「学問」だけである。そして、「学問」の分野は限りなく広い。どこからでも「批判」ができるのが「学問」である。

 

 


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嵯峨信之『小詩無辺』再読(2)

2021-07-20 15:39:33 | 詩集

嵯峨信之『小詩無辺』再読(2)

 「言葉」は、どんな具合につかわれているか。

  言葉の泡を消せ
  意味のないシラブルにピリオドを打て   (港、446ページ)

 「泡」と「意味のない」は同じものだろう。「意味」が不明確な言葉を嵯峨は嫌っているようである。
 「自由がというものがあつた」には、こう書いてある。

  言葉は
  言葉以外の意味にあふれている  (446ページ)

 ここでの「意味」は「無意味」ということ。言葉はいろいろな意味を持っているが、多くの場合は「無意味」なものの方が多い。
 では、「意味」とは何か。詩のすぐつづきに、

  笑えば
  白がこぼれ落ちて
  白いといえばさらに白くなる

 「白」が「さらに白くなる」。この「さらに」こそが嵯峨にとっての意味、求めている意味である。「さらに」という働きをしないことばは「泡」なのである。
 さきに引用した、

  言葉よ
  まだ目覚めないのか
  ぼくの魂しいのどのあたりを急いでいるのか

 「さらに」を探して、魂しいは「急いでいる」。懸命に「さらに」を探している。そうすると、魂しいとは、ことばの「意味」を純粋に、絶対値に近づけるもののことだとわかる。
 世界にはものがあふれている。世界には言葉があふれている。しかし、そのなかに「絶対」があるだろうか。
 魂しいは「絶対」を刻印する何かである。

  どの言葉も遮閉されている
  そこを通りすぎるものを閉じ込める  (エスキス 461ページ)

 東京オリンピックでは、選手を「バブル」に閉じ込める「バブル作戦」がとられている。言葉の泡もまた、人を閉じ込める。ありきたりの(定型の、たとえば辞書に書いてある)意味に閉じ込められている。
 魂しいは、その「泡」を突き破る力である。言葉を古い意味(ありきたりの意味)から解放し、純粋に、それまで隠れていた意味に生まれ変わらせる力である。

  とりなしを願うために再び言葉を習い始める  (エスキス 461ページ)

 「再び言葉を習い始める」とは、定型の意味にまみれていない言葉を身につけるということだろう。
 ふたたび、前に引用した詩。

  空をゆく鳥は跡を残さない
  なぜ地上を歩くものは跡を残すのか
  それは言葉があるからだ
  その言葉が魂しいの影を落とすのだ  (* 461ページ)
 
 人はだれでも「絶対値」としての「意味」を言葉にこめたい。しかし、そういうことは簡単ではない。言いたいこととは違うものが言葉にはまじり込んでしまう。そういうものが「影」。魂しいは「絶対純粋」をもとめる。鳥のように空を自由に飛び回る「絶対純粋」。でも、それは実現不可能である。その不可能の記録としての、言葉というものがある。地上の足跡。人間の歩み。しかし、その影をじっと見つめれば、影を生み出している「光」が見えるかもしれない。
 そこに、詩の不思議さがある。
 どんなことばも、魂しいの絶対値に比べると、不完全な何かである。しかし、それの不完全なものが、完全を予測させる働きとして働くことがある。
 そういうものを、私は探したいと思い、こうやって詩を読んでいる。

  言葉はだれかが脱ぎ捨てた影だろう
  それでも
  火をつけると
  白い片翼のように輝く  (* 464ページ)

 「白い片翼」は鳥を思い出させる。先に引用した詩と結びつけて読みたくなる。
 「言葉」と「影」。言葉を魂しいが通り抜けると、古い言葉が脱ぎ捨てられる。言葉は新しい意味に生まれ変わる。そういう言葉は、言葉であっても、ちょっと外国語に似ている。言葉であることはわかっても、意味がわからない。難解である。かつて、現代詩は難解といわれたことがあるが、それは「古い意味」ではとらえられないという意味、定型の考え方ではとらえられない何かということだろう。たぶん、難解というのは、「脱ぎ捨てられた影」なのだ。「影」としか見えない何かなのだ。「影」は、ここでは否定的な意味につかわれている。しかし、そういう「影」であっても、火をつけると、「白い片翼のように輝く」。鳥の自由が、瞬間的に見える。
 生まれ変わった言葉も、生まれ変わるときに脱ぎ捨てられた言葉も、もし、その変化に魂しいが関与しているなら、魂しいに出会える可能性はあるのだ。

  風はなぜ影にかくれて通過できるか
  水が水を追うのはなぜか
  死という言葉をとらえる網はもうない  (パズルに隠れている死 472ページ)

 この詩に出てくる「言葉」について、私が語ることできるものは何もない。魂しいと関係づけることが私にはできない。こういうつかい方の「言葉」もある。わからないまま、わからないものを、保留して、先に進む。

  ぼくの魂しいに灯をともすと
  言葉の上を
  死んだ女の影が通りすぎる  (人間小史 473ページ)

 魂しい、言葉、死、影。よっつのものが交錯する。灯は、いのちかもしれない。死といのちと、どちら絶対か。絶対的なものか。
 よく説明はできないが、魂しいが通過した言葉、魂しいが火をともしている言葉が嵯峨のもとめているものであり、それが手に入らないとき、言葉の影が見えるということだろうか。

  無自覚で 空白で 自分を捨てたとき
  一つの言葉が
  ぼくの心の奥を掠めた  (* 474ページ)

 「自分を捨てたとき」は「無我」になったとき、と読むことができるだろうか。「我」にまみれていない純粋な状態。絶対的純粋。魂しいは、「無我」のことかもしれない。無我になると、言葉に出会うことができるのだ。「無我=無自覚」だから、あるいは「無意識」だから、そのとき何が起きたのか、ことばに再現することはできない。ただ、何かが「ぼくの心の奥を掠めた」と感じる。それは光か、影か。両方だろう。光にも感じるし、影にも感じる。「何かが起きている」。それを既成の言葉では正確には言い表すことができない。
 ふたたび、前に引用した詩。

  どこまで行つても一つの言葉にたどりつけない
  言葉は人間からはなれたがる

  氷のような
  こうもりの翼のような言葉は
  魂しいにさしかけている嘘の傘ではないか  (嘘の傘 476ページ)

 絶対純粋としての言葉。それにはたどりつけない。この詩では、鳥ではなく「こうもり」が出てくる。こうもりにも翼はあるが、鳥ではない。嘘の鳥。おなじように、嘘の言葉がある。言葉に見えるが、言葉ではないものがある。それは魂しいにとっては、ほんとうのことばではない。嘘の言葉である。それを見分ける必要がある、と嵯峨は言いたいのだろう。

  それでも何かがある
  未知の 既知の それ以外の何かが在るところに
  言葉ではあらわせないところ
  想いもとどかぬところ  (そこへ連れていつてくれ 480ページ)

 「未知の 既知の それ以外の何か」というのはおもしろい表現だ。そんなものがあるのか。矛盾している。しかし、詩は、こういう矛盾でしか言い表すことのできない何かなのだ。未知だけれど知っている。既知だけれど知らない。でも、そこに「魂しい」がある、と言えばいいのだろうか。
 そう考えると、私にも「魂しい」がわかるような気がする。魂ということばは知っている。しかし、その存在は、私には未知のもの。そういうものが、たしかにある。

  --どうでもいい
  彼が吐きすてるようにいつた言葉が
  わたしの全身を水浸しにした  (* 482ページ)

 吐き捨てるように言った「どうでもいい」。その言葉には魂しいがない。魂しいの通過した跡がない。だから「わたしを水浸しにする」。鳥の翼のように飛ぶ言葉と魂しい。その対極にある言葉だと言える。

  ぼくから言葉が生まれないのは
  去つていく遠い地が失われているからだ  (対話 486ページ)

 これもまた先に引用した詩。言葉が生まれないのは魂しいが存在しないから。魂しいがあれば言葉は生まれる。そう仮定すると「去つていく遠い地」が魂しいである
 詩はつづいていた。

  遠い地つて何処よ
  近いところの果ての果て
  --たとえばあなたの傍らよ  (487ページ)

 「近いところの果ての果て」。この矛盾の形でしか言えない場所。近いけれど、遠い。遠いといわずに「果て」と言っているのはなぜか。「地続き」だからである。自分とつながっているところ。逆に「遠いけれど近いところ」というものもあるかもしれない。
 たとえば「故郷/ふるさと」。どんなに離れても、心のなかでは「近い」。思い出すと、すぐそばにあある。
 この詩には、このあと別の二行がある

  ぼくに人を愛するという心はもう起こらない
  もはや ぼくはさびしささえ失つたのだから  (487ページ)

 この二行は保留にしておいて、次回は、「遠い場所/故郷」に通じることばと魂しいがどう関係しているかを見てみることにする。

 

 

 


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星野元一『村、があった』

2021-07-19 10:10:15 | 詩集

星野元一『村、があった』(蝸牛舎、2021年07月01日発行)

 星野元一『村、があった』はタイトル通りの詩集である。かつて村があった。村と呼ばれる場があった。しかし、いまは失われてしまった。
 村、とはどんな場だったか。
 どの詩を引用しようか迷うが、巻頭の「フキノトウ」。

  重たい雪の
  布団をおしあげ
  フキノトウが顔をだしている

 私も雪国育ちなので、この風景にはなじみがある。いまは九州に住んでいるので、こういうフキノトウは見たことがないが、子供のときに見たフキノトウはこういう姿である。

  フキノトウは
  オタマジャクシだ
  楽譜の
    オヒサマガヤッテクルゾォー
  ピッコロのような声をはりあげ
  ツクシやスミレたちの目や鼻をひっぱり
  スズメノテッポウや
  キツネノボタンたちの顎や脇の下をくすぐり
  春の便りを
  村のポストに入れにいった

 「フキノトウは/オタマジャクシだ」に、私は驚いた。そんなふうに思ったことは一度もないからだ。このオタマジャクシが「楽譜」にかわるのも新鮮だ。星野は音を聞いていたのだ。春の歓喜の声を。
 この声は、次の連で、またまたびっくりするような変化をみせる。

  フキノトウは
  チンチンだ
  朝の
  障子をやぶり
  玄関をとび出し
    ドコニイルー
  イヌフグリやネツケバナたちをばら蒔き
  鯉のぼりたちをはらませ
  山羊や牛たちのおっぱいをふくらませ
  町の方に産婆さんを呼びにいった

 いいなあ。チンチンか。そうなのだ、村では、何もかもが許されている。「太陽の季節」なんて、貧弱の極み。イヌフグリ、ネツケバナ。その、声。肉声。はらませる。おっぱい。すべてが自然の輝きに満ちる。その輝きは太陽の反射ではなく、生きているいのちが発する光。
 村では、みんな生きている。

  フキノトウは
  ロケットだ
    ハッシャー
  おしっこをとばし
  冠や首飾りのレンゲソウの海をわたり
  学校や役場や山をとびこえ
  口を開けた女の子たちや
  腰の曲がったばあちゃんたちの笑顔をのせ
  道端の田んぼのあたりで墜落してしまった

 村に「倫理」とか「道徳」というものがあったとすれば、それは肉体自身が持っている規律である。他人なんか関係ない。そして、肉体ができることというのは、みんな同じ。だから区別も差別もない。
 最初のオタマジャクシは「楽譜」だけれど、もちろんオタマジャクシは楽譜だけではない。チンチンはみんなオタマジャクシを持っている。二連目にはスズメノテッポウなんていう草も出てくる。ハッシャはハッポウ。ことばはあっちこっちで呼応している。
 しかし、こんな説明なんか、いらないね。
 それが「村」という場、「村」という時間だ。

 

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エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」

2021-07-18 17:02:47 | 映画

エリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」(★★★★★)(2021年07月17日、キノシネマ天神、スクリーン1)

監督 エリザ・ヒットマン 出演 シドニー・フラニガン、タリア・ライダー

 「17歳の瞳に映る世界」とは、何とも奇妙なタイトルである。まるで見ることを拒んでいる。特に私のような高齢の男が、わざわざ17歳の少女に世界がふうに見えるかということは、頭では関心があっても、肉体として関心がない。そんなもの見ても何も感じないだろうなあ、と思ってしまう。しかし、「予告編」の映像が不思議に気になって仕方がなかった。あ、この映像は珍しい、見たことがないという印象があるわけではないのだが、気にかかるのである。
 主人公は、当たり前だが17歳。妊娠している。これも、まあ、あり得ることである。母親も父親も気づかない。友人が気づく。少女はだれに相談するでもなく堕胎を決意する。少女が住むペンシルベニアでは両親の同意が必要。少女は両親には知られたくないので、ニューヨークへ行って堕胎しようとする。その旅行(?)に、やはり17歳(?)のいとこがつきあう。
 このときの車窓の風景が奇妙。なんのおもしろみもない。「近景」があるだけなのだ。ロードムービーの感じがしない。それもそのはずである。ペンシルバニアとニューヨークは遠くない。同じバスに乗る青年が何も持たずに乗る距離である。少女たちは重いバッグを持っているが(このバッグのせいで、長い旅を思ってしまうが)、本来なら必要ない。「近い」からこそ、ニューヨークで堕胎しようと思ったのである。途中でバスを乗り換えるシーンがあるが、連れの少女が「なぜ、乗り換え?」と聞くくらいの近さなのである。手術しても、せいぜい一泊、ことによれば日帰りができると思っていたのである。
 で、ニューヨークなのだが。
 「近い」けれど、やっぱり「遠い」。人の密度がペンシルベニアとはまったく違う。密度が違うと、人に対する「関心度」がまったく違う。簡単に言えば、少女に対して「ビッチ」などとはだれひとり言わない。この映画では、たまたまバスに乗り合わせた青年が主人公ではなく、いとこの方に関心を持って近づいてくるが、ほかにはだれも近づいてこない。自分から近づいていかないと、「親密」が生まれない世界である。「自分を知っているものは誰一人いない」。この冷たい感じが、街の映像そのものとなって動いている。もともと堕胎が目的だから、少女たちも「観光客」のように視線を動かさない。少女たちも街に近づくわけではないのだが。
 この不思議な映像には、私は、かなり困惑した。予告編で感じたのは、この印象である。この「疎外感」いっぱいの街を、「堕胎」をしてくれる医院(施設?)を探して歩く。つまり「近づく」ということを少女が必要に迫られて行動する。ここからが、すごい。映画がまったく別の生き物のように動き始める。
 たどりついた施設は、「近づいてくる」少女を施設は拒まない。言いなおすと、「堕胎はよくない」というような説教をしない。そういう領域へは「近づいていかない」。近づいてきた部分だけを受け入れ、そこで何ができるかを探し出す。最初の施設は妊娠期間が18週間なので、ここではできない、と別の施設を紹介する。
 次の施設では、手術前の処置に一日、手術に一日と二日かかると言われる。そして、その、「決意」を再確認するとき、少女に、突然「近づいてくる」ものがある。担当の相談員が、少女に質問をする。初体験はいつだったか。いままで何人とセックスしたか。どんなセックスをしたか。避妊をこころがけていたか。少女は、四択の答えのなかのひとつを選んで応えていくわけだが、だんだん答えられなくなる。セックスを強要されたことはあるか。暴力を振るわれたことはあるか。そういうとき、拒否したことはあるか。「Never Rarely Sometimes Always 」(一度もない、めったにない、時々、いつも)。答えられないのは、「一度もない」と断言できないからである。つまり、彼女の妊娠は、望んでいたものではない、ことを思い出してしまうのだ。もちろん、だからこそ堕胎にやってきたのだが、その堕胎の直前で、自分は自分のためにだけセックスをしてきたのではないという事実を再確認するのである。セックスをさせられたことがある、それを受け入れたことがあるという事実を再確認するのである。質問に答えようとして、答えられないことを知る。少女は、突然、自分自身に「近づいていく」ことを強いられる。それは「近づきたくない自分」である。
 このシーンには、釘付けになってしまう。少女が答えられなくなってからのシーンは、たぶん二、三分だと思うが、まるで何時間にも思える。
 そして、あ、これだったんだ、とおも思う。「近づきたくない自分に近づく旅」。近づきたくない自分を目の前に抱えながら、ニューヨークを歩く。そのとき、世界はたしかにこんなふうに見えるのかもしれない。冷たい無関心。それはニューヨークの人々の視線が生み出すのではなく、少女自身の「近づきたくないものがある」ことが生み出している部分の方が大きいのだ。
 手術を終えて、少女は帰っていく。その途中、トンネルのなかか何かで、スクリーンが暗くなって、終わる。少女は、いままで生活してきた「家」へ近づいていくしかないのである。そこで見出す自分はどんなものなのか。近づいてみないとわからない。

 これは、大変な傑作である。この作品に比べると、先週★5個をつけた「ライトハウス」は、まあ、映画でなくてもいい作品、いわば「文芸」である。見る順序が逆だったら、「ライトハウス」は★2個かもしれない。タイトルに騙されずに、見てください。なお、原題は、クライマックスシーンで繰り返される「Never Rarely Sometimes Always 」。
 

 


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