- 87年6月民主闘争の二つの場面 -
1987年、大統領公選制を勝ち取り韓国民主化の基礎を築いた
「6月民主闘争」の20周年を記念する各種行事が、6月10日の
今日、全国各地で開催されたと言う。
韓国政府も今年、6月10日を国家記念日に指定し政府主催の
6月闘争20周年記念式典を開いた。
△政府主催「6・10民主闘争20周年記念式」(ハンギョレ新聞)
マスメディアでも様々な記念特集が組まれていた。
ここでは、通信社「ニューシス」の特集から、「ヲタク」も胸を打たれた
2枚の報道写真を翻訳練習の上、記録しておく。
まさに、「民主主義は1日にしてならず」だ。
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■ 6월항쟁 - 아! 나의조국
6月闘争 - ああ!僕の祖国
(ニューシス 6月9日)
△プサン市ムンヒョン・ロータリー
1987년6월26일. 6.26 평화대행진이 벌어진 부산 문현로터리에서
웃옷을 벗은 한 시민이 "최루탄을 쏘지 마라"고 외치며 다탄두
최루탄을 발사하는 경찰에게 달려가고 있다.
1987年6月26日。6・26平和大行進が行われたプサン市
ムンヒョン・ロータリーで上着を脱いだ一人の市民が「催涙弾を
打つな!」と叫びながら多弾頭催涙弾を発射する警察隊に
向かって突進している。
6월민주화운동, 6.10민주항쟁이라고도 부르는 1987년 민주화
운동은 '4.13호헌'조치를 통해 국민의 민주화 열망을 억압하고
장기집권 획책에 대항하면서 시작됐다.
「6月民主化運動」、「6・10民主闘争」と呼ばれる1987年の民主化
運動は、「4・13護憲」措置によって国民の民主化への熱望を押さえ
込み長期独裁を画策した全斗煥政権に抗議し始まった。
1987년 6월10일 국민운동본부는‘박종철 고문살인 은폐조작
규탄 및 민주헌법쟁취 범국민대회’를 개최하여 6월항쟁의
기폭제가 되었으며 6월26일 민주헌법쟁취대행진이 전국적으로
벌어졌다.
1987年6月10日、国民運動本部は「パク・ジョンチョル氏拷問殺人
隠蔽工作糾弾、及び民主憲法制定要求汎国民大会」を開催し、
6月闘争の起爆剤となった。その後、6月26日、「民主憲法制定
要求大行進」が全国的に繰り広げられた。
'아, 나의조국'은 1999년 AP가 선정한 20세기 100대 사진에
포함됐다.
この「ああ!僕の祖国」は、1999年、AP通信社により「20世紀の
写真100枚」の1枚に選ばれた。
<보도사진집 '그날그거리'>
<出典、報道写真集「あの日あの街で」>
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■ 6월항쟁 - 故 이한열군 장례행렬에 추모인파 백만
6月闘争 - 故イ・ハンヨル君の葬儀の列に追悼市民100万
(ニューシス 6月9日)
△ソウル市庁舎前広場
1987년7월9일. 연세대학교 정문에서 경찰이 쏜 최루탄에 맞아
사망한 故 이한열군의 장례행렬이 시청광장에 도착하자 차도
까지 가득메운 시민, 학생들의 눈물바다로 변했다.
1987年7月9日。延世大学正門で警察の撃った催涙弾にあたり
死亡した故イ・ハンヨル君の葬儀の列がソウル市庁舎前広場に
到着するや、道路まで埋め尽くした市民、学生の涙で広場は涙の
海に変わった。
연세대학교 경영학과 2학년인 故 이한열군은 610 국민대회
하루전인 1987년 6월9일 연세대학교 정문 앞에서 1,000여 명의
학생이 대 정부 시위를 벌이던 중 경찰이 쏜 최루탄에 맞아
7월5일 사망했다.
延世大学経営学科2年の故イ・ハンヨル君は6・10国民大会前日の
1987年6月9日、延世大学正門前で1000人あまりの学友と共に
対政府デモに参加した際、警察の撃った催涙弾が頭部を直撃し
7月5日死亡した。
<보도사진집 '그날그거리'>
<出典、報道写真集「あの日あの街で」
(終わり)
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