詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇242)Obra, Joaquín Lloréns

2022-11-20 22:22:01 | estoy loco por espana

Estoy loco por espana(番外篇242)Obra, Joaquín Lloréns
2022年11月20日(日曜日)

Obra, Joaquín Lloréns
T.Hierro 1.17x60x42 S.M.N


 Lo que siempre siento, cuando veo el trabajo de Joaquín, es el poder de sus manos. Como la obra es de hierro, no sería posible crear la forma sólo con la fuerza de las manos. Sin embargo, creo que los sutiles toques finales se ajustan con la fuerza de la mano. Siento la paciencia y la tenacidad de sus manos. 
 Me imagino que Joaquín dice al hirro: "Hemos vivido juntos muchos tiempos, puedes inclinarte un poco más". El hierro puede contestarle: "Pero esta curva es más bonita". 
 Me siento como si Joaquín estuviera dialogando con el hierro, creando la obra en colaboración con él. Siento su cálido intercambio.
 Me pregunto cómo se procesará la superficie de la obra después. ¿Se quedará como está? ¿Será de color? Me encantan las obras de hierro oxidado de Joaquín. Creo que este trabajo será aún más cálido cuando se oxide.

 Joaquinの作品を見て感じるのは、いつも手の力である。鉄の作品だから、手の力だけで形をつくることはできないだろう。しかし、微妙な最後の仕上げは手の力で調整しているように感じる。手の根気と、粘り強さを感じる。「これまでいっしょに生きてきたじゃないか、もう少し丸く曲がってくれよ」と言いながらつくっているところを想像してしまう。鉄は鉄で「でも、このカーブの方が美しいよ」と言っているかもしれない。鉄と対話しながら、鉄と共同で作品を作り上げている感じがする。温かい交流を感じる。
 このあと作品の表面はどう加工されるのだろう。このまま、だろうか。色が塗られるのだろうか。私は Joaquinの錆びた鉄の作品が大好きだ。この作品も錆びた姿になると、さらに温かみが増すと思う。

 

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三木清「人生論ノート」から「噂について」

2022-11-20 20:50:50 | 詩集

 

  「噂について」には、非常に難しい部分がある。

 噂は評判として一つの批評であるといふが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従つて本来なんら批評でなく、きわめて不安定で不確定である。(285ページ)

 ここでは、「評判」と「批評」が対比されている。三木清は「評判」には「基準」がなく、「批評」には「基準」があるといいたいのだが、「その批評には如何なる基準もなく」と書いている。そのため、イタリア人青年は「批評には基準がない」と書いているため、よくわからない、というのである。これは「批評」という強いことば(名詞)にひっぱられて、その直前の「その」を見落としているためである。
 三木清は「噂は評判として一つの批評である」と定義するところからはじめている。「評判=批評」。そして、その定義を受けて「その批評」と書いている。したがって「その批評」とは「評判」のことである。これが最初の「難関」といえる。
 私が感心したのは、この「つまずかなければならないところ」で、きちんとつまずき、そこがわからないといえる読解力である。日本の高校生といっしょに三木清を読んでいたと仮定して、この部分で、「ここがわからない」と質問する高校生が何人いるだろうか。イタリアの青年はネイティブではない。日本語の学習者である。しかも、2年も学習しているわけではない。

 噂はあらゆる情念から出てくる(略)ものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。--熱情をもつて語られた噂は噂としては受け取られないであらう。--そこにはいはば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行はれる。(286ページ)

 この部分は、その後の「歴史」の問題(歴史と神話の違い)へとつながっていくのだが、「情念の観念化作用」を把握するのが難しい。「情念」はあくまで「個人的」で基準を持たないのに対し、「観念」は何らかの共有できる「基準」のようなもの、理性を持っている。
 だからこそ、この部分は、こう言い直される。

 噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この不動的なものに我々が次から次へと移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化していく結果になる。(286ページ)

 「情念や合理化による加工」という表現に注目すれば「情念」と「観念化作用」が対比されていたように、ここでは「情念」と「合理化による加工」が対比されていることがわかる。つまり「観念化作用」とは「合理化による加工」のことである。そこには「合理化」という基準があり、それゆえに共有される。前の文章にあった「神話への転化」は「神話化」という短縮形で言い直されている。
 どのことばが、どう言い直されているか。これを、「誘い水」を向けると、ちゃんと答えることができる。その結果として、文意を把握できる。
 最後の方に、こういう文章がある。

 噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異る歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。(288ページ)

 この部分だけ読んだのでは、誰にも意味がわからない。「物理的確率」と「歴史的確率」の違いを説明できるひとはいないだろう。しかし、「基準」ということばを参照し、ことばを補うと、きちんと説明ができる。
 ここでは詳しく書かないが、イタリアの青年(18歳)には、それができる。
 いっしょに三木清を読んでいて、とても楽しい。何よりも、三木清の文章が大好きといってくれるのが、とても嬉しい。

 私は三木清が大好きだが、だれか、三木清の文章が好きなひといます? 三木清読書会のようなものを始めたいと思っているのだけれど。

 

 

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小松正二郎『聲』

2022-11-20 17:16:01 | 詩集

 

小松正二郎『聲』(モノクローム・プロジェクト、2022年10月20日発行)

 小松正二郎『聲』は強い声に満ちている。詩集のタイトルになった「聲」の書き出し。
「聲がする。あなたの弟の血が大地からわたしに叫んでいる。」

この一日に終わりは来ないだろう
陽は垂直に上昇し再び帰らないだろう
明け染める紅は東天の栄光を返上するだろう
日も月も年も円環の巡りを放棄するだろう

 これは「現実」の描写ではない。では、何を描写しているのか。「だろう」ということばに注目すれば「未来」である。つまり、これは「予言」である。「予言」なのだが、「だろう」が「予言」を隠している。現代において「予言」は効力を失っていて、どうしてれ「推測」に終わってしまう。それを再び「予言」にするには、ことばに強い響きが必要である。たとえば「陽は垂直に上昇し再び帰らない」。このことばが象徴的だが、これは私たちの知っている「日常(現実)」の法則を超えている。だからこそ、「予言」でもあるのだ。
 すべての行から「だろう」を取り去って

この一日に終わりは来ない
陽は垂直に上昇し再び帰らない
明け染める紅は東天の栄光を返上する
日も月も年も円環の巡りを放棄する

 でもいいのだが、それでは「空想」になる。だから「だろう」を小松は補っている。ということは、それにつづくことば「だろう」を補って読むと、小松の書いていることが明確になる。
 「だろう」を補って引用してみる。

もう肩車もできないだろう
ぼくは
こどもたちが怖がらないように
そっと後ろから近づくだろう

 「だろう」がない原文よりも「リアリティ」が強くなることがわかる。
 「予言」は「言う」ということであり、「言う」とは「ことばを存在させる」ということである。「ことば」が「できごと」を「事実」そのものに高めていく。
 「天使論」の書き出し。

基督教グノーシスの一派はエデンの蛇にイエスを視たと言う。

 この「言う」は「証言」である。「証言」であることによって、「予言」になる。ことばの強さが「時間を超える」のである。
 あらゆる動詞の最後に「だろう」「と言う」を補って読むと、小松の詩はわかりやすくなる。ここに書かれているのは、事実の報告ではなく、「事実」をことばによって「真実」に変えるという行為、あるいは「真実」を「事実」にひきもどすという行為である。
 そして、そこには「事実」や「真実」があるのではなく、「事実」「真実」を語る人間が存在するということがある。「予言」が「予言者」を必要とするように、この詩集のことばは、小松という詩人を必要とした。そういう詩集である。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇241)Obra, Joaquín Lloréns

2022-11-19 20:26:22 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Lloréns
Técnica hierro 88x18x18 Privada


 El trabajo de Joaquín es a veces muy rústico y sencillo. Esta pieza está formada por seis tablas de la misma forma unidas. Las seis tablas tienen extremos redondeados en los lados cortos de una forma trapezoidal. Sus lados cortos están orientados en diferentes direcciones, mientras que los lados largos están orientados hacia el centro. Apuntan alto, al tiempo que unifican sus intenciones. Me recuerdo a la fiesta española de Los castells. Una torre humana creada por hombres y mujeres de todas las edades. Sólo una o dos personas se encuentran en la cima, pero los corazones de todos están subiendo hacia la cima. Cuando la torre (o el castillo) está terminada, la gente corriente se felicita. Los sentimientos de todos se convierten en uno. Me puedo escuchar el sonido de la alegría en ese momento.


 Joaquinの作品は、ときどき、とても素朴でシンプルである。この作品は、同じ形の6 枚の板が組み合わされている。台形の短い辺の両端が丸い6枚。その短い辺は、それぞれの方向を向いているが、長辺は中心を向いている。意思を統一しながら、高さを目指している。それはスペインのお祭り、Los castellsを思い起こさせる。老若男女がつくりだす人間の塔。てっぺんにたつ人は、一人か二人だが、みんなの気持ちが頂点を目指してのぼっていく。塔(あるいは城か)が完成したとき、普通のひとが、普通のひとを祝福する。みんなの気持ちが一つになる。そのときの、喜びの声が聞こえてくる。

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五月女素夫『五月女素夫 詩選集』

2022-11-19 14:44:30 | 詩集

五月女素夫『五月女素夫 詩選集』(空とぶキリン社、2022年11月15日発行)

 五月女素夫。「詩学」に投稿していたのか、「現代詩手帖」に投稿していたのか、はっきりとは記憶していないが、どちらかの「投稿欄」にいっしょに投稿していた時代がある。その『詩選集』。
 巻頭に「恋」という詩。最初の詩集でも巻頭にあったのかどうか、憶えていない。しかし、この詩は五月女の詩のひとつの特徴をあらわしていると思う。

日本間の部屋の鏡台には
海がうつっている
廊下の ぼおっとくらい すみのほうで
こまかな鼠花火のひのこが舞う
それは狂躁の子供の わすれられた噴水だ
わたしの眸はどこもみていない はるかに
わたしの眸は なにもみない
花のない紫陽花の陰で 雷鳴がなっている
ゆうぐれの海をあがってくると
おまえから わたしの異国がはじまる

 「わたしの眸はどこもみていない はるかに/わたしの眸は なにもみない」という二行が非常に印象に残るが、ほんとうに「みていない」「みない」のか。
 たしかに、「海」を見ていない。見ているのは「鏡」のなかの海である。つまり、鏡は見るが、海は見ない。「鼠花火」は見たかと思ったら、「わすれられた噴水」によってかき消され、比喩の背後に消えていく。「見る」ことを拒んでいると言える。
 しかし、「花のない紫陽花」ということばに注目すれば、五月女が見ているのは「ない」としかいかない何かだとわかる。「ない」を見るのが五月女のことばの運動なのだ。それは、詩の最終行にもあらわれる。

おまえから わたしの異国がはじまる

 「異国」は、ここには「ない」。ここでは「ない」。だから「異国」なのだ。「ない」ものを存在させる、ことばによって出現させるのが詩である、ということか。
 逆に言えば、「見えない」ものを「見る」のが五月女のことばの動きである。
 「海沿いのみち」。

海沿いの 崖のうえへでるみちには
活きた海老をいれる水槽のある漁師組合と
ふるびた氷小屋
バラック建ての珈琲店がたっている
その夏の晩は
あらしふくみの晩で
あやういゆめにみちていた
人が、人をひめて 死地へ赴くようにも
すれちがうひとたちが 今宵
どうしておとなしいなみだを誘うのだろう
海は
あめまじりの天気だ
堤防に腰おろしていた娘がはなしかける
宿の二階 欄干のある窓から歓声があがる
対岸の妻良の港に 花火がうちあげられたのだ

 この作品で、いちばん「見えない」ものは「人が、人をひめて」ということばの、「ひめられた人」だろう。それは、姿か、こころか。肉眼では見えないものを、五月女は見るのである。
 だから引用した最後の行の「対岸の妻良の港に 花火がうちあげられた」の「花火」も、実は、堤防にいる五月女からは見えない。何かが邪魔している。しかし、宿の二階からは見える。その「歓声」が聞こえる。きっと花火を打ち上げるときの「音」も聞こえただろう。しかし、花火そのものは見えない。見えないの「ない」を意識するものだけが、「人が、人をひめて」いる、人のなかに、ひめられた人が「ある」をつかみとることができる。
 「ない」の反対の「ある」は、こんなふうにつかわれている。「道」という作品。

さびしい気持で見たゆめ
道というのは そんなふうにして
ある

 この「ある」は、ほんとうに「道」なのか。「さびしい気持」のように、私は感じてしまう。「気持」だから、それはあくまで五月女のこころのなかに「ある」。つまり、現実にはない。

雨がふり 午さがりの水銀灯がともろうとする
憶いの淵のようなところ
樹木は
雨にぬれて立っている

(略)

幾十年かまえの梅雨のころ
しろいうすいグレーのひとと ひかる雨のしたを
いちど 歩いた

ずいぶんと歩いてくれたこと--

これを話してしまったら
わたしには あとは話すことはなにもない
ちいさな雑木林に挟まれて 道はあった
肩にかかるこまかな葉は 息も止まりそうにしたたっていたろう
雨がふっている
家並みも変わり 樹木はもうないが
道は
その時間からずっとつづいて
ここへ 来ている

 最終連で「ない」と「ある」が交錯する。「ある」は「あった」にかわり、「ない」になる。そしてこの「ない」は「ここへ 来ている」という別の動詞、「来る」になってなまなましく動く。
 「ない」は「ある」。「ない」と「ある」をつなぐ動詞が「来る」なのだ。そのとき「ここ」とは「気持/憶い」である。私のことばで言い直せば「こころ」に「ここにない」ものが「来る」。そして、それが「ある」なる。「こころ」のなかに何かが「ある」とき、それは「こころ」へ「やって来た」なのだ。いつでも、何かがやって「来る」。それをことばにするとき、そこに詩が生まれる。

 

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇240)Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes

2022-11-19 09:22:02 | estoy loco por espana

Obra, Jose Manuel Belmonte Cortes
"Abrir los ojos duele, pero en el Arte ese dolor es muy necesario".

 En mis palabras, el deseo de escribir chocó rápidamente con el deseo de que no debía escribir.
 Tal vez sea una obra sobre la que no debería escribir mis pensamientos. Por eso debo escribirlo.

 Lo primero que me sorprendió fue ver el pájaro completamente suspendido en el aire. No está en el mismo plano que la mujer que mira de reojo. Está justo delante del ojo derecho de la mujer. Y está completamente suspendido en el aire. La "tridimensionalidad" vacía del espacio se expresa de forma perfecta. Aquí hay un "objeto tridimensional llamado espacio".
 Aunque se trata de una obra de relieve semidimensional, aquí se expresa el espacio como un objeto tridimensional completo.
 Lo diré de otra manera.
 Resulta que estoy mirando a la mujer desde un lado. Así que no puedo ver la mitad del espacio tridimensional. Si cambio de posición, puedo ver un espacio "tridimensional" diferente desde la parte delantera de la mujer. Este "espacio como objeto tridimensional" por el que me puedo mover se reproduce aquí. El espacio vacío, el espacio invisible, no sólo es visible, sino que se transmite a todo el cuerpo. Esto no es algo ordinario.

 Sin embargo, atraído por el realismo de este "espacio", es el mundo de la alegoría en el que me adentro.
 El pájaro flota en el aire no sólo porque hay espacio en él. No es sólo el aire lo que sostiene al pájaro. No es sólo la flotabilidad causada por el batir de sus alas. El pico del pájaro. Empuja los párpados de la mujer para que se abran. También parece que atraviesa los globos oculares. El pico como punto de contacto entre la mujer y el pájaro mantiene al pájaro en el aire. Si el pico del pájaro no hubiera tocado a la mujer, el pájaro podría caer.

 ¿Qué está mirando la mujer en este momento? ¿Es el interior de la boca del pájaro? ¿O es el mundo más allá del pájaro? ¿Sintió la mujer miedo cuando se le abrieron los párpados? ¿No sintió que le iban a comer los ojos? ¿Qué le pide el pájaro a la mujer que vea? ¿Qué está tratando de mostrarle?
 No lo puedo saber.
 No lo sé, pero es algo que hay que ver. Y ver es perder los ojos, por ejemplo. Ver algo nuevo es perder el mundo que solías ver. En el momento en que ves algo nuevo, significa que el pájaro te ha sacado los ojos.
 La maravilla es.
 Los ojos de la mujer son sinceros. Son puros. Acepta el mundo tal y como es y lo que sucederá en el futuro, sin pensar. La suave curva que va del cuello a los hombros y de los hombros a la espalda me indica que su cuerpo no está tenso.
 ¿Puedo ver el mundo como ella?

  私のことばのなかで、早く書きたいという気持ちと、書いてはいけないという気持ちがぶつかり合った。
 感想を書いてはいけない作品なのかもしれない。書いてはいけないからこそ、書かなければならない。
 Belmonteは、こう書いている。"Abrir los ojos duele, pero en el Arte ese dolor es muy necesario"もう、それ以上言うことはない。
 でも、書きたい。

 私はまず、鳥が完全に宙に浮いていることに驚いた。横を向いた女と同じ平面にはいない。女の右目の正面にいる。そして、完全に宙に浮いている。空間という何もない「立体」が、完璧な形で表現されている。ここには「空間という立体」がある。
 レリーフという半立体の作品なのに、完全な立体としての空間がここに表現されている。
 言い方を変える。
 私は偶然、女を真横から見ている。だから立体の半分は見えない。もし私が位置を変えれば、女の正面から見れば違った「立体」が見える。そういう、私が移動可能な「立体としての空間」がここには再現されている。女と鳥よりも、その何もない空間、見えない空間が見えるだけではなく、肉体全体につたわってくる。これは、ただごとではない。

 この「空間」のリアリズムにひきずられて、しかし、私が踏み込むのは寓意の世界である。
 鳥が宙に浮いているのは、そこに空間があるからだけではない。鳥を支えているのは、空気だけではない。羽ばたきが引き起こす浮力だけではない。鳥の嘴。それは女の瞼を押し開いている。眼球に突き刺さっているようにも見える。女と鳥の接点としての嘴が鳥を宙に浮かせている。もし鳥の嘴が女に触れていなければ、鳥は落下するかもしれない。
 このとき女は何を見ているだろうか。鳥の口の中だろうか。それとも、鳥の向こう側にある世界だろうか。瞼を押し開かれたとき、女は恐怖を感じただろうか。眼球が食べられてしまうと感じなかっただろうか。鳥は、女に何を見ろと訴えているのか。何を見せようとしているか。
 わからない。
 わからないが、それは見なければならないものである。そして、その見るということは、たとえば自分の目を失うことでもある。新しい何かを見ることは、今まで見ていた世界を失うことだ。新しい何かが見えた瞬間、それは鳥に、目をえぐり取られたということになるのです。
 不思議なのは。
 女の目が、真摯であること。純粋であること。無心に、いまある世界、これからおきることを受け入れている。首から肩、肩から背中に書けてのなだらかなカーブは、女の肉体が緊張していないことを教えてくれる。
 私は、彼女のように、世界を見ることができるだろうか。

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斎藤茂吉『万葉秀歌』(15)

2022-11-18 21:52:22 | 斎藤茂吉・万葉秀歌

斎藤茂吉『万葉秀歌』(15)(岩波書店、1980年、06月25日、第58刷発行)

零る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに          穂積皇子

 読み方も、歌の意味もいろいろあるらしい。そういうことを無視して、私の感想を書けば、「零る雪はあはにな降りそ」までは、なめらかに発音できる。ところが「吉隠の猪養の岡の塞なさまくに」が非常に難しい。「よなばりの・ゐがひのをかの・せきなさまくに」は知らない国のことばのように響く。「の」の繰り返しがリズムをつくるのだが、私の耳には定着しない。万葉のひとは、きっと私の発音する「音」とは違う音で発音していたのだろうと思う。
 私は、富山の生まれなので「ゆき」のアクセント(高い部分)は「ゆ」にある。そうすると「き」は、多くの人が発音する「き」の音よりはるかに弱い。「い」の量が半分以下かもしれない。その「き」が「せき」の「き」に重なる感じで、「せき」も「せ」にアクセントを置いて読んでしまうことも関係するかもしれない。
 そして、その違いを感じながら(感じるからか)、昔のひとは強い声を持っていたなあと思うのである。とくに「せきなさまくに」の「な」「ま」「に」の音に拮抗する強さで読んだんだろうなあと感じ、それを実際に聞いてみたい気持ちになる。

楽浪の志我津の子らが罷道の川瀬の道をみればさぶしも          柿本人麿

鴨山の磐根し纏ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ         柿本人麿

 こういう悲しい歌も、なぜか、消えていく音ではなく、前に出てくる音だなあと感じる。引いていく音というか「弱音」がない。なんというか、こういう音を聞くと、返事をしないといけない気持ちになる。「聞こえなかった」と言えない「声」なのである。一生懸命の声と言えばいいのか。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇238)Obra, Paco Casal y Jesus Coyto Pablo

2022-11-18 09:58:56 | estoy loco por espana

Paco Casal
"La luz roja del espigón" 41 x 80

 El cuadro de Paco. ¿Justo después de que pasara la tormenta? Una luz brilló a través de una brecha en las nubes. Una luz roja que llega a lo más lejos. Primero ilumina el espigón.

 

Jesus Coyto Pablo
"Días de tiempo gris" serie pictografias Año 2010 100 x100 cm


 El cuadro de Jesús. La lluvia fría ha comenzado a caer. Todavía hay algo de brillo en el cielo, pero se oscurecerá. Destaca un paraguas rojo. Tiene un brillo que de alguna manera es ligero, pero me embarga un desasosiego ineludible. 

*

 Miro el "rojo" de los dos pintores.
 El rojo de Paco se extiende desde la estructura detrás del espigón hasta los alrededores. El color se crea cuando la luz incide sobre un objeto y se difunde. Este rojo se extiende muy lentamente. Al extenderse, tiñe el entorno. Y en el proceso de propagación, me da la sensación de que el rojo cambiará a otro color.

 El extraño azul verdoso de la parte izquierda del cuadro parece ser los restos de un mar destrozado por una tormenta (quizás el mar era un individuo, no un líquido). La luz roja acabará extendiéndose allí también. ¿A qué color cambiará entonces el azul-verde? al mezclarse el rojo y elazul-verde (azul + amarillo) de la pintura se vuelven negro , pero el rojo,azul y verde de la luz se vuelven blanco. El blanco está salpicado por todo el cuadro, lo que también lo alegra.

 El rojo de Jesús no se extiende como el de Paco. Más bien, el rojo parece ser una cristalización del rojo que existe en el mundo en forma de paraguas. También es un color que sólo existe en este momento. Es el último rojo. Una vez que la pareja sale del cuadro, no hay más rojo. La absorbe el paraguas negro que camina detrás de ellos, sus ropas negras y el negro del interior del edificio. (El rojo del paraguas es algo parecido al color bermellón japonés que se produce al mezclar laca negra con la roja, aunque sería extraño decir que es una prueba de ello.)

 El primer rojo que no tiene una forma clara, el último rojo atrapado en una forma. Es extraño.

 Pacoの絵。嵐が通りすぎた直後か。雲の切れ間から光が差してきた。もっとも遠くまでとどく赤い光。それが最初に防波堤を照らす。

 Jesus の絵。冷たい雨が降り始めた。空には明るさが残っているが、これから暗くなるだろう。赤い傘が目立つ。どこか光を感じさせる明るさを持っているが、私はいいようのない不安にとらわれる。  


 二人の画家の「赤」をみつめた。
 Pacoの赤は、防波堤の奥(?)にある構造物から周辺へ広がっていく。色は、光が対象にぶつかり、拡散していくときに生まれる。それは、つまり光の反射と言い直すことができると思うが、この赤は非常にゆっくり広がっていく。あまりにゆっくりなので、反射というよりも滲み出すという感じ。滲み出しながら、周辺を染めてゆく。そして、その広がっていく過程で、赤から別の色に変わっていくことを予感させる。
 絵の左側の不思議な青緑は、まるで嵐で叩き壊された海の瓦礫(海が液体ではなく、個体だったのかもしれない)のようにも見えてしまう。赤い光はやがてそこにも広がるだろう。そのとき青緑は、どんな色に変化するのか。絵の具の赤・青緑(青+黄色)は混ぜると黒になるが、光の赤・青・緑は白になる。その白が、絵のなかで点在しているのも、この絵を明るくしている。

 Jesus の赤は、Pacoの赤のように広がっていくことはない。むしろ、その赤は、世界に存在する赤を傘の形に結晶させたもののように思える。それも、この瞬間にだけ存在する色だ。最後の赤なのだ。二人が絵の外へ出てしまえば、赤はなくなる。後ろから歩いてくる黒い傘、黒い服、建物の内部にある黒にのみこまれてしまう。それが証拠に、というと変だが、この傘の赤は赤い漆に黒い漆を混ぜていくときにできる日本の朱色にどこか通じる。

 明確な形を持たない最初の赤、形に閉じ込められた最後の赤。不思議だ。




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萩野なつみ「夏風琴」、江夏名枝「澱と微風」

2022-11-17 18:33:24 | 詩(雑誌・同人誌)

萩野なつみ「夏風琴」、江夏名枝「澱と微風」(「ガーネット」98、2022年11月発行)

 詩を読んでいて、このことばは書いたひとは必要としていたんだろうなあ、ここに詩があると思って書いているだろうなあ、と感じてしまうのは、実は、私はそのことばがない方が詩だろうなあ、と思っているということである。
 ちょっと意地の悪い紹介の仕方をする。
 萩野なつみ「夏風琴」の一連目。

汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば僅かにゆがんで
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す

 ある一行にあった「形容動詞」を削除してみた。何か足りないだろうか。たぶん、萩野以外は「足りない」と感じないと思う。
 この一連目では、私は「僅かに」ということばにもつまずき、「僅かにゆがんで」でさらにつまずいたのだが。つまり、

汗ばむグラスが
テーブルに落とす虹
触れれば
誰もいない窓辺から
あなたの
指が流れ出す

 の方が詩になるなあ、と感じている。ことばが多い。萩野の作品に対する評価は、たぶん「触れれば僅かにゆがんで」という行の「僅かにゆがんで」という繊細な感覚、それをことばに定着させる力に対するものだと思う。そう理解した上でいうのだが、私は、そうした「繊細な感覚(あるいは修辞)」のあり方を、とても「古い」と感じてしまう。この「古い」というのは「定型」ということである。
 この「定型」というのは、とても難しくて……。
 萩野の年齢を私は知らないのだが、たぶん、萩野にとっては「古い定型」ではないのだ。私のような年齢には「古い定型」であるけれど。言い直すと、私が詩を書き始めたころ、萩野のつかっている「繊細さをあらわす修辞」というのはたくさん「共有」されていた。確立されていて、だれもが安心してつかっていた。そのことばを書けば「詩」になる、という感じ。それが「世代交代」でいったん失われた。その失われた「定型」を萩野は復活させたのかどうか、そのあたりの評価の感じは人によって違うだろうが、私は「復活させた」とも感じない。「古いまま」だから。「復活させる」ときは、何らかの「改良」が必要だと思うが、「改良」を感じることができないのである。
 「僅かにゆがんで」に、何か、新しいものがあるだろうか。「僅かに」という漢字のつかい方なんか、私は「明治」を感じてしまう。私の知っている「定型」よりもさらに古い、と。明治の詩を読んだことはないが。
 最初の引用には、最初に書いたように、さらにもうひとつ「形容動詞」があった。どこに、どんな形容動詞があったと思いますか? 想像できますか? 「僅かにゆがんで」は、まだ、つまずいただけだったが、その「形容動詞」には、私はちょっと我慢できないものを感じた。それで、省略したのだが。

 江夏名枝「澱と微風」は、とてもおもしろい詩だとおもった。でも、ある一行が、その詩を壊していると感じた。だから、その一行を省略して引用する。

それが、なにものでもなかったから
わたしは信じる
紫に痩せた蔓のようなもの、
着床する顔のない球根のようなもの、
屋根裏への粗末な梯子、
なにものにでもなく、それは
すいかずら、それは昼下がりに匿われる
眼の痛み
葉が染まり衰える光の砂
視覚の痛み、
私が信じられる
そこにはいない、
それが、なにものでもなかったから

 世界には「なにものでもないもの」は存在しないが、そこにあるものを「なにでもないもの」と定義したくなるときがある。それは、つまり「意味」になっていない「もの」そのものである。ここでは、たとえば「すいかずら」の「痩せた蔓」かもしれない。このときの「意味になっていないもの」とは「役に立たないもの」と言い直すことができる。「無意味(役に立たない/意味を生み出さない=はやりのことばでいえば「生産性を持たない)」が、「わたし」という存在に対して、それでは「わたしとは、どういう意味なのか、何の役に立つのか」という問いをつきつけ、「わたし」を解体しようとする。その瞬間に、「わたし」は「わたし」に気づく。その「気づき」を「信じる」ということばの運動だと思って私は読んだ。
 で、そう読むと、どうしても「邪魔」な一行があったのだ。そこには「意味」しかなかった。いや、ちゃんと前半にそのことばの「伏線」があると江夏はいうかもしれない。しかし、その「伏線」は、私には「技巧」にしか感じられない、とてもいやなことばの運動だった。だからこそ、よけいに、その一行を削除したくなったのだ。
 私が一行を削除したため、ことばの運動は、その前後で不安定になっているのだが、この不安定は詩を活性化させているかもしれない。詩は、論理がつかみにくいとき、あれ、これはどういうことかな、とことばを刺戟してくることがある。そのとき、わけのわからないものが動き始める。動き始めたら、それが「詩」なのだと、私は信じている。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇239)Obra, Joaquín Lloréns

2022-11-17 10:18:09 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
Técnica hierro óxido T. Entre dos Marés. (Paco de Lucía homenaje)


 Una palabra tiene un significado distinto al de su propia palabra. Una cosa tiene un significado distinto al propio suyo. Una palabra se definen por otras palabras, y una cosas refuerza su significado por otras cosas.
 El amor se describe con la palabra beso. El amor se describe con los dedos tocando los secretos del cuerpo. El amor se refuerza con una profunda conexión física. Los besos hablan de amor, las caricias hablan de amor, el sexo también habla de amor.
 Es una ola.Una ola tiene otro significado que una onda. Una forma de una onda tiene un significado distinto al de la onda; se define con palabras y formas distintas a la onda. 
 Dos olas que se acercan, se superponen lentamente, suben y bajan, repitiendo lo mismo una y otra vez. Por su danza, su ritmo, se convierte en una gran ola. Tocándose, superponiéndose, el amor se intensifica, y se enfada, preguntándose a otra ola: por qué no te entiendes cuando te quiero tanto. Más, más, más. Ámame hasta que deje de ser yo, estoy aquí, estoy aquí, mi corazón está gritando. Estoy gritando tanto que ahora sólo puedo escuchar mis propios gritos.
 Así es como el amor se consume, se quema y llega a la calma matutina. Al ver el cambio, todos conocen la fuerza del amor de la ola, pero la ola ésta sigue pensando que debe haber un amor real, y empieza a hincharse tranquilamente.

 ことばには、ことば以外の意味がある。ものには、もの以外の意味がある。ことばは、そのことば以外のことばによって定義され、ものは、そのもの以外のものによって意味を強める。愛はキスということばで語られる。愛は体の秘密に触れる指によって説明される。愛は肉体の深いつながりによって強くなる。キスは愛を語り、愛撫する指は愛を語り、セックスもまた愛を語る。それは波。波には、波以外の意味がある。波の形には,波の形以外の意味がある。波とその形は、波以外のことばと形によって定義される。波の形は近づいたふたつの波はおずおずと触れ合い、ゆっくり重なり、高く盛り上がり、くずれ、何度も同じことを繰り返す。そのダンス、そのリズムによって、波になる。触れ合い、重なり合い、愛は激しくなり、こんなに愛しているのになぜわかってくれないのか、と怒り出す。もっと、もっと、もっと。私が私でなくなるまで愛して、私はここにいる、私はここにいると、こころが叫んでいる。もう、自分の叫びしか聞こえないくらいに、私は叫んでいる。そうやって愛は燃え上がり、燃え尽き、静かな朝の凪を迎える。その変化を見ながら、だれもが波の愛の強さを知るのだが、波はまだほんとうの愛があるはずだと思い、静かにうねりだす。

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Estoy loco por espana(番外篇238)Obra, Antonio Pons

2022-11-16 22:56:56 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Pons

 Hay dos tipos de arte: el cómodo y el incómodo.
 Antonio crea básicamente obras "cómodos". Cuando los miro, me atrae su delicadeza. Calman mis mentes.
 Pero este trabajo es diferente. Me inquieta. Las formas onduladas y horizontales que dividen la obra en secciones superiores e inferiores. ¿Qué es? Grandes olas onduladas y un mar en calma. ¿Qué es la inquietante forma bajo el mar? Me imaginé un cuerpo ahogado. Descompuesto y perforado. Llevan mucho tiempo a la deriva. Ha estado vagando por ahí después de morir. Podría ser alguien que se cayó de un barco de refugiados. Nadie vendrá a buscarlo y seguirá a la deriva hasta que su cuerpo se descomponga y desaparezca por completo.
 Pero, ¿dónde estoy entonces?
 La extensión horizontal puede no ser un mar en calma, sino tierra. Estoy de pie en tierra, donde no me ahogo, mirando el mar agitado. Veo a los refugiados atravesar el mar embravecido. Algunos de ellos pueden llegar a tierra sanos y salvos, pero mueren de enfermedad o de hambre. Muchos de ellos están olvidados, como los cadáveres que siguen a la deriva por el mar.

 芸術には、心地よいものと不気味なものがある。
 Antonio は、基本的に「心地よい」作品をつくる。見ていると、その繊細さに引き込まれる。こころが落ち着く。
 しかし、この作品は違う。私を不安にさせる。作品を上下に分断する波形と水平の形。何だろうか。大きくうねる波と、凪いだ海。その波の下の不気味な形は何だろうか。私は水死体を想像した。腐敗し、穴も開いている。長い間、漂流しているのだ。死んだ後もさまよい続けている。それは、難民船から転落してしまったひとかもしれない。だれも探しには来てくれないまま、肉体が腐敗し、完全に消滅するまで、漂流し続けるのである。
 しかし、そのとき私たちはどこにいるのか。
 水平に広がる部分は、凪いだ海ではなく、陸地かもしれない。私たちは、溺れることのない陸に立って、荒れた海を見ている。荒れた海を渡ってくる難民を見ている。彼らのなかには、無事に陸地についても、病気や飢えで死んでいく人もいる。その人たちの多くは海を漂い続ける死体のように、忘れ去られていく。


 Hay otra obra sobre el tema de los refugiados.
 El hecho de que esta obra trate de los refugiados se confirmó cuando visité su estudio de Antonio en junio. Discutimos de los refugiados. Por supuesto, somos totalmente libre de ver la obra al margen de las intenciones del artista. También prefiero ignorar las intenciones del artista y pensar de otra manera.
 Pero en un momento dado, hay una "realidad" que aparece de repente. No sé cuál es esa "realidad". Pero creo que es importante sentir que algo en la "realidad" se está agitando. Pensar en la "realidad". Para evocar algo. Ese es el trabajo del arte.
 El arte no tiene por qué ser cómodo. Me encanta el Guernica de Picasso, pero no lo amo porque sea "cómodo". Al contrario me encanta que es "incómodo". Me gusta porque cuando lo miro, puedo pensar en muchas cosas. Pero este "pensar" es muy difícil. Sé que representa el bombardeo de Guernica. Sé que muchos ciudadanos lo conocen. Pero es "conocimiento", no realización. Es algo que me enseñaron otros. Antes de poder "pensar", el "conocimiento" define mi pensamiento. Es muy difícil pensar con mis propias palabras frente al "Guernica".
 El trabajo de Antonio no tiene todavía una "definición" . Así que es muy libre para sentir y pensar, pero es difícil ponerlo en mis porpios palabras. Hoy he mirado su obra y he pensado en los refugiados. Sólo quiero escribir que me recordó el hecho de que Antonio no sólo hace obras sensibles, sino que también refleja siempre una perspectiva social en su trabajo.

 難民をテーマにした作品がもうひとつある。
 この作品が難民問題をテーマにしていることは、6月にAntonio のアトリエを訪ねたとき、確認している。私たちは難民問題について話し合った。もちろん作者の意図を離れて、まったく自由に作品を見ることはできる。また、私は、作者の意図を無視して、違うことを考えることの方が好きだ。
 でも、どういうときでも、ふいにあらわれてくる「現実」がある。その「現実」が何であるかは、わからない。ただ、あ、これは「現実」の何かを揺さぶっていると感じることが大事なのだと思う。「現実」を考えること。何かを喚起すること。それが芸術の仕事だろう。
 芸術は心地よくなくてもいい。私はピカソの「ゲルニカ」が大好きだが、それは「心地いい」から好きなのではない。見ていると、いろいろなことを考えることができるから好きなのである。しかし、この「考える」がとても難しい。私は、それがゲルニカ空爆を描いていることを知っている。多くの市民が知っていることを知っている。しかし、それは「知識」であり、実感ではない。他人から教えられたことだ。私が「考える」前に、「知識」が作品を定義してしまう。「ゲルニカ」の前で、自分のことばで考えるのは、とても難しい。
 Antonio の作品には、まだ「定義」というか、「定説」がない。だから、感じたり、考えたりするにはとてもいいのだが、ことばにするのは難しい。きょうはただ、私は、彼の作品を見て、難民のことを考えた。彼が、ただ繊細な作品をつくっているだけではなく、いつも社会的な視点を作品に反映させているということを思い出した、と書いておく。

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Estoy loco por espana(番外篇237)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-11-16 08:50:35 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
en la exposición "Arserotica" en Galería Dionis Bennassar. 100 x 100 cm. 2013

記憶のなかで鏡は割れている。
記憶のなかの鏡には、そのときの現実が映っているのか。
それとも、記憶のなかの鏡には、そのときの記憶が映っているのか。
それは、現実でも記憶でもなく、未来に違いない。
記憶のなかの鏡には、君がこの絵を描くことがわかっていたのだ。

En la memoria, el espejo está roto.
¿Refleja el espejo de la memoria la realidad del momento?
¿O el espejo de la memoria refleja el recuerdo de ese momento?
No es la realidad ni la memoria, debe ser el futuro.
El espejo de la memoria sabía que harías este dibujo.

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Estoy loco por espana(番外篇236)Obra, Antonio Pons

2022-11-15 19:45:45 | estoy loco por espana

Obra, Antonio Pons

 Dos obras. O una obra de dos partes. No es simétrico. Pero mis ojos buscan la simetría. Quizá sea porque la simetría tiene algo de tranquilizador. Sin embargo, la simetría es constrictiva. Por lo tanto, cuando veo algo cercano a la simetría, también quiero ver algo que rompe la simetría. Me atrapa el deseo de ver el momento en que se rompe la simetría.
 La obra de Antonio estimula mis dos deseos: el deseo de ver la simetría y el deseo de ver el momento en que la simetría se rompe. Y me da estos deseos al mismo tiempo.
 En ese momento, mis palabras dejan de funcionar.
 No sé qué puedo decir con mis palabras después de eso. Por eso lo llaman "arte". El momento en el que me encuentro con cierta belleza y siento que las palabras se me escapan, pero siento que no hay palabras para expresarlo. Esto es a la vez una desgracia y una felicidad. Sin palabras, puedo simplemente convertirme en vista y contemplar.
 Aquí está el "reposo" de palabras.
 Y puede ser el reposo de forma y color. Puede ser nada.
 Me doy cuenta de algo. No me fijo sólo en la simetría de la obra de la izquierda y la de la derecha, ni en el cambio silencioso que rompe la simetría. Puede que Antonio me regañe por decir esto, pero la "nada" entre las dos obras es muy hermosa. Me atrae el "espacio (la nada)" que une las dos obras y mantiene un tranquilo equilibrio para que no se superpongan al mismo tiempo.
 Apoyado en este equilibrio, puedo reconocer, por ejemplo, que el número de palos que ocupa la parte inferior de cada obra es diferente. Aunque son diferentes, percibo que hay un fuerte equilibrio en las dos obras. La sección central alta representa un cuarto de círculo en la obra de la izquierda. La sección de la derecha tiene más palos pero no tiene curvas. Además, la parte superior vacía es de otro color. Los diferentes colores crean un equilibrio. La parte central, que parece un pétalo, también está equilibrada al ser de otro color.
 Un "reposo", una "nada", que nace en el momento creado por el encuentro.
 Tengo ganas de borrar todo lo que he escrito hasta ahora y convertirme en "nada".
 Si pudiera dar descanso a las palabras, esta obra sería aún más hermosa. Pero para que las palabras queden descansar, creo que hay que visitar la exposición. Lo que me puedo sentir a través de la fotografía es inevitablemente un lugar "plano". La sensación de un universo que se expande a partir de la "nada" sólo puede experimentarse acudiendo al lugar de la exposición.
 Envidio la felicidad de los que pueden ver esta exposición.


  ふたつの形。それは左右対称ではない。しかし、私の目は、左右対称を探してしまう。たぶん、左右対称という形には、何か人を安心させるものがあるからだろう。しかし、左右対称は窮屈である。だから左右対称に近いものを見たときは、同時に左右対称を破るものを見てしまう。左右対称が破れる瞬間を見たい、という欲望にとらわれる。
 このAntonio の作品は、私の中にあるふたつの欲望、左右対称を見たいという欲望と、左右対称が壊れる瞬間を見たいとい欲望を、同時に刺戟してくる。そして、その欲望が同時にかなえられていることを教えてくれる。
 そして、その瞬間、私のことばは動かなくなる。
 このあと、ことばをどうつづけていいのかわからない。だからこそ、それを「芸術」というのだろう。ある美しさに会って、ことばが誘い出されていると感じながら、これをあらわすことばがないと感じる瞬間。ことばがなくてもいいのだ、と感じる瞬間。それは不幸であると同時に、幸福である。ことばを持たずに、ただ視力になって、それを見つめていればいい。
 ここには、ことばの「休息」がある。
 そして、それは形と色の休息かもしれない。「無」かもしれない。
 私は気づくのである。私が見ているのは、左の作品と右の作品の、左右対称性、左右対称を破る静かな変化だけではない。ふたつの形のあいだにある何もないもの、ふたつの形が向き合うことで生み出している「無」を見ている。Antonio にこういうことを言うと叱られるかもしれないが、ふたつの作品のあいだにある「無」がとても美しい。ふたつの作品を引き寄せ、同時に重なってしまわないように静かな均衡を維持している「空間(無)」そこに引きつけられる。
 この均衡に支えられているから、私は、たとえばそれぞれの作品の下部を占める棒の数が違うと認識することができる。違っていても、何か強いバランスが働いていると感じる。中央の高さのある部位は、左の作品では四分の一の円を象っている。右の部位は、本数は多いがカーブはしていない。さらに、上部の何もない部分の色が違う。違うことでバランスをとっている。中央の花びらを象ったようなものも、色が違うことでバランスをとっている。
 出会いが生み出した瞬間に生まれた「無」という「休息」。
 私は、いままで書いたことを、すべて消してしまって、「無」になってしまいたい気持ちになる。
 ことばを休ませることができたら、この作品はもっと美しくなる。でも、ほんとうにことばをなくしてしまためには、やっぱり実際にその場へ行ってみないといけないのだと思う。写真で感じることができるのは、どうしても「平面」の場である。「無」から広がっていく宇宙の感じは、展覧会開場へ行かないと味わえないだろう。
 この展示を、実際に見ることができるひとの幸福を羨ましく思う。

 

 

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林嗣夫「「物」について」

2022-11-14 21:36:39 | 詩(雑誌・同人誌)

林嗣夫「「物」について」(「兆」196、2022年10月28日発行)

 林嗣夫「「物」について」の二段落目を、私は、繰り返して読んでしまった。

 ある日の午後、少し部屋の空気を入れ替えようと戸を開けて、庭のあちこちに目をやっていたら、向こうの片すみに何やら白っぽいものが置いてある。一瞬、何だろうと思ってそこに視線を止めたのだが、すぐに了解がついた。浴室で体を洗うときに座る、プラスチック製の小さな腰掛けだった。この家を建てた時から使いつづけてきた道具の一つである。こちらも年を重ね、体の動きも悪くなったため、もう少し座りぐあいのいい高めのものにしたいと、妻が新しい製品に買い替えて、古いのを外に出してあるのだ。

 これは、「物」に行き当たった例を紹介するという書き出しを受けた、いわば起承転結の「承」の部分。いちばん地味で、どうでもいいというと変だけれど、あまり力をこめて書かない部分である。本当に書きたいことは、「転」を経て「結」にいたることばの運動、とくに「結」に書きたいことを結晶させるのだと思う。
 実際、このあと、林のことばは、深まっていく。つまり、私なんかが考えないことを、しっかりていねいに追っていく。そこには「物」に対する「気」が書かれ、一気に哲学的な思考に変化するのだが。
 そこはそこでおもしろいのだが。
 ていねいに読まないといけないのだが。
 わかっているけれど、私はいま引用した部分を何度も読み返して、いいなあ、と感じるのだ。何がいいかというと、とてもむだなことが書いてあるのがいい。「ある日の午後、庭の片隅に、古くなった浴室のプラスチック製いすが捨ててあったのをみつけた」と書けばすむことなのに、林は、妙にながながと書いている。「一瞬、何だろうと思っ」たが「すぐに了解がついた」のだから、私の書いたような文章でいいはずだ。でも、林はながく書いている。「浴室で体を洗うときに座る」なんて説明をしないと理解できないものではない。「浴室の椅子」というだけで、小学生だってわかる。いや、幼稚園児だってわかる。でも、林は、「浴室で体を洗うときに座る」という説明を書いてしまう。この「説明」こそが、私には「もの」に感じられるのだ。林の「肉体」が動いて、その「肉体」でつかみとっている「存在感」。それは「この家を建てた時から使いつづけてきた」にもあらわれている。そんなこと、「哲学」とは関係ない、個人的な事実だね。「こちらも年を重ね、体の動きも悪くなったため、もう少し座りぐあいのいい高めのものにしたい」までくると、笑いださずにはいられない。林さん、私は、あなたが「もう少し座りぐあいのいい高めの」椅子を望んでいるかどうかなんて、気にしない。それは「哲学」ではなく、林の個人的な「肉体の事情」。でもね、その私が「肉体の事情」と呼んだものこそ、あとから出てくる「気」よりももっと「哲学」だと思う。
 そして、その「哲学」の特徴は、ややこしい「ことば」の説明ではなく、「肉体」がかってに「わかってしまうこと」。私は、実は、大腿骨を骨折した関係で、それこそ「少し高めの椅子」をつかっているのだが、この「少し高め」というのはもちろん高さ何センチという具合に表現できる(客観化できる)けれど、「肉体の主観の判断」の方が大事。他人に説明できない「微妙さ」が大事。高さのほかに、座面の素材とか、そのうちに手すりがあるかどうかということも関係してくるかもしれないが、それは、なんというか「肉体」が納得すればすべてOK。ことばにしなくていい。客観化しなくていい。そして、客観化しなくても、だれもが「自分にはこれがいちばん」とわかる。自分で納得できる。私は「哲学」というのは、そういうものだと思う。自分で納得できる何か。他人がどう思うかなんかは「哲学」には何の関係もない。プラトンがその椅子はダメだ、マルクスがこの椅子にしろ、といったって、そんなことは関係がないのだ。「哲学」とはなによりも、肉体が存在とする時に必要な「もの(ことば)」なのである。
 「椅子」は、はっきり「もの」とわかるが、「ことば」も「もの」である。
 だから、と私は、飛躍して書くのだが、私の母は無学だから、自分でどうしようもなくなった時、なぜか仏壇の前で「南無阿弥陀仏」と唱える。そんなことで、どうにもならないことが解決するわけではないのだが、どうにもならないことも「南無阿弥陀仏」ということばを口にすることで受け入れていた。こんなことは、私にはできない。よくそんなことで生きていけたと思うけれど、そこには私には理解できない、私の母の「哲学(思想)」があるのだと思っている。「思想(哲学)」なしで生きている人間はいない。「ことば」があり、「ことば」で考えてしまうのが人間なのだから。
 で、その何と言うか、「ことば」が林の「肉体」から離れず、くっついて動いている部分、それがとてもおもしろい。だって、林以外の人間は、こんなふうにして浴室の、いらなくなった椅子を描写したりすることはない。いい? いらなくたったものだよ。捨てるのに困るものだよ、いまは。燃えるゴミに出していいのかな?なんて考える必要があるくらいだ。
 それでね。
 そのもういらないもの、どうしていいかわからないもの(わかっているかもしれないけれど)を「外に出してあるのだ」としめくくっている。この「出してある」も、とっても変な「味」がある。絶妙な「味」がある。ゴミも「ゴミ出し」というくらいだから「出す」という動詞をつかうのだけれど、その前にわざわざ「外に」ということばを補っている。(ゴミ出しのとき、わざわざ外にゴミ出しをする、とは言わない。)
 ここからわかることは。
 そうなのだ。その浴室の椅子は、実は単なる椅子ではなく、林の「肉体」の一部だったのだ。その椅子によって、林の「姿勢」が決まる。それは「肉体」の外にあって、林を支えるを通り越して、いつもその椅子に座ることで、林の「肉体」になっていた。つまり、「肉体」の一部だったのだ。「肉体になる」というのは、「肉体の内部になる」ということである。それを、手術で腫瘍を取り出すようにして、外に出して、そこに「ある」。
 詩の後半には「いのち」ということばも出てくる。「肉体」とは、「いのち」の入れ物である。そこには「思想(ことば)」も入る。そして、それは「肉体」から取り出された時、「もの」になるのだ、というようなことを思った。だから、二連目の奇妙に即物的な、精神的でも感情的でもないことばこそ「もの」なのだ。
 林は「物」について書いているのだが、「物」よりも、その「物」の書き方に、林の「肉体」を感じ、その「肉体」に触ったような感じ、「肉体」の存在感を強く感じ、に段落目がいいなあ、と思ったのだ。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇235)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-11-13 22:38:39 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo
Serie " Entelequias" mixta Allá por los noventa

  Cada persona tiene su propia "perspectiva".
 La educación escolar trata de corregir y ajustar esta "perspectiva personal". Enseña a captar racionalmente el tamaño de la existencia y la distancia entre los seres dentro de un único "campo de visión" e intenta establecer reglas para la relación entre "visión" y "percepción"
 El artista tiene la prerrogativa de romper estas reglas y establecer su propia "perspectiva" personal.
 Jesús superpone y conecta repetidamente múltiples cosas. Yo lo llamaba "perspectiva de la memoria". También podría llamarse "perspectiva del tiempo". Recordamos tiempos lejanos (recuerdos) en el mismo momento. Se superponen o coexisten. Esta es la característica estructural de las pinturas de Jesús.
 Utiliza el negro como "pegamento". Este negro puede parecer verdaderamente negro en algunas zonas, pero también puede aparecer como un negro que se oculta secretamente en todos los colores. (Todos los colores parecen tener un poco de negro).
 Al ver este negro, de repente me siento tentado a llamarlo "perspectiva secreta". Entre lo pintado y lo representado por el color negro hay algo que no se puede pintar. No es un "secreto de Jesús", quiero llmarlo que es un "secreto  caído del cielo", un "secreto como revelación".
 Puede ser una especie de "pausa" repentina en la música. Una "pausa" en la melodía. ¿Pero no hay "sonido" en el pausa? Tal vez haya una especie de premonición del momento en que nazca un sonido puro, que no puede expresarse en sonido conocido.
 En la parte negra tiene un "secreto absoluto" que ni siquiera Jesús puede entender. Un "secreto" que hace que el color exista, o más bien un "secreto" para la creación de nuevos colores. Esto es lo que da a Jesús un extraño sentido de la perspectiva en sus cuadros. Me siento algo más allá de la conciencia individual de la "memoria". No sé si es correcto llamarlo "secreto", pero es un "secreto" en el sentido de que nadie puede saberlo.
 Hay un "secreto" en la obra de Jesús que sólo la pintura puede conocer.
 (Lo que escribo es ilógico, pero creo que hay cosas en el mundo que no se pueden escribir en lenguaje lógico. Hay "secretos" que no se pueden escribir en el lenguaje que nos enseñan en la escuela").

 ひとはだれでも独自の「遠近法」を持っている。
 学校教育は、この「遠近法」を修正し、整えようとする。存在の大きさ、存在と存在との距離を、ひとつの「視界」のなかで合理的に把握する方法を教え、「視覚」と「認識」の関係をルール化しようとする。
 このルールを破壊し、自分だけの「遠近法」を確立するのは、芸術家の特権だ。
 Jesus は、重ねる、つなげるを繰り返す。しかも、そこには異質なものがまじりこむ。私はこれまで、それを「記憶の遠近法」と呼んでいた。「時間の遠近法」と呼んでもいい。かけ離れた時間(記憶)を、同じ瞬間に、思い出してしまう。それを重ね、あるいは併存させている。そこにJesus の絵の構造的特徴がある。
 その「接着剤」として黒をつかっている。この黒は、本当に黒く見える部分もあるが、どの色にもひそかに隠された黒としてあらわれることもある。(どの色にも、黒が少し含まれているように見える。)
 その黒を見ていて、私は、突然、それを「秘密の遠近法」と名づけてみたくなった。何か、描くことのできないものが、描かれたものとものとの間にあって、それを黒い色で表している。それは「Jesus の秘密」というよりも、「天」から降ってきたような「秘密」、「天啓としての秘密」である。
 音楽のなかの、突然の「休止」のようなものかもしれない。メロディーのなかの「休止」。しかし、そのなかに「音」はないのか。もしかすると、音では表現できない純粋な音が生まれてくる瞬間の予感のようなものがあるかもしれない。
 黒い部分にはそれはJesus にも理解できない「絶対的な秘密」がある。色を存在させる「秘密」というか、新しい色を生み出すための「秘密」。それがJesus に絵に不思議な遠近感を生み出している。「記憶」という個人の意識を超えるものを感じた。それを「秘密」と呼ぶのが正しいことかどうかわからないが、だれも知ることができないという意味での「秘密」である。
 絵というものだけが知っている「秘密」が、Jesus の作品の中にある。
 (私の書いていることは、非論理的なことだが、世界には論理的なことばでは書けないこともあるのだと思う。学校で教えてくれることばでは、書けない「秘密」がある。)

 

 

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