10月9日の「한글날(ハングルの日)」を前にした10月7日、
CBSは次のような記事を配信した。
■ 문희상 의장 "국방개혁 추진하며 일본식 군대용어도
개선해야"
(直訳:ムン・ヒサン議長、「国防改革を推進し日本式軍隊用語も
改善しなければ」)
その事例として紹介された用語は次のようなものだった。
一部抜粋してみる。
・ 일본식 군대용어 사례
(日本式軍隊用語の事例)
반합(飯盒), 침상(寢牀), 모포(毛布), 수입(手入)
기합(氣合), 잔반-짬빵(殘飯), 귀관(貴官), 막사(幕舍), 세면(洗面),
작일(昨日),금일(今日),명일(明日), 불침번(不寢番), 사역(使役),
투척(投擲), 약진(躍進), 포복(匍匐), 도수운반(徒手運搬),
도수체조(徒手體操), 첨병(尖兵), 초병(哨兵), 동초(動哨),
점호(點呼), 순검(巡檢), 군장(軍裝), 수하(誰何), 사열(査閲),
연병장(練兵場), 수양록(修養録), 유격(遊擊), 도하(渡河),
촉수엄금(觸手嚴禁), 기도비닉(企圖秕匿), 마대(麻袋),
훈육관(訓育), 복명복창(復命復唱), 등화관제(燈火管制),
관등성명(官等姓名) 나까오리(中折:なかおり,해병, 정찰모),
단까(擔架:たんか),
韓国の新聞では、折に触れ、こういう記事をよく目にする。
政治家にとってもマスコミにとっても、国民受けしやすいお手軽な
「愛国心」のお披露目だと言えよう。
「日本帝国主義の残滓」(倭色)を清算するという課題は、旧軍事
政権系、民主化勢力(現与党)を問わず、韓国の政治家なら誰もが
共通して熱心に推進する愛国的なテーマだと言える。
確かに、僕自身、「ナカオリ」(海兵帽や偵察帽の俗語)や「タンカ」
などの日本語は、早急に韓国語に置き換える必要はあると思う。
しかし、繰り返し繰り返しマスコミに登場する、この種の問題の
本質を考える時、「愛国キャンペーン」の背後には単なる言葉の
置き換えではすまされない深刻な問題が存在していることを指摘
せざるを得ない。
つまり、この記事の見出しにある
「의장(議長)」や
「국방개혁 추진(国防改革推進)」、
「일본식 군대용어 개선(日本式の軍隊用語改善)」
という用語自体が、すでに日本式の漢字語表現であるという事実を
どう考えるのかという問題だ。
屈辱的な事実かもしれないが、現代韓国語自体がすでに日本式の
漢字用語を主要パーツ(骨格)として成り立っている。
そういう中で、日本式用語の清算の必要性を日本式用語を用いながら
主張するというこの矛盾は、悲劇を通り越して、ある意味、喜劇に近い。
こうした矛盾に満ちた悲喜劇こそが、まさに本当に清算されるべき
植民地時代の後遺症なのではないだろうか。
僕は、韓国社会がこの種の後遺症から自由になるかぎは、日本帝国主義に
よる「屈辱の朝鮮近代化」の歴史とどう向き合い、それをどう認識し
克服するかにあると思う。
栄光の独立運動と否定すべき悪辣な「日帝支配」の陰で何が進行したのか。
日本帝国主義が朝鮮半島に強制的に持ち込んだ「近代化(日本式西欧化)」
の実像とはどういうものであったのか。
近代朝鮮語(=日本語的朝鮮語)の成立過程も含め、より事実に即した
形でとらえ直す必要があると考える。
当然のことながら、何も日本による植民地支配を肯定的に評価しろなどと
言いたい訳では全くない。
むしろ、韓国社会が植民地支配の後遺症から真に自由になるためにこそ、
日本によって強制された「近代化(日本式西欧化)」の実像を、未来への
糧となる歴史的事実として、ありのままに真正面から見つめ直す作業が
必要となってくるのではないかと思うのだ。
歴史の「真実」と向き合う作業をしない限り、いつまで経っても正確な
自己認識ができず、正確な自画像も描けない。
この「よがんだ自画像」こそが、もっとも深刻な植民地支配の後遺症と
言えはしないだろうか。
換言すれば、歴史と向き合わない限り、韓国社会が真の意味で「内なる
大日本帝国」を克服することはできない。
そうした意味では、現代を生きる日本人同様、 現代を生きる韓国人も
また、歴史という名の鏡に、勇気を持って向き合う必要があるのでは
ないかと思う。
僕にはそう思えてならない。
(終わり)
日本語と韓国語は同じくウラル=アルタイ語系の膠着言語であり、
文法構造はよく似ている。お互いに外国語としては、非常に学び
やすい言語だと言えよう。
しかし、当然のことながら、より自然な韓国語(日本語)を身に
着けようとすると、発音以外に文法的な面でもいくつもの落とし穴が
待ち構えている。
文法構造が似ているがゆえに、相互に違っている部分にまで、
母語で働く法則を無意識に当てはめてみたり、安易な直訳で
通じると思ってみたり、似ているが故の失敗を犯してしまうことが
多々あるのだ。
今日、翻訳の練習に挑戦した記事の一部だ。
「毎日新聞が実施した世論調査で、米国、中国、韓国の3カ国に
対する親近感を聞いたところ、米国に対して「親しみを感じる」と
答えた人が65%に上ったのに対し、韓国は4割強、中国は
約3割にとどまった。」
この「で」、「ところ」、「に対し」という文章のつなぎの部分で
けっこう悩んだ。当然、安易な直訳ではおかしな韓国語に
なるだけだ。
結局、僕は次のように訳してみた。
”마이니치신문이 실시한 설문조사 결과, 미국,중국,한국 등
3개국에 대한 친근감을 묻는 질문에서 미국에 대해 "친근감을
느낀다"고 답한 응답자가 65%에 달한 반면 한국은 40%대,
중국은 약30%에 그친 것으로 알려졌다.”
要は、後ろの文章をより自然に展開していくために、最初の「で」の
部分を「결과/の結果」に置き換えたのだ。
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妻は、韓国のある映画サイトへの入金をウルサンに住む妹に頼んだ。
僕は、プサン市に住む妻の姉に頼んで、ボックスミュージックに
お金を払い込んでもらった。
携帯電話を使って決済してもらったのだが、 ボックスミュージック
から、ほとんど時間差をおかずに、すぐに確認のメールが届いた
のには、少し驚いた。
これで、ひと安心だ。
現金なもので、今までどおり聴けるようになった日本や韓国の曲を
2、3曲聴いているうちに、僕の不機嫌の虫は完全に治まって
しまった。
何度目になるのか、最近またハマっている佐野元春の「Someday」。
それに、韓国の曲では、キム・ヒョンシクの「내 사랑 내 곁에
(僕の愛、僕のそばに)」を久しぶりに聴いてみた。
やっぱり音楽っていいものだ。
お酒も入っていないのに、ずいぶん上機嫌になってしまった。
(現在のBGMは「Someday」)
今のところ、僕の音楽への嗜好を満足させてくれるインターネット
上の有料サービスは、韓国にしかない。
ちなみに、インターネット上で、妻は妻の妹と、僕は妻の姉と、
韓国の住民登録番号を共有(?)している。
外国人である僕はもちろん、日本で永住権をとった妻も、
すでに韓国内の住民登録は抹消されていてないのである。
韓国のサイトでは、会員登録の際、住民登録番号と実名の記入を
要求されることが多いので、僕ら夫婦にとって、妻の姉妹の住民
登録番号は、まさにインターネット上の「ライフライン」だ。
ただ、このことが元で少し困ったことも起きる。
妻と妻の妹の利用したいサイトが重なった場合、どうしても
不都合が起きてしまうのだ。
その点、妻の姉は携帯電話の利用は熱心(?)にやっているが、
今のところ、インターネットは甥や姪の占有物であり、ほとんど
全くサイトを利用することはないので、僕としては大助かりである。
僕のボックスミュージックへの登録も、当然、妻の姉の登録番号を
借りて初めて可能になったのである。